軍の魔女20
「メリア」
聞き慣れた声で、ヘリルメリアはまどろみから目を覚ました。
ぼやける視界をこすり、よだれを拭くと、よく見知った顔が目の前にあるのに気づいた。
「メリア、起きて、メリア」
ゆさゆさと体を揺さぶられて、ようやく眼前の状況が呑み込めた。
ベンチソファで横になって昼寝をしていたのを、起こされたのだ。
自分の体を揺さぶっている、この男に。
「あなたぁ〜!」
体を起こし、しなだれかかるように抱きつく。
上半身を密着させ、甘えるように胸板に頬を押し付けた。
男は少し戸惑ったように硬直したが、すぐ後には優しく、それでいて独り占めするように抱き返した。
「寂しかったかい? ちなみに、ぼくは寂しかったよ」
「あたしはあんまり寂しくなかった。夢の中でもこうしてたから」
「じゃあこれは夢の続きだね」
「夢より、こっちの方がいい」
甘くささやき合いながら、愛おしげに抱きしめ合う。
遠巻きに眺めながら働くメイドたちすら、その様には顔を赤らめた。
二人が結婚して6ヶ月、ヴォロイスは既に一端の将として成長しており、3000の兵の指揮を任される立場となっていた。
ゴン・ガンク族はハーバント家の本拠地にして、コードランのお膝元である"ワルカレッタ・ザオ"に邸宅を持ち、使用人六人、妻一人と共に暮らす。
使用人と妻は扶持にて養っているが、家は主君であるコードランから結婚祝いとして贈られたもの。
主君好みの、機能的かつ飾り気の少ない質素な屋敷だったが、ヴォロイスも彼の妻もここを気に入っていた。
うら若きヘリルメリアは、推定でもヴォロイスより10歳は年下。
その美しさは弾け輝いており、ハンターであることを知らぬ青年たちならば、誰もが振り向いた。
切りそろえられた艶やかな黒髪、いくつもの彩りを細かく散りばめた金色の瞳、白く滑らかで柔らかい肌、それはまさに傑作だった。
しかしヴォロイスが愛したのは、その下にあるハンターとしての彼女であった。
「それより、頭痛の方はどうだい? 大丈夫?」
「だいぶ良くなった。今もどんどん良くなってる気がする」
「ならよかった、安心したよ。やっぱり君を置いて出仕すべきじゃなかったかもしれないね」
「今日は休みたいって言ったのはあたしの方だもの、あなたは気にしなくていいのっ」
ヘリルメリアに公的な役職は無かったが、毎日夫と共に登城し、軍議に加わり、それが終われば主君の家族らと雑談や遊びに興じるのが習慣となっていた。
二人は常に一緒にいたが、ここ最近はヘリルメリアが体調不良により自宅で休養することもあった。
「ところで、安心ついでにもう一つ訊いてもいい?」
「なぁに?」
「台所がコゲくさいんだけど、大丈夫?」
「あっ!」
弾かれたようにぱっと離れ、台所へ駆け込む。
かまどの鍋を覗くと、せっかく煮込んでいたソースが黒く焦げ付いてしまっていた。
指ですくって舐めてみても、隠しきれぬ焦げの苦み。台無しだ。
「ううぅ」
家にいる間にせめて料理でも、と思い肉料理に手を出したが、ソース作りの最中に頭痛を覚えて少し休もうとしたのが運の尽き。
少しの休息のつもりで寝入ってしまい、夢の中で料理のことも忘れ果ててしまっていた。
今はがっくりと、肩を落とすしかない。
「大丈夫」
その肩を、ヴォロイスが後ろから抱きとめた。
ハンターの擬皮は所詮"擬"であり、そこにある温もりも生命の温かさではなく、肉の温度でしかない。
だが二つの魂が交わし合う温かさは、愛という温度の真実を確信させた。
心が安らぎ、同じ時間がずっと続いて欲しいと思わせた。
そして事実、二人はそうなるよう行動していた。
「料理はまた作ればいい。今日は何を作ろうとしたの?」
ヴォロイスは背丈こそヘリルメリアを上回っていたものの、その風貌は少年のようであり、纏う雰囲気にも幼さがあった。
ハンターがつくる擬皮の特徴でもあるが、保護欲をかきたてるその姿と相反するような、奇妙な包容力があった。
「……羊肉の煮込み」
そのせいで、つい必要以上に落ち込んで見せて甘えてしまう。
だがそれに気づいても、咎めはせず、むしろ耳元で小さく笑いかけてくれた。
「うまくいかないこともあるよ。でも足踏みじゃない、少しずつでも前に進んでいくのが大切なんだ。次はまた違う失敗をしてしまうかもしれない。けれど、それでいいんだ。料理の失敗は、死にはしないからね」
「でも、これで7回目よぅ」
「……確かに、ちょっと多いね。フーラルに教えてもらったら?」
フーラルとはこの家に仕える炊事担当のメイドの名である。
東のガカン大陸出身のピスファフォイ人で最近までナーガ家の秘密工作員だったが、予算不足で解散したためハーバント家に移り、この邸宅の賄い婦として再就職したという経歴を持つ。
その前職ゆえに仕事ぶりは完璧で、常に冷静かつ整然とした立ち居振る舞いは、淑女としてヘリルメリアを凌ぐものがあった。
「いや! フーラルの味とおんなじじゃ、勝てないもん」
いじらしく、それでいて恥じらうように視線を伏せる。
後ろから抱きとめながらそれを見下ろしていて、とうとうヴォロイスは辛抱できなくなった。
もしくは初めから、辛抱などする気はなかったのかもしれない。
「負けず嫌いなんだね、メリアは」
左手が下あごに添えられ、わずかだが確かな力で振り向かせる。
金色の視線が絡み合い、どちらからともなく、あるいはどちらともが求め、鼻先を触れ合わせた。
その間も、金の瞳は猛獣のように相手に据えられ、恍惚をとらえて離さなかった。
「すっごくかわいい」
そして、唇をも絡め合った。
「おいおいただのノロケ話かよ!」
勘弁してくれとばかりにトッテンバットが両手を挙げた。
頬を赤くし、体をくねらせながら語る上官のノロケには堪え難い羞恥があったのだろう。
ヘリルメリアが当時を思い出しながら熱っぽく語る声には、口調に合わぬあどけなさがあり、むずがゆかった。
「ただの、とはなんじゃただのとは! そも家庭での話なのじゃから、そーゆー夫婦の話になるのは当然じゃろ!」
憤慨しながら指差す様も子供のようで、歴戦した軍人らしからぬ姿だった。
クロスは思わず含み笑いを漏らすが、トッテンバット同様むずがゆさ自体は感じていた。
「それで、料理の方はどうなったんですか?」
「それがな! その後も努力を重ねに重ねて、16回目でついに成功したのじゃ!」
「へぇぇ、何を作ったんです?」
「フォシル・ウーカじゃ。おぬしらにも今度振舞ってやるからな!」
ヴォロイスの好物だ、と二人は気付いた。
脂肪分の多いチーズを溶かして味付けし、肉やパンを煮る高地料理。
名前の由来は"牡山羊の鍋"。山羊のチーズを使っているからではなく、山羊が作っても美味しくできるほど簡単という意味である。
「懐かしいのぅ、家では暇さえあれば作っておった。あやつも喜ぶし、フーラルの奴もチーズ料理だけには手を出さなんだ。わしにかなわぬと認めたんじゃな!」
胸を張って鼻を鳴らすヘリルメリア。
トッテンバットが「よくできた女中と旦那さんだったってのは伝わりましたよ」と軽口を叩いても、ほろ酔いで気が大きくなった彼女はますます得意げになる。
クロスも小さく苦笑いを浮かべたが、堰を切ったような彼女と亡夫のノロケ話はずっと止まらなかった。
手を繋ぎ、愛を紡ぎ、冗談を交わし合う微笑ましい恋愛譚から、交わる時の激しさや互いの好きな体位、果てる際の充足感を熱っぽく語る猥談まで。
果ては鎧を着て戦陣に立つ姿が凛々しくてかっこいいだの、敵を打ち砕く激しさと自分を柔らかく抱きしめる優しさの差がどうしようもなく燃えるだの、恋する少女のような話まで披露する始末。
ヴォロイスとヘリルメリアが仲睦まじいおしどり夫婦なのは有名だったが、それについて具体的に著した作品も詩もない。
故に、まさかここまでの純恋愛小説一本ぶんの物語が詰まっているとは思ってもみなかった。
トッテンバットもクロスも、その点を意外に思うのと同時に、前者は「勘弁してくれ」、後者は「ためになるけど恥ずかしいや」と思っていた。
そうこうしているうちに、鍋と椀は空になっていた。
温めた麦酒も一本飲み切り、あとは吹雪が去るまで体温と体力を維持するのみ。
「おっと、もう食い切ったか。べらべら喋っておっても体が冷えるばかりじゃし、寝るか!」
今までずっと喋り倒していたヘリルメリアが出し抜けにそう言ったかと思うと、あっという間に寝床を用意して自分だけ寝袋に包まってしまった。
しかも直後には、もう目を閉じて安らかな寝息を立て始めたのだった。
どんな環境でも熟睡できるというのは兵士として重要な強みだが、トッテンバットとクロスはぽかんと呆気にとられるばかりだった。
「……番はやっておくから、先に寝ていいぞ」
頭をかきながら、ようやくトッテンバットがそう口走ると、なんとはなしに気まずい空気を察したクロスは「では、お言葉に甘えて」とそそくさと就寝してしまう。
もちろん、その前に食器と鍋を雪で洗うのは忘れなかった。
そして最後には、あぐらをかき腕を組みながら火と呼吸穴の番をするトッテンバットを視界に収めながら横になり、目を閉じた。
かまくらの中に、ささやかな静寂が戻る。
火が燃える音、木炭が崩れながら火の粉を弾けさせる音、そしてかすかな寝息、外を吹きすさぶ風の音。
聞こうと思えば静寂とは呼べぬほどの数多くの音があったが、最も大きかった話し声が消えるだけで妙に静まり返ったように感じられた。
小さな寝息を立てるヘリルメリアが、寝袋の中でもぞりと寝返りを打つ。
二人に背を向けた彼女は、ゆっくりと目を開き、密かに過去に想いを馳せた。
二人にも、そして誰にも話したことのない、故に鮮明である記憶に。
台所で唇を重ね合わせた二人の交歓は、ヴォロイスが離れたことで中断された。
ヘリルメリアはもっと求めたが、彼の表情にやや深刻さが浮かんでいるのが見て取れた。
そして、彼女がためらった隙に、ヴォロイスは鋭利な剣がごとき戦将の抜け目なさで言葉を滑り込ませた。
「メリア、今日出仕した時に、スレザー憲兵長から話を聞いたんだ。いまこの都に、ヴァンガックという人が滞在しているらしい。ガカン大陸の人で、現界の魔女王国に呼ばれて向かってる途中、この国の関所で足止めされたって。なんでも、違法な薬物をそうと知らずに持ち込んでしまって、弁明と手続きのため都に来てるんだってさ。よくあることだから、多分数日のうちに通行許可が出ると思う」
なんの話をしているのか、ヘリルメリアはわからなかった。
だが夫が真剣に話すものだから「どうしたの?」とすら挟めずに、黙って聞いていた。
「だから、いま会いに行くしかない。けっこう時間のかかることかもしれないからね。選ぶのは君だけど、でも知らせておきたいし、できれば会ってほしいとも思っている」
しかし、とうとう疑問が心のうちに収まり切らなくなった。
「一体なんの話? ヴァンガックって誰?」との問いが口をついて出る。
「ヴァンガックは医者だ。ヴァンガック・ヨー・ホデルホーン、生理学、とくに動物生殖学を修めた学者さんだよ。臨床経験も豊富なとてもいい医者で、魔女たちが教えを乞うほどのすごい人なんだって」
「動物、生殖学……お医者さん? どういうこと? あたしの頭痛を診てくれるの?」
「もちろん頭痛の治療もお願いするつもりだよ。でも、それ以上に、僕たちが結婚してから6ヶ月も経ったのに、起きているはずのことが起きていない。とても奇妙だ、だから原因があるなら、知りたい」
ハンターの妊娠期間はおよそ10ヶ月。特殊な卵胎生で、胎内で卵を育てるが孵化直前に産卵し、その後10分以内に孵化する。
幼生の頃から有している鋭利な突起が産道を傷つけないようにするための生態と見られているが、そのため妊娠期間中は人間と同じく大いに腹が膨れる。
結婚して6ヶ月、ほぼ毎日交わっている二体の間で全くその予兆が無いのは、頻産であるハンターという種ではありえないと断じて差し支えない。
「こども、赤ちゃんが欲しいの? あなた」
「そういう問題じゃない、君の体が心配なんだ。今回はいい機会だし、巡り合わせだと思うんだ。一度ちゃんと調べてもらった方がいい」
ヘリルメリアは直感的な恐怖を覚えた。
ただの医者をハンターが恐れるはずがない。
それは警戒心や不安ではなく、予感だった。よくないことが起きてしまう予感に震えたのだ。
しかし、拒絶もできたはずの夫の提案を、彼女は受け入れた。
彼を愛していたからだ。たとえ拒否しても、夫はその判断を受け入れてくれるだろう。
だが、彼が与えるものを拒絶したくなかったのだ。
翌日、二人はスレザーの仲介でヴァンガックに面会した。
ヘリルメリアが初対面で抱いた印象は「不機嫌そうな男だな」という程度のものであったが、嘘つきや悪人には見えなかった。
不機嫌そうなのも、旅の途中で思わぬ足止めを食っているという事情を知っていれば十分に妥当なものと言える。
しかし、その態度がかえって己の仕事への誠実さ、真摯さを物語っているように思えた。
すべきことが出来ずにイラついている職人気質の男、ヘリルメリアの目にはそのように映ったのだ。
ヴァンガック・ヨー・ホデルホーン。鋭い目つきをしたこの老人は、負傷した奴隷兵士の看護役として若年時代を過ごした。
まともな医療も受けられない、薬代よりも安く命を買い叩かれた使い捨ての兵士たち。
ヴァンガック自身は貴族の四男坊という、将来を嘱望されておらずとも身分は保証される立場だったが、彼らの間で青春を過ごすことで、道具や薬を用いない医療の工夫や発想力を養った。
そして、医者として持ち合わせて然るべき義心をも。
長じて後は自ら家を出て医療の研究に邁進。魔力を反響させて人体の内部模様を把握する術を発明し、その研究記録と実践により世に認められる。
魔法を用いず、本人も魔道士会を嫌っていたため同組織に与することなく、そのため魔道士たちに度重なる嫌がらせや攻撃を受けていた。
それを見た魔女王国が彼の研究を支援し、安全の確保に協力したため、恩義を感じた彼が今回の招聘に応じたのである。
この時はまだ独身だが、将来魔女王国に到着した彼は現地で"屍の統率団"の一員である魔女と結婚し、永住することとなる。
ヘリルメリアと対面した彼は、険しい表情で座っていた。
そして、一言も発することなく触診を開始したのだ。
多少不気味ではあった。しかし、手つきは入念ではあってもいやらしさはない。
第一印象通り、丁寧に、真剣に仕事をしているだけのように見えた。
妙な形の器具を下腹に押し付けられた時は、少々の不安も覚えたが。
「ヘリルメリアさん」
第一声の厳つさで、つい背を正してしまう。
深刻な何かが告げられる。そんな予感がした。
「魔力エコー検査の結果、卵巣にあたる部位からヒト精液の残留魔力反応が検出されました」
「……え?」
思考と理解が停止した。
それでも、ヴァンガックは言葉を重ねる。
それが彼の義務だったからだ。
「現在、貴女は不妊状態です。原因はおそらく、体外から卵巣部位に直接精液が注入され、卵巣内部が急激に与圧されたことで卵をつくる機能が傷ついたのでしょう。精液は現在全て排出されているようですが、残留した魔力の量と分布の広さから見て、2年以内の出来事かと思われます」
「精液って、え? あたしの中に、人間の……どういうことなの?」
「頭痛の原因も同じだと思われます。損傷によって女性機能の均衡が崩れ、脳と魂と肉体は子供をつくる準備ができているのに、生殖器がそれを実現できない状態にある。不調が現れて当然です。他の種族ならもっと重篤な症状が出ていたでしょう」
ヴァンガックの声と表情は真剣そのものだった。
そしてだからこそ、こう訊ねずにはいられなかった。
「心当たりはありますか?」
2年以内、人間の精液、直接的な心当たりは全くなかった。
だが、彼女は頭を抱えて俯いた。ヴォロイスすら絶句していた。
「気を確かに持って。誰かが、貴女にこんな仕打ちをしたはずです。心当たりがあるなら、教えてください」
ヘリルメリアの頭の中を、かつての記憶が駆け巡っていた。
『君には新しいものを生んでほしい。人間にとって、あるいは生物にとって大きな意味のある出来事となる"次の進化"を』
『だから君はヘリルメリアなんだ。私にとって、君が特別であることの証だ。二度と後悔はしないという自戒と誓いをも含んだ、重要な名前なんだよ』
『ヘリルメリア、生物には変わる部分もあれば変わらない部分もある。重要なのはそれを見極めることではなく、それを否定する意思の強さなんだ』
『ヘリルメリア、夕食を持ってきたよ。今日のは口に合えばいいが……』
『ヘリルメリア、調子が悪いのかい? なら今日の勉強はここまでにしよう。暖かいスープをすぐに作ってあげよう』
『ヘリルメリア、この駒はこう動かすんだ。そうそう、これで君の勝ちだ。楽しいだろう?』
『ヘリルメリア』
『ヘリルメリア』
『ヘリルメリア』
『ヘール メリー』
『全て、私のせいだ』
「父さん……私に、私に何をしたの?」
肩も、声も震えていた。
息は荒く、涙がこぼれた。
動悸は激しく、魂は揺れていた。
どれもが、ハンターらしからぬ動揺だった。
「私に、何を」
患者の動揺を見るヴァンガックの表情は沈痛だった。
彼女の言葉を聞いて、犯人がすでに故人であるのを悟ったからだ。
スゥガ・タムトの話は、学者の世界で知らぬ者はいない。
「天才と狂人は紙一重」という言葉が、あの遺伝学者の前では何と虚しいことか。
だが死んでしまった。既に責任を追及する方法もなければ、彼女の名誉を回復する機会もない。
公表してしまえば、かえって被害者を傷つけるだけだろう。
彼にできるのは、医者としての本分、それのみだった
「ヘリルメリアさん、この不妊症は治療が可能です。卵巣部位は損傷していますが、おそらく妊娠能力は回復できます」
「えっ」
「私の経験上、卵のもとはすでに貴女の体内にはあります。卵巣の損傷でそれが卵にまで成熟させられないだけで、未成熟の卵のもと自体は生きて残っているはずです。つまりは卵巣の機能に頼らずに、その卵を成熟させられれば、あるいは卵巣の機能を最低限補助することができれば、妊娠は可能です。同様の治療は経験がありますし、成功率も高い。ハンターに行った前例はありませんが、希望は十分にあります」
ヴォロイスとヘリルメリアは息を呑んだ。
ヴァンガックの表情と語り口が、気迫をまとっていたからだ。
「治療するならば、私も最後まで付き合います。一年程度で結果は出るはずです。卵巣が外部要因によって傷つけられただけで、貴女自身には全く問題はないのですから」
彼の言葉は真剣だった。本当にそうするだろう、という実感に溢れていた。
たとえ通行許可が出ても、魔女王国の女王にせっつかれても、治療が済むまではテコでもここを動かないだろう。
これが、名医の矜持と仁義か。ヴォロイスは戦慄する思いだった。
「妻と、二人きりで、相談させてください」
絞り出された彼の言葉に、ヴァンガックは椅子へと深く腰掛けて肯定の意を示した。
「治療は、しない方がいいかもしれない」
人気のない廊下で、ヴォロイスは妻にそう切り出した。
当然、ヘリルメリアは目を丸くした。
擬皮のまぶたをも目一杯広げて。
少しの静寂の間、二人は互いを見た。
ヴォロイスの表情は険しく、鋭い。
その顔には見覚えがあった。
戦に臨む、軍議に臨む、将軍ヴォロイスそのものの顔だった。
「どうして? どういうこと……」
困惑混じりにたずねてみても、彼の表情はますます険しくなるばかり。
「以前から、考えてはいたんだ。これも巡り合わせなら、従うべきかもしれない」
「あたしに、このままでいろっていうの? あなたは子供が欲しいって」
「君の体が心配だった。原因がわかった今、子供にこだわらなくてもいいんだよ」
「なんで、どうして、そんな」
戸惑うヘリルメリアを、ヴォロイスは抱きとめた。
こんな状況であっても、彼の匂いを嗅ぐと心が安らぐ。
そんな自分が、今はとてつもなくイヤだった。
「僕とメリアは、幸運だ。天から理性を授かり、それを育む環境があり、コードラン様と、そしてお互いと出会えたんだ。いまの僕たちは、幸せだよ」
耳元でささやく声は、脳と魂に直接届くようだった。
肉体の奥底へ痺れるように響き、彼の心が直接流れ込んでくるようだった。
「でも、僕らの子供がそうならなかったら? 天より理性を授からず、ハンターとしての本性、獰猛な獣性を振りまく生粋の獣そのもの。本来のハンターとして、僕らの子供が生まれついてしまったら? 僕らのような幸運が、僕らの子供には降り注がなかったら?」
それは、痛みだった。
戦場で勇を奮い、矢雨の下へ突き進み、荒れ地で眠る猛将。
それすらうずくまるであろう痛み。
「きっと、耐えられない。僕も君も、引きちぎれ張り裂けてしまう。僕らの子供が、けだものになるだなんて」
すなわち、心の痛みだった。
「これでいい、だなんて言えないけど、きっとこうなる巡り合わせだったんだ」
ヘリルメリアは、夫の胸に顔をうずめ、泣いた。
悔しさからでも、悲しさからでも、怒りからでも、屈辱からでもなかった。
絶望と、その絶望を受け入れてしまうであろう自分に対する更なる絶望。
その二重の心は、金色の目からこぼれ落ちる涙と隠しきれぬ嗚咽をもってしても、表現しきれるものではなかった。
苦悶の呻きと共に、締め付けるように夫をかき抱きながら、それこそ獣のごとく泣いた。
我が子が、理性なき猛獣として生を受け、暴力と破滅を振りまく。
どれほど愛しても応えることなく、殺意と欲望のみを返す。
生き延びさせるためには、生涯檻に閉じ込め続けることになるだろう。
魂にイバラを巻きつけるような痛みを毎日、毎秒感じながら。
──そんなこと、耐えられるはずがない。
その日のうちに、ヴォロイスはヴァンガックに不妊治療は行わないという意思を伝えた。
ヴァンガックはヘリルメリアに直接確認したが、彼女は力なくうなずくのみ。
彼はため息をつき、頭痛の処方のみを伝えた。
秋にしおれたスバの葉、その先端を集めて干した煙草を日に三度、肺に入れず口で喫む。
それのみを教えると、ヴァンガックは三日後"都の山"を発った。
ヴォロイスとヘリルメリアは、その後も夫婦仲は良好で、互いを思いやり、愛し続けた。
だが、この日以降二人の間で子供の話題がのぼることはなく、養子も取らなかった。
不妊に関する真実は主君にすら秘密であり、それを知る三人も今やヘリルメリアを残すのみである。
彼女は今も、亡夫を愛している。かつて父と呼んでいた男を尊敬していた過去も、鮮明に憶えている。
だが、彼らによって何かが奪われたという感覚は、今も残っていた。
それが何なのかは、本人ですら判然としない。
しかし、今の彼女は、こう思うのだ。
私も夫も、少し人間らしくなりすぎたのだ、と。




