軍の魔女21
三人は風に逆らい、雪の中を進んでいた。
先頭に立って雪を溶かしているのはトッテンバット。
そのすぐ後ろにクロスが続き、3mほどの距離をあけて荷物を曳くのはヘリルメリア。
時刻は昼過ぎだが、一行は先を急いでいた。
あの吹雪は結局一両日吹き荒れ続け、三人は丸一日かまくらの中で足止めを食ってしまったのである。
それを取り戻すためには氷の森を斜めに抜けなければならず、氷の軍勢が支配する領域の端をかすめてしまう。
そのため、ヘリルメリアが他の二人から少し距離をとって、敵の襲撃に備えているのだ。
少しでも広く展開して索敵範囲を広げ、可能な限り素早く敵の襲来を知る。特に背後からの攻撃を警戒して。
これは、そういう"陣形"であった。
「そろそろ交代しましょう!」
トッテンバットの巨躯を風除けにしながらも、クロスが声を張る。
強風の音に負けぬ声を彼が出すためには、肺と喉に大きな力をかけねばならなかった。
「いいや、まだいける! 司令官はどうだ!」
両手を前にかざし、指先から吹き出す炎で雪を溶かす。
トッテンバットの巨大な金属籠手は魔力液を燃料とする。
つまりは、"尽きぬ種火"を使うクロス、豊富な魔力と強靭な肉体で火の魔法を放出するヘリルメリアに比べ、彼の火術は早めに尽きる。
とはいえ、それが尋常の火術というものであった。
クロスが振り向けば、地吹雪の奥に小さな影がかすかに見えた。
たった3m後ろを進むヘリルメリアの姿すら、今は目を凝らさねば見えなかった。
背負っているたいまつの光がなければ、氷エレメンタルとの区別すらできないだろう。
「異常なしです!」
そう伝えられると、トッテンバットは引き続き黙々と雪を溶かす作業に戻った。
魔力液を燃料としていても、その点火は魔漏法によって行わねばならない。
極寒の地に於いては他の点火方式も頼りにならず、魔石の持ち合わせもない。
そのような状況での火術の継続行使は、熟練の火術士であっても大きな負担となるはずだった。
クロスの目からでも、いかめしいトッテンバットの顔に脂汗が浮いているのが見て取れる。
「トッテンバットさんは、どうして火術士になったんですか?」
思わず、問いが口をついて出た。
疑問を吐き出さずにはいられないクロスの性質が表に出たのである。
「風がマシになったら話してやる!」
トッテンバットの返答はあしらうようなモノであったかもしれない。
だが、約束には違いなかった。
三人は地吹雪の中を進む。氷の木々の間を縫いながら。
トッテンバット・ギィレググ。
「硬い錫」を意味する名の由来の通り、彼はコギ谷の出身である。
魔界から移住したボーグル人鉱夫の家に生まれ、父と二人の兄は筋金入りの鉱山労働者だった。
母も男たちを家庭で支え、家事に子育て金勘定をやり繰りし、働き手が職場での労務に専心できるよう切り盛りしていた。
そんな家族の背中を見て、トッテンバット少年も自分は将来鉱夫になるのだと信じていた。
家族を愛し、敬う誠実さを持っていた幼い少年の心には、純真な愛と疑いなき正義があった。
愛する家族に楽をさせるために力いっぱい働く。そんな自分の未来に一点の曇りもなかった。
ある日、鉱山で落盤事故があった。
ボーグル人は採掘の技と山の知識にかけては随一だが、それでも山そのものを支配することはできない。
人事を尽くしても、地命の機嫌次第で事故は起きてしまう。
その確率を0%にするのは統王であっても不可能だろう。
問題は、それがいつどこで起きたかである。
この落盤事故で、トッテンバットの父親を含んだ17名が出口を塞がれ生き埋めとなったのだ。
掘り出そうにも落盤が可燃ガスの溜まり場である空洞を突き破りかけており、掘削による衝撃や崩落で落盤が空洞をブチ抜けば間違いなく大惨事となるだろう。
幸いにも、食料や水などの物資を渡せるだけの隙間は空いていたが、長くは保たない。
ガス溜まりの補強やガス抜きの工事も、生き埋めにされている鉱夫たちを救出してからでなくては行えない。
彼らを助けるための工事が、彼らがいるために行えない。
そのような状況で数日、打開策を話し合い続けている間にも彼らの体力は弱り、ガス溜まりの壁が崩れる危険は高まっていく。
トッテンバットの家でも、日々絶望が増していった。
気丈で明るい母が毎日のように泣き崩れ、たくましい兄たちも狼狽していた。
母をどう慰めて良いのかすらわからず、ただ沈みゆく空気に任せて押し黙る他なかったのはトッテンバットとて同じだった。
彼らの命は風前の灯。折悪く"石の魔女"もハールーン島へ出向いており、到底間に合わない。
村中が悲愴と絶望に覆われるまで、さほど時間はかからなかった。
その時、ふらりとよそ者の火術士が現れた。
ボロボロの赤いマントで痩せこけた体を包んだみすぼらしい男で、先端が常に赤熱している鎖を持っていなければ浮浪者だと思われていただろう。
彼は衆人環視の中、見た目通りの震えた弱々しい、頼りない声でこう言った。
「生き埋めにされた者たちを助けよう、錫鉱石600kgの権利を支払ってくれるのならば」
村の代表者たちは目を丸くした。
質のいい錫鉱石が採れるコギ谷に於いて、600kgというのは個人が得る利益としては破格である。
鉱石というものは一粒では同質量の石とさほど価値は変わらない。
だがまとまった量が増せば増すほど価値は加速度的に高まる。鉱石を精錬し、加工する事業者は常にまとまった量を欲するからだ。
皆は様々な反応を示した。
見た目通りの乞食か、人の弱みにつけこむグリタカか、こんな男に任せてガス溜まりが崩れたらどうする、と罵り唾棄する者。
怪しいのは認めるが、この際ほかに手はないのだから彼に任せるのが最善なのではないか、と肯定する者。
鉱山の経営者であるグラウニン氏に無断でこのような取引を行うのはいかがなものか、と日和見する者。
だが、結局は二つに一つ。やらせるか、やらせないか。救うか、更に待つか。
そうなった時、被害者の家族たちは火術士に賭けるよう、すがって皆に請願した。
当時は、本当にそれしか望みがなかったのである。
そうして、被害者たちの命運は一人の素性も知れぬ、名乗ろうとすらしない怪しい火術士に委ねられた。
小石一つ拾い上げるのにすら手が震えるような男がどうやって強固でありながら脆くもある、厄介極まる落盤をどかすのか。反対していた者たちも見ものに思い、協力の意思を示した。
だが、彼は落盤をどかそうとはしなかった。
コギ谷の錫は太古の火山活動の賜物であり、溶岩から分離したものが冷え固まって、更に「コギ山がコギ谷となるほどの何らかの大異変」の影響によって高密度化したと考えられている。
溶岩から分離する際、切り離された残りの物質の一部が可燃ガス化して大部分は大気中に放出された。
だが偶然地層や空洞に取り込まれ密閉されたものがガス溜まりとなったのだ。
そういったガス溜まりは何らかの大異変の際にほとんどが崩壊したか、ガス抜けしたが、生き残りがごく少数いたのだ。
その可燃ガスの正体を、火術士はヴロウハグ──"踊る霧"と呼ばれる物質であると見抜いた。
自然界には稀な物質で、化学反応により空気を水に変える性質を持つ。
そのため、このガスがある場所では、ガスの動きに合わせて霧が動いているように見えるのだ。
だが、ガスそのものはわずかな火気にも反応して爆発的に燃え上がる危険なモノである。
戦に用いられたこともあり、その時は城を丸焼きにしてしまうほどの威力で、後に使用した勢力の王によって禁じられた。
土地一帯を焼き払って使い物にならなくしてしまい、大量の難民を生じさせ、その始末をせねばならなくなったからである。しかも味方への被害も甚大であった。
コギ谷がそうならぬ保証など、どこにもない。
事は17人の鉱夫の命に留まるモノではなかった。
それらの事実は、トッテンバット少年が大人になってから初めて知ったものであるが。
火術士は、そのような状況をいかに処したか。
彼は鍋いっぱいに茶を煎れさせた。大量の茶葉を煮詰め、出涸らしになると取り出して新たに同量の茶葉を押し込んだ。
それを7度繰り返し、鍋底が見えぬほど濃いお茶になると、そこに錆びた鉄釘とガロウの骨髄、そして巾着に入った青白い粉をひとつまみ加えて煮込んだ。
4時間も煮込んだそれを落盤の現場に運ばせると、周囲に丹念に撒いた。打ち水でもするかのように、隙間なく、丁寧に。
一体何をやっているのか、訝しむボーグル人たちに彼はこう告げた。
「明日、太陽の端が地平線に触れた時、落盤を掘り彼らを助けなさい」
疑いもあったが、一度任せると決めたからには従おうということになった。
かくしてその通りに落盤を掘り進め始めると、途中で足元が崩れて落盤がガス溜まりをブチ抜いた。
大爆発が起こる、全員が死ぬ。そう察して全員が息を飲んだ次の瞬間──
──全員が、その息を吐き出した。
何も起きない。
ガス溜まりを抜いたのに、崩れた岩がぶつかって火花が弾けたはずなのに。
人々がそこに足を踏み入れると、そこにガスは無かった。
"踊る霧"は影も形もなく、水たまりと夜露で濡れたようになった岩だけがそこにあった。
火術士は知っていた。ヴロウハグは空気に触れ化学変化することで初めて可燃ガス化することを。
"踊る霧"は霧をまとってこそなのだと。
ゆえに、その霧に混ぜ物ができれば、確実にその物質でガスを包むことができる。
経験から、最も有効なのはホルパの発酵茶葉を煎じたもの、酸化鉄、ガロウの骨髄に含まれる水溶性の刺激物質、そして決め手となる青い火で精製したトマナ砂糖。
霧にそれらを混ぜたならばガスは再び化学反応を起こし、無害化されるのだ。
そして土は、空気を遮断しても水は浸透させる。水溶性の物質であれば、水を媒介としてガス溜まりの中にも送り込めた。
こうして17名の鉱夫は全員が救出された。
衰弱していた者もいたが、やわらかい寝床と新鮮な空気、栄養のある食事で回復できるものだった。
火術士は村人たちから讃えられ、被害者たちとその家族らは涙声で何度も感謝を述べた。
だが、当時の鉱山の経営者である魔界の商人グラウニンは、報酬の支払いを拒否した。
「錫鉱石600kgを渡す約束などした覚えはない」と。
事実、魔界にいる彼はそのような約束を交わしてはいない。
グラウニンの承認を待っていては間に合わなかったため、現地の人々の判断で救出を依頼したのである。
その点を突かれたのだ。口約束も書状もなければ証書もない報酬の支払い約束など、簡単に踏み倒せる。
ましてや相手は流れの火術士。何の後ろ盾も因果もない相手に、利益を払うはずがなかった。
それでも、領主に、行政使府に、統王に訴え出れば、相応の報酬を受け取れただろう。
だが、彼はそうしなかった。被害者の家族たちがせめてもの、と出し合った金も受け取らなかった。
「正当な報酬ではない、あなたたちが払う必要はない。事故が起きたのは組織的な安全管理に投資をせず、現場の技術と経験に甘えた経営者の責任なのだから」
そう告げて立ち去った火術士の細い背中を見て、トッテンバットは彼が見すぼらしく痩せている理由を悟った。
そして、憧れを抱いた。
父親を救ってくれたのに、何も受け取らずに去っていった一人の火術士。
何にも頼らず己の信義を貫き、貧しさへの怒りも恨みも抱かぬ強さ。
家族のために役立ちたいと願っていた純真な少年は、いつしか人のために役立ちたいと思うようになった。
彼のようになりたい。その一心で、トッテンバットは故郷から世界へと羽ばたく決心をしたのである。
諸国を巡って独学で火術を学び、雇われ船火術士として口に糊しながら世界を漫遊するうち、ダグナマンバ大要塞付きの要塞火術士を己の天職として見定めたのである。
名前も知らない、見すぼらしい流れの火術士。
それが、彼の心で輝く目標であり、人生という森を進むための羅針盤だった。
風が弱まり始めた頃に、トッテンバットはそのような話を歩きながらしてくれた。
「その火術士の方とは、再会できたんですか?」
「いいや、礼が言いたくて探したが……居場所も名前もわからなかった。かなりの腕前だったろうにな」
「もうどこかでのたれ死んだのかもしれない」と語るトッテンバットの言葉とは裏腹に、彼の表情は曇っていなかった。
ただ真剣に、懸命に前へと進もうとする、仕事人の顔がそこにあった。
「む?」
だが、不意にその手がぴたりと止まった。
何か異常があるのか、心配して覗き込もうとクロスは歩み出る。
その瞬間、ひょいと担ぎ上げられ肩車されてしまった。
突然で何のことか、どういう意図なのかわからず慌てるクロスだったが、視界の端が前方をとらえた時にその理由を知った。
彼の目の前に広がるのは、透き通った氷の木々ではない。
広大無辺な地平線まで続く雪の原と、点在する白い丘。
曇り空のかすかな陽光を受けて刃物のように鈍く光る雪原は、人を呑み込もうとする黒海がごとく威圧的だった。
白い丘も、傾斜がなだらかであるから丘だと思えただけで、実際は並の山よりも高いだろう。
氷の木や遮蔽物は一切見当たらず、雪原というよりは広大な白い砂砂漠のようだった。
「見えたか!?」
「はい、雪原です! 森を抜けました!」
即座に、言うべきことを返す。
目的地はまだ先だが、ひとまず森を抜けたのだ。
「敵だァ!」
しかしそのとき、二人のものではない声が響き渡った。
咄嗟に振り返ると、ヘリルメリアがソリを曳きながら必死の形相で走ってくるのが見えた。
風の弱まりに従って、彼女は10mほど後方まで下がっていたのだ。
「敵だ! 登れ!」
走りながら、彼女がもう一度叫ぶ。
その直後に、トッテンバットが気合の一声とともにクロスを力一杯投げ上げた。
細くも、重装備で着ぶくれた体が小石のように浮き上がり、前方の雪原の端に着地した。
溶かし進んで作った道は背丈を越えるほど深いものになっており、道というより塹壕や堀のようだった。
その上に投げ上げられたのだが、体が深く沈むようなことはなかった。
クロスはすぐに体を起こし、ヘリルメリアの方を見る。
走りながら擬皮を脱いでいる彼女の後ろ、雪の塹壕を崩して潰し、押し広げるようにして、巨大な雪玉が一つ転がっていた。
同じものをダグナマンバで見たことがある。
走り回り、転げ回る氷のエレメンタル、"つぶて"だ。




