鉄の魔女8
後ろからクロスは腕を掴まれた。
万力が如き握力は彼の細腕を骨ごと軋ませ、突発的な圧力と痛みに、目を白黒させながら見開く。
彼の体は腕ごと引っ張られ、一瞬のうちに廊下に引き出された。
「どーいうことなんだい!」
幾度目だろうか。クロスの体が廊下の壁に押し付けられる。
彼を廊下に引き出し、いま壁に埋め込もうとしているのはイーリであった。
「こ、こ、婚約だなんて! あたしゃ聞いてないよ!」
その赤面は羞恥のためか、憤怒のためか。
両肩を持ち上げられているクロスの体が前後に激しく揺さぶられ、壁に叩きつけられる。
この壁との付き合いも慣れたものだ。ただこれまでと違うのは、彼女の豪腕が太守を遥かに凌いでいるという点であった。
イーリはほぼ制御を失っており、自らが思いもよらぬ程の力で意図せぬ暴力を加え続けている。
「だいいちココチはどうすんだい。魔女の仕事や工房のこともあるし、ドワアフの一門に加わる心の準備なんて出来てないよぉ!」
整理されていない心中をそのまま口に出しながら、とにかく揺さぶり続ける。
目の前の青年がとっくに気を失っていると、気付いてすらいない。
「イーリ!」
そこにイレーギンが姿を現した。
全ての秘密を明かした彼は、実に堂々と、威厳という言葉本来の立ち姿を曝していた。
それでいて瞳は澄み渡り、最早なんの迷いも躊躇いもない純真さを湛えていた。
「う、うぅっ」
その瞳にさらされ、イーリの羞恥は頂点に達した。
クロスを放り捨て、逃げるように背を向けて足を早める。
今や、魔女の正装も、自分自身そのものも、恥ずかしくてたまらなかった。
乱暴にローブを脱ぎ捨て、帽子も放り、簡素な部屋着と男物のズボンという出で立ちのまま、顔を手で覆いながら早足で歩く。
自分が何をしているのかさえ、もう理解できていなかった。
「待ってくれ!」
その背中に呼びかける。
聞こえぬとばかりに歩みは進み続けたが、走り出しはしなかった。
イレーギンは追い縋り、思い切り手を伸ばした。
この手がいまここで届かねば、二度と届きはしないだろう。
何故か、そう思えてならなかったのだ。
一歩、二歩と距離を詰め、今まで差し伸べてこなかった分を取り返すかのように、必死に手を伸ばした。
そして遂に、手が彼女の肩を掴んだ直後、手は弾かれ、イレーギンの眼前に突如として拳が現れた。
「うおっ!?」
咄嗟に顔を横に逸らしながら、もう片方の腕で拳を受ける。
それは、体を反転させながら打ち込まれた、イーリの拳であった。
顔は耳まで真っ赤であり、両目は固く閉じられている。
「く、来るなよぉ!」
腕の筋肉に血管が浮き上がり、込められた力のまま次なる拳が打ち出される。
身長差を生かして上体を屈め、拳をくぐることでなんとか回避したが、すぐに次の攻撃が飛んできた。
「うきゃーっ!」
相手を突き放そうと、ただ腕を振り回す、子供のような攻撃。
しかし長年の鍛治仕事で培われた膂力と、生まれ持った体幹から繰り出される拳は、それだけで脅威である。
例え技巧も精彩もまるで欠いている、不随意の拳であっても、命中は重大な負傷を意味した。
滅茶苦茶に振り回される攻撃をイレーギンはなんとか防いでいた。
しかし、無軌道で不規則ながら威力だけは高い攻撃が、かえって防御を困難なものにしていた。
近付こうとしていたのに、体格差と嵐のような乱打の威圧で、むしろじりじりと後退してしまう。
その様子を、既に意識を取り戻していたクロスが見ていた。
足に力は入らず、床に這いつくばったままだが、意識は回復している。
それはつまり、魔法は使えるということだ。
反撃せずじりじりと後退する男と、赤面し目をつぶりながら腕をひたすら振り回す女を見て、瞬時に状況を理解。
魔漏法で、染み出させた魔力を可能な限り指先に集める。
集めた魔力はそのまま、手首の動きだけで狙いをつけて、発射。
魂の外で、肉体に留めおける魔力の量には限りがあり、その力も殆どは推進力に使われ消える。
だが狙い通りにそれがイーリの額に命中すると、小さな皮風船のように弾け、微かな衝撃を起こした。
ただ注意を散らしたり、小さな音を立てたりするだけの魔法"指玉"だ。
「きゃっ!?」
だが今の状況では効果覿面。イーリは攻撃を中断し、目を開いて額を押さえる。何がぶつかったのかを確認するためだ。
その一瞬の隙をついて、イレーギンは飛び込んだ。
懐に入り、両腕を相手の背中に回した時、イーリは顔前にイレーギンの顔があるのに気付いた。
至近距離で両者の視線と表情が交錯する。
体は密着し、皮鎧と衣服越しに、両者の鼓動が混じり合う。
「イーリンデル、すまない。話をさせてくれ」
その決然とした口調、断固とした態度、腕に込められた優しさを全身に浴び、ついにイーリは現実と向き合った。
全身から力が抜け、へなへなとその場にへたり込む。
逃げられぬを悟り、突き放せぬを悟り、傷つけたくないという己の本心を悟った。
それ故に、彼女はイレーギンの肩を借り、伴われるままに部屋の一つへと入っていった。
部屋の手前で、太守はクロスを見遣り、感謝の印として視線を伏せる。
「ふぅーっ」
さきほど応接間でついたのと同様の息を吐きながら、仰向けに寝そべる。
後はあの二人次第。必要な情報は全て、既にイレーギンに与えてある。
衛兵を通して、既に手紙を届けさせている。どうなるかは、誰にもわからないはずだ。
「頭いったぁ……」
イーリを寝台の上に座らせる。
そして、自らは対面位置に椅子を置いて、腰を下ろす。
ここはイレーギンの居室だ。太守として衛兵や治安隊を率いる立場上、彼の居室は詰所の近くに設けられている。
そこは如何にも独身のドワアフ武人の部屋といった様子の、簡素で、飾り気なく、面白みのない空間だった。
壁に掛けられている数点の戦鎚や斧、寝台の金縁、それらがなんとか装飾と呼べる数少ないものだった。
改めて向き合われて未だ恥ずかしさが消えないのか、イーリは膝を揃えて俯いている。
結婚の経験があり、娘までいる大人の女性とはとても思えない反応だった。
尤も、それはイレーギンとて同様であった。
覚悟と決心は固まっているとはいえ、自分の部屋に想い人を連れ込み、二人きりなのである。
しかもその女は既に自分が寄せる好意を知っているのだ。
何から話せばよいものか、上体を無意味に揺らしながら、気まずい空気を吸っては吐くばかりであった。
「お、親父、さんは……?」
意外にも、先に口を開いたのはイーリの方であった。
内容が状況にそぐわないなものであったので、一瞬気が抜けはしたが、待ち望んだ機会ではある。
即座に、口を開いて正しい答えを述べた。
「先ほどお休みになられた。あの様子では暫く寝込むだろう」
「一応、その、医者に診せた方がいいんじゃないかい? だいぶ打ちのめされてた、よ」
「それには及ばんだろう。父上とてかつて勇壮なるドワアフ戦士だった。気力の萎えなど、すぐに跳ね返してみせるだろう」
微かな笑い声が、俯いた顔から漏れた。
イレーギンが訝しみながら覗き込むように身を乗り出すと、彼女は少しだけ顔を上げた。
その表情は、にへら、と力なく綻んでいた。
「どうした?」
「いやぁ、安心したよ。結構激しく言い合ってたからさぁ」
「もっと前から、あれぐらいぶつかっておくべきだったのだ。もしそうしていれば、父上とて馬鹿げた夢想などに溺れはせなんだろうに」
「あんたのせいじゃないよ。存命中に故郷がウソみたいな大復活をしたから、気が大きくなっちまったんだろうさ。なんとも、ドワアフらしいじゃないの」
「タルギンは多くの者の助力によって再興した。父上はそれを、自分や一門の手柄だと思い込んでしまわれたのだろう。俺とて、そうなっていたかもしれぬ」
数秒、溜める。
「お前と、出会っていなければな」
浮かびつつあった笑みが再び羞恥に上塗りされ、またもや俯いてしまう。
しかしそれでも、イレーギンは言葉を重ねた。
明確な返答がなくとも。
「このような形になってしまって、本当にすまない。俺とて本意ではなかったが、今や単なる言い訳に過ぎぬ。だが、本気だ」
一度、大きく息を吸い込んだ。
罷り間違っても、聞き逃されぬように。
「イーリンデル、お前を愛している。その理由すら分からぬほどに」
詩人のように想い人を月や星に例えることもない。
王都の貴族のように膝をついて恭しく頭を垂れることもない。
武骨で、無神経で、一生懸命で、不器用な、だからこそ純真なる男の告白であった。
静かな時が流れる。
音も無く、風も無い、石壁の部屋。
両者の間に流れるは相通じる何かか、それとも相手に対する戸惑いか。
ともあれ、沈黙を破ったのは再びイーリだった。
「い、いつから、なんだい?」
「ん?」
「その、いつから、あたしのこと、えっと」
「もはや憶えておらん。幼い頃から、お前とは馴染みだったろう。共に遊び、無邪気に笑い合った日々も今や懐かしい」
「師匠が亡くなるまで、あんたとは、しょっちゅうつるんでたっけね。魔女を継いでからは、その、あんたも太守になって、仕事の付き合いだけになったけどさ、あたしはあんたのこと、友達だと思ってたよ」
友達。その言葉に、男の表情がほんの僅かに曇った。
「思いもしなかったよ、あんたに好かれてたなんてさ。だから、気になるんだ。あたしなんかの、どこに惚れたのか、全然わかんなくて」
イレーギンには、もう恥じることなど何一つ無かった。
「強いて言うなら、全てだ。その頑健な骨格、締まった筋肉、褐色の肌に赤毛、整った勇壮な角、弾ける笑顔に、爽やかで俺に憧れを抱かせる性格だ。槌を振るうお前、下品な冗談に高笑いするお前、娘を慈しむお前、思い出の中にいる輝かしいお前、乙女のように恥じらうお前、山が如き激しい怒りを拳に乗せて打つお前、何もかもが愛しいのだ」
「わかった、もうわかったから! もうやめてくれぇ!」
思わず懇願してしまう。
歯の浮くような台詞を演技で言える器用な奴ではない。
それを確信してしまえるからこそ、全ての言葉が本音であるという事実を真正面から受け止めざるを得なかった。
羞恥はなりを潜めるどころか、ますます激しくなるばかりであった。
「いやー、全然気付かなかったよ。うん、なんだか、悪いねぇ」
紛らわそうと、軽い口調で話してみるが、対するイレーギンは真剣そのものの眼差しで見つめてくる。
「うーん、どうだろう。ちょっと、混乱しちゃってて、わかんないよ」
その眼差しに触発されたのか、辿々しくはあったが、彼女もようやく本音を語り始めた。
「でも、なんだか、すんごい意外だけどさ、悪い気はしないねぇ。むしろちょっと嬉しいかもしんないよ」
「では!」
「いや、あの、でも、結婚は、ちょっと、待ってほしいかな」
「どうしてだ?」
「だって結婚はさ、その、やっぱり慎重になっときたいし」
イレーギンは、衛兵を通じてクロスから渡された手紙の内容を思い出していた。
応接間で目録を受け取る際に、一緒に渡された紙切れに書かれていた事実を。
それに触れるべきかどうか、否、むしろ触れないつもりでいた。
自分の気持ちのみをぶつけて天運に任せる心積もりであった。
しかし、結局は避けて通れぬ話なのである。
クロスも言っていたではないか。いずれ通らねばならぬ道なら、今通れ、と。
「前の男のことか?」
この問いに対し、イーリは「へ?」とまずは素っ頓狂な声をあげた。
しかし、言葉の意味を噛み砕き、そして相手の表情を読んでいくと、その意味が理解できた。
ハッと息を止めて、口を手で覆う。
イレーギンは、知っているのだ。離婚の経緯を。
「ああ、そうだ、クロス殿から聞いた。ココリッチ殿の父親が、実の娘に何をしたか、いや、何をしようとしたかをな」
絶句する彼女をよそに、言葉を続ける。
滔々と、淀みも大きな抑揚もなく、ただ語っていく。
「結婚というもの自体を恐れる気持ちは、よくわかる。俺に子はいないが、もし愛する者が理不尽に何者かの手にかけられたならば、その何者かとの関係全てを憎むだろう。そして何より、己を責めるに違いない。自分の一生を償いに捧げようとの誓いを立てるに、十分な動機だろうと思う」
語ることが取り留めを失っても、ただ本心のみを語ろうと努めていた。
真摯に、とにかく最後まで彼は真摯であろうと自らに律していた。
どのような結果になろうとも、悔いの分量を減らしておきたかったのだ。
「ココリッチ殿に"鉄の魔女"を継がせぬのも、その表れなのだろう? 前の男とは"鉄の魔女"の仕事を通して出会った。同じ轍を踏ませたくは無い、との思いを抱くのは、誰しもがそうであろう」
一呼吸置く。
「だが、だがな」
抑揚の無かった声に、力が篭る。
静かだが、それでいて激しい情感を備えた、芯の通った声であった。
「クロス殿に言われた。魔女たちを幸せにしてみせる、それだけは真剣だ、と。その時に、俺は思い知ったのだ。人々はもっと幸福に生きてよいのだ。もっと自由に生きるべきなのだ、と」
目には涙すら浮かんでいた。
ドワアフの武人の涙など、ここ数百年目にした者は皆無であるに違いなかった。
「俺は、自らにかけた鎖を、取り外せると知ったのだ。だから俺はもう恐れてなどいない。そしてお前にも、そうなってほしいのだ」
そして、ついに、イーリの目にも涙が浮かんだ。
彼女の涙など、天地開闢以来目にした者は皆無であるに違いなかった。
「俺を拒むならばそれでもよい。だが、もう恐れるのは止めてくれ。自分自身を縛るのは止めてくれ。そして、幸せになってくれ。全身全霊で、自分を愛してやってくれ」
イーリが俯く。ただ、その理由は羞恥からではなかった。
女傑が漏らす、弱々しい嗚咽が部屋に響き渡った。
「そうだ、そうだったんだよ、あたし、ずっと怖くて。本当に怖くて、毎日、毎日ずっといっぱいいっぱいで、あんたにも気付かなかったんだ。あたし、怖かったんだよォ」
190cmを超える巨躯が、今は部屋の隅で泣きじゃくる子供に見えた。
そっと抱き締めると、彼女は胸に顔を埋め、大声で泣いた。
城のどこに響き渡ろうと構わないとばかりに、あらん限りの声で泣いた。
いつまでも、長く、長く、泣き続けた。
暫く経ち、ようやく話せる程度まで落ち着いたイーリは、ぽつりぽつりと話を始めた。
最初に恐怖を感じたのは、師匠である先代"鉄の魔女"が病気にかかり、余命幾許も無しと診断された時。
生まれてすぐ売りに出された自分を買い取って、何不自由なく育ててくれた親代わりの者の死。
それは大きな不安と共に、それとは異なった恐怖を彼女に与えてしまった。
当時のイーリは15歳。仕事を教わり、技術や知識も十分に伝えられてはいたが、まだ成人にも達していない子供だった。
そんな少女が、ある日突然、大人になることを迫られたのである。
魔女名持ちの魔女、幾代も続く系統を継ぐ重圧。
工房を受け継ぎ、タルギンを生産で支え、数多くの職人や人足、雑役人たちを食わせていかなくてはならない責任。
それらは到底、少女の双肩に担い切れるものではなかった。
それでも、彼女は力の限り努力し続けた。
胸を張り、己を奮い立たせ、毎日を全力で生き抜いた。
その賜物か、肉体は日を追う毎に膨れ上がり、工房の規模は大きく、タルギンは広く繁栄した。
だがその度に、むしろ重圧と責任は増していった。恐怖も、一滴ずつ広がる岩の水溜りが如く、心を蝕んだ。
それでも彼女は頑張り続けた。そうするほどに心が擦り切れるのを感じながら、槌を振るい、肉体を育くみ続けた。
いつしかそれは、脆い魂を守る分厚い鎧と化し、鎧が厚くなるほどに魂を押し潰していった。
頼れるものが必要だった。かつての師匠のような、彼女を安心させてくれる何者かが。
彼女の深層心理はその相手を狂おしく求め、そしてか細い藁に縋るようにして、自分と同じ双角族の工人と結婚した。
工房はますます大きく、タルギンはますます栄え、娘も産まれ、重圧と責任は決して減りはしなかった。
だが少なくとも、怖れはなくなっていた。頼れる何者かとの共同生活、親を知らぬ自分が誰かの親になったという喜び。
それが彼女の心を満たしていた。
しかし結婚生活は、最悪の形で終わりを迎えた。
娘を助けに向かう時も、夫や胴元を殴りつける時も、その後の離婚調停の時も恐れはなかった。
だが再び、彼女の心は恐怖に蝕まれていた。
彼女の夫は、実に馬鹿な男であった。
彼は心の底から、浮気相手である商売女に惚れ込んでいた。
この世に他の愛など無いとばかりに、どこまでも惚れ抜いていた。
その、深く、熱き愛のために、彼は行動したのである。
イーリが恐怖を抱いたのは、そんな夫が浮気相手に向ける愛を知った時だった。
自らの愛のために、実の娘すら平気で差し出す。
そのような非道をいとも簡単に愛は肯定してしまう。
「もしかしたら自分も、愛のためならば何でもしてしまうのではないだろうか」
それが、彼女の新たな恐怖だった。
愛そのものを、イーリンデルは恐れるようになってしまったのだ。
その中で、彼女の心中に醸成される感情があった。
自分の知る恐怖から、娘を守りたい。純真だが強力で、だからこそ彼女自身が恐れるものに非常に近い想いであった。
自分は鉄を打ち、魔女を継ぎ、工房を継いだ。
だが娘には、ココチには違う生き方をさせたい。
自分の体験した恐怖を、愛する娘には知らないままでいてほしい。
自分が犯した失敗の人生を、娘には歩ませたくない。
自分が思う、理想の人生を娘には与えられるのではないか。
それはつまり、支配そのものであった。
彼女は恐怖に支配され、それ故に、恐怖で娘を支配していた。
暴力を使わずとも、口汚い言葉を使わずとも、この上ない愛と慈しみを注いでいたとしても、それは無意識の支配であった。
彼女は自ら、愛のためならば何でもしてしまう自分を実現してしまっていたのだ。
「あだじ、あだじ、ゴゴヂにあやまんなぎゃ」
イーリの今の顔には、普段の気丈さなど微塵も残ってはいなかった。
涙と鼻水で汚れ、紅潮した顔は泣く子供のように歪んでいた。
嗚咽が言葉を途切れさせ、しゃっくりが体を揺らしていた。
「ああ、そうだな。大丈夫だ。ココリッチ殿は許してくれるさ」
イレーギンは今や彼女の隣に座り、大きな背中をさすっていた。
泣きながら本音を吐露する間、胸のつかえを全て取り払う間、彼はずっとそうしていた。
「ギンぢゃああああああん」
泣きながら、体重をイレーギンに預ける。
その巨体故、彼は諸共に倒れかけたが、なんとか踏ん張って愛する者を支えた。
そしてまた暫く、泣き続ける彼女の背中をさすり続けた。
数分が経ち、ようやく涙も落ち着いたのか、泣き声は収まった。
代わりに響くのは、鼻をすする音である。
「ギンちゃん」
「なんだ?」
「こんなあたしでもいいの?」
「こんなお前だからよいのだ」
「ふぅーん」
小刻みに頷く。双角が、こつこつとイレーギンの頭に触れた。
「あたしもたぶん、昔からギンちゃんのこと好きだったと思う」
「ああ、だが俺も鈍い男だからな」
鼻をすすりながらも、小さく笑う。
それに応えるようにして、イレーギンも笑った。
穏やかで、ゆっくりと、時間が確実に過ぎてゆくのを感じた。
それを共有しているのだという感覚も。
「ギンちゃん、結婚しよ」
気付けば、そう口走っていた。
「ああ」という感慨深げな返答と、頭を撫でる感触が応えてくれていた。
既に鼻をすすることすらなくなり、泣き疲れたような、穏やかな笑みがあるのみだった。
「あ、でもその前に、鷹狩りのやり方おせーて」
吹き出たような笑い声が溢れる。
それに応えるように、イーリも「えへへ」とわざとらしく笑った。
『鉄と槌の出会う場所、それはいつでも金の床。
槌が叩けば鉄は鳴き、鉄が傾げば槌が突く。
鉄と槌の出会う場所、それはいつでも金の床』
詩の半ばの章、定番のオチは常にそう結ぶ。
彼らの夫婦仲は、末長く詠われ続けるだろう。




