軍の魔女16
「それでは、行ってくるぞ」
いつもは魔女装束に魔女帽だけという出で立ちのヘリルメリアであるが、今は防寒装備に身を包んでいた。
ファーコートにミトン、厚わらで包んだブーツ、革のズボンには交差させるように二本の布帯を巻いてある。
帽子もいつもの魔女帽ではなく、ファーのついた毛皮の帽子だった。
まるで雪の中をおつかいにでも赴く少女のような姿である。
その隣で、荷物を載せたソリを引くのは、同じく厚着のトッテンバット。
ただし、手に着けているのはミトンではなく、にぶい輝きを放つ武骨で巨大な籠手である。
そして、更にその隣に立つのは──
「行ってきます。みなさんお元気で」
──やはり厚着の、クロス・フォーリーズだった。
大壁に設けられた唯一の門が「開門!」との掛け声と共に開かれる。
久方ぶりに使う門ゆえ、その動きは見た目以上に重い。
大壁の門は内門と外門の二重構造であり、内門は開くが、外門は溶接されている上完全に凍結していて開かない。
それがかえって門を堅牢にし、敵の攻撃を免れているのである。
「そう暗い顔をするな、わしらならば20日以内には戻るからの!」
見送りに来た諸将らの沈痛な空気を察してか、ヘリルメリアが笑いかける。
それでも、彼らは黙したままだった。あたかも葬儀のように。
「司令官、外門を」
見かねたトッテンバットがそう言うと、ヘリルメリアはため息をついて内門をくぐった。
クロスもその後に続き、トッテンバットも後を追おうとする。
「トッテンバット」
その背中を呼び止めたのは、諸将の一人、サイラスだった。
「要塞はもう、10日も保たない。司令官はそれを知ってて北へ行こうとしている」
振り向かず、その声のみ受け入れる。
「あと何日、敵の攻撃に耐えられるのか。我々の命脈の残り時間はわからないが、いずれ尽きるのは間違いない」
大壁と本丸はボロボロ、物資と人員は足りず、雪で閉ざされ補給もままならない。
こんな状態であと何日持ちこたえられるのか。それは誰にもわからなかった。
その重々しい事実が、見送りに来た者たちをさらに無言にさせていた。
状況を打開する可能性。そんなものがもしあるとするならば、この調査をおいて他にないだろう。
「なるべく、急ぐ」
「そんなことを言ってるんじゃない」
だが、トッテンバットの希望の言葉は即座に打ち消された。
「死ぬのは怖い、かなり痛むだろうし、故郷に残した家族に会えなくなるのは嫌だ。だから我々は、今後全ての力と知恵を振り絞って抵抗の限りを尽くす。しかし避けられんのなら、受け入れるさ。どのみち、先の見えない調査にも期待はしてない」
サイラスの言葉を、周囲の諸将は遮りも否定もしない。
ただ黙って、彼に任せていた。
「だから、あの人を頼む。ダグナマンバにとって唯一の希望は、大壁でも温泉でも投炎機でもない、ヘリルメリア総司令官、あの子が生きているという事実そのものだ。それさえあれば、俺たちは戦える。あの子の帰還を待つことができる」
「……ああ、わかった」
やはり振り向かず、それだけ残す。
そして、トッテンバットもソリを引いて内門を通った。
諸将はそれを、敬礼で見送った。
長い時間はかけず、ごく短い、簡易的な礼だった。
互いの生還。
その本当の希望を、諦めないために。
今生の別れとしないために。
ヘリルメリアが振動の魔法で溶接部と氷を溶かし砕いて外門の封印を解くと、すぐさま強風が吹き込んだ。
狭い通路に大挙する冷気が、門を押し開け、三人の体を打つ。
だが、こらえて外まで歩み出たらば、顔を上げて立っていられる程度の風にまでなってくれた。
そこに広がるのは、無限の雪原。
大壁の上から見下ろしていた景色の中に、いま自分が立っている。
果てしなく続く白い世界の中で、自分が大壁の上に立つ兵士たちにとっての点のような粒になっている。
そう考えると、なんだか恐ろしいような気もした。
事実、恐ろしいことをしようとしているのだから正しい実感ではある。
しかし未熟なクロスにとって、それは今更ながらも小さな身震いを起こさせるほどの景色だった。
これから、眼前に広がる全ての雪を踏み越えねばならないのだから。
「引き返すなら、今ぞ」
先頭に立つヘリルメリアの声は、風の吹き抜ける音の中であってもよく聞こえた。
「生きるなら、今ぞ。誰に対しても、堂々と胸を張れ」
言葉を選んでいるのがわかった。
彼女は、クロスについて来て欲しくないのだ。
どう答えるのか、それは既に決まっていた。
だが言葉にする前に、数十分前のことを思い出していた。
「僕も行きます」
司令官私室の寝台の上でクロスがそう宣言した時、ヘリルメリアは大袈裟に顔を歪めた。
驚いたような、呆れたような。彼女はクロスに別れを告げ、協力して要塞を守るよう伝えるためにここに来たのだ。
「なぁに言うとるんじゃ! 馬車でも地下道でもぶるぶる震えておったクセに、北なんぞ一瞬で凍えてしまうわい!」
「うぐっ」
ヘリルメリアの言葉はよく心に刺さった。
事実だったからだ。
「だいいちおぬしは魔力を消耗しておる! このまま北に連れて行っても足手まといじゃ! 見てみい、体温も下がっておるし、指一本動かすのもおっくうという有様じゃろうが。北への旅なんぞ無謀もいいとこじゃ!」
しかし、反論せねばならなかった。
ぐっと拳を握り、意を決して言葉を返す。
「お言葉ですが、無謀はメリアさんも同じです」
「何ぃ?」と目を見開きながら顔を歪める。
その様はハンターとしての本性が瞬間的に表れたようで、怖かった。
だが唾を飲み、冷や汗をほとばしらせながらも、続けるしかなかった。
「北への調査そのものが、正気ではないのでしょう? しかもグラヤ・ナガの件と氷の触手の件で、北への調査は危険性が飛躍的に高まっています。そんな中へ、要塞司令官ともあろう人が単身援護もなしに飛び込むんです。いくら必要だからと言っても、本来なら司令官の権限で一軍を編成して、西の砦から兵站線を構築しながら行うべきことです」
「そのやり方は時間がかかる。払うべき労力と犠牲も多大じゃ」
「それなら調査なんて初めからすべきじゃないんです。ダグナマンバにも拘るべきじゃない! 要塞そのものを放棄して、全力でコー・ナイルに退き、粘って春まで時間を稼ぐべきなんじゃないですか?」
「軍事的な制約はおぬしを北へ連れていく理由にはならんぞ」
煙に巻く話術が通じないのは、見た目に反した老練さを感じさせた。
しかし怯んではいけない。心を鬼にせざるを得ない時もある。
「メリアさん、その軍事的制約を解決せずに受け入れているのは、どうしてですか? 来年以降も氷エレメンタルを防ぐのなら、ダグナマンバが必要になるのはわかります。一冬の間大要塞と温泉を放棄してしまえば、再建も不可能なほど壊し尽くされてしまうかもしれません。でも、今年を凌がなければ来年以降なんてそもそもなくなるんですよ? メリアさんもわかっているはずです」
クロスの見解は、ヘリルメリアの教示がもたらしたものだった。
今日を生き延びなければ明日は無い。
柔軟な機動と駆け引き、こだわりを捨てた戦略。
そこにひとさじの博打を加えて、勝利を織り上げる。
その教えに、誰あろうヘリルメリア本人が反しているように思えてならなかったのだ。
「調査に、行きたいんでしょう? それも好奇心や知識欲のためじゃない。あなたは、死にたいんだ」
ヘリルメリアの目が細められた。
表情の歪みも消え、ハンター然とした無表情が一瞬のうちに形作られる。
何の熱も色も帯びていない、静かで冷たい、まさしく偽物の顔のようだった。
それこそが、本当の意味での、ハンターの本質的な表情なのである。
「誰に聞いた」
この部屋には彼女とクロスしかいない。
そしてこの声もまた、岩の静寂のように無機質だった。
背筋に悪寒のような痺れが走る。
本能が危険を知らせているのだ。
人類として生まれついたものが抱く、原初の恐怖。
天敵の予感に、神経が怯えていた。
それを、呼吸と、鼓動で、押さえつける。
「お師匠様から、馬車の中で」
声は少し震えた。
ヘリルメリアが老齢と言えども、その人生の多くを学ぶには十分な時間があったのである。
コー・ナイルから大要塞までの道中では、何もやることがなかったのだから。
ヘリルメリアは頭を落とすようにうつむいて、ため息をついた。
その時、本能が発していた危険信号も途絶えてくれた。
思わず、クロスの方も深くため息をついてしまう。
「なら、わかるじゃろう。誰も巻き込みたくないから、全力で守ってきた。今回も、そうじゃ」
うつむいて頭に手を添えながら話す彼女の声は、いつになく弱々しかった。
「わしの差配で皆が助かり、わしの差配でわしが死ぬ。そうなればよいと……」
「だから僕もついて行きます」
「ほあ?」と間抜けな声と共に、ヘリルメリアが力なく顔を上げた。
その視線の先にあるのは、力のこもった、クロスの顔だった。
大壁の上で高らかに剣を掲げたときのヘリルメリアのような、力強く、だからこそ同じ表情をした者として虚勢であるとよくわかる顔だった。
「誰も巻き込みたくないんでしょう? なら、僕を生かして帰してください。最後まで守り抜いてください。僕が生きて帰れるよう、あなたが生きて全力で守るんです」
ヘリルメリアの過去の全てを知っているわけではない。所詮は伝聞だ。
絶望の大きさも、クロスが持っている定規では計り切れないのだろう。
「僕はクロス・フォーリーズです。僕はシリネディークの弟子、十字路の拾い子、学会取次役、魔女の忌み子、死者たちの友、火術士、魔女協会の使者です。その使命は魔女たちの安全を確保し、学会に参加できるようにすること」
しかし、黙って見過ごしてなるものか。
悔いが残るに決まっている本人の希望など、叶えてしまってなるものか。
「魔女協会の男として誓います。あなたが僕を守る限り、僕があなたを守る」
虚勢の中で、この決意だけには、確固たる自信があった。
魔女たちの不幸を受け入れはしない。幸福にしてみせる。
その意思の揺るぎなさにかけては、誰にも文句は言わせない。
そのために、自分は存在しているのだ。
「だから、邪魔しようったってムダです。あなたにすら、僕があなたを守るのを止められない」
強い決意は輝きすら帯びていた。
これには、経験豊かなはずのヘリルメリアの方が驚いた。
そして、悟らずにはいられなかったのである。
「わかった」
ため息まじりに、重々しく、告げる。
「同行を許可しよう」
既に、肚は決まっている。
足手まといかもしれない。役に立てないかもしれない。
かと言って、要塞に残っていても決して良い結果にはならないだろう。
これが、最善の道だと信じている。
「いきましょう、メリアさん」
確かに、そしてできる限り力強く、雪を踏みしめた。
ヘリルメリアは振り向かなかったが、それに合わせて前へと一歩を踏み出してくれた。
軍と軍略は荒ぶる波濤すら押しとどめる。
だが、時に一個の魂を揺さぶる、激しい決意を止められない。
トッテンバットもソリを引いて後に続き、ここに三人の道中が幕を開けた。
帰ることのない、前を向くだけの足跡をひとつ残して。




