麓にて
朝、アイランとデイジーは市場を歩いていた。
朝食を終えた程度の時間だと言うのに既に市場は活気にあふれ、遠目には工業地区と採掘地区からも煙が立ち上っている。
道ゆく人々が踏みしめるは石畳、立ち並ぶ露天と商店の品揃えは様々で、野菜や果物、魚に肉、加工食品といった食料品のみならず、衣料品、金物、骨董、魔道具、雑貨、装飾品におもちゃまで色とりどりだ。
車屋台や歩き売りに、怪しげな客引きまで朝のうちから熱心に商売している。
アンガナス大鉱山、ここは短く眠る町。
そこを二人は歩いている。
アイランはハバハの実を皮ごとかじりながら。
デイジーはバケツいっぱいに溜めた砂糖菓子を頬張りながら。
「あの朝食には参ったわねえ。カーギ・カリンが粗食なのは知ってたけど、あんな古臭い伝統食が出てくるとは思わなかったわぁ」
「(ぼりぼり)んでもぉ、昨日の晩飯も(ぼりぼり)あんなんだったぞぉ(ぼりぼり)お魚の煮たやつはあったけんどもなぁ」
「ほんとぉ? それだけでもとっといてもらえばよかったわぁ」
実の残りを口に放り込み、へたを吹き捨てる。
「ねえデイジー、ある魔道士が言ったのだけど、実はこの世界に魔力なんていうものは存在しないそうよ」
「えぇえ? でも魔法はぁ?」
「曰く、私たちが魔力と呼んでいるものは、似たような性質を持ちながらも異なるエネルギーの総称であり、正体も原理も解明されていないものを感覚的に使っているだけだそうよぉ。要はこの世界の全員が魔力をただ"なんとなく"の経験則で使っているだけで、最終的な原理は全く解明されていないんだって」
「んあ?」
「魔力っていうものじゃなくて"よくわかんない色んなエネルギー"じゃないかってことよ」
「じゃあおらは何で動いてんのぉ?」
「それは多分私と同じものでしょうね。でも生き物の内部にある魔力と環境中にある魔力は、ただ単に反応し合うっていうだけで、本来は別々のエネルギーなのかも」
「どういうことだあ?」
「そうねぇ、ちょっと目つぶって口開けなさい」
立ち止まってその通りにしてみると、数秒後、その口に何かが突っ込まれた。
噛み潰してみると、甘く爽やかな味わいの汁が舌の上に躍り出し、歯は薄皮を破ってぷちぷちと小さな粒を弾けさせる食感を得る。
きっと、何かの果物だろう。濃厚な甘い香りが鼻に抜け、こびりつかない甘さは淡雪のように溶け去り、鮮やかな爽やかさだけを残した。
「じゃ、次」
またもや、別のものが押し込まれる。
それは同じ果実のようだった。甘く、爽やかで、芳醇な香りと切れの良い後味を残す。
しっかりと噛み、味わい、飲み込んだならばまた口を開いて待った。
「今の二つ、別々のものを食べさせたんだけど、何だったかわかるぅ?」
「んん?」
口を閉じ、目も閉じたまま、少し考える。
頭をぐりぐりと両手でこね回しながら考え、バケツを鳴らし、砂糖菓子はこぼす。
やがて一つ思い至りて手を叩く。その拍子に砂糖菓子はぶち撒けられ、通行人の頭上に降り注いだ。
「灰起き蜜柑の一粒と、その隣の一粒!」
瞬間、アイランの吹き出す音が聞こえた。
響き渡る大声の爆笑に困惑しながら立ち尽くす。
律儀に目を閉じたままの大女に「もう見ていいわよ」と許しが下りたのは、たっぷり数十秒が経過してからであった。
「要はそういうことよ。同じに見えて実は違う」
目を開いて最初に見下ろしたのは、アイランの姿。
目に滲んだ涙を指で拭う姿だった。
「あまりにも常識的で広く世に知られた自明に思える事柄は、たとえそれを捉えた知識が主観に過ぎなかったのだとしても、客観事実だと先入してしまう。だから面白い議論も挟まる余地があって、世の中に色んな変化が生まれるのよ」
「はー」
「さ、行きましょ。散らばした砂糖菓子はまた買ってあげるわ」
しなやかなこなしで身を翻し、背を向けて歩き出す。
バケツの隅にかすかに残った菓子を全てかき込み、急いで後を追った。
軽快に、上機嫌に石畳を歩む主人の片手に、一部分を欠いた灰起き蜜柑とスズミカンが握られているのに気付いても、デイジーにその意味は理解できなかった。
「ようこそ"箱の緑"へ」
目的地に到着した二人を、一人の女性が出迎えた。
儚げな雰囲気をまとった細身の若い女性だが、首の後ろでかすかに服が盛り上がっている。
裸足の指先は薄青色の砂と土色の砂で汚れ、両手の甲にも木の根のようなものが浮かび上がっており、ドリアード人としての特徴と合致していた。
うやうやしく礼をとる彼女の後ろには、平屋だが周りよりも一段高く、屋根全体が天窓造りとなっている建物が鎮座。
この建物こそ、この町のドライードの唯一の拠点。その名も"箱の緑"だ。
「ただいまワウコとサンドルイド・タタ・グーチェット様を呼びに行かせております、しばしこちらでお休みくださいませ」
ひとまず促され、案内されたのは外壁から"生えている"ベンチだった。
「はぁぁい」「うん」とそれぞれ返しながら、片方は貴婦人のように優雅に、片方は落石のように腰を下ろした。
それを見届け、女性は改めて礼をとりつつ立ち去ろうとする──
「あら」
──のを、アイランが呼び止めた。
「手、荒れてるわね。鉱山の汚れた空気はドリアードには合わないかしらぁ?」
女性の手は、いくつもの細かい傷跡で荒れていた。
ドドラドと共生し、日光や水分をその身に受けることで生きていけるドリアード人は着ている服ですら日光を通し通気性の高い、粗くて薄手の生地を使っている。
肌荒れや傷などは以ての外であり、丈夫で柔軟な皮膚に傷を負うこと自体が本来は稀なはず。
相当、慢性的なものでなければ。
恥ずかしそうに視線を伏せ、両手を重ねて隠そうとする。
この女性の痛みが、ただの肉体的な感覚の痛みだけではないことは明白だった。
そんな彼女をいざなうように、アイランは指を軽く二回曲げて招く。
そのまま立ち去ってしまおうか、それとも断りを入れようか体の向きをひねって迷い、ためらった。
だが、逡巡の素振りを見せたのち、手の甲の根が数度薄い赤色に光る。
そうして、おずおずと、警戒しながらであるが、彼女は"兵の魔女"に歩み寄って重ねた両手を解いて見せた。
アイランはその手を取り、角度を変えつつまじまじと眺める。
そして一度頷くと、優しく両手で彼女の片手を挟んでくるむ。
掌の間で濃い橙色の光が溢れ、荒れた手を包み込む。その光はほんの数秒、彼女の手を温めて消えてしまうが、挟んだ手が開かれるとそこには小さく柔らかい肌が戻っていた。
無論、完全に元通りというわけではないが、固くひび割れた細かい傷は繋がり、指を曲げるだけで細かく裂けるような状態ではなくなった。
女性の目が驚愕で丸く開かれ、デイジーは目と口の両方がぽかんと開かれた。
「傷が全て治るわけではないけど、ドドラドとあなた自身の魔力を借りれば、こんなことだってできるのよ。もう片手もね」
同様の手順を以ってもう片方の手にも癒しを施す。
両手ともに完了すると、女性は驚きを浮かべたままの顔前で両手を握ったり開いたりして、己の身に起きたことを受け止めていた。
「魔女さまぁ! こんなすげえことできたんかあ!?」
彼女よりも真っ先にデイジーが感動の叫びを上げる。
「この子がドリアードだからできたことよ。植物ってのは強靭なの。あとはよく栄養をとって、多少お金がかかっても仕事の時にはちゃんと手袋を着けなさい」
女性が深々と頭を下げる。その頭と肩は、微かに震えていた。
「お二人とも! お待たせしました」
そこにワウコがやってきた。
アイランが立ち上がり、「行くわよデイジー」と手の甲ではたいて立たせ、二人は向かう。
ワウコの案内によって"箱の緑"の中へと。
その背中を、若いドリアード人がずっと頭を下げて見送っていた。
「ねえ、あの子手が荒れてたわよ? ドリアードって日光と水、それと可能なら土さえあれば生きられるもんじゃないのぉ?」
建物内の回廊を進みながらワウコに話しかける。
この問いに対して、まずは苦々しい沈黙で答え、次に沈んだ声で答えた。
「お恥ずかしい話かもしれませんが、確かに我々は精霊様の御加護の下で長久の平穏を得られます。しかし、この町では……我らとて、立ち働かねばこの住まいを維持してゆけぬのです」
「精霊様も融通が利かないわねぇ。魔界のガカン大陸とかになら、まだたぁっくさん自然が残ってるわよぉ? 移住したらぁ?」
「移住など、とても。精霊様の御意思はこの地にあらせられます」
「お前たちはそれと融合してるんでしょう? なら精霊様の意思も、少なくとも半分は自分の意思じゃない」
再び、沈黙。
だが言いづらいことを言いづらそうにしている様子ではない。
むしろ、何かを堪えているように感じた。
今まで何度もそうして来たかのように、それが習い性となっているかのように、彼は我慢していた。
「……この地が鉱山として開拓される前、近隣には豊かな森が広がっていました」
しかしその声はあくまで穏やかで、冷静で、それでも激しい感情がありありと込もっていた。
「我々はその森に住んでいたのです。しかしアンガナス山が鉱山として開拓されると、まずは山の木が残らず刈り取られました。押木の木材として、住まいや建屋の建材として、そして膨大に必要とされる燃料として。いつしかそこには町が生まれ、人が増え、さらに多くの木材が必要とされました」
アンガナス大鉱山を最初に拓き、支配したのはナールトゥル家という豪族である。
町を築き経済の基盤を作り上げたのも彼らであり、統王やベルゼット家らゴン・ガンク族はそれを奪い取り、引き継いで経営しているに過ぎない。
「人々によって森は伐採され、獣は狩られ、水源は囲われ、空気は汚されました。この町は、我々の森を奪ったのです」
ほんの百年強程度の過去、ワウコはおそらくその全てを見届けてきたのだろう。
「しかし、我々に一体何ができましょう。ドライードはあくまで精霊様と共に生きてゆくための知恵……武器持て戦うことなど出来ませぬ。ならば故郷の残滓そのものであるこの地に根を下ろし、適応し、我々自身に問うしかないのです。『生存という戦いに勝利できるのか?』と。我々の森を奪ったこの町で生き抜くことこそ、我々の戦いなのです」
細く、弱々しく、病んでいても、木は木なのだ。
他者から見てくだらなくとも、むしろくだらないからこそ、それは信念とも呼べるものとなる。
「あの子は、我々がこの町に住まうようになってから生まれた『森を知らぬ世代』の一人です。尊号名こそあれ、彼らの精霊様は歪で、弱々しく、いともたやすく乱れてしまう。ゆえに、あの子らは脆い……」
確かに虚弱な印象があった。
アイランが伝え聞くドリアードは本来生命力と活力に溢れ、植物の静けさと烈しさを併せ持つ強靭な存在であったはず。
最も苛烈な生存競争は動物ではなく植物が無音のうちに繰り広げている。その強さを備えた種族だったはずだ。
しかし現実のドリアードは弱々しく、ドドラドの輝きもまばら。
彼らは変わりつつあるのだ。そしてやがて、変わったことすら忘れ去るのだろう。
「ですがまだ、我々は生きています。ここで、懸命に、ドリアードとして」
建物の外縁を回った回廊の先のドアを開く。
その先に広がっていたのは、まさしく森そのものだった。
敷き詰められた土には小石と葉が混ざり、小さな虫たちが蠢きながら木々を登る。
埋め尽くすとりどりの雑草は天窓からの陽光を受け、葉を伝う朝露を輝かせる。
横切る小川はせせらぎの音を以って、木々から響く鳥の声を優しく包む。
壁を覆い尽くす緑色は蔦植物やシダ植物に、寄りかかるように生えた生きている木々。
一つの広大な建物の空間を一つの森として再現した空間が、そこにはあった。
どの農園とも再生林とも異なる、自然そのものな森の一区画をそのまま切り取って運んだような場所がそこにはあった。
森の明るさも昏さも、じめじめとした不快さも輝く陽光の快さも、全てを収めて良しとする雄大さ。
しかし隙間なく詰まった小さな命と大きな命たちの微視的な躍動もまた共存した有様は、まさしく完璧に整いながらも歪み合い、互いにぴったりと密着し合って押し合うことで成立している食物連鎖の大自然。
一つ一つの命がありのままに、自分勝手に生きるからこそ生まれる奇跡的な調和が、間違いなく眼前に広がっていた。
そしてその中に、ドリアード人たちがいた。
ただ歩いている者、ただ立っている者、壁や木に寄りかかって眠っている者、瞑想のような姿勢で陽の光を浴びている者、様々だった。
老人も、若者も、男も、女も、子供もいた。皆穏やかで、満ち足りていた。
子供たちなどは横たわる木を遊具としてはしゃぎ遊び、背の高い雑草に身を隠して心躍らせていた。
そこはまさに、彼ら全員の"家"だった。
この光景が、かつてはアンガナス大鉱山の周りでごく当たり前に存在していたのだろう。
彼らが生きるべき、本来の場所として。
その光景に、アイラン・ヘルゼンデルですら心を打たれた。
"兵の魔女"になる前の、既に消えてしまったはずの原風景。
無邪気なるままに、自然のままに楽しみを求めて振る舞うは今と同じだが、あの時は決定的に何かが違った。
幼き少女だった頃にしか存在しなかった、無垢なる光。
失われた光がたった一瞬だけでも、彼女の心に差したのだ。
彼女の魂の奥底で眠っていた数多の意思を、つまびらかに照らし出したのだ。
「そう、そうだったのね」
その時ようやく、彼女は全てを理解した。
「ワウコ、デイジー」
訊ねようと思っていたことはもう必要ない。
既に、答えてもらったから。
ここに来た目的も必要ない。
既に、答えは得ていたから。
一条だけの、一条だけでも、涙を伝わらせながら彼女は告げる。
「犯人がわかったわ」




