法の魔女9
夜になれば、馬車の停留所はほぼ無人になる。
寒風が命を奪うほどのものに変わり、伸ばした指先すら見えなくなるほどの暗闇に覆われる夜半。
出歩こうとする者は少なく、仕事を続けたがる御者に至っては皆無である。
そんな場所に留まった馬車の中は、密談に最適である。
クロスは尻が冷えるのを我慢しながら、相互紙にペンを走らせていた。
『サイザル・モロウナへの手紙は先ほど無事届けました。上手くいけば、今夜にでも彼女は動き出すでしょう。追跡すべきでしょうか?』
『魔道士会に気取られる危険は避けましょう。もともと失敗しても痛手の少ない作戦です』
『わかりました。それで、テイリノ・バルのことですけど──』
第二回審理、原告側の最終証人は間違いなくクランツだった。
その最終証人を申し入れたと思われる法定代理人は一名、その隣に座っていたのが、原告団の一人、テイリノ・バル=ホーマンだった。
最終証人という手は相手からしてみれば、準備はしていても使う予定ではない手だったはずだ。
クロスが絶妙な嘘の証言をねじ込んだことで、機知に富むクランツが直接それに対抗する必要が出た。
あれはそういう状況であり、クランツの手下たちは慌てたはずだ。
いざという時の万一の策を出さざるを得ず、クランツも即興で嘘を練り上げた。
ならば、計画的に偽る余裕はなかったはずだ。
魔道士会コー・ナイル支部の中で、反統王連衡に通じているのはテイリノ・バル。
その公算はかなりの有力と言えた。
『最終的には彼を生贄にしたいと思うのですが、その方針でいいでしょうか?』
『問題ありません。話を聞く限りでは、クランツという輩は目的さえ果たせたならば、たやすく部下を切り捨てるような人物でしょう。死んだ羊は三頭の予定でしたが、あと一頭ぐらいは増えても問題ないはずです。具体的には協会長に任せることになりますが、テイリノ・バルは法廷ではどういった様子でしたか?』
『なんだか、苛立っていました。声は荒げていませんでしたが、落ち着きがなくて、嫌いな勉強の時間が終わるのを待ってる子供のようでした。アイランさんの調査書にも『小胆な守銭奴。魔法使いではなく会計士』と』
『望まざる状況に立たされているようですね、好都合です』
『そのような小人物が、どうして反統王なんていう大それた行為に協力するんでしょう?』
『小人物だからです。想像力を欠き、たやすく思考停止に流れ、自分の行いがもたらす結果に無頓着。ごく僅かな利で、どんな悪事にも無自覚のまま手を染めてしまう。典型的な小者です。おおかた、マードックの後釜に据えてやろうとでも囁かれたのでしょう』
寒さに鼻をせせりながら、ゆっくりと確かに文字を書き入れる。
手袋越しではいつも通りの筆致にはならず、もどかしいほどに遅筆だ。
『話は変わりますが、雇った御者、というのは本当に信用できますか?』
『大丈夫だと思います。口は堅そうですし、アイランさんに大きな借りがあるとか』
当然のことながら、クロスはマークされている。
反統王連衡に、魔道士会に、領主に、民衆に、もしかしたら行政使府にも。
故に、彼の代わりに工作を実行してくれる者が必要だった。
彼を見つけたのは、アイランの残した調査書を読んだからだった。
命を奪うのが"兵の魔女"の仕事であるが、沈む命もあればそれによって浮かばれる命もある。
娘を犯して殺した男たちへの復讐を果たしてくれたとなれば、尚更だ。
今回の件に限って言うならば、彼は己の命など惜しまないだろう。
それほどの固い決意も、寡黙のベールに包まれて二人には届いていなかったが。
『では、とりあえず現状のままで進めましょう。紙は届きましたか?』
『まだ届いてません。間に合うでしょうか』
『"鳥の"鈍環持ちですから、明日の昼までには到着するでしょう。段取りはそちらに任せます』
『わかりました』
後ろの壁をコンコンとノックして合図を出す。
程なくして、馬車が走り出した。
いななき一つあげず、蹄鉄の音も低く、車軸もなめらかに。
この夜に溶け込むような静けさで、柱街へと向かって行った。
それよりも更に静かに、馬車の後を尾ける者がいた。
暗い色の装束に身を包んだ男は、明らかにクロスを追っていた。
どこの手の者かはわからない。魔道士会か、領主か、反統王連衡か、いずれかの犯罪組織か。
いずれにしろ、夜の街路を息も切らさず、馬車の速度に追随していく様は相当の力量を思わせた。
気配を消し、それでいて注意深く、月明かりは彼に触れさえしなかった。
御者もクロスも、当然気付かない。このままでは、隠れ家の場所まで突き止められてしまうというのに。
仕事の継続や目的の達成のみならず、命まで危険にさらされてしまうというのに。
柱街の手前でクロスが馬車から降りた時、尾行者は懐に手を差し入れた。
心臓の脈打つ胸部は最も温かく、かじかみかけた手を再び支障なく動かせるようにしてくれる。
更に、服の裏側には布でよく包んだ短剣が差してある。温めた手で、そのまま抜き打ちができるように。
そして尾行者は歩を速めた。
保ってきた距離を詰め、隠していた眼光も鋭く、クロスの持つカンテラの明かり目掛けて直進した。
尾行者は今この時、刺客へと変貌したのだ。
「ハアイ」
まさにそうし始めた瞬間、刺客の背中に声が投げかけられた。
目に宿る殺意の彩りは驚愕の形に染まり、吹き出した汗とともに振り返る。
そこにあるは、彼のような者が息づく世界で名を知らぬ者は無い、殺しの立像。
誰しもが出会いたいと願い、出会いたくないとも乞う、伝説そのもの。
"兵の魔女"アイラン・ヘルゼンデルの微笑みである。
即座に体ごと振り返り、飛び退く。
どうしてここに? 投獄されているはずでは? いつから尾けられていた? どうやってこの俺の背後を取った?
様々な疑問が去来したが、実戦に鍛えられた強靭な魂がそれらを瞬時に隅へと押しやり、代わりに殺意と闘志をみなぎらせた。
それらを行えたのは、アイランの目こぼしによるものに他ならないのだが。
「いい動き、ぶれない構え、迂闊に抜かず、隙もない。口も堅そうだわぁ」
刺客とは対照的に、ゆったりと彫像のように立っている。
その手には何も握られておらず、衣服にも武器を仕込んである様子はない。
丸腰だ。それも、隙だらけ。殺意や闘志も感じられない。
「お前で、五人目よ。やぁっと当たりを引いたわねぇ」
にやり、と牙を見せて笑う。
その瞬間、刺客がひと蹴りで距離を詰めながら、短剣を突き出した。
瞬き一つが終わり切る前に、むしろその瞬きを狙って突き殺す技。
素早く踏み込み、体重を乗せず遠間から腕を伸ばして刺す。
何よりも速い一撃であるが、それ故に急所を──すなわち首か脇の下を狙わなくてはならない。
刃先は急所に届く寸前で、"兵の魔女"の左手によって横に逸らされた。
同時にこちらからも踏み込み、潜るように腰を落としながら右フックを放つ。
骨による防御が薄い、脇腹を狙った拳。当たれば内臓を三つほどすり潰されるだろう。
だが、刺客は右利きながら、常に左手で短剣を扱っている。首に向けて放った一撃もそうだ。
その理由が、ここにあった。
重心移動で全身を少し引きながら、腹を押さえていた右手を脇の下を潜らせるようにして伸ばす。
"兵の魔女"の攻撃に添えて受け流すように力を加え、空振りさせながら手首を掴んだ。
刺客は勝利を見出した。
掴んだ手首をひねりながら押し込み、瞬時に引っ張る。
精妙な操作は"兵の魔女"の体をその場で横回転させるように浮き上がらせた。
片手だけで瞬時に投げる、相手の反射を利用した投げ技だった。
あとは、宙に浮いてなすすべを失った標的を切り裂くのみ。
しかしその刃は、振るわれる寸前で止まった。
気づいたのだ、投げられているはずの"兵の魔女"が既に空中で蹴りの態勢を完成させていることに。
首をへし折る回し蹴りが、自分に向かいつつあることに。
重心移動で後ろに引きつつあった己の態勢を利用し、一気に飛び退く。
その鼻先を蹴りがかすめたが、命中には至らなかった。
"兵の魔女"は倒れるように着地し、刺客もさすがによろけながら二歩三歩と飛びのいて態勢を立て直した。
本来ならば投げナイフを放ちたかったが、それもできぬほど大きく身を引かなければ避けられなかった。
多少、口惜しくは思ったが、集中して再び身構える。
その直後に、今度は"兵の魔女"の方から飛びかかった。
獣のようにではなく、躍りかかるように、舞のように。
背を伸ばし、高めに飛び、両足をたたんだ姿勢。明らかに蹴りの態勢。
もはやそれ以外はせぬと言い切っているかのような、美しい跳躍だった。
そして、一閃の交錯。
蹴りと短剣の一撃が交わされ、刺客は短剣を突き込んだ態勢のまま立っていた。
その手に、短剣など握られていないのに。
"兵の魔女"が悠々と左足で着地する。
右足を持ち上げると、ブーツに短剣が食い込んでいた。
その短剣はブーツの中で、親指と人差し指に挟み掴まれており、彼女はため息をつきながらそれを手に持ち替えた。
刺客は、蹴り足を切り裂くつもりで刃を振るった。
直前まで、それは成功していた。
だが"兵の魔女"は足の指で刃を掴み止めて奪い取ると、そのまま蹴りを放った。
紙一重で蹴りを避ける予定であったというのに、その足に新たな付属物──己の短剣が増えたのである。
見切ったはずの間合いは、意味をなさなかった。
首から血を噴き出しながら、刺客は倒れた。
そのかたわらに歩み寄る影。彼が最期に見るもの。
──それが、一目見たいと願っていた、伝説に謳われるもので良かった。
残された全力を以って、左の奥歯を噛み潰す。
差し歯の中に仕込まれていた毒が漏れ出し、粘膜を通じてあっという間に彼の体に吸収されていく。
いかな"兵の魔女"と言えど、それをとどめる術は持ち合わせていない。
駆け寄って抱き起こし、その目を覗いても、そこにもう光は無かった。
「毒……"最後の挨拶"ね、ということは」
鼻をすんすんと鳴らし、臭いで毒を特定する。
"最後の挨拶"。アーゲルンに情報を盗まれぬよう、デ・タンダ族の諜報員が用いていたとされる自害用の毒。
それは魂すらけがし、犠牲者と魂感応を試みたアーゲルンはことごとく廃人同然になったという。
アイランは刺客の覆面を剥ぎ取った。
面長で毛深い、ましらを思わせるような顔つき。間違いなくデ・タンダ族だ。
アイランは人知れず夜な夜な獄を脱けては、クロスに迫る尾行者や諜報員を排除してきた。
今日で五人目だが、これまでは魔道士会に雇われたごろつきや、雇われていないごろつきばかり。
しかし、こいつは自分の攻撃を二度もかわせるほどの手練れであり、見事な覚悟をも持ち合わせた刺客だった。
そのような良質な一級品を用意できる上、"兵の魔女"に犠牲者の魂を食べて断片的に情報を抜き取る力があると知っている者。
そして、その対策としてデ・タンダ族の"最後の挨拶"という手を思いつける者。
「うふっ」
アイランは思わず笑い声が漏れた。
そんなもの、彼しかいない。
刺客の死体を担ぎ上げる。
どうやら、当分の楽しみが増えたようだ。
その目が、爛々と輝いているのだから。




