軍の魔女1
大地にそびえる壁のように切り立つトグナイア連峰がいかに高く、いかに頑健であろうとも、天空に届くほどではない。
その山頂には息づくものもなく、雲をすら割り裂く険しさであろうとも、星を断つほどではない。
だというのに、トグナイア連峰を境に北側と南側では大きく気候が異なり、気象学者の頭を悩ませている。
コー・ナイル等がある南側は厳しい寒さと乾燥に見舞われているが、ディゴ荒野を除いたほとんどの地域で降雪は稀であり、雨も降らない。
いきおい、トグナイアの雪解け水や川など水資源の重要性が高まっており、それ故に"井戸城"という水源確保用の設備まで存在している。
問題は北側である。
そこは常に豪雪が降りしきり、晴れるのは年に20日前後。
一年の半分以上を大吹雪が包み、太陽もなく風の強い日には日中でも鼻水が凍る。
晴れの日が極端に少ないため、雪は積もる一方であり、トグナイアの雪解け水は北側に積もりすぎた雪が南側にはみ出てから溶けたものである。
これらの雪は大地の所々に深く積み重なり、不用意に歩けば落とし穴のように沈み込んで命を落とす。
実際、幾人もの調査隊がこの地で消息を絶っているが、運良く晴れた日に"不自然に空いた穴"を遠目に見た者がいるという。
しかしこの地で最大の危険は雪でも吹雪でも、毎夜板塀を崩し引き裂くほどの殺人的な冷気でもない。
常にこの地を徘徊している大量の氷エレメンタルどもだ。
トグナイア連峰の北側は大気と大地に多量の魔力が混ざっており、それらが吹雪によって撹拌され続けられれば、局所的な滞留地点が発生しエレメンタルが生ずる。
豊富な魔力と大量の雪は、それらを拠り所とする者らに巨躯と、非常に強い力を与えた。
この地のエレメンタルは他のどの地域のエレメンタルよりも大きく、力強く、そして大量である。
生命なき大地を闊歩するは彼らのみであり、トグナイア以北を未踏の地たらしめる大きな要因と化していた。
厳寒と魔力の暴風に覆われた北の地は、まさに彼らの王国。しかしエレメンタルとは、それが生命ではない故に非常に貪欲なものである。
生物の魔力の気配をちらりとでも感じたらば、たちまちのうちに襲いかかり、甘美なる蜜を啜り上げるだろう。
とはいえ、氷エレメンタルにとってもトグナイアはやすやすと越えられるような代物ではない。
その険峻に阻まれ、氷の巨人たちが南側の生物を脅かすような危険は防がれていた。
そのトグナイア連峰が、一ヶ所だけ途切れている場所があった。
幅1.3kmにも及ぶ空白地帯からは、水筒の栓を抜いたが如く吹雪が漏れ出で、生命の匂いに誘われた氷エレメンタルがしばしば周辺の原住民を襲っていた。
これに終止符を打とうとしたのが、この地に新たに移り住んだスロヴ人たちだった。
彼らはひと夏の間に空白地帯を塞ぐ防壁を築き上げ、同胞の戦力を割いたものに徴発した原住民らを加えた軍隊を駐屯させた。
一枚の防壁と、その後ろに置いた数百の混成軍。それは十分な始まりではなかったが、時を経て少しずつ設備は改良を加えられ、それを前提とした戦法も確立していった。
やがて、それは巨大な要塞へと変貌を遂げていた。
専任の司令官と守備隊が常駐し、氷エレメンタルと吹雪の脅威から、南側の全てを守る。
12代目司令官であるノラス・ヴ・ゾゥルゥは統王に降伏する際にも「必ずこの要塞を保ち、軍勢を置き、その守りについて責任を負うこと」との条件を突きつけている。
北の果ての地。戦略上は全く無意味な地点に置かれた要塞を維持するのは、並大抵の苦労ではない。
だが統王は更に要塞を改修し、より固く、より大規模な大要塞へと完成させた。
そして今日に至るまで、コー・ナイルの悠長な腐敗をゆるす程にはエレメンタルの脅威を退け続けているのである。
ダグナマンバ大要塞。
北の地に住むあらゆる者、あのマードックですら、そこは不可触の領域だった。
現地の者にとってダグナマンバだけは政治的に利用してはならない存在であり、それ故にクランツもそこを掌握できていなかったのである。
『とはいえ、要職者の任命権は統王が持っているから、今回のやり方が通じたのだけれど』
相互紙にじんわりと滲んだ文字が浮かび上がる。
馬車に揺られてダグナマンバへ向かい始めてから、既に6日が経過していた。
大要塞へ近づくごとにホロを打つ風の音は強くなり、相互紙の文字には乱れが生じるようになっていた。
『魔道士会の様子はどうでしょうか?』
相互紙に書き入れた文字が染み込むのも、心なしか時間がかかる。
そのせいか、アッサルートとクロスのやりとりは簡潔な言葉に終始するようになっていた。
『良くないわね。統王と魔女への反感が強くなっているわ。この6日間で、既にかなりの魔道士が連衡に取り込まれているでしょうね』
勅令という強引な手段で裁判をひっくり返し、魔道士会ゆかりの地での支部長の殺害を事実上容認した。
他の地にて活動する魔道士らの多くにとって、一連の事態の顛末はそのように映った。
未だに魔女への反感を抱く者が決して少なくない魔道士会の内部において、それは統王の王権を魔女が弄する構図として考えられ、魔女への攻撃、ひいては魔女と統王との繋がりを攻撃する格好の材料となった。
極端な例では魔女協会を君側の奸と見なし、反統王連衡への協力は、それを除く世直し的活動として肯定する者すらいた。
反統王連衡は、そういった小さな反感を丁寧に育て、つぶさに収穫しているだろう。
そうして、現界の魔道士たちで構成される裏の諜報・流通網を構築しつつあったのであるが、その事実すら今の魔女協会には正確に把握し得なかった。
『ま、それはこっちで何とかするわ。あなたは自分の役目に集中しなさい。以上』
さっさと切り上げたのは、とうとう文字が崩れて送られ始めたからである。
空気中の魔力濃度が高いだけなら相互紙の連絡に支障は無い。
だがダグナマンバ周辺ではその魔力の流れが大きく乱れ、吹き荒れているために、相互紙を繋ぐ魔力の流れをも乱してしまうのである。
そのため、大要塞の中では全く相互紙が使えず、魔鳴法も行えず、魔漏法も思った方向には飛んでくれない。
そのような場所の司令官に現役の魔女が任じられているのには、理由があった。
「よっと、邪魔するぞ」
相互紙をたたんだ直後、出入り口の幕を固定する閉じ紐をゆるめながら、ヘリルメリアがにじり入ってきた。
体と帽子の上には雪が積もっており、わずかに開いた布幕の間からは容赦なく吹雪と風が吹き込む。
その寒さと突然の闖入者に驚いている間に、ヘリルメリアは素早く閉じ紐を再び締めた。
「いやはや、ホロが風で破れてしもうてな、老骨で悪いが居させてもらうぞ」
雪を払い落とし、そのまま馬車の中央に据えられた簡易暖炉ににじり寄る。
クロスもそこで暖を取っていたため、必然、二人で暖炉を囲む形となった。
じろじろと眺めるのは失礼だろうとは思ったが、つい横目を向けてしまう。
背を丸めて手をすり合わせる仕草は老婆のそれだが、見た目で言えばこれまで出会ったどの魔女よりも幼い。
ため息をつき、咳払いをしながら襟に手を深く突っ込んで胸のあたりを掻く様は、うら若き乙女のそれではない。
当然だ。この6日間、相互紙の通信が万全ではないとは言え、彼女についての話を聞くだけの時間は十二分にあった。
"軍の魔女"ヘリルメリア。その年齢、実に72歳。
彼女の姿は十分に、クロスの興味と好奇を惹くものであった。
「なんじゃおぬし、気になるのか?」
当然、その視線には気付いていた。その上で尚、余裕を崩さない。
少なくとも、不快そうな素振りは全く見せなかった。
「あっ、す、すいません」
咄嗟に視線を逸らすが、それもかえってわざとらしい。
ヘリルメリアは少女のような声でしわがれた笑いをこぼすと、右手を差し出した。
「おぬしのことは協会長殿より聞き及んでおるよ。触ってみるか?」
温和で余裕のある笑みは、年輪がもたらしたものであろう。
まがりなりにも女性の肌に触れたいと思い、さらにその思いを看破された上で寛容さまで見せつけられてしまえば、クロスは恥ずかしいような思いを募らせるばかりだ。
だが、最後には好奇心が勝ってしまう。さりとて感謝の言葉や了承の確認をするのもはしたないように思われ、結局、無言のまま遠慮がちに手を伸ばすに至った。
その指先が手の甲に触れると、やわらかく、なめらかで、それでいてしっとりした肌そのものの感触が伝わってきた。
軽く押し込めば絶妙な弾力があり、肌や肉の柔らかさだけでなく、骨の形と硬さまでわかるようだった。
「すごい、本物みたいだ」
目を輝かせ、心ならずも感嘆の声を上げてしまう。
ヘリルメリアは満足げに鼻を鳴らした。
「ある意味これも本物じゃよ、生体の一部という点ではの」
「血管は通ってるんですか? それらしいのはうっすら見えますけど、治癒能力は? 傷ついたらどうなるんですか?」
「血管も皮下脂肪もあるぞ。中を通っておるのは血ではなく"緑凝液"という液体じゃがの。傷をつければ、それが滲んで傷口を塞ぐんじゃ」
「ということは、神経も通っていないんですか? 痛覚や触覚なんかは……」
「擬皮そのものには無いが、服越しに触られるような気分じゃの」
感動が遠慮を上回り、手だけではなく爪や指紋まで触り始める。
「すご。これが擬態だなんて……」
「念のため言うておくが、ここでは脱いでやらんからの。冷えてかなわん」
どのような生物にも天敵というものが存在する。
天敵は単なる敵対者や捕食者ではなく、その生物をその種たらしめる習性や特性を狩ることに特化したものども。
まさしく天がそうあるべきと差配したが如く、獲物の性質にピタリと噛み合った対策を全身で体現する生物。
そのような天敵にかかれば、獲物の長所すら格好の餌食と化す。
防ぎようもなく、逃れようもない、絶対なる異質にして侵略者。
ルーライにはサグレホイムシが、ゴラにはガロウが、アリにはアリクイが、アガニクジラにはトツキザメが、ノギワコンブには人間が。
そして、人間にも天敵が存在する。
その名はハンター。
古代双角語の林の間に立ち尽くすものという言葉が発音しやすいよう変化していった名である。
その性格は獰猛かつ凶暴、冷酷で情け容赦なく、群れも作らない。
繁殖期の同種異性間においてすら、互いに殺し合い、オスがメスを屈服させた場合のみ交尾を行う。
この闘争でオスが敗北した場合、オスはメスに殺され、縄張りをメスに奪われる。
語源の通り林や森に生息するが、深いところには棲まず、条件が合えば街道筋や隘路の近くに穴を掘って住むこともある。
同種ですら社会を作らぬ猛獣であり、殺戮と狩猟の本能に従うけだものであるが、知能は高く、多くの場合で地形や道具をも利用して狩りを行う。
冷徹に獲物を観察し、分析し、絶好の機を待つ。そして好機が訪れるや否や、一瞬で仕留めるのだ。
そんな彼らの獲物が、人間である。
ハンターはそれぞれの個体が、擬皮という器官を有している。
それは人間の外見そっくりの膜状器官であり、彼らはそれをすっぽりと被って人間に擬態する。
見ただけでその擬態を見破るのは不可能と言ってよく、直接触れ合っても人間と錯覚してしまうだろう。
鼻と口で呼吸を行い、眼球に似た甲皮器官はまぶたと瞬きすらそなえ、実になめらかで自然な眼球運動を展開する。
手足を器用に用い、人間の衣服を脱ぎ着し、擬態したまま人間のように走ることすらできる。
体毛や髪の毛、うぶ毛までをも一本一本そなえ、きちんと時間の経過で伸びていく。
人間社会の人間の習慣を学び、人のように振る舞い、熟練によって表情すら作り出せる。
魔界の都市国家イギニエクシションでは、ある一頭のハンターが2年もの間、一般市民として潜伏し狩りを続けていたとの記録が残っている。
身体能力は総じて高く、力も強い。殺傷能力は「百振りの矛に匹敵する」とまで言われており、足首程度の幅しかない空間にももぐり込めるほどの柔軟性を併せ持つ。
弱点と言えば人間らしく振る舞うだけで人間性や知性は持ち合わせていない点と、一言も人語を話せない点、そして口内の奥を覗き込んだ時に明らかに人間とは異なる構造が見えるという程度である。
擬態したハンターはおしなべて情緒の反応が鈍く、全くの寡黙で、無趣味かつ退屈に高い耐性を持つ。
狩りや人間としての振る舞いをしていない間は延々と椅子に座ったまま微動だにしなかったという個体もおり、人間社会の中に紛れ込んだ者であっても、人間らしい感情はほぼ示さない。
獲物を騙すために着ている皮に過ぎないのだ。その姿で人を油断させ、接近し、確実に狩り殺すための。
魔界原産の種であるが、既に現界にも進出しており、今でも被害が報告されることがある。
特に森林地帯に住む者たちにとっては恐怖の対象とされており、関連すると思われる伝承や怪奇譚、神話や昔話がいくつも残っている。
オルキシュなどは明確に「人の皮を被って現れる悪霊」と見なしており、木々の間に立つ見慣れぬ人間は必ずハンターではないかと疑われる。
その際の対処は部族や集団によって様々だが、極端な例では矢を射かけて避けたらハンター、避けなかったら人間とする乱暴な識別方法をとるものすらある。
それだけ、人間にとってハンターという存在は恐れられているのだ。
そして、"軍の魔女"ヘリルメリアはハンターである。
今やこの世に一人しかいない特殊中の特殊個体。
彼女がいるために、統王は単なる猛獣でしかないハンターを民族認定し続けているほどなのだ。
寿命は正確には判明していなかったが、ある事情によりおおよそ90歳前後なのではないかとの知見がもたらされている。
「ま、質問には答えてやるぞ。着くまでの暇つぶしじゃて」
クロスが離した隙に、はにかみながら暖炉に手をかざし直す。
その姿はやはり、人間の少女に、あるいは老婆にしか見えなかった。




