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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
法の章
107/211

法の魔女13

柱街の中に一箇所だけ、約20m四方に渡って何の柱も立っていない場所がある。

そこに建てられた平屋には、かつて周辺の柱と天蓋を建設する奴隷たちが寝泊まりしていた。

最初の柱たちの建設が終わった後も、暫くは北区の役場としての機能を果たしていた。

だが時が進み、日陰者や無法者らばかりが北区に集まるようになると、住民たちの勝手な建築が横行し、役場としての機能も徐々に失われていった。

人が増え、柱が増え、雑多な建造物が増え、柱街と呼ばれるようになる頃には、すっかり平屋は無法者の溜まり場となっていた。


今、ここに居を構えているのは三大組織の一つ"什長のファランクス"だ。

ダグナマンバ大要塞からある者は抜け出し、ある者は追い出された経歴を持つ十人の兵士が作り上げた組織。

それが今や百を越す人数が所属する大所帯となり、首領も四代を重ねるほどの成熟ぶりだった。


そこに、座って爪をヤスリで磨く男がいる。

海賊のような大仰な帽子をかぶり、無精ヒゲで下顎を飾る中年の偉丈夫。

彼の名はヴェシュト・ナラガッハIII世。この組織の首領であり、近隣の賭場や暴力を仕切る大立者である。

三大組織で最大の武闘派であり、腕の立つ部下を数多く従えるのみならず、暴力に関係する数多のコネと知識を持ち、業界に精通する知識人でもある。

その暴力を背景に海千山千の無法者どもを相手に賭場を切り盛りし、時に暴力そのものを商う。

一方で、ダグナマンバで退役したもののわけあって故郷に帰れない兵士らに土地や建物、道具を貸し与え、コー・ナイルで商売を始められるよう補助するという表事業にも精を出している。


そのような勢力であるが、夜も深まれば数名の取り巻きが拠点に残るのみだ。

ヴェシュト自身もロウソクのかすかな明かりで爪を整えるのは就寝前の習慣であった。

普段以上の夜更かしだったが、それでも眼光にまどろみはなく、まぶたに緩みもない。


その時である。

玄関のドアがノックされた。

決められた合図も声かけもない、ふつうのノックだった。


部下たちが一斉にドアの方を向き、剣を抜く。

ヴェシュトもヤスリを置くと、ため息をつきながら剣の鞘を掴んで立ち上がり、振り向いた。


その直後、天井から落ちて来た影が、ヴェシュトに覆いかぶさった。

大の男をあっという間に組み敷き見下ろす目が、暗闇の中で浮かんでいた。



「こんばんはぁ」



続く声色を聞いて、悪態をつきながら斬りかかろうとしていた部下たちの動きが止まる。

ヴェシュトも目を丸くして、両手を上げた。


「あんた、牢にいるって聞いたぞ」


部下の一人が慌てて明かりを増やすと、獲物を仕留めた狐のような表情と、闇そのものと言える黒衣と大きな帽子が照らし出された。


黒い帽子に編み込まれた薔薇の刺繍。

無邪気な笑顔と、涎でぬらついた尖った歯。

"兵の魔女"アイラン・ヘルゼンデルである。


「牢っていうのは、あの避暑用の寝室のことかしらぁ?」


ヴェシュトは胸ぐらを掴まれて強引に立たされ、さらに椅子へと投げ込まれた。

転びそうになりながらも両手を振ってなんとか落ち着き、一つ息をつく。

それから、立ち尽くす部下に「おい!」と呼びかけた。



「ボサッとしてんな! 来客だぞ! 椅子と茶でも用意してやらんかいボケッ!」







数十秒後、卓を挟んで座る二人の目の前に冷茶の入った木椀が置かれた。

ヴェシュトの白眼がちの目玉がぎょろりと部下を睨みつける。


「つまむもんはねぇのか」

「へ、へいッ、切らしてまして」


手をすり合わせる部下を横目に茶を一口すする。

それから、その部下の頭をひっぱたいた。


「お前これ去年の茶葉じゃねぇか! 客には新茶を出せ新茶を!」

「すいやせん!」


急いで椀を片付けて奥に引っ込む部下。

その後ろ姿を、アイランは鼻で笑って曰く。



「お前の部下も質が落ちたわねぇ、衛兵の締め付けがそんなに苦しいのかしらぁ?」



探るような言葉であったが、声の調子に腹芸を仕掛けている様子はない。

故にヴェシュトも、単に世間話のつもりで乗ってやることにした。


「とろくて間抜けな衛兵どもに出し抜かれるほど落ちぶれちゃいない。連中はマードックから賄賂を受け取るのに慣れ過ぎているし、あんたの恐怖に屈して見て見ぬ振りを決め込む罪悪感もすり減っちまってる。おかげで仕事はやりやすいがな」

「じゃあどうしてかしらぁ?」

「問題は"薬屋"の連中だ。マードックが奴らに作らせ、売らせていたのはあくまで医薬品だ。危険な薬品や禁制品もあったがあくまで医療のためのもんで、結果としてハマっちまうのはあくまで買う側の責任だった。ところがそのマードックが死んで、歯止めがなくなると連中がてめぇ勝手に麻薬や劇薬を作って縄張りも掟もお構いなしに売りまくり始めやがった」

「魔道士会は奴らを制御できてないの?」

「魔道士どもは自分の組織でのマードックの後釜を狙うのに大忙しなのさ。今じゃ"薬屋"はほぼ独立状態、いや、組織の体すらなしちゃいねぇ、ただの売人の群れだ。しかもこの前は"流木団"まであんたと正面切ってバチバチやらかすしな。だから役に立ちそうなうちの連中は今全員出払って、うちの縄張りを守らせてんのさ。俺のそばにいるのは役立たずどもばかりだ」

「それはそれは、マードックを殺して悪かったわねぇ」


ヴェシュトが肘をついて身を乗り出した。

真剣な眼差しを向け、声もひそめる。



「やっぱり、あんたが殺ったのか?」



笑みを浮かべたまま、小さく頷く。

言葉には飽いたと言わんばかりに。



「そりゃ自白か? 裁判所にタレ込むかもしれんぞ」

「私の有罪は決まってるわよぅ。魔道士会からすれば、いちいち敵対組織のお前を頼るほど追い詰められた戦いじゃないわ」

「残念だな、せっかくあんたは高く売れそうなのに」



再び運ばれて来た椀に口をつける。


ヴェシュトとアイランは、かつて二度矛を交えた過去がある。

柱街の5つの組織が連合してアイランを殺そうと図ったのが11年前、アイランの仕事の標的が己の部下であったため戦わざるを得なかったのが5年前。

前者は5勢力のうち3つの組織が壊滅させられたことで、後者はあっという間に15名の刺客を斬り伏せられたことで、いずれもヴェシュトの敗北に終わっている。

どちらの戦いにしても彼は単に義理や責任として戦ったのみであり、個人的な因縁などは持ち合わせていない。

重ねて、これらの経験を経て敵対そのものが完全な無駄だと悟っており、そう思えばむしろ諦観に近い肯定すら抱くことができた。


かといって、アイランの側は彼に心を許したわけではない。

そしてその心情をヴェシュトの方も敏感に感じ取っていたからこそ、これまで状況が許す限り接触は避けてきていた。

その不文律がアイランの方から破られたとあっては、興味を抱かないわけにはいかなかった。



「隊長!」



しかし、口を開こうとするより先に、部下の一人が息急き切って出入り口のドアを開けた。

やや不機嫌そうに振り向きながら「なんだ!」と問いただすと、額の汗をぬぐいながら慌てた声が返ってきた。


「ヌゥバズさんがとうとう産気づきやした!」

「ああやっとか。12.7丁目に産婆を呼びに行け、荷車と産湯用の水を忘れるなよ!」

「へいっ」

「待て! 現場に今いるのは誰だ?」

「み、見張りのゾルスだけです」


その言葉を聞くと、すぐさま近くの部下に指図を飛ばす。


「ルギタス、お前も行け。妊婦を元気付けてやるんだ」

「え、でも隊長、どうすればいいんだかあっしには……」

「手ェ握って『頑張れ』だとか『もう少しだ』なんてェふうに必死に呼びかけてやりゃあいいんだよ! 亭主か親父の役目だが、この際俺らで我慢してもらうしかしょうがあるめェが!」

「へ、へいっ!」


大慌てで部下二人は飛び出していった。

ヴェシュトの怒声と発破には屈強かつ強面の彼らをして大いに走らせるだけの迫力と、有無を言わせぬ断固とした意志の強さがにじみ出ていた。



「ふぅん、愛人でも孕ませたのぉ?」



それらに一切心を動かさないのは、この場でアイランのみであろう。

身を乗り出して卓に肘をつき、不敵に笑み、隙だらけの姿勢を見せるだけの余裕すらあった。


「いいや、ただのご近所だ。今年初めに旦那がダグナマンバで死んでから、うちが面倒を見てる。初子を見せられないと嘆く、妊娠したスロヴ人の寡婦をな」

「ご近所付き合いは大事だものねえ、ご苦労様♪」


小馬鹿にするような態度に、ヴェシュトも少々不快感を覚えたようだった。

片肘を卓に置いてずいと身を乗り出し、とうとうと語り始めたのだ。


「俺たちゃ衛兵は怖くねぇ、さっき言ったようにな。他のギャングどもだって怖くねぇ、いつでもかかって来やがれってんだ。あんたも怖くねぇ。あんたは死と同じだ、そして死なんてもんは、俺たちにとっちゃ大層なもんじゃねぇのさ。あんたも死も、結局この傷をつけた氷エレメンタルと同じだ」


ヴェシュトが帽子の端を持ち上げると、頭皮まで切れ上がった古傷が見えた。

抉ったような、あるいは削ったような傷跡であり、鋭利な刃物ではなく重い鈍器によるものであると思われる、ひきつった傷だった。


「だがただ一つ恐れるものがある。それがご近所さんだ。彼らは俺たちの活動を四六時中一番近い場所で見続けて知っている。どんな人相の誰が出入りして、どんな客が来るのか。集金は何曜日の何時に誰が行くのか。買い出しに行くパシリは誰で、何時にどこの店へ行くのか。どんな朝飯を食い、どこの売女を買い、家具が壊れたらどこに修理を頼むのか。どことどんなふうに揉めているのか。構成員の誰にどんな家族がいるのか。その家族とは弁当を持たせたり迎えに来るほど仲が良いのか。何もかもそばで見続けて知っている」


帽子を改めて深く被り直す。

傷跡を恥じてはいないようだが、見て快いものであると自惚れているわけでもない。


「彼らはその気になれば簡単に俺たちをまとめて滅ぼせるだけの情報を握ってるってこった。しかも脅しも口封じも引越しも意味がない。上手く付き合うしかねぇのさ。だからな、あんまりご近所付き合いをナメるなよ」


アイランを指差し、真剣に睨むヴェシュトだったが、彼女の方は堪え切れずに吹き出してしまった。

泣く子も黙る武闘派暴力団"什長のファランクス"が何よりもご近所付き合いに心を砕いているのだと思うと、おかしく思わずにはいられなかったのだ。

肩で風をきるような連中が、その肩を狭くして柱の隙間に身を置いているのだと思うと、嘲けらずにはいられない。

そしてアイラン・ヘルゼンデルは自らのそうした性分を一切取り繕いはしないのだった。


それを見て、ヴェシュトはかえって怒りが冷めてしまった。

自分でも情けないような、奇妙なような、忸怩たる思いがあったのだろう。

ため息をつきながら顔をぬぐい、背もたれに力なく身を預けた。



「いや、そんなことはどうでもいい。何の用でこんな場所に来たんだ? わざわざ脱獄までして」



話を本筋の入り口へ至らせつつ、改めて淹れられた新茶をすする。

アイランは風情もなく一瞬で茶を飲み干すと、懐に手を入れて仮面のようなものを投げ置いた。

事実、それは木板に皮を張った仮面であったが、その皮は人間の顔の生皮だった。


「この顔に見覚えないかしらぁ?」


尋ねると、特に怯んだ様子もなくヴェシュトは仮面を手にとって明かりに近づけた。


「いつ剥いだ?」

「昨日の夜。"最後の挨拶"を仕込んでたからデ・タンダ族の暗殺者だと思うわぁ」

「デ・タンダ族? 見るのは初めてだな」

「結構な手練れだったわよぉ、私の攻撃を二回もかわしたんだもの」

「だから俺んとこに来たってわけか」


"什長のファランクス"は組織外部の暗殺者やヤクザ者、愚連隊などに多数のコネを持つ。

暴力の業界では情報通でもあり、裏の事情にも明るかった。


「それだけの手練れってことは、組織的に訓練されたに違いあるめぇ。"最後の挨拶"を仕込んでたんなら、おそらく昔っからのデ・タンダ族のやり方を継承してる古臭い伝統組織だろう。んな化石はとっくに廃れたもんだと思ってたがな」


デ・タンダ族は少数民族でありながら120年にも渡ってアーゲルンの支配に抵抗し続けた一団である。

その戦法は主に森林や山岳、沼地や湿地といった複雑な地形に分散して展開する局地戦、すなわちゲリラ戦法であり、個々の武力ではなく連帯力を持ち味とするアーゲルンにとって天敵となりうるものだった。

更に、長きに渡る戦いの中、少数の人員が濃密な局地戦を繰り返し経験することで、その戦術は急速に進化し、一つの様式を生み出した。

彼らの技は暗殺、工作、諜報、実戦と多岐に渡り、それらを総括した"忍術"という武術として成立していった。


「魔界統一後にデ・タンダは魔界王の正規兵に編入されたでしょ? 本流はそこで途絶えたはずだから、こいつは多分亜流の乱破。誰かが個人的に継承し続けたいくつかの技が、裏社会か隠れ里のどこかで結実したものでしょうねぇ」

「面白い話だが……ちょっと待てよ、あんた昨日こいつを剥いだっつったな?」

「そうよぅ」

「てことはこいつこの街に潜入してたのか?」

「そうなるわねぇ」


ヴェシュトはため息をついた。アイランの真意を理解したためである。

彼にとって、自分の預かり知らぬところで暗殺者が潜入し、仕事をしたとなれば放っておく訳にはいかなくなる。

暴力団組織そのものとしても、その長としても、沽券に関わる一大事だ。

この街で起こる暴力の全てを知っていなくては、彼らの地位は一日たりとて保てない。

その事実を突きつけ、一方的に協力させる。そのために彼女はここに来たのだ。



「ヴェシュト、お前と駆け引きをするつもりもなければ時間も無い。だから次の質問に行く前に、この件について協力を約束してもらうわ」

「見返りはあるのか?」



ヴェシュトはダメ元でたずねてみた。

協力を求めるならば、いきなり殺すようなことはすまい。

この程度ならば、言うだけタダというものだった。


「面目を保ち、組織を保ち、そして場合によっては、コー・ナイルを救えるかもしれないわよぉ? それと──」


右手を卓の中央に叩きつける。

椀が震え、茶がいささかこぼれたが、ヴェシュトに驚いた様子はなかった。



「──"薬屋"を残らず店仕舞いにしてあげるわ」



右手がどけられた時、そこに置かれていたのは3本の人差し指。

いずれも青い指輪がはめられており、それは"薬屋"の構成員であることを示す品だった。

手付金がわりのつもりなのだろう。


それはおぞましい報酬ではあったが、タダ働きを覚悟していたヴェシュトにとって存外に魅力的な提案だった。

そして、彼には確信がある。この女が裁判だの有罪だのに膝を折るわけがない。

やると言ったら必ずやる。決して阻めず、何であろうと障害にはなり得ない。

主人の命令が下されない限りは。


それに、彼女がいようがいまいが、知ってしまったからにはこのデ・タンダ族の件は放っておけないのである。

ならば共同戦線を張れるうちにそうした方が、単独で当たるよりずっと賢明に思えた。


「いいだろう、乗ってやるよ」


3本の人差し指を掴み、自分のポケットに押し込む。

これで取引は成立だ。コー・ナイルきっての武闘派組織が、新たな関係を認めたのである。

アイランは屈託のない笑顔を投げかけ、ヴェシュトは自分の表情を隠すように茶をもう一口飲んだ。



「で、次の質問てのは何だ?」

「ストッグ・マウトル」



だが、その名を聞いた瞬間、ぎょっと目を剥いた。

当然アイランがそれを見逃すはずもなかったが、あえて言及しなかった。


「知ってる名前かしらぁ?」


椀を静かに置き、ヴェシュトは少しの間うつむいて考えた。

話すべきことはあるが、実際に話すべきなのかを図りかねている様子だった。

もしくは、どうやって話せばいいのかを考えているようにも見えた。



「ひと月ちょいぐらいは、前になるかなァ」



そう切り出した時、彼は苦悩も葛藤もしていなかった。

しかし、少しだけ恥ずかしそうだった。


「"漁民座"の幹部の一人がよ、井戸城の衛兵隊長と密談をしたらしくてな、幹部はたまたま近くにいた労働者に酒を運んでくるよう申しつけた。そんなら、その労働者が密談のごく一部だけでも聞いてるかもしれねぇだろ? それを聞き出そうと思って探してみたら、そいつがストッグ・マウトルって奴だったのがわかった」


寒さのせいか、異なる理由からか、鼻をせせりながら指で擦る。


「正直、背筋が凍ったね。それは以前ハロバがスロヴ共同体のお偉いさんを家に招いた時、たまたまその門前で衛兵と世間話をしていた奴の名前だった」


アイランの口角が見る見る吊り上がる。

それと対照的に、ヴェシュトの声色は暗くなっていった。


「マードックが"漁民座"から労働者を買い取る話し合いをする時、偶然そこにいてマードックが靴を履き替える間杖を持ってやっていたのもストッグ・マウトル。俺の従兄弟の友達が仕事で仕立て屋の脅迫をした時、たまたまそこに居合わせた客の名前もストッグ・マウトル。カウバトーラ衛兵隊長の収賄裁判に出席した、井戸城の人繰り役。そのカバン持ちの名前もストッグ・マウトル。奴は情報の要点に必ず居合せる。それも当事者としてじゃなく、本当に、ごくたまたま関わった一般人としてな」


一つ一つに明確な関連性はない。

あるいは、真実、単なる偶然なのかもしれない。

ヴェシュト自身、そうだと信じたかったのかもしれない。


「あんまり不気味なんで、奴に直接関わらないようにしてたんだ。直感的に何かやばいと感じてたよ。だが心ではな、マジのまるっきりの偶然なのかもなぁとも思っていた。あんたの口からその名前が出るまではな」


兵士は己の直感と奇妙な偶然を恐れる。

武運などという自らの意思ではままならぬものに命すら賭けねばならない身としては、些細なことからも生き延び、勝ち残る手がかりを見出したいものだ。

必然、縁起というものを重要視するようになり、その思考が偶然とも思える一致を単なる偶然として捉えるのを拒否してしまう。

不気味で縁起が悪く感じる。余人ならばその程度の感覚など捨て置いて、現実的で常識的な行動を取るだろう。

だが兵士は、その状況に於いて全力で躊躇わざるを得ないのだ。実戦を経験したのならば尚更である。


「お前の武運もまだ捨てたものじゃないわねぇ。手出ししなくて正解だったわよぅ」


だが、そのある種神秘主義的とも呼べる行動が、今回は幸いした。

単独で事態に深入りしていれば、とっくに亡き者となっていただろう。


「誰なんだ? こいつは。ただの出稼ぎ労働者なんぞじゃねぇはずだ」

「マードックの黒幕」


ヴェシュトは初め、それを冗談だと思ったようだ。

苦笑いを浮かべて聞き流そうとしたが、続く言葉が紡がれないのと、その鋭敏なる直感力で、やがて事実だと察した。

それでも、にわかには信じ難かった。

当然であろう、あのマードックに黒幕がいたなどと、この街の住民ならば決して信じるまい。


「マジ?」


結果として、ヴェシュトをしてそのような情けないセリフを吐かせるに至った。


「本名はクランツ・フェルマー・ルネイ。旧名はクランツ・ルネイ・スティッペレン。ルネイ国人衆はスティッペレン家の養子の出で、反統王の勢力、少なくともベルゼット家、"解放魔導の会"、スロヴ共同体、カーギ・カリン過激原理主義派、カルエーネ・ギャングの元首魁ノックタック家、そして"流木団"を束ねる盟主よ」


挙げられた名前のいくつかは、彼にとって知った名前どころではなく、直接関係したこともあるものだった。

もしかしてまた三角連衡の乱をやらかすつもりなのか?

その壮大な疑問は、より身近な疑問に押しやられた。


「おい、"流木団"って言ったな。てことはこの間のドンパチ騒ぎもそいつの仕業なのか?」

「そうよぉ? どうせお前が手引きしたんでしょうけど、そこまではさすがに知らなかったでしょう?」

「ああ、マードックに金積まれて、北門からこっそり引き入れたが、俺ぁてっきり奴があんたを殺すために雇ったもんだと」

「まあある意味では当たりかしらねぇ。少なくともマードックは本気で私を殺す計画としてやってたみたいだし」

「その黒幕の目的は何なんだ? この街で……何しようってんだ?」

「目的は二つ。片方は保留ってことになってると思うから割愛するわぁ」


割愛された片方とは「アイランを妻にする」である。

己が抱く歪んだ自己探求を、そうと自覚しながら躊躇なき犠牲の上に成功させんとする。

このような話をしてこれ以上畏縮されては、せっかく承諾させた協力の手の平を返されるかもしれなかった。



「二つ目の目的は多分、魔女協会と魔道士会の対立を決定的なものにして、魔道士会の本格的な取り込み工作の成功率を上げることねぇ。こっちの目的は既にほぼ達成が確定してるわぁ」

「どういうことだ?」

「裁判を通じて、もし私が逆転無罪ってことになったらぁ、その判定を下した者に魔道士会は不信を抱く。魔女協会ばかりを贔屓しているのではないか、自主性を失い、女に支配された傀儡の統治者なのではないか、そんなふうにねぇ?」

「待て、そりゃ統王のことだな? 今回の裁判に統王がしゃしゃって来るってぇのか?」

「反統王連衡を反逆罪で潰そうっていうなら、統王が乗り出す以外にないわよぉ。それが法的にも王道的にも筋なのは誰の目にも明らかだけど、当事者である魔道士会の目にはそう映らない。『統王が反逆者を処断した』ではなく『統王が魔道士会を攻撃した』と見なすだろうっていうのが、協会長様の見解よぅ」



魔道士会は長らく地方分権的な体制で運営され続けてきたため、何名かの評議を抱き込んだところで組織全体を掌握したことにはならない。

それどころか、評議の全員を買収したとしても、その決定に従わなかったという理由で即物的な罰則を強制する根拠も執行する実力もない。

どこかの魔道士会支部を破門にしたところで、その支部は独立してこれまでの活動を続けるのみだろう。

情報網や連絡網から外れはしても、長く続いた分権的な体制下で、各支部には単体で事業所や研究所としての機能が保てるだけの力が育まれているのだ。


だが、統王が魔女を擁護し魔道士を弾圧したとなれば話が別だ。

少なくとも、彼らがそう思い込んだのならば、それは統王に対する大きな不信の種となる。

躍進を続ける魔女協会に対する劣等感や嫉妬が危機感という爆薬を積み上げ、それは爆発の時か湿気る時を待っている。

特に彼らが慮っている一事とは、統王が男であり、魔女が女であるという一点である。

魔女は統王と結婚できるが、魔道士は統王と結婚できないのだ。

それが、彼らの背に常に弾圧という冷たい刃の気配を感じさせているのである。

現実には、魔道士の娘御や姉妹が実際に統王に嫁いでいる例があるので論理としては破綻しているのであるが、王妃というある意味では並び立つ存在に、近親者ではなく魔道士自身がなり得ないという事実。

その事実に妄動を煽られる軽輩は、一人や二人では収まらないのだ。

そこに付け込めば、分散し自立している魔道士たちを吸収し従わせるなど造作もなかろう。



「そりゃあいいとして、なら俺なんかが何をできるってんだ? 結果がどうなるかってのは決まってんだろ?」

「お前、統王と戦いたい?」

「馬鹿言うな、絶対に嫌だね。俺は世界の隅っこでささやかなゴミでも漁らせてもらえりゃあ十分さ。自殺なんぞする気はない」

「なら大丈夫よぅ、確かに魔道士会の離反は避けられない。でもコー・ナイルがまるごと反統王の勢力に取り込まれて、連中の拠点にされるような事態は今からでも防げるはず」

「街そのものが離反するってのか?」

「魔女への反感そのままに、お祭り気分で反乱に加わりたいならそうしたらいいわよぅ。でもどうかしらぁ、踊る連中は、自分が踊っていることを知った上で踊るのかしらねぇ?」



情熱と狂乱と激情は常に、そのいずれも持ち合わせていない人間によって利用される。

今回の場合はクランツだ。彼は間違いなく、この街を利用し尽くした後、ゴミのように捨てるだろう。

アイランにとってはそれでも良かったが、ヴェシュトにとっては嫌悪極まる結果であろう。

それを知らしめる、というのが、アッサルートからアイランへ下された新たな指令だった。



「裁判が終われば、魔道士会コー・ナイル支部の大部分は反統王に合流する。他地域への波及と行政機構への侵食はこっちが防ぐから、お前にはこの街の民衆を抑えながら、反統王の連絡網形成を監視して実態を知らせて欲しいのよぅ」

「民衆? 武装蜂起があるってのか?」

「それを目指した扇動と情報操作はあるはずねぇ。だから、それに対抗してもらいたいの」

「他の組織はどうする? "薬屋"はいいとしても"漁民座"は厄介だ。味方に引き入れられる可能性はあるが、既に向こうに回っている危険もある。そうなれば民衆をなだめる暇を与えぬよう、一方的な抗争を俺たちに仕掛けてくるかもしれんぞ」

「もしそうなら"漁民座"も潰すだけねぇ。上半分を切り飛ばして、下半分で新しい労働組合でもこしらえてやればいいでしょうよ」



卓に肘をつき、顔の前で両手を組んで考え込む。

ヴェシュトからしてみれば、これは引き受けるのは既に確定している事柄だ。

問題なのは、どうやって成功させるか。

その大雑把な筋道を、頭の中で組み立てていた。



「わかった、やろう。だが一つ問題がある」



ヴェシュトも、既に茶は飲み干していた。



「今挙がったのはなにもかも仮定の話だ。その仮定が実現するには、絶対に必要な前提がある。あんたが裁判に勝つことだ」



魔道士会の統王への反発を強めるために反統王連衡は今回の計略を仕掛け、その反発を見越していながら、組織の存在理念のために魔女協会は裁判に勝たねばならない。

どちらも、裁判で魔道士会側が敗北し、魔女側が勝利することが前提の出来事と言える。

もし魔道士会が勝てば、反統王連衡は魔道士会勢力の取り込みに失敗するだろうし、魔道士の反発に対応するためのこの話し合いも無意味なものとなる。

つまり敵も味方も、ほぼ確信しているのだ。裁判に勝つのは被告側だと。



「勝てんのか? 本当に」



アイランはくすりと笑い、席を立った。

自分がここにいた証拠である椀と仮面を取って懐に入れ、うつむいて笑んだ口元だけをヴェシュトに見せる。



「当然。"法の魔女"がついてるんですもの」



それだけ答えると、音もなく跳躍し、天井の闇の中に消えていった。

ヴェシュトがそれを目で追って見上げた時には、もうこの平屋の中にすら居なかっただろう。


口をすぼめて押し出すように大きく息を吐くと、椅子に背を押し付ける。

彼にとって今夜は厄介極まる夜だった。

駆け込んできた部下がヌゥバズ夫人の出産を報告する、その声を聞きながら、彼は帽子を脱いだ。


「まったく、元気な連中だ」


血の匂いの予感に、呆れながら。

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