冬の回想 後
「──上を以って、ノクザミ・フォーソーヤ提督の疾患様とした精神的問題が存在していたという証明とし、『アザンタク海峡海上戦』に於けるケレイヤク朝の敗因の一つであったとする」
組んだ足を惜しげも無くスリットから放り出しながら、シーラは言葉を紡ぎ切った。
横向きに座り、机に右ひじをついて頭の箱を支えるその姿は、悠然としたものだった。
彼女の向いている先で、羊皮紙にインクを擦らせる音が響く。
ただし、筆記している者は人間ではなく、使っているのもペンではない。
可憐な擬皮を脱いだヘリルメリアが、体に具えた突起を直接インクに浸して論文を書いていた。
黒く、硬く、鋭い無数の突起から四本が正確かつ素早い動きで、一度に三行ぶんもの文章を書き入れている。
それらが最後の一文字を終えると、大きな突起をひとつインクに浸し、穴が空くほどの勢いでピリオドを突き立てた。
「リルメア」
姿勢も声色も一切崩さぬまま、一仕事終えたハンターに声をかける。
リルメア。それは彼女がヘリルメリアを呼ぶ時の、彼女だけが使う名だった。
「あなた、ここにきてからどれぐらい経つ?」
『76日です。憶えてますか? 昨日も同じこと言ってたって』
「まあ、そーね、ここも随分様変わりして、新鮮さにまだ慣れてないんでしょう」
少し首を傾けて部屋の中に目を向けると、そこはかつての部屋ではなかった。
綺麗に揃えられた本棚と本。
まとめられ、寝台横の収納棚にきっちり収められた付箋付きの書類束。
縦に積み上げられていた本は残らず、新たに買った隣の部屋に置かれている。
食器を始めとした生活用品は一つの棚の中で重ねられながらも、整然と、効率よく配置されていた。
床には本や書類どころか、紙の切れ端ひとつ埃ひとつ残されておらず、僅かなささくれすら切り剥がされている。
全体として、物は多く手狭であるとは言えるものの、その空間はヘリルメリアが来る前のそれとは全く異なる整頓ぶりだった。
少なくとも、どんな者であっても居住可能な部屋、という最低限はゆうに達成していると断言できるだろう。
「便利なもんね、ハンターってのは。殺し以外は能のない生き物だと思っていたわ」
『実際、そのための体です。でも、剣は敵を殺すのにも使えるし、肉を食べるのにも使えるし──』
筆記し終えた論文をかざしてインクが乾いたのを確認すると、軽くまとめて端を切り揃えた。
己自身の手で以って。
『──紙を切るのにも使えます』
切り揃えた論文の束を背中側の突起に受け渡す。
背中の突起は論文を挟むように持ったまま伸び、本棚の一つに差し込んだ。
ヘリルメリアはこのようにして、困難極まるこの部屋の整頓を成し遂げたのである。
無論、物の配置については全てシーラの指図通りであるが。
それでも、もう一つ部屋を買って物置にしようと提言したのはヘリルメリアであり、その点には小さな誇りも存在した。
「あなた、かのヴォロイスの奥方よね。ゴン・ガンクでは将軍の妻でもこういう些事に従事させられるわけ?」
師の憎まれ口にもだいぶ慣れたものだ。
確かに悪意なり侮辱なりが多少は含まれてはいるのだろうが、格別というほどのものではない。
若き頃より異質な怪物として畏れられながら白眼視もされてきた彼女の人生に於いてはむしろ、公平とさえ言えるだろう。
『いいえ、私は……あの人の、役に立ちたくて』
病で先立たれた夫──ヴォロイス将軍──のことを思い出す。
随分前のことのようにも、昨日のことのようにも、起きてすらいないことのようにも感じる。
彼と出会ってからの感情は全て、ありありと思い出せる。
胸が締め付けられるように切なくて、鈍い痛みが甘く刺さる。
この愛は、人間が感じるそれと全く同じなのだと確信できた。
「役に立ちたい、ね」
机に背を向け、両ひじを後ろに押し出してもたれかかった。
「だから私の弟子になったわけね」
「……え?」
畳んでいた擬皮を広げて、服のように着る。同時に本物の服も着ながら。
「あれだけ統王の殺戮に尽くし、共犯者としての勲功をほしいままにした男の妻なら、厚恩を賜って隠遁するのも、社交界で気ままに贅沢暮らしをするのも、どっか魔界の地方領でももらって60議会の参政者として権力を求めるのも、好きなようにできたじゃない。でもあなたは魔女の風下に回って、こんな狭っ苦しい部屋で小間使いみたいな雑用に甘んじている。木箱なんて被ってるイカレ女にこき使われてね」
「……」
「夫の存在を、感じていたいんでしょう。それが妻である自分の愛であり、役割だから。軍事を学びたいんでしょう。とっくに死に別れた男に、未だに尽くすために」
「そんな!」
だが、さすがにこれには一瞬、声を荒げた。
夫を侮辱されたのだと思ったのだ。
しかし、侮辱はシーラにとっては日常的なコミュニケーションである。
そこに格別な意味など無いのが通例であった。
その上、ヘリルメリアはその後に続く言葉を紡げなかったのだ。
何故だかぐっと心と喉と思考が詰まり、反論できなくなってしまったのだ。
「使命感、それがあなたの最も強い本質ね」
足を組み替える。
その姿にはいささかの緊張も見てとれない。
隣に座っている相手は、その気になれば一呼吸未満の時間で己を八つ裂きにできるというのに。
「いずれは、その荷は降ろしなさい。責任と使命感と愛、それは戦争を形作るほぼ全てのものなのだから」
76日という歳月。決して長くはないが、決して短くもない。
その中で蓄積したシーラの性格に対する知見が、彼女への反論を押しとどめさせた。
図星であったという以上に、彼女の言葉の的確さへの敬意が、安易な反撃を躊躇させた。
「お師匠様は」
代わりに、絞り出させた別の言葉があった。
「お師匠様には、無いんですか? そういうの、は」
ゆっくりと、木箱の奥の首がこちらを向いた。
穴の奥にあるはずの目は、見えなかった。
76日の間、ヘリルメリアはシーラの感情を100%正確に捉えられたという自信を持てたことがなかった。
憎まれ口と仕事への没頭という、木でできた箱型の鎧の奥が見えたことはなかった。
だが、この時初めて、彼女は師の感情を完璧に感じ取ったと思った。
ナン・シーラ=アル・バヴツ。
彼女は、呆れていた。
だが、相手に向けられたものではなかった。
ため息をつき、かくんと首を傾けて天井を仰ぎ見る。
それでも木箱はすっぽ抜けなかったが、心の鎧は、すっぽ抜けたようだった。
「そう、ね。私を駆るのも、使命感かもしれない」
声には力がなかった。
そのような声を聞くのも初めてだった。
力強い命令の声と、皮肉と悪意を叩きつけるようなひねた声以外の、普通の女性らしい、諦観と嘆きの混じった声だった。
「この前、あなたの話を聞かせてくれたわよね。そのお返しに、話してあげるわ」
つい三日前、ヘリルメリアはシーラに話していた。
不妊のこと、その治療を拒否したこと、父親のこと。
頭痛を起こしてタバコをふかしていた所に皮肉を言われたため、秘密を明かしていたのだ。
彼女にならいいか、と。
当の師はただ「ふん」「そう」と戦史資料を読みながら相槌を打つのみだったが。
「人間は、自分で自分を定義する生き物よ。自分とは何か、その本質を自ら定めることができる。それら本質の中で最も強いものは人によって異なるけど、あなたの場合は使命感。そして私の場合は──」
小さく息を吸う音が聞こえた。
人間の呼吸に敏感なハンターという生まれでなければ、聞こえていなかっただろう。
「──憎悪よ」
魔界、オードミク王朝が支配するトドミナ山ふもとの村で、ナン・シーラはバヴツ家の長女として生を受けた。
当時オードミク王朝では腐敗が横行しており、激しい内部対立で政治は疲弊、失われた統制の中で各勢力が手前勝手に跳梁するという混沌を呈していた。
だが国境の中でもさらに外れに位置する辺鄙なトドミナ山には中央の混乱も及ばず、人々はささやかながら平和な暮らしを営んでいた。
その中でバヴツ家は名主の家系であり、村民をまとめる歴史ある一族として姓を持つことが許されていたのである。
初子を意味するアルが名前に付け足されたのは、医者から健康だと認められた証でもある。
その見立て通りに、彼女は両親の愛を存分に受けながら何不自由なくすくすくと育った。
活発で強気だったが両親の立場をかさに着ることもなく、女児たちよりも男児たちに混じって遊ぶことが多かった。
村中を駆け回って石蹴りやかくれんぼに興じ、野山を走り、虫や小動物と戯れ、喧嘩には全力で応じ、ほぼ毎日どこかでつけてきた擦り傷や切り傷や泥んこと一緒に家に帰ってきた。
よく遊び、よく喧嘩し、よく食べ、よく寝る。
子供としてできる全てのことを彼女は実行し、有り余る元気と行動力で彼女は自然と男の子たちのリーダーのような立場になっていった。
とりわけ、彼女はかくれんぼが得意だった。
ある時男の子の一人が彼女にこう訊ねたことがあった。
「どうしてナンシーはいっつも最後まで見つからないの?」
彼女は胸を張って威張るようなこともなく、にっこりと笑って返す。
「最初に探したところにいるからだよ」
いつものことだった。
もっとも、彼女の賢さを他の子供たちが正確に理解できるはずはないのだが。
彼女はいつもそこらじゅうを走り回って、それで自分が傷つこうとも汚れようとも全く気にしない子供だった。
かと言って女の子たちから疎外されていたわけでもなく、むしろかっこいいとまで評されていた。
周囲の大人たちも微笑ましく彼女の元気ぶりを見守り、時折気まぐれながらも日々の労働を子供なりに手伝ってくれるまっすぐな性格を快く思っていた。
両親もこの快活さに突き抜けた少女には、女の子らしいお淑やかさよりも、もっと立派で豪快な将来があるべきだと信じていた。
ナンシー自身も、有り余る元気をただ思いのままに、ただそのままに放ち続ける素直さで人生を走り切れるのだろうと直感していた。
ある時、母が体調が悪くて休んでいる時、ナンシーが大喜びで抱きついてきた。
いつも元気な少女だったが、この時のはしゃぎようはよほど嬉しいことがあった時の異様さであった。
「どうしたの? 何かあったの?」そう聞くと、満面の笑顔で彼女は声を上ずらせた。
「だって弟か妹ができるんでしょ!?」
ぎょっとして、母は応える。「どうしてそう思うの?」と。
一転して、少女はきょとんとする。
そう訊ねられたこと自体が予想外だったように。
「だって、スンザさんのお腹に赤ちゃんができた時と、今のお母さんが一緒だから」
驚いて、母は己の症状を思い返した。
倦怠感、頭痛、精神面でのかすかな変化、腰痛──もしかしたら。
そう思い医者にかかってみたところ、妊娠初期の段階であることが判明したのである。
ナンシーは、それを感じ取ったのだ。
村民の一人が妊娠していた時の症状を記憶していて、自分の母親がそれに当てはまると診断したのだ。
本人も、夫でさえも気付いていなかった兆候に、6歳にも満たない子供が気付いていたのだ。
この子には凄まじい才能が秘められているのかもしれない。
医者や学者、魔法使いといったような、人々から尊敬される人間になるのかもしれない。
そのためには──読み書き計算を教育しなくては! この子の将来のために!
母の決意は父をも説得し、ナンシーは辺鄙な村の名主の娘に過ぎない立場でありながら、読み書きと算術を教わる家庭教師をつけられたのだ。
その教師というのが、家庭教師のアルバイトをしていた魔女の一人だった。
魔女は七日に一度、国境を越えたマンマート豪族連合支配下であるユマウクの街から一日がかりで来て、ナンシーに教えを授けた。
授業の間外に遊びに行けないのは彼女にとって苦痛ではあったが、たまに面白い知識を授けてくれたり、街の話をしてくれたり、お菓子をこっそりくれる魔女のことは大好きだった。
そしてそんな魔女のために、宿題にも励むことができた。
やる、と決めた時の子供の集中力は侮れないもので、嫌々だったことにも決意が伴った途端、大人でも及ばない力を発揮する。
持ち前の賢さとあわせて、集中力の鋭さを新たな才能として彼女は身に着けていったのだ。
彼女は家の外に出ればお転婆な子供たちのリーダー。
家の中にあっては元気さで家庭に明るい花と光を添える秀才。
誰もが、彼女には素晴らしい未来が待っていると信じて疑わなかった。
だが、運命は彼女により多くの学びを強要した。
学ばずに済むならそうすべきである現実そのものを。
人間の心のうちには、自分自身ですら思いもよらないような残酷さがあることを。
8歳のある夏の日、彼女はいつものようにトドミナ山にいた。
山菜をとるついでに虫を捕まえにいっていたのである。
たった一人だったが、山の中に恐怖を感じることはなかった。
ここは彼女にとって庭のようなものなのだ。
ふと、村の方が騒がしいなと思った。
お祭りの時の騒がしさに似ていたが、どこか違った。
何かあったのかなと軽い気持ちで原生林をかき分け、視界の開けた場所に出る。
その瞬間に、彼女の時は停止した。
村が、燃えていたのだ。
遠目からでもわかる、大きな火に包まれた民家。
騒がしさに混ざる音のひとつが悲鳴なのだと気づく。
逃げ惑う人々、倒れている人々。
その中に混ざる、見慣れぬ男たち。
再び時間が動き出した時、彼女は駆け出していた。
急いで山を下り、木々を落ち葉を踏み越える。
「なんで?」「どうして?」去来する言葉と感情に、泣きそうになる。
だが、声は出なかった。ふもとの茂みに着き、村の様子を間近に見て絶句したからである。
鳴り響く悲鳴と、男の怒号。燃え盛る炎の音に、わけのわからない金属音。
血を流した死体が転がっている。村はずれに住んでいるヨノークさんだとわかった時、口を手で覆った。
村中に病のように血だまりが広がり、焼け出された人が男たちに殺されて新たな血だまりに加わる。
悲鳴をあげて、赤子を抱いたまま炎から逃れ出てきたスンザさんが、あっという間に槍で貫かれ、倒れた。
その近くに転がっている子供の首は、彼女の幼馴染の男の子だった。
男たちは松明と武器を手に、村を蹂躙し尽くしていた。
男も子供も老人も見境なく殺し、家の中や陰では女たちに身の毛もよだつ行為を働いていた。
その目はぎらぎらと、飢えた獣のように輝いていた。
笑ってようと怒鳴ってようと、表情の違いなくその目は異常な興奮と麻痺に彩られていた。
蹴り倒した子供の胴に斧を振り下ろして両断する。あの子は、一昨日ナンシーに告白してきた子だった。
逃げる男性の背中に大振りのナタをぶち込んで、倒れたところをメッタ切りにする。あの人は、叔父だ。
顔も名前も知った人たちが、目の前で次々に殺され、嬲られている。
彼女が荒く息をつくたびに、汗を滴らせるたびに、その間も見知った命が破壊されている。
叫び声をあげ、恐怖に涙を流し、直後には声も光も失った"もの"としての顔になって、転がる。
男たちは兵隊といった風情ではなく、いったい何者なのか全くわからなかった。
こんな理不尽なことをしているというのに、この男たちは村人たちと全く関係のない人間なのだとわかった。
どうして? どうして? どうして?
涙が溢れこぼれ落ちる。
口を手で押さえ続け、嗚咽を殺す。
この光景が己の目に焼き付いていくのを止められない。
記憶が遡る。平和だった頃の村の記憶が。
あの人たちがまだみんな生きていた頃の記憶が。
その中に、家族の顔が浮かんだ時、はっと目が見開かれた。
そうだ、父さんと母さんは? 家は? 妹は?
ここで隠れている場合じゃない。
確かめなくては──帰らなくては!
思い立ってからは、生来の行動力と集中力が勝った!
茂みから家の陰へと忍び歩いた時には、もう村の凄惨な光景に意識を向けることはなかった。
男たちに見つからないよう家に帰り着く、それが最大の優先となったのだ。
最大の目的以外の全ては、ただ取り除いて──むしろ利用しなくては。
山が彼女の庭も同然なら、村は彼女の家も同然。
この村のどこになにがあるのか、どの場所がどの場所からの死角になるのか。
ナンシーは全てを知っていた。
時に潜み、時に大胆に駆け抜け、男たちの感覚を欺く。
屋根の上を伝い、床下を抜け、見知った死体の陰に隠れた。
村を燃やす炎すら目くらましに利用し、逃げる友人を囮としてまで家路を進んだ。
たった一人で、村の中を隠れながら渡り、ひたすら家へと向かった。
そして、彼女は成し遂げた。
まだ燃えてはいない自分の家に帰り着き、家族の名を呼びながら扉を開けた。
そこには、三つの血だまりがあった。
知っている、三つの死体とともに。
椅子に縫い付けられるように槍で貫かれた父。
背中がぱっくりと開いたまま倒れ伏す母。
異様に凹んだ足跡がくっきりと胸に残り、目玉を飛び出させている幼い妹。
みな、ぴくりとも動かなかった。
まばたき一つ、身じろぎ一つ、震え一つなく、物のようにそこにあるだけだった。
「あ、あ、ああ」
崩れ、落ちる。
ただそう表現するしかない。
男たちに知られてはいけないのに。
今すぐ逃げなくてはいけないのに。
「ぅああああああああああ」
慟哭せざるを得なかった。
ただうずくまり、哭いた。
祈るように、縋るように。
「ああああああああああぅぅぅぃあああぁぁぁぁ!」
どれだけ声をあげても。
涙と鼻水をあらん限り絞っても。
何ももたらされはしなかった、何も応えはしなかった。
ひたすらに、沈黙あるのみ。
「あああああああああああああああ!!」
どうして? なんで?
こんなことが、どうして起こるの?
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、神様。
何かが悪かったのなら、これが罰なんだとしたら。
ごめんなさい、ごめんなさい、みんな、ここにいます。
だから、どうか返して。
全部、元どおりにしてください。
お願いします、どうか。
「ゔゔゔゔゔゔ、ぁぁぁぁああああああああああ!!」
こんなに、子供のように泣きじゃくったのは初めてだった。
こんなに、祈ったのは初めてだった。
でも、何も起こらなかった。
世界はただ、気づいてすらいないかのように、沈黙していた。
それでも、泣き続けた。
一体、どれほどそうしていたのか。
「ぅっ、ぅっ、ぅっ、ひっぐ、ひっぐ、ぐぐぅ」
やがて、目をこすりながら、ゆっくりと立ち上がる。
何故そうしたのかはわからない。何故立ったのかはわからない。
ここで、家族と一緒にうずくまって、何もかもを受け入れるのが楽なのに。
全身の力を抜いて、ただ委ねるだけで全てが終わるのに。
思い出が魂によぎっては消える。
外の遊びが楽しかったことをお母さんに教えてあげた食卓の思い出。温かいスープと、焼いた鶏肉の輝き。
お父さんに叱られたあと仲直りして、ベッドで本を読んでくれた夜。あの日は、満月で、とても空気が澄んでいた。
妹が生まれた日。暑くて蒸したけど、お母さんはずっと泣いている妹をずっと大事そうに抱っこしていた。あたしもいつか、あんなふうになりたい。あんな優しい顔をしてみたいと思った。
父を串刺しにしていた槍を掴み、引き抜く。
その腕には8歳児とは思えないほどの力が宿っていた。
「──る、さん」
もう泣き声も、鼻水も、止まっていた。
だが涙は止まっていなかった。
そして新たに、槍を掴む腕のわなわなとした震えが加わった。
「ゆる、さん。ゆるさ、ない」
彼女の耳は聞き取っていた。
後ろから近づいてくる足音と、軽く弾んだ男たちの声が。
「な、にも、かも」
思い出が、塗り潰されていく。
大切な人たちとの繋がりが、決して手放したくない想いが、切り刻まれていく。
暖かで爽やかな感情が、黒く、熱く、煮えたぎる。
清らかな流れが、赤く濁り尽くしてゆく。
「──えぐり殺してやる」
その目は、もはや誰にも直視できぬ色だった。
魔女は道を急いでいた。
つい先日、マンマート豪族連合がオードミク王朝に侵攻したのである。
魔女が住むユマウクの街からも軍隊と義勇兵が繰り出され、国境目掛けて出立していた。
よもや、辺鄙なトドミナ山までその手が及ぶことはなかろうが、己を家庭教師として雇っている一家の安否が気になった。
しかし戦が始まったのなら国境は封鎖され、女の一人旅は大きな危険を伴うようになる。
トドミナ山へ向かうとしても、軍が使うような道は使えず、回り道を何日もかけて進むしかなかった。
しかし魔女はその労力を払った。
戦争という切迫した事態、己の身を守るのが精一杯の状況。
だからこそ、しのごの言わずに行動しなくてはと思った。
命が懸かった問題なのだ。真剣に対応せずにはいられなかった。
五日もかけて村に到着した彼女は愕然とした。
その惨憺たる有様に。
そこは村というよりも、瓦礫と死体を散らかしただけの場所のようだった。
焦げた廃墟、腐りかけた死体、屍肉をむさぼる動物。
見覚えのある死体のかけらに、見覚えのない男たちの死体も転がっている。
衣服と武装から言って、義勇兵か。
甘かった。
本軍は都に向かって進み、義勇兵たちが遊軍と化して周辺を無軌道に手当たり次第さらっていたんだ。
ユマウクからの義勇兵たちは、その大半がオードミク王朝内の派閥争いや抗争に敗れたり、巻き込まれたりして亡命の道へ逃れた者たち。
彼らは祖国を──自分たちを故郷から追い立てた今のオードミク王朝政体を憎んでいる。
だからここまで容赦なく殺し、破壊したのだ。
しかもこの様子だと、当のオードミク王朝は迎撃防備のための軍を出していないし住民の避難もしていない!
中央での権力闘争と権益確保、自己保身にかまけて、統制が乱れていたんだ。
己のためにではなく、国のために軍を素早く動かし従わせられる者がいなかったんだ。
このぶんだと、ここだけじゃない……オードミクのあらゆる場所で同じことが行われているだろう。
だが……妙だ。
腐敗の度合いや乾いた血の色から言って、村民たちは一度に殺されている。
しかし義勇兵たちの死体は、死んだ時期がバラバラだ。
三日前に死んだようなものもあれば、つい昨日死んだばかりのような死体もある。
はやくもセカシウジが湧き始めている死体もあれば、今も新鮮な血を傷口から垂れ流している死体もある。
襲撃初日に村人を全滅させた奴らが略奪のために村に居座ったのだとしたら……こいつらを殺したのは誰だ?
どうして何日もかけて、一人ずつ殺す必要があったんだ?
疑問はあったが、ひとまず押しやり、立ち上がった。
ここにきた目的を果たすために。
今や絶望的な目的ではあったが、せめて、葬ってやらねば。
そうされなかった遺体のむごさを、魔女王国で嫌という程見てきたのだから。
歩き始めてすこし経つと、小さなカカシのようなものが遠くに見えた。
義勇兵どもがこしらえたさらし台か何かだろうか。
臭気が目にしみて涙が滲む。
それをこすり取りながら近づいた時、それがカカシでもさらし台でもないことに気付いた。
それは、人間──それも、子供だった。
ボロボロに擦り切れ、破れ、土と血で汚れた衣服。
肌は泥と灰にまみれて黒ずみ、そこかしこの擦り傷や切り傷の上で赤黒い血が固まっている。
右手には血で錆びた狩猟解体用のナイフ、左手には血と肉片がこびりついた園芸用スコップ。
そして頭は──焼け焦げた表面が血と泥で塗装された、木箱だった。
右目のところに穴の空いた木箱を、その子は被っていた。
その姿のまま、ただ立ち尽くしていた。
幽霊のようにではなく、木のように立って、魔女を見つめていた。
その後ろには、おびただしい数の死体が山となって積み上がっていた。
全て、義勇兵たちの。
硬直の中で、魔女は即座に理解した。
ナンシーだ。顔は見えないが、なんとか原形を保っている服、そして体格でわかる。
彼女は、全く馬鹿げていることだが、そう考えるしかない。
村が襲撃されてから何日もの間、村の中でずっと隠れ潜み、密かに義勇兵どもを殺し続けていたのだ。
何時間も、何日もかけて、少しずつ、一人ずつ。
村のことも山のことも何から何まで熟知し、並外れた集中力と行動力と観察眼を持ち、日々野山を駆け回って手にした体力を持つ彼女ならば、可能なのだ。
たった8歳の子供が……何十人もの大人の男を皆殺しにしたのだ!
身を隠すために泥と血を塗り、目の反射光と頭の輪郭を隠すために箱を被り続けて。
義勇兵の戦力を削り、逃げ出した者を追い討って、闇に潜み罠を張って。
奴らをつぶさに観察し、その心の機微を読み取って、狩り取ったのだ。
そして、彼女は勝った。
勝って、しまった。
魔女は駆け寄り、少女を抱きしめた。
冷たさと暖かさ、硬さと柔らかさが同時に伝わってくる。
抱きしめて、触れ合っても、少女はずっと立ったままだった。
「大丈夫、大丈夫よ、もう大丈夫」
耳元で優しく囁く。
その声が震えているのが、自分でもわかった。
「さあ、行きましょう。この国はもう終わる。私と一緒に、あなたは私の国へ行くの」
体を離し、目線を合わせたまま微笑む。
どんな手を使ってでも、和らげてあげたかった。
被っている木箱を脱がそうと、その両側に手を添える。
その上を、そっと少女は抑え、制止した。
脱がせてはならないと。
「どうして……?」
目を丸くして、訊ねる。
だが、力づくで脱がせようとはしなかった。
「ナンシーは、死んだの」
紛れもなく、聞き覚えのある少女の声だった。
箱の中でくぐもった、別人のように響く、あの子の特徴を持った声だった。
「だから、もう誰もあの子を見ることはできない。あの子は、もういない」
その言葉を受け止め、魔女はうつむいた。
涙が溢れそうになるのをなんとか堪えた。
泣き顔を少女に見られるのをなんとか防いだ。
絶望があった。
自分には、もう何もできないのだという実感が。
この子を救うことは、絶対に不可能なのだという事実が。
8歳の女の子の未来が、幸福という結末からは締め出されてしまったのだという予感が。
それでも、ここに、こんなところに、置いて行くわけにはいかない。
木箱から手を離し、ゆっくりと立ち上がる。
開いた手を突き出し、精一杯、はにかんで見せる。
「行こ」
無理に作った笑顔、無理に出した明るい言葉。
それら全てを、観察し、感じ取った。
あまりにも人間らし過ぎるそれを。
ナイフとスコップを手放し、差し出された手をそっと握る。
少女は手を引かれ、魔女は並んで、廃墟と死体の間を、ともに歩いた。
魔女の名はサイーサ・ヤヤイセマ。
魔女王国の元城魔女で、後に15代目"軍の魔女"を襲名する、ナン・シーラ=アル・バヴツの師だ。
まさにこの瞬間に、15代目と16代目の"軍の魔女"が一度に産声を上げたのである。
血で溺れた喉から響く、産声が。
「そんな、ことが」
ヘリルメリアはただ絶句した。
それしかできなかった。
「リルメア、あなたは戦の中で輝かしく活躍する華々しい夫の姿を常に見てきた。勇敢で、士気高く、統制の下誇り高く戦う戦士たちを見てきた」
話している間に、師は向かい合って座っていた。
組んだ足は崩さずに。
「でも、一つの例外なく、戦争はひたすら悲惨で残酷で痛々しいものよ。避けられない、必要という言葉で失政を覆い隠したい者たちのエゴが、人間に獣の動機を与える。解き放ってもよいと、檻の鍵を手渡す」
言葉には、再び力強さがみなぎっていた。
「いともたやすく、そうなるのよ。背中を押す必要すらない、ただ"ゆるす"だけでいい、ゆるされると思い込むだけでいい。必要だから、責任があるから、それが使命だから、愛を守りたいから、彼らは歴史にゆるされてしまう」
足の上で手を組み、朗々と、読み上げるように、叩きつけるように。
「クソ喰らえ、だわ」
憎悪の意味を、聞き手のヘリルメリアも理解し始めていた。
「私はね、戦争が大嫌いよ。対立も、ごまかしも、政治も嫌い。燃える家の音も、甲高い悲鳴も、家族を失った泣き声も聞きたくはないし、華々しい凱歌なぞ踏み躙りたくなるぐらいムカつく。大勢の命と幸福を焼き払っておきながら、得意顔で家紋と勲功を掲げる将軍どもなど首をねじ切ってしまいたくなる。奴らが一体何をしたのかを、奴ら自身の身にまざまざと味わわせてやれれば、これほど胸のすくことはないでしょうね」
ヘリルメリアは、はっきりと、体の震えを感じた。
恐怖からではなかった。
「だから私は、生涯の敵を、その生涯をかけて研究し続ける。戦をこの世から根絶する。何に代えても、何をしようとも、全ての戦争を攻略して無意味化して、破壊し尽くしてやる」
本気だ。この人は本気で言っている。
決してものの例えや、理想論としての目標めいたものとして語っているのではない。
軍事の全てを掘り尽くし、語り尽くし、叩き潰し、陳腐化させ、敗北させる気なのだ。
途方も途轍もない……この人に比べれば、私のどこが化け物だと言うのだろう?
人類史が始まる以前から連綿と続いてきた軍事の歴史と、未来に於ける全時代の軍事の普遍さに、真っ向から挑んで、勝つつもりなんだこの人は!
「いい? リルメア。あなたが師事しようとしてるのは、そういう女なのよ。そこんとこよくわかった上で──」
ぬばっ、と再び擬皮が脱がれ、数本の突起がインク壺に伸びる。
黒く異形めいた体を机に向け直し、まっさらの羊皮紙を手繰り寄せて書き始める。
先ほどと同じ速度で、先ほどよりも正確に努めながら。
「──なにしてんの?」
『今の話、書き留めておこうと思って』
少しだけ、手を止める。手というより手のように動かせる複数の突起だが。
そして、師へと顔を向けた。
彼女は片肘を机に乗せながらも、自若とした態度は崩さなかった。
『お師匠様、はっきり言って私はいま感動してます。やっとあなたを心の底から"お師匠様"と呼べるんです』
自分の声色が興奮しているのがわかる。
心が打ち震えているのを感じる。
『その志と言葉は、途絶えちゃダメです! だから、これからはお師匠様の言行録を、私個人の仕事として執筆していこうと思います。いいですねっ!?』
シーラの、深いため息が響いた。
結局、使命感という本質からこのハンターが解放されることはないのね。
まあ、別にいっか。
「好きにしなさい」
答えるや否や、弟子は再び記録に没頭した。
この日、この時から、二人は師と弟子になった。




