厠にて
「その時は近い!」
絶叫にも似た声が講堂の壁と天井に反響する。
黒い旗が掲げられ、その前に五十人ほどがかしづいていた。
皆同じ服をまとい、視線を伏せ、頭を垂れて沈黙を守っていた。
黒地の旗に描かれているのは赤い鳳。
旗を掲げているのは──
「ヤザレ劫火大師の預言は告げている! 終わりの始まりに備えよと!」
──モートだ。
「『青き炎涌き出でる山に血雨さんざめき、愚者が怒りに喚き立ち、偽預言者が倒るる時、炎と恐怖が大地を薙ぎ払うだろう』。アンガナス大鉱山に降りかかる業災の予兆は来たれり! 銘々らよ、破滅に備えよ、善を行使するのだ!」
後ろで篝火が上がる。
火の粉が天井まで届くような巨大な炎が、集った全員を煌々と照らす。
その光と熱に全身を包まれ、人々は感嘆の声をあげた。
それはまるでうめき声のようでもあった。
「赤い鳳は舞い降りる! 昏き穢土に舞い降りる! 輝く焦土に舞い降りる! 舞い降りる舞い降りる舞い降りる! 灰の海に舞い降りる! 塩の山に舞い降りる! 煙の中天に舞い降りる!」
これ以上ないというほどに高く掲げられた旗が揺らめき、はためく。
炎の熱風とモートの手によって飜る旗の中では、赤い鳳が蠢いていた。
その様は、まるで羽ばたくように。
「迎えよ諸君! 我らは今まさに! 炎の到来を最前線で感じるのどぅあああぁぁぁーーーーっ!!」
目は血走り、怒声は火焔のごとく。
呼応して人々は拳を天に突き出し、吼えた。
全身と魂に刻まれた本能の行動にして咆哮。
それを全身に受けながら、モートは篝火に旗を投げ入れる。
熱狂は渦となり、熱となり、篝火の熱さと渾然一体を為す。
旗に染み込ませた油が引火して炎がさらに高く、爆発するように広がった時、歓声は最高潮に達した。
降り注ぐあらゆる熱を受けるように両手を広げ天を仰ぐモートの顔には、恍惚が浮かんでいた。
その表情すら群衆にとっては燃料だった。
歓呼の声が鳴り響き、それはほとんど暴動に近い熱狂だった。
「ふーっ、興行の後は催すわい」
十数分後、モートは厠の中にいた。
今日の公演は上々。寄進や貢物の量はアンガナス支部始まって以来の絶好調だ。
パドミ拝火教と異なり、ヤザレの拝火教は勢力化したのは比較的最近。つまりは強固たる支持基盤を持たない。
それに代わり、社会不安を経験するたびに着実に力をつけてきたたくましさがある。
世が乱れれば不安が起こる、不安が起これば未来を知りたくなる、未来を知りたくなれば人の話を聞きたくなる。
特に断定的で強く、大きな声であればあるほどよい。その際は中身など重要ではないのだ。
ここ数日の稼ぎは凄いぞ。後で数えるのが楽しみだ。
そのように考えながら、汲み取り便器に向けて屈んだ。
直後、後ろでドアが開かれる。閉めたはずのドアだ。
一体何かと尻を丸出しで屈んだまま、何の気もなく振り返る。
そこに、黒い影が立っていた。
一瞬、その正体が理解できなかった。
自分が見ているものが何なのかを解することができなかった。
己の見ているものが人間であり、その口元で光るぬらついた牙であり、爛々とした両目の輝きであると理解できたのは、一瞬後のことだった。
「はぁい」
軽やかに挨拶するような声が投げ込まれることで、その一瞬は消費された。
とっさに立ち上がりかけるモートの背中に前蹴りがぶち込まれる。
倒れながら奥の壁に頬を擦り付け、痛みにうめき声が上がった。
その間に人影は厠の中に押し入る。後ろ手でドアを閉め、少し力を込めれば木枠そのものにドアがめり込み、二度と開閉できなくなった。
痛みと衝撃で倒れたままもがくモートの襟が掴まれ、強引に立たされる。
その時ようやく、彼は人影の正体を見た。
「貴様……!」
全身黒の薄手のローブ、帽子には薔薇の紋章、顔に浮かぶ美しくにこやかな笑み。
"兵の魔女"アイラン・ヘルゼンデルの姿である。
「お前に聞きたいことがある。答えてくれるわよねぇ?」
襟首を掴み壁に押し付ける力は、片手でも完全に大の男を壁に釘付けていた。
どんなに身をよじっても手の位置はびくとも動かない。抵抗など絶対に不可能だった。
「誰が!」
そのような状況でも抵抗の意思を示す。
しかしそのような事態、殺した人数よりもはるかに多く経験してきたのだ。
「ここなら二人っきり。観客に気を使う必要はないわよ?」
牙の並んだ口が開かれる。
「そ・れ・と・もぉ」
突如、凄まじい激痛にモートの全身が硬直した。
体が一本の棒になったかのように、全ての力が意図せず総動員されて仰け反ったのだ。
何が起きたかは目視せずともわかる。丸出しの局部が握り込まれたのだ。
それも、ぶら下がっているもの全てをまとめて。
「女同士でお茶でも嗜みながら、おしゃべりしましょうかぁ?」
「わかった! わかった! は、話す! 話すから離せっ!」
「いーのよ無理しないで。女の子のこと、お姉さんが手取り足取り教えてあげるから」
絞め付けが増す。
血管や肉が軋むような音が、感触として生じるほどに。
「や、やめろォッ! やめてくださいぃぃ!」
顎はがくがくと震え、目には涙すら溜まっている。
それを舐め取ることで哀願を受け入れた証とし、二玉と一本を手放した。
緊張状態かはたまた緊急事態から脱し、体から力が抜ける。
息を切らしながら滝のように脂汗が流れ落ちる。
昼、無明派の寄宿舎では怒るフリをしながらアイランの美しさに内心舌なめずりもしていたものだが、そのような欲望は全て吹っ飛んでしまった。
「はいはい気を取り直して、さっさっと答えてねぇ〜」
頬をペチペチとはたいて無理矢理意識を引き戻す。
現実に引き戻され股間の痛みが増しても、容赦などは一切されなかった。
「一件目の被害者、お前のところの信者だけど、そいつについて教えなさい」
問いが投げかけられ、理解する。それからは早かった。
ぼやぼやしていたならば、同じ痛みが再び与えられるであろうことは火を見るよりも明らかだったからだ。
「な、名前は……キジィヤッツ。双尾族、男、歳はわからん、仕事は大工だ。二年ほど前に、街頭勧誘で、信者に……」
「熱心だったかしら?」
「さあ……よく顔は出していたが、仕事を嫌っていた。教団で、出世したかっただけかもな……」
少し落ち着いてきた。
大きな問題なく話せる程度には、であり、小さな問題は未だ山積みであるが。
「天核教との関係は?」
「し、知らない……本当だ」
「ま、興味ないわよねぇ。宗教者には二通りいる。信者の信心に興味があるタイプと、信者の清貧に興味があるタイプ。お前の部屋を先に見せてもらったけれど、明らかに後者のようねぇ」
「そ、それが……どうしたっ」
その時、モートの目に一瞬力が戻った。
涙は流れている。汗も溢れている。瞳も揺れている。
だが、それでも、そのままでも、目は魔女を睨みつけていた。
「人間は……神に従うのではない、救世主に従うのだ。神の言葉を唱えているのではない、信頼する者の言葉を唱えているのだ。神の法を尊んでいるのではない、人間の権威に縋っているのだ。結局、人間は、人間にしか従わんのだ」
アイランは静かに聞いていた。
力は緩めぬまま、笑みは崩さぬままで。
「奴等は、神に捧げているのではない、人間に、我々に捧げているのだ! ならば受け取って何が悪い。俺は神への捧げ物を横領などしていない。初めから、俺の言葉、俺の仕草、俺の仕掛け、俺の声、俺の人間性に、奴等は惹かれているのだ。その俺が"たまたま"ヤザレの拝火教に所属していたから、奴等もそこの信者になったに過ぎないのだ!」
「まっ、確かにそうでしょうね」
手首をひねってより強く首を絞める。
細いうめきと絞り出される息は、反抗の意思をほんの少しでも示した代償、おしおきだ。
「でも、神はいるわ。お前の命を掴み、お前の尊厳を躙り、気まぐれのままお前の何もかもをはるか絶頂へいざなうことも、奈落へと奪い去ることもできる。それも、指を一本立てるだけの労力でね」
とん、と人差し指の背がモートの喉に触れる。
一切の誇張なく、この指が立てられたなら喉の肉は気道ごと千切れ飛ぶだろう。
「さあ、神の前に告解しなさい。気が向いたなら、許してあげるわ」
見開かれた両目がモートを貫く。
巨木の丸太のような視線の圧力が、己の体を一撃で消し飛ばしたような錯覚を覚えた。
同時に魂の奥の奥まで引きずり込まれ、冷たい炎で焼き尽くされながら凍らされるような感覚。
凍った背筋に、玉も一瞬に縮みあがり、なのに熱い汗が噴き出す。痛みという形でも苦しいという形でもなく感じる、生命危機への本能的直感だった。
彼女の顔は、初めて笑っていなかったのだから。
両目を固くつぶり、何度も頷くしかなかった。
その直後には、いましめは解かれた。
緩んだだけではなく、襟を掴んでいた手そのものが離されたのだ。
意図することなく、体を曲げて数度咳き込む。
もはや拘束など必要なかった。彼にとっても、彼女にとっても。
「被害者と天核教の関係は?」
「ごほッ、ごほッ、ヤツの妹が信者だッ、それで喧嘩が絶えなかったらしいが……ヤツ自身は何故か無明派に興味を持っていた。三十日ほど前に、どんな連中なのかを訊かれた程度だがな……」
「ふぅーん」
いかにも興味なさげな相槌だったが、その意図を探るのは許されていない。
この空間では魔女が訊ね、丸出し男が答える。それだけが許されている。
「三件目の事件」
「……何?」
「三件目の事件、工業地区の粉砕機のそばで起きたやつ、お前は現場に行ったかしらぁ?」
「行ッ、くわけがない。俺たちは……不安を煽って信者を増やすだけだ。死体の確認ぐらいはしても、現場に立ち入る意味など」
「そうよねー、あんな場所行く意味ないわよね?」
発言の意図を、モートは推し量りかねていた。
魔女は顎に手を当て、うーんと考え込むそぶりを見せている。
いかにも隙だらけのように見えるが、それを突こうという気にはならなかった。
それが人生で最後に思考することになるであろう、とたやすく察せられたからだ。
「いえ、ここからはただの独り言みたいなもんよ。ここに来る途中で三件目の現場に寄ってみたんだけど、案の定だったわ。広がった血の匂い、へこんだ粉砕機、さすがにタバコの灰は残ってなかったけれど、なーーーんかねぇー」
帽子のつばを押さえて据わりを直す。
「カーギ・カリンの原理主義派寺院にも寄ってみたのよ、穏健派の連中だけどね。二件目の事件は連中が被害者だったから、今よりもうちょっと穏やかな方法でお話したのだけれど……三件目の被害者が訪ねてきていたらしいのよ、死ぬ三日前にだけどね」
モートはただ黙って聞いている。
言葉を挟んで良いのかわからなかっただけではなく、挟むべき言葉そのものも思いつかなかった。
「二件目の事件のこと、いろいろ聞いていったらしいわ。被害者の家族の名前とか、居場所とか、死体の状態とか、検視結果とかね。家族は被害者の葬儀が終わってすぐ町から出てっちゃったみたいだけど」
そこまで言ったところで出し抜けに「そうだ!」と声をあげて迫る。
奥の壁に手をつき、顔と体でモートを際に追い詰めた。
「キジィヤッツの顔に木目の焼印が捺してあったのよね? 実際にはどんな感じだった?」
「じ、実際に、とは、どういう?」
「だからぁ、木目が粗かったとか、焼き目にムラがあったとか、焼印の周りがただれてたとか、縁が欠けてたとか、そういう変わったところはなかったかしらぁ?」
「変わった、ところ……そ、そうだ! 俺もおかしいと思ったんだ、今じゃ木目の焼印なんぞやってないから道具の用意がないんだろうと思っていたが、カーギ・カリン全盛時代の本物の木目の焼印はあんなじゃなかった」
「具体的にはぁ?」
「木目の本数が、少なかった。焼きムラもあったし、線自体も歪んで不揃いだった。あれじゃ木目というより草履の足跡だ」
「ただれは?」
「ほとんど無かった。焼印ではあったが、染め付けたみたいに、輪郭ははっきりしていた」
視線を巡らせ、少し逡巡。
やがて納得がいったかのように「あー、あー」と上ずった声を漏らすと、壁に押し付けていた掌を持ち上げた。
それは当然、モートの顔面へと向けられていた。
「試してみていい?」
答える前に、改めて突き出される。
「ちょっ」などと口をすぼめて身を縮める暇すらなく、掌は打った。
熱が伝わり焼ける音が伝わる。押し付けられ、焼き付けられ、掌が離された時には影のような形だけが残った。
厠の壁に。
「こ、これだ」
壁に焼き付けられた跡を見上げ、モートが戦慄する。
そこにあるのは、太く、歪み、不揃いの木目のような焼き跡だった。
ほぼ同じものを、彼は見たことがある。
「あの焼印は……魔法で焼き付けたものだったのか」
彼の心からの感嘆の言葉に、アイランは満足げに微笑んだ。
来た時と変わらない、にこやかな笑顔だった。
「邪魔したわねぇ」
それだけ言い残すと、ドアをもぎ外してあっという間に立ち去ってしまう。
本当に、全てがあっという間の出来事。モートはただ一人、厠の中で下半身を露にしたまま立ち尽くすほかなかった。
ただ一つだけ実感したのは、助かったのだということだけ。
それに気づいた時、思わず小さく、力も無き笑いがこぼれた。
何の意図もせず、ただ無意味に漏れてしまっただけの、由来の自覚もない笑いだった。
「引っ込んじまったよ、クソなんざ……」
もはや憎悪も怒りも、そのフリすら残ってはいなかった。
ひたすらに虚無。それは悟りにも近い心境だっただろう。
彼の彼らしさなどは瞬く間に吸い上げられ、貪り尽くされてしまった。
恐怖に。
夜に。
闇に。
そして厠の悪臭に。




