軍の魔女19
雪中行軍で最も重要なのは二つ。
決して無理をしないこと。進める時に全力で進むこと。
夜の訪れや天候の変化によって容易く行進不能となる上、常に死と肩を組んでいなければならぬこの環境。
そこに於いて、この二ヶ条は侵すべからざる鉄則である。
無理せず進める貴重な時間は全て進軍に当てねばならない。
「また筒が倒れたぞ! 構わんから氷で固めてしまえ!」
だからこそ、進めぬ時には決して進んではならなかった。
進み始めて三時間でまばらな雪は本降りとなり、吹雪にまで育った。
その中で、三人は緊急避難用のかまくらを作っていた。
『早よう掘れ早よう掘れ! 虫のように掘れ! 竜のように掘れ! 飽くまで掘れ! 飽いても掘れ!』
トッテンバットとヘリルメリアが一心不乱に雪を掘る。
盛り固めた雪山の中をくり抜くのが本来の作り方だが、かなりの量の積雪によって分厚い雪の層がある場合、下を掘って横穴を作るだけでも事足りる。
当然、つき固め、踏み固めた雪の下を掘ることになるのだが、吹雪に体温を奪われぬよう必死に働き続けるのであった。
『炙りは終わったか!?』
擬皮を脱いだ状態のヘリルメリアが穴から這い出てクロスを見上げる。
「もうすぐです!」
そう答えながら、クロスはカンテラから押し出した炎で足元の雪を広く浅く炙っていた。
彼が炙っているのはかまくらの屋根となる部分。
そこを軽く火で炙って溶かし、冷気によって再凍結させることで、柔らかい雪は一つの氷の膜となりかまくらを支える。
かまくらの中でもトッテンバットが壁や天井を炙りながら作業をしており、これによって積雪の重みにも耐えうる構造物となるのだ。
これを利用して、呼吸用の長い木筒も固定するのである。
「出来ました!」
「こっちも完了だ!」
『ようし、穴を塞ぐぞ!』
クロスが出入り口の穴に滑り込むと、ヘリルメリアが雪で穴を塞いでいく。
雪を詰めながら何度も炙りを行い、雪が穴から雪崩れ込むのを防ぐのだ。
穴の奥の広い空間では、トッテンバットとクロスが難燃性の植物繊維で編んだムシロを敷き詰め、中央に火種と薪を置いていた。
呼吸用の木筒に通してある鉄芯を押し上げ、詰まりが無いことを確認すると、火種から発火させ、薪を燃やす。
惜しげもなく焚き付けの葉を投入し、火を熾し、煮炊き用の三脚台を固定。
最後に炭を一本、火の中央に置いて長時間火が消えないようにすると──
「『「はぁぁ〜〜〜」』」
──やっと一息つける。
三人は火を囲んで座り、互いをねぎらう代わりにため息をついた。
「この吹雪は続きそうじゃ。今日はここまでかのう」
擬皮と服を着直しながら、ヘリルメリアは天井を見上げた。
分厚い雪と氷を隔てていても、風の鳴る音と雪が叩きつけられる轟音は鳴り止まなかった。
クロスは、夕食の準備を始めた。
鍋に水を張り、干し飯に凍らせた豆、塩漬けしたヒョウガンマスの切り身を入れて火にかける。
干したゴラ肉は雪で軽く洗い、火で炙って少し柔らかくなるのを待つ。
体力と体温を保つためには、食事は非常に重要な要素となる。
これほどの雪の中を風に逆らって進み、戦いまでこなすとなれば、食料を惜しむのはかえって自滅の道を辿る。
だが、命なき大地への進軍は現地調達という兵道の常識を無意味にした。
持ち込んだ食料が全てであるという状況下、一日のうちに何をどれだけ食べるか、という調整は頭を悩ませる重大事だった。
その重大事である食料の管理運用を、クロスは任されていた。
理由は単純。三人の中で一番料理が得手だからである。
当人からすれば、これらの素材と材料では料理の腕の良し悪しなど関係ないとも思えたが。
「とりあえず氷の森の半ばは越したはずじゃ。恐らくは……今ここじゃろう」
夕食ができるまでの間に、ヘリルメリアは地図を広げて、トッテンバットと共に計画を練っていた。
クロスが持っている魔法の地図も、この地では魔力の乱流が強すぎて乱れてしまう。
地形と現在位置の把握は、スラマウズの地図の写しと、同じく手記の記述に頼るほかなかった。
「そろそろ北東に針路を修正し始めてもいいんじゃないか? 雪原に出てから方角を修正するのは危険だ。氷の木々の位置関係が方角の指標になるうちに、少しずつ東へ寄っておいたほうがいい」
「氷の軍勢と遭遇する危険は増すが、遭難するよりはマシ、と。確かに先を急ぐ旅ではあるが、重要なのは可能な限り確実に、安全に、じゃ。まずはこのまま北上して森を抜けて、しかる後に森の縁沿いに東進するのじゃ。それから雪原を北上して渡る」
「吹雪で足止めされなければいいが……次善策として憶えておいてくれ」
「うむ。それより雪原で野営ができるかが心配じゃな。このあたりは手記でも記述が乏しいからのう」
意見を交わす二人をよそに、鍋をかき混ぜる。
塩漬け魚をほぐし、煮立ち始めた頃に麦酒を少量入れる。
酒気が飛ぶまで煮立ててから、焦げつかぬよう時折雪を入れて温度を調節しつつ煮込む。
干し飯と豆がふやけるように柔らかく膨らみ、全体に軽くとろみがつけば完成となる。
「できましたよ、塩漬け魚と豆入りの薄粥に、干し肉が一人ふた切れ。お望みならチーズも出せますが、今日はパンは無しです」
「パンが無いならチーズも要らん。おぬしはどうする?」
「俺はもらおうかな」
トッテンバットが手を挙げると、その手に切り分けたチーズの塊が投げ入れられた。
ヘリルメリアは地図と手帳を畳むと、三人ぶんの椀に粥を盛り付けていく。
壁際に積み上げた荷物までチーズを取りに行っていたクロスが再び火のそばで座り、手を擦り合わせながら息を吐きかける頃には、すでに準備は整っていた。
差し出された椀と干し肉を「ありがとうございます」と受け取り、匙を粥に差し込む。
トッテンバットは固いままのチーズで粥を掬い上げると、そのままかじりついた。
ヘリルメリアは干し肉をちぎって椀に入れ、ふやけるのを待ちながら粥を食べている。
クロスはそのまま、干し肉をかじり、それを主菜に粥を口に運ぶ。
三者三様、食べ方だけではなく、椀の持ち方や姿勢にも個性があった。
「うむ、うまい!」
特にヘリルメリアは、食事の際には必ず「うまい」と料理を褒めた。
少なくとも、クロスが見た範囲ではこの儀式が欠けたためしはない。
「麦酒を入れたのか。麦の香りと塩漬けの塩気と酸味が、こう……うまいぞ!」
「ただの薄粥でもここまでうまくなるもんなんだな」
だが、今日はトッテンバットもそれに加わった。
干し飯の正体はノンガムと呼ばれる小粒の穀物で、煮炊きして食される。
籾を除いたノンガムは扁平形であるため、それを粥にしたものは薄粥と呼ばれる。
現界で広く食されている料理であり、地方によって様々なバリエーションが存在する、パンと並び立つ主食だが、粗食であるとの認識は免れ得ていない。
そのため、兵糧として用いられていた地域では麦の取引価格が上がり、パン食を求めた兵士による暴動事件まで記録されている。
育てるのも加工するのも保存するのも簡単で便利だが、基本的には"まずいモノ"とされる食べ物なのだ。
その味は、ある哲学者によって「書を読みながら運ばれた食事を口に入れ、毒を盛られたと驚き見下ろしたらば薄粥であった」と述懐されたほどである。
「薄粥の糠くささと土臭さは麦酒の香りと発酵臭でかなり打ち消せるんです。豆を入れれば水っぽい味にもなりませんし、ヒョウガンマスの塩漬けも味と香りが強いので、扱いさえ間違えなければ……」
「どこで教わったんじゃ? そんなの」
「統王様が、お話のついでに教えてくださって」
「統王様が料理ぃ?」
首をひねったのはトッテンバットである。
統王と直接会ったことのない者にとって、彼は無条件で天上の存在だ。
一代で魔界と現界を征服し、全てを従え、世界を丸ごと作り変えてしまった男。
その中で生きる人間にとって、統王とは「統王」という呼び名にすら収まるものではなく、まさしく神にも等しいものだった。
鍋の前で粥をかき混ぜている光景など、完全に想像の外なのである。
大半の人間は、無意識下で崇めている対象のことなど何一つ知りはしない。それが、正常なのだ。
「知らんのかおぬし、統王様は御自身と御家族の食事は自らお作りになられるのじゃぞ。第11夫人との共著ではあるが料理本も出しておられるし、王子時代から指揮官として部下の食を世話しておったのじゃ」
「ほぉ、意外だな。誰にでも趣味はあるというが、統王様の場合は女だと思っていた」
「ゴン・ガンク軍の風習ですよね、メリアさんやヴォロイス将軍は料理はしなかったんですか?」
「んーや。わしらが統王様の軍で働くようになる頃には、お家の乗っ取りも済んで軍の多民族混成が進んでおったからの。ゴン・ガンクの風習を軍全体に強制できなくなっておった。今でもあの伝統を守っておるのはゴン・ガンクでもベルゼット家一門ぐらいじゃろ」
「いや、そうじゃなくて、家庭での話です」
「はぁ? 家庭?」
「ええ、軍事の話はたくさん聞かせていただいてましたけど、そういえば普通の話なんかはあまりしたことないなあと思いまして」
余った麦酒は鉄瓶に入れ、火のそばで温めていた。
それを紺銅のコップに注いで配る。
寒いところの温かい飲み物は、それだけで相手を何でも話す気分にさせた。
「老人の昔話なんぞ、聞いてもつまらぬぞ」
「いいじゃないですか、つまらなくても。どうせ時間はたっぷりあるんですから、面白くない話が一つぐらいあったって気になりませんよ」
「俺も、聞きたい。司令が嫌じゃないなら……」
トッテンバットは少し遠慮がちだった。
しかし、その態度がかえってヘリルメリアの心を軟らかくした。
手に残る麦酒の暖かな感覚。口をつけてあおれば、走るような温かさが背骨を駆ける。
背骨から手足へ散り巡ったそれは喉と胃に終着し、たまったそれらの熱を吐き出すように、あつい吐息を一つ。
顔の擬皮にも赤みが差し、落ち着いたように、あるいは遠のくように背を丸める。
そう、彼女は酒に弱かった。
「……ま、ええか。料理のことじゃったな。あれはわしらが結婚して半年は経った頃じゃったかのう」




