軍の魔女17
ヘリルメリアという一頭のハンターにとって最も平穏な時間。
それは皮肉にも、魔道士たちの牢獄に閉じ込められていた時期であったかもしれない。
狩りをすることなく食料が得られ、檻の中は寒すぎも暑すぎもしない。
魔道士らの妙な実験や授業も苦痛を伴うほどのものではなく、毎晩ぐっすりと眠ることができた。
人間の言葉を理解してからもそれは変わらなかった。
同じ日々が流れ、同じ生活が繰り返されたが、退屈を感じてはいなかった。
ある日、一人の男がやって来た。
いつもの食事係や、実験と授業を行う担当魔道士ではない。
小麦色の肌をした背の高い男で、凝った意匠のローブと長いストールを身に着けていた。
見覚えのない男だったが、警戒心は湧き起こらなかった。
だがそれも、男がいきなり牢を開いて足を踏み入れるまでだった。
檻の中は、既に彼女の縄張りだ。横たわっていた体を即座に起こし、突然の侵入者を威嚇する。
生物として当然の反応だ。
お付きの魔道士が「危険です」「お戻りを」と忠告する。
だが男はただ目を合わせて頷きを返したのみで、そのまま堂々と檻の中へ入った。
そして、まるで聖者のように歩み寄りながら、優しく声をかけたのだ。
「私はスゥガ・タムト、君にヘリルメリアという名前を与えた魔道士だ。歓迎してくれて感謝するよ」
男は全く恐れていないようだった。
へつらうような様子もなく、実に堂々たるものだった。
「君たちハンターにとって、人間は本来ただの餌だ。そんな餌を威嚇してくれている、対等な脅威としてね。とても光栄なことだが、同時にあり得ないことだ。この現象が示してる事実は一つ。君の"人間化"は既にかなり進行していて、君はそのように防御的反応として威嚇こそしているが、その実私を攻撃する意思はないという事実だ」
牢の外で、お付きの魔道士たちは驚いていた。
スゥガ・タムトが人前で、一度にここまで多くの言葉を話すのを初めて見たからだ。
「言葉を話したり書いたりするのはまだ出来ないが、言葉そのものの習得はかなり進んでいるとか。実に素晴らしい、君は最高の夜明けであり、朝の目覚めだ。君の金色の瞳はもう単なる光量調節のために効率化しただけの器官ではなく、その奥で輝く魂の色と表情を映し表す、人間性の出入口になっている」
彼の目は輝いていた。喜びと、強い興味によって。
態度と声色の冷静さこそ崩さなかったものの、歓喜が目から溢れるのを抑えられていなかった。
その魂のほとばしりに、ヘリルメリアも知らず知らず威嚇を続けるのを忘れていた。
ただ呆然と、この奇妙な侵入者を見つめていた。
「まさに君は、理性と獣性の架け橋となる存在だ。私が何を言っているのかは理解出来ているかね? それとも、まだ音の連なりとして認識できているだけで、読解は出来ないか?」
呆けたハンターを見下ろし、回り込むようにして観察する。
「ふむ……私を目で追ったということは、虚脱状態にあるわけではない。自我が発達していない幼児が一度に多くの情報にさらされると、処理しきれないそれらを全て遮断するという。脳を守るために、情報を処理することなく呆然と素通りさせるというわけだが、それではないようだ。しかし、奇妙にも思っているね。これは何なのか、と」
ヘリルメリアは、困惑していた。
脅威はもう感じていなかったが、かすかな不気味さを覚えていた。
これもまた、ハンターが人間に対して抱くはずがない感情だった。
「私は、君と仲良くしたいと思っている。本当にただそれだけだ。君には新しいものを生んでほしい。人間にとって、あるいは生物にとって大きな意味のある出来事となる"次の進化"を」
視線を伏せて近づく男に対し、不気味さは感じていたが、敵意は湧かなかった。
「これからは私が君を担当する。望むなら檻の外にも出してあげよう。引き続き勉強は行なっていくが、欲しいものがあれば何でも言ってくれ。時間はかかるかもしれないが、必ず持って来よう」
この日から彼女の日常は、彼の言った通りの日々へと変わった。
スゥガ・タムトは熱心だが優しい男で、教え方はこれまでの無味乾燥なものとはまるで異なっていた。
わからないことがあってもそれを上手く伝えられないとき、彼は必ずそれを察知して、何度も、丁寧に、色々なやり方を試しながら教えてくれた。
好奇心のままに望んだことは全て叶えてくれた上に、檻の外も案内してくれた。
人間の食事と食べ方を教えてくれた。色々な遊びや運動を教えてくれた。人間としてしてはいけないことを教えてくれた。
彼は、彼女を人間扱いした。
実験動物ではなく、誠意と敬意を以って接してくれた。
「父親」という言葉の意味を学んだとき、ヘリルメリアは自然と彼のことを「父さん」と呼んでいた。
その時、スゥガ・タムトは驚いたような表情を見せた後、初めて彼女の前で咽び泣いた。
ヘリルメリアの"人間化"は急速に進行していった。
何もかもが変わり続ける日々。
その意味を知ってから、彼女は生を楽しむようになった。
機械のように狩り、喰らい、眠る生活の中には無かった感覚だった。
そんなある日、ヘリルメリアは父にこうたずねた。
『ヘール メリー だれ?』
自分の名前の由来はヘールとメリーだと、魔道士たちが話しているのを偶然聞いていた。
普段ならば聞き流すような話だが、魔道士たちの話し方に嫌悪のような暗さがあったため、気に留まったのだった。
スゥガ・タムトは少しの間沈黙した。
機嫌を悪くした様子も驚いた様子も無かったが、その冷静さと沈黙がかえって怖かった。
言ってはいけないことだったのかもしれない。
そう考え、『やっぱりなんでもない』と言おうとしたその時、彼は答えた。
「私の娘だ。もう『だった』だがね」
やはり、訊いてはいけなかったんだ。
ヘリルメリアはすぐに謝ったが、やはり父は物静かな佇まいを一切崩さなかった。
「謝る必要は無い、むしろ君には知っていてほしい。なんたって君の名前の由来なんだからね」
そして、彼は静かに語り始めた。
「今から8年と62日前のことだ、私はカルエーネの街の外れに住んでいた。当時の私は育種学、特に農作物の受粉の仕組みと形質遺伝について研究していてね、毎日日中は街中でずっと働いていた。その間、家にいるのは妻と娘だけだ。
娘のヘールとメリーは、私の全てだった。かすかにそばかすの浮いたヘールの愛らしい顔に頬ずりして、日中に伸びたヒゲの文句を言われる度に幸せを噛み締めた。メリーは妻に似て美しい金髪の子だったが、おてんばでいつもその髪を泥だらけにしていた。夕食の前にあの子の髪を洗うのは私の仕事だったが、あの子は私の一日の疲れまでも流し去ってくれた。
ある時、街から少し離れた森の中で死体が見つかった。大柄な成人男性の死体だったが、ア・ドゥヌの村に住む木こりだと分かるまでには時間がかかった。メチャクチャに食い荒らされていたからだ。
損傷が大きく、かなりの部分が食い尽くされていたことからクマの仕業だろうと考えられ、周辺の狩人総出で狩りが行われた。
その結果、他所からの流れグマ一頭が発見され、狩り殺された。年老いてはいたが大きなクマで、人間に対する恐れも無かった。現界南部の猟師の間では、人を喰った獲物は縁起が悪いと言われている。だからクマの死体は解体されずにそのまま埋葬された。
人喰いグマの死で、住民たちは胸を撫で下ろした。だが、私は疑った。クマが狩られた地点と、被害者の死体が見つかった地点が離れすぎていると感じたからだ。
それで、クマの死体を掘り返して腹を切り開くと、腸にフンが残っていた。
臭いと硬さと色と繊維質の量から見て、大量の肉を食べたに違いない。だが、死の20時間以上前に食べたもので、そうなるとこのクマはまだ何かの肉が胃に残っていた状態で、人間を襲ったことになる。
確かにクマは満腹の時でも獲物を狩り殺すことがある。だがその場合、獲物を土に埋めるなり木に吊るして保存するか、腹が減るまで獲物の死体のそばで待っていたりするものだ。だが、男の死体はどれにも当てはまらなかった。
犯人はクマじゃない。危険はまだ去っていない。私はそう気付いて、妻と娘たちに言い聞かせた。
森はまだ危険だから入ってはいけない。近々また狩人を集めて狩りをするから、それまでは私の職場で過ごそう、と。
妻は考えすぎだと言った。娘たちはよくわかっていないようだった。無理もない、まだ5歳と4歳になったばかりだったからだ。職場の方にも、すぐには移れなかった。既に泊まり込みの魔道士たちで一杯だったからだ。なんとか場所を空けてもらえることになったが、どうしても3日はかかるようだった。
狩人たちも、多くはもう狩りの必要は無いと考えて動いてくれず、腰を据えた説得の必要に迫られてしまった。
2日後、私がいつものように家を出て、街中へ仕事に行った。特殊な二種の虫を使った新しい人工受粉の研究が大詰めを迎えていたからだ。これが成功したならば、近縁種同士の交配効率が格段に上がり、育種実験の速度が飛躍的に向上するはずだった。
そうして街中で研究に勤しみ、午後の作業も半ばほどまで進んだ頃、部下の魔道士が駆け込んできた。
息せき切って顔面は蒼白。一目で、悪い報せを運んで来たのだと予感した。
そして言ったんだ。『娘さん二人が遺体で見つかった』と。
私が街中に仕事に行った後、娘二人はあろうことか森へ木の実拾いに行ったんだ。
そして、出くわしてしまったんだ。
私の言葉に耳を傾けてくれた数少ない狩人たちが森を見回ってくれていたが、娘の悲鳴を聞いて駆けつけた時には全てが遅かった。
そこには、娘たちの死体をむさぼる一頭のハンターがいた。
狩人たちは仰天したという。カルエーネ周辺でハンターが出たという記録も伝承もなく、彼らは初めてその姿を目撃したのだから。きっと、この世のものではない、悪魔か悪霊のように思えただろう。
だが悪霊は、狩人に見つかると戦うことなく一目散に逃げ去った。狩人たちがクマを狩る姿をどこからか見ていて、警戒したのだろう。
狩人たちも恐ろしくて後を追えず、無残な骸になり果てた娘たちをなんとか森のはずれまで運ぶしかなかった。
妻は、半狂乱に泣き崩れていた。私も呆然としていた。
娘だったもの二つにかけられていたムシロと、そこからはみ出ていた血まみれの小さな足を見て、全てを悟った。
ただちに、大規模な狩りが行われた。狩人だけではなく、領主の兵隊や魔道士会の魔道士たちも加わっての大捕物だった。
その結果、奇跡的にそのハンターを捕獲することに成功したんだ。
今でもはっきりと憶えている。鉄の檻の中をうろつき回り、近くにいる人間に攻撃を加えようともがく様を。
海と闇の深みを足したような体の色、なめらかで鋭利で硬質だが同時にしなやかさもそなえた突起、無駄がなくすらりと延びた肢体に、効率的な骨格、禍々しくも躍動的に背中にまとめられた擬皮、そしてメリーの輝く金髪のような、金色の瞳。
それが、物言わぬ彫刻や美術などではなく、生物として目前を生々しく動き、生理的に脈動する壮美さ。実に、美しいと感じた。自然が生み出した奇跡のような造形美に、圧倒されたよ。
共にそれを見た妻は、立ち会った狩人の斧を奪い取ると、獣のように吠え猛りながら危険もいとわずハンターの頭に振り下ろした。
何度も、何度も、泣き叫びながら斧を彼の頭に叩きつけていた。悲鳴を上げ、ぴくぴくと痙攣しながら脳漿と血を飛び散らせ、事切れていく。その過程すら美しい絵画のようだった。
反対に、妻のことは醜く感じた。危険な森に娘二人が入ろうとしているのに、ついて行こうともせずのうのうと留守を守っていた。そのせいで娘らは死んだのに、その罰を罪もない生き物に叩きつけているのだから。
私は、ハンターに罪は無いと思っている。彼は森の中で出くわした獲物を、本能と自然の法則に従って捕食しただけだ。狩人がゴラを狩っても罪とはならないように、ハンターは本来の生態としてごく当たり前のことをしただけだ。自分の意思で選び取れずに生まれ持った習性に、つき動かされただけだ。
悪いのは、罪があるのは私たちだ。
娘が死んだのは、クマの死で安心して娘たちを守るのを怠った妻のせいだ。
もっと強く妻と娘に言い聞かせておかなかった私のせいだ。
職場の空き部屋が出来るのを待ってしまった私のせいだ。
命をかけて猟師たちを説得しなかった私のせいだ。
安全な職場に移るまで仕事を休んで娘たちと一緒にいるべきだったのに、あの日も家を空けて研究のため街中に出かけてしまった私のせいだ。
危険だと知っていたのに、変わらない日常を送ろうとしてしまった私のせいだ。
だが、どれだけ悔やんでも、もうあの子たちは戻ってこない。
私たち夫婦はそれ以来うまくいかなくなり、じきに離婚した。私も、元の研究に戻る意欲を失っていた。
それよりも、私はハンターのあの姿に想いを馳せるようになっていた。娘たちとの思い出を追想するよりも、あの美しさに魅入られた己を見つめていた。
それがきっと、いなくなってしまったあの子たちの導きなのだろう。過去の思い出ではなく、今のあの子たちを、ハンターという神秘の美しさを通じて感じられる気がした。
だから君はヘリルメリアなんだ。
私にとって、君が特別であることの証だ。
二度と後悔はしないという自戒と誓いをも含んだ、重要な名前なんだよ」
その後、長い間、ヘリルメリアは何故父が自分にこの話をしたのかを理解できなかった。
これについての話をすることは二度と無かったのもあったが、以後も自分と父との関係は望ましいものであり続けたからだった。
しかも、スゥガ・タムトはこの翌年に肺病で亡くなったのである。
彼の心の内を、その口から聞きたい。喉に引っかかった小骨のようなその想いは、叶わぬものになってしまった。
真相を知る機会は失われた。
だが、この話を忘れたこともなかった。
自分を人間にして、実の娘のように扱ってくれた父親との思い出も。




