軍の魔女29
彼がまず感じたのは、目の奥の痛みだった。
呻きながら目を閉じ、まぶたを押さえて上体を起こす。
はずだったのだが、体が起き上がらない。
力を込めて起こそうとしても、まるで金縛りのごとく体が動かないのだ。
それどころか目を押さえるはずの手まで、うんともすんとも言わない。
一体どうなっているんだ?
至極真っ当なその疑問がために、彼は痛みをこらえて薄く目を開く。
ぼやける視界がなんとか焦点を定めてくれると、ようやくここがどこなのかを悟った。
ここは見覚えがある。ダグナマンバ大要塞の、客間だ。
その床に自分は寝かされている。二重の敷き布と毛布でしつらえた寝床の上で。
どうやら五体は満足で、指も全てついている。
だが全身が包帯で覆われており、上半身は腕も指もなんとか数cm動かせる程度であった。
顔にも包帯でガーゼが固定されているようで、なんとも呼吸がしづらかった。
だが、それらがわかった頃には目の痛みも引いていた。
大きくまぶたを開いてみると、視界の端に何かが映り、そちらへ首を傾ける。
そこにいたのは、ヘリルメリアであった。
クロスと同じような寝床の中で横たわり、静かに目を閉じている。
その彫像のような静かさに、まさか、と一瞬最悪の想像をした。
「いま、サイラスが来る」
彼女の口からそう紡がれ、杞憂に安堵の息をつく。
その息は白かった。
しかし、直後には気がついた。
ここにいるべき、もう一人がいないことに。
その痕跡を探そうと、目を見開いて可能な限り首をひねり視線を巡らせる。
「わしらだけじゃ」
ヘリルメリアは目をつぶったままだった。
死人のように微動だにせず、口と喉だけが動いていた。
「助かったのは」
彼女の言葉の意味をクロスは知っていた。
首を動かすのをやめ、天井を見上げる。
「そう、ですか」
あれから、一体どれほど経ったのだろうか。
いずれにせよ、既に火は消えた。
そして今、二つの命が永らえている。
「クロス」
ヘリルメリアのこんなか細い声を、これまで聞いたことがなかった。
まるで見た目相応の少女がたてる寝言のような。
まるで中身相応の老婆が残す今際の際の言葉のような。
「ひとつひとつの死を、背負うでない」
だが、眠りながら発しているような言葉ではないと、はっきり感じた。
「心に矢が刺さったなら、必ず貫かせよ。突き立ったままにしておくことも、無理に引き抜こうともするな。通り過ごさせるのじゃ」
「そんなこと、一体どうすれば」
「何かを愛するのじゃ。失ったもの、奪われたものを感じなくなるほど、傷を埋めるように、心に愛を注ぎ続けよ。狂ったように、いや、実際狂っても構わん」
「それで、それで、いつか傷は癒えるんでしょうか?」
祈りに似ていた。神や天に頼ったことなどなくとも、祈りを感じた。
横を見やると、ヘリルメリアが口元をふっと綻ばせ、微笑んだのが見えた。
「いいや」
優しく、安らかな声でそう告げられ、クロスはもう何も言えなくなってしまった。
彼女の横顔が、擬態の皮にすぎないその表情があまりにも、人間らしすぎたからだ。
だが、切り出さなくてはならない。
生きて帰ることを最優先にしなくてもよくなったこの状況で、訊ねなくては。
「メリアさん、その……」
「『スゥガ・タムト写本』を作ったのはインジック卿じゃ」
クロスは再び言葉を詰まらせることになった。
開かれたヘリルメリアの両目はしっかりと、曇りもなき金色の瞳を天井に向けていた。
「知っておったよ、"屍の"がおぬしをここに寄越したのは、それをわしから聞き出すためでもあったんじゃろう」
『スゥガ・タムト写本』、統王が定める焚書対象のうちの一つである。
その原本は在り処も秘された状態で厳重に保管されており、写本は発見し次第破壊するよう定められている。
もし定めを破れば即座に処刑を課す、と明文されているほどのものだ。
「スゥガ・タムトの研究を読み解き、引き継ぐ才覚があり、さらに遺品を一時預かれるほどの地位と信頼を築いていた者はたった二人。一人は名も知れた"遺伝学"の創始者グレンゴン・メンデル博士。じゃが原本の危険性を知り、自ら魔界王に献上し危うさを説いたのみならず、写本の存在の可能性まで示して探すよう勧めた彼の仕業とは考えられぬ」
ヘリルメリアは常にスゥガ・タムトの近くにいた。
当然、彼の近くにいた人間たちのことも見続けていただろう。
故に、記録や記憶に残らないような細かな人間関係の機微、誰がどれほどあの男に信用されていたのかを肌で感じて知っていた。
本人が死んだ時の、周囲の人間の反応や動き、表情さえも。
「インジックを置いて他におらぬ。彼奴ならば……造作もなきことじゃろう」
写本は行方知れず、そもそも実在するのかどうかも公式には不確か。
だが、ヘリルメリアは知っていた。
それはつまり。
「その、どうして」
彼女は黙っていた。
そして今、話した。
長い間、ずっと誰にも言わなかったことを。
彼女の金色の輝きに、少し陰が差したように見えた。
しばしの沈黙が差し、気まずさに聞いてはいけなかったかもしれないと考えを巡らせる。
ちょうどその時に、少女然とした細い唇が微かに動いた。
「疲れたよ、わたしは、もう何も愛してないんだ」
焼けた肌が粟立つのを感じた。
熱を持った火傷に冷たさを感じた。
今、本当の彼女を見ている。
ハンターでも、"軍の魔女"でも、要塞司令官でも、ヘリルメリアでさえない。
全ての鎧を外し、擬皮の内側すら捨て去った、薄皮一枚とそこにこびりついた魂だけの彼女そのものが、そこにあるのだと思った。
「傷と、痛みしかない。これが、これが……人間なのか?」
右手を持ち上げ、目の前にかざす。
彼女の目に映るのは、人間の右手。
その傷から流れる、緑色の水。
ハンターである証と、人間である証だった。
「わたしは……どうして獣のままではいなかったんだ?」
右手がぺりりと裂け、ハンター本来の黒く光沢のある無機質な肌が曝される。
「どうして、わたしはまだ生きているんだ?」
何か、声をかけてあげたかった。
どんな言葉が出るのか、出したいのか自分でもわからないままに。
ただ、放っておけないと感じた。
しかし口を開きかけた時、ドアがノックされる音が響いた。
意識が中断されドアの方へ一瞬向く、それから再びヘリルメリアの方を見た。
「入れ」
上体を起こし、包帯に包まれた裸体を曝しながら言い放つ彼女には、見えない鎧がもう纏われていた。
そこにいたのは、ダグナマンバ大要塞司令官ヘリルメリアだった。
「失礼します」
覚えのある声と共に入ってきたのはサイラスだった。
鎧は擦り切れ、目の下は黒ずみ、顔色は青かったが、佇まいには強固な意志が宿ったままである。
それでも、ここ数日の大要塞を巡る攻防の激しさは、如実に物語っていた。
「まずは、息災で何よりです」
淡々とした、杓子定規の背を正した辞令。
惜しむらくは、その言葉の意味の重さを知る男がもういないこと。
「状況は?」
「死者1600余名、重軽傷者5000余名、防衛設備はほぼ全てが機能を喪失し、大壁も一時突破・浸透される事態となりました。温泉関連設備は2割ほど回復し、現在は復旧した機能を集約することで維持しています。敵勢は第三郭部まで侵入し、グラヤ・ナガによって大壁そのものも一部崩落、さらに連絡通路の3割弱が──」
「よう、持ちこたえたのう」
聞くに堪えない報告に割り込む彼女の声からは、いくばくか覇気が抜けていた。
それを察したのかサイラスは正した姿勢を崩し、ため息をつく。
「司令、不躾ですが、何があったのかを知りたいと思っているのは我らの方です。かの視野で、一体……」
「敵の大将を退けたのじゃ、この──」
彼女が視線を差し向ける。
「──クロスがな」
指一本すら動かせぬ体たらくの、若者に。
サイラスはやや怪訝な表情を向けたが、不快や嫌悪を抱いたわけではないようだった。
「巨大なポータルがあったのじゃ。その奥から、あの怪物の元締めが、こっちの世界を覗き込んでおった。それを退け、ポータルを閉じさせたんじゃよ、こやつがな。わしはこのザマじゃったがのう」
何重にも巻かれた包帯をぽんぽんと平手で叩く。
軽い笑みすら浮かべているが、どれほどの痛みをこらえているのかは誰にもわからなかった。
「なるほど……それとほぼ同時刻だったわけですか」
一方サイラスは、何か得心がいったように小さく体を揺らした。
「第四郭部を死守しつつ第三郭部に侵入した敵を押し返そうと、奮闘しているところでした。突如敵方のエレメンタルどもが全て停止し、ただの氷と雪の彫像に成り下がったのです。おそらく、そのポータルから供給された魔力で奴等は動いておったのでしょう。だからあれほど統率されているように見えたのか……」
「トグナイア連峰以北の寒冷も、おそらくあやつの仕業じゃろう。冬そのものが、あやつの単なる代謝リズムに過ぎぬのかもな」
「しかし、そうなりますと」
「ああ、そうじゃ」
「わしらは、ついに"冬"に勝ったんじゃ」
ここにいる誰もが、その言葉を実感などしていなかったが。
「氷の軍勢と吹雪は消え、冬は穏やかに、短くなるじゃろう。あれほどのポータル、一度閉じればまた易々とは開かぬ。おそらく、向こう千年は」
「しかし、戦いは終わっていません」
「……なんじゃと?」
しかし、聞き捨てならない言葉に、ヘリルメリアはつい目を丸くした。
対照的にサイラスは目を細め、眉間にも力が入る。
「グラヤ・ナガです」
彼はその光景を思い出していた。
かつて氷エレメンタルであった物言わぬ自然物に囲まれながら見たものを。
大壁に背を向け、吹雪の奥へとゆっくり、雪景色の中へ溶け行くように歩き去っていくグラヤ・ナガの遠い姿を。
かき消えていくかのような、遠い地響きの足音を。
あれがいる限り、脅威は消えない。
たとえ冬が奥に去ろうとも。
「そう、か……」
うつむく彼女の両拳に僅かに力が込められた。
その手に起こった微かな震えを握り潰す力すら湧かぬとばかりに。
「もう、じゅうぶんじゃないですか」
思わず、クロスの口をついて出た。
それは恐らく、先ほど言おうとした言葉と同じなのだろう。
「じゅうぶん、もう遠くまで来たじゃないですか。前に進まなくたって、いいじゃないですか」
沈黙が流れる。
ヘリルメリアはうつむいたまま、その沈黙をただ受け入れていた。
決して言葉にしたくない言葉が、その内に秘められているようだった。
突然、サイラスがその場にどっかりと座り込んだ。
どんな姿勢でも背だけは常に正し、謹厳な印象を一毫たりとも崩さなかった彼らしからぬ、乱暴なあぐらの落とし方と身の乗り出し方だった。
「司令、」
そしてその声は、重々しくも心地よく部屋に響いた。
「俺たちの殆どは、世間のはみ出しものです。犯罪者だの変人だの食い詰め者だの、正規軍と言っても世界の果ての軍など内実はそんなものです。この要塞がなきゃ、一日で互いを殺し合い始めちまうようなどうしようもない大馬鹿どもの群れ。この俺なんて、初めはただの人狩りだ。片手を第一元帥殿に切り落とされてやっと自分の馬鹿に気づくような、とてつもねえクズ野郎だった」
見せつけるように、あるいは自分で見つめるように、己の義手を持ち上げる。
「そんな俺たちをここまで鍛え上げたのは、冬の寒さと、氷と、あなただ、司令官殿」
義手をもう片方の手でひっ掴み、一息に引き抜く。それを腕に固定していたベルトごと、強引に。
「ただやたらめったら泣き喚きながらじたばたと手足を振り回すだけのガキ同然だった俺たちに、あなたは全てを教えてくれた。手に込められた力で矛を握ることを、振り回すだけだった足で大地を強く踏みしめることを、戦い方を、生き方を、前への進み方を教えてくれた。そして何度も、しかもつい先日も、俺たち全員の命を救ってくれた。何度も、何度も、何度も司令の判断と指揮に俺たちは助けられてきたんだ」
それを静かに横へ置くと、サイラスは両手を床についた。
残された手と、既に無い手の断面を、何にも構わずに床に押し付けたのだ。
「次は、俺たちの番だ」
そして、頭を下げた。
あぐらをかいたまま、作法など知らぬ彼が、軍の敬礼以外のやり方で、自分の敬意を。
「どうか、あとは俺たちに任せてくれないか?」
軍人としてではなく、恩人へ向ける礼だった。
はらり、と布がほどけ落ちるような音がした。
クロスが見やると、そこにはヘリルメリアと、はだける擬皮があった。
彼女の真の姿は震えており、思わず変身を解いてしまった、という印象を受けた。
『う、うう、う』
サイラスもクロスも、心中で驚いた。
その音はまさしく、嗚咽であったからだ。
『うわあああああああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!!』
そしてそう気付いた直後には、彼女は大声で泣き出していた。
体を震わせ、意味もなく天を仰ぎ、大粒の涙を止めどなく金色の目から溢れさせ、童のように。
要塞司令官ヘリルメリアとしても、ハンターとしても、そのような姿など見たこともない。
サイラスとクロスは大いに戸惑い、状況を理解し切れず硬直するばかり。
ヘリルメリア本人も、ただただ、泣くのに夢中だった。
溢れ出てくる感情と涙と慟哭を、どうやっても止められなかった。
自分のこのような姿など、ヘリルメリア本人も今まで見たことがなかった。
ただ、何もかもが溢れてきたのだ。
人を食い、人に成り、人として生きる己が。
父親と夫への決して消えぬ憧憬と憎悪が。
のしかかる秘密と重荷が。
愛を失った後悔が。
その先で得た、新たなものが。
お師匠様。
部下たち。
守るべき人々。
仲間の魔女たち。
サイラス。
レレザル。
クロス。
そして、トッテンバット。
やっとわかった。全部が、愛だったんだ。
私は進みたかったんじゃない。後ろを見たくないだけだったんだ。
過去から離れようとして、死という未来へ走っていただけだったんだ。
自分の傷を、愛とうそぶいた何かでかばい続けて……
そのせいで、気づかなきゃいけないものまで置き去りにして。
『わああああああああああああん!!』
何もかもが出ていく。
何もかもが昇華していく感覚がある。
過去が、本当の意味での過去になっていく。
なんと爽快で、気持ちよい。
何を押し殺すこともなく、赤子のように泣くなど、ヘリルメリアには初めてのことだった。
幾度となく鳴き、泣いてきた中で、あらゆる感情が解放されるのは経験がなかった。
不思議に思う余裕も、恥ずかしく思う余裕もない。
ただ、今は涙と声以外には何も出なかった。
一体どれほどそうしていたのだろう。数十秒だろうか、数分だろうか。
少しずつ、少しずつ、彼女の声は収まっていった。
その頃にはサイラスも気を取り直し「司令っ」と声をかけながら駆け寄った。
『だ、大丈夫、ひぐっ、大丈夫、じゃっ……』
涙をぬぐいながら絞り出す。
それでも、涙だけは決して止まらなかった。
気づくと、何事かと部屋の外に兵士たちが詰めかけて来ているのが見えた。
そこへ向けて、ヘリルメリアは笑みを浴びせかけた。
ハンターの、表情のない表情で。
大粒の涙をぼろぼろとこぼしたままの笑顔を。
少なくともクロスは、そう感じた。
であるならば、より付き合いの長い彼らがそれを感じ取らぬわけは無かった。
『おぬしらの、すびっ、心意気……ひっぐ、しかと、受け取ったぁぁ』
今まで見たことも、想像したことすらなかった姿に、全員がぽかんと呆気にとられていた。
それでいながら、決して注意を他には逸らせなかった。
『わし、わしは……今季かぎり、でっ、司令官を、ぇぐっ、退、官し……次期司令、官に、サイラス=ボッツ・ゾーレル、を、推薦するっ……!』
彼女の言葉に、クロスはぐっと唇を固く結んだ。
そうしなくては、己が目に溜まり始めたものを堪え切れなかったからだ。
『だ、だから、だから……皆の衆ッ』
まるで子供のように、毛布でごしごしと目をこする。
止めようがない涙を、ほんの一瞬だけでいいから、止めたかった。
涙で滲まぬ視界で、皆の顔を見たかった。
『それまで、よろしく頼むぅぅぅぅふぇぇぇぇぇぇぇ』
だが、無駄だった。
涙も声も、どうやったって止まらなかった。
今までなら止められたはずのそれが止められない経験も、初めてだった。
サイラスに背中をさすられながら、何もかもが吐き出されていた。
ぱら、ぱら、と、誰ともなく、小さな拍手が起こった。
詰めかけた兵士たちにすら、誰が始めたのかはわからなかった。
そんなことなど、どうでもよかったからだ。
始めは小さな飛沫だったものが、さざめきと化し、波と化し、あっという間に渦となり、津波となり、洪水となった。
歓声が上がり、名を讃える咆哮が上がり、またもや泣きだした我らが司令官の子供のような声すら呑み込んだ。
作法など知らぬ彼らの、最大限の敬意と祝福。
今は、それ以外には何も出なかった。
その時初めて、彼女は勝利を実感した。
人生で初めての、勝利を。
それでも、涙と声以外には何も出なかった。
『みんなあああぁぁぁありがとおおおうぅぅぅううう!!』
史上最もみっともなく、史上最も祝われた辞任宣言だった。




