歯にて
「捕まえろーーーーーっ!!」
アイランの楽しげな号令が響く。
鬼ごっこ開始の合図を叫ぶ子供と同様、目は川面に浮かぶビー玉のように爛々と輝き、口元と頬は喜びに歪んでいた。
皆の体がとっさにびくりと動き、釣られて駆け出しかける。
なんとか体を固まらせて踏みとどまった一同の横を、衛兵たちが駆け抜ける。
やや遅れてデイジーもモートを放り出して下手人に掴みかかった。
怪人は膝を曲げ、腰を落とし、力を溜める。服の一部がさらに裂けた。
そして一瞬後、衛兵たちのさすまたが到達する寸前に跳躍。
巨大な体躯と力は天井を突き破り、大穴を残していった。
即座にアイランも跳躍。矢のような鋭さで大穴から飛び出し屋根上に降り立つと、すでに怪人が二つ向こうの屋根の上を走っているのが見えた。
どうやら、上手くいった。
あの場で暴れられるよりも、逃げてもらった方がやりやすい。
できるだけ関係者を多く集めたのも、人数を稼いで心理的に逃走を選択させやすくするためでもあった。
直ちに後を追う。
どすどすと大きな足音と衝撃を響かせながら逃げる怪人は、強き力で走りながら屋根から屋根へ飛び移る。
対照的にアイランは肉食獣のように静かでしなやかな走りと、速度によって屋根へと飛ぶ。
地上では無明派寄宿舎を包囲していたと思しき衛兵たちが慌てながらも、地上から怪人を追いかけようと大わらわだ。
街中ゆえ投槍や弓矢などは使えず、ただ見失わないように追いすがるだけだったが、効果はあった。
視界外である下方の騒がしさは回り込まれているような感覚にさせ、逃げる方向を無意識に変えさせたのである。
そのために減速した瞬間、左腕に剣が突き刺さった。
"兵の魔女"の投擲が狙いを外すことはない。
剣先には彼女の血が少量付着しており、それは怪人を構成するドドラドの根に混入し、魔力の流れを遮る。
"兵の魔女"が持つ膨大な犠牲者の魂。そのごく一部が持つはたらきだ。
それは毒のようにドドラドの根の動きを鈍らせ、力を削いだ。
「ぐぅっ!」
本能的な苦痛に喘ぎ足を止める。
赤く光る目が、這い寄る影のように迫る"兵の魔女"を捉えた。
「ウオオオォォォォッ!」
ひび割れかすれたような、それでも腹の底を押すような圧力の雄叫び。
おそらく、植物が咆哮したならばこのような声なのだろう。
逃げるのではなく、逆に全力で"兵の魔女"に突進した。
巨大な右拳が投石機の砲弾のように"兵の魔女"に降り注ぐ。
だが彼女も止まらず、むしろ身を屈めて拳を潜りながら左腕側に走り抜けた。
そして抜けざまに、左腕に刺さってた剣を掴んで肩まで切り裂き抜ける。
根を素早く力強く動かすために充填していた、樹液と血液を混ぜた濃褐色の液が噴き出す。
だが、これで"兵の魔女"を突破できた。
右手で傷を押さえ、新たな根を巻きつけて塞ぎながらも足は止めずに走り続ける。
新たな根を伸ばし、それをロープや高飛び棒のように使いながら屋根を伝って走る。
しかし数秒走って、進行方向の異常に気づいた。
無明派寄宿舎の屋根の上にちょうど「うんしょ」とデイジーがよじ登っていたのだ。
「あなや!」
ここに戻ってくるよう仕向けられたことに思いが至った時には、手遅れであった。
回避のために減速しては、またもや後ろから毒血の刃を投げつけられてしまう。
さきほどは少々運動性能が鈍る程度で済んだが、何度も、あるいは大量に注入されたならば、私と"いれもの"の繋がりが断たれてしまう恐れすらありうる。
天がそのように差配するのならば是非もない。
だが……天意を仰ぐならば、まずは人事を尽くすべし!
「ヌオオオォォォォォ!」
雄叫びと共に速度を増し、肉と木の大砲弾と化して突撃する。
すでにデイジーは屋根の上に立ち、腰を落として迎撃した。
およそ生物同士の接触とは思えない鈍い衝撃音が響き、立ち合いのように両者の上半身が仰け反り跳ね返る。
無論、踏みとどまれないはずもなく、上半身を引き戻して改めて組み合った。
互いの手を掴み、額を軋らせ合い、ただ、何の芸もなく、全力で押し合った。
否、芸はあった。
袖から根が這い伸び、デイジーの手に絡んだのだ。
根は分かれて伸びながら皮膚に小さく刺さり、食い込み、骨めがけて進む。
同時に手そのものに巻きつきロープのように締め付けた。
そしてその力が彼女の左手首に及んで締め上げた時、彼女の掌底から刃が突き出された。
デイジーの左前腕に格納されている刃は手首をまっすぐ伸ばしていれば指の間から突き出るが、寝かすように曲げれば手首から、起こすように曲げれば掌底から皮膚を破って現れる。
手を組み合った状態からそうなれば、必然、怪人の掌から腕にかけてを一気に貫いた。
ばね仕掛けと筋肉の張力を利用した慮外の凶器、隠された刃に貫かれてさしもの怪人も意識が逸れた。
唐突な衝撃と痛みに何が起きたのかわからず、瞬間、呆ける。
普段のデイジーのように。
「ふんぬぅっ!」
その隙に頭突きを見舞う。この体格と筋力を、死人は100%有効活用できる。
己の身を守ろうと制限をかけるような本能は取り払われ、またその必要もない。
この一撃を食らって仰け反らない者はいないだろう。
床板を踏み抜いたような、木を砕く音を響かせながら怪人は手を離してよろめいた。
「ふおおおぉぉ!」
さらに畳み掛けるように、両手を振り上げ背中に回し大荷物を掴む。
そして、腰を落とし、全体を前に倒しながら、大荷物をハンマーか大岩の如く振り下ろした。
デイジーの渾身の力を以って振り下ろされる100kg単位の重量物。それが与える衝撃と力は何トンぶんに匹敵するだろうか。
怪人は叩き潰されただけではなく、屋根を突き破って落下する。
弾き飛ばされる瓦礫や破片よりも速く真っ逆さまに落ち、それが床への激突によってようやく停止した時、奇妙な金属音が響いた。
「ウグアアァァッ!」
同時に鋭さと鈍さを兼ね備えた痛みが走り、反射的に痛みの源泉である胴体に視線を移す。
そこには、怪人の胴体に食い込む金属の歯、特大のトラバサミがあった。
それは万力にも匹敵する力で怪人を挟み、締め付け、痛みの重石で押さえつける一方、地面に向かって閉じるもう一つの歯によって床に固定されてもいた。
オフスベクジラを拘束できる程に強力なトラバサミである。怪人の力を以ってしても脱出は困難であった。
むしろ抜け出そうともがけばもがくほど歯は深く食い込み、核である女性の肉体が圧迫される。
しかも即座に周囲を衛兵に取り囲まれ、さすまたでは手足を抑えられ、幾本もの槍先をも突きつけられた。
ここに、怪人は捕縛されたのである。
「ラッキー♡」
ひょこっと穴から覗き込みながら、アイランはにっこりと笑った。
その笑顔が美しければ美しいほど、にこやかであればあるほど、相手にはこの上ない屈辱と化した。
とはいえ、その笑顔が向けられる時間は短かかった。
当たり前のようにさっさと怪人の傍に降り立ち、手でしっしっと追い払うように衛兵たちの槍ぶすまを下がらせたからである。
「いくつかお前に訊ねたいことがあるわ。手足をちょん切って断面を焼き潰してからこの連中に引き渡すのは、その後よ」
異論を唱えられる者は、この場には誰もいなかった。
本人を除いて。
「何も、喋らんぞ……!」
荒く息をつきながら吐きかけられたしわがれ声には、その一部に確かに女性の声が混じり込んでいた。
「ま、そうでしょうねぇ〜」
笑いながら横に手を突き出し、ちょちょいと指を曲げて手招きする。
その方向を見もしなかったが、呼ぶべき人物が誰かは理解しており、また正確だった。
彼は一瞬当惑した表情を見せたが、横にいる者たちと顔を見合わせるなどした後、観念してゆっくりと歩み出る。
その名は名も無き"去りし蹄跡"。
「お前、証言補助資格者よね?」
犯罪等が起きた時、証人に魂感応をして証言の内容が正しいかどうかを確認する。
その資格と信頼を有するアーゲルン人は少数ではあるものの、統王の定めた認定基準を満たした者は確かに存在した。
その一人が"去りし蹄跡"であり、このために彼は名指しでこの場に呼ばれたも同然だった。
状況に動揺しているのか、怪人を見下ろしながら数度頷いて応えるのみだったが。
「こいつに魂感応ってできる?」
しかし、ここに歩み出た時点で予想してはいたのか、この問いに対しては素早く答えた。
「どうでしょう、こんなのは初めて見ました。魂がどういう状態なのか……全く予測できません」との声は震えていたが、こんな状況にしては冷静な受け答えと言えた。
「なぁにも深くまで食い込んで確実な情報を読み取ってこいっていうんじゃないわよぉ。ちょこっとだけ気分をいじって、ちょこっとだけ素直ないい子にしてくれればそれでいいの」
怪人の頭を鷲掴んで床に押し付ける。
反撃を試みて手に這い伸びる根は残らず指でほじくってもぎり落とした。
「それなら……やってみましょう」
上二つの目を閉じ、指先で根に直接触れる。
その瞬間、両目の赤い光が弱まり、根のうごめきと収縮の動きも鈍くなった。
意識が消えたわけではないようだが、鎮静はしたようだった。
「どうかしらぁ?」
「"寄生幽体"が宿主を乗っ取ったのかと思っていましたが、これは……分裂状態に近い。変種には違いないが、ドドラドとの相互影響によって彼女自身の魂が分裂し、分かたれた側がドドラドと強く結びついたようです」
「その子、この町で生まれた世代だそうよ」
「環境の変化で変異種が出現したのでしょう。おそらくはドリアードとドドラド、その両方が偶然突然変異体であったばかりに、このようなことに……」
「飼いならせそぅ?」
「鎮めることしか」
「ま、しょうがないわね」とつぶやきながらのめり込むように体を沈めて顔を寄せる。
至近距離で目と目を合わせ、互いの存在しか認識できぬほどに近づく。
帽子のつばが当たって押し上げられるほどの距離。
息の感触も熱も音もつぶさに感じられるほどの距離。
「お前は何?」
その距離から言葉を叩きつけた。
がんじがらめに捕らえ、決して逃れられぬようにした上で全神経に直接叩き込まれる声。
脊椎が震え、脳に染み込み、鎮静して緩んだ魂に届く。
その声に抗うような意思を持つことは、一切不可能だった。
「私は、天核の使徒。下された、罰……だ」
「……何?」
答えに真っ先に反応したのはアイランでも衛兵でもなく、天核教の男だった。
怪人を囲む輪の外から詰め掛け、衛兵たちの背に阻まれながら肩越しに怪人を見る。
その顔には驚きと困惑の色が等量混ざり合っていた。
「おい! そいつ、天核教徒なのか!?」
まさか、と顔色が変わったのはワウコであり、驚きを以って怪人を改めて見やるのは"去りし蹄跡"であった。
「そうなの?」
「私は、天に従うもの、強さの体現者、生まれついた天罰、天核教の再興者、だ」
「合ってるみたぁい」
顔を上げて手をひらひらと振る。
驚愕を示した全ての者が浮かべた言葉は「なんてこった」だった。
ただ一人高笑いしたのは、モートだけだった。
「天は全てを創りたもうたか! これはしたり、ドドラドごときが人を模し、人を殺め、自らを天意の代行者とうそぶくとはな。まさしく天核教の成果そのものではないか!」
やや背が高いため、彼は輪の外からでも怪人の姿が少しだけ見えた。
醜く、おぞましく、善なるものとは程遠きと思える姿を。
「こんなくだらん生物の凶暴な本性に、貴様らは動機を与えたのだ。完璧に己を誤魔化せるだけの大義をな! 貴様らは結局、人々を導くのではなく追従するだけ。時代に寄生し世の流れに後追いして大衆の味方ぶっているだけだ! だから貴様らの信徒はこのような残虐さに向き合わず、自動的に肯定してしまうのだ!」
笑いながら高らかに非難する言葉に、天核教の男は顔を赤くしながら表情で怒りを表した。
だが、言葉で表すことはできなかった。
まさに己の目の前に、天核教の醜態とも言える存在が横たわっていたからだ。
無関係の無頼人の騙りだと切り捨てるには、あまりに人が死に過ぎた。
このような満座で反論できるような立場ではないことを、直感で理解していた。
「そこまでよ、訊きたいことはまだあるんだからぁ」
しかし代わりにアイランが黙らせた。
彼女が言葉を向けると、金縛りにでも遭ったかのようにモートの動きがピタリと止まる。
彼は既に屈服してしまっている。その恥があればこそ、決して"兵の魔女"には逆らえなかった。
それを確認して、彼女は再び顔を寄せ目を合わせる。
「お前、何かを"撒いてた"わよね?」
「撒く?」と疑問を浮かべたのは全員だったが、言葉に出したのはシヤナ導師だけだった。
それに答えるついでとばかりに、顔を寄せたまま話し続ける。
「お前は人を集めるために殺しをした、そして人を集めて、そこに自分も混ざって、目的は何かを"撒く"ことしか考えられない。六件目では何かを植え付けたか染み込ませた死体を集積水路に投げ込んでまで撒こうとした、お湯に浸したティーパックみたいにね。何を撒こうとしたの?」
人混みにさえ紛れられれば、ドドラドの根を使って他人に何かを植え付けることは可能だろう。
特に人混みを構成する人間全員が一方向に気を取られている状況なら尚更である。
例えば、野次馬。
全員が事件現場に気を取られている間に、何もかもが可能だ。
「た、ね」
強引に絞り出されたその言葉は、最初ただの幻聴か単なる物音のようにすら思えた。
意味のある音だと察知できたのは”兵の魔女”ただ一人だけであろう。
「たね、種? 種がどうかしたの?」
頭を両手で掴み、もはや覗き込むというより入り込むような剣幕で迫る。
赤色などほとんど消え失せている両目ははっきりと拒絶の意を示してはいたが、その程度の障壁など全く問題にならなかった。
スプーンを魂に突き刺されているような苦しみとともに、実際にそのようにして魂そのものが掬い取られていた。
怪人の目には最早橙色の輝きしか映っていないのだ。
「たね、撒いた。おま、えら……全員」
「まさか、お前の種? ドドラドの、お前の種子をこの町の人間に植え付けたってこと?」
「執行、した。それが、天誅だ」
「まさか」と叫んだのはワウコだった。
「全く無意味だ! 精霊様は我らにしか根を下ろせない! そもそも種の状態では定着すらしない。我らでさえ精霊様と一つになるのは、大地の上にて苗まで育ってからだ!」
「だ、そうよ?」
水を向けると、その水から元気を得たかのように、節くれだった根の塊である顔が歪んだ。
痛みや悲しみ、怒りなどではない。それは笑みだった。
浮かべることなどできるはずがない表情。
己が全存在、全身全霊を総動員しなければ自分の意思を表面化させることなどできない。
そのような状況に縛られていて尚、怪人は笑った。怪人という言葉に相応しく。
「貴様、らは、愚か者、だ。悪に塗れ、汚濁に塗れ、またそれを、世界に向けて吐き出し、続ける……」
声にも覇気が宿りつつあった。
抑えておけない訳ではないが、意思そのものは復活しつつあった。
その強靭さがどこから来るのか、それを真に理解していたのはこの場で二人だけ。
アイランとシヤナ導師のみである。
「そのようないきものなど、天が……全てなる天がお認めになる、はずがない。故に貴様らは全て置き換わるのだ、貴様らになるはずだったものは、天に叶う、強力で、慈悲深く、謹厳で、何より優れたいきものに」
信仰、信心、信念、どれも違うようで、同じものだった。
この分類困難な生き物に力を与える何かが、確かにその魂の内にあった。
「そして……そして彼らが、貴様らが作り上げたものを、全て破壊する。家も、文化も、文明も、彼らは全てを破壊し、置き換わるだろう。貴様らは歴史に埋もれ忘れ去られるだろう。貴様らの歩んだ歴史が、過去が、描いた未来が、何もかも無意味と化す!」
カッと目を見開き、頭突きでアイランを弾き飛ばす。
あの”兵の魔女”が押し返されたのだ。大きく仰け反って尻餅をついたのだ。
衛兵たちが更に詰め寄り、怪人に向けられた槍の穂先はあと一歩で突き刺さる位置にまで迫った。
だが怪人は逃げ出そうとはしなかった。
それは無意味だからであるが、周囲の者全員が考えている類の無意味さからではない。
知っているのは本人のみである。
「それは既に始まった! なのに貴様らはそれにすら気付いていない! 貴様らはバカ丸出しだなッ! 滅んで当然! それが天命よ!」
再び、怪人の頭が押さえつけられる。
だが、押さえつけるという言葉が持つような生易しい意味のものではない。
頭を鷲掴み、床に叩きつけたのだ。常人であれば即死するような力で。
破壊音は木の根が砕けた音か床が割れた音か、あるいはその両方か。
「言いなさい」
そして、潰れた刃物のような低く響く言葉を臓腑にねじ込む。
これもまた、常人がこの状況で聞けばそれだけで失神するだろう。
術でも魔法でもなく、純然たる力による脅迫だった。
「『スゥガ・タムト写本』はどこ?」
この言葉に息を呑んだのは”去りし蹄跡”だけだった。
怪人はまたもや笑う、頬を床にめり込まされたままで。
「ほう、気付いたか! ならば貴様の存在だけは歴史と血統に残るかもしれぬなあ!」
「言えないの? 言いたくないの?」
「答えようが答えまいが意味はあるまい。貴様の行いが無意味となるならば、私の言葉も無意味! 第一”あの男”がいつまでもここに置いたままにしておくと思うか? 既に用は済んだというのに!」
「“兵の魔女”どの! 一体どういうことだ!? 何を話しているのだ!? 全く訳がわからん!」
我慢が限界を迎え割り込んだのはワウコだった。
この場で最も切実な問題が目の前で展開されている男。
彼は状況を把握しなくてはならなかった。自らの同胞と種族の存続のために。
アイランは怪人がこれ以上語らぬと見ると、手を離して立ち上がり、代わりに首を踏みつけて床に縫い付けたままにした。
「こいつは反統王連衡の使いっ走りよ」
この場では誰も聞いたことのない言葉、知らない名詞。
だがその響きだけで、何か大それた、禍々しい印象に感じられた。
統王に反する者たちの集いであると示す名前として、完璧に機能したのだ。
「反統王……この上で反逆まで!?」
その事実は、最大限の衝撃だった。
唖然としたワウコは膝をつくが、構わずアイランは続ける。
どうせ、他にできることなどないのだから。
「えぇーそうよぉ。昨日から疑ってはいたけど、いま確信したわ。こいつは自らの種子をバラ撒いた。根を使って直接人に植え付け、水に混ぜて人々に飲み込ませた。後者は不確実だし消化されてダメになる確率の方が高いけど、やって損はしない」
「だが、それは無意味だと先ほどワウコが……」
「ええ、無意味ね。ところでシヤナ導師!」
突然、首を踏みつけたまま上半身を翻してシヤナ導師を指差す。
「遺伝子が何かは知ってるかしらぁ?」
「遺伝子、ですか。メンデル博士の」
「そ」
少し当惑しているようだったが、物腰は落ち着き払っている。
冷静ではあるが、どのような反応を期待されているのかは図りかねているのだろう。
アーゲルン人を以ってしても"兵の魔女"の意図は汲み取り切れないものなのだ。
「遺伝現象は……従来では親から子への魔力分離と環境要因の複雑な組み合わせから成るとされましたが、グレンゴン・メンデル博士の『向進論』によって、遺伝情報を伝達する物質的な担体と、そこに刻まれた情報の顕性と潜性に従って現れるものと数学的に証明されました。そのはたらきを担う物質の総体を遺伝子、と。その存在はまだ確認されてはいませんが、予測と実験ではほぼ確実に実在すると結論づけられ、遺伝という現象を数学的、あるいは化学的に定義・解明可能になり……生物学は、単なる観察学や統計学から理化学へと変貌したのです」
さすがにカーギ・カリンの学僧はモノが違う。
常人にはその意味すら判然としない言葉がずらずらと。
だがそれが、概ね求められた答えであった。
「はいはいもういいわよありがとねぇ」
少しばかり、やり過ぎなほど100点を超えてはいたが。
「要は、生き物の設計図みたいなもんが体の中にはしまってあって、その設計図をもとに生き物は構築されてるの。その設計図が遺伝子。設計図は写本みたいに書き写されて親から子へと受け継がれていくけど、両親のものが混ざり合ったり、時には破損したり、設計図のどの部分を実際に建築するのかなどなどでいろんな個体が生まれるようになってるのよぉ」
"兵の魔女"も遺伝学にはそれなりに詳しかった。
むしろその存在そのものが遺伝という現象に向き合った者たちの粋を凝らし、先人たちの経験を束ねて生み出されたものである。
アイラン個人として"失われた四ヶ月"の内容を目にした経験もあって、遺伝子という概念には興味を持っていた。
だからわかったのだ。
この怪人が、反統王連衡が、"あの男"が、何をしたのか。
「その設計図が、もし誰かの手で書き換えられたら?」
そんなことが可能なのか。誰も可能とは思わなかった。
あまりにも大それているというよりも、あまりにも理解の外だったからだ。
何が起こるというのか、予想すら全く不可能な問いだった。
メンデルの『向進論』を知るシヤナ導師とアイラン以外には。
「変異、です。予測困難で、致命的な変異。生物が、全く異なる生物に変わる」
「そ、それを、したのか? こいつが?」
天核教の男の表情は半ば呆け半ば驚いていた。
そんなことをできるはずがないと否定したがっているようだった。
「ま、そういうことねぇ。ドドラドの種を発芽させる必要なんてない。組み換え用の遺伝子と不活性の攻撃因子を込めた種を植え付け、それらを注入。何かのきっかけで攻撃因子が宿主の遺伝子を攻撃して破損させ、そこに組み換え用の遺伝子が成り代わるってとこかしらぁ?」
「そのようなことが可能なのでしょうか? 遺伝子の存在はまだ確認されてもいないのに」
「遺伝なんて言葉が生まれる遥か前から人類は品種改良だの交配だの経験則でやってきたじゃない。奴ら長年かけて準備してきてたのよ、『スゥガ・タムト写本』をもとにしてね。そしてついに実行して、遺伝子の運び手としてこいつが選ばれた」
「では、つまりこういうことか?」
モートの言葉は堂々としていた。
俗物の拝金者であっても、彼も終末論者の端くれであった。
「この町の者たちはある時に突然違う生き物に変わる、と」
「すこーし違うわねぇー」
剣を一振り抜き、怪人の横顔に突き立てる。
頬骨のあたりを刺し、めきめきとひしぎながらこじ開けるように刃をこね回す。
「その時は既に起きた。注入された遺伝子は私たちを変えるためじゃなくて、私たちの子孫を変えるためのもの。大人の遺伝子を少し変えたところで影響は少ないわ、淘汰されるか拒絶反応か致命的な変異か。持って生まれた遺伝子や形質を押しのけた変異は成功しない」
木の砕ける音、繊維が無理やりに引きちぎられる音が響き、刃が繊維に擦られる音が引き裂かれる筋肉を思わせた。
「でも、子供は別。子供にとっては親から受け継いだ遺伝子が全て。その受け継ぐ元が初めから歪んでいれば、その歪みに沿って形成され、成長し、馴染むのよ。子は永遠にその変化を受け入れるわ。私たちの下に本来生まれるはずだった子供を殺し、成り代わって生まれてくる子供を作る」
「それで……何が生まれるのですか?」
剣を引き抜き、今度は目の上を突き刺す。
そして力を込めて手前に引けば、根は仮面を外すかのように剥げ落ちた。
そこから覗くのはドドラドの根に覆い隠されていた本来の素顔、ドリアードの女性の片目であった。
「"忌み子"」
その言葉に、ここにいる全員がギョッと心臓を凍らせた。
「そうよね? 違う?」
首を踏みつけたまま屈んで女性の顔を覗き込む。
白く柔らかな肌と弱々しき目元が忌々しげに歪んだ。
やはり、完全に意識を怪人側の人格に乗っ取られているようだ。
「連中はずーーーっと『スゥガ・タムト写本』に従って計画してきた。動機はそれぞれでしょうけど、意図的に大量の"忌み子"を生み出し、その遺伝子を広げ、バラ撒けば……効率的にやれば100年かそこらで、人類は品種改良される」
「で、できるはずないッ! "忌み子"は生まれながら死んだ存在なのだぞッ!?」
ぐりぃっとアイランの首が動き、天核教の男を睨んだ。
その目に怒りや敵意はなかったが、見開かれた瞳には殺意がありありと宿っていた。
まるで猛獣が、怒りを一瞬で殺意に変換し切って襲いかかるかのような目。本能に刻まれた恐怖を喚起する睨み。
それに射すくめられ、男は思わず「ひっ」と鳴いて縮み上がってしまった。
「"忌み子"は治療可能よ。さらに教育することすらできる。そのためにフェルマーの"失われた四ヶ月"が必要だった」
「フェルマーって、あのフェルマー博士でしょうか」
「ええ、だから急がないとね。昔ならいざ知らず、今はそんなことをされるわけにはいかないもの」
だがすぐに女性の方に向き直ると、右拳を握って振り上げる。
その腕には血管と筋肉の筋が浮かぶほど力が込められていた。
「だから、ごめんなさいね。まあ、これも──」
高く掲げられたそれが、天の光を受けて白く輝く。
まばゆきその輝きは露出した目に届いてくらませた。
ただ、わずかに逆光の影に浮かぶアイランの顔が見えた。
その顔は、一切笑ってなどいなかった。
「──天罰だと思って」
拳は振り下ろされた。
これが彼女の片目が見た、最後の光景である。




