軍の魔女25
「ここじゃ!」
地吹雪にさらされながらも、ヘリルメリアは叫んで足を止めた。
俯いて風と雪を受けながら続いていた二人も立ち止まり、顔を上げる。
「ここが、あの」
「ああ! "スラマウズの視野"じゃ!」
三人の眼前に広がるのは、一見するとこれまでと変わらぬ雪原。
だがその表面は水面の如くうねり、煙か霧のような地吹雪が常に吹き上がる。
極限まで小さく、硬く、なめらかな雪粒はあまりの細かさのために空中では煙となり、地上では広大な海となった。
流砂にも似た常に流動する雪は雪原に見えても、深淵まで続く海原のようなものだった。
つまり、これまでのように歩いて越えるのは不可能なのである。
「地吹雪で、向こうが見えねえ! 巨大な目とやらも」
「どうやって渡るんですか!」
もっともな指摘を二人が放っても、ヘリルメリアは不敵に微笑んだ。
ただ懐から温石を取り出し、雪海原の遠くへ投げうつと「まあ見ておれ」などと言って胸を張るばかりであった。
何か心算があるのか、だとしてもこの煙のような地吹雪に巻かれながら待つのはゴメンだ。
そう思いながらも、結局は二人とも待つ他はなかった。
だが、結局20秒も待たなかった。
轟音が立ち、温石の沈んだ場所が爆ぜる。
飛び散る煙は直後には巻き上げられ、雪海原から突き出たそれに沿った。
空へ向けて伸び上がる、巨大な雪の柱に。
「な、なんじゃありゃあ!」
咄嗟に籠手を向けるトッテンバットを「よせ! 攻撃するな!」と制止する。
雪海原を構成する微小な雪粒が柱か、あるいは巨大な蛇のような形にまとまったもの。
形を崩すこともなく上空まで伸びると、ゆっくりと、それでも海に叩きつけられるクジラのように激しく倒れた。
よく見ると、先端がまばゆい光を放っており、輝きの色は以前にも見覚えがあった。
「"地走り"、ですか? あんなにも大きな……」
あれは氷エレメンタルが抱く魔力の核、その輝きだった。
しかし規模が段違いである。匹敵しうるのは、かのグラヤ・ナガのみだろう。
巨大な蛇や雪の塊というよりも、それは最早生きている大河、意志を持った雪崩と呼んだ方が正しく思えた。
「少し違う。この環境に適した形態として成立した変種のエレメンタルじゃな。見てみい、わしらにはまるで興味を示さんじゃろう」
指差した先で、蛇のようにうねりながら雪面を掘り進んでいる。
縫うように潜行と浮上を繰り返す様は遊んでいるかにも見え、ここにいる三名については全く関心がないようである。
「『スラマウズの手記』にも終わり近いページにこう記述がある。『白の滝 人を見ず 投げ入れた火のみ食う』とな。"地走り"に近い形態の変種エレメンタルのことじゃろうと思うておったが、当たっておって何より!」
「どうして俺たちを襲わねえんですか?」
「恐らく空気と雪に含まれる魔力の量が膨大だからじゃろう。常に雪が流動して魔力が留まることなく撹拌されるので、ああして泳いでおるだけでどんな巨体も常に満腹にしておけるようじゃな。人ごときの魔力など、歯牙にもかけんのじゃよ」
手記を手に嬉しそうに語る彼女だったが、クロスは心配そうな視線を向けた。
スラマウズの手記。唯一北の奥地にたどり着き、そして帰らなかった男。
常日頃から、何度も何度も、諳んじれるほどに目を通してきたのだろう。
クロスが思いもつかぬほど長い間、ヘリルメリアは北へと思いを馳せ続けていたのだろう。
それが何を意味するか、十分に理解しているからこそクロスは無理を押してまで同行を願い出たのだ。
「それで、あのデカブツをどうしようってんです!?」
「そうじゃなあ、クロス、カンテラを貸せい」
「え? ああ、はい」
唐突に水を向けられて、つい反射的にカンテラを差し出してしまう。
彼女はそれを受け取ると足の擬皮を脱ぎ、強靭な本来の足のバネを引き絞る。
限界まで溜めた力を解放し、砲弾のように飛び出すと、彼女の小さな体はあっという間に変種のエレメンタルの体内へ沈んだ。
「はっ!?」
突然の自殺にトッテンバットが驚きの声を上げる。
驚きはクロスとて同様だったが、声は出ず、息を飲むのみだった。
しかし一瞬停止した思考が再び動きだす頃には、彼らの思いは杞憂に終わっていた。
変種エレメンタルの先端、大きな魔力核の輝きの色が変わったのだ。
氷の反射光のような白い刃のような光に、炎を思わせる暖色が混ざったのだ。
「ひゃっほーい!」
直後に、楽しげなヘリルメリアの声が響き、小さな体がひょっこりと姿を現す。
変種エレメンタルの体の上、細かい雪粒のまとまった川のような流れの上に、浮上したのだ。
「仮説通りじゃ! こやつは雪海の中で、熱によって魔力の濃いところを探っておるんじゃ! 虫操術の要領で操れるぞ!」
雪の海の中では、濃い魔力がきめの細かい雪の粒をすっぽりと覆う。
すると雪の粒が非常に小さいために、水分量に比して大量の魔力が固着することとなり、凍結した魔力液のような状態となる。
それが摩擦のわずかな熱に反応して発熱することで、魔力の濃い場所ほど温度が高くなるのだ。
変種エレメンタルはその熱を頼りに魔力のホットスポットを探り当て、泳いで吸収しに行くのだ。
だが、熱は氷エレメンタルにとって自身の形状維持を危うくする存在でもある。
高温に寄せられても、触れることはできずに泳ぎ続ける。
熱に対し引き寄せられも引き離されもする性質を持つが故に、この変種エレメンタルは火術で操縦可能であった。
馬の手綱を引くようにカンテラを引けば、エレメンタルの核と繋がる紐状の魔力の流れが引っ張られ、つんのめるように白い川は鎌首をもたげた。
静止させることすら可能で、馬車の馬のように、うやうやしく変種エレメンタルは二人の前でこうべを垂れる。
「さ、乗れい!」
間近で見る変種エレメンタルはたとえ大人しくとも崖に似た威容があり、クロスなどは怯んでしまう。
それを尻目に、トッテンバットが一歩進んで白い川の胴体に片腕を差し入れる。
「うおっ」と驚く間に、彼は雪の流れに呑み込まれたかと思うと、ヘリルメリアの後ろにひょっこりと顔を出した。
「雪崩に飲まれるってこんなんだろうな」と呟きながらよじ登るように這い出し、司令官と同様にエレメンタルに跨る。
常に流動する雪の粒であるが、二人の人間の位置だけは保つように流れているようで、完全な制御下にあることがわかる。
そうしてようやく、クロスも手を差し入れる気になったのだった。
「わっほほほーい!」
ヘリルメリアが楽しげに白い川を乗りこなす。
上下に激しくうねりながら進む背中は決して快適とは言えぬはずだが、ハンターとはこれを遥かに超える激しさで運動する生き物である。
クロスなどは情けなく彼女の小さな体にしがみついて目を回し、トッテンバットすら歯を食いしばって耐えるのみだが、ヘリルメリアは天地を覆すようなロデオを楽しんでいた。
どんなに激しく動いても決して振り落とされないのも、変種エレメンタルの雪粒が全員の足をしっかりと固定しているからである。
内臓がかき回され、振り乱されるような気持ち悪さを除けば、安全かつ大胆な乗り物と言えた。
「い、いまどれくらいですか」
死にそうなえづきを交えながらも振り絞る。
吐けば体温が下がる。絶対に堪えねばならなかったが、危険を押してでも残りの距離を知りたかった。
「向こう岸までは1kmちょいというところじゃろう! この調子なら数分で着くぞ!」
数分、と聞いて余計に気が遠くなる思いがした。
「おえええええ」
言葉に違わず、数分後に一行は目的地に到着する。
クロスは早速うつむいて存分にえづき、トッテンバットも膝をついて短い呼吸を繰り返していた。
ヘリルメリアは雪の海の奥へ立ち去る変種を、嬉しそうに手を振って見送っている。
それも済むと、興奮未ださめやらぬと言った様子で、花のような笑顔を弾けさせた。
「いやあ良い経験をしたのう! これは返すぞ!」
突き出すようにカンテラを差し出す。
だが、即座に受け取ることはできなかった。
震える手は伸ばされる途中で、同じく震えている膝を支えるために降りてしまう。
それでもヘリルメリアは構わず、勝手にカンテラをクロスの腰の金具に取り付けた。
「尽きぬ種火、が無かったら、どうするつもりだったんですか」
「わしの魔力で操るつもりじゃったよ」
涙目の憎まれ口もあっさり返されてしまった。
いくらなんでも、という無謀な方法を口走ってはいたが。
「地吹雪も少しずつ弱まってきておる。この機を逃さず進むぞ、良いな!」
無茶な指令に思えたが、トッテンバットは親指を立てて返答とした。
クロスは無言のままだが、心中では既に従う覚悟を決めている。
ヘリルメリアが歩き出せば、二人とも後をついて行った。
大要塞を出発してから、既に5日が経過していた。
三名という少数であるのに加え、内二名が火術士という異色の編成は過酷な雪地獄を驚異的な速度で行進させた。
全員が交代で火術を行い続けることで雪に足を取られず、地吹雪の中でも灯りを保って互いを見失わなかった。
とはいえ、本来ならば10日以上はかかる行程を、半分以下に短縮するほどの強行軍。
ヘリルメリアは努めて明るく朗らかに振舞っていたが、各人の体力の消耗は明白だった。
数日に渡り魔法を行使し続けたことによる疲労だけではない。
指すら凍るほどの寒さの中を歩み続け、雪に囲まれながら眠り、豪雪をかき分けながら進み続けた肉体は、至る箇所で悲鳴をあげていた。
目的地は近くだといくら理解していても、風景は最初の一歩の時とほとんど変わらない。
雪の上を、吹雪でけぶった中を、まるで闇雲であるかのように進む。
一歩、一歩、先の見えぬ景色へ体を差し入れるごとに、少しずつ足と背は重くなっていった。
もはや言葉もなく、余計な思考は凍える寒さと雪の冷たさと痛みに漂白されていた。
圧倒的な氷の世界を歩むうちに身も心も凍てついてゆくのを、はっきりと実感する毎秒であった。
だが、それは唐突に終わりを迎えた。
突如、風が止み、吹雪が収まったのである。
縮めていた身を起こし、何事かと三人ともが顔を上げる。
空中を舞っていた吹雪の雪粒がふわりと落ち、視界が開ける。
そこには光すら差し込み、晴れ渡った視界をしばし眩ませた。
おぼろげな輪郭のぼやけが薄れ、冷たさに痛んだ目をこすって明確な風景を捉えた時──
「な、なんだあこりゃあ……」
──そこには、巨大な"穴"があった。
空間に開く、二次元の穴。
大壁の前で開き、巨大な氷の触手を押し入らせた。
あれよりも更に数倍は大きな、ポータルだった。
「すごい……」
疲労の極地に達しつつあったクロスすら、思わず呼吸を忘れて呟きを漏らした。
それは、あまりにも巨大で、広大で、長大で、まるで現実感のないものだった。
視界を埋め尽くすほどの広がりを持つが、あまりにも大きすぎて全く距離感が無い。
自分のすぐ眼前に広がっているようにも、遥か彼方の夜空を見上げているようにも思えた。
魂ごと吸い込まれそうな妙な吸引力があり、見続けていると平衡感覚を失ってゆらゆらと体が揺れた。
トグナイアの山々どころではない。山の頂から地の底まで一飲みできてしまいそうなほどの大きさで、どれだけ見上げても天辺は霞んで見えなかった。
「この規模、ゾルインどころではない。間違いなく史上最大規模のポータルじゃ」
ヘリルメリアもこぼす。
魔界と現界を繋ぐゾルイン・ポータルは「山すら運べる」と言わしめるほどの大きさだが、これはその比ではない。
そこから漏れ出る魔力の量も。
「この穴が見下ろす野を視野、と呼ぶならば、これはさしずめ"目"じゃな」
"スラマウズの目"。示し合わせるでもなく、三人ともが同時に、その言葉を頭に浮かべていた。
彼の手記は正しかった。たまたま地吹雪が薄れた時に、彼は遠くにそびえるこのポータルを見て目だと解釈したのだ。
「どこに、通じているんでしょう。すごい魔力量だ。服越しなのに、肌にびりびり来る……」
「知らない方がいいところだろうさ」
トッテンバットがソリの曳き綱を降ろし、拳を握った。
「ここが、連中の源だ。間違いない、氷の軍勢は、ここからやって来るんだ」
それなら、と結んで魔力液のビンを籠手に突き刺す。
ヘリルメリアは腰に手を当てて一息、大きく鼻息をつくと、一歩を踏み出した。
天体級の巨大ポータル。
そこから何が現れようとも、前に進むためにここまで来た。
秘密を探り当てるまで、まだ帰れない。




