力にて
「ふおおおおおぉぉぉ!」
雄叫びとともに投げ放たれたギロチンの刃が行く手を塞ぐゴーレムをなぎ倒す。
“バケツのデイジー”の猛進を止めることなど誰にも出来なかったが、進みを遅くすることなら可能だった。
こちらを無視して地上に向かっていたゴーレムどもが、アンガンドゥッツを追い始めた途端、邪魔するように進路に割り込んでくるようになったのだ。
“石の魔女”によればゴーレムを一括制御する術式はアンガンドゥッツが所持している。
ならば、ゴーレムへの命令を変更して”兵の魔女”とデイジーの邪魔をさせることもできるのだろう。
「もうちょい左!」
だがアイランの案内は的確だ。
デイジーの肩に座り、それこそゴーレムを操縦するかのようにデイジーの針路を操縦していた。
「そのまま真っ直ぐ! どっか穴みたいな場所に入ったわ!」
鉄の塊であるゴーレムを殴り飛ばし、蹴り飛ばし、強引に道を開く。
こいつらは強くはない。動きも反応もにぶく、力は強いが動体感知が甘いせいで簡単に避けられる。
だが重さと硬さはかなりのもの。そして何よりも数があまりに多すぎる。
敵としてはなんということもないが、移動する壁として使われれば厄介なことこの上なかった。
デイジーの拳と膝は皮が剥け、骨が覗き血が噴き出していた。
だが彼女とて死人。痛みを消しひたすら邁進して”兵の魔女”を運んだ。
そうして遂に、二人は大空洞の壁際に到着した。
ちょうど人一人が通れそうな大きさの石が、明らかに横穴を塞いでいる。
アンガンドゥッツが逃げ込んだのはここだ。においも奥へと続いている。
「ほぉりゃあい!」
即座に、石をすくい上げるように放り投げる。
その先にはやはり奥へ続く穴があった。
「ありがとうデイジー! あとはいいから逃げなさい!」
デイジーの肩からひらりと飛び降りる。
その姿を、彼女は血を流しながら心配そうに見ていた。
負傷しているのは自分の方なのに。
「魔女様はぁ!?」
「私は心配いらないわ。お前は地上に出て”石の魔女”に会って、彼女の言うことを聞きなさい!」
「わ、わかったよお」
少しためらいがちなデイジーを置いて横穴へ入る。
暗く狭い穴だ。ここならゴーレムどもが追ってきても時間がかかるだろう。
暗闇も”兵の魔女”にとってはむしろ好都合。敵がここで待ち伏せしたいのならば是非そうしてもらいたいぐらいである。
ともあれ、必要なのは速さだ。
相互紙の文面から感じ取った様子では、地上の混乱は凄まじいものであるだろう。
断じて、アンガンドゥッツに逃げられるわけにはいかなかった。
そして、この横穴の奥に確かに奴の気配を感じた。
においだけではない。足音に、手や体で土を擦るような音。
それが確かに前方から聞こえてくる。
数十秒後、アイランは木造の部屋のような場所に出た。
山小屋程度の広さの部屋だったが、奥には脱出用と思われるドアが据え付けられており、まさにそのドアに手をかけようとしているアンガンドゥッツの姿があった。
「止まれッ!!」
一喝。
それで奴の動きは止まった。
その背中に剣を投げつけても、駆け寄って斬りつけてもよかったが、正体不明の空間にどんな罠が仕掛けてあるか咄嗟には判断できなかった。
アンガンドゥッツがゆっくりと振り向く。
逃げていたくせに、その姿には奇妙な威圧感があった。
不気味ではなかったが、戦意がくじけているわけでもないようだった。
「“兵の魔女”よ」
その声には、落ち着いた自信がみなぎっていた。
勝利を確信したような慢心ではなく、戦士として戦いの本分に身を置く覚悟のようなものを感じた。
「わからんな、お前が求めるのは血と殺戮のはず。何故それを止めんと欲する? それが命令だからなのか?」
どこかに一括制御術式を持っているはずだが、隠し持っているような様子はない。
急いではいても、その場所を突き止めるまで迂闊には殺せない。
「私ね──」
ゆえに、話に乗ってやることにした。
会話によって探り出すのも悪くはない。
「──妊娠してるの」
アンガンドゥッツの顔に一瞬驚きの色が浮かんだ。
だが、すぐに余裕をはらんだほくそ笑みに変わる。
「なるほど、あの小僧のか?」
「だから、お前らの好きにさせるわけにはいかない」
ゆっくり剣を抜き、双剣を両手からぶら下げる。
「あの子とこの子のために、世界を守らなくっちゃね」
笑みが溢れる。
浴びせかけるような、威嚇するようなそれではない。
慈しみと優しさと包容力に満ちた、幸福そうな──母の笑顔であった。
「目的はゴーレムどもの術式だろう」
アンガンドゥッツも腰の手斧を左手で持つ。
柄を握るのではなく、指を引っ掛けるように斧頭を掴み柄はむしろぶら下げる。
「刺青として俺の体に刻んである。傷をつければ、取り返しはつかんぞ?」
なるほど、つまりは──
「──見えてる部分だけ切り刻むわね」
放たれた矢の如く駆ける。
走り出しと同時に姿勢を低くし、体全体が鋭利な矢じりと化したかのように鋭い踏み込みと突きが送り込まれた。
地を這うような低所からの攻撃は体の大きいアンガンドゥッツにとって対処は困難。
そもそも視認することすら至難だろう。
だがアンガンドゥッツからしてみれば、身長差を生かして下からの攻撃を仕掛けてくるであろうことは予想して然るべき事態でもある。
“兵の魔女”が動き始めたのを見た瞬間には、己の読みに命を託して跳び上がっていた。
タイミングはぴったりと重なり、ちょうどアイランの初撃を回避する形となる。
そうなってから初めて、アンガンドゥッツは目だけを動かして自分の読み通りの位置に敵がきてくれたことを知った。
「ぬぉぉりゃッ!」
掴んでいる斧頭を押し付けるように、または叩き付けるかのように振り下ろす。
体重と膂力と重力のほぼ全てが乗った一撃。
それをアイランは気配のみで即座に察知。剣で受けることもできたが……やめておこう。
飛び退く猫のように、脚力と体のばねだけで横に跳ぶ。
アイランが立っていた場所に斧頭が食い込み、さらには床板を砕け散らせた。
どうやら、なかなかの馬鹿力。
デイジーほどで無いにしろ、警戒は要するだろう。
すぐにもう一度踏み込み、今度は両手でそれぞれ上下に攻撃を仕掛ける。
左の剣は頭部、右の剣は腿を狙う。
「ぬんっ!」
背筋と腹筋を使い上半身を引いて頭部への攻撃は回避。
腿への防御に手斧を使うことでどちらも防御した。
だが、それで終わるほど”兵の魔女”は甘くはない。
右手の手首を返し、腕を引きながら指先で精妙な操作を加える。
その瞬間、木の床にぼとりと手斧が落ちた。
視線を下に向ければ血のついた斧と、切断された三本の指が見えたことだろう。
無論目を向ける暇はない。
結果をアイランは剣越しの手応えで知り、アンガンドゥッツは痛みと熱さと音で知った。
思わず顔が歪むが、怯みはしない。
引いた上体を溜めとして、右拳を突き出す。
斧などなくても、命中すれば一撃で肉は潰れ骨は砕けるだろう。
しかし既に”兵の魔女”は足の捌きを終えている。
重心移動の迅速さに於いて彼我の差はあまりにも大きく、彼女はすでにカウンターの計画まで完成していた。
突き出された拳を避けながら懐に入り、振り抜いた左手の剣を振り戻す。
刃の狙いは正確に、アンガンドゥッツの首だ。
その冷たさと寒気を彼は明確に感じ取った。
見えなくとも、殺意と死の一撃の肉薄を戦士の直感で感じ取った。
だが、あまりにも遅すぎた──
目が見開かれる。
彼女の顔が初めて、純真なる驚きのみで染め抜かれた。
刃は確かに、奴の首に命中した。
頭部は切り離され、床に転がる。
「えぇえ?」
だが、そうなっていなかった。
うめき声と歯を食いしばるきしり音を響かせてはいるものの、”兵の魔女”の刃は首の筋肉に阻まれていた。
裂けた皮膚から血が垂れているが、全力で引き締められ硬くなった筋肉の鎧に、業物の刃が負けたのだ。
それどころかどれだけ押しても引いてもびくともしない。
素手ですらたやすく木や岩を引き裂ける力を以ってしても、まるで大地そのものを持ち上げようとしているかのように剣は一切動かなかった。
「せいやッッッ!!」
指が二本しか残っていない左拳の突きが腹に突き刺さる。
完全なる不意打ち。そんなものを食らったのも、”兵の魔女”になってからは初めてだった。
剣から手を離し、数歩下がって壁に背を預ける。
まるで現実の出来事とは思えない。
うずくまって腹を押さえ、異常がないのを確認してから顔を上げると、そこには異常があった。
アンガンドゥッツは首の筋肉が挾み掴んでいた剣を引き抜くと、荒く息をつきながら投げ捨てる。
生きている。どう見ても目の前の男は生きている。
そんなことが起きていいはずがないのに。
「ちょっと」
アイランの顔は半分笑っていた。
その笑いも、ひきつっていた。
額を一筋の汗が伝う。
「お前、感動的なぐらい強いじゃないの。よくそれで臆病者でいられたわね」
あまりの驚嘆につい言葉を発してしまった。
アンガンドゥッツはもう片方の手斧を右手で抜きながら、口の中の血を吐き捨てる。
あまりにも強い噛み締めで歯茎から出血したのだろう。
「どれだけ強かろうと、千人の軍団にはかなわん。どんな勇者であろうと、一本の矢、ひとさじの毒に斃れざるを得ん。個人の強さなどもう無意味だ」
「お前を殺すのに何本の矢が要るか、見当もつかないわ」
アイランの軽口に笑いをこぼす。
「貴様と会えてよかった。俺の人生は、この瞬間のためにあったのかもな」
今度はアンガンドゥッツから仕掛ける。
と言っても無造作に歩み、前蹴りを突き出しただけだが。
当然苦もなく避けたが、反撃の突きは腹筋に止められた。
斬撃ならともかく、貫通力ではるかに秀でる突きまで止めるなんて。
こいつは化け物だ。
さっきのハンターとは全く異なるが、匹敵する怪物だ。
アンガンドゥッツ、いったい今までどこにいた?
どんな名誉にも栄誉にもふさわしい力を持ちながら、真逆のものしか得られなかった男。
こいつにとって、今この戦いこそが唯一の晴れ舞台なのだろう。
人生全てがかかった戦いなのだろう。
まさに、神がかり的強さだ。
脳天に振り下ろした刃を腕で受けられる。
腕ならばその筋肉の半ばまでは切り込めたが、これにしても本来ならば両断した上で頭を割れたはずだった。
「せいッ!」
二本指の左拳が顎先を捉える。
顔をそらしてなんとか受け流せたが、拳の届く範囲で戦うのはまずい。
蹴り飛ばして距離を取り、よろけた相手に再び飛びかかる。
顎に向けた飛び蹴りは的確に命中し、脳と意識を揺さぶった。
アンガンドゥッツは数歩退いて膝をつくが、気絶してはいないようだった。
思った通り、打撃なら効かせられる。
どれだけ強靭な肉体であろうとも、関節もあれば脳もあるし内臓だってある。
畳み掛けるしかない。
背後に回り、首に腕を回して固定し締め上げる。
足は胴に絡ませてがっちりと組み付き、まるで相手の体の一部であるかのように全身を密着させて固定。
裸絞めだ。
これまでの人生で、これほどまでに力を込めて人間の肉体を絞めつけたことはない。
それほどの全力を振り絞って首を攻める。
狙いは気道と骨。両方を潰しねじり折るのだ。
しかし相手も朦朧とした意識のままで全力で抵抗を試みている。
絞めが体の奥まで入りきっていかない感覚があるのだ。
しかもアンガンドゥッツは無闇に暴れるような愚は犯さず、首に力を込めながらも立ち上がる。
うめきとかすれ声が鳴り、硬化した肉がこすれあう鈍い音が混じる。
だが、少しずつではあるものの形勢はアイランに傾いた。
骨はねじり折れないが、圧迫で呼吸が、筋肉への注力で血圧が危険域に達しつつあった。
膨張した筋肉は頸動脈をもわずかながら圧迫し、さらに意識が遠のいていく。
「ぬッッッううぅおりゃああァァァーーーーーーッ!!」
気合の雄叫びは意識を繋ぎとめ、全身を再び奮い立たせた。
左手の二本指だけで首に絡みつく腕を掴んで固定すると、そこに斧を叩き込む。
刃が骨まで食い込んでへし折った不気味な音が響くが絞めは緩まない。
「ぐがァッ!!」
そのまま背負い投げへ移行。
斧を右腕に食い込ませたままの投げである。
腕のひねりに加えて体重と遠心力が乗り、刃が骨にさらに食い込んだ。
ばきばきと骨の裂ける音が響き、それが耳に届く前に肉が引きちぎれる。
そうして、アイランの右腕はちぎれ飛んだ。
首を絞めていた腕がなくなり、上半身が支えを失う。
必然両足も引き剥がされ、そのまま背負い投げで全身を床に叩きつけられた。
しかもそれだけで終わらず、即座に胴を蹴り上げられる。
はね上げられた体は無理やり立たされ、背中が壁に叩きつけられる。
「かっ」
あの"兵の魔女"アイラン・ヘルゼンデルが、初めて苦痛と衝撃によって肺から空気を吐き出させられた。
右腕は二の腕の途中からなくなっており、大量の血が噴き出す。
断面からは引きちぎれた服と肉の一部が垂れ下がり、牙からは血とよだれの混ざったものが滴った。
そこへ──
だんっ
──決定的な音が響いた。
アンガンドゥッツが全身を押し付けるように迫り、同時に一つの音をたてた。
アイランの顔に呆けたような驚きの表情が飛び出す。
その顔の下で、ずるり、と何かが引きずられる音。
黒衣に包まれた細身の体が倒れる。
それは体だけだった。首が、無かった。
壁に突き刺さった斧の刃の上に、小さな首が大きな魔女帽とともに乗っていた。
斧が引き抜かれると、首は落ち、転げた。
魔女帽がばさりと落ち、首にはめこまれたままの両目から光が消える。
薔薇の紋章は、落ちた帽子の重みに潰れていた。
深呼吸が一度、そして二度。
アンガンドゥッツは手斧を腰に差し直すと、切断された指の根元を手で押さえる。
やっと痛みが戻ってきたかのように。
もはや勝ち名乗りや捨て台詞を残すような気力も体力もなく、まだ乱れたままの呼吸をなだめるように肩を上下させながら背を向ける。
本来の目的を彼は果たすのだ。ここから逃げる。
クランツの計画やその意義など知ったことではなかったが、あの統王の世界に少しでも傷を付けられるのならば……喜んで指の二本や三本など捧げよう。
それよりも、歩きながらじわじわと喜びが湧き上がってきた。
あの"兵の魔女"に勝ったのだ。強さなど無意味だと断じていながら、その事実に笑いが込み上げてしょうがない。
俺は、強い。あの"兵の魔女"に勝ったのだ。
敗北と挫折を経て、俺は立ち上がり、強くなったのだ。
「見ていろ、統王……!」
声など出せる体調ではないのに、つい出てしまった。
出さずにはいられなかった。それも彼の人生には必要なことなのだろう。
「いや、足の間の角……! 近いうち、貴様の首も我が足元へ転げてみせよう!」
固い決意ではなく、快感に身をよじるような笑みだった。
間違いなく、彼はいま人生の絶頂に立っていた。
つまりは──
『ほへあ』
──あとは落ちるのみ。
両足首が剣で貫かれる。
突然の激痛で絶叫とともに崩れ落ち、這いつくばった。
剣が飛んできたのは、後方だ。
そんなはずはないというのに。
そんなことはあってはならないというのに。
振り返った彼の全身に怖気が走った。
心をつんざくのは驚愕、そして恐怖だった。
『んふへぇー』
そこにいたのは、否、あったのはアイラン・ヘルゼンデルであった。
首と右腕を失った体は左腕で床を這いずり、進む。
そして断面からは、半透明でゲル状の質感を持った橙色の光が伸びていた。
触手か粘液のように伸びたそれは、ちぎれ飛んだ右腕と繋がっており、この右腕が剣を投げたようだった。
そして首の断面から伸びる光は、転がり光を失ったはずの頭部と繋がっていた。
だらりとだらしなく下顎と舌が垂れ下がる口からは意味をなさない音しか漏れ出て来ない。
だがそもそも、音が出るのがおかしいのである。
物言わぬ死体でなくてはならないのである。
『んふほ』
しかし、その両目は光などないままに、確かにアンガンドゥッツへと向けられていた。
ほとんど逆さまに傾いた頭部はぶら下がりながらも時たま床に引きずられており、その音と奇妙な現実味はこの光景が幻ではないことを突きつける。
左腕を頼りににじり寄る体に向かって少しずつ頭と右腕はたぐり寄せられており、その途上で右手は魔女帽のつばをつかまえた。
「ひっ」
恐怖の声が漏れる。
たとえ足首を切断されていなかったとしても、彼は今と同じ姿勢だったに違いない。
痛みも忘れて後ずさり、壁際に背中を押し付けて顔を背けた。
だが目は、釘付けられたかのようにアイランを見ていた。
見ずにはいられなかった。その光景があまりにも異常過ぎて、視線を離せなくなっていた。
そんなアンガンドゥッツの前まで迫ると、右腕が断面と合流し頭部に帽子を乗せる。
胴体は這い進み、彼の体を這い登ったところで頭部が首と合流した。
ちょうど、アンガンドゥッツの眼前で。
顎と舌が明確な統制のもとで本来の位置を取り戻し、両目に光が戻る。
表情に生気が蘇り、呼吸が再開され、熱い息が顔に吐きかけられる。
そして、彼女は、笑った。
並んだ牙を剥いて、裂けた口の端をこれ以上ないほど吊り上げて。
「か」
アンガンドゥッツの表情が絶望に染まる。
その両目には涙すら溜まっていた。
「神様……」
直後、その顔に数十本の牙が食い込んだ。
くぐもったうめき声と叫び声のブレンドハーモニー。
裂ける肉と噛み砕かれる骨の音。
飛び散り、しゃぶられ、すすられ、舐めとられる血の水音。
魚のように痙攣し暴れる手足が叩きつけられる音。
十数秒の後、最初に消えたのは一番目の音で、次に消えたのは四番目の音。
それらが消えてからも、あとの二つは残り続けた。
むさぼる接吻のように、長く、長くむしゃぶりついていた。
「ぷはぁっ」
息継ぎするように顔を離した時には、彼女の目の前にあるのはただの肉だった。
少しばかり大きい、人の形をした顔のない肉。
ついでに、体のどこかに術式が彫られているはずだ。
アタリはすでにつけてある。
切り離した両足首を持ち上げ足の裏についた血を舐め取ると、そこに数式の術式がびっしりと彫り込まれていた。
「あヅりょグガんち……なるほドねェ」
切断されたばかりの首を通して放たれる歪んだ言葉にはわずかながら感心が含まれていた。
足裏には複数箇所に圧力を感知する術式が施されており、これなら魔法使いでなくとも魔石か何かの魔力で術式を起動した上で、歩法や体重移動、足に込めるかすかな力の強弱で操作ができる。
操作を正確にするために常に裸足でいなくてはならないだろうが、こいつならば問題ないだろう。
見た所これもマードックが作った術式のようだが、あの爬虫人が直接この足に刺青を彫ったのかどうかまでは不明だ。
しかし、奴の術式なら──
「ほイっと」
魔力を直接注入し、強制起動させてから圧力感知術式のいくつかを指で押す。
術式の数式が青白い光を放ち、足裏の皮が細かく振動し始めた。
青白い光は空中でいくつもの薄い窓か光の板のような形を為し、それらに大量の術式の羅列が映る。
“石の魔女”が用いる文字玉の、魔道士版というところだろう。
彼女が使うものより無駄は多いが、どうやら有効範囲と容量に於いては凌駕しているようだ。
あのもうろくした爬虫人も中々やるものである。
だが、奴の組む術式のことならアイランはよく知っていた。
膨大な数式の中から冗長性と乱数を除外し、一括制御の術式を見つけると範囲指定を全体に設定。
これで全接続完了。この術式は全てのゴーレムの魔力炉中枢術式と接続された。
“石の魔女”が確保しているゴーレムから術式を受け取ることも、それを全個体に分配送信することもたやすい。
アイランは相互紙を開いて、己の首から垂れる血を人差し指ですくいとってこう書き記した。
『完了しました、送信願います』
「ッしゃあ! 待ってたわよォ!」
喜び勇んで文字玉に人差し指を突き立てる。
組み上げられた強制停止命令術式が圧縮・保護された状態で中枢の一括制御術式へ送信される。
それはアンガンドゥッツの足の裏まで届くと中枢の情報変換処理機能を利用して自動的に解凍、今度はアイランの人差し指で全ゴーレム個体に送信された。
その瞬間、何もかもが停止した。
拳は建物に叩きつけられる寸前で停止し、足はうずくまる親子を踏みしだく寸前で停止して後ろに倒れ、行進は突然彫像のように立ち尽くした。
火事は止まらなかったが悲鳴の多くは停止し、人々は訝しみながらもおそるおそる立ち上がる。
数千体規模のゴーレム軍団、その全ての魔力炉が停止し動力供給が絶たれたのだ。
全ての鉄の塊は、元の鉄の塊に戻ったのだ。
そして人々は疑いながらも一つの答えを魂のうちに浮かばせる。
助かったのか?
歓声などはない。台風が通り過ぎた後に歓声をあげるものなどいないのと同様に。
だが町は、人々は、崖際から滑落しながらも投げ込まれたロープにしがみつけた。
安堵も実感もまだ未来のことだろう。
悔恨と罪悪と悲哀もまだ先のことだろう。
今は何の感慨などなくとも、人々はただ唖然と理解した。
助かったのだ。
反統王連衡。
その組織があげた最初の大きな狼煙は、こうして一つの終結を迎えた。
傷跡の大きさすらまだ理解もできていない、呆然とたたずむ人々を残して。




