鳥の魔女1
『へぇー、そんなことが起きていたんですね』
相互紙の文面だけだったが、いかにものんきな声が聞こえてきそうだった。
馬車に揺られながら鏡銅のペンをくるくる回しているのはクロス・フォーリーズ。
乗用馬車の席を一人で占有し、向かいに座るのは彼の荷物だけだ。
ダグナマンバ大要塞より出て数日後、魔女協会の手配した馬車に乗り換えて統街道から外れた道を進んでいた。
その間、アンガナス大鉱山で起きていたことのあらましを師であるアッサルートから聞いていたのだ。
『町と鉱山はもうめちゃくちゃよ。救助活動は今も続いてるし、統王の許可も出たから『死人の軍勢』も向かったわ。”兵の魔女”はひとまず帰らせたけれど、”石の魔女”は夫婦揃って現地に残って救助と治安維持に努めているわ。これでかなり人の流出は防げるでしょうけど……』
『種とやらはどうなんですか?』
『“腑の魔女”にサンプルを送ってみたけど、望み薄ねー。彼女の遺伝子療法は画期的な発明だけれど、神経線維腫症は治せてもまだまだ出来ないことの方が圧倒的に多いんだって』
『アイランさんは、大丈夫なんですか?』
相互紙の向こう、はるか彼方シリネディーク城の執務室でアッサルートは筆を詰まらせた。
“兵の魔女”が妊娠していることはまだクロスに伝えていない。
自分が知らせるようなことじゃない、とわきまえたような理由は後付けの建前に過ぎず、ただ単にどのように伝えたらいいものかとためらっているだけだった。
彼女自身、どこかでその事実を認めたくない心があるのかもしれない。
双方からの結婚の許可を認めておきながら……
そう考えると軽い自己嫌悪すら湧き上がるものであるからして、このことは極力考えないようにしていたのだ。
クロスのことは大事に思っている。
自分の責任や使命感に於いてもそうであるし、次代を担ってもらう人物としての期待も試練もかけてきた。
それは協会長としての、法定後見人としての立場からのものであって、彼女の心そのものではない。
彼はただの弟子であり、手のかかる甥のような存在だった。
だが子のいないアッサルートにとって、彼は望外の驚きであり、唐突な贈り物だった。
必死に命を助け、必死に育て、必死に学ばせ、必死に環境を整えて……そこまで心を砕いた相手に情が移っていないはずがないのだ。
本当に、厄介で、賢くて、優しくて、かわいい子だった。
そんな子が、ついに……
『大丈夫、あなたさえいれば』
短い言葉だったが、ついにアッサルートは心から二人の関係を呑み込んだ。
正確には吞み込もう、そうするべきだと決意した。
高鳴る心臓を押さえ込むように深呼吸し、ルーライワインをあおる。
それで、彼女にとって必要な儀式は全て完了した。
これが彼女なりの祝福の乾杯の代わりなのであった。
『それより、これでついに情報が公開されたわ。首謀者のベルゼット家は所領と財産を没収の上貴族位も剥奪され60議会からも追放、一族の一人一人が罪に問われることはないけれど以後ベルゼット姓を名乗ることは禁止されお家は完全にお取り潰し。
さらにピッタ・ノーグルーン、モタグ・バンバトーチ・レインダーマン、トゥッピ・ノックタック、ガル・ヴ・ヴィツ、クランツ・フェルマー・ルネイ、スル・ヤグ、以上6名! 全員が統王の勅命により公に巷逆罪と認定され全世界指名手配されたわ。これで全国の軍も動き出す』
いよいよ反統王連衡との全面対決が始まるということだ。
奴らの狙いが新たな人類、新たな社会の創造にあるというのなら、統王の世とは対立せざるを得ない。
かつて統王も旧世界の全てと対立し、叩きのめした時のように。
が、それはそれとして。
『といってもあなたにはこれまでと同じように、使命に集中してもらうわ』
学会への参加を促す招待状を魔女たちに手渡す。
この使命が消えたわけではないのだ。
『わかってます。次は”鳥の魔女”さんのところへ伺おうかと』
『あーあの人ね』
『これまで何度か、あの方の印が入った鳥なら見たことがあるのですが』
タルギンでは鷹のポラン。
ダグナマンバではカルフールのカプリ。
いずれもよく調教されており、かわいらしい鳥たちだった。
『ユラアルン・ホルンコープは知ってる?』
相互紙に浮かび上がったのは見覚えのない文字列。
その所感をそのまま書き送ると、返事は早かった。
『ああ、統世史書には『青き崖の群翼』の方で表記されてたっけ』
こっちなら見覚えがあった。
ウォタザオは魔界の少数民族、というよりも絶滅危惧種だ。
双角のハン帝国によって生物としても民族としても初めて発見された種族で、ウォーガの森奥深くの海辺の崖でひっそりと生活していたという。
偶然出くわしたのはよりにもよって行軍中の"開闢たる蛮滅王"。
一代にしてハン帝国を興した初代王にして歴史上並ぶ者のいない最強の戦士。
全ての蛮族を滅ぼし、支配し、帝国を創始しながら決して自らは皇帝を名乗らなかった男。
そんな覇者が原始生活をひっそりと営む少数民族と出会ってどうしたか?
放っておいたのである。
行軍の邪魔さえしなければ好きにせよ、と。
彼らはそのような存在だった。
ただひっそりと平穏に暮らし、そこにあるものを食べ、崖に穴を掘って眠る。
あらゆるものを征服せんとした男すら歯牙にもかけないような、ささやかな種族だったのだ。
『絶滅危惧民族のですか? 確かアーゲルンに住処を追われて散り散りになって、それで』
『同種同士でしか子を成せないせいで急激に数を減らし、今では存在を確認できるのは三人のみ。そのうちの一人が"鳥の魔女"よ』
『滅びゆく種族の、最後の世代ですか』
『ええ、危険ではないけれど私たち魔女の中でもとびきりの気難しさよ。鳥の飼育と生態研究と活用法の開発にかけてはまさに神業。でもその業を金儲け以外には決して使わず、学会でも発表するのは常に彼女の中ではすでに陳腐化した技術ばかり。それでも他の人たちからしたらじゅうぶん有用なのだけれどね』
"軍の魔女"ヘリルメリアが少しだけこぼしていた。
"鳥の魔女"は金さえ積めばどんな仕事でも受ける、と。
逆に言えば金銭がからまなければ絶対に何かに協力したり同調したりなどはしないのだろう。
『とにかく、つっけんどんな対応に終始されるでしょうし本人も魔女協会に多くは求めてない。なんだったらさっと素通りするだけでも大丈夫だと思うわ』
『ありがとうございます。とりあえず着いてから考えようと思います』
会話を切り上げるつもりの一文だった。
常であれば師も察して本を閉じるところだったろう。
しかし数秒後、新たな文字が浮かび上がった。
『ありがとうね、クロス』
最初横目に見えたその文字を、二度目は凝視する。
師から感謝されるようなことを……何かやっただろうか?
魔女のみんなが大変なことになっていた時に、自分はただ大要塞に閉じ込められていただけである。
それとももしや、遠回しなお叱りの前振りだろうか?
感謝されるいわれが無い以上それしか思い浮かばない。
もしかして、尽きぬ種火をなくしたことか?
これなら怒られるに値する事実だろう。
だが堂々と胸を張って、あの時自分は正しい判断をしたのだと信じられる。
ここは臆せず、返事を書くことにしよう。
『なんのことでしょう』
しまった、少し失礼な物言いになってしまった。
『なんでもよ、あなたがいなかったらどうなっていたか、わからない』
しかし、なんだか怒ってはいないようだ。
お叱りでもないのだとすると、本当に感謝したいことがあるのだろう。
自分には思い当たりがなくて師には覚えがあるなんらかの事実があるのだろう。
それはすなわち──
『なにか隠してます?』
シリネディークの執務室で、アッサルートはぎくりと肩を強張らせた。
なんだか妙に鋭い。勘も、言葉のトゲも。
どうやら大要塞で随分とたくましい経験を積んだようである。
だが彼女がしたいのは駆け引きではない。
家族としての言葉を、情を投げかけたいのだ。
今は無性に、そういう気分なのだ。
『そりゃ隠し事ぐらいあるでしょう、これでも魔女なんだから』
『師匠は弟子に隠し事してもいい、ていうやつです?』
『法定後見人は養子に隠し事してもいいのよ』
それを言われるとぐうの音も出ない。
結局、閉口するのはいつも弟子の方だった。
『それより、十分警戒しなさいね。連中があなたを狙う可能性もある。以後は私の手配した移動手段と拠点を使うこと、死人の隠密にこっそり護衛はさせるから買い物とか外出なんかは自由にやっていいけど、定期連絡は決して欠かさないように!』
『わかりました』
『それじゃ、残りの旅を楽しんでね〜』
今度こそ通話は終わったようだ。
相互紙からインクを絞ってインク壺に落とすと、くるくると丸めてポケットに突っ込む。
情勢が切迫しているのは、肌で感じている。
この馬車にしたって、今までは民間の馬車やトカゲ車を使ったり、商人や農民のそれに便乗させてもらって旅をしてきたのに、ここにきていきなり死人が御者の魔女協会謹製乗用馬車だ。
魔女名持ちの魔女しか使用が許可されていない安全な移動手段でクロスに旅をさせる、つまりそれだけ危険なのだろう。
御者の死人も武装しており、いかにも強そうな用心棒という風貌であったからして、乗る時にかえってクロスがかしこまってしまうという有様だった。
しかし、この方が楽なのには違いない。
何せ目的地まで直通なのである。
馬車の装備もしっかりしていて揺れや騒音も少なく、内部の空間も馬車にしては快適だ。
彼にとっての残りの懸念材料は、やはり”鳥の魔女”本人だろう。
いったいどのような人物であるのか、心配しても仕方がないとわかっていても、心配してしまう。
いけないいけない、ここは気を紛らわせるために……あれを読もう。
ヘリルメリアさんからもらった、先代”軍の魔女”ナン・シーラ=アル・バヴツの言行録だ。
大要塞を出てから少しずつ読み進めているが、これがなかなかに面白い。
バヴツ女史の人となりについてもそうだが、言葉の内容がいちいち鋭く毒づきながらも発想点が独特で楽しく、それでいて説得力もある。
軍人や為政者への憎悪がそこかしこに見え隠れするのには顔をしかめざるを得ない瞬間もあるが、全体的には実に愉快痛快で大いに感心もする良い読み物だった。
もしヘリルメリアさんがこれを出版したならば、彼女は大金持ちになるかもしれないな、などと一人笑いながら考えられるぐらいには。
「えーとどこまで読んだっけ……ここだ、統王の資質」
『統王はその政策と民政、行政構造の構築に官僚の再配置、各種インフラの継続性を担保した整備と教育への注力、技術面美術面の振興、奴隷解放と組み合わせた公共事業の拡大や食兌換や新商令を含む総括的な経済の結合、公平かつ巧みな税制改革と福祉構築に60議会の設置等々、すぐれた政治については枚挙にいとまがない。
これらの成果については、実現させた手腕も含めて賞賛に値するものであるだろう。彼は見事な統治者であり、世界を任せるに足る人物であることを歴史に証明し続けた。
だが私は声高らかに彼を非難する。最悪の虐殺者であると指差し罵ってもいい。むしろ統王本人が眼前にいたならば自ら喜んでそうしたいと思う。
何故ならば、彼はその類まれなる才覚と改革を世界に広める手段として、最も歩んではならない近道を選択したからだ。
武力による征服、軍事による戦争だ。
彼の能力と才能、立場や環境を考えたらばハーバント家を手中に入れるまでは致し方ない状況だっただろう。あの時までは彼自身に決定権はなかったのであるからコードラン個人の責任を問うことは無理無道というもの。
だがそれ以降は、あれほどまでに急ぐ必要があったのか。性急に軍事力による拡大を推し進める必要があったのか。統王の強みは軍事力ではなく政治力にあったのだから、その政治力を以って時間をかけて屈服させることで避けられた戦いは10を下らない。
歴史にもしもはないとはいえ、あと20年時間をかけたとしても結局世界は彼の手に握られたろう。それほどまでに群を抜いた傑物が、戦に頼る必要はあったのか?
全てがそうであるとは言わないが、戦う気満々で構える相手を「まあちょっと落ち着けよ」と手練手管でなだめすかして妥協点を探り出し、それを繰り返して気付いた時には取り込まれている。このような手腕こそ彼の真なる武器であるはずだ。
同盟の相手であったはずのカガチを最終的には完全に自国に組み込んでしまった時のようなやり口こそ、彼が真に頼みとすべき武器であった。
結果として、本来なされるはずだった調整や新体制への慣らし期間が戦によって全てすっとばされたことで、多くの軋轢が生み出された。
改革そのものも結局は敗者たちにとって性急なものとなり、多くの種族や文化がその下に踏みしだかれることになった。
従来の生き方を捨てざるを得なくなり、種族としてのアイデンティティや独立性を保てなくなり四散して”一国民”へと塗り替えられた民族などは枚挙にいとまがない。
統王という豪勢な料理を世界という胃袋は無理やり押し込まれて中毒を起こしてしまった。それどころか胃袋そのものが苦痛を緩和するべく、豪勢な料理の形に変形してしまったのである。
もっとじっくり、統王という料理を少しずつ食べさせることはできなかったのか?
もっとゆっくり、軍事的優位に頼らずゆるやかに世界を変えることはできなかったのか?
急激な時代の変化に踏みしだかれ、置いていかれた者たちの生きる場を残せなかったのか?
敗者など作ることなく、もっとより多くが統王とともに勝利を分かち合う世界にできたのではないのか?
戦えば彼が勝ち、敗者は消える。それではあまりにも敗者がみじめすぎるではないか。
圧倒的強者となったのならば、その強者の責任として『戦って勝つ』覇道ではなく『戦わずに勝つ』王道を彼は選択すべきだったのだ。
そうしたならば、数百万の命と数百の民族が失われずに済んだろう。
それゆえに、彼は最悪の虐殺者なのだ』
つい笑ってしまうぐらい凄まじい内容だ。
これを統王本人の最盛期に弟子に向かってぶち上げるのだから大したものである。
もし統王様や後継者が古の不敬罪を復活させたなら、これは間違いなく発禁処分だろう。
実際の語り口となればおそらくもっと過激だったものを、ヘリルメリアさんが必死に要約して表現も工夫したのが見てとれる。
だが、ナン・シーラ=アル・バヴツといえば『魔女問答』でも名前が出てくる、当時の魔女王国に於ける双璧を成す幕僚だ。
彼女自身は統王への降伏に反対とまでは行かずとも難色を示してはいたというし、思うところがあってのこの発言なのかもしれない。
歴史を知っていると、ひとつひとつの言葉の視点がいちいち多角的になって面白い。
こりゃあやっぱり、魔界の歴史も勉強した方がいいかなあ。
そんなことを考えながらぼんやりしていると、馬車が停まった。
屋根をこんこん、こんこんと間を置いて四回叩くのは御者からの合図。
どうやら目的地に到着したようだ。
言行録をしまい、扉を開けてまずは荷物を降ろす。
それから自分も降りると、周りは木立で縁取られた道の上だった。
木立といってもその向こうが平坦というわけではなく、森林とまでは言えないが、平地ともまた言い難い、微妙な雑木林の中のようである。
「着いたの?」
とりあえず馬車の前方に進み、御者に話しかける。
御者はスケルトンで、名前はザ・スーというらしい。
「ええ、こっから先は馬車では行けやせん」
答えながらさらに前方を指差す。
そっちに視線を向けると、10mと少し先で雑木林は途切れ、開けた先に崖があった。
その崖からは吊り橋がまっすぐ伸びており、その先には──
「え? な、なにあれ?」
遥か下から伸び出た一本の柱があった。
「なんかの理由で、崖が削れても切り離されて孤立した……なんてんでしょうね? でもよくああいう場所に修行僧なんかが住んでまさ」
彼の言う通り、なんとも一言で形容し難いものがそこにあった。
吊り橋の先にあるのは全方位を遥か下への崖に囲まれた、家一軒ぶんほどの狭さの土地だった。
その様は直立した天然の塔のようでもあり、ぽつんと孤立していながらそのことに気付いていない地形のようでもあり、大地に突き立った一本のかじられたリンゴのようでもある。
その上に、さらにぽつんと家が建っていた。
上半分が鳥小屋となっているそれには多種多様色とりどりの鳥たちが何十羽と群がっており、"鳥の魔女"の巣と言われれば納得せざるを得ない光景であった。
そこはまさに、世界から隔絶された秘境のようだった。
崖からだけでなく、世の中そのものから切り離され孤立した場所。
間違いなく、あそこが目的地だ。
「んじゃ、俺はここで待ってまさ。出発するときは声かけてくんなせえ」
「う、うん」
ザ・スーは死人だ。
声をかけるまで、何日でもここで待っているだろう。
ちなみに馬車を引いている馬も屍術によって動かしている馬の死体である。
もっともこちらは死体を人形のように操る旧式の屍術で、魔石の残量という期限はあるが。
荷物を背負い、意を決して進む。
何が恐ろしいって、吊り橋は人一人がなんとか通れる心細いものであるのに加えて、長い間放置されているかのような傷みぶりであった。
踏み板はところどころが外れており、一歩ごとに縄と木が軋み揺れる。
もし足を滑らせたなら、30mは落下して森の木々に叩きつけられるだろう。
運が良ければ葉と枝がクッションにもなってくれようが、悪ければその枝に貫かれて即死。
息を飲み、掴まれそうなもの全てに摑まりながら頼りなく一歩一歩進むしかなかった。
橋は10数m程度の長さだったが、渡りきるのには30分もかかった。
到着して再び地面を踏みしめた瞬間には倒れ込んで荒く息をつく。
まさに命からがらというものだ。心臓が高鳴り、汗が全身から吹き出す。
こんなに狭くて頼りない地面に、こんなに感謝したことはない。
そして静かに実感した。帰りもこれをやるのか? と。
しかしいつまでもこうしてはいられない。
膝に激を飛ばしながらなんとか立ち上がり、なるべく家だけを視界に収める。
そして、二度ノック。鳥が数羽屋根から飛び立った。
数秒待ったが返事も反応も一切ない。
もう一度、今度は強めに戸を叩いてみるとその衝撃で少しだけドアが押し開けられた。
鍵もかんぬきもなければ、ドアは固定されてすらいないようだった。
「こんにちは〜」
小さくか細く呼びかけながら、おそるおそるドアを押して中に入る。
そこは木造の、妙にがらんどうとした空間だった。
床に置かれているのはせいぜいが敷き詰められたカーペットぐらいで、他には何も置かれていない。
椅子もテーブルもベッドも暖炉すらも置かれていない。
だが代わりとばかりに、壁全面にあらゆるものが掛けてあった。
照明のランタン、雑巾ほうき食器調理器具など日用品、棚のような箱は丸い穴が開けられた状態で壁から生えており、暖炉すら壁に据え付けられている。
窓はすべての壁に最低二つは設けられており、開放されている。
そのため、屋内であるにもかかわらず外と同じく少し肌寒かった。
天井には大きな開き戸がひとつあるだけで、こちらは閉じられているようだった。
「勝手に入ってんじゃないよ」
その天井越しに、声が一つ響いた。
低くしわがれた、老婆の声だった。
反応して体をびくりと緊張させた瞬間、開き戸が開け放たれた。
そこから溢れ出たのは鳥、鳥、鳥。
大小様々、種類様々、色様々の数百羽にも及ぼうかという鳥たち。
自由奔放に飛び回る大量の鳥たちの羽ばたきと声の協奏曲で、部屋は一瞬にして埋め尽くされた。
「うわっ!」
頭を腕で覆うように防いで身を屈める、本能的な防御である。
溢れ出た鳥たちは存分に飛び回り、歌い、そして窓から飛び出していく。
それはまるで歌と羽毛の洪水だった。
あるいは襲い来て巻き起こり去ってゆく嵐か。
やがて、鳥たちも窓から飛び出尽くし、クロスも舞い落ちる羽を浴びながら防御姿勢を解いた頃、それは地響きをたてながら床に降り立った。
でっぷりとした巨体は全身が厚手の黒衣に覆われ、頭部は大きな魔女帽に隠れ一切が見えない。
見えるのはただ、その奥から覗く拳ひとつほどの大きさの一つ目だけだった。
しかしその全体的な輪郭や形、立ち姿は巨大な黒鳥そのものである。
せり出した胴から垂れる黒衣の奥、そこには大きな鳥の足があるに違いない。
翼も衣の下に折り畳まれているのだろう。
黒い厚手の布と巨大な帽子で全身を覆った、人間サイズの鳥。
まさしくそのような姿であった。
「まったくあの小娘、こんなやせっぽちを送って寄越すなんてね」
ごと、ごと、と重々しい足音を響かせながらクロスを一つの目でまじまじと品定めするように眺める。
その巨大な鳥のような姿から放たれる声は、奇妙なほど人間らしかった。
「ク、クロス・フォーリーズです。よろしくお願いいたします」
「勝手に入って勝手に名乗りかい」
ため息とともに肩が上下する。
そういうところも、鳥というよりは人間らしかった。
「じゃ、早速働いてもらおうかい。ここに散らばった羽全部片付けな」
「へっ?」
軽く見回しただけで、部屋には数百の羽ばたきが残していった羽がそこらじゅうに散らばっている。
床だけではなく壁や壁にかけられたものにまで引っ付いており、繊細な羽は乱暴に扱えばたやすく千切れて残るだろう。
「あの、まずは招待状を」
「後にしな」
逃げ道もぴしゃりと封じられた。
「あいつらが戻って来る前にさっさと始末するんだよ。言っとくけどちゃんと裏の肥やし壷の中に捨てないと"外"に放り出すからね」
「こ、肥やし? 羽をですか?」
「なんだいそんなことも知らないのかい。鳥の羽は肥料として悪くない値で売れるんだよ。わかったらさっさと始めな! あいつら自分勝手だから巣みたいな狭い場所じゃ気にしないくせに広いとこじゃゴミが気になって機嫌悪くすんだよ!」
「は、はい!」
怒鳴られ急いで荷物を置き「荷物でゴミ踏んでるじゃないか!」とまた怒鳴られる。
焦りを返事ににじませながらもなんとか荷物の置き場だけは綺麗にして、それから羽を拾い始めた。
その後ろ姿をじろじろと"鳥の魔女"は見続けていた。
「マグナカス」
背中に投げかけられた言葉に反応し「え?」と振り向きかけると「いいから手動かしな」とたしなめられた。
「マグナカス・マーグカーゴ、憶えときな」
自己紹介なのだと気付いたのは二秒後だった。
その二秒の間に、彼女は翼を広げる。
黒衣に覆われた翼だったが、広げられたそれは家の壁から壁まで届くほどの大きさだった。
そして彼女は背中から飛び込むように、羽ばたき一つで砲弾と化して後ろの窓から飛び出した。
巻き起こした風はクロスに再び防御姿勢をとらせ、壁にかけられたもの全てを鳴子のように揺らし、散らばった羽をさらに散らばらせる。
だが一瞬のその後には、もう窓から飛び出し、大空を飛ぶ黒色の点と化していた。
「すっげえ……」
その速度と凄まじき風圧に、つい手も止めて感激してしまう。
あれがウォタザオ、あれが"鳥の魔女"、海辺の崖に住む喋る巨鳥たちの最後の末裔。
自分に課せられた使命もひととき忘れて、クロスは遠ざかっていく黒点を見上げていた。
輝く目が、その姿を捉えられなくなるまで。




