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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
法の章
112/211

道行きの誓い

「な、何用でございますか。今は裁判中ですぞ」


ソルチェンタイウスの声色がうわずる。

動揺を隠せておらず、また、隠そうと思いつくほどの余裕も無いのだった。


それに対し、ヘリルメリアは懐から一本の書簡を取り出し、高く掲げた。

木簡でも布巻物でもない、上等な手漉き紙の巻物の紐留めは、統王の紋章の形をしていた。

それが見えた瞬間、判事と魔道士会幹部らは思わず仰け反った。

あまりのことに、席から立ち上がる者さえいた。



「ここに示すは上意、勅令である!」



親指で紐留めを弾けば、巻物はその重みで幕が閉じるように自ら開いた。

そこに書かれている文字、それは間違いなく統王本人の直筆であった。


「『昨今、天命に背き、巷間を害し、民生を脅かす不逞の奸賊跋扈し、良民を騙りて悪事を為す。統治を預かる身として之を看過せず。よって以下の者を奸賊の一味として、また万民と万世の反逆者として縄目につけ、相応の罰に遇するものとする』」


文面を見もせず、まっすぐに判事を見据えながら読み上げていく。

帽子のつばの奥で輝く金色の光が、放たれた征矢(そや)が如き声が、ここに集うあらゆる罪人を射抜き、その場に縛り付けていた。


「『アーリー・マードック、ソルチェンタイウス、ハロバ・ヴ・セネイレ、テイリノ・バル=ホーマン、これらの生命の有無に関わらず、その罪過を明らかにし、統王の称号と其を頂くあらゆる臣民の魂に掛けて罰する』」


そして、更に十数名の精兵が法廷に突入し、判事とテイリノ・バルとハロバ卿を取り囲んだ。

衛兵たちは清廉な者も買収されている者も等しくしどろもどろと対応を迷い、そのうちに歩兵らに武器を向けられ、降伏するように武装を捨てていった。


「バカな! 言いがかりだ! 何の証拠があって」


そう叫んで足掻くのはテイリノ・バル。

だが直後には歩兵らに取り押さえられ、ヘリルメリアの不敵な横顔を浴びせかけられた。


「残念じゃったのう、ヘインネスク親子が全て吐いたぞえ。"兵の"が集めた情報と合わせたらば、おぬしらはまとめて謀反人じゃ」

「じゃあ、この裁判は」

「無論、取り潰しじゃ。"兵の"は統王様の勅令で調査と誅殺に励み、おぬしらがそれを排除せしめんとしたのじゃ」


テイリノ・バルに歩み寄り、見下ろしながらも身を屈めてその喉に人差し指を伸ばした。

指先が喉元に触れる瞬間、人差し指の皮がめくったようにベロリと剥がれ、代わりに現れた刃のような突起がテイリノ・バルの喉に押し当てられた。

冷たく、鋭い感触に小さく細められた悲鳴が一瞬立ち上る。


「せいぜい、恩情に縋ることじゃな。額が千切れんばかりに這いつくばって擦り付け、許しを乞うたらば、マードックやアンガンドゥッツのようにおめおめと生き延びられるやもしれぬぞ?」


俗人らしい恐怖と絶望に染まった顔の下を刃の突起で撫でつけ、とどめの一言を存分に放つと、背を向けて「連れて行け」と命じた。

歩兵らがそれに従う頃には、もう彼女の人差し指は刃ではなく、柔らかな皮膚が張られた少女の指に戻っていた。


「諸君! 勅令によりて以上の四名は只今つつがなく逮捕されたが、状況から見て叛徒どもの枝葉となりし者が多数いたことは疑いない! 木っ端とて火種の燃料、掃討がために銘々らの協力を請う! 上意のもと、全員連行せよ!」


続いて、歩兵たちは衛兵らと魔道士たちを取り囲んだ。

協力を要請。つまりは連行して尋問するということだ。

おそらくはこの街にいる全ての魔道士と衛兵を。


魔道士たちと衛兵たちは慄き、ほとんどの者が歩兵らの導きに従った。

マードック程度の権威にすら屈する者たちである。統王の威光に屈せぬはずはなかった。

みだりに逆らったり抵抗しても、かえって逆徒として咎められるだけだ。


歩兵の一人が、当然のごとくクロスの肩に手をかけた。

全員連行せよとの命令を忠実に実行するためであろう。



「ああ、そやつはいいんじゃ。ちょうど良い、タンガ副官を呼んできてくれ」

「はっ」



しかし、ヘリルメリアが歩み寄ってそう指示すると、歩兵は恭しき返事を返し次第離れていった。


改めて間近で見ても、女児のようにしか見えない。

だが見た目の年齢に大きな意味が無いことは、既に幾度も経験している。

ましてや、彼女の種族を考えたらば……


「恐縮です総司令官閣下」

「"軍の魔女"かメリアでよい。おぬしがクロス・フォーリーズじゃな、お初にお目にかかる」

「は、はいっ」


先に礼を取ったヘリルメリアに慌てて同じ礼を返す。

それから、自分の心中にあった疑問と驚きを同時に口から放った。


「メリアさん、どうやってここに? 一日ぶん離れた場所で待機していただいていたものと思っていましたが……」


最終的には勅令を携えた"軍の魔女"とダグナマンバの軍が介入する、というのは予定にある結末だった。

だが、事が事前に露見しないよう、慎重を期してコー・ナイルからは離れた位置で待機してもらっていたはずだった。

それが今こうしてここにいる。そのおかげで助かったのだが、どのような事情があって起こり得たものなのか、どうしても気になったのである。


「"法の"が心配しておってな、こちらの策が敵方に見抜かれていたならば、その慎重を突く急転を狙い来たる恐れがあると。故に、こちらも急転し、柱街に潜伏しておったのじゃ」

「柱街に? 全然気がつきませんでした」

「ヴェシュトが密かに手引きし、隠れ家を備えておいてくれたのじゃ。ワシはもう五時間前には入城しておったよ」


クロスはヴェシュトなる人物と会ったことは無かったが、それが"什長のファランクス"の頭領たる人物の名であるのはアイランが残した調査書から知っていた。

そして同時に、自分のあずかり知らぬところで事態が進んでいたのだという事実をも思い知らなくてはならなかった。

現地でクロスが動きやすいように伏せていたのだろうとは思えたが、いささか釈然としない気持ちは残った。



「あ、そうだ、招待状を」

「それは大要塞で受け取ろう。今はホレ、"兵の"を迎えに行ってやるとよい」

「いいんですか!?」



アイランが医療所での軟禁に甘んじているのは、その身が危険に遭い、クロスの心配を喚起しないためである。

また、今の彼女が衆目にさらされれば民衆の反感を買うは必定。

もし暴動じみた騒ぎが起きてしまえば、裁判のどの陣営にとっても不利に働くだろう。

それを抑止しうるほどの軍事力を衛兵では賄い切れないために、医療所への移送すら他の患者に紛れ、布を被せて行なわれたほどなのである。


「街中は既にワシが連れてきた兵たちで固めておる。統治も、新たな領主が任命されるまでは検吏が代行するじゃろうて。ここはワシらおなごに任せて気兼ねなく行くが良い」


遥かに背の低い少女にしっしっと手で払われ、クロスは「ありがとうございます」とだけ応えながら走り出した。

連行されていく魔道士らと、連行していく歩兵たちの間を縫い、かき分けるように外へ出ると、人目もはばからず道を走った。

走りながらも視線を巡らせると、確かに街はダグナマンバの軍勢によってまるで占領下の様相を呈していた。

歩兵たちが隊列を組んで巡回し、そこかしこで動揺した民衆らの対応に当たる姿が見られた。

とはいえ武力による恐怖に慣れ切った街である。人口の規模にしては動揺は少ない。

ましてやダグナマンバの軍人は彼らにとって見慣れたものである。

彼の地の駐屯軍はコー・ナイルを兵員交代の際の中継地点とし、軍需物資の輸送拠点、また酒保としても扱っているため、特段の違和は生じないのである。


だが、民衆らの表情や立ち居振る舞いに滲むのは、事態を呑み込み切れていないことによる思考停止だった。

ほとんどの者が平素通りの生活を送ろうとし、今の状況を軽く見ている。

領主と魔道士会幹部の一人と名の知れた地主が逮捕され、故人ながら随一の名士が反逆罪で訴えられる。

街の各所に掲げられたばかりの高札から勅令の内容を読み、それからほとんど時間が経っていないとはいえ、その情報は「まさかそうだったとは」「統王様の勅令がこの街に下るとはなあ」というゴシップのような消化のされ方を早くもされ始めている。

マードックと"兵の魔女"からただ与えられるがままに育った民衆たちが、自ら思考し行動を起こせるほどの主体性を回復するには、どれだけ急いでもあと30年はかかるだろう。


その間、彼らは統王様の苛烈な捜査と詰問にさらされ、傷つくだろう。

統王が動くとはそういうことなのだ。一度その力を振るうならば、多くの者が傷を負う。だがそれでもやり通さねばならぬ。

傷つけたくないとしても、最大限公正であろうとしても、執行を完全な支配下に置いていても、力の下には必ず悲劇が生ずる。それを止めうるのは天のみであろう。

かと言って力を振るわずにおれば、悲劇の傷をさらに広げる結果になる。手術は痛いが、手術せねば患者は死ぬのだ。

この街の住民とは、その手術の刃が食い込む部位そのものなのである。犠牲にならざるを得ない人々なのだ。


そのことに、彼ら自身が未だ気付いていない。

さしものクロスも僅かな罪悪感を覚えた。

勅令のもとで進められる大規模かつ長期の捜査、そして問いかけ。

『お前たちの見張りは誰だ?』

答えられない者は皆、賊徒の協力者と見なされて処断されるだろう。



(でも、それもこれも皆、お前たちの怠惰が自ら招いたんだ。まやかしの安寧の上に眠り、理不尽を甘受し、支配者の気まぐれを正そうとしなかったお前たちの)



クロスはそのように住民の精神性を唾棄し、自らの罪悪感をごまかした。

そして直後には、アイランへの想いで心を満たした。




でも、アイランさんもその支配者の一人だ。

住民の生命そのものの存在が、あの人の無言の認可によってゆるされてきたんだ。

その現実を、どうやって肯定しよう?


いや、どうして僕はアイランさんを肯定したいと願っているんだろう?

あの人が魔女だから? 肌を重ねたから? 僕を拾ってくれた恩人だから?

どれも違う気がする。

でも、僕の魂がどうしようもなく肉体をつき動かすんだ。

痛いほどに、激しく胸を押し潰して、感情を絞り出させるんだ。

実験なんかじゃない。この感情、恐らく、これは──




クロスは医療所に到着すると、息を整える暇も惜しんで、歩兵らに事情を話した。

彼らはあらかじめヘリルメリアより言い含まれていたと見え、思いの外速やかに動いてくれた。

一人が医療所内の仲間に報せに、そしてアイランを連れ出しに入って行ったのだ。

その間、クロスは医療所の外で待つように指示された。


ふと、高札が目に入った。

医療所の外にも、今回の勅令が記された高札が掲げられていたのだ。

今は医療所内に多数の患者とアイランがいるために、歩兵がその周囲を固めているが、アイランがここを退去したならばここの高札にも人が集うのだろう。


もっとも、既にここの周囲には多くの民衆が集っている。

魔道士の一人が無軌道に発した「"兵の魔女"が解放される」との噂に早くも乗じて、それを見に来たのだ。

故に、ここは歩兵たちによって警備され、民衆の輪は歩兵たちに抑えられて、その円周を縮められずにいた。

とはいえ、彼らが"兵の魔女"に肉薄するだけの勇気を持ち合わせているとも思えなかったが。

どちらにせよ、そわそわと落ち着かぬ気分でアイランの解放を待つクロスの思考に、そのような些事が入り込む余地などもないのであるが。


アイランを解放し、救い出して、この腕に迎える。

それが彼の目的であり、そのために何日も危険な橋を渡りながら努力を重ねて来た。

何かが一つ間違えば命すら危うかっただろう。彼は最前線でただ一人、孤独に戦い続けたのだ。

だというのに、いざ薄氷の勝利を得てみれば、その後自分がどうするのかをまるで考えていなかったことに気付いたのである。

時間を稼ぎ、その時間で統王に勅令を出させるだけの材料と因果を用意して説得を敢行し、その勅令に基づいた具体的な軍事計画を練る。

時間を稼ぎ切れず、後々の損害が最も大きい形での落着にならざるを得なかったのが残念ではある。

この落着が、おそらくはクランツによって誘導された結果であろうとの思いもまた、後味の良くないものを残した。


だが、今は、己の心の欲するままに、アイランをひたすらに欲した。

会って、自分がどうするのかすら定かでないままに。


少し経って、歩兵らの一団が医療所から歩み出て来た。

それに伴われて現れたのは、裁判の間中ずっと近く、そして遠くあった人。

否、クロスの魂が自我を抱いてよりずっと、近くも遠くもあった女性。

アイラン・ヘルゼンデル。

変わらぬ姿がそこにあった。


それを見た民衆らは声を上げた。

罵声や怒号を浴びせかけ、波のように寄せては、歩兵らの屈強な壁に阻まれて波のように引くのを繰り返す。

統王の勅令にアイランへの免責を含んだ文言が記されていたのを知る者も多かったはずだが、結局彼らが統王に従うのは彼ら本人が己の感情に従うからであり、想像力の欠如した群衆はしばしば無謀なる感情の発露を実行してきた。

しかしその無謀さが結果的には個々の摘発が困難な暴動の波を誘発し、彼ら一人一人の法的な立場を守るに至っていた。


だが、クロスは全くそれを意に介さなかった。

互いは互いを見つけると、どちらともなく駆け出し、どちらからともなく強く抱き締め合った。

そのとき、物が投げつけられ始め、歩兵たちは抱き合う二人を庇うように、背を向けて囲んだ。

さしずめ人間の城郭と、それを陥落せしめようとする投石器の攻防だ。

もっとも、飛び来るのは巨石ではなく、野菜くずや魚の切れ端などであるが。



「アイランさん、よかった」



囁くようにというより、つぶやくようにアイランの耳元でこぼす。

安堵が彼の魂を満たした。やり遂げられたことへの安堵であった。

その子供じみた感情に、アイランはくすりと笑う。


「今なら、だぁれも見てないわぁ」


アイランの方は、はっきりと、声を潜めてクロスの耳元に囁いた。

それから、密着していた体を少しだけ離し、それでも足が絡まり合うほどの距離からまっすぐに見合った。

正面から、瞳同士が触れ合いそうなほどの近くで、互いの目を覗き合った。

アイランは涙すらためたクロスの潤んだ瞳の奥に、"忌み子"らしからぬ熱さを見出した。

クロスは正面から自分の魂すら覗き込もうとするアイランの、瞳に宿った光なき深淵の奥に、兵器らしからぬ魂の輝きを見出した。


「すきよ、クロスちゃん。愛おしくてたまらない」


尖った歯を見せてはにかむ表情は少女のように純真だった。

それがあまりにあどけなかったものだから、クロスもつい頬を緩めて、たまった涙を拭ってしまう。


「僕もです、アイランさん」


そう応えると、二人は示し合わせたかのように目を閉じた。

そして遥か昔からそう定められていたかのように、ごく当然であるかのように、唇を触れ合わせた。

吐息を絡ませ、柔らかさで数瞬焦らし合い、直後には貪るように。

屈強な兵士らの背に囲われ、雨のように罵声や怒声、野菜が降る中で、二人は互いを求め合い続けた。

ゆっくりと、だがその確かさを味わい続けた。

果実が帽子にぶつかって爆ぜても、魚の骨が肩に乗っても、二人にとっては祝福の花吹雪に等しかった。

一つになろうとするかのように舌を絡ませ、ぴったりと密着し、互いの頭をかき抱く。


そこには、本能を超えた何かが存在した。

少なくとも、二人はそう感じていた。

歩兵たちが民衆らを散開させるのに成功するまでの10分強。

それは二人にとって、幾たびも身を重ね合った回数と時間を遥かに超える、濃密な10分間であり続けた。












「それじゃあ、行ってきます」


荷物を背負い直しながら、クロスはアイランに一礼した。


あれから2日後、コー・ナイルの情勢は目まぐるしく変化していった。

まず、勅令には領主ソルチェンタイウスの逮捕と更迭後、新任者が任命されるまで現地の行政使府が職務を代行する旨が書かれていた。

領主とは司法の現場上における要職であって、その職責を代行できる職員など検吏以外にない。

よって、これはサイザル・モロウナに対する実質的な辞令かと思われたが、実際には複数の検吏が平等に職務を持ち回りにすることが決定した。


"薬屋"はダグナマンバ大要塞の歩兵たちによって壊滅させられた。

かの組織は叛徒であるマードックが支配していた違法組織であり、反逆者の一味として検挙の対象とされたのだ。

当然、耳聡き者らは潜伏に及んだが、"薬屋"はその晩年に無節操な麻薬売買と縄張り荒らし、更には散発的な内部衝突を幾度も起こしており、周辺住民の反感を買っていた。

故に、住民らによる密告や捜査協力が相次ぎ、"薬屋"の構成員のほとんどが逮捕され、薬品の製造拠点の全てが摘発されるに至った。

一部には追跡を振り切り、消息を絶った者もいたが、それらは皆、クロスが去った数日後に、コー・ナイルの外れにある枯れ木に吊るされた死体として発見された。

絞首死体は腹が裂かれており、引き出された腸は絞首用のくくり縄の形に結ばれ、ぶら下がっていたという。

この手口から人々は"什長"たちの仕業であると噂し合ったが、真実は、"兵の魔女"アイラン・ヘルゼンデルがコー・ナイルに残した最後の気さくな置き土産であった。


"兵の魔女"アイラン・ヘルゼンデルは魔女協会の──つまりは"屍の魔女"ストイル・カグズ・アッサルートの──命令により退去する運びとなった。

六日間の"準備期間"を経て魔女協会領に移り、そこで待命の日々を過ごすことになろう。

統王の勅令により今回の件の免責が認められた彼女であるが、既にコー・ナイルの民衆は彼女への負の感情を表すのを躊躇わなくなっており、アイラン本人はそれを喜んだが、統治の上では大きな障りとなった。

住民を慰撫し、彼らが反統王の煽動に乗ずるのを防ぐには、激発の材料となるアイランは遠ざけなくてはならなかった。

伝統的な反魔女の地を監視し、抑止する者がいなくなるのは魔女協会にとって痛手ではあったが、今回の勅令を統王に発させるにあたり、この程度の譲歩は必要不可欠であった。


住民らの間では、未だ大きな混乱は起こっていない。

行政使府とダグナマンバ歩兵らの連携が密であり、反逆者たちの検挙がつつがなく進行しているためである。

これには"什長のファランクス"が影ながら協力しているのみならず、ヴェシュトが街の至る所に募兵活動の広報ビラを撒き、統王の軍への参加を呼びかけたのも影響していた。

これは統王やダグナマンバの直接の軍事力を増強するためというよりも、募兵活動そのものによって統王に対する畏怖心を改めて住民らに喚起し、反統王連衡に対する牽制とするのが狙いだった。

更に、ヴェシュトはこのような風説をも流布した。


「マードックは叛徒に鞍替えしたものの当の叛徒どもはマードックを見捨てた。その証拠に彼は"兵の魔女"と戦い、死んでいる。叛徒どもが仲間だというならば、その時奴らは何をしていた? 共に轡を並べて魔女殿と一戦交えないまでも、その身を匿い逃げ果たさせるべきではなかったのか? 連中は所詮賊徒で、義もなければ、この度は仁をも持ち合わせていないことを自ら証明した。我らが名士は叛徒どもに謀殺されたも同然なのだ」


魔女への反感を最大限利用し、反統王連衡の存在を肯定しながら、その行為と精神性を非難するこの論説はコー・ナイル住民に強烈に作用した。

もっとも、これらの対策で住民の反感を抑えられているのは、歩兵隊による捜査が今の所は表層で這い回っていた、目立ちやすい虫どもを刈る段階にあるからに過ぎない。

簡単かつ通り一遍の捜査で検挙できる叛徒を捕まえているうちは、住民の生活に軍が干渉し、その安寧が脅かされることはない。

問題は表層で動いていた者らが逮捕され尽くした後、奥深くで蠢動していた者らを捜査する段階に入った時である。

クランツはこの地でずっと、ストッグ・マウトルとして潜伏してきた。単なる一般労働者として。恐らく他にも多くの偽名と身分を弄しているだろう。

そのような者を検挙せねばならなくなった時、捜査は確実に民衆の生活を脅かすものとなり、彼らの家庭に干渉しなくては一歩も進まないようになるだろう。

もしそうなった時、いつまで反抗心を制御できるか。いつまで彼らが煽動に乗らずにいてくれるか。

そのような破滅的な爆発が起きてしまう前に、根を断ち切らなくてはならない。

そこまでの覚悟があって、統王は勅令を下したのである。


そして、クロスはダグナマンバ大要塞へ赴くことになった。

"軍の魔女"ヘリルメリアがそこでなら招待状を受け取ると明言したからである。

彼女は現地で歩兵隊の編成と勤務シフトを構築し、逮捕者を王都へ護送する手筈を整え、行政使府との協力体制を確立させると、自分の副官の一人に駐留歩兵隊の指揮と運用を任せて大要塞へ帰還する意向を示した。

その帰還の道行きに同行させてもらえることになったのだ。

コー・ナイルへの駐留歩兵隊は1200名程度であり、数において衛兵を下回るが、潔白が証明された衛兵から順次指揮下に入り臨時兵として職務協力する運びとなっている。

総司令官の帰還に随行するのはわずかに50名程度で、荷駄馬車も二輌のみ。

その片方に分譲させてもらえるのだから、この寒さの中では好意に甘えるのが最善と思われた。



「行ってらっしゃあい」



"魔女の包丁"の上からアイランが手を振る。夫を送る妻のように。

今朝は「もうすぐ魔女の包丁もただの包丁になるんだなあ」などとの冗談も交わし合ったが、この二日間はそのような爽やかな会話も褪せるほどの熱い時間を過ごしたものだ。

離れるのが名残惜しいような、後ろ髪を引かれるような気持ちも無論あった。

だが、どのみちアイランはここに居られない。一時の別れは避けられない。

なればこそ、クロスはこの別れを単に一時の別れとするような決意を固めていた。


馬車に乗り、荷物を降ろしてまた手を振ると、アイランもにこやかに手を振って返した。

二人はそうして、お互いの姿が見えなくなるまで見つめ合い、確かめるように手を振り合っていた。

再会を確信しながら。



『とりあえず、何とか片付いたわね』



師、アッサルートとつながる相互紙に文字が浮き上がる。

クロスは己の荷物に腰掛けたまま、背中を壁に預けた。

寒さのせいでインクがすぐに凍ってしまうので、カンテラの炎には自分の身ではなく相互紙とインク壺を寄せてやらねばならない。

相互紙は便利な道具だが、暑さや寒さには極端に弱く、また紙そのものも劣化が早いという欠点を抱えていた。


『"法の魔女"さんにお礼がしたかったのですが、相互紙に反応が無くて』

『ヘリルメリアに決行の合図を出してすぐに処分したんでしょうね。タプセ・ナク・モンクを使った時点で"法の魔女"の関与が連衡にバレていたでしょうから、万一のことがあってもいいようにしたようよ』

『大丈夫なんですか?』

『タルギンの太守殿と"鉄の魔女"に報せて守らせてるわ。さしものクランツとやらもおいそれと手出しはできないはず』


"法の魔女"ハリシュ・リオソランは四者協議の魔女協会代表として、現在はタルギンに滞在している。

あそこの太守殿なら、誠実に彼女を警護してくれるだろう。

いざとなればイーリの腕っ節と人望も役立つ。そう思えば、安心もできた。



『それより、あなたこそ大丈夫?』

『大丈夫ですよ、魔道士には変なことはされてません』



コー・ナイルの魔道士会は粛々と歩兵隊による活動の制限と捜査への協力を承諾し、実行した。

マードックを失い、領主と幹部の一人が逆賊として捕らえられ、裁判も勅令による免責という形で敗北した。

裁判で行われた不正も続々と明らかとなり、すっかり求心力を失って意気も消沈。

赤恥をかかされた逆恨みを抱きながら離脱した者もいたが、全体としては至って従順なものだった。

"什長のファランクス"による裏社会の武力面での抑えも効き、コー・ナイルが丸ごと反統王の都市と化すという災害はひとまず延期されたように思われた。



『そうじゃなくて、"兵の魔女"のことよ』



クロスの筆が止まった。

師がアイランを良く思っていない、というより警戒していたのには気付いていた。

"胞の魔女"クルギャの警告もある。今思えば、あの警告はまさに正中を射抜いていた。

だがそれでもクロスには決意があった。そして、少し考えて、師にはそれを伝えるべきだと論結した。


一度背を正し、天を仰ぎ見て深呼吸する。

不思議なものだ、決意をすることよりも、それを他者に伝える時の方がはるかに緊張する。

天を仰いでも見えるのは馬車の薄汚いホロばかりであり、深呼吸も緊張を和らげはしなかったが、それでも彼は「よし」と一声かけて相互紙に向き直り、ペンを握った。



『お師匠様、大事な話があります』



アッサルートは『何?』と聞き返すようなことはしなかった。

ただ黙って、続きを待った。

そして間もなく、彼の決意は紡がれ、染み込み、送られ、表れた。

地中から芽吹いたつぼみが花開く、その瞬間かのように。



『この旅が終わったら、僕はアイランさんに求婚しようと思います』



彼女への思いを、少なくともクロスは愛だと確信していた。

求婚を受け入れてくれるであろうことにも確信を抱いていた。

普通であれば、役目を途中で他の者に譲ってすぐにでも婚姻するものなのかもしれない。

だがこの旅の大事さを自認する彼自身の精神が、それを許さなかったのだ。



『そう』



アッサルートから返ってくる字は、さすがに少しばかり震えていた。



『決意は固いのね?』



自分がクロスの母親であれば良かったのに、と彼女は痛感した。

だが彼女は師匠なのである。

師としての責任から、はみ出てはならないのだ。


『はい』


アッサルートは大きなため息をつき、彼方をぼうと見つめながら逡巡した。

何か言葉を贈りたい。だが何をどう伝えるべきなのだろうか。

伝えるべきものと、そうすべきではないもの。

言葉を発する当人が、どうしてその正解を知り得ようか。


だが、やはり、贈るべきは最も重要なものだけなのだろう。

アッサルートには人生を楽しむ度量があり、行き交った者を心配する人間味があるのだから。



『心から、あなたの幸せを祈るわ』



クロスは大きく息をついた。

緊張していたが、師匠ならば承諾してくれると信じてもいた。

『ありがとうございます』と書き送り、相互紙を閉じる。

会話を切り上げる旨を書き逃したが、アッサルートも自然と相互紙を綴った本を閉じていた。

彼女の方はやや気だるげに息を吐くと、侍従の一人に、茶ではなく酒を所望した。

浴びるほど飲むから、伴にエルガンを連れて来なさい、と添えて。


クロスは、座ったままホロの外に目を向けていた。

コー・ナイルの壁と天蓋が微かに遠くに見える。

荒涼とした大地に、切り立つトグナイア連峰と、唯一の恵みと言える川。

あの景色の中に自分もいたのだと思うと、そこで起きた全てが些細なことのようにすら感じた。

だが、知っている。あそこで起きたことは、何もかもがおそろしく、素晴らしいものだったのだと。


クロスは目を閉じ、全身の力を抜いた。

この寒さで眠れるわけはなかったが、吸う空気の冷たさすら今は不思議と愛おしかった。


──使命をやり遂げる理由が、またひとつ増えちゃったな。


今のぼんやりとした思考をあえて言語に表すなら、このような心模様であろう。

旅はまだ長く、出会いはまだ多い。

小さな壺は炎の傍にあり、凍らぬ黒インクを馬車の揺れに合わせて、遊ばせるようにたゆたわせていた。

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