軍の魔女23
走り始めて十数分は経っただろうか。
トッテンバットはようやく膝をつき、ソリを雪原の上に投げ置いた。
荒く息をつき、肩を揺らしながら荷物も下ろす。
「戻ら、なきゃ」
ソリの上で呻くようにクロスが呟く。
うわ言に近い朦朧とした言葉だったが、はっきりと聞き取れた。
「メリアさん、助け、ないと」
魔力の消費と疲労はトッテンバットとて同じ。
だが彼は目を閉じて深呼吸をすると、己を奮い立たせるように雪原を叩いて立ち上がった。
荷物を開き、シャベルを一本引き出したらば、即座に雪へ突き立てる。
疲れた体に鞭打って一心不乱に掘り進み、簡易なかまくらを作るのだ。
一晩を過ごすための頑丈で広々としたものではなく、緊急避難の風除けのための塹壕。
突き当たりを横穴の形に掘り、横になって休める最低限のスペースだけを確保する。
「少し借りるぞ」
クロスのカンテラを取り外し、点火してから木筒に吊るす。
そして木筒はかまくらの近くに突き刺した。これで、地吹雪の中でも明かりを頼りに合流できる。
引っ返して、ヘリルメリア司令官を助けることはできない。
彼はそう決断したのだ。
クロスをかまくらに押し込んで横たえさせ、それから自分も体を滑らせるように入る。
火を熾すこともできない狭さだったが、出入り口には風除け雪除けとしてソリを立てかけてある。
冷たい寝床も、しばらく身を置けば温まりもするだろう。
とにかく今は、二人とも体を休めるしかなかった。
そして、待つしかなかった。
風の音がごうごうと、二人を押し潰そうとするかのごとく轟く。
一面の雪の天井は常に崩れ迫ろうとしているかのようで、心をざわつかせた。
籠手の手の甲にある金具を引いて横にずらす。
ばね仕掛けによって蓋が開き、十分に温められた温石をつまみ出すと、巾着に詰めてクロスの左側の懐に押し込む。
もう片手の温石も同じように取り出し、右側の懐に入れてやる。
これで、多少なりとも肺と心臓が温められるだろう。
単なる一時的な酸欠状態であっても、この極限環境下では命に関わる。
あとはクロスの生命力次第だが、そう割り切って心配せずにおれるほど、トッテンバットという男は冷たいボーグルではなかった。
「クロス、聞こえるか?」
話しかけるが、返事はない。
だが朦朧とした意識の中にあっても、聴覚そのものは失われていないはずだ。
「あの人なら、司令官なら大丈夫だ。あの人はお前に軍の色んな話をしたろうが、自分のことはまるで話さなかったろ?」
トッテンバットとて、雪の天井の圧迫感に耐えかねたのかもしれない。
返事などなくとも、寝そべったまま言葉を続けた。
ただ押し黙って時を過ごすには、風が叩きつける轟音はあまりに落ち着かなかった。
「俺が、話してやる」
ダグナマンバの新任要塞火術士として着任したトッテンバットは我が目を疑った。
顔合わせで初めて目の当たりにした総司令官の見た目が、年端もゆかぬ少女だったからである。
彼女のことは聞き及んでいた。五大将のひとりヴォロイスの元妻で、学者や技術者が持ちうる称号として一つの頂点である魔女名持ちの魔女。
今や世界にただ一人の人間化したハンター。彼女一人のためにハンターは民族認定され、一方的な狩猟または駆除が禁じられている。
人間としての法が適用される唯一のけだもの種族、その根拠たる人物。
目の前で椅子にふんぞり返っている少女が、それだというのか。
周囲に控える男たちの方が、よっぽど風格も威厳もあり、眼光鋭く歴戦を感じさせる。
だがそんな彼らをして、態度に揺らぎもなく、状況を訝しむ素振りさえなかった。
「火術士のトッテンバット・ギィレググです。ヨロシクお願いします」
高貴な作法や軍人の礼法など知らない。流れるような美辞も言えない。
だが精一杯かしこまって、頭を下げる。
「うむ、まことにご苦労」
田舎者丸出しの作法を咎めるでもなく、にっかりと笑って迎える。
声も弾んでおり、歓迎を予感させた。
だが、当のトッテンバットは驚いていた。
街中に潜伏したハンターの捜索と捕縛に参加した経験がある彼は、ハンターとはどのような怪物かを間近で見知っていた。
表情も声もなく、凍てついた幽霊が如きたたずまい。
美しいが故に人形めいた不気味さを放つ風貌をぐちゃりと崩して襲いかかる様は、彼をして恐怖を抱かせるものだった。
目の前の少女からは、そのような空気を全く感じないのである。
人間だと告げられれば頷いてしまうだろう。
「出身はコギ谷と聞いた。"石の魔女"には会うたか?」
ましてや、雑談を仕掛けてくるなど。
「先代の"石の魔女"殿には良くしてもらってました。郷里を離れたので、そのお弟子さんとはあんまり……」
「グリ・ディガ卿とヴルヴ伯爵より感状を贈られたようじゃが、どういういきさつじゃ?」
「グリ・ディガ卿の移動船に船火術士として乗り組んでいた時に、海賊に襲われまして。乗り込もうと寄せてきたもんですから、船を火だるまにして包囲を突破させたんです。それで命が助かったってことでもらいました。もう一枚はサーレーションで脱走した猛獣をとっ捕まえて、領主にもらいました」
困惑混じりに話すと、幼き司令官は顎をなでて唸った。
本当に人間と見紛うほど、自然でなめらかな動きだった。
「その脱走した猛獣というのはハンターのことであろう。余計な気遣いは無用じゃ、わしの夫とて何人ものボーグルを戦さ場で殺めておる」
看破され、言葉もない。
どう返したものか窮しているうちに、次の問いが飛んできた。
「アルセンケート火薬の製法と問題点は?」
思わず「へえ?」と聞き返してしまった。
これまでの会話とは全く異なる専門的な質問に意表を突かれたのだ。
「答えよ。アルセンケート火薬の製法と問題点じゃ」
「その、よく干し藁を食わせた羊の糞に山狐の骨粉と黒土を混ぜ合わせて、水に27日漬け込んだ後、その水を蒸発させて残った糞硝に硫黄と炭粉を混ぜてよく干せば、出来上がります」
「問題点は?」
「魔力液よりも燃焼が遅く、生産効率も低くて、何より原料になる山狐がもう絶滅しちまってることです」
「よろしい、では炎色剥離反応と好感性魔力触媒の相関は?」
「いつでも魔力が漏れてる状態の触媒の魔力性質が、空気と一緒に炎に取り込まれて、温度差による濃淡って形で反映されます。高温の場所は魔力が濃くて、低温の部分の魔力が薄くなるもんですから、色毎に炎が切り離されて分離するような反応になります。触媒の強さ次第じゃ、切り離された濃くて熱い炎がそのまま火エレメンタルになっちまう時もあります」
「うむ、良いじゃろう」
椅子から立ち上がり、手を一度叩く。
それを合図に、片手首から先が金属の鉤になっている男が歩み出た。
「サイラス、案内してやれ」
「はっ」
こうして、トッテンバットのダグナマンバ要塞での生活が始まった。
サイラスに連れられて退室する際に改めて顧みると、ヘリルメリアの満面の笑みが返ってきた。
さすがは、魔女か。
トッテンバットの抱いた印象はおおよそ、そのようなものだった。
そしてその印象に違わず、総司令官は聡明で理知的で合理的な人物だった。
人当たりも良く、明るくて痛快な気質は兵士たちのみならず近隣住民からも慕われていた。
トッテンバットの主な仕事は食料庫の管理と魔力液の品質管理で、冬が訪れるまでの間は、しばらく平易な日々が続いた。
正体がハンターとは思えぬほど、ヘリルメリアは温厚で気さくで、学者や軍人というより、故郷で家族と一緒に働いていた労働者たちの姿を思い起こさせた。
要塞と、勤める部下たちのことも熟知しており、単なる一兵卒に至るまで名前を記憶に留めているのには素直に驚きを覚えたものだ。
共に過ごし、その姿を見れば見るほどに、やはり少女でも獣でもなく、熟成した一人の人間なのだと思えた。
やがて、冬がやってきた。
まさしく、地平の果てから「やって来た」のである。
本丸勤めであり最前線には立たなかったトッテンバットであるが、前庭に飛来する"つぶて"を見て愕然としたものだ。
それはクロスが感じたものと同様の驚きだったが、この日はそれのみに留まらなかった。
滅多にない偶然の重なりが起きたのである。
"つぶて"が大壁と前庭を越えて本丸に直撃するのは稀である。
投擲を行なった氷の巨人の形状や体重が、投げられる"つぶて"の重さや形状と条件的に合致していなくてはならず、追い風を最大限利用できる絶妙な投射角度と風速によって打ち出されなければならない。
追い風は飛距離を伸ばすが、速度の上昇は空気抵抗による軌道のぶれを激しくする。
球形ではあるが細かな凹凸だらけの"つぶて"のほとんどは、前庭の手前で失速し大壁か前庭に弾着するのだ。
ダグナマンバ要塞自体も、その現象を見据えた上での設計がなされているのであるから、本丸への直撃弾は十日に一発もあれば多い方と言えた。
しかも、外郭である第五郭部は分厚く、氷の砲弾などはハネ返してしまう。
複数発、それも同じ場所へ同時に直撃されない限りは決して貫通などしない。
その、偶然が起きたのである。
三体の"つぶて"が本丸の外壁、ほぼ同じ地点へ同時に直撃したのだ。
うち二体は壁を破る際に自らも粉砕されたが、一体、原型を留めての侵入を果たしてしまう。
このような事態は30年に一度あるか無いかという珍事であり、赤槍隊も即応できず、囲んで押さえ込み抑止するという対処が一瞬遅れてしまった。
その遅れを逃さず、一体の"つぶて"は第五郭部の通路を走った。
坂道を転がり落ちる車輪が如く、ひたすら道に沿って転がり、途上のもの全てを踏み潰した。
阿鼻叫喚、断末魔、悲鳴が轟き、兵士たちが逃げ惑う。
一度勢いづいた"つぶて"を人の手で止める術はない。
ひたすら轢き潰され、蹂躙されるのみである。
いくつもの死体と負傷者が転がり跡に残された。
骨を折られて呻く者、回転に巻き込まれて皮膚を剥がされながらも死ねず、荒く息をつく者。
暴走する戦車が市場を駆け抜けるようなものである。瞬く間に多くが潰れ、ひしゃげた。
そして、トッテンバットもその一人になるはずだった。
遠くの悲鳴に気づいてふと振り返った時には、目の前まで迫っていた。
逃げる暇も声をあげる暇も身構える暇すらなく、ただ目だけが上を向くのみ。
不気味なほど透き通った氷の塊と、こびりついた血と肉片。
彼が見る最後の景色となるはずだった。
こきん、と小気味よい音が響く。
黒い流星が視界の端をかすめた。
壁をくり抜くように破り、"つぶて"に突き刺さる。
盤石を鉄球が砕くのに似た衝撃音と共に、砂埃が視界を覆った。
全ては一瞬で定かならず、まともに見えたのは廊下の壁へぶっ飛んでいった氷の塊のぬらついた輝きだけ。
思わず体を丸めながら咳き込むトッテンバットは、何が起きたか全く理解していなかったのだ。
自分が死にかけたことも、それでもなお生きている奇妙さにも気付いていなかった。
「まったく」
砂煙の奥から耳を打ったのは、幼い声。覚えのある声。
「擬皮が破れてしもうた」
煙が晴れたその先にあるのは、崩れた壁の瓦礫、砕けた氷、そしてそれらの上に立つ総司令官ヘリルメリアだった。
左腕の皮が指先から二の腕まで真っ二つに裂けており、べろんと垂れ下がった片方を忌々しげに見下ろしている。
「し、司令官? 一体なにが……」
戸惑いながらも声をかける。
まず返ってきたのは「おお! 火術士か!」という弾んだ声と、ひょうきんな笑顔だった。
「ちょうどよかった、タンガの奴を呼んでくれぬか? わしは大壁に戻らねばならんからの」
「大壁って……その傷は?」
「ああ、後で縫い合わせておく。とりあえず──」
裂けた皮の片方を包帯のようにぐるぐると左腕に巻きつけて、もう片方を縛り付ける。
皮がぶらぶらと垂れて遊ぶようなことはなくなったが、人の皮を縄のように扱う姿には尻込みさせられてしまった。
「──これでええじゃろ。じゃッ、ここはタンガに任せるからの」
まるで気に留めていないかのように、そして実際に気にしていないままに、颯爽と左手を上げて挨拶する。
それっきり、あっという間に廊下を走り去っていってしまった。
少しの間、呆然としていたトッテンバットだったが、やや経って我に返った。
"つぶて"に轢かれた犠牲者たちのうめき声が耳に入ったからである。
すぐさま救出にかかり、程なくして呼ぶまでもなくタンガ率いる救護隊も到着した。
数多の負傷者を応急処置し、運び、癒す手助けを繰り返しているうちにその日の戦は終わり、火術士としての忙しさが加わった。
破損した装備の集積と記録、修復用の鍛治設備の稼働と炉の管理、未使用の投炎弾からのイラギ粉除去作業と入庫。火術士が行うべき戦後業務は他にも様々で、山ほどもある。
しかも、これらの戦後業務を一連の流れとして実践するのは、この日が初めてだったのだ。
一日中ほぼ休みなしで働き続け、気を張り続け、集中を続け、全てが片付いた頃には、消灯時間になっていた。
そして、寝床で横になってようやく息をついた時、彼は初めて、自分が今日死にかけたのを実感できた。
自分が"つぶて"に押し潰されそうになった。そこで、何が起きたのか。
目を閉じて記憶を探り、魂に心を落とし込む。
しかし彼の胸中に湧いたのは死の実感への恐れではなく、静かながらも抑えがたき昂揚であった。
司令官は、大壁の指揮をとっていたはずだ。
だが"つぶて"が飛来した。三発の軌道を見て惨事を予感し、躊躇なく大壁から飛び降りたのだろう。
と言ってもただ落ちたのではなく、擬皮の翼で追い風を捉え、加速しながら滑空した。
突起と触手の形を揃え、空中で全身を一本の槍と化して。
翼で追い風を受けつつも鋭い角度で下降し続け、空気抵抗を減らし、三発の"つぶて"でようやく破れる第五郭部外壁を貫いたのだろう。
しかもそのまま"つぶて"を射抜き、縫い留めるように廊下の壁に叩きつけて砕いたのだ。
その上、彼女はこれら全てを道具など用いず、生身で行ったのだ!
そんなことができる生物が、いや、人間が、この世に二人といるだろうか?
混沌とした最前線にあって即座に危機を読み取り、危険を顧みず自ら飛び込む。
しかもその判断は最善かつ的確。ハンターとしての自らの身体能力と感覚の鋭さを確信し、戦術に組み込んだ上で、その読みに命までをも賭けられる胆力。
生身で城壁を貫き、人ならぬ怪物を易々と砕き、すぐさま戦場の最前線へとって返す。
ことも無げに、当たり前に、日々続ける仕事の一環のように戦う。
どんな人間にも、ハンターにも、彼女の夫たる偉大なる将帥ヴォロイスにすら不可能な芸当だったろう。
ひたすらに将帥だった夫とは違う、将にして戦士、大胆な指揮官にして勇敢な兵士。
あれが、ダグナマンバの総司令官、ヘリルメリアなのだ。
戦いの日常によって定義される、戦場の申し子。
彼女がここにいるのはヴォロイスの妻だからでも"軍の魔女"だからでもない。
ヘリルメリア。
彼女の力が、はっきりと大要塞に必要だからなのだ。
そう確信した時、トッテンバットの魂を燃える稲妻が駆け抜けた。
自分は伝説を目の当たりにしているのだという高揚感が全身を包み、肉体はそれを身震いと肌の粟立ちで表現したのだった。
彼女は他者のために危険を冒す程度のことなど、呼吸のように行えてしまうのだから。
「あの人のようになりたい」という漠然とした思いが、明確な立像を得た興奮が、彼に体を休ませなかった。
「──あの時から、俺は司令官を信じ抜くと決めた。だから大丈夫だ、あの人が俺たちなんざよりも先に殺されるわけがねえ」
ひとしきり語って息をつくと、合わせたように、寝息が聞こえた。
首だけで横を見ると、クロスが安らかな寝顔をさらしている。
いつからかはわからないが、眠ってしまったか。
いや、今はそれでいいのだろう。
そう納得して雪の天井へ視線を向けた時、足元の先から音がした。
扉をどんどんと叩くような音だ。かまくらの入り口を塞ぐソリを叩く音なのだ。
天井を掴み、寝たまま背中を滑らせるようにしてソリを蹴り倒す。
そのまま全身を外に出してから体を起こすと、目の前には、もう立っていた。
ヘリルメリア総司令官。彼女が、変わらぬ姿で。
息こそ荒いものの、どこもくたびれず、傷つかず、破れていなかった。
「お戻りで、司令官」
安堵しながら、信頼もあったという証を笑顔で示す。
だが、司令官は笑顔を浴びせ返すという普段の行為とは、逆のことをした。
張りつめた表情と急いた口調に、やや興奮を滲ませたのである。
「トッテンバット、日誌はどこじゃ?」




