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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
軍の章
118/211

軍の魔女6

「晴れました!」


息急き切って飛び込んできた兵士が、その息を整える間も惜しんで短くそう告げた。

その瞬間、ヘリルメリアは食事を中断して立ち上がり、早足で出口へと向かう。

クロスも慌ててその後を追う。


二人が廊下に出た直後、遠くで鳴る角笛の音が響き始めた。

繰り返し鳴り続ける、高音と低音が入り混じった警報音は腹にも響く力強さだった。

兵士たちも慌ただしく行き交い、隊列を組んで駆け足で持ち場へ向かう者たちもいる。


「どうしたんですか?」


急ぎ足でいずこかへと向かうヘリルメリアに追いすがりながら、端的にたずねた。

彼女は足を止めることも振り向くこともなく、それでいて声色は常のままに答えた。


「昨日も言うたじゃろ、いよいよ冬が来たんじゃ。ここでは冬が来る直前、まずは必ず晴れる」


兵士たちの慌ただしさは、間違いなく有事のそれである。

ただ、急いではいても混乱はしていない。

あらかじめ定まっていたかのように、各々が自分の役目を整然とこなしているように見えた。

まるで、幾度もそうしてきたかのように。


「冬が来て、指令なしの自動臨戦態勢って、そんなにすぐ襲ってくるんですか? 氷エレメンタルって」

「まあもうすぐ分かる。大壁に向かうぞ」


「大壁に?」という言葉をクロスは呑み込んだ。

もうすぐわかる、とヘリルメリアが言うのならば無意味な問いになるからだ。

ただ、ついていく他は無かった。

クロスはヘリルメリアの従士なのだ。形式だけとはいえ、有事の際にはそばにいなくてはならないだろう。

二人は第四郭部、第五郭部へ移ると、そこで屋外用の服装に着替えた。

わらを巻いた厚手のブーツに綿を詰めたミトン、ファー付きのコート。


クロスの方は更にファー付きの帽子とゴーグルも身につけさせられた。

加えて、冷気を吸わぬよう、二枚重ねた毛糸の覆面を顔に巻き、鼻と口を保護。

寒気が入らぬよう襟と袖を縛り、裾はブーツごとわらで巻かれている。

懐には袋詰めの温石が仕込まれており、服の内側の空気を常に温めてくれていた。


そこまでしても、大壁へと続く地下道を歩いている最中は歯が鳴った。

息は白く、肩や膝、肘に冷たさが集中する。

冬前、そして晴れの日の地下と言えど、−30℃に達することも多い。

窒息してしまうため暖房や焚き火も置かれておらず、必要最低限の照明がかけられているだけだ。

そのような道を、ヘリルメリアは身震い一つせず歩いていた。

ゴーグルも覆面も身につけず、帽子も普段の魔女帽。外へ出るにあたって身につけたのは外套とミトンのみ。

袖も裾も襟も縛らず、ブーツに藁も巻いていない。

だが、クロスよりも遥かに力強い足取りで道を進んでいた。


地下道はやがて長い上り階段へと至り、天井を塞ぐ木板の蓋に続いていた。

百段をゆうに超える長い階段を登りきり、蓋を押し開けると、肌も凍るような冷気とともに日光が差し込んだ。


「司令官が到着!」


兵士の一人がそう叫ぶと、遠くに立つ他の兵士が同じ言葉を叫ぶ。

出口付近の階段に張った氷に滑らぬよう這い出ると、既に臨戦態勢の兵士たちが壁にずらりと並んで立っていた。

全員がクロスと同様の装備を身につけた上で、斧槍や槌矛、戦鎚で武装していた。

空は一分の雲もなく晴れ渡っており、服越しに微かな日光の温かみすら時折感じられる。

兵士らは皆一様に壁の外を向いて立ち、彼方を凝視していた。


大壁の上に立つと、それは壁の上というより道のようだった。

5mにも及ぶ分厚い壁の上は往来に不自由することもなく、そこかしこに防衛用の兵器や城楼や篝火台が据えられている。

壁際に立つ兵士らも三列横隊を展開できており、開戦間際の様相を呈していた。


振り向くと、ダグナマンバ大要塞の全貌が見えた。

トグナイア連峰の隙間に建つ黒い要塞は山より少し低い程度の巨大さであり、いくつもの篝火台と物見櫓が突き出ていた。

前面は焼石と黒い色の金属で覆われており、四段構造の堅固な城構えは人が作ったと思われぬほどに勇壮だった。

特に一段目は要塞の半分程度を占めるほどの高さと広さを誇っており、それ自体が城壁のように機能している。

一段目の上にはひさしが設けられ、2m間隔で焚かれた篝火の周りを兵士たちが固めていた。

二段目には銃眼のような窓が並んで空けられ、その上には忍び返しのようなものが備えられている。

三段目は主に物見櫓と篝火台の拠点となっていたが、今は無人のようだった。

四段目は山腹に建てられた東西の砦へ伸びる連絡通路のうち、空中を渡す廊下を支える城郭だった。

一段目と四段目から東西へ伸びる渡り廊下は歪曲した金属板で守られており、一段目から伸びる連絡通路は、それ自体が要塞と山の間に生ずる隙間を塞ぐ壁にもなっていた。


視線をわずかに下げると、要塞と大壁との間にある200m程度の雪原に、兵士たちが壁のように展開しているのが見えた。

先頭に大盾を構えた者が立ち、後ろに並んだ者らがそれを支える。

ファランクス様とした六列横隊だったが、全員が重装の割に武器を持っていないのが気にかかった。

大盾も両手で扱わねばならぬほどの大きさで、隙間なくそれを並べている様はまさに人間による壁のようだった。


これが、敵を防ぐ工夫なのだろうか?

それにしても、こんなに大掛かりな陣が必要になるなんて。


「ほれ、見てみいクロス」


ヘリルメリアが壁の外を指差す。

兵士の列に割り込み、台の上に立って体を伸ばす後ろ姿は子供そのものだ。

その隣に立ち、指差す方向──壁の外、北を見やる。


そこに広がるのは一面の雪と、黒ずんだ白い森だった。

雪と氷の丘の輝きと白さは全ての大地と地平を埋め尽くし、かえってその広漠を見失わせた。

距離感はまるで無く、ゴーグルがなければ雪が反射する陽光で目を痛めただろう。

森の奥地には何箇所かの空白地帯があり、大きさの比較は木々によって行わざるを得なかった。

おそらく、ここから10km離れた地点に数平方kmの空白地帯があり、その左右にやや小さい空白があった。


「あれ、森ですか?」


思わずたずねた。

大要塞以北にはいかなる生物もいないはずだからである。


「大昔、まだ魔界と現界が出会うておらぬほどの太古、あそこは森じゃったらしい。それが一瞬のうちに凍結して氷漬けとなり、以後ずっと凍ったままじゃ。長い時を経て木々は粉々に分解され、その色だけが氷の中に残ったんじゃよ」

「つまり、あれ全部木の形した氷なんですか」

「森が丸ごと氷に置き換わる寒さなんじゃからな、タマも縮んで当然じゃよ」


かっかっか、と笑い飛ばした直後には、表情に再び幼さをまとわせる。

鞠のような黄金の双眸で、再び彼方を見つめる。


「それより、そろそろじゃな。カンテラの火を強くしておいた方が良いぞ」


その忠告通りに火を強めた直後、森の中にぽかりと浮かぶ三つの空白地帯で何かが蠢いた。


それは、雪を貫いて伸びる氷の芽であった。

同時に、小さな氷の塊が空中に現れ、病のように空気を侵しながら広がっていった。

芽は幹となり、空中に広がる氷に合流すると、互いに混ざり合いながら空中に紋様を描く。

蜘蛛の巣のように、あるいは根のように、形を作る。


数十秒も経つと、そこには氷の幾何学模様が三つ浮いていた。

ダグナマンバ大要塞にも匹敵しうる巨大な氷の模様は輝いて、水面のように揺らめきながら育ち、美しさすらそなえていた。

氷の彫刻か、ガラスの美術品か、輝ける魔法陣か、それは巨大な氷の結晶だった。

空中に描かれた複雑かつ規則的な紋様は、人工物かと見紛うほどに自然美そのもの。

冷気と魔力を呼吸し、変形しながら脈動する様は透明な血管、輝くカビと形容できる生物感もそなえていた。


当然、クロスは目を剥いて身を乗り出した。

見たことも聞いたこともない現象だったからだ。


「わしらはあれを"前線基地"と呼んでおる」


一層引き締まる兵士らの顔の間に、不敵な笑みがあった。


「それよりも──」


その視線は、三つ並んだ巨大な氷紋様の奥を見据えていた。

氷の森に覆われた彼方。そこで起きていることを、漏らさず感じ取っていた。


それは巻き起こる嵐、吹き荒れる死、迫り来る暴風、押し寄せる乱流。



「──冬が来るぞ」



大地を、空を侵食する吹雪の前線、境界線が洪水のように彼方より到来する。

快晴の青色を飲み込み、太陽を飲み込み、地平を飲み込み、雪を飲み込み、丘を飲み込み、森を飲み込み、氷の文様を飲み込み、


「耐風防御ーーーーーーッ!!!」


ヘリルメリアの大号令が響き渡り、クロスは吹雪の到来以上に体をびくりと震わせた。

最前列の兵士たちが床に差し込まれていた革張りの板を引っ張り上げ、支えるように体重を預ける。

各々がその後ろに身を隠し、ヘリルメリアも自らが引っ張り上げた革張り板に隠れる。

無論、クロスも彼女に身を寄せるようにして隠れた。


「息を止めるんじゃぞ。足をしっかり踏ん張って、吹き飛ばされるな」


ヘリルメリアが小声でそう忠告した十数秒後、吹雪が大壁を飲み込んだ。

その瞬間、鉄砲水のような衝撃がクロスたちを襲った。

兵士は皆一丸となってこらえ、ヘリルメリアも足から伸ばした突起を突き立てて踏ん張った。



「えっ」



しかし、一瞬の大突風に、クロスが弾き飛ばされた。

吹雪の猛威は軽々と人間一人を吹き飛ばし、その体が白き地獄へと巻き上げられ、飲まれる。


寸前で、ヘリルメリアの手首から伸びた突起が、クロスの袖を引っ掛けた。

かろうじて繋ぎ止めたまま手繰り寄せられ、兵士たちに腕や胴を掴まれて支えられる。

そしてそのまま、ヘリルメリアが身を隠す板の裏へと投げ入れられた。


「馬鹿者が! しっかり踏ん張っておれと言うたじゃろう!」

「す、すいません。ありがとうございます」


帽子を押さえながら謝る。

体が吹き上げられた瞬間、彼はこれまでの人生で最も死を実感した気がした。

事実、ヘリルメリアが助けてくれなければ確実に死んでいただろう。

ほんの一瞬の出来事だったが、冷たい実感として自らの死を確信した時間が存在したのだ。

恐怖や困惑すら感じる暇もない一瞬に「ああ、死ぬんだな」という冷静な知識のみが魂を駆けた、あの一瞬。

彼はここに至ってようやく、本当の意味でここが最前線なのだと悟ったのである。

ヘリルメリアに頭を叩かれたところで、ようやく心臓が高鳴り呼吸が荒くなり始めたのだ。


思わず、額の汗を拭いそうになる。

人間というのはあまりにも速すぎる死の寸前には、恐怖も困惑すらもない。

ただひたすらに呆気なく、無味で無感情なものなのだ。少なくとも、自分の場合は。

クロスにとって、それは死そのものよりも強い恐怖を呼び起こした。


「大丈夫か!?」


察したヘリルメリアに気遣われるも、うなずきながら手を上げて無事を示す。

実際、打ちのめされている場合ではない。死の実感の呆気なさに慄くよりも、まずはその死を回避することに専念せねばならないのだ。

そう自らに喝を入れ、気持ちを奮い立たせると、状況の観察に努める余裕も生まれていた。


最初の一撃は凄まじかったが、風の勢いは初撃を凌げば徐々に弱まっていった。

それでも、風見鶏をへし折り、覆面の裏で鼻水を凍らせるほどの強さは保たれていたが。

しかし、何とか板裏に隠れずとも立てる程度まで風が弱まると、そこかしこで「壁に立て!」と叫ぶ声が響き始めた。

それらを頼りに兵士たちは各々の判断で板を押し込んで格納する。

互いが互いを風除けにするように並び立ち、ヘリルメリアも再び台の上に立った。

濃い吹雪で視界はほぼ利かず、風の轟音で人の声すら掠れて聞こえる。

寒さがあらゆる隙間を逃さずもぐり込み、無数の短剣のように体の芯へと突き進む。


恐るべき寒さと強風だ。

これだけの重装備なのに、まるで裸で立っているようである。

全身を容赦なく吹雪が叩くのだ。顔は枯れ木がごとく強張り、表情を変えるだけで裂けるような痛みが走った。

手足は早くもかじかんでいたが、懐の温石を掴むこともできない。

懐に手を入れるための隙間を作った瞬間に、全身が凍えてしまうに違いなかったからだ。


「火を焚けーーーい!!」


吹雪の轟音の中に於いてですら、ヘリルメリアの号令は響き渡った。

この小さな体のどこにこれ程の大声をしまっているのか。今はただ、頼もしいばかりだ。

それに勇気付けられたかのように、大壁の篝火台に炎が灯される。

風がわずかに弱まったおかげで吹き消されることもなく、火は雪を退け、光は視界を広げてくれた。


「サティラッチャ装填ンンーーー!!!」


サティラッチャ。フランド地方で出土したものを魔道士会が分析し、改良した防衛兵器である。

その形と機能は車輪のついた大弩と述べるのみで事足りるだろう。

三本弦の張力から発射される重さ4kgもの岩石球は一撃で櫓をも砕き、人間などが喰らえば四肢も頭も千切れ飛ぶ。

兵器としても取り回しが利き、魔沸砲と違って発射に必要なのも丸く削った岩石の砲弾のみ。投石器に比べて場所も取らず、運用に必要な労力も少ない。

有効射程距離の問題から野戦や攻城戦では扱いにくいが、存分に高所から撃ち下ろせる城塞防衛戦では猛威を振るった。

その照準が、大壁の前へと向けられた。一つや二つではなく、大壁の壁面にずらりと開けられた発射口の全てから。

壁の上に据えられているものも装填され、俯角を取って狙いを定める。

そうして、百基を超すサティラッチャが氷の森へと向けられた。


「何が起こるんですか!?」


吹雪の音に負けぬよう、声を張り上げる。

氷の紋様、襲い来るように突如現れた吹雪、そしてこの物々しい雰囲気。

これでは、まるで──




「戦じゃよ」




氷の森が揺れる。ざわめくような枝葉も、しなるような幹もない、死んだ木々がなまめかしく蠢く。

その間から、吹雪に命を吹き込まれたかのように、いくつもの氷の塊が立ち上がった。

分厚い雪の下で眠り、潜み、冬の到来を待ち受けていた氷の怪物。それらが今目覚め、雪を突き破って姿を現した。

数本の突起をそなえた氷の塊たちは、その突起を砕き折りながら手足がごとく動かし、あるものは這いずるように、あるものは歩くように大壁へ寄り集まる。

砕け折れた関節は即座に再凍結して固まり、再び動くときにまた砕き折られた。

氷の塊たちはその変形を繰り返し続けながら、森を渡っていた。


氷エレメンタル。

氷の木と比して測れば、どれも最低3mの大きさはそなえていよう。

それが次々に、啓蟄の虫がごとく氷の森から湧き出でた。

全てが正確に大壁の方向へ進み、列を形成し、押し寄せる。

その姿はさながら、氷の軍勢。


全部で何体いるというのか。

雪より出でた氷の怪物たちは地平を埋め尽くし、なお涌き出でる。

既に万は超えているだろう。奴らは集まり、並んで行進し、そして、サティラッチャの射程の手前で立ち止まった。



「これは」



眼下の光景が信じられず、声を漏らしてしまった。


ヘリルメリアは魔女帽を改めて深くかぶり直し、氷よりも冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。

そして、雪崩すら起きそうなほどの轟声で、叫んだ。



「DE-TIVA DOCICRULE!!!」



兵士たちが咆哮で、それに応える。

吹雪の音とこすれ砕ける氷の合奏に抗い、そして力を示すように。

全員が声を揃え、気力を奮い立たせて、冬の猛威を前に踏ん張った。


そのとき、氷エレメンタルどもも、堰を切ったように押し寄せた。


「放てェェーー!!」


司令官の号令一下、サティラッチャが一斉に岩弾を発射する。

蟻のように押し寄せる氷の怪物たちへ降り注ぐ岩の雨。

それが氷を砕く重音と、兵士の轟く鬨の声を以って、ここに冬と人との戦争が開始された。

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