軍の魔女18
曇天の朝、鈍い白銀の世界に浮かぶ氷の木々。
木の形をした氷が立ち並ぶ森の中、新雪で覆われた地表に、かすかに盛り上がった箇所があった。
ひさしのようなものがついた二本の木筒が煙突のように突き立ち、積もった雪を静かにこぼす。
その根本から突き出されたスコップが、新雪の層と静寂を同時に破った。
「よーし貫通したぞ」
スコップの下から声が響く。
その数秒後、スコップを中心として雪が溶け始め、雪の原に大きな穴を空けた。
そこからまず這い出したのは、小さな女の子。
続いて雪の下から現れたのはカンテラを携えた青年。
その次には、二人が引っ張り上げたいくつかの荷物とソリ。
最後にぬっと穴を広げながら出てきたのは、籠手を着けた大柄な男だった。
ヘリルメリア、クロス・フォーリーズ、トッテンバット・ギィレググ。
三名は大壁より出立し、最初の晩を氷の森の西側で凌いだ。
大壁からまっすぐ北の氷の森、その下には数多の氷の軍勢が眠っており、通り抜けるのは不可能。
故に、一行は比較的手薄な森の西側に回り込んで北上しているのである。
「それにしても、一晩でこんなに積もるなんて」
二本の木筒を引き抜いているヘリルメリアの足元、かまくらの屋根だったものを見ながらクロスは呟いた。
「昨晩は冬至の夜じゃったからのぅ! じゃが北へ向かえば、まだまだこんなものではないぞ!」
ヘリルメリアが引き抜いた木筒──空気管──の長さは2m以上はあった。
つまりは、一晩で2mを超える積雪があったのだ。
「かまくらの強度は十分だったようだ。クマにでもぶん殴られん限りは今後も崩れんだろう」
そう言いながらも穴を中心にスコップで屋根を突き崩し、かまくらを潰していく。
かまくらを残せば、雪に埋もれ空洞と化し、それは思わぬ落とし穴になる。
帰り道が危険に晒されるだけでなく、後々の別の調査隊にとっても障りとなってしまうのだ。
「太陽の位置からして、今は昼前というところじゃな。急ぐぞ」
二本の木筒をソリの下に固定し、先端部をひさしから、尖った被せ物に取り替える。
木筒の下部面には海獣の皮が張られており、ソリの足としての役目も果たしてくれた。
「でも、これじゃ進めませんよ。腰まで埋まっちゃって」
曇り空越しのかすかな陽光と冷え込みによって、新雪は固くなってはいたが、踏めば腰までは沈んだ。
ソリも荷物を積めば沈んで動かせなくなるだろう。
「魔漏法で溶かしながら進む。足場になる根雪まで溶かしかねんから、足首の高さまでじゃな」
そう言ってヘリルメリアが手をかざすと、積もった雪が溶け始めた。
「これで人ひとりとソリ一台なら何とか通れるじゃろ。1時間ごとに先頭を交代して進むぞ」
そのまま歩き出せば、後ろに道が残った。
その道を、クロスとトッテンバットが歩き進む。
歩みの速度は半分程度になってしまったが、積もった雪の中を強引に歩くよりはずっと早く、疲労も少なかった。
「今日はどういう行程になりますか?」
必然、先頭で雪を溶かしながら進むヘリルメリアに追いつくのは易々たるものである。
その背中に質問を浴びせるのも、少ない労力で気軽に行えた。
「エレメンタルどもに気取られると面倒じゃからの、今日と明日で氷の森を抜けて"スラマウズの視野"の手前まで行くぞ」
「"スラマウズの視野"?」
「言ってしまえば雪の砂漠のような場所じゃな。砂のように細かく固い雪の粒による雪原で、注意せねば一歩で呑まれる、危険な場所じゃ。強風と地吹雪が吹き荒れ、流動する雪粒のせいで常に安全地帯が消滅と出現を繰り返す。この地にのみ生息する形体のエレメンタルもおるらしい」
「どうして視野なんですか?」
話しながらも、視線を巡らせ、周囲の警戒を怠らぬよう努める。
昨日はかまくらを建てる場所を見繕っている最中に"地走り"に襲われ、危うく荷物を破壊されそうになったのだ。
「140年ほど昔じゃが、スラマウズという男が命を捨てる覚悟で地図を作るため北へと旅立った。奴はそれきり帰らなかったが、30年後、奴の手記と、木板に刻まれた地図がある氷エレメンタルの体内から発見された。そこには氷の森の北10数kmにある、氷の砂漠の詳細な記述が記されておった。真に迫った描写には説得力と整合性があったし、冬入りの日にダグナマンバを襲う猛吹雪には、この雪粒が大量に混じっておると考えられたので、信憑性があった」
スラマウズ。人類史上最も北に近づいた男。
だが彼は帰還せず、彼と同じ場所に到達した者もいない。
そのため、どれだけ信憑性があろうとも、彼の手記と地図の正しさは証明ができなかった。
彼が北のどの部分まで踏み込めたのかは、公式には未確定のままであり、手記も地図も検証を要する資料とされていた。
とはいえ、間違いなく北へ旅立った者の残した記録である。
検証ができていないのだとしても、参考として研究や調査計画の資料として活用するのが筋というもの。
だが、長い間これらの記録は放置されていた。学者も魔法使いも距離を置き、心理学者や魂魄学者が、記述から著者の精神状態を推し量る素材とする程度だった。
これまで、誰もスラマウズの記録を現場で用いてこなかったのである。
当然、それには理由があった。
「で、このスラマウズがな、手記にこう書き残しているんじゃよ」
片手で雪を溶かしながら、もう片手でメモを開く。
貴重な紙の手帳だ。おそらく、原本だろう。
「『サザカ暦1125年9月3日、未だに自分の目が信じられない、雪に目をやられて見えた幻覚だったのだろうか。雪の砂漠、地吹雪と強風で霞む彼方に、巨大な目を見た。吹雪の吹く方角へ立ち向かい、顔を上げたら……』」
「目、ですか」
「ああ、地図にも刻まれておる。雪の砂漠の北に、それを睥睨するような巨大な目の絵がな。当然、誰も信用せなんだ。手記の記述が正しいならば、この目はトグナイアのどの山よりも大きいことになるからの」
手記の著者であるスラマウズの正気を、誰もが疑わずにはおれなかった。
状況的にも、狂気にとらわれ幻覚に恐怖心を重ねたと見られても無理もなかっただろう。
たったひとりで、極寒と死の只中を進み、いつ氷エレメンタルに襲われるかもしれない恐怖と戦っていたのだ。
雪の反射光が目に焼き付けた幻影が、心のストレスによって怪物の形へと変じたのだという仮説は事実たり得るだろう。
しかし、最前線で氷の軍勢と戦う兵士たちは、不気味さを払拭し切れなかった。
ありえない、スラマウズの頭がおかしくなったのだと分かってはいても、不安は心底に残った。
そしていつしか、彼の見た雪の砂漠をこう呼んだのである。"スラマウズの視野"と。
彼の見た幻影の領域であるのと同時に、未知なる巨大な目が見渡している場所という意味を込めた、兵士たちの祈りであった。
どうか、どうかこの大要塞にその目が向けられませんように、と。
「じゃが、今はスラマウズの正気ではなく、狂気を疑わねばならんじゃろう。北にある、計り知れぬ何か。奴は初めて、それを目と魂と記録にとどめた男なのかもしれぬ」
ゾルインに匹敵する巨大ポータルと、氷の触手。
あれを目の当たりにしてしまえば、スラマウズの手記にも真実味を感じられた。
彼は真実を記していたのかもしれない。
「証明されて欲しくはないがな」
ソリを引くトッテンバットの結論を、二人は無言で肯定した。
そしてそれからは、つとめて三人とも言葉を重ねず、静かに歩き続けた。
気まずい沈黙ではなく、可能な限り体力の浪費を抑えるためだった。
新雪を魔法の熱で掘り進み、そのあとに三つの足跡と二条のソリ跡が続く。
時たま、氷の木々に積もった雪が落ちる音がした。
今日は比較的暖かい日のようであったため、堆積した雪の固定が甘く、たやすく落下するのだった。
その度に三人が揃って注意を向けねばならないため、風情を楽しむ余裕などは無かったが。
しかし、歩き始めて40分、どさどさと大量の雪が一挙に落ちる音が響いた。
一斉に向けられた視線。その先に立つのは、氷の森の風景に溶け込んだ氷の木。
ではない。
ぐらりと傾くように、その氷は動いた。
足のような部位を突き立て、体を木々に擦らせる。
その歩みが振動をもたらす度に、体に積もった雪が剥がれ落ち、透き通る姿と、曇天のように鈍く輝く核をさらした。
氷の木ではない、エレメンタルだ。
それも"氷の巨人"である。
グラヤ・ナガに比べれば爪先のような大きさでも、間近で見上げれば森の木々に匹敵する巨躯だった。
大壁から見下ろしていた時のサイズ感とはまるで異なる、5mを越す巨大な氷だった。
「後退! 援護せいっ!」
ヘリルメリアが叫んだ直後には、その小さな体は巨人の拳を受け止めていた。
叩き潰すような一撃を支え、掴んで固定していたのだ。
当然、彼女の足はそのほとんどが雪に埋もれる。
クロスは後ろから肩を掴まれた。
そのまま引き倒されるように後ろへ押しやられ、入れ替わりにトッテンバットが歩み出た。
氷の巨人が反応して拳を持ち上げようとするが、ヘリルメリアが腕から突起を伸ばして突き刺し、縫い止める。
数瞬遅れてもう片方の拳を振るうが、その腕は爆発音と共に根元から砕け折れた。
トッテンバットの籠手の外殻が、手首のノズルから火を吹いて飛び出し、巨人の腕を砕いたのだ。
「ふぅんっ!」
発射された外殻は籠手本体と鋼線によって繋がっており、その鋼線を掴んで振り回せば、すなわち鎖鉄球と化した。
全身を使って一回転振り回すと、ハンマーを振り下ろすように、巨大な握り拳の形をした鉄塊を頭部に叩きつける。
人間を拳で叩き潰すために巨人は屈んだ姿勢を取っていたため、振り下ろすだけで頭部に攻撃が届いたのだ。
衝撃でひしゃげ、胴体部にまでヒビが走る。
尻餅を突く形で巨人が倒れ、更に無防備な格好をさらすと、トッテンバットのもう片腕が火を吹いた。
二発目の鋼鉄の外殻は、ひび割れ脆くなった胴体部を貫き、エレメンタルの核を体外へ押し出した。
守るものの無い外気へと押し出されたエネルギーは急速に飛散。
氷の巨人は単なる氷の彫像と化し、座ったままの姿勢で固まった。
「クロぉス! 援護せいと言うたじゃろーがっ!」
下半身が雪に埋まったまま、ぷりぷりとヘリルメリアが怒る。
氷の巨人と同じように尻餅をついたまま呆然と成り行きを見守っていたクロスだったが、気を取り直すと「すみません」と繰り返しながらヘリルメリアを雪から引き抜く。
「氷の巨人だ、近くに軍勢があるのか?」
発射した籠手の外殻を、手回し式の巻き取り器で回収しながらトッテンバットが懸念を表明する。
巨人は、氷の軍勢の象徴のようなものだ。人間の魔力を多数取り込んだ氷エレメンタルが取りうる形体であり、そのような個体は氷の軍勢の一員でしかあり得ないからだ。
もしや、近くで氷の軍勢が眠っているのだろうか。
それが心配だった。
「いや、こいつは"はぐれ"じゃ。氷の軍勢の一員ならば、今頃は大壁へ攻撃を仕掛けるべく"前線基地"へ集結しておる頃じゃからな。何らかの理由で統制から外れ、軍勢から離れて、ずっとここで眠っておったんじゃろう。見てみい」
ヘリルメリアが氷の巨人だったものに歩み寄り、その足をノックするように叩く。
その音は低く、重く、澄んだ空気にあってもさほど響かなかった。
「足の氷の密度が高い。動かずに、じぃっと何十年も立ち続けておった証じゃよ」
「何十年も、ですか」
「グラヤ・ナガに比べれば子供のようなものじゃよ。もっとも、その歴史も今終わったがの」
何故だか、クロスの心に小さな痛みが灯った。
大壁の上で戦っていた時には湧かなかった感覚だ。
しかし、ヘリルメリアの言葉で、改めて気付かされたのだ。
この氷は、多くの時間を、多くの風景を、その身に刻んできた。
刻み込まれた、誰も知らず、誰にも語られぬ情報と歴史。
文字の無い本がごときそれが一つ、この世界から消え去ったのだ。
そして、その歴史はもう誰の記憶にも留められない。
存在が、抹消されるのだ。
それが、目の前で起こった。
その残骸が、目の前にある。
何故だか、恐ろしく、寒さとは異なる理由で身震いが起きた。
「先を急ぐぞ、この巨人が動いたのを、他のエレメンタルどもが感じ取ったかもしれんからの」
だが、ヘリルメリアの目は北を向いていた。
籠手を装着し直したトッテンバットも、ソリの曳き紐を再び背負う。
ならば、クロスが足踏みをするわけにはいかなかった。
しかし、数分歩き進んだ時、一度後ろを振り向いた。
尻餅をついて沈黙する氷の彫像には、早くもうっすらと雪が積もりつつあった。
いつの間にか、少しずつ雪が降り始めていたのである。
あの彫像も、いつか雪に埋もれてしまうのだろう。
人の歴史や、記憶のように。
それでもなお、クロスは前へ向き直った。
踏破すべきものの強大さが、彼に後ろを顧みることをさせなかった。




