軍の魔女13
心中で不安がとぐろを巻いていようとも、焦燥が魂の表層を炙っていようとも、冬至までの12日間は大禍なく過ぎ去った。
大要塞は連日の攻撃を受けてはいたものの、例年通りの小規模な攻撃であり、犠牲者も出なかった。
グラヤ・ナガも現れず、吹雪の勢いも弱い。
"地走り"は油火で追い返せる程度であり、"つぶて"も小さかった。
ひょっとしたら"あの技"はもう来ないのではないか。
そのような安堵すら抱かせるほどの、日常的な攻城風景であった。
コー・ナイルからは、野営陣地経由で報せが届いた。
およそ40体の"地走り"の攻撃を受け、歩兵隊と衛兵は23名が死亡、218名が重軽傷を負ったものの、民間人の犠牲者は無かったという。
しかし市中は混乱し、特に柱街では火事場泥棒や強盗による暴動すら起きかけた。
"什長のファランクス"の協力もあって大事に至る前に鎮圧できたものの、ダグナマンバに対する不信感を色濃く残す結果となってしまっただろう。
襲来した"地走り"は全て破壊したものの、第二波第三波の攻撃が無いとは言いきれない。
治安維持と捜査のための駐留歩兵隊に、街の防備という新たな任務が加わってしまい、余剰ほぼ無しの完全稼働状態に追い込まれてしまった。
反統王連衡に与していない、潔白である衛兵を順次復帰させ、協力させてはいる。
しかし、潔白証明のための捜査も始まったばかりであり、現状、防備の大部分は歩兵隊で賄わねばならなかった。
とはいえ、良い面もある。
民衆が反統王連衡の扇動や政治宣伝に乗せられなくなったのだ。
"地走り"の襲来でダグナマンバ軍への不信が募ったのは確かだが、その不信は依存の裏返し。
結局のところ、ダグナマンバの歩兵隊に頼らなくては、氷エレメンタルどもから身を守れない。
襲撃によって明確な事実が彼らに突きつけられ、その危うさと貴重さが改めて思い起こされる結果となったのだ。
歩兵隊による治安維持行動に協力する住民は増え、市中の政情不安はむしろ鎮まりつつあった。
遠き地よりこの動静を見守っていたクランツも、衛兵隊による乗っ取りと扇動、軍事クーデターによってコー・ナイルを反統王都市に作り変える計画を断念せざるを得なかった。
今の状態で衛兵による反乱を起こさせても、間違いなく住民はそれを糾弾するに違いなかったからだ。
野営陣地は、現状で一番の問題であった。
そもそも、冬に南の雪原で野営などが自殺行為に等しい。
追撃隊は避難対象圏外、つまりは致命的な寒さが及ばない地点に配備されたが、野営陣地の兵士たちは常に殺人的な寒波と雪にさらされていた。
暴風幕を張り、幕営を建て、篝火をこれでもかと焚き、一日の大半を雪かきに費やして、ようやく「営」という言葉の定義に指先を引っ掛けている有様であった。
そもそも、野営が無謀であるからこそ大要塞が建てられ、冬の間は閉鎖されるのである。
陣地を保ち、大要塞との連絡を維持できているだけでも、それは超人的な努力の賜物と言えた。
ヘリルメリアは、次なる大攻勢を冬至と予測した。
しかし、その冬至の日にのみ雪原に兵を展開し、"地走り"を待ち受けようとしたところで、確実に失敗するだろう。
手を加え続けなくては、この大地はあっという間に雪に埋もれ、覆われてしまう。
そんな状態で、いざというときに人間ごときがまともに動けるわけがない。
軍としての展開も出来ず、いいように食い破られて突破されるだけだろう。
故に、どれだけ無謀でも、どれだけ無茶でも、この野営陣地は維持せざるを得なかった。
襲い来る"地走り"を真正面から受け止め、打ち砕くための場は、常に手を入れて整えておかなくてはならなかった。
そして、冬至の鐘は打ち鳴らされた。
襲撃を知らせる早鐘で兵士たちは配置につき、ヘリルメリアとクロスも、いつものように大壁に立っていた。
既に雪が濃く降りしきっているが、初日ほど風は強くない。
それでも、気を抜けば飛ばされぬまでも、後ろに転倒する程度の風は吹いていた。
ゴーグル越しに目を凝らせば、敷き詰められた白砂がごとき氷塊の群れが、雪の帳の奥でおぼろげにうごめく。
帽子のマフ越しに耳をすませば、こすれ合い軋み合う氷塊の重奏に、風音と兵士の咆哮が混ざる。
サティラッチャが放たれる音、岩弾が氷を砕く音、油火が燃え弾ける音、"つぶて"が風を切る音。
戦の音。
とはいえ、その音は初日と比較してしまえばそれほど激しくはなかった。
「サティラッチャの逐次射撃を斉射に切り替えるぞ! 各砲台、装填し合図によって二連斉射! しかるのち逐次射撃を再開するのじゃ!」
ヘリルメリアが怒号に近い指示を飛ばす。
壁上を伝令が走り、松明を用いた手旗信号が壁の各所に伝達されていく。
司令官の指示は発令後10分以内に反映され、大壁の隅々まで行き渡った。
そして、頃合いを見計らい、ヘリルメリアは角笛を吹いた。
何本もの角笛を紐で括ってまとめたものから、ゴラの固い角笛を選んで息を吹き込むと、甲高い音が短く響く。
それを合図として、サティラッチャが一斉発射された。
更に、数秒後には同じ角笛の音で第二射が放たれる。
逐次射撃から一斉射撃への切り替えは、弾幕の空白を生み、付け込まれうる隙を生む。
だが、その隙が問題になるほど、敵勢の攻撃は激しいものではなかった。
ダグナマンバは、戦闘の最中に斉射を行えるだけの余裕があったのだ。
「見よ、クロス。氷塊どもの隊列が前後に分断されたぞ」
斉射二連によって、大壁へと押し寄せる氷塊の波、あるいは絨毯が横一直線に切断された。
それは大きな隙間ではなかったが、このまま大壁に寄せては、空白地帯が前線に差し掛かったところで完全に攻撃が途切れてしまう。
その一瞬の途切れで、大壁の城兵たちは壁の際まで詰め寄せ、侵入口に蓋をし、氷のはしごを容易に崩せる態勢を整えてしまうだろう。
時間にして6秒もない途切れだが、大壁の全地点で生じる6秒である。
今日の攻勢にとって、命取りの6秒となるに違いなかった。
しかし、隙間は急速に塞がれていった。
空白の前後の氷塊が隙間を埋めるように展開し、隊列全体がそれにあわせて流れるように再配置されたのだ。
まさしく、割れた水が元の水面を取り戻すかのごとく、整理された隊列運動で元の密度を取り戻したのだ。
「かように細やかで、己が手足のごとき用兵を敷く者など、人であっても稀であろう。分断された隊列が瞬く間に元通りじゃ。意思なき、単なる天災のようなものではない。見事に統制された、強敵じゃ」
攻撃の最中であっても陣容にほころびあればそれを整え、攻勢を維持する。
それも、何らかの合図があったようにも見えない。
各々の自発的な運動が結果的に連携を生んだように見えるが、そう見えるだけだ。
この隊列修復を、ただの偶然とするのは、あまりに頑迷というものであろう。
「ま、こちらもそう来るのは百も承知じゃがな」
各所で百人長たちの号令が響き渡る。
「押せ!」「落とせ!」その叫びと共に兵士たちは咆哮をあげて一挙に反撃に転じた。
前へ前へと寄せ続けていた氷塊たちが隊列修復のために後ろや左右へ動いたことで、攻勢にわずかな緩みが生じたのだ。
その小さな隙を逃さず、百人長たちは反撃を命じ、氷塊たちを残らず押し返して突き落とした。
更には、大壁の際まで押し寄せ、はしごを登っている氷塊たちをも叩き落とし始める。
結局、氷塊らの侵入口は塞がれ、氷のはしごもツルハシによって次々と割られていく。
「なあんじゃなんじゃあ、今年の冬至の攻勢はだらしないのう! これでは油火どころか小便でも溶かせてしまえるわ!」
あえて兵士たちにも聞こえるよう、大声で笑い飛ばす。
そうした姿と余裕を見せつけておくのも、将帥としての役目なのだろう。
だが、事実として戦況は優勢であった。
ヘリルメリアの予測通り、グラヤ・ナガは魔力核回復に専念しているようで、姿すら見せない。
"地走り"もおらず、氷の巨人たちの姿もまばら。投炎機が動き出せば、さっさと退却するだろう。
「メリアさん、投炎機準備完了です!」
後ろを確認していたクロスが、折も良く報告する。
投炎機の準備の進捗確認は、自然とクロスの役目として定着していた。
「よおし今日は店じまいじゃ! 払いを渋る冷やかしどもにはご帰宅願おう。放てい!」
ヘリルメリアの指令で、クロスはカンテラを掲げて閃光を放った。突き立った三本の塔に向かって。
油火にすら手こずっている今日の状態では、火炎弾などはひとたまりもないだろう。
風も弱く、常よりも発射角度を0.3度上げなければならなかったほどだ。
既に投炎機の腕は引き絞られ、支柱がそそり立つところまで振るわれるのを待つばかり。
それをとどめる金具を外す、最後の紐が今まさに引かれようとしていた。
その、瞬間である。
光の筋が、吹雪を切り裂いた。
一条の、凍てつく輝きの光が、北のはるか彼方より飛来した。
光線は風を裂き、雪を巻き、一瞬で吹雪を吹き飛ばした。
そして、氷の紋様、中央の"前線基地"の真ん中に突き立ったのである。
悲鳴に似た甲高い音と共に紋様は急速に溶けだしたが、それは雪面へ落ちはしなかった。
溶け、崩れる氷は渦を巻くように、中央へ、光線があたっている場所へと引き込まれていく。
まばゆさに、誰もが目を覆った。
稲光がずっと続くような激しい閃光に、戦闘中であっても全てを中断せざるを得なかった。
氷エレメンタルたちも、じっと身を潜めていた。
絶好の機会を自ら放り捨てるかのように、微動だにしなかった。
だが、ヘリルメリアは、見ていた。
光が収束する。
音が収束する。
氷が収束する。
熱が収束する。
それら全てが渦を巻き、空間までもが収束する。
何もかもを、ハンターの目は見ていた。
「これは」
渦の中央へ空間は引き込まれる。
空間が空間の中に凝縮される。
空間の密度が空間を超える。
空間に収まり切らない空間が弾け、空間を突き破る。
溢れた空間がゴムのように伸びながら、矢のように空間の裏を掘り進む。
空間の奥へ進み、貫き、それは微小な穴になった。
「ポータル、なのか?」
瞬間、穴は渦の縁まで広がった。
穴は背に光線を浴び続けていたが、もう閃光は消えていた。
歪みも収束も収まっていた。
だが、そこに、まさに穴としか形容できない何かが浮かんでいた。
城もすっぽり覆えるほどの巨大な、空間の穴。
その内部では、凍てつく輝きと影が入り混じりながら、うごめいていた。
それはまさしく、世界に開いた空洞。
閃光の眩さから解放された全員が、驚きと共に固唾を飲んだ。
一体、これは何なのか。
次に、何が起こるのか。
再び、風の音が響き始めた。
遠くから吹き抜けるような、小さな轟き。
しかしその力強きことが十分に伝わる、重層の低音混じりの。
吹雪のような、悲鳴のような音。
耳をそば立てれば、音は少しずつ大きくなった。近づくように。
あるいは、迫るように。
「あそこからだ!」
誰かが叫んで、穴を指差した。
それは全員がほぼ同時に至った結論を、たまたまその者が叫んだだけだった。
穴から、吹雪が迫っていた。
しかもそれだけではない、何か巨大なものが迫っている。
ぱきぱきと凍りつくような、もしくは氷河が割れるような音が響く。
穴が氷によって縁取られ始める。
巨大な何かが、体を引きずるような音と圧力。腹の底と心臓を押されるような圧迫感。
誰もが冷や汗をかいた。
「総員防御態勢! 投擲兵構え! 砲兵仰角一杯で斉射準備! ボサッとするでない! 投炎機に伝達! あの穴に照準を合わせ集中砲撃の態勢を維持し待機じゃ!」
ヘリルメリアの号を皮切りに、人々の慌ただしい喧騒が鳴り始めた。
配置につき直す兵士たち、指示と喝を飛ばす指揮官。
大壁の上も中も、大急ぎで準備した。
何が来ても、全力を振り絞れるように。
何が起きているのか理解できない不安を振り払うように、大声と忙しさで場を満たした。
「壁の守人どもよ! 厚革の騎士団どもよ! 雪下の兵どもよ! 凍てつく鼻水すすりどもよ!」
大音声を轟かせながら、ヘリルメリアも擬皮を脱ぐ。
怪物じみた姿と、鋭く凶悪な形が、今は頼もしかった。
『安心せい! あの穴より何が来りても、真っ先に死ぬのはおぬしらの誰一人でもない! この、わしじゃあ!』
轟く声には、人ならぬ迫力があった。
異形に対するに最も相応しき異形として、彼女は最前線の壁ふちに立った。
そして、天高く響く、遠吠えを放った。
長く、強く耳を揺らし、腹を震わせる、彼女だけの咆哮だった。
それに釣られるように、兵士たちも雄叫びを上げ始める。
恐怖を拭い捨て、勇気を奮い立たせて踏みしめる。
強風に怯まず立ち向かい、誰一人として後退しなかった。
クロスすら、強く踏みしめて風に抗い、穴を睨み上げた。
雄叫びは風音を押し返すほど、長く、強く轟いた。
それは時間によって衰えず、むしろ最高潮目指して駆け上がっていた。
そして、全員の雄叫びが頂点に達したのとほぼ同時に──
──それは現れた。
つららのような先端が先触れのように、穴と現界空間の境界より現れたかと思うと、瞬く間にその巨怪は侵入を始めた。
それは巨大な、あまりにも巨大な、氷の触手だった。
山一つ引き抜いて擲つなど、いとも簡単にこなしてしまえそうな。
太さだけで、いったい何十kmあるのかわからない。
長さは、考えすら及ばない。
きっと、大陸をぐるりと一巻きできるほどはあるのだろう。
伸び切れば、星にさえ届いてしまいそうな、超巨大な氷。
これに比ぶれば、グラヤ・ナガすら、蟻に過ぎない。
それが、三本。
明らかに穴本来の大きさを超えて、ギチギチに三本の巨大触手がうねりながら、南を目指していた。
その威容に、一瞬にして雄叫びは止んだ。
皆がただ、呆然と見上げるしかなかった。
クロスは手に熱さを感じた。
カンテラの種火が、今までになく強く反応し、自然に燃え出していたのだ。
それに、ただ立っているだけでも肌にビリビリと感じる。
恐るべき、魔力量だ。
まるで世界そのもの。
全世界の全魔力をまとめてぶつけられているような、圧倒的な魔の濁流だった。
"死"
全員の魂に、ただその言葉だけが浮かんだ。
穴を中心に、空気そのものが凍りつき、空間を氷が満たしていく。
突き出て、伸び来たる三本の、馬鹿らしいほどに巨大な触手。
それの根であるかのように、空間を侵し、広がっていく。
うねりながら、クジラのそれを何千倍にもしたような唸り声が、全ての音を上書きする。
氷が、氷こそが、世界そのものを侵食していた。
怪物でも悪魔でもない、それは、まさしく神だった。
神の進撃の途上に、彼らは立っていた。
その時、誰もが生を諦めた。




