法の魔女16
柱街の某所、とある廃墟でクランツは身支度を整えていた。
寒冷地の旅に備えた防寒の重装備である。
一人ではままならず、双尾族の若い女性が手伝っている。
なよやかな指で甲斐甲斐しく留め具を固定し、重ね着の折り目を正す様はまるで妻のようだった。
彼女の名はスル・ヤグ。
三角連衡の乱に呼応して魔界で蜂起した守旧派が、周辺の地域を破壊した結果生じた難民の一人という出自である。
彼女の父はその時行方不明となり、彼女自身はその後、混乱に乗じた人狩りにさらわれ家族と離れ離れになった。
魔界での奴隷解放令が発されてから既に30年以上が経過していたが、世が乱れれば必ず人を商う者が現れる。
彼らの大部分は何よりも人手や労働力、兵数を欲するであろう反乱軍側に人間を売り込むことを目論んでいた。
だが違法奴隷商人たちの意に反して、反乱は速やかに鎮圧されてしまった。
手元で商品がだぶついてしまった奴隷商たちは、あっという間にその始末に困る立場に追いやられてしまう。
解放してしまえば、自分の犯した犯罪の証拠を世に放つことになる。
かと言って隠して飼い続けても、維持費用を食い潰される。奴隷の餌代も、奴隷を売って稼がねばならないからだ。
ではどうするか? 殺すのだ。
守旧派の反乱鎮圧後、身元が分からぬようバラバラにされたり焼き尽くされた死体の山がいくつも発見されることになる。
スルもそこに加わるはずだったが、寸前で主人である奴隷商人が摘発され、彼女は他の奴隷たちと共に保護された。
検挙した部隊は統王の三男ゼルタルス・コードラン・ハーバントの直轄であり、彼は奴隷たちを天核教の各修道院に分散して配置した。
彼らの多くはそこで修道士になり、スルも修道女となったが、3年後に還俗。
その後は、完全に消息を絶っている。
今や、彼女がここで生きていることを知る者はクランツのみ。
還俗した彼女の人生を知っているのも、クランツだけだった。
「スル、手つきにためらいがあるぞ」
ペットに話しかけるかのように、唐突にクランツが言い放った。
スルは顔を上げてクランツと目を合わせることもなく、ただ黙々と視線を伏せて務める。
彼女がした返事は、強いて言えば革帯を固定する紐を結ぶ力を、少しだけ常よりも込めた程度のものである。
だがクランツは眉ひとつ動かさなかった。
「疑問があるか。どんな話をしようか」
見下ろして髪をなでると、ほんの一瞬だけ横目を向けた。
即座に元の位置に戻った瞳を、一瞬覗く。
それで意図が把握でき、また伝えられる程度には、彼らはお互いを知っていた。
「簡単なことだ、確かにコー・ナイルの魔道士会には負けてほしいが、魔女が勝ちすぎても困る」
机の上に整理しておいた道具を次々にポケットへ入れていく。
ペンや火打石といった日用の道具、干し肉や燻製などの保存用携帯食から、武器や暗器のようなものまで仕込んでいく。
「裁判を長引かせすぎて魔女と統王に時間的猶予を与えてしまっては、よりマシな手を講じさせてしまう。奴らとて魔道士会を追い詰めたくてそうしているのではない。そうせざるを得ないよう、私が誘導している。下手に和解などされてしまっては、食い込む余地が残らないからな。だから少しだけ、魔道士どもに助太刀してやらねばならんのだ。その方が、裁判後の取り込み工作もしやすくなるというもの」
スルは口が利けないわけではない。沈黙の誓いを立てているのでもない。
彼女が人生のうちで学んだ重要な真理の一つ、「沈黙こそ至宝」との悟りをただ信奉しているに過ぎない。
そして彼女は己の人生こそが、その金言の正しさを証明するのだと信じて疑わなかった。
故に、主人の言葉にも無言を返すのみであり、主人もそれを殊更に無礼だとは感じていなかった。
「それにしても魔道士どもは不甲斐ない。結局、用意した手駒を全て吐くことになるとはな。それでも釣りのくる交換だが、突然の値上げはやはり不愉快なものだな」
と言いながらも、その表情に微塵の揺らぎもなかったが。
「こんなものだろう。通してくれ」
その言葉でスルは日没のように離れると、ドアを開いてその奥に向かって大きく手を振った。
それから横に退いて控えた途端に、ドアの奥からドタドタと力強い足音が近づいて来る。
足音が部屋の前まで迫ると同時に、半開きだったドアは乱暴に蹴り開けられた。
その直後に無遠慮に入室した、怒れる足音の主によって。
「このクソ野郎が! 今すぐてめえのツラに一発ぶちかましてしゃぶらせてやる! それも右の鼻の穴でな!」
乱入者は"流木団"の頭目、雲丹髭バウゼモクだった。
額の青筋すら赤くなるほどに顔面を紅潮させ、血走った目を剥き、殴り殺しそうな剣幕で怒鳴り込んで来たのだ。
「落ち着け友よ、何故お前がここにいる」
クランツは取り乱す様子もなく言い放った。
その顔に叩き込んでやろうと拳を振り上げ、渾身の力を集めて睨みつけたが、寸前で踏みとどまる。
激しく怒ってはいても、全ての理性が吹き飛んだわけではない。
代わりにバウゼモクは、大いに悪態をつきながら机を殴り壊した。
何度も繰り返し叩きつけ、丹念に怒りをぶちまけた。
それから改めて、クランツの襟を掴んで壁に叩きつけた。
「四十二人、四十二人だぞ! あんのクソアバズレの"兵の魔女"なんぞに食わせるつもりだったなんて知ってたら、四十二足の靴をてめえのケツにぶち込んで仕立て屋に売り込んでたぜ! 婦人用靴箱としてな!」
四十二人とは、アイランがこの街で殺めた"流木団"の傭兵たちの数と同数である。
それは同時に、バウゼモクがクランツに護衛兵として貸し出した兵数の9割以上でもあった。
「傭兵なら死ぬのも商売のうちだろう。戦死手当も払ったはずだ」
「ああそうかよ、じゃあオレはどうなる? 遺族になんて説明しろってんだ? 今やオレは狼のクソだ、いや、狼のクソの中で寄生虫が垂れたクソで溺れた未消化の虫ケラだ! クソの中で必死にもがいて泳いでる。向かう先はプアリのクソだ!」
バウゼモクは追い詰められていた。
結果的に、彼は"兵の魔女"と戦うよう部下たちに命じたことになってしまったのだ。
生還できるはずのない、絶対に失敗する攻撃。死が確定した仕事。そこに四十二人を突撃させたのだ。
遺族たちは黙っていない。当然、他の団員たちも黙っていないだろう。
部下の命を軽視する頭目など、傭兵たちにとっては災害でしかない。
しかも、相手はよりによってあの"兵の魔女"だ。頭目が四十二の団員を殺したも同然である。彼は四十二人を、巨大な竜巻に挑ませたのだ。
その立場を剥奪され、追放されるだけならばまだ良い方であろう。
しかし、四十二人の無謀な死を贖うに妥当なものなど、命を含んだ命以上のものしかないのである。
故に、彼は本拠たるアルヴァンス島を離れてここに来たのだ。
事態を他の団員たちには隠匿し、手当金も隠して駆けつけたのだ。
遺族たちはまだ、自分らが遺族であることすら知らない。
「てめえとの仕事は終いだ、契約に従って違約金を払ってもらうぜ、いま、ここで、すぐにだ!」
襟を掴む手が、更に強く絞め上げる。
だが厚着の上衣を掴んで引き上げても、首はほとんど絞まらない。
「友よ、契約とは何だ?」
クランツは少し呆れたように、それでも堂々と言い放った。
途端にバウゼモクの表情が岩山のように険しさを増す。
「とぼけんじゃねぇ! 兵の運用はオレが決めるって契約書に──」
「統王を倒さんと欲する我らが、何故統王の定めた法を仲間内でまで守らねばならんのだ?」
「はぁ!?」
「その契約を破ったとして、お前はどのようにして私にその違約金とやらを払わせようと言うのだ? この両の拳でか? お前はさっき怒りに任せてですら私を殴れなかったのにか?」
「てめえ!」
拳を再び振り上げる。今度は、本当に殴るつもりで。
だが、それは空中で停止した。
何故ならば、拳がクランツの顔面に叩きつけられる前に、バウゼモクの腹にナイフが突き立ったからだ。
そのナイフを握る手は、クランツの左手であった。
「バウゼモク、お前は逃げるつもりだったろう。違約金とやらをせしめて、姿を消す気だったな?」
明らかに内臓にまで達している刃を、更にひねって、抉りつつ痛みを与える。
バウゼモクは呻き、一瞬身を引いたが、再び襟を掴む手に力を込めると、大きく背を反らせた。
強烈な頭突きでクランツの顔面を砕こうとする、悪あがきの一撃。
それすら命中することはなかった。スルが薙刀でバウゼモクの両腕を斬り落としたからである。
襟を掴んだままの片腕を残して、雲丹髭バウゼモクは仰向けに転倒した。
血が噴き出し、その勢いに負けぬ絶叫が響き渡る。
「バウゼモク、お前は逃亡兵だ」
まともな言葉などもはや紡げぬ肢体を見下ろし、襟に引っかかった肉塊を放り捨てながら冷たく言い捨てる。
まるで、数秒後にはそう冷たく言い放ったことすら忘れているかのように。
そして、腹に突き立ったままのナイフに足をかける。
バウゼモクは必死に体を起こそうと力を振り絞るが、もはや何の意味もなさない。
クランツが一気に体重を乗せてナイフを踏むと、その切っ先が遂に腰椎を切断した。
瞬間、びくりと体を震わせて、バウゼモクは絶命した。
雲丹髭は二度と海に還らないだろう。
「さて、では急いで出発しよう。"什長"たちがじきに踏み込んで来るだろうからな」
ナイフを残したまま、クランツは歩き始めた。
死体は一瞥もされず、ただスルによって一瞬だけ横目を向けられただけだった。
雲丹髭バウゼモクは最後には仲間の信頼を裏切り、無様な最期を遂げたが、彼は傭兵としては良き頭目と言えた。
部下をまとめる力があり、依頼主に媚びもせず、特定の宗教や思想に耽溺もしなかった。
一度野盗となって分散した仲間らを再び糾合するだけの政治力と求心力があり、腕っぷしと戦況判断、決断力にも優れていた。
特に危険な戦場から素早く逃げる時の手際の良さは部下たちの信頼を勝ち得るほどの見事さであり、兵を死なせぬよう立ち回るのが何よりも上手かった。
組織のための頭目であり、頭目のための組織であり、どちらも互いを尊重し、金に目を眩ませることなく、生き延びるための最善手が打てる存在だった。
追い詰められていない本来の彼は、言葉遣いこそ悪いものの、仲間を大事にし、己一人の利を良しとしない、気のいい男だった。
故に彼は、反統王などという無謀な船にも乗り込んだ。火が回る前に、小舟を盗んで逃げ切れると思ったのだ。
故に彼は、反統王の思想に与せず利益にも釣られない、クランツにとっては扱いが面倒な頭目だった。
「スル、バウゼモクの後任はサガタッタに。デ・タンダの忍びも二名護衛に送れ。これで"流木団"の全兵力を自由に動かせるようになるはずだ」
歩きながら指示を投げかける。その堂々とした歩みに、罪悪の陰りは微塵もない。
自分が殺しをしたことなどとっくに忘れているかのように、完璧な平常通りの振る舞いであった。
スルはその後をついていきながら小さく頷いたが、その頷きにもクランツは視線を送ろうとする意思さえ抱かなかった。
十数分後、"什長のファランクス"の手勢を引き連れたヴェシュトがバウゼモクの死体を発見した。
彼はその無残な死体を見つけると、顔をしかめ、そばに屈み込みながら「なんてこった」と呟いた。
そして、自分の帽子をバウゼモクの顔に乗せたという。
彼は察したのだ。自分が"流木団"団長殺しの濡れ衣を着せられたことに。
バウゼモクの腹に突き立っているナイフは旧式の衛兵正式装備と同じもの、"什長のファランクス"がしばしば用いるものと同じだったのだ。
「死体を始末屋に引き渡せ。箝口令を敷くぞ、雲丹髭はただ行方をくらましたことにしろ」
そう命じながらも、心では無意味だと知っていた。
遅かれ早かれ、この死は裏社会の情報網を通じて知れ渡るだろう。人から人へ囁かれ、蝕むかのように少しずつ広がるだろう。
だが、死体がなければ、殺人罪は成立しない。表の法律では裁かれない。
"流木団"と敵対し、万が一事を構えるような羽目になった時、殺人の訴えまで抱えていては滅多打ちにされてしまう。
公式にはあくまで「雲丹髭は失踪した」ことにしなくてはならなかった。
(クソ、"流木団"への離反策がパーだぜこれじゃあよ。連衡が手前らに都合のいい欲ボケ新頭目を代わりに立てて、魔女と俺らへの仇討ちを煽らせたなら、"流木団"は完璧に向こうに回っちまうなあこりゃ)
ヴェシュトは組織のコネを用い、バウゼモクを説得し調略する準備を進めていた。
"流木団"に反統王連衡を裏切らせようとしていたのである。
だが雲丹髭が死に、その死が"什長のファランクス"によるものだと吹聴して回られては台無しだ。
離反策がうまくいけば、バウゼモクが助かる道も残ったろうに、こうなってしまってはもう打つ手が無い。
ヴェシュトはがっくりと俯き、それから立ち上がった。
「こうなりゃもう、魔女どもに任せるしかねえな」
そして、運ばれていく死体の後に続いて、歩いていった。
その足取りには、再び清々しい諦めの力が蘇っていた。
まともな人間ならば、ただヤケクソを起こしただけと評するのだろうが。
「前回の裁判記録と照らし合わせましても、全ての証言は法的整合のとれたものであり、被告人の故意性は疑いありません」
「計画性が否定された段階で、故意性の証明は物証や論理的証明ではなく個々の主観によってのみしか判断し得ません。31年前の7月2日"ソッタ裁判"では被告の内心の故意性を他者の証言によっては立証し得ないとして、減刑の判断が下されています。裁判記録についても、本件は判決が未だ下っておりませんので、その記録は非公開です。非公開の記録を根拠として公の裁判を判断しては、公益と秩序と個人の権利を尊重する司法の立場を危うくします。あなたは裁判に勝利するために、統王様に謀叛するほどの覚悟がお有りですか?」
「被告代理人、当裁判に無関係な事象の言及は控えてください」
クロスと原告側の法定代理人は、裁判で議論を続けていた。
事象を取り巻く環境そのものは、クロスに大幅な不利である。
周囲は敵である魔道士会と反統王連衡の手下どもだらけ。
しかも、裁判は相手方に抱き込まれた判事が握り、有罪はほぼ既定路線。
被告である"兵の魔女"アイランも治療のためと称して入院中であり、裁判には欠席している。
だが、そのような状態にも関わらず、彼は戦況をほぼ五分の状態に拮抗させていた。
相手の準備と実力不足、そして結束力のなさが大きな要因だったが、最大の原因は"法の魔女"の助力であった。
裁判が、議論がどのように動いても、彼女はその都度、瞬時に適切な対応や、引用すべき法律の条文または判例等を助言した。
クロスはそれらの意図を即座に掴み、信頼を預けて忠実に立ち回っていた。
法廷の論争は戦争というよりも一対一の格闘戦であり、セコンドがどんなに的確で完璧な指示をしたとしても、どんなに入念な準備を重ねたとしても、実際に戦う闘技者がそれを本番で実践するための工夫を行わねば意味がない。
その点で言えば、クロスはまさに名選手であった。アイランを助けるという明確な目標は、集中力と"法の魔女"への信頼を生み出し、"法の魔女"もまたクロスの働きぶりに感心していた。
二人はまるで長年の相棒同士であるかのように連携し、調和を欠いた相手をむしろ圧倒してさえいた。
とはいえ、状況は五分に留めておかなくてはならない。
魔道士たちの怒りが完全に爆発してしまったならば、なりふりを構わない暴挙に打って出ることは明白だからである。
彼らが今それをしないのは、結束力を欠いた脆弱さを自覚し、体面を繕う必要を感じさせるほどの不安を抱いているとの理由からである。
しかし最大の理由は、この裁判が有罪という結果ありきの茶番に過ぎないとの認識からくる慢心であり、誠実かつ真剣な対応の必要を感じていないという、ある種情けなさすら覚えるほどの動機からだった。
寝ぼけた猛獣。それはまさに今の魔道士会コー・ナイル支部を形容するに適切な表現であり、クロスはこの猛獣をあやしつけるかのように相手を務めていた。
怒らせぬよう、起こさぬよう、なだめすかし、時には手加減しながら、猛獣に屈しもせずに戦っていた。
そこで、クロスの陣営には解消困難な矛盾が立ちはだかることになる。
最大の目標がアイランの救出であり、無罪判決である限り、それの達成は魔道士らの即時の激発を引き起こしてしまう。
だが魔道士たちの怒りを抑えながら戦えば、結果は有罪以外に無い。
彼らは勝利によってのみ溜飲を下げるのであり、それ以外の結果はクロスとアイランの身の危険へと繋がるのだ。
その矛盾を一瞬で看破し、この状況を予測したからこそ、アッサルートは裁判の前から決断を下したのだ。
結果としてその決断の早さが、"法の魔女"とクロスが互いの能力に対しての信頼を育めるだけの時間を作ったのである。
『どうでしょうかクロスさん、法廷の状況は』
『かなりギリギリですけど、あと2日は引き伸ばせそうです。これならもっと良い計画に切り替えられますよ』
『油断は禁物です。魔道士会が手詰まりになれば、反統王連衡が助け舟を出すでしょう。テイリノ・バルの動向に注視してください』
テイリノ・バル。魔道士会コー・ナイル支部の現幹部の一人にして、反統王連衡と密かに通じていると思われる人物だ。
自分がどれだけ脆い橋の上にいるのか、彼は知っているのだろうか?
視線を向けても、苛立つように腕を組んで顔をしかめているだけで、不安などはうかがえない。
何も知らない、能天気で居丈高な俗物。そのような印象しか抱かせない。
だからこそ、あのクランツにいいように利用されているのだろうが。
最良の奴隷とは、自分が奴隷だと気づいていない奴隷なのだ。
『ともかく、新証拠が必要という結論までは漕ぎ付けました。連中は平気で捏造してくるでしょうが、捏造にも伝達や準備が必要です。その分の時間は稼げるかと』
『こちらは既に待機中です。状況は引き続き逐一報告をお願いします』
括りに『了解』とだけ書いて、再び顔を上げる。
その時、奇妙なものが視界に入った。
衛兵が一人、判事に何やら耳打ちしているのである。
はて? と思い、視線を巡らせるが、法廷を警備する衛兵たちはそれぞれ持ち場を離れていない。
耳打ちしている者は、法廷の外から何事かを報せにやってきたのだ。
瞬間的に察知した。「奇妙だ」と。
行政使府の役人でもなく、裁判所の職員でもなく、法判でもなく、何故衛兵が内密の報告を判事にするのか? しかもあえて裁判中に。
衛兵は、その軍事権こそ統王の名代である行政使府が有するが、治安や防衛任務の直接的な指揮権は、系統上の上官である領主、もしくは領主によってその役目を委任される太守に帰する。
つまり、判事としてあそこに座っているソルチェンタイウスは今、領主として衛兵の報告を受けていると見ていいだろう。
ならば治安任務上の、もしくは捜査上の機密として、内容を明かさぬようこっそりと報告を受けるのも合点が行く。
では、あの驚いたような表情は何か?
衛兵の報告に目を丸くして驚く程の、また、裁判中であるにも関わらず報せねばならぬ程の情報とは何か?
ソルチェンタイウスの表情が険しさを帯び、衛兵は何度も頷く。
情報の真偽を、念を押して確認したのだろう。
やがて、衛兵が離れるのと同時にソルチェンタイウスは真っ直ぐ前に向き直った。
衛兵は小走りで法廷から退出し、ソルチェンタイウスは今回の裁判で初めて、判事らしい眼力を双眸にみなぎらせた。
「先ほど証言の完了を宣言しましたが、ただいま有力な証人による証言の提示が、本人の意思によって求められました。極めて異例ではありますが、統判法令上にて定められる手順に於ける最終陳述が、司法妨害以外の件では中断されたために、最終審議前の物証査定段階で本件の手順が保留されているとの解釈が成立しうると判断します。よって、物証査定の一環としての補強証言として、新たな証言をここに承認します」
ここまでよく通るソルチェンタイウスの声は初めて聞いた。
やる気なく淡々と台本を読み上げるだけだった判事が、ここにきて即興の台詞に緊張している。
その豹変ぶりと状況の急転にはクロスすら圧倒され、魔道士会の幹部たちも狼狽して互いの顔を見合わせながら慌てたように手を振ったり言葉にならぬ声を上げるばかり。
それはまさしく、台本にない台詞をいきなり役者が舞台でうなり始めたのを目の当たりにした、演出家の狼狽であったろう。
立会人らもざわめきこそ起こるものの、混乱が大きく、怒りや反発は全く噴き上がっていなかった。
この場にいる誰もが予想外だった事態に気勢を削がれ、誰もソルチェンタイウスの進行を阻み得なかった。
「証人、入廷を」
判事の言葉によって開かれたドアから、衛兵に伴われて証人が入廷した。
その姿が見えた瞬間、魔道士らのざわめきが止まった。息を呑んだのだ。
クロスも凍り付き、まさしく氷のように青ざめた。
魔道士会の幹部たちも目を剥き、身を乗り出して固まった。
それらの視線を浴びながら、証人は傷ついた体を引きずり、鎖の音を響かせながら証言台に立つ。
そして、ソルチェンタイウスが「あなたの名前は?」と訊ねると、証人は夕暮れ過ぎのように暗い声で、間違いなくこう名乗った。
「ハロバ。ハロバ・ヴ・セネイレです」
ハロバ卿。
誰もがその死を疑わなかったスロヴの元貴族、その人である。




