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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
間の章
157/211

闇にて

片目が潰れるほどの力で殴りつけられた怪人は中身ごと昏倒し、衛兵に運ばれていった。

完全に理解できたものかは判然としなかったが、事態の深刻さは皆が味わっていた。

心を躍らせているのはモートだけであろう。

何せ、本当に「世界の終わり」が目の前で始まっていたことを知ったのだから。

そしてそれぞれが急ぎ取って返し、それぞれの問題に迅速に対処しなければならなかった。

天核教は肩を落とし、カーギ・カリンはため息とともに、ドライードたちの表情などは死人のそれである。

"兵の魔女"がしっしっと追い払ったのもあって、各勢力は衛兵たちに続いて帰途についた。



「なぁ魔女さまぁ」



あんぐりと口を開けていただけだったデイジーが口を閉じながら声をかける。


「こっからどうすんだあ?」


何が起きていたのか、何が起きるのか、彼女は理解しているだろうか? きっとしていまい。

だがそれでいいのかもしれない。この死人にとってはそれが最も幸せだろう。



「そうねぇ、まずは"屍の魔女"様に報告かしらね。きっと調査して対抗策を見つけてくれるわ。クロスちゃんの命を救ってくれた御方ですもの」

「クロスちゃん?」



くすっと笑って振り向く。


「私の旦那様♪」


その顔にはもう、あどけない笑みが蘇っていた。


「ほえー」と納得したような顔をするデイジー。

既婚者だったとは知らなかった、というような表情だった。


「ヘルゼンデルどの」


お次は沈痛さを漂わせた低い声が響く。

眉間にしわを寄せて、深刻そうに杖を両手で支えながら立つシヤナ導師の声だった。


「一体、どうなるのでしょう? これから……」


それは、誰もが答えを知りたい問いであった。

このような事件があってもなくても、途切れることのない疑問だった。

だが答えられるような存在を、皮肉なことにカーギ・カリンは持ち合わせない。

答えは己自身で見つけなければならない故に、彼らは時に名を捨て、時に目を塞いでまで自己への探求に勤しんできた。

しかしそれでも、全ての答えは得られない。

魂を見通せているはずの他者に答えを求めてしまう心理と決別はできないのだ。



「そりゃあ決まってるでしょ」



問いへの答えは誰しもが持ち合わせる。正解であろうがなかろうが、正誤それ自体は重要ではない。

率直に言えば、シヤナ導師が誤ったのだ。

そのような問いを"兵の魔女"アイラン・ヘルゼンデルに投げかけるのが間違っていた。



「天まで届く絶頂に、達するのよ」



笑顔を見られないシヤナ導師は、冷や汗を垂らしながら「何かはわからないが何かの例えだろう」と心のうちで解釈した。

それを確かめる勇気までは湧かなかったが。










たとえ昼のうちに何が起きようとも、必ず夜はやってくる。

愛する者が死に悲しみに打ちひしがれていようと夕食の時間は容赦なく訪れる。

理不尽に財産を奪い去られ怒りにハラワタが煮えていようと睡眠の時間は始まってしまう。

大地が崩れ去るような衝撃に愕然としていようと人々は生まれ、死に、世界は動いている。

驚くべき事実にさらされたのだとしても、シヤナ導師は夕食を支度して供し、身を清め、夜の床に就いていた。

どんな異常が昼の間起きていたとしても、いつもの日常通りに。




だが、やはり異常はあった。

本来ならば寝入っているはずの深夜、毛布が擦れる音が暗闇に響き渡る。

枕元のろうそくが魔漏法で灯され、体を起こしたシヤナ導師によってろうそく立てごと持ち上げられた。

寝台横の履物に足を入れ、杖を床に突き立てながら立ち上がる。

いささかうんざりしたような、呆れたようなため息ひとつ。

それから、出入り口のドアに向かって歩き出した。


無明派のアーゲルン人が寝泊まりする部屋にドアノブはない。

ただ押したり引いたりするだけで開く、簡単なドアであることがほとんどだ。

無論、鍵などもついてない場合の方が多い。

故に、本来ならば驚くには値しない。



「眠れないの?」



侵入者がいたとしても。


驚いたように、そして実際大いに驚きながら身を引いて慌てて振り向く。

どうせ目が見えるわけでもないが、本能がそうさせたのである。


直後、その口を塞ぐようにして顔の下半分を鷲掴まれた。

そのまま凄まじい力で後頭部を壁に押し付けられ、あまりの恐怖と衝撃に叫び声をあげそうになる。



「シィーーーーーッ……」



だが、闇の奥から現れた一つの顔が、立てた人差し指を唇に添えて蛇のように細く長く息を立てる音を響かせた。

ここまできてようやく、その魂が感じ取られた。

“兵の魔女”アイラン・ヘルゼンデルだ。


そうと分かれば、静かに、と命じる素振りにも大人しく従えた。

恐怖と衝撃の余韻から、まだ息は荒いままだったが。

それを感じ取り、アイランの方も手を離して解放する。



「ヘ、ヘルゼンデルどの、大変驚きましたよ。このような夜中に一体何を?」

「大してロマンチックとは言えない用事よぉ。あなたこそ、どこへ行くつもりだったの? 意味のない灯りなんか持って」

「その、何故だか寝つけないものですから、暖炉にあたりながら点字書でも読もうかと」

「ふぅん」



ろうそくの灯りが照らし出せる間際の外縁を歩いて、シヤナ導師の横に回り込む。

品定めするような目つきに気づくことができないのは幸か不幸か。

ただいたたまれないような気まずい空気を察し「ヘルゼンデルどのは?」と返してみようか、と彼が思い立った瞬間──



「眠れない理由、教えてあげましょうか」



──既に、彼女の顔が閉じられた眼前にあった。


見えなくとも、感じる。捕食者が如き圧力を。

ただ、シヤナ導師の額に湧き出る脂汗の原因はそれだけではなかった。


「その、どういう──」

「三件目の被害者の住処からこれが出てきたわ」


手に何か固いものが押し付けられる。

手のひらで恐る恐る探るようにさすってみると、どうやら一冊の本らしかった。



「日記よ。なんと床下をくりぬいてそこに隠してあった」

「日記、ですか」



三件目の被害者。天核教の聖職者で、工業地区にて殺された男である。

その犯人は未だ不明のままだ。


「彼の名前はミック・ダズ・オーグンタッタ・デルムット。長いからミックって呼びましょう。この日記も長いから、面白いところだけ読み上げるわね。一件目の翌日の日付から」


本が開かれ、紙同士の擦れ合うかすかな音がいやに大きく響く。

それぐらい、静かな夜だった。


「『支部長様に二度に渡って申し上げたが、一向に聞き入れてくださらない。あの殺人はどう考えてもおかしい。まともに調査してから行動しなくては、このままだと抜き差しならない宗教対立に発展してしまう。そうなった時、真っ先にひどい目に遭うのは信者たちと、ただ巻き込まれただけの一般市民たちだ。

  あの事件は我々に対する挑発や敵対行動ではなく、それを装うことで我々を激発させ、緊張状態に置き、捜査に協調する姿勢を削がせるために偽装された可能性があるのだ。

  しかし、こうなってはもう致し方ない。何か証拠を探して、この事件が宗教的動機によるものではないことを私が証明する他はない。

  天核教の支部全体の意向とは言えないし、支部長への離反行為ととられる可能性もあるので衛兵の協力は得られない。私一人でやらなくては。

  なんとか、宗教戦争の、虐殺事件の勃発だけはなんとしても避けなくては。』」


ページをめくる音すらも大きく響く。

シヤナ導師はただ黙って聞いていた。


「『二件目の殺人事件が起きた。先日の事件と関係あるのだろうか? カーギ・カリンに訊ねてみたが、ほとんど答えてくれなかった。当然だろう、緊張状態にある相手に教えるはずがない。

  ただ一件目の事件について少しだけ教えてくれた。私があまりにもしつこかったので追い払うために話したのだろう。

  それによると、一件目の被害者の名前はキジィヤッツ。彼は亡くなる前日にここへ来て、記録室に入らせてほしいと言ったそうだ。その時はどうやら彼がヤザレの拝火教徒だとは知らなかったらしく、入室と記録閲覧を許可されたらしい。

  私も見せてほしいと頼んでみたが、やはりと言うべきか断られてしまった。忍び込んででも……とよぎったが、見つかって捕まればそれこそ本末転倒だ。私自身の手で宗教戦争の引き金を引くわけにはいかない。』」


さらにページをめくる。

シヤナ導師の額から頬を大粒の汗が伝った。

彼女が何を言いたいのか、察しがついたのだ。


「『キジィヤッツの妹と会った。彼女は不安がって、怯えていた。遺族だというのに、おそらく衛兵の捜査にもあまり協力していないだろう。もし彼女が天核教徒でなければ私も門前払いを食らっていたに違いない。

  彼女と被害者はともに孤児で二人暮らしだったが、兄がヤザレの拝火教に入信してからは度々喧嘩になり、気まずい日々が続いていたらしい。

  だが殺される三日前、差出人無記名の手紙がキジィヤッツ宛てに届いていたらしい。いかがわしいヤザレの拝火教がらみの連絡だろうと思ってすぐ本人に渡したので、中身は見ていないとか。関わり合いになりたくなかったのだろう。

  無論、見せてほしいと頼んでみたが、差し出されたのは灰と燃えクズの山が乗った灰皿だった。一応手紙の燃えクズと思しきものは回収できたので、なんとか一部だけでも読めないか試してみたい』」


淡々とした語り口がかえって心に突き刺さった。

この感覚、心臓を針金で囲われたかのようなかすかな絞めつけの感覚。

彼にとって、初めての経験ではない。


「『魔道士会に燃えクズを持ち込んでみたら、なんとインクを読み取ることができた!

  ここの支部には化学反応の専門家がいて、彼が言うにはもしインクにトールマギ油が使われていたら、燃やすことによってかえって文字が紙繊維に焼き付けられるらしい。大抵の場合は紙が崩れるから結局読めなくなるそうだが、紙としての形が保たれている部分は読み取れるという。

  グキリバンと紺銅の粉末を混ぜて熱した水に浸してから、空気に数分触れさせると、かなり読みづらくはあるものの文字が明るい灰色で浮き上がったのだ。

  なんとか読み取れたのは『ビ・ガタク』という文字のみ。そのまま読めば「砕くもの」という意味のヤグアガン語であるが、意味合いとしてはより無生物的というか現象的で、訳せば粉砕機といったところだろう。

  孤児だった彼は天核教寺院に引き取られて育ったようなので、天核教団内の公用言語であるヤグアガン語も読めた可能性はある。

  粉砕機といえば、工業地区にいくつかあるはずだ。明日はとりあえずそこに行ってみるべきだろう。』」


ぱたん、と本が閉じられる音。

その先が存在しないことをアイランは知っており、シヤナ導師も察していた。

この記述を最後に、彼は殺されたのである。



「ミックは事件を捜査していた。そして意図せず、事件を飛び越えたその先の核心に辿り着いてしまった。すなわち、反統王連衡の存在に」



杖を握る手に力が込もる。

彼女の冷たい声でわかるのだ。

その顔に笑みなど一切ないことが。


「彼を殺したのは反統王連衡の刺客でしょうね、何かの秘密を守るために。だから急いで殺して、現場もそのままに姿を消した。キジィヤッツに届いて破棄された手紙に書かれた情報を調べて、殺されたの。つまりキジィヤッツは反統王連衡と通じてた、というよりも一方的に情報を与えられて踊らされてたっていう方が的確かしら。そして最後には殺された」


動悸が早まる。最早ゆるく巻き付いた針金ではない。心臓にかけられた枷だ。

当然呼吸も深く、というより強くなる。

彼女は知っている。全て知っているのだ。




「お前でしょ、殺したの」




杖を持つ手が震える。

膝も震えている。

ありありと思い出してしまったからだ。

彼の足を、杖で刺してしまった時のことを。


「『ヨルフェルンの涙』、あの時29人の僧侶が陣頭に立って虐殺を指揮した。その後アーゲルンがハーバント家に滅ぼされ29人は全員が指名手配。うち10人がすでに死に、7人が処刑、2人が無期役刑に処された。残った10人は逃げ続けたけれど、複数の恩赦の末、罪は減じられ5人が名乗り出て刑に服した」


その言葉は全てが正しかった。

まるで女神のように。

過去を見通し咎める、罪と罰の女神だ。


「残った5人のうち2人は年齢的におそらくすでに死亡。1人は記録上のミスで計上されていただけで虐殺事件の時死亡していたと判明。1人はもう居場所は掴んでる、いつでもさらうなり殺すなりできるようにね」


ろうそくの火を指でつまんで消す。

これで完全な暗闇がこの部屋の全てを覆った。

二人のどちらともにとって、無意味なことではあったが。


「残った1人、その名はヤッスズ・サクラトーチ・サイイェーン。奴はエンゼッカ源司教の教導師代理を務めた者たちの1人で、虐殺事件のあと主人が処刑されると親アーゲルン勢力だったググ王家を介して逃亡した1人で、今尚天核教団内部に捜索部門が設置されている指名手配者の1人」


闇の中のうごめきもささやきも息遣いも全てが聞こえるはず。

なのに、聞こえるのは己が立てる音の他には彼女の言葉のみ。

彼女が発する他のいかなる音も、音として世界に放出されてはいない。


「そしてサイイェーン。この綴りを並び替えて上スロヴ語読みすると──」


だがこの時、顔を歪めた音がした。

そんな音などするはずがないのに、皮膚がきしみ歪む音を聞いたような気がした。

おそらくは、牙を剥くほどの笑顔によって。



「──シヤナ」



手の震えが止まった。

この上もなく力強く、震えごと杖を握り込んだからだった。

あの時と同じ感覚だった。


「お前、無明派に入る前の経歴が一切無いらしいじゃない。アーゲルン人のカーギ・カリン聖職者としてはまずあり得ないわ。キジィヤッツはそのことを調べるためにカーギ・カリンの記録室に行った。私もこっそり行って閲覧記録を見たのだけれど、お前の名前が載った僧籍録をしっかり閲覧してたわよぉ」


猫なで声が彼の周囲を移動する。

獲物を観察し、どの角度から跳びつこうかと考えている肉食獣のように。


「29人の僧侶最後の1人、それがお前よ。反統王連衡はそれを知っていて、キジィヤッツに手紙で教えた」

「なんの、ためにですか」


絞り出されたシヤナ導師の──サイイェーン導師の──声はほとんど泣いていた。


「お前を引き込むためよ」


反対に、彼女の声はいささか優しさを帯びたものとなっていた。


「キジィヤッツは仕事を嫌い、家では妹と不仲で、人生にうんざりしていた。彼にとって、教団内での出世と栄達の夢だけが己が人生の意義を保つ唯一の方法であり方向性だった。そんな状況で突然最高の機会が降って湧く。敵対勢力である無明派の導師が、かつての大罪人であったという秘密がもたらされたのよ。それを暴けば大きな手柄を得るだけじゃない、知り得ないはずの秘密を知り得た理由を赤い鳳の預言だとうそぶけば、一足飛びで預言者階級まで上り詰めるのも夢じゃない」


杖を掴まれた。

自分の両手の握力を遥かに凌ぐ力が杖を固定したのだ。

それは脅しでも示威でもない。

むしろ、彼女が持つ優しさの一端と言えた。


「彼はそれに飛びついた。念のためあなたの素性を調べてみたらなんと経歴がない。疑いを強め、彼は、お前に直接会って問い詰めた。お前の反応を見て、確証を得るために。違う?」


導師は答えなかった。

それが答えだった。


「過去の罪が暴かれる。シヤナ導師にとって生涯の罪と恥、それに相応しい罰がとうとう追いついてきたのよ。それを前にしてお前は……あがいた」


そっと、優しく、杖を持ち去られる。

抵抗しようとはしなかった。

むしろ、抗わずに手を開き、離した。

今なら彼にも見えるだろう。橙色の輝きが。

燃え盛る炎の芯にも似た、ざわつく光が。


「お前は恐れ、怯え、悲しみ、そして最後に怒った。いくら頼んでも願っても、彼は功名心と欲望を優先し、お前を嘲り罵った。お前の過去をくだらないものかのように扱っていた。そして気付いた時にはもう、内腿に杖を突き刺していた」

「信じて、ください。私は、私は断じて、あのような真似はッ……」

「ええ、お前はすぐに逃げた。死体にあんなことをしたのは反統王連衡の連中でしょう。でも、お前は黙った。口を噤んだ。その目を塞いだのと同じようにね」


ついにその場に膝をついてしまう。

ひざまずくように、祈るように。

信じても認めてもいない何かに、許しを乞うかのように。


「そこで奴らはお前に接触した。おそらく、モタグあたりがでしょう? 私の動向を報せ、待ち伏せの罠を張るのに協力したならば、守ってやると。お前がキジィヤッツを殺さなかったとしても、こっちで何とかしてやるから協力しろと言うつもりだったでしょうね」

「手紙が、手紙が置かれていました。点字の粘土板が……恐ろしくて、すぐに砕いて……」

「ええ、そうね。もしそうしていなかったならこんな話はしていない。即座にお前を殺していたわ。今お前が生きているのは、断ったから。お前は連中の提案を断った。逃げ切るためには受けるしかないと分かっていたのに」


闇の中でアイランは片膝をつき、導師の頭の奥の壁に手をついた。

叩きつけて迫るようにではなく、優しく寄り添うように、抱擁するかのように。


「お前に訊きたいのは二つ。一つ目は、何故? どうして連中の申し出を断ったの? 連中はずっとあなたの気が変わるのを待っていたはず。なのに今この瞬間すら、お前は私を売っていない。どうして?」


静かで何もかもが寝静まった夜に誰にも気付かれないようここに来たのは、アイランの気遣いだった。

この会話が反統王連衡に知られないように。導師に危険が及ばないように。

それを優しさと呼ばずしてなんと呼ぶべきか。

適した言葉はきっとあるだろう。だが、導師の心を変えられるようなものではないに違いなかった。



「わた、しは……」



はじめ、それは蚊の鳴くような頼りない声だった。

おそらくは彼の人生のうちで初めて語る言葉なのだろう。

たどたどしく、探りながら探りながら、暗闇を怯えつつも進んでいくかのように少しずつ話し始めた。


「エンゼッカ様に、お仕えしていました。あの御方は、本当に、素晴らしい方でした。お優しく、異民族や異教徒たちに改宗を勧めはしても無理強いはせず、それでいて受け入れてもいらっしゃいました。誰に対しても分け隔てなく接し、アーゲルンであることを驕りもせず、同胞だからといって非道や無道に目をつぶるようなこともなく、公明正大で、慈愛に満ち、異教徒たちからさえ尊敬されていたんです」


事実、エンゼッカは今でもその死が多くの民族から惜しまれており、それを処刑したかつてのカーギ・カリンとアーゲルン人への敵愾心を助長する結果ともなっている。

彼は必ずしも異民族や異教徒が完全に同化されるべしとは考えておらず、カーギ・カリンの教義と言える団結や協調を共存と解釈し、それらが実践されているのであれば信じるものはカーギ・カリンでなくとも構わないと考えていた。

重要なのは理性的行動と相互理解であり、その理想を到達点として目指すのであれば、道はどれを選んでも良いというのが彼の思想だった。

一部のアーゲルン人からは神秘主義を肯定していると揶揄されることもあったが、現実問題として最も多くの異民族や異教徒を抱える彼の立場では、そうせざるを得ないのである。


「しかし時が経ち、天核教が台頭してくると、天核教とカーギ・カリンの間でしばしば衝突が起こるようになりました。暴力的なものから政治的なものまで、皆が皆エンゼッカ様のようにはなれないのです。あの御方の担当地区内でもいさかいが絶えなくなり、エンゼッカ様は大層お心を痛めてらっしゃいました。本当に、見ていられないほどで、何日も寝込んだり、食欲不振でやつれたお姿を見る度に……我が身のことのように、辛くて……」


魂感応を行うアーゲルン人は、絆を繋いだ相手とは無意識のうちに感応し合う。

導師もおそらく、無意識のうちにエンゼッカの魂と影響し合っていたのだろう。

彼の辛さを、己の辛さのように、生の実感として魂に刻み込まれ続けていたのだろう。


「なんとかして差し上げたかった。お救いして差し上げたかった。苦しみを取り除いて差し上げたかった。その一心に支配され、私は、あんなことを……」

「エンゼッカを助けたくて”招集”に応じたのね?」

「はい……あの方の代理としてザック・ボーンに赴いていた時に声をかけられ、これで、これで解放されるのだと。それで……あんなことは、もう二度と起きてはいけない……」


理路整然とし合理を重んじるアーゲルン人だが、彼らは意外と直情的だ。

他者との感応で己の感情まで増幅されてしまうがゆえに、常に戒め注意していなくてはたやすく支配されてしまう。

そのためのカーギ・カリンでもあるが、しばしば理論や論理は感情を後追いで容認し正当性を後付けするための道具と化す。

あの虐殺事件もそうだった。合理と秩序の皮を被ってはいたが、あれが感情の爆発によるものではないとどのアーゲルン人が言い切れるのだろう。


「エンゼッカ様……あの方とは、それっきりです。訃報を聞いたときは、本当に、本当に、自殺まで考えました。私のしたことに落胆されたに違いない、私自身のことがあまりにも愚かしくて恥ずかしくて、でも何よりも恐ろしかった。何が恐ろしかったのか、今でも、わかりません。ただ何もかもが怖くなって、目をつむって逃げたんです」

「それがお前の本質ね」


言葉を挟んで言葉を止めた。

一つ目の答えは示されたからだ。



「恐怖、それがお前の最も優位な感情よ。光を恐れ、苦しみを恐れ、罪を恐れ、罰を恐れ、世界を恐れ、凄惨さを恐れ、残酷さを恐れ、対立を恐れ、虐殺を恐れた。何のことはない、お前はめちゃくちゃビビり散らしたあまりに救いの糸を掴むのすら恐れたのね」



言葉そのものはほぼ罵倒であったが、声色は優しく諭すかのようだった。

それがかえって導師の心に痛んだ。


「お前はこれまでも、これからも、ずーーーーーっと目を閉じたまま」


だが罰されるようなことはなかった。

“兵の魔女”は罰を与える装置だが、社会悪を裁くわけではない。

任務を達成すること。任務とは魔女を守り、応報すること。

任務外の事柄について彼女が罰や責めを与えたりなどはしない。


では、何故このような会話をいま行なっているかというと。



「二つ目の質問、奴らの居場所は?」



こちらが本題であった。

今の話で導師がどれぐらい反統王連衡と繋がっているのかは大方察しがついた。

おそらく、ほとんど何も知らないに等しいだろう。

だがそれでも、向こうから接触を図ってきたということは必ず手がかりを残しているはずだ。


はじめ、導師は答えられなかった。

虫の足音のような、小さくかすかな声で彼はすすり泣いていた。

それはまるで盃から溢れ出る水のように、少しずつこぼれ落ちて服を濡らした。

悲しくて情けなくて恥ずかしくて、そう思えば思うほど涙は溢れた。



「ほら、しっかりするのは無理でしょうけど、質問には答えなさい」



その横面を数度軽く叩く。

すすり泣きは止まらなかったが、それで意識はアイランの方角へ向いたようだ。

顔を上げてまぶたの表と裏の両方に広がる闇と向き合う。



「工業、地区、第十二、粉、砕機。そこに、来いと、手紙で」



しゃくり上げながらもなんとか言葉を形にする。


「第十二……やっぱり、あそこ何かあるみたいね」


第十二粉砕機とは三件目の事件の現場である。

ミックが捜査し、殺された現場。

反統王連衡が何かを隠すため犯行に及んだ場所。


狙いが完全に絞れた。

極論すると、これを知るためにアイランはこの事件を捜査していたようなものである。



「それじゃ、もう用はないわ。おやすみなさい」



声が闇の奥へと吸い込まれていく。

おそらくはまぶたを隔てた二重の闇、両方へと。

そこへ「待ってください!」と呼び止める声が響く。

闇の奥は全く見通せなかったが、気配は去るのを一旦辞めてくれたようだった。



「私は、私は一体、どうすればいいのでしょう、どうすれば……」



すがりつく、悲痛な悲鳴であった。

閉じられたままの目からこぼれる涙、すすり上げられる鼻水。

見苦しいことこの上なかったが、闇の主は無視するようなことだけはしなかった。




「さあ?」




もっとも、その答えに比べれば無言無視の方が情け深かったのかもしれない。


それきり気配は消え、闇の中には導師一人だけが残る。

闇の中、孤独な夜闇で一人すすり泣く。

なんと、なんとみっともなく情けないのだろう。

少なくとも本人はそう思ったが、それでも悲しみと涙は止められなかった。

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