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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
軍の章
124/211

軍の魔女11

「それで、じゃよ、コードランはマンマートを制圧したわけじゃが、父王ヴァルグホーンとの軋轢は一層増すばかりじゃった。コードランの覇業がここから本格化するわけじゃから、当然じゃがのう」

「帰国命令を無視し続けたんでしたっけ」

「無視というより、何かと理由をつけて旧マンマート領に居座ったというのが正しかろう。本国に凱旋せず、マンマートとカガチの統治と支配を固め、行政構造の塗り替えを行っておった。王より借り受けた2万あまりの軍をほぼ私兵のように扱い、新たな人材を次々登用しては組み入れ、布令と施しを発し、治安維持と政を取り仕切ったのじゃ」

「カガチも、ですか?」

「マンマートの侵略でカガチの行政は解体されておったからの。幸い領主たるカガチ家の面々は投獄されておったのみじゃったから、コードランの後見と助力の上ですぐさま再建ができたんじゃが、そうなると行政機構に彼奴の意が深く食い込むことになるじゃろ。民衆も、国を救ってくれたコードランを英雄視して歓迎しておったから、カガチ家を通した間接支配の形に自然となったんじゃ。壊滅したカガチ守備隊の代わりになる治安維持軍が必要だったのは確かじゃったけども、それでカガチ守備隊の残存兵力もコードラン支配下の軍に組み込まれてしもうた」


「なる、ほどォ。でも、メリアさん」



クロスは深く息をついた。

その息は熱き水蒸気となって、熱気と湯気に入り混じる。



「そろそろ、のぼせてきました」



ダグナマンバ大浴場。

極北、極寒の地に兵士たちを繋ぎとめられる最大の理由こそ、大要塞で最も規模の大きい施設である、大公衆浴場の存在である。

同時に4000人を収容可能であるこの施設は、小城ならまるごと納めても余るほどの広さがあり、中央に立てば隅にいる人間が霞んで見えるほどである。

大小様々な形体の風呂が備えられており、16もの大浴槽の他に、薬湯の小浴槽群、打たせ湯、かけ湯、しもやけ用のぬるま足湯、釜風呂、サウナ等々温浴設備も多岐に渡る。

温泉は疲労回復は言うに及ばず、打ち身、切り傷、擦り傷、神経痛、筋肉痛、こわばり、関節炎、乾燥肌、高血圧、下痢、冷え性に効果があり、精神面でも肉体面でも兵士たちの健康を下支えしている。


大浴場の外には地熱で暖められた敷き布の上で休める地熱室や、椅子ではなくクッションの上で寝そべったり座ったりできる通常の休憩室まで備わっており、療養する兵士や卓上遊戯に興じる者たちが絶えることはない。

全体的に黒く、薄暗い大要塞の中にあっても、これらの大浴場や休憩施設だけは、大量の照明によって常に煌々と照らされ、夜でも真昼のように明るかった。


大浴場と地熱室は消灯時刻まで常に開かれており、一人当たりに課せられた時間制限のようなものもない。

兵士や避難民たちは、彼らの自由が許す限りこれらの施設を利用できるのだ。

そのため裸の人々による賑わいは決して絶えず、どの場所も常に喧騒と裸体で満たされていた。


そして、クロスとヘリルメリアは今、大浴槽のひとつである"丸風呂"に浸かりながら話していた。

直径が12mもある巨大な円形の風呂で、目につきやすく、楽な姿勢をとりやすいので人気が高い。

事実、彼らだけではなく、多くの兵士たちがともに湯に浸かっていた。


「なんじゃだらしないのう、ホレ、水飲んでこい」


親指で指し示す方角には噴水が据えてあった。

雪解け水に塩を加えたもので、飲み水だけではなく薬湯風呂のあとで体を洗うのにも使われる。

クロスはふらつきながらそこまでたどり着き、座って水を飲み始めた。


「かっはっは、極寒の地でのぼせようとは思わなんだろ? 休み処には氷菓子もあるぞ、持って来ようか?」

「いえ、結構です」


ヘリルメリアの悪戯じみた子供扱いに反応する気力もない。

だがそれでも、彼女はまだまだ風呂から上がる気はないようだった。


「どこまで話したかのぉ、マンマート駐屯のとこじゃったかな。コードランの軍は占領後に6万7千まで膨らんでおったが4万以上が投降兵と新兵で構成されておって──」


ヘリルメリアは暇さえあれば喋り続けていた。

短い期間で知識をクロスに叩き込む必要があるためだが、本人もそれを楽しんでいるようだった。


しかし、この話は途切れることになった。

鎧を着たままの兵士が入室し、まっすぐ歩み寄ったかと思うと何事かをそっと耳打ちしたのだ。

うんうんと頷きながらそれを聞き終わるのと同時に、彼女は立ち上がって若々しいなめらかな肌をさらした。



「上がるぞクロス!」



そして、自分よりはるかに背の高いクロスを引きずって出入口へと向かって行ったのである。






「あっ」



その後、服も着て休憩所で何かを座って待っていると、クロスが、その何かを見つけた。

それは特徴的な、突き出た背中だった。彼はそれを見つけるやいなや四つ這いになって這い進む。

そして、無遠慮に声をかけた。


「レレザルさん」


男は振り向きすらしなかったが、クロスは既にその姿を知っていた。

レレザル・カラカネン。蜘蛛に似たつぶらな五ツ目、突き出た背こぶ、四本の長い腕が特徴の少数民族、ヒヴ人の男。

彼こそはダグナマンバ大要塞二人目の火術士であり、温泉の管理と熱機関部の責任者である。


「機関室にいなくていいんですか? 休憩時間ですか?」


間断なく質問を投げつけるクロスだったが、答えは返ってこない。

ただ、クロスもそれを承知の上で問い続けているようだった。


クロスがダグナマンバに来た最初の晩に、二人は初顔合わせを済ませている。

非社交的で職人気質の変人と聞かされており、第一印象もその評判に違わなかった。

彼は一日の間、一歩も機関室から外に出ることはない。

水圧調整弁のパイプの上を寝床とし、魔力液精製炉の制御盤の前で食事をとり、冷却水の熱放出パイプ近くに置かれた肥桶で用を足す。

その繰り返しで、ダグナマンバの心臓部から片時も目を離さず、判で押したような生活を黙々とこなしていた。

人付き合いを全くせず、話しかけられても無視。機関部技師である部下に指示をするときもぼそぼそと小声で囁くのみで、その上聞き返しても二度と言おうとしないため、部下たちは機関部の喧騒にかき消される指示を聞き取るのに苦労していた。


しかし、クロスは初対面の邂逅で彼を気に入った。

ある法則に気づいたからだ。


「昼食はお済みですか? 機関室の外に用事でも? メリアさんに会いに来たとか?」

「呼ばれた」


振り向きすらせず、背中越しにぼそりと呟いただけだが、確かに質問に答えた。

それを聞けてクロスは満足げに頷く。ゲームに勝った子供のように。


五回質問をすると、五度目のそれにだけ答える。

それが、クロスが発見したレレザルの習性だった。

無視し続けるのがおっくうになって耐え切れずにとうとう答えてしまう、その限界が五という回数であり、一度答えたのだからもういいだろうと気持ちがリセットされる。

その繰り返しで、きっちり五問一答の受け答えができるのだ。

それが、要塞になくてはならない人材でありながら変人と揶揄される彼の、隠れた人間性を表しているようでクロスは無性に面白く感じたのだ。


「わしが呼んだんじゃよ。さっさとこっちに来んか!」


ヘリルメリアに呼びかけられれば、のっそりと立ち上がり虫のような歩みで寄る。

クロスは来たときと同じように四つ這いで戻り、三人はここに集合した。



「明日、トッテンバットが戻ってくる」



ヘリルメリアが声をひそめることもなく切り出した。


「早いですね、もう"地走り"の掃討が終わったんでしょうか」


"地走り"の群れが大要塞を突破し、トッテンバットと一隊がその追跡に派遣されてから二日が経過している。

その間、百人長たちはよく兵を元気付け、動揺を抑えていたが、どのような繕いの笑みもヘリルメリアには通じない。

日常と仕事の裏に、不安と動揺が巣食っているのは確実だった。

幸いなのは、ヘリルメリアの見立て通り、初日以降、敵の攻勢は小規模なものになっていったことであった。

氷塊と"つぶて"の数は少なく、"地走り"は大壁まで迫らず、グラヤ・ナガは姿すら見せなかった。

その事実が、なんとか兵士たちの動揺が表に噴出しないよう、瀬戸際で不安を押しとどめていたのだ。


「いや、戻るのはトッテンバットのみじゃ。火術士がいつまでも要塞の外におってはいかんと気遣ったのじゃろう」

「ということは、追跡隊はそのままですか? 皆気にかけています」


だからこそ、追跡隊がどうなったのかを、全員が大なり小なり心配していた。

南に抜けた"地走り"はどうなったのか? 殲滅できたのか? 追随不能になったのか?

任務は成功したのか? 失敗したのか? もし失敗したのならば、この先何が起きるのだろうか?

皆が、報告を心待ちにしていた。それを受け取りたくないという矛盾した思いをも抱えたまま。



「今朝、報告書が届いた。帰還する前に、さきがけとして伝令を出しておったようじゃの」



袖から一本の木簡を引き出し、差し出す。

クロスがそれを受け取って開いたが、レレザルは覗き込む様子すらなく、じっとうつむいて押し黙っていた。


木簡には、インクではなく刀のようなもので文字が彫り刻まれていた。

内容を黙読するクロスであったが、結局ヘリルメリアが要約を喋ってしまう。



「犠牲者が出た。兵士ではない、民の犠牲じゃ」



冬前になると、ダグナマンバは周辺の村の住民を全員大要塞の中に避難させる。

春までの一時的な移住であり、住民らの間でもすでに生活様式の一部として根付いた文化となっている。

だが、避難対象圏外の人々に対しては、そのままなのだ。


「推定38人、サバ=ハヴナの村が全滅じゃ。知っておるか? "地走り"は人の魔力を食らうとき、まず体内深くに食い込むんじゃ。その状態で魔力を食らうと、氷の体が瞬間的に膨張する。大人ならば、胴が異様に膨れ、腹や胸が破れ、苦痛に歪んだ表情のまま事切れるが、死体の原型は残る。じゃが、体の小さな子供は──」


──バラバラに弾け飛ぶ。


その言葉を、ヘリルメリアとクロスは共に呑み込んだ。


「故に、推定じゃ。38人前後ぶんの死体。あらかじめ避難させておった他の村は素通り。サバ=ハヴナを襲った一団は壊滅させたが、村ひとつを滅ぼしたのはたった4体の"地走り"だったそうじゃ」


南へ抜けた"地走り"は恐らく200を超える。

それだけの数の"地走り"に守りを突破されるような事態を、ダグナマンバは想定していなかった。

長い歴史の中でも全く前例のない事態であり、それだけに避難対象圏外の人々は完全に無警戒だった。

どれほどの地獄だったことだろう。

そして、どれほどの地獄がこれからも生まれるのだろう。

防備を突破した散兵による無差別な虐殺。

死と恐怖と不安を振りまき、内側より敵の生活圏をおびやかす。

ダグナマンバという孤立した堅城を無意味化するにあたって、この上なく効果的な戦略と言えた。

南に食い込まれた時、兵士たちは大要塞を出て外で戦わざるを得なくなるのだから。

しかも軍事戦術の常識は、一体のエレメンタルに対処するには最低4人が必要と説いている。

南に散らばったエレメンタルをしらみ潰しに探し出し、討伐するには8倍程度の物量差を維持しなくてはならないのだ。

トッテンバットに預けた追撃隊の兵力は1500、後方を支える野営陣地の兵力は600、その点で言えば、兵法の常道にかなった采配ではある。


その上で、なお守れない。

無辜の命が夢情な氷刃に刈り取られるのを防げない。

全てを尽くし、最善のみを選び取り、失敗を犯さなかった。

そうしてなお守れぬ、それが実戦の現実であるとクロスは思い知らざるを得なかった。


せめて、それを防ぎうる希望的な報せを木簡の中身に探すしかない。


「哨戒網を構築、って書かれてます」

「避難対象圏外で、かつ"地走り"が氷の体を保っていられる程度の寒さがある村は、あと5つある。それぞれに兵を配置し、その間を定時連絡の伝令と哨戒兵で結んだようじゃ」

「十分でしょうか」

「七分てところじゃな。散らばった"地走り"どもが再集結して村をひとつずつ襲ったならば、哨戒網は各個撃破されるじゃろう」

「それなら」

「しかし、今のところその可能性は無い」


ヘリルメリアが内容を見ずして、木簡の一部を指差す。

そこへ視線を移せば『軌道に蛇行あり、警告のためコー・ナイルへ伝令隊二十名を派遣』と刻まれていた。


「軌道が蛇行しているということは、連中に明確な作戦目標なく、統制を欠いた本能のまま駆けずり回っておる可能性が高い。生命の魔力に惹かれるという性質そのままに行動しておるならば、連中は主に三つの方針へと分散したはずじゃ。すなわち、サバ=ハヴナを襲った一団同様に南下して小集落に向かった奴らと、コー・ナイルへ向かった連中と、どこにも向かわず放浪するように平野を駆け回っとる奴らじゃ」

「コー・ナイルは大丈夫でしょうか」

「警告のための伝令隊を送ったとあるが、間に合うかは"地走り"の連中がどれだけ蛇行や寄り道をしてくれるか次第じゃな。とはいえ、可能性はまっこと低かろうが……」


「怪我の功名じゃなあ」とヘリルメリアは言葉を結んだ。

コー・ナイルには現在ダグナマンバの歩兵隊1200が駐留している。

加えて、あの街そのものも古のスロヴ人が建てた堅固な城塞だ。

"地走り"の奇襲を受けて無事では済むまいが、大きな被害も防げるだろう。

少なくとも、民衆に死傷者が出るような事態には及ばないはずである。


「それなら、今回の"地走り"はもう大丈夫ってことですか」

「丈夫に大をつけるほどの盤石では無いがの、これ以上の対策はかえって大要塞の防備に穴を作るじゃろうな」


故に、トッテンバットは大要塞に帰還するのだろう。

明日戻ってくるというのならば、雪原に置いた野営陣地には既に到着しているはずである。


「それでな、トッテンバットが戻り次第、奴を任務から解こうと思うておる」

「えっ、クビってことですか」

「んなわけあるか、日常業務から解くだけじゃ。今年はあ奴を例年以上に自由かつ柔軟に用いねばならぬからの」


食料と燃料の管理、油火や投炎弾の調合と管理、暖房と照明の点検整備がトッテンバットの日常業務である。

戦闘時には投炎機の組み立てを監督し、指揮も行うが、戦闘そのものに加わることは稀であった。


「あ奴は火術士じゃが、戦の才がある。貴重な火術士である以上、その身柄を危険にさらすような差配は本来慎むべきじゃが、今年はそれでは凌げぬじゃろう。故に、火術士としての日常任務から解く」

「それでレレザルさんを」

「まあな」


「レレザルや」と呼びかけると、彼はうつむいていた顔をゆっくりと上げた。

五つのつぶらな瞳が、レンズに似た無機質さで司令官に向けられる。


「今の体制を、暫定的なものから恒常的なものへと切り替えてくれ。できるか?」


実のところ、現状で既にトッテンバットの業務の全てはレレザルが引き受けている。

彼本人が留守なのだから当然だが、今は間に合わせの急造体制であり、無理が生じるのは承知の上という脆弱な管理状態にあった。

それを継続可能な体制に切り替える。一時的な不在を埋めるための、無茶な体制から。


当然、レレザルは小さく首を横に振った。

拒絶の意思を示したのは明らか。クロスは頭を抱えかけたが、ヘリルメリアはむしろ不敵な笑みを浮かべた。


「16人までならそちらに回せるぞ。追加の手当てもつけてやろう。新しい寝床もしつらえてやる。どうじゃ?」


レレザルは首を振り続ける。


「ダメか? 『エルザレの道化師、モーン』3枚ならどうじゃ? それとも新しい種火が欲しいのか? 西の砦の補修人を呼んでほしいのか?」


まるで孫をあやす老人である。

もっとも、外見上はまるで逆だが。


レレザルは少し困ったように首を傾げて、五つの目全てを瞬きさせる。

そして、口元だけでぼそぼそと何かを喋り始めた。

それを聞き取るのは、隣に座っているクロスの役目だ。

彼の口に耳を寄せ全神経を集中して聞き取ると、それをそのままヘリルメリアに伝えるのだ。



「『自信が無い』だそうです」



その言葉を聞いて、ヘリルメリアは思わず吹き出した。

押し殺そうとするようなひそめた笑い声ではなく、あけすけで明るい、快活な笑い声だった。


「なあんじゃ、おぬしに今更そんな感情があったとは知らなんだ」


胸襟の開いた無礼な物言いではあったが、馬鹿にしているような口ぶりではなかった。


「安心せい、確かにトッテンバットはおぬしと違って人によう好かれておるし、才能も豊かじゃし、だからこそわしに認められてもおる。じゃが火術士としての力量は、おぬしの方が二段も三段も上じゃ。おぬしならあ奴の仕事もこなせるじゃろうが、おぬしの仕事をあ奴が務めるのは無理じゃ」


ヘリルメリアにちらりと目配せされたクロスが、しきりにうなずく。

機関室の構造は、初め源泉をちょうどよく冷ましながら薄めるだけの水路でしかなかったものに、時代を経て様々な機能や機関が後付けされて膨大に複雑化している。

それを掌握し管理できる者は、この大要塞では彼を置いて他にいない。

魔女としての学識を修めたヘリルメリアですら、機関のわずかな兆候から不具合を悟り、パイプの配管図全てを暗記し、冷却管の露一滴から外の天気予報すらやってのける、レレザルの経験と深い洞察には及びもしない。

こと機関の管理、火の番と制御という点にかけては一級品の火術士であり、クロスのうなずきも本心からのものだった。

温泉の管理から、雪解け水生成機関の制御、魔力液の生成、水路の圧力制御までこなす彼がいなければ、大要塞は五日と保たないだろう。


「人付き合いが苦手なのは知っておる。じゃが、部下をもっと使え。おぬしの部下と新たな16人がおれば、風呂を使う者が少なく、圧力も安定しておる朝食から昼食までの間は機関部も保つじゃろ。その間にトッテンバットのぶんの職務をこなせ。こいつは命令じゃ。今日の夕食後にはサイラスを向かわせるから、それまでに新しい勤務表と運用計画を用意しておくんじゃぞ」


親しげだが、有無を言わせぬ態度でもあった。

最優先は要塞の守り。その大義の前では、一個人の不安を汲む度量も失せる。

どうなろうとも、結局レレザルは受けるしかないのだ。


再びうつむき、ぼそぼそとしたつぶやきをクロスが拾う。



「『道化師、モーン3枚、約束したぞ』と」



ヘリルメリアの顔に別の笑みが浮かんだ。

惜しげもなく白い歯を見せる、純真で爛漫な笑顔だった。


「司令!」


その直後、先ほどとは別の伝令が駆け込んで来た。

実に慌ただしい日だ。それだけ、今年は異常なのだろう。

ヘリルメリアが「どうした」とたずねたらば、伝令は簡潔に告げた。


「伝書鳥が届きました。司令宛です」


この報せに、当の司令官は怪訝そうに眉をひそめた。


「まことか? 今日届いたのか?」

「確かです」


伝書鳥の到来をヘリルメリアが疑うのは当然であった。

南から長距離を旅して来た鳥が、冬の時期に雪原を越えて大要塞に到着できるはずがない。

雪と寒風に阻まれるうちに使命を忘れてハヴナ森林帯に迷うか、無理に吹雪を越えようとして凍えて死するか。

いずれにしろ、鳥が通り抜けられるような寒さでは無いのだ。


「足にこれが」


そう言って伝令が差し出したのは、小さな銀環だった。

受け取って間近で見ると、表面には見覚えのある印章が刻まれていた。

左右に折り重なる翼と、その間に描かれた鳥の目。

"鳥の魔女"の印章である。


ならば、あるいは可能なのか?



「うむ、会おう」



即決し、ヘリルメリアは立ち上がった。

伝書鳥の報せは人の手を介さず、自ら受け取る。


ましてや、魔女からの報せとあらば、尚更であった。

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