法の魔女12
昔々、オーヴァという男がいた。
彼は格別な悪人でもなければ取り立てて善良ともいえない、ごく普通の男だった。
金持ちでもなければ、腕っ節が強かったわけでもない。
これは倹約と禁欲と苦悩の果てについに悟りを開いた聖者の物語でもなければ、一振りの剣と一枚の盾に全ての勇気をかけた冒険譚でもない。
身を焦がし魂をねじ切るような恋愛の話でもなければ、快刀乱麻を割く大活劇でもない。
スロヴ文化圏の南隣り、カシィ地方の北東隣りのへんぴな農村に住んでいた、ごく平凡な農民のつまらぬ人生の話だ。
オーヴァは妻と二人の息子、一人の娘と共にノンガムという穀物を収穫していた。
とても重要な作物で、秋の実りは一年の収入の8割以上をまかなう。
2年かけて実る作物なので、毎年収穫できるよう土地を半分に分けて片方の作付けを1年ずらして育てる。それが古くからの習わしだった。
その日は南北に分けた畑の、北側の畑から収穫をしていた。
その年、彼の家は豊作で、新しい藤俵をいつもの倍編まねば収まらぬほどだった。
しかしその年はひどい猛暑で、豊作なのは彼の家だけ。
実は彼のひいひいひいじいさんは鈍く、愚かな男で、他の村人たちに村はずれの最も開墾が難しく、最も農作業が大変で、最も冬には冷え込む坂の土地を押し付けられていた。
けど、そこは風通しが良く、猛暑でも熱や湿気がこもらない上に、病気も害獣も少ない場所だった。
だから他の家の作物たちが猛暑に喘いでも、オーヴァの土地だけはむしろ例年より適温に近かったのだ。
オーヴァと家族たちは収穫に満足し、虫や害獣どもに貪られぬよう、しっかりと穀物倉庫に錠を下ろした。
これで一年は安泰だ、冬を越しても大いに余りあるほどの収入が得られるだろう。
そう安心し、心躍らせながら彼は眠りに落ちた。
ところが、翌日目が覚めてみると、倉庫に積んだはずの藤俵のほとんどがなくなっていた。
彼ら家族がギリギリで冬を越せる程度のわずかな量だけが残され、あとはきれいさっぱりなくなっていた。
錠前は壊され、入り口にはいくつもの足跡と、荷車の車輪跡が残っていた。
夜のうちに、誰かが盗みに入ったのは明白だった。
彼はすぐに長老に訴え出た。
わざわざ荷車を引いて徘徊し、穀物だけを盗むような野盗がいるはずはない。
盗んだのは村人の誰かに違いない。
そのように力強く説いたが、長老はこのように返した。
「盗みがあったからと言って村の者が犯したという証拠はあるまい。同胞に対し軽々しく疑いを向けるとは何事か」
「そもお前の言が正しいとしても、村全体が不作に喘ぎ口減らしすら頭をよぎらせている中で、お前一人だけ実りに身を浴し、安穏をむさぼらんとし、ここに至っても己が一人のことで訴え出るとは恥知らずにも程がある。皆の苦境に関心を向けておれば、起きぬはずの事件であったと気付かぬか」
「全てはお前の身勝手が招いたのだ。そんな事件でわしに大事な同胞を疑うような不信を犯せというのか?」
かえってオーヴァは叱責を受け、すごすごと引き下がった。そうせざるを得なかった。
村は勢力の境にあったが故に領主も地主もなく、裁定者もいない。
村こそが全てであり、自分以外の全員が白と宣うならば黒とて白と見るしかなかった。
オーヴァは家に帰り、妻と子供たちの前で悔し涙を流して慟哭したという。
彼はこれまで、平凡な暮らしを送ってきていた。
腹の中ではどうあろうとも、村人たちは過度の干渉はしてこなかった。
幸運にも戦に巻き込まれるようなこともなく、ひどい政治に苛まれもしてこなかった。
平坦で、善良な者になる必要も、悪党になる必要もない人生だった。
人生は、彼を平凡でいさせてくれた。
彼はその日、涙と共に戦う決意を固めた。
と言っても、鍬や鎌を担いで家々を訪ね歩こうとしたのではない。
夜陰に乗じてこっそり村を脱出したのだ。それも一家全員を連れて。
向かう先は決めていた。カシィ地方一円を領する、死と女が支配する国、魔女王国だ。
彼は死ぬ覚悟を決めていた。少なくとも、当時の魔女王国はその覚悟が必要な国だと周囲に思われていた。
魔女の手にかかれば、邪悪な魔法を吹き込まれてこの世の終わりまで肉体は操られ、魂は魔獣の餌として噛み砕かれ永劫の暗黒と苦痛に囚われる。
皆が、その噂を信じていた。
だが彼は向かった。自分でも思いもよらないような力が、彼の両足にみなぎっていた。
領内を巡視する『死人の軍勢』と"屍の統率団"に見つかれば、それこそその場で殺されてしまう。
人里を避け、野を進み、草陰で眠り、毎日足を布で縛った。
そしてついに魔の都"マバ・ナトゥカラ"へと至った。
道中で病により息子を一人失っても、彼はたどり着いた。
息子の死体を掲げながら大路を進み、死人や衛兵にも怯むことなく、ひたすら玉座に向かって歩んだ。
恐れを知らず、順番を飛ばして謁見の間に押し入り、女王の前でひざまずく。
それから、事情を話し、故郷の村人たちを裁いてくれと懇願したのだ。
息子の死体を手付として差し出し、裁きを下してくれたならば己自身すら捧げると申し出た。
そして最後に、こう叫んだ。
「タプセ・ナク・モンク!」
古いスロヴ語の格言で、意味は「真実に死を」。
何を犠牲にしても勝利を目指すという、その決意を表す言葉だった。
名誉と大義は真実から来る。スロヴ人の基本道徳だ。
その真実をなげうってでも、なりふり構わず結果を追い求める。
それはスロヴ人にとって忌むべき言葉であり、だからこそ決して軽くない覚悟を表してもいた。
女王はその場で、即座に下知した。
2代目"法の魔女"を召し寄せ、正確な法を以て裁定を下すよう命じたのだ。
農村はスロヴとの緩衝地帯であり、法的な介入は侵略行為とみなされても不思議ではない。
確実に外交問題に発展するだろう。国境を接することで緊張が強まり、戦の火種になる危険すらある。
だがそれでも、彼女は命令した。何故だかわかるか?
ふふ、違う。この話の教訓はそこにはない。
オーヴァはごく平凡な男であったのに、理不尽と不条理に蹂躙され、一生抱くはずのなかった覚悟と決意で行動した。
普通の男が、戦士になって世間に立ち向かわざるを得なかったのだ。
たとえ息子を失おうともな。
そんなことをしなくて済むように、法というものがある。
一人の人間に背負わせないように、追い詰められた人生を送らなくて済むように。
あるいは、ごく普通の男が、危険な男にならないように。
もしそれを怠ってしまえば、それは将来に渡って凄まじい危険へと育ちかねない。
国同士の争いと天秤にかけても、必ず解決しなくてはならない状況だ。
人の決意と覚悟は、恐るべき大きな力だ。
第二第三のオーヴァが全てを破壊する前に、問題を解決しなくてはならないのだ。
人間の、それも現界の社会は様々な幻想によってようやく保たれる。
利益、権力、集団、信仰、自分以外の何かを信じ、己の矮小さを自覚し続けることで秩序が保たれる。
それら全てが取り払われた時、最も動物的な感情があらゆる行動を支配するだろう。
幻想が消えた時、気付くのは力の正体。この世で確かな力はただ一つだけ、思い切り握り締められた拳だけだ。
人々が夢から醒め、その現実に直面するのを避けるために法が必要なのだ。
ともあれ、女王は1000もの軍勢と共に2代目"法の魔女"を農村に送り込んだ。
半数以上はスロヴ人たちが攻撃してきた場合の備えであり、残りが農村を取り囲んだろう。
『死人の軍勢』は農地を踏み荒らさず、家々に火をかけることもなく、村人たちに協力させた。
"法の魔女"は裁判をしたのだ。農村を魔女王国の領土とすると宣言した上で。
スロヴ人たちとの衝突を心配するのならば、速やかに目的を果たして引き上げるのが得策であるのは言うまでもない。
しかし"法の魔女"は丹念に取り調べ、議論を重ね、丁寧に嘘を暴いて合理的に証拠を集めた。
そうして、盗みに関与した者たちを疑いようもなく特定したのだ。
盗みに関わり、協力していた村人はおよそ半数にも上った。その中にはオーヴァを叱った長老の名もあった。
無論、言い逃れようとしただろう。村全体のためにそうするしかなかったとでも言ってな。
それでも彼女は容赦しなかった。
彼女は魔女王国の法ではなく、農村の掟を適用した。
即ち、犯人と協力者らの左手を切り落とし、ヒモで束ねて村の入り口に吊るしたのだ。
老いも若きも分け隔てなく、恩情もなく、粛々と執行された。
それが盗人に課される罰であり、村人たちが目をそらし続けていた現実だった。
半数が片手を失ったことで生産力が落ちたため、魔女王国は向こう20年の減税と交換レートの優遇を約束した。
犯した罪と罰、とは無関係の合理的な統治だったとはいえ、村人たちの心境は察するに背筋も冷える。
一方で、オーヴァも村にはもう戻れないと知っていた。
女王がその必要はない、死体は不要だと説いたにも関わらず、彼は自ら命を絶ったのだ。
「命惜しさに逃れたと思われたくない」と言い遺して。
彼の遺骸は『死人の軍勢』には加えられることなく、遺族に返還されたという。
村もスロヴ人たちの圧迫を受けて維持が困難になり、自然消滅していったそうだ。
そうして、一つの問いが残った。
「彼の行いに名誉はあったか?」
彼は不当に奪われた名誉のために決心し、行動した。
しかしそれは真実名誉なことなのか?
確かに、正当な法の裁きが下され、過ちは正されたのだろう。
だが彼の行動は、むしろ世に現れる不幸を増やしたと言える。
息子は死に、村人の半数が片手を失い、村も消滅し、本人も自殺した。
彼の妻は夫を失い、子供たちは兄弟と父親を失った。
スロヴ人と魔女王国の全面戦争こそ避けられたものの、この出来事は今後の外交戦略にも大きな影響を及ぼした。
法を守る。そのただ一つの行いに、それだけのものを失うほどの価値があったのか?
やがて"法の魔女"はその疑問の答えを探すようになった。
国内だけではなく、国外の裁判にも出向くようになり、必要に応じて代理者として戦った。
時に法は矛になり、あるいは盾となり、もしくは石弓となった。
そして「タプセ・ナク・モンク」は特別な意味を持つ言葉となった。
ごく初歩的な汎用の魔法を修めるのみだった彼女らが、ただ一つ編み出した独自の魔法。
その呪文こそが「タプセ・ナク・モンク」。
あらゆる法曹人にかけられた呪いなのだ。
「本件の凶器に銘はありませんが確実に被告が所持していたものです! いくつもの証言で明言されていますし、被告も代理人も否定はしていなかった!」
「その剣が凶器であるという点に異論はありません。しかしながら刀工も不明の未登録武器で銘も無いならば、法的には所持者不明として見なされます。被告人が所持否定をした以上、再調査を必要とするのは通常の手順です。過去には判例もあり、14年前の『ハイガラック・ホーパ裁判』では──」
3日間、クロスは裁判所で舌戦を繰り広げ続けていた。
無意味な難癖を舌戦と呼ぶのならば、であるが。
原告側の法定代理人はろくな準備をしていなかった。
裁判そのものが結論ありきの茶番であり、判事も領主も魔道士会の言いなりなのである。
結果が決まってる裁判なのだ。入念に準備してくるはずがない。
だからこそ、付け入る隙は多かった。
凶器と被告を結びつけるような物証すら固めずに、証言だけで被告の所持品だと確定しようとしていたのである。
もっとも、この剣がアイランの得物であり、マードック殺害に使用されたという主張は1から10まで真実であるのだが。
故に、この難癖も裁判の結果を覆すには至らないだろう。
有罪という結果は確定済み、あとはその結果への道筋を最低限、てきとうにでも整えておけばいい。
その傲りは、決して覆らぬからこその傲りでもあった。
だからこそ可能なのである。「無意味な時間稼ぎ」が。
「判事! こんなのは無意味です! 裁定を!」
「証言に反論しなかった時点で合意したものとみなし、判事権限で所持否定を保留とします」
しかし、少々の誤算があった。
喧嘩をふっかけて散々挑発してやれば、議論に乗ってくるだろうと思っていた。
相手の法定代理人にもプライドがある。法曹の熟達者としての矜持があるならば、ことごとくを自らの力量にて叩きのめそうとしてくると読んでいた。
しかし、この男、その誇りが無いようなのである。
議論を受けずに、すぐに判事に裁定を求める。
結果ありきだと知っているからこそ、やる気がないのだろう。
何かあるとすぐに判事に泣きつき、その度に判事がクロス側の主張を退けて裁判を進めた。
このままではあまりに露骨な裁判記録が残ってしまうはずだが、判事も代理人も関心を持っていないようだった。
偽装する気すらない、体裁や己の仕事への誇りを整えるつもりすらない、この一種の怠慢がかえって裁判を速やかに進めていた。
そこまでの怠慢は想定外だった。
指示を出す魔道士会は余裕たっぷりで圧力をかけ、その矛先である現場の者らはやる気をなくして雑に仕事をこなす。
しかも当の魔道士会コー・ナイル支部の大部分は、それによって自分らが負っているリスクに気付きもしないのだ。
この怠慢と無能が裁判を前へ前へと進める。それは予測し得ない事態だった。
なりふり構っていないのではない。単純に面倒臭いのだ。
そのせいで、5日間は引き伸ばせるであろう策の数々で3日間しか時を稼げなかったのである。
クロスとアイランと"法の魔女"にとって、困難な状況であるのは明白だった。
『どうしましょうか。このままだと最後の策が間に合いません』
メモを取るフリをして相互紙に書き込む間の取り方も、もう手慣れたものだった。
心なしか運筆も速くなったような気がする。
『仕方ありません、相手方の法定代理人に近づき、耳元でこう囁いてください──』
続く言葉を見て、クロスは小さく頷くと、相互紙を畳みながら立ち上がった。
原告側の提示物証陳述の途中であり、異議申し立ての宣言もないままの起立は当然注目を集めた。
何故立ったのか、判事が尋ねる。
それを無視してクロスは相手方の法定代理人に歩み寄った。
警戒心を抱かせぬよう、ゆっくりと、敵対していないかのように堂々と。
そして間合いに入ると、両肩をがっしりと掴んだ。
何事かと目を丸くする相手が困惑しているうちに、体を寄せ、耳元でこっそりと愛のように囁く。
「タプセ・ナク・モンク」
その瞬間、相手の体は震え、全身に緊張が走った。
体を引き離すと、青ざめた顔色と微かに震える唇とまぶたが目に入る。
それを確認してから、クロスは悠々と自分の席に戻った。
相手は呆然と立ち尽くし、判事の呼びかけも耳に入っていないようだった。
他の法定代理人が立ち上がって引き継ぎを宣言すると、彼もようやく気を取り直し、幽霊のような足取りながら自席へ戻る。
進行妨害への注意を無視しながら、クロスは改めて相互紙に向かう。
『言われた通りにはしましたけど、タプセ・ナク・モンクって何ですか? ただならない狼狽ぶりでしたけど』
『ならよかったです。効いたようですね』
文字が消え、それからややあって長文が浮き上がる。
筆跡は同じだが、速書きではなくじっくりと書かれた文章だった。
『初めて使ったのは2代目"法の魔女"。ハロボットという男が殺人の容疑でアーゲルンの法に裁かれている時、彼女はその擁護者として裁判に加わっていました。アーゲルンの法律では弁護人たる擁護者は容疑者と同じ立場で、有罪との判決が下った場合同じ刑罰が課されます。"魂感応"によって基本的には代弁者が不要となるため、第三者たる法定代理人が法的に規定されておらず、それに近い擁護者という立場を使わねば裁判に加われなかったのです。
そして殺人は処刑に相当する罪。擁護者である彼女にとっても決して負けてはならない裁判でした。
それを乗り越えるのに使った手が、タプセ・ナク・モンクです。真実を明らかにし罪の在り処を定める裁判という場に於いて本来忌むべきは、勝利のために意義から逸れること。それをあえて実行するのがタプセ・ナク・モンクです。
具体的には、個人攻撃。相手方の陣容を調べ、法廷の内外で攻撃し続ける。執拗に、それこそ破滅するまで追い詰めます。
この時は裁判の判事を務めたカーギ・カリン司教と被害者遺族が標的とされました』
『どんな手を使ったんですか?』
『司教の息子は多額の借金をしており、その返済期限は既に超過していました。先方とは期限を延長し少しずつ返済していくということで話がまとまっていましたが、この債権を買い取って即時の一括返済に切り替えたんです。法定の返済期限を超えた場合、債権者は自由に返済期限を設定できる、というのがアーゲルンの法律でしたので、速やかに差し押さえが行われました。
この息子の不始末を正すため、司教も私財を投げ打たなくてはなりません。財務の記録や記帳に大きな動きが生まれるのです。
そこで、司教が脱税を行なっている、とカーギ・カリンに密告します。監査が行われ、調査が続くうち、借金返済の支払額がやけに多いことに気がつきます。段階的な返済から一括返済に切り替える際、計算方法を変えて過払いが発生するようにしたのです。
あとは、債権者側の帳簿の額を減らし、過払い分の現金をこっそり息子に渡す。これで未記帳、未報告の隠し金の完成です。司教とその息子は脱税のかどで逮捕され、息子は有罪、司教も罰金を払わされた上に地位を追われました。
被害者遺族にはもっとむごい方法が使われました。娼婦を雇い、被害者の兄を強姦させ、後にかえって強姦の罪で被害者の兄を訴えさせたのです。本来ならば"魂感応"で娼婦の嘘はすぐに暴かれるはずでしたが、娼婦の胎には子がいました。あえて懐妊済みの娼婦を選んだのです。
"魂感応"は妊婦に対して行うことは禁じられています。母体への"魂感応"は、赤子の未発達な魂にとって、心臓を手のひらでぐいと押されるようなもの。命取りになるばかりではなく、魔力漏出によって母体までも危険にさらします。
さらに、娼婦がその子を被害者の兄の子種だと主張し、そのうえ堕胎を希望したことで事態が大きくこじれました。もし全てが事実なら、彼は強姦をはたらいたのみならず、子供を殺した親になってしまいます。かと言って子供を認知して堕胎をやめさせた場合、強姦を認めたことになってしまいます。
彼には既に妻子がいました。この件は、家族全員の魂を粉々に砕いたでしょう。他の血縁者にとっても非常に魂を悩ませる厄介ごとだったはずです。
そこに"法の魔女"が現れたのです。彼女はさも当然のようにこう持ちかけました。
『ハロボットへの訴えを取り下げたら、助太刀してやるよ』
彼は真相に気付いたでしょうが、もう頷くしかありませんでした。精神的にも肉体的にもそれほど追い詰められていたのです。ハロボットへの訴えを取り下げると、即日娼婦は姿をくらまし、問題は立ち消えとなりました。
それでも、被害者の兄一家は親族から絶縁され、追われるようにして故郷を離れるしかありませんでした。親族らも消えない汚名を被り、多くが他所へ移住せざるを得ませんでした。
かくして、ハロボットは不起訴という形になり、解き放たれました。彼は8年後、別の殺人罪で起訴され、有罪となり処刑されています。"法の魔女"はその後、代を重ねながら各地の法の現場に現れ続け、重要な局面で幾度も『タプセ・ナク・モンク』をその言葉とともに実行していきました。
やがて、法曹の世界では"法の魔女"の『タプセ・ナク・モンク』は最も恐るべき言葉として忌み嫌われ、畏れられるようになります。
それは破滅の呪文。聞いた者は人生が破壊されてしまう。確かな知性と覚悟に裏打ちされた奸計に、法廷が蹂躙される。その警告の言葉なのです。
相手は油断していたでしょう。タプセ・ナク・モンクでひっくり返せるような状況ではありませんし、法廷に来ているのも魔女本人ではなく代理の若者でしたから。
しかし、この手は使いたくありませんでした。どんな脅迫よりも、恐ろしい言葉です。剣や弓矢の歴史よりも遥かに血生臭く、その響きは汚濁にまみれているのですから。
腐った言葉は短剣よりも鋭く、弓矢よりも速く、槍よりも致命的です。そのことを決して忘れないでください。
彼らが、あとほんの少し勤勉であったならば、こんな手を使わずに済んだのですが。
残念です。とても』
翌日、魔道士会側の法定代理人の全員が裁判を無断欠席した。
彼らの住居には慌てて荷物をまとめて出て行った形跡があり、法定代理人を自ら辞すとの書き置きが残されていた。
その日は判事によって裁判の中止が言い渡され、新しい法定代理人が見つかるまで6日間、裁判は休止となった。




