過去にて
コードラン・ヴァルグホーン・ハーバント。
彼が魔界を統一してから少し経ったある日、いつものように玉座で臣下らの陳情を受けていた。
魔界の住人らは皆我が強く、独立心と反抗心に富み、なかなか折れない。貴族や有力者、富裕者ならばなおさらである。
そんな彼らを一つの完全なる律令の下で統一しようなどと、なんとも愚かしいことではないのか?
これほどまでに好き勝手やりたがる者たちを一つの旗の下で統制するなど愚策の極みではないのか?
そのことを、彼は日々痛感していた。
彼らを専制によって統治することのバカバカしさに、うんざりし始めていたのだ。
当面はなんとか頑張れるだろうが……このままでは、魔界の支配など二十年も保たないだろう。
なんとか、しなくては。
そのような鬱積とした想いを抱えたままでも、手際よく陳情をさばいていた時だった。
近衛の者がぱたぱたと走り寄ってきて、耳打ちしたのだ。「妙な男が来ております」と。
「妙、とは?」
「中年の現界人で、身なりから魔道士会の者と思われますが、謁見の列に並んでおきながら、後ろに人が並ぶと次々に順番を譲って常に最後尾につくのです」
「身はあらためたのか? 不審な素振りは?」
「大きな本を一冊所持しているのみで、挙動不審なところもありません。妙なのはその男、それをし続けて謁見の時間が終われば大人しく帰ってゆくのです。しかもそれをもう、この三日間続けているのです」
「今日で四日目ということか?」
「左様です、さすがに、お耳に入れなくてはと……」
「ふぅむ」と小さくうなって顎をさする。
だが、逡巡に割いたのはものの三秒程度だった。
「よし、会おう。謁見が終わるまで引き留めておけ」
「はっ」
敬礼をとって承服の意を示し、玉座の間の外まで下がる。
そして、数時間後。
客たちが全員帰ったあとで、その男は魔界王の前に姿をさらした。
その風体はおおよそ近衛が申した印象とかけ離れることはなく、中年の地味な魔法使いといった風情であった。
左腕に大きな本を抱え、中年ながら早くも背が曲がり始めているその姿は、どこからどう見ても生粋の学者であった。
「何者か」とまずはできるだけ威を減じた声色で訊ねてみる。
「わたくしは、モラッヴ地方ブレーンの修道院長で、同地の魔道士会員も務めております、グレンゴン・メンデルと申します」
男の声まで、冴えなく沈んでいた。
「天核教大寛派の教徒か。だが修道服ではなく魔道士会の服を着ているな」
「本日の上奏内容に相応しき装いにて……」
「面を上げよ」
顔を上げるよう促す。
彼がそのようにすると、ますます普通の男のようであった。
「ここ数日、奇妙な振る舞いに及んでいたそうだが、なにゆえか?」
「上奏内容があまりにも重大かつ、おそれながら多大な時間を頂戴せざるを得ないものであるためです。魔界王様の貴重なお時間を多く割かせてしまうことは避け得ないにしても、せめて私の後ろに並ぶ者たちの時間は、と愚考したゆえでございます」
「そのように王の時間を割くほどの価値というのは、その本か?」
「左様でございます」
言葉そのものは淀みなく出てきている。
あらかじめこちらの反応を予想し、受け答えを用意してきているということか。
ならば、その知性と知能に大きな問題はあるまい。
「いいだろう、述べてみよ」
判断を下し、許可を下す。
男は少し深めに息を吸うと、すぐに始めた。
「わたくしは現界の生まれでありながら疫病で故郷を追われ、魔界に流れ着き魔道士会の庇護を得ました。恩師スゥガ・タムト師のすすめで現地の修道会に入信し、修道院で生活を安定させながら学問を修め、精進して参りました。
その恩師が先年他界したのですが、はばかりながら彼の思想と研究は魔道士会の中であってさえ極めて異端であり、彼の遺産を継承しようとする者はわたくし以外にいなかったのです。彼の研究の全貌を知る者はそれまでなく、わたくしでさえ遺産の内容は受け継いでから知ったのです」
スゥガ・タムト。その名は当然、聞いたことはあった。
多くの魔道士たちはその名を忌み嫌っていたり、気まずそうにしていた。
そして皆が、はぐらかしていた。どうせいずれ消える腫れ物なのだから、触れる必要などないではないかと言わんばかりに。
「その全てが、この本にまとめられております。彼の直筆で、これは彼の研究論文であり、考察書であり、儀式書であり、全てです」
男がひざまずき、本を両手で掲げる。
「本日は、これを献上奉るために参ったのです。是非とも、この場で一部でも目を通していただきますよう」
王が近衛に目配せをすると、代わりに本を受け取り、主人の下へ運ぶ。
持ってみると、見た目相応の重さがあり、ページは初めの方から古く、後の方は新しくなっているようだった。
これが写本などではなく、長い長い時間をかけて付け足されながら綴られた原本であろうことは疑いもない。
題字の刻印では『向進論』。著者の表記はスゥガ・タムトの頭文字だけだ。
重い表紙を開き、中身を読み始める。
内容は散文形式で、研究の主題にも文章の主題にも統一性がなく、非常に幅広い研究分野について記してあった。
全体的な構成はめちゃくちゃではあるものの文章自体は整っており、研究についても図解や挿絵が多く使われ、一つ一つの要素について理解はしやすい。
それらの要素が全てバラバラで脈絡なく連なって書かれているので、論文というよりは詩集に近い書物と言えた。
問題は、中身だった。
生命に対する研究では動物実験や人体実験の記録や、それに基づいた考察や理論が記してあり、天文学では神秘論的な観点と科学的観点の矛盾をどちらも肯定していたり、社会学と行動心理学に於いては人心掌握術や洗脳術、魂感応の物理的な原理解明と応用による汎用化の可能性に言及。
宗教学では人身御供を積極的に用いて社会の精神を正の方向へ指向しながら行える優生論、人工進化について描写され、ついでのように「進化」という生物学的な概念についての解説が挟まっている。
宗教的儀礼と伝承の整合から神秘的存在の実在にまで触れており、生物の究極的な進化が宗教的な終末論を体現するだろうとまで記されている。
突拍子も無い理論、生命に対するえげつない実験、科学的とは言い難い神秘論が頻出し、あらゆる角度から「生命」という概念の解明を希求した結果、あらゆる薬も毒も区別なく詰め込んだという代物となっていた。
二時間ほど、コードランはそれを読んでいた。
その間、男はずっと立って黙って待っていた。
おおよそ半分ほど読んでから、本を閉じる。
その顔は険しく、睨んでいるとさえ言ってよい表情を男に向けた。
「お前の師は、正気か?」
声色には、怒りと驚きが等量混ぜ込められていた。
男は申し訳無さそうに視線を伏せる。
「おそれながら、正気とはとても言い難い御仁でありました」
「あらゆる魔道士に忌避される理由もわかるというものよ。ここに書かれていることの半分でも実行されたなら、社会は完全に崩壊するぞ」
魔界王になってから。もっと言えば統治者になってから、まだそれほど深い経験を重ねていないコードランだったが、確信していた。
人を贄とし、人を試し、人で試み、人を意図して作らんとする理論を、多くの者が理解せず志向のみで実践したならば。
生まれるは阿鼻叫喚の混乱。冒涜し尽くされた生命と人倫の上に、虚無のみが横たわるだろう。
「まさに、そこが問題であるがために献上に参ったのです。その書の多くは危険なとんでも論にて構成されておりますが、科学的な正しさを持った部分も多くございます。その科学的に正しい部分を以って余人がその書の全てを盲信してしまいますと、恐ろしきことに手を染める輩が続々と現れるは必定。故に私は今、その書を大幅に添削し『科学的な正しさのみ』で構成した修正版の『向進論』を発表するつもりです」
「それで、危険な原本を俺に託そうというわけだな」
「はい。無論、修正版の『向進論』の原稿も、まずは魔界王様にご覧いただきたく思います。単なる一介の学者に扱いきれる領分を、この書は大幅に超えておりますゆえに、慎重に扱わねば……」
コードランが最も怖気を覚えたのは、社会学の一環としての専制君主という概念についての部分だった。
君主とは現代ではこうあるべきという徳治政治の形態を支持しつつも、未来に於いては君主の宗教的・文化的権威や血統的・血縁上の権威よりも、経済的権威と律令の権威としての側面を重視し、法制度による支配と民生の安定化を基軸に置くことになると記してあった。
それはまさに、彼が目指している最終形態そのものであった。
しかもこの論では更にその先の予言として、君主の権限の縮小に伴う民政優位が進行し、軍事的優位は君主の国内権力に於いて大きな意味を為さなくなり、権威を構成する一要素に成り下がるだろうとも。
そのような時代にあって専制的権力を極大に維持するのであれば民すべてを麻薬中毒者がごとき骨抜きにし、国としての弱体を甘んじて受け入れるほかない、と。
君主は国家にとって歯車の一つに過ぎず、更に言えば国家そのものが生活の歯車の一つに過ぎないため、飢餓や病や争乱等の喫緊の事態ではそれらは軽んじざるを得なくなるだろう、と。
いずれ全ての幻想が消え去った時、新たに求められるくずのような幻想が社会に混乱をもたらしながら、新たな集団、新たな国家、新たな分裂を生み、社会と国家の定義とともに人間の根本が変容し二度と元に戻ることはないだろう。
その時、国家とも呼べぬ各小集団を構成する主体は、君主でも貴族でも役人でも宗教でも軍でも経済でも国民でもない、情報だろう、と。
国家という一つの巨大な枠組みと社会が同一だった世界から、分裂に分裂を重ね、分かたれ尽くした各小集団が情報という細い糸のみで繋がった、その群れと繋がりそのものを社会と呼ぶ世界になるだろう、と。
それら全てに、納得し、首肯できてしまう。だからこその恐ろしさだった。
一つ正しければ、全て正しいような気がしてしまう。
そんな危険な魅力──魔力とさえ言ってもよい恐ろしさが、この本にはあった。
「……他に誰も、知らないのだな?」
気づけば、汗が滲み出ていた。
いずれ到達すべきかもしれない知識と、決して至ってはいけない知識が混沌とした状態で並べられたこの本の危険性は、誰にも明らかで、誰にも明らかにしてはならなかった。
「お前の他に、誰もこれを目にした者はいないのだな?」
口調も強く、声も荒くなる。
しかし、男は沈黙を返した。
視線を伏せ、答えなかった。
それが、答えだった。
愕然として、玉座にもたれる。
「ひとつ、おそれがあります」
視線を伏せたまま話し始める。
これから叱りを受けるのを覚悟しながら、いたずらを自白する子供のように。
「わたくしも、にぶい男でして……つい先日、思い至ったのでございます。スゥガ・タムト師の遺産の引き継ぎ申請を魔道士会に提出してから、実際にこの本が引き渡されるまでの間、妙に待たされたことに」
顔を上げ、眉をひそめた表情をさらす。
「通常であれば、引き継ぎは申請してより三日か四日で完了するもの。しかしあの時は丸々八日間も待たされました。当時は手続きに時間がかかっているのだろうと解釈しておりましたが、この書の中身に対する驚きと研究欲も収まってきた頃に、もしや、と」
「何、まさか」
「御察しの通りです……写本が存在する可能性が、ございます」
スゥガ・タムトに家族はいない。
よって、彼の遺産は魔道士会が一旦預かり、引き継ぎ資格を持った者──大抵は遺書にて指定された相続相手か、故人と近しい会員──から申請があり次第相続される。
だが、八日間。実際にスゥガ・タムトが死去し、遺産が回収され引き継ぎ申請可能となるまでの期間をあわせれば十日前後。
誰かが手続きを停滞させ、写本を作成することは十分に可能な時間だ。
「しかし、これは推測に過ぎません。本当に手続きに手間取っていただけかもしれませんし、そうではないかもしれない、可能性の話なのです。どちらについても確証はありませんし、当時引き継ぎに関わった者たちを特定することも不可能です。犯人は相続作業に関わった者ではない可能性すらあります。そもそも、犯人なんて存在するのかさえも」
「だが、重大な可能性だ」
「おそれながらわたくしもそう思い至りました。あやふやだから、確証がないからという理由で見過ごしてよい問題ではありません。修正版の『向進論』は出版いたしますが、写本の存在は、その可能性だけでも社会にとって非常に危険です!」
「その写本を、俺に探せというわけか」
今度は目をつぶり、申し訳なさそうに「はい」とうつむく。
己の情けなさを恥じているのだろう。
確かに、この者は手抜かりをした。
危険な可能性に思い至るのが遅れたばかりか、それを信頼できる者に相談するのも遅れた。
いや、そもそも本当に信頼の置ける者などこの者にとってはいなかったのかもしれない。
だが何はともあれ、彼は恥を忍び、無茶を承知で、重大な秘密を初めて会ったであろうこの俺に明かし、頭を下げて頼んでいる。
それはそれで、立派な在り様だ。
「いいだろう、お前の信頼に応えよう」
力を込め、本を投げる。
ぶつけるようにではない。
受け止められるようにである。
「ただし! 原本はお前が隠すのだ。場所は俺以外の者に決して教えるな。そして手に入れる方法や仕掛けは俺にすら教えるな」
男はよろけながらも本を受け取り、誓いを立てるかのように掲げながら「ははっ」と畏まった。
「頼んだぞ、グレンゴン・メンデル」
そして最後に、彼は栄誉を授かって厳かにこの場を後にした。
コードラン・ヴァルグホーン・ハーバントに名を憶えられるという栄誉を。
扉が閉じられた後、魔界王はため息をついて天を仰いだ。
「今の話を、聞いていた者」
近衛たちが一斉に振り向く。
「お前たちには今この時より"禁忌の守り手"として、かの本を守護し、監視する任を与える。詳細は追って沙汰するが、ただちに近衛の務めより外れ、沙汰あるまで謹慎せよ。口外や記録等は以ての外である」
突然の下知だったが、総勢八名の近衛たちは即座に実行した。
命令を了解した証として敬礼を示し、淀みなく無駄口もなく退出する。
見上げた忠誠心の持ち主たちだ。だからこそ近衛なのであるし、新たな任務も任せられるのだ。
そうして、コードランは完全に一人きりとなった。
背負うものの重大さが日々増え続けていく立場である。
その疲れを感じざるを得なかった。せめて、数秒ぐらいは。
「議会制、か」
だが、同時に考えてもいた。
あの本の中に、いち政治形態としての議会制というものが紹介されていた。
重ねて思い出すのは、その例に類似していたといえるマンマート豪族連合の合議制。
最終的には形骸化し単なる虚仮となっていたが、実際に運用された議会制としては参考に値するだろう。
あの制度もまた、本来バラバラであった各部族や各勢力をなんとかまとめようという苦慮の末に生まれたものであることは想像に難くない。
ならば、あれを参考に改良を重ね、最終決定権と軍権だけは最低限確保されるよう調整したならば──
「──存外、悪くないな」
ふふっ、と小さな笑みがこぼれた。
周りに誰もいないからこそ、つい漏れたのだとわかる笑いだった。
これ以降、魔界王は己の隠密の手によって『スゥガ・タムト写本』を探し始めることになる。
統王となってからは魔女協会にも探させ始めた。
魔道士会にやらせては、犯人に気づかれる危険があったからだった。




