第8話 不運な男
第8話 不運な男
幸運な人。
その言葉を初めて耳にしたのは今から……どれくらい前だろう、10年か12、3年位前だと思うけれど、確信はない。しかし自分がそれに該当しないことだけは間違いないと思っている。
今日もそうだ。研修中の会社の終礼の時、ポケットに入れていたスマートフォンに友人から着信があった。俺はスマートフォンをマナーモードにするのを忘れていて、皆、1日の仕事の疲労で1秒でも早く帰宅したいとイライラしている時の着信。上司からの叱責。
最悪だ。
思い起こせば俺の人生は不運なことばかりだ。
小6の時、ひとつ年上の兄貴が部屋に引きこもるようになった。兄貴は勉強も運動も、おまけして、中の上、といったところだ。
要するに、どうってことない中学1年生だ。そうしてそれから俺は同級生から、
「なあ、お前の兄ちゃん、学校行ってねえんだってなあ、ハハハ」
と揶揄され……いや、いじめられるようになった。
そういう時、俺に同情してくれる友達や教師がいれば、俺もなんとかいじめに耐えられることができたかもしれない。しかし俺にはそんな友達も教師もいなかった。しかも担任も教師が最低で、いつもツラが赤くほてっていて、話し方も、ベロンベロンといえばいいのだろうか、つまり酔っ払いみたいな頼りない中年の禿げたクズみたいなセンコーが担任だったのだ。
俺は自殺を決意した。21世紀になって、自殺を図る小学6年生がどれほどいるかは知らないし、どうでもいいいけど、きっと、相当いるんじゃないかと、俺は思っている。
そして俺は自宅のマンションの屋上から飛び降りた。屋上から大地までの数十メートル、空を飛んでいるというか、宙に浮いているというか、とにかく死にいたるまでの数秒間、俺は穏やかな心持ちを抱いていた。
ああ、これでやっと、楽になれる……。
だが俺は死ねなかった。
原因は俺がマンションの屋上で右往左往している間に、俺を発見した女子高生が、親切にも(ふざけるな)警察に通報し、ぶ厚いブルーのクッションマットが設置され、俺が飛び降りても救済する処置をとったのだ。
しかし某大学の研究によると、飛び降り自殺の8割は大地に到達するまでの間に意識を失うといった研究結果を発表していた。
ご多分に洩れず、俺は警察病院のベッドの中で目を覚ました。俺はそこを天国だと思った。
ああ、ここが天国か、想像していたのとは随分違うな、もっときれいな花と湖と白い鳩、それにこれ以上なく平和な場所だと思っていたけど、死ねなかった俺の目に映ったのは汚い混凝土の壁に囲まれた、できることなら一生見たくない世界だった。その景色を見て、俺は自分の自殺が未遂に終わったことを悟った。
「501番、起きたのか?」
ドスの利いた声に、俺は自分が501番ということを理解し、はい、と返事をして、そうして立ち上がった。ジーパンと黒い長袖のTシャツを着ていたオレは中学の体操着みたいな服に着替えさせられていた。服には「501」というゼッケンみたいなものがついていた。
それから10年、俺はケイジの中ですごし、仮出所の時に偽りの履歴書をつくって、ある企業の面接を受け、採用された。「幸運な人」という言葉を耳にしたのはたぶんそのころだ。そしてスマートフォンを買ったのもそのころだ。
しかし研修中の会社の終礼の時、不運は起きた。
俺はクビになった。それが今日だ。
今、俺はもう1度自殺しようと計画している。だがきっとまた生き延びてしまうだろう。
死ぬしかないのに死ねもしない。
俺は「不運な男だ」




