法の魔女10
サイザル・モロウナは苦虫を噛み潰したような顔で待っていた。
統制庫の緊急備蓄室。そこに置かれた穀物袋に腰掛け、不機嫌を撒いていた。
自宅の玄関へ下から差し込まれた手紙に気付いたのが昨夜。
すぐに必要な書類を作成し、翌日それらを行政使府の適切な部署に提出。
その足で即座に"兵の魔女"と面会し、彼女の言葉に従って連絡用の秘密の柱に伝言を残した。
行政使府ちかくの汁物料理屋の一角を支えるこの柱は、二人が秘密裏に連絡を取り合い、情報を受け渡すために使っているものだった。
この柱に密着するように設けられている席について、朝食をとるふりをしながら節穴に伝言を押し込み、栓をし直す。
これは「協力者との連絡方法」としてアイランも記録に残している方法であり、クロスも感づくはずだ。
そこに残した言葉はたった三つ。
「統制庫 緊急備蓄室 昼一刻回り」
これに基づいて、彼女は待っている。
だが、彼女は待ちたくなかった。ここに来たくはなかった。協力などしたくなかった。
もっと言えば、"兵の魔女"と関わり合いにすらなりたくなかった。
魔女の弟子だった頃にはそれなりに野心もあり、好奇心もあった。
しかし先代"史の魔女"に師事する内に刺々しい野望は角が取れ、自分よりはるかに才能溢れる姉妹弟子が後継者に指名されたことで完全に意欲も消失した。
新たな"史の魔女"のもとで研究と学習に励み続けることも出来たが、彼女は魔女を辞し行政使府に入ったのだ。
魔女という経歴と、それに裏打ちされた確かな知性は彼女を出世させたが、そうなったのは単に生活のため働いていた結果でしかない。
彼女自身は平穏を望む一小市民に成り下がり、魔女だった頃よりも出世した己の現状を喜んだりはしなかった。
ある日、統王からの辞令が下った。
コー・ナイルの行政使府、そこの検吏に任命するという公式な辞令である。
周囲は彼女の才能がもたらした当然の結果であり、実にめでたいこととして祝福したが、本人は憂鬱だった。
彼女には、非公式の御下命も秘密裏に届けられていたからである。
『地元の領主と魔道士会を監視し、報告し、乱行あらば之を制するべし』
魔道士会に対する監視と抑え、そのために、魔女という経歴を持つ才女が利用された。
コー・ナイルは魔道士会の、ひいてはマードックの巣であり、その中に元魔女が一人放り込まれたのである。
彼女が赴任した日、マードックは早速、彼女へと"挨拶"を届けさせた。
それはコー・ナイル行政管轄区内の死刑が執行された後に発行される記録文書『公務死亡届』だった。
単に暴力的な脅迫ではなく、それは身近な現実を教育させるための書類だった。
死刑執行の承認は領主と行政使府の二者が行うものであるが、この死刑のことは、事後発せられたこの書類によって彼女は初めて報されていた。
つまりは行政使府にもマードックの力は及んでおり、いつでも彼女を孤立させられるという現実の証明書でもあったのだ。
知るべき情報を知らせないままに、制度を実行できてしまうだけの力。
行政使府は安全ではなく、この街の全てを一人の老人が支配しているのだとこれ以上なく実感させるだけの知性。
平穏を望む彼女にとって、何よりも不気味だった。
魔道士会を監視するどころではない、監視されるのは自分の方だ。
彼女に、他にどんな道があっただろう?
魔女を憎む人々に囲まれ、魔道士会の手の上に乗せられ、それでも統王様の命令通りにしなければならない。
もう関わりを持つまいと思っていた魔女。更にその中でも最悪の怪物と噂される、台風の目。最も単純な力の象徴にして中心。触れ得ざる嵐そのもの。一人で街一つを凌駕する暴力。
"兵の魔女"アイラン・ヘルゼンデル。
業務遂行のために、手を組まざるを得なかった。
悪魔すら恐れさせるような怪物と。
怪物はこれ幸いとばかりに餌に食いついた。
行政使府の検吏を味方につけたらば、格段に仕事がやりやすくなる。
法的な便宜、行政面の補助があれば、情報収集だけではなくあらゆる局面で素早く動ける。
その代わりとして、サイザルの業務を手助けし、彼女の身を守る。
衛兵にも魔法使いにもならず者にも無謀な愚者にも手出しをさせない。それだけの暴威が街の隅々にまで行き渡っていた。
その縁で、彼女は今ここにいた。
ただでさえ競うことに飽いていた身は、魔道士会と魔女協会と統王の間で更にすり潰され、呆れの領域にまで達していた。
競争や衝突に倦み疲れながら、それに巻き込まれるしかない己が身の情けなさにも、もう腹立ちすら覚えない。
ただ、呆れ返るばかりの、深いため息をつくのみだった。
やがて、ノックもなく扉が開かれた。
とっさに立ち上がり、警戒するが、あまり意味はないだろう。
歴史の学びも事務仕事も机上の執務。警戒したところで、暴力への対処が出来るはずもなく、また、その必要もなかった。
入ってきたのは彼女よりも更に荒事に不向きそうな、一人の老人だったからだ。
羽毛を詰めた厚手の上着と、ひさしの長い帽子、毛皮の襟、手首を紐で縛ったミトンを身につけ、しもやけ対策と滑り止めにブーツを麻布で巻いているのは、明らかに御者の出で立ち。
寒冷地の御者用標準装備として、御者組合から無期限で借りられる装備一式である。
男はドアを閉めると、懐をガサゴソとまさぐり始めた。
相当奥深くにしまい込んでいたようでかなり手間取っていたが、息を呑んで見守る他ない。
その懐から、短刀や携帯用の小型弩が滑り出てくる可能性だってあるのだ。
だが、心配に反して、懐の奥から引きずり出されたのは一枚の封筒だった。
彼はそれを一瞬掲げてサイザルに見せつけると、近くにある木箱の上に置く。
そうして、ドアの前から一歩たりともサイザルの方へ接近することなく、再びドアを開けて出て行った。
最初から最後まで、一切の無言を貫いて。
ドアがまた閉まり切ると、サイザルは早足で歩き出し、封筒をひっつかむ。
魔法や毒を仕込んだ罠の可能性もあったが、緊張からの解放を望む意思と、とうとう過去に置き去れなかった好奇心が勝った。
封筒の中身は折りたたまれた羊皮紙であり、それを開くと、縁に仕込まれていた仕掛けが発動。
少量のインクが入った極小皮袋の糸が、開こうとする紙の縁に引っ張られて切れ、中身のインクが漏れ出る。
インクは羊皮紙の上に小さなシミを作ると、あっという間に染み込んで消えてしまった。
──相互紙だ!
魔女の秘術、相互紙の存在は当然サイザルも知っていた。
二枚一組の羊皮紙は内部にインクを含んでおり、書いた文字がそのまま相手の紙の表面に浮き出るという。
ならば、いま染み込んだシミの形は、そのままどこかの相互紙に浮かび上がったはず。
つまりは、彼女がこの紙を受け取ったのが、相手に今伝わったということだ。
『初めまして』
文字が浮かび上がる。
魔女名持ちの魔女しか持つことが許されない秘宝を、自分が握っているのだ。
魔女と袂を分かったつもりだったサイザルも、この事実には内心の興奮を抑えられなかった。
すぐに木箱の上に相互紙を置くと、覚束ないほどに慌てた手つきで腰の巾着からインク壺を取り出した。
しかしペンが無い。私用のペンは、盗まれてから新しいのをまだ用意していなかったのだ。
焦った彼女は木箱に噛み付いた。表面をわずかにささくれる程度に削り、あとはそれを指で引き剥がす。
脆く、不恰好な字しか書けないが、字のていを成せる程度の木ペンが出来上がった。
『サイザル・モロウナです。あなたは?』
手と文字は震えていた。
それは決してペンの不出来や歯に走る痛みのせいなどではなかった。
『クロス・フォーリーズと申します、直接会ってお話しできない無礼をお許しください』
裁判所に行くのさえ、人目をはばかり変装せねばならないクロスが、直接ここに来られるはずがない。
裁判をかき回せばかき回すほど、魔道士会を焦らせば焦らすほど、民衆の憎悪を買えば買うほど、彼の身の危険は深刻になってゆく。
裁判そのものは魔道士会にとって優位に進んでいるため、裁判所での狼藉やあからさまな暗殺などには及ばないだろうが、脅迫や監禁程度ならば起きても不思議はない。
故に、使いの者を送り込んで伝言を受け取る程度のものだと思っていたが、この展開は望外の驚きだった。
『私と話がしたいと聞きましたが』
『ええ、そうです。あなたの立ち位置を確かめておきたくて。ここに来ていただけている時点で、ある程度は自明ではありますが』
クロス・フォーリーズがこの街にやって来ることは、事前に"兵の魔女"本人から聞き及んでいた。
その間、魔道士会の監視が厳しくなるだろうから連絡を絶つという知らせも。
今思えば魔道士会というより、反統王連衡から守ろうとしたのだろう。
『端的に言って、どこまでご存知ですか?』
夜中に家へと届けられた文を読んですぐ、人目につかぬようサイザルは動いていた。
公式な書類を作り、そこに書き入れた時刻とは異なる夜半に、"兵の魔女"に会いに行った。
公的には翌日に初面会をしたことになっているが、夜のうちに秘密裏に面会は済ませていたのだ。
そこでの会話を思い出しながら、書くべき事柄を書き入れんと木ペンを走らせる。
『反統王連衡について"兵の魔女"より聞かされました。魔道士会の一部が取り込まれていて、マードックも手を組んでいた、と』
『どう思いましたか?』
"兵の魔女"とは友人ではない。仕事仲間でもなければ、相棒でもない。
だが、長年情報を共有し、決断と行動を見届けてきた。
その中で、一種の信頼が育まれていた。人格に対する肯定ではなく、その鋭い観察眼と精緻な嗅覚に一定の敬意を抱くようになっていた。
故に、彼女は従ったのである。「クロスの質問には全て正直に答えなさい、そうしないとあなたは殺される。あの子はあらゆる魔女にとって、最前線の重装歩兵よ」との言葉に。
『まさか、と思いました。長らく魔道士会や領主を監視していましたが、反逆や叛乱の兆候は無かった。連衡などという輩が存在することさえ知らなかった』
『今ではどうですか?』
『疑ってはいます。しかしあの"兵の魔女"がもたらす情報に間違いは無いとも信じています』
サイザルは"兵の魔女"のもたらす情報と暴力によって、魔道士会への交渉力を確保していた。
心情的な信頼の他に、立場上信じざるを得ないという事情も、彼女の確信を後押ししていた。
『アイランさんから、言伝は何かありませんか?』
『二つ預かりましたが、一つは是非ともご勘弁を。歯が腐るような、卑猥で下品で爛れた恋文であるが故に、私の手指が書くのを拒絶するのです』
相互紙の奥で、クロスの顔が熱くなった。
すぐに頭を振り、頬をぺちぺちと叩いてコー・ナイルの冷気を顔に叩きつける。
自分を組み敷き、うごめきながら囁いてきた言葉の数々を思い出し、獣慾と理性の入り混じった快感を想起してしまったのだ。
その記憶を鎮めるのに、クロスは丸20秒もかかってしまった。
『わかりました、もう一つをお願いします』
『もう一つは『万事順調。クランツに執着なるともしび未だ燻る』とのことです』
サイザルは伝言の意味をよく理解していない。クランツという名すら聞き覚えがない。
だがクロスにしてみれば、それは拳を握るほどの激情をかき立てる言葉だった。
まだアイランを自ら所有するのを諦めてはいない、その事実が彼の魂を煽った。
煽り立てられた激情が決意を補強し、断固たる意思の鎧に中身を込める。
──あの男に、負けるわけにはいかない。
強い意志の炎に、新たな薪がくべられる。
そしてその薪はクランツでもサイザルでもなく、アイランがくべたのだ。
クロスすら、その事実に気付かなかったが。
『サイザルさん、実はあなたに二つのお願いがございます』
つとめて冷静な文章を記したものだが、そこに込められた感情は黒いとぐろを巻いていた。
彼とて、男。それも、20年すら生きていない若者なのである。
若く、青く、純情で、そしてそれら故に、好戦的だった。
それもまた、クランツが持ち合わせないものなのだろう。




