冬の回想 前
魔界領ザック=ボーン。
アーゲルン支配領の中央西部に位置し、かつてはカーギ・カリンの二大拠点の一つだった都市である。
総本山ナナヴェルがアーゲルン人による組織中枢であったのに対し、ザック=ボーンは異民族のカーギ・カリン教徒を教導するための宗教都市であった。
ナナヴェルのそれよりも遥かに豪奢で巨大な大宗堂は当時の魔界でも随一の建造物と言われ、その威容と、統括する源枢司教の権威に惹かれた数多の巡礼者がこの地に集い逗留したとされる。
しかし『ヨルフェルンの涙』と呼ばれる大虐殺事件の後荒廃し、直後にはコードラン率いるゴン・ガンク族の侵略と破壊に曝された。
コードラン本人がここへ足を踏み入れた時にはかつての面影は微塵もなく、大宗堂は焼失、住居の六割が倒壊もしくは焼き尽くされ、通りは死者と瓦礫で溢れていたという。
しかし今では商業都市として再建が完了し、人口は以前の二倍。
大市場の規模は都市面積全体の30%にも及び、かつて巡礼者たちが辿った交通網は物流網として再活用された。
扱うのは主だったものだけでも木綿、海塩、穀物、加工食品、美術品、工芸品、石材、魔石と多岐に渡り、かつての宗教施設の殆どは荷の集積所か工場と化している。
マルコフの陥穽地帯の侵食を抑える"包囲隊"を後方支援する役目の都市としても指定されており、兵舎や酒保、軍用倉庫まで随所に置かれ、ここがかつて宗教の街だったことを記憶に留める者はいない。
だが、僅かに名残となる建物は残っている。
もはやそこに刻まれた歴史と物語を語る者もいないが、実物は歴然として存在している。
人気のない裏路地に、見向きもされぬ地下設備に、利便なき区画の隅に、戦火を免れた建物が点在していた。
「ここが」
そのうちの一つの前に、ヘリルメリアは立っていた。
裏路地に人目を避けて建つ集合住宅。周囲の建物に圧迫されながらかろうじて立っている粗末な木造建築。
窓は等間隔ではなく、狭苦しく小汚い。ここをかつては巡礼者の宿として使っていたというのだから、アーゲルンたちがいかに異民族を軽んじていたかが窺い知れる。
だが、彼女はここを目指してきたのだ。
気後れを吹き飛ばすように「よし」と荷物を背負い直すと、意を決して中に入る。
そこにあったのは、まるで人気のない、じっとりとした湿気と暗闇に満ちた廊下だった。
建物全体の風情も相まり、まるで幽霊屋敷である。
彼女の決意はあっという間に隅へ押しやられてしまった。
「ひぃーん……」
しかし、ずっとここにいるのもそれはそれで怖い。
か細い声で鳴きながらもおそるおそる進み、最上階を目指す。
幸いにも階段に続くドアをすぐに見つけられた。
慎重に、それでいて確実に、今は一歩一歩に集中する。
恐怖に対しては集中で対処。それは彼女の亡き夫からの教えでもあった。
そのおかげか、彼女は目的の部屋にたどり着けた。
307号室。
そう書かれたドアをノックする。
「開いてるわよ」
即座に返事があった。
それがあまりに早かったものだから、ヘリルメリアは覚悟を決める前に反射的にドアを開けてしまった。
最初に目に入ったのは、大量の書物。
ベッドと食卓が一つずつ入ればそれでよかろうとでも言いたげな粗雑で狭い部屋に、ぎっちりと詰め込まれた本棚と巻物棚だ。
ベッドの周りの壁にすら棚が釘で打ち据えられ、ベッドそのものすら半分は木簡に占領されている。
棚の中には本や書類が縦横を問わず詰められ、棚の上にまで積み重なっている有様だ。
床は書類やページで埋まり殆ど足の踏み場もなく、手を入れた形跡のない地層を形作っているようだった。
それでいて、8基も据えられた天井の魔女ランタンが、部屋全体を奇妙に煌々と照らし出していた。
そんな中に、彼女はいた。
食卓を壁際まで押しやり、一心不乱に何かの図面に取り掛かっている背中が見えた。
擦り切れた黒いローブ、独特な後頭部の輪郭。彼女が何者かは、すぐにわかった。
「あ、あのっ」
直ちに入室し、直立不動で声をかけた。
その隣でガサガサと書類の山が崩れる。
「今日から、こちらでお仕事を手伝うよう仰せつかったヘリルメリアですっ。ヨロシクお願いします」
恭しく頭を下げ、落ちそうになった見習い魔女帽を慌てて直しながら、顔を上げる。
その視線の先で、彼女がこちらを振り向いていた。
座ったまま、白い長首をひきつる程にひねって。
そしてその頭は、ひどく古ぼけた木箱によって覆われていた。
右目の部分に穴が開けられただけの、元は何の用途だったのかすらわからぬ木箱。
その穴の奥から、確かに彼女の視線が覗いているのを感じた。
ナン・シーラ=アル・バヴツ。16代目"軍の魔女"。自分の師となる人物。
その奇妙な威容に圧され、思わず「うっ」と息を詰まらせ仰け反ってしまう。
「意外な反応ね」
木箱の中でくぐもってはいるが、力強く決然としていて、人を寄せ付けないような声だった。
座ったままでもわかるほどの高身長から放たれるその声色は、威圧的ですらある。
「あなたと私、より化け物なのはどちらか瞭然だと思うのだけれど」
ここに来る前、"屍の魔女"より忠告は受けていた。
「相当な偏屈者だから相当な扱いを受けるだろうが、打つ手は、まあ、無い」と。
しかし初対面でいきなりこのような暴言を受けるとは思わなかった。
「名乗る前に、まずは三つ、あらかじめあなたに言っておくことがあるわ」
そんなヘリルメリアに構わず、指を一本立てながら続ける。
「一つ、あなたの住処は向かいの部屋。汚しても壊しても構わないけど、始末は自分でつけなさい。
二つ、ここに届く戦史資料の配置は必ず私の指示を仰ぎなさい。
三つ──」
立てた指で、自分の頭の木箱をとんとんと叩く。
「──この下に、大きな火傷も傷跡も無いわよ」
きょとん、と目が丸くなったのがヘリルメリアにも自覚できた。
そして、それが彼女なりの冗談なのだと気付いたのは、10秒もの沈黙が続いた後だった。
「あっ、あ、あのっ」
「ふむ」
何か言おうと思って慌てふためいていると、彼女は椅子から立ち上がった。
足の踏み場もなさそうな床をつかつかと慣れた足つきで歩み、自分よりも背の低いハンターを見下ろす。
「案外、肝は太いようね」
理性を得ているとはいえ、正真正銘の人類の天敵種にそう言ってのけてしまう者が何人いようか。
意図を測りかねて当惑するハンターと、値踏みするように見下ろす人間。
完全に逆転している構図の中で、先に手を差し伸べたのは人間の方だった。
「ナン・シーラ=アル・バヴツ。"シーラ"か"ヴッツ"か"お師匠様"と呼びなさい。"軍の魔女"なんて呼んだら、殺すわよ」
とても友好的とは言えない、言葉と語気だったが。
「ほら、早く握りなさい。手、出してんだから」
「あっ、よ、よろしくお願いしマス」
ついつい両手で包むように握手に応じてしまう。
だが、これで師弟関係は成立したらしい。
シーラは小さく頷くと、離した手でびしっと目の前の弟子を指した。
「それじゃ、最初の仕事よ。今から私が語る言葉を全てあの書に筆記すること」
そしてその指は、次に先ほどまで向かっていた卓上を指し示した。
そこにあるのは書きかけの書物と先の濡れたペンとインク袋。
まだ荷物すら背負ったままのヘリルメリアが頓狂な声をあげるのも、無理からぬことであった。
「『しこうして単縦陣など簡便性に利を置く凡庸なる艦隊運動に敗北を喫した──』」
構わず、それらしいことを口にし始めた師。
ヘリルメリアは大慌てで部屋から走り出て、向かいの部屋に荷物をまとめて投げ入れた。
それから大急ぎで戻り、師の代わりに椅子についてペンを握る。
あれこれ考える暇などない。こうしている間も、師はずっと口述を一瞬たりとも止めはしていなかったのである。
本当に、ここでやっていけるのかな……。
頭の上から浴びせられ続ける言葉を、か細い悲鳴とともに一所懸命書き入れながら、そんな不安をよぎらせずにはいられなかった。
「祐筆ですか? なんだってそんな……」
割り込んで、クロスが率直な疑問をぶつける。
あれから三週間、大要塞は甚大な損害をかばいつつも、なんとか冬の盛りを乗り越えつつあった。
生活用の設備を優先して維持・復旧しているため、防衛拠点としての機能はほぼ皆無。
だが氷の軍勢による攻撃は全く無く、グラヤ・ナガの姿も見えない。
それどころか冬の寒さや風の強さ、降雪量と積雪量までもが目に見えて減り、大気中の魔力量も他の地域とほぼ変わらない程にまで落ち着いていた。
あの氷の怪物がポータルを閉じたからだろう。いまのトグナイア連峰を覆うのは、かさ増しされていない本来の冬であった。
それ故に、余裕があった。
積雪と寒さが落ち着いたことで冬にも関わらずコー・ナイルからの補給を受けられるようになったのだ。
相互紙による"屍の魔女"アッサルートとの連絡も復活し、冬そのものが大人しくなったおかげで例年より一月ほど早くここを出立できる見通しが立った。
つまり、学会に間に合うようになったのだ。
とはいえ、雪緩みの始まりを待たねばならないのは変わらず、怪我を癒す時間も必要。
故に、いま彼は同室の怪我人仲間であるヘリルメリアとの会話をじっくりと続けているのだ。
「お師匠様はそれはもう、なんというか、ひっっっじょ〜〜〜に大胆で独特な筆跡でなぁ。文字がでっかくなったりちぃちゃくなったりで行の位置が全然安定せんで、余白を異様に食うせいで紙代がえらいことに」
「シリネディーク城で軍の魔──じゃなくて、シーラさんの論文読んだことありますけど、そんな酷い文字じゃなかったですよ」
「"屍の"が気を利かして死人に写本させたのを原本として発表しとるんじゃよ。真の原本はな──」
「──わしの領内にこっそり秘蔵しておる」と不敵な笑みを浮かべつつ、声を潜める。
ヘリルメリア。
出会った頃から、年齢の割に活発な人だという印象はあった。
でも、辞任を宣言したあの日から、なんだか変わった。
無理矢理自分と周囲を突き動かそうとして欝を溜め込むような痛々しさと、笑顔の下地に塗り込められたような暗さがなくなったような感じだ。
「メリアさん」
「ん? なんじゃ?」
死の陰を感じさせるような老婆の笑みではなく、元気な少女のような底抜けに明るい表情だった。
未来への希望に溢れた、屈託なき雰囲気を輝かせていた。
「司令官を辞めて、大要塞を出たら、何をしたいですか?」
「なぁ〜んか医者とか教師とか親みたいな言い様じゃのー。言っとくがまだおぬしはわしの従士なんじゃからな!」
「すいません」
こちらも、つい笑顔が出てしまう。
どうしてだろう。この戦いでは得たものより失ったものの方が多いはずなのに。
でも、心を満たす安堵に、いまだけは体を預けよう。
「でも、そうじゃな、まずは次の学会に出てみようかの。魔女面々とも久しく顔を合わせておらんからなぁ。戦史研究ももっともっとしたいし、長年の俸禄で領内にコツコツ貯めた宝物もつこうて……なにか事業も興してみたい! お師匠様の言行録も出版したいし、あと、料理ももっと勉強したいし、領地経営も自分でやってみたい!」
子供のようにうきうきとはしゃぐ様子には微笑ましさすら覚える。
「それと、それと……こどもを、育ててみたい」
だが、その時にいたいけな少女の表情は消えた。
しみじみと人生を見つめ直す、大人の女。
良いことも悪しきことも思い出として笑顔に包み込めてしまう、老婆の慈しみだった。
「養子でも、弟子でも、どんな形だってよい。孤児院を経営したってよい。養護院のための基金を設立するのもいいじゃろう」
彼女の、長年の秘めたる夢だった。
閉ざし、諦めていた希望だった。
子を持つ。
ささやかでありふれていて、大それた望み。
それが彼女の魂を満たし、肉体を沸き立たせていた。
死への念慮など吹き飛び、生きる活力に溢れていた。
──これでもう、大丈夫だ。
静かな確信に安堵するクロス。
「そうじゃ、クロス」
そこへ、気まぐれかのように水が向けられた。
「"屍の"はお前の親代わりじゃろう。どんなもんなのか聞いとらんか? 子育てっていうのは」
「あっ、えーーーっと」
思わず言い淀む。
拾い子クロス・フォーリーズと魔女協会長ストイル・カグズ・アッサルート。
この二つの関係をどのように言語化したものかは、本人たちでさえ言葉に窮するだろう。
法的には養母と養子の関係と言って差し支えはない。
だが実際のところ、この母は子を庇護はせず、この師は弟子に屍術を伝授せず、養育と教育はほぼ死人たちに任せていた。
彼女はただ見守っていただけ、そして見定めていただけ。心配はすれどもそれを優先はせず、使命は課せども放任はせず、整えはすれども押し付けはせず。
叔母と甥のような関係、あるいは医師と患者の関係、あるいは親しき上司と部下の如き関わり。
そこに去来する複雑な心情のやり取りを、どのような言葉に変えて表せられるものだろうか。
だが、今のクロスにとってただ一つだけ、確実に言い切れる事実があった。
「その、命を守ること、だと思います」
それを聞いた時、ヘリルメリアは少し表情を硬直させた。
思い出したのだ。そういえばこの二人の関わりは非常に特殊なものだった、と。
権威への野心や望みも、家庭への憧れも無いままにその両方を驚きとともに手にしてしまった母。
死人同然として生まれ、罪悪感と強運がためのみにて生きながらえた魂を欠く子。
この出会いは運命とも言え、偶然とも言え、無視できたはずの確率とも言える。
されど、経験もない己がとやかく言えるわけもなし。
「そ、そうか。たしかに! 親として至上の役割ではあろうなあ」
繕うものの、クロスは難しい顔をしている。
とりあえず言い放ちはしたものの、それでも十分な答えではないように思われたのだ。
歯にものが引っかかったような違和感。それはヘリルメリアにも伝わっていた。
しかし、彼が己の問題に没頭するのは良いことだった。
気付きたくなくとも気付いてしまうクロスの資質が、彼女の言葉尻を嗅ぎつけ逃したからである。
ヘリルメリアが子を産めない体であることを察知せずにいられたからである。
少々の気まずさだけで場を済ませられたことが、幸いだったのである。
それを知る者はこの世に彼女一人と、あの世に三人のみ。
彼女の夫。
診断した医者。
そして、彼女の師のみだ。




