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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
軍の章
141/211

軍の魔女28

「はっ、はっ、はっ」


息を切らし、一つの巨体が二つの大きな足跡を点々と雪に刻む。

不規則に乱れた跡の傍らには、滴る血痕も所々に残っていた。


「はァッ、はァッ」


風の音すらない静寂につんざくは、荒い息と、揺れる荷物に分厚い毛皮の擦れる音。

何かを話す間も休む暇もなく、彼はひた走っていた。


「はぁっ、クソッ、はぁっ、ふぅっ」


トッテンバットは右肩にクロスを担ぎ、左脇にヘリルメリアを抱えて、とにかく走っていた。

ひたすら南に向かって、雪原を走っていた。


穴の奥からクロスを見つけ、引き上げた時、この若者は既に意識を失っていた。

小規模かつ一瞬だったとはいえ、臨界状態の尽きぬ種火を打ち出すため話に聞く"毒の炎"にさらされたのだ。

そんな彼が未だに呼吸を絶やさずにいられる理由は一つ。

魔女のカンテラに込められた、炎を制御するための術式のおかげだ。

それが火力の瞬間的な暴発に反応して自動的に発動。クロスへの負担を軽減し、彼に降りかかる炎を僅かでも散らしたのである。

それでも、負傷は免れ得なかった。

寸前で死を回避したというだけであり、両手の指は皮膚のみならず肉まで焼け、露出していた顔には切りつけられたような火傷が刻まれていた。


脇に抱えているヘリルメリアの容態はもっと悪い。

明らかに臓腑を抉られており、抱えられている彼女がいま生きているのか死んでいるのかすら……。

ぐったりと力なく突起と擬皮をぶら下げ、それらの先端から血を落とし続けている。


しかし、その血が雪を溶かしながら痕を残し続ける限り、彼女を置いていく気にはなれなかった。

温かい血が彼女の傷から流れ落ち続ける限りは。


「ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ」


氷エレメンタルどもとの戦いの中で、ソリは失ってしまった。物資の大部分と共に。

彼らを助けるどころか、自分一人の身すら要塞まで保つのかわからない。

だが走った。雪を蹴り、氷の残骸を避け、白い大地に足を沈ませて。

頑健に生まれついた己の体は、このためにあったのだと言わんばかりに。


その足も数十分後には止まった。

体力の限界に達したのではない。その程度ならば、今のトッテンバットは押して走り続けたであろう。

彼の目の前に、流動する雪粒、雪でできた海、雪海原が現れたのだ。

いくら走ろうとしても、その足場自体が存在しない、脆くて深い海。

解決しようのない障害が、ついに彼の前を塞いだのだ。


大きく息をつきながら、二人を下ろす。

籠手を開き、残った魔力液の量を確認する。


「ま、なんとかいけるか」


来るときには、火術で変種のエレメンタルを操ってこの海を渡った。

彼とて火術士。十分な量の魔力液さえあれば、なんとかあれを再び操って雪海原を越えられるだろう。

渡るときにそなえて、ヘリルメリアとクロスの体をしっかりと鎖で巻いて固定する。


「トッテン、バット、さん」


その途中で、虫の鳴くような、小さな声が彼の耳に届いた。


「おお、クロス、気がついてたか。何よりだ」


この静寂の中でなければ聞き逃していたであろう。

それほどの虫の息だが、ともあれ、意識があってよかった。


「クロス、やったぞ、あれはポータルの奥に引っ込んだ。逃げ帰ったんだよ。氷エレメンタルは木偶の坊だ。ただの氷に戻った」


鎖で固定した二人を抱き上げる。


「勝ったんだよ、冬に。お前のおかげだ」


満面の笑みを向けると、クロスの目が僅かに動いてトッテンバットの方を向いた。

寒さに震える乾燥した唇が、ほんの小さな声を吐く。


「やめて、ください、トッテン、バットさん。やめて……」


声が届いたのか届かなかったのか、それはわからなかった。

トッテンバットはただ満足げな笑みを浮かべながら、まっすぐ雪海原の向こう岸を見据えていた。


「気に病むな、クロス。だが──」


そして、そこへ向けた。

己の、籠手を。



「──彼女を頼むぞ」



着火。

炎が噴き出し、籠手が射出される。

引かれる鎖は彼の体ではなく、クロスとヘリルメリアの二人に巻き付いていた。

発射された籠手に引っ張られ、二人の体も打ち出される。

合わせてもトッテンバットの体重に遥か満たない二人だ。

見立て通り、1km程度ならば届いてくれるだろう。


彼は分かっていた。

全ての氷エレメンタルを操っていた"スラマウズの目"が閉じられたならば、雪海原の変種エレメンタルも消え去っている可能性が高いことを。

よしんば変種エレメンタルが存在を保っていたとしても、それを駆るほどの魔力液はもう残されていないことを。

残った火力と籠手の力では、自分は海を渡れないことを。


星のように遠ざかっていく二人の姿を見上げながら、彼はその場にどっかりと腰を下ろした。

あの勢いならば、無事に向こう岸まで到着するだろう。

魔力液自体は途中で尽きるだろうが、慣性で無事渡り切れるはずだ。

遠ざかり、雪海原が巻き上げる雪粒の飛沫に隠れて見えなくなると、完全な静寂が彼を包んだ。

風の音も、先ほどまで響いていた足音ももう無い。

自分の静かな呼吸と、鼓動だけ。それらもじきに、静かになっていくだろう。


ふと、空が目に入った。

夏のそれとはまた違う、凍てついた刃物のような切れ味の、晴天だった。

それを丸ごと吸い尽くし込むかのように、深く、深く、鼻息を一つ。



「いい天気だあ」



この言葉の瞬間だけ、彼は田舎の青年ボーグルだった。






衝撃に揺り起こされ、痛む両手を雪原につく。

埋もれた顔を引き上げ、歯を食いしばって両足を雪に立てた。

眼下にあるのは、全てを吐き出し切った籠手と、死にかけの老いたハンター。

後ろを見遣ると、広がる雪海原に、舞い上がる雪の飛沫だけ。

その奥は、全くうかがい知れない。


倒れそうになりながら、震える指を無理やり握って、ヘリルメリアに巻き付いた鎖を解いた。

意識を失い、血を流し続ける小さな猛獣。触れようとするものを拒絶するかのような突起を畳み、体を寄せ、背負う。

擬皮を引っ張り縛り付けて固定。数度呼吸を整えてから、歯を食いしばって、一歩を踏み出した。

一歩だけで両膝から崩れ落ちそうになる。内臓が回転し吐き気すら催す。

圧力と衣擦れが傷を刺し、痛みがクロスの歩みより速く走る。

何もかももどかしい。自分の体じゃないみたいだ。


──でも、歩かなきゃ。


二度と振り向くことなく、クロスはよろめきながら歩いた。

振り返る余裕など、とても無かったのだ。

託されたものの重さを支えるので、精一杯だった。


装備もなく、物資もなく、体力もなく、魔力もない。

届くわけがない。助かるわけがない。自分も彼女も、既に死体だ。

死体が、死体を背負って歩いているのだ。

歩くだけ、苦しむだけ、もう無駄だ。

歩いても、歩かなくても、雪に埋もれて沈み、消えゆき、いつかは、忘れ去られる。

なら、歩くだけ無意味だ。

人生そのもののごとく。


クロスの知性は、魂は、それを理解していた。

だが、歩くのをやめられなかった。

この苦しみに、この痛みに、意味なんてないのに。


雪の中を、ひたすら歩く。

どんなペースで、どこまで歩けているのかすらわからない。

だが、一歩ずつ、絶対に途切れず、全てを振り絞りながら刻み続ける。

このような時に思い浮かぶはずの、愛しき人々の顔や思い出までも、一歩のための渾身に押しやられていた。

ただ、歩く。クロスは己をそれだけの存在へと、作り変えていた。

どうしてこんなことをするのかという問いすら、彼の意識から追い出されていた。


歩く。歩く。ただ一人、息と血を撒きながら。

氷の木々の間を縫って歩く。

最早、方角すらわからない。

視界が霞みながら、よくわからない虹色と黒色のシミのようなものに覆われる。

膝から下の感覚があるのかないのか、歩き方を忘れてしまったような錯覚に襲われる。

限界はとうに超えているのだろう。一体どこが限界だったのかすら、わからない。


ただ、どうしようもなくなる瞬間があった。

意識にも無意識にも関係なく、全てが使い果たされた瞬間。

魂も魔力も肉体も無関係。物質としての、物理の法則。

燃えるものを失くした炎が消えるしかないのと全く同じ、終わりの瞬間が来た。


ぼそり、と、なんの面白みもなく体が倒れた。

倒れて、雪の冷たさを全身に感じたことで、やっと自分が倒れたんだと理解できた。

それでも、なんだか両の足は歩き続けているような奇妙なる感覚があった。


ここは、どこだ?


もう、雪の冷たさすら感じない。


とにかく、


まぶたが、おもい








自分は、死んだのか。


目が、開かない。


沈んでいくような、感覚。


まぶたが、あかい。


からだが、だるい。


じいやが言っていた。死は、水の中みたいなものだって。


息苦しく、冷たく、自由で、暖かい。


甘い苦しさが、ふしぎと、心地いい。


まぶたの向こうに、光を感じる。


でも動かない。動けない。ただ沈んでいく。


そうか、死んだんじゃない。


これから、死ぬんだ。



・・・・・






・・・・・・・・・・・・・・・・・・









あれ?




死んでない?


光の眩しさに顔をしかめながら目を開くと、光がそこにあった。

まぶたを照らしていた光の正体だろう。一体、なんの光なのか。

そもそも、本当に光なのだろうか?



『運命が、灰色の時を刻んでいる』



声まで聞こえてきた。

聞いたことのない、女性の声だ。

鐘の音のように、頭と臓腑と魂を同時に揺さぶる。


「あなたは、誰です? 僕はどうなるんですか?」


僕も、喋った。

喋れるとは思わなかった。

あの光が喋ったことより、自分が喋れたことに驚いた。


『時空があなたを捉えている。あなたの中にあるもの、それが歩みを止めさせなかった』


光が強さを増す。

眩しさに目を細め、手をかざし、指の間から光を見た。

すると、影が見えた。

光が強さを増したことで、光の前に立つ影が見えるようになったのだ。


『あなたの死が、濁流を九つに分ける』


その影は、人のような形をしていた。

頭から、二本の輝く角が伸びていた。


『だからクロスさん、今は目覚めてください』


人影が手をかざす。

その瞬間、猛烈な息苦しさを感じて──




──僕は、ベッドの上で目を覚ました。

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