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この街は今日も語る  作者: 紫芋
Spring hour 桐江准は普通でありたい

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勝利爛酔・闘争必罰・飢餓滾沸・死生嘱望

タイトルの四字熟語、適当です。

 朝日に当てられ続け、瞼を開けたと共に、衝動に駆られた。


『空弩街』の中央地区にある駅前の広場に設置された噴水に備えられたベンチから転げ落ちた少女は、汚い呻き声を上げる。


 吐瀉物を吐き、目からは涙が零れ落ちていく。


 乱れた髪は手入れのしていない事が容易に看破出来る程であり、血に濡れた薄ピンク色のパジャマは汚れ過ぎてしまっていた。


 胸を劈く程の痛みと、悲鳴にも似た雄叫びを甲高く轟かせる。


 呻き声を痛ましく上げて、慟哭の涙を流しながら、乾燥し、乾き切った血の着いた手を凝視して発狂。


 駆られていく衝動は増していく。


 身体は体内から炙られているような感覚が、支配を始める。


 グラつく視界は、先程まで綺麗に映っていた噴水を掠れさせていき、胸を押えてながら、口を大きく開けた。


『勝利』に飢える為には『争い』を求めて、『飢餓』はそれを助長する。


 呑み込まれていく。呑まれていく。呑み込んで、溜飲は何時までも治まらず、躍動が胸打つ。


 血走る眼に映る者全てが等しく対象者であり、選抜の候補。


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 唇から、黒い液体が漏れ始める。


 流れるその泥のような黒いそれは、顎から滴り落ちて、衣服に付着。


 痛みは持続、呻き声は継続、意思を明確に持った少女は、起き上がっていく。


「⋯⋯⋯⋯行かなきゃ。────何処に?どうして⋯⋯?」


 混濁する意識。損なわれていく記憶。無くしていく感触。


「ァァァァァァァ⋯⋯⋯⋯。嫌だ、嫌だ⋯⋯⋯⋯。嫌だ。ァァァァァァァ。でも、誰かがやらなきゃ。アタシがやらなきゃ⋯⋯⋯⋯。なんで?どうして?ァァァァァァァァァァァァ。ぅぁぁぁ、死にたくない。死にたい。死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、殺さなきゃ、殺さなきゃ、殺しちゃ駄目、嫌だ!嫌だぁぁぁ!────っ!」


 プツリと意識が途絶えた。意思は混濁し、混じって、交わって、溶ける。


 指の震えが収まるのを切っ掛けに、膝は地面から離れた。


 立ち上がった少女の瞳は虚ろとなり、酔った人のように、揺らり、揺らりと歩き出す。


 不気味に、不吉に、歪に⋯⋯今日も少女は、獲物を欲する。


 濁流のように溢れる飢餓は、争いを求め、勝利の美酒に酔わそうと闊歩させていく。


 ────たった一つの嘱望《しょくぼう》を求めて。


 ━ ━ ━


 朝日の日差しをタップリと浴びて布団から起きた僕は、髪をクシャクシャとかき乱しながら、リビングへと脚を運んだ。


「お!起きたな?おはよっさん。早く食え、今日は一番頑張らなきゃならない日だぞ?」


「分かってるよ」


「なら、食っちまえ」


 用意された食事はまさかのパスタ⋯⋯。嘘だろ。


 朝、七時前の食事において、パスタ始まりってありですかね⋯⋯。


 タップリとミートソースが掛かったそのパスタは、胃に多大な負担を掛けるのでないかと不安になる。


 けれど、文句は言ってられない。少なくても、家にはパスタ用の麺を常備していない。


 朝倉さんが自分で用意した物なのは、間違いないのだ。


 食べなければ勿体ないし、昨晩は何も食していなかった事もあって、食欲はある。


「いただきます!」


 僕はがっついた。せめて、最後の晩餐にならないでくれ、と心の中で叫びながら。


 本当にこれが最後の食事なら、僕は寿司を食いたい。


 しかも、回らない方。一回で良いから行ってみたいものだ。


 まぁ、回転寿司で寿司を食っても、美味しいと言い続けられる僕が食べても、味や食感の変化に気付けるとは、思えないが⋯⋯。


「──────うん!美味い!」


 よく食べ慣れた味。濃厚なトマトソースの旨味がパスタと絡んで食べ応えのあるものだった。


 洗い物を済ませて、僕が座っているダイニングへとやってきた朝倉さんも席に着く。


 けど、机の上には僕の分のパスタしかなくて、不意に凝視してしまう。


「⋯⋯⋯⋯」


「なんだ?どうした?」


「⋯⋯あ、いや。パスタ無いんだなぁって⋯⋯」


 恐る恐るボヤくように言うと、朝倉さんは眉を高く上げて、呆れた顔を浮かべる。


 嘲るようで、揶揄うようで、着地点の見えない不思議な表情だった。


 顎を手に乗せて、肘を机の上へ置いた朝倉さんは、少し笑った気がした。


「もうおかわりを所望か?」


「いや、そうじゃなくて⋯⋯。僕一人食べてて、申し訳なくて」


「構うなって。俺が勝手にやってる事だ。遠慮せずに食え。どうせそれ、インスタントだし」


 フォークを置いた皿に目をやる。


 別にインスタントであろうと、自家製であろうと、味が今更何か変化する訳では無いのは、百も承知。


 けど、インスタントと言われると、途端に安っぽく感じてしまう。


 見た目、味、食感、匂いにおける全てが⋯⋯。


「⋯⋯それ、余計だぞ?」


「知ってるさ。わざとだ」


 止まった食事の手を動かしながら、余計な事を言われないようにジト目で朝倉さんを見つめる。


 いや、睨むと言っても良い。


(こんな人が街を元に戻してくれたり、人を生き返らせようとしてくれるんだよな⋯⋯⋯⋯)


 僕はフォークを動かす手を止めた。


 何となく、聞いてみたい。人はどうやったら生き返れるのか。


 御伽噺や物語の中で、最もよく議論される『死者蘇生』の類い。


 読み進めている側も、有り得ないと分かりきっているからこそ、展開として受け入れたり、逆に冷めた、と言う人も居るあの蘇生だ。


 単に蘇生と言っても、僕の想像する蘇生は心肺蘇生のイメージしかない。


 この人の場合、どう蘇らせるのか、素朴な疑問だったのだ。


「そういえばアンタって、人の命を生き返らせられるって以前言ってたけど、具体的にどうやって治してるんだ?」


「う〜ん。色々手法はあるが、手っ取り早いのは、『時間操作』だろうな」


 生き返らせる事に『色々な手法』がある事自体が謎ではあるのだが、それ以上詮索はしない事にした。


 問題は『時間操作』にある。


「⋯⋯?」


 時間の概念なんてものは、誰もコントロール出来るものじゃない。


 そもそもあの手の類いまでいくと、チート級の存在と同一だと思う。


 普遍的で常に感じるけど触れないもの。


 それこそが『時間』だ。


 この『時間』の面白いのは、人によって体感的に誤差がある事だろう。


 同じ事、同じ場所、同じ話や作業を聞いてたり、実施していても、流れる時間は等しく同じ。


 だが、人の感じる時間の感覚だけは誤差がある。


 そんな『時間』を『操作』すると言ったのが、この朝倉さんだ。


「生き返らせたい奴の『時間』そのものを戻すんだよ。死ぬ前に戻す」


「⋯⋯⋯⋯それって、なんでも出来ちゃうじゃん」


 本当に何でも出来る。その気になれば、『無限の生命』もお手の物。


「⋯⋯⋯じゃあ、出来事自体も出来るのか?人に作用させるんじゃなくて、世界とか事象とか⋯⋯」


 不意に聞いてしまった。それを朝倉さんはひたすら見ているだけで、しばらく考えるように固まった。


「あぁ、そういう事か⋯⋯」


 そして、呆れるように口に出た言葉は、ヤケに溜め息混じりだったように感じる。


 怒らせてしまったか?とも思ったが、そんな事はないようだった。


「歴史を変えるってのは簡単な事じゃないだぞ?妹さんが巻き込まれないようにしたら、代わり誰か別の人間がそれを引き起こす。つまり、代替わりだ」


 代替わり⋯⋯。そう言われると、嫌な言い方とも思えてしまって目を細めてしまう。


 きっとこの人はわざとそんな言い方をしたのだろう。


「⋯⋯最悪だな。それ」


 席から立ち、亀裂が入った壁まで歩く朝倉さんの後を目視で追い続ける僕は、彼が壁に手が触れる所を見た後、目を疑った。


 亀裂が無くなっていく。床に落ちた白い粉も捲れてしまって剥がせてしまう白の壁紙も、全て逆行するように元に戻る。


 僕は目元を擦り、夢の中に居るのかと疑い、再度目を凝らして元に戻っていく壁に注目した。


 けれど、その時には亀裂は綺麗さっぱり無くなってしまっており、何事も無かったように、傷は無くなっていた。


「すげぇ⋯⋯」


「⋯⋯けどな、コレは出来る奴だからって何でもしていい訳じゃない。現に今回の事件で『時間操作』を行うのは、『街全体で起きた事件』に関する事のみ。『妹さんのやらかした事件』に関しては一切手を加えない」


「どうしてさ!」


 狡いと心の底から思った。僕は立ち上がると共に机を叩いて、朝倉さんに詰め寄るものの、逆に睨まれるだけで萎縮してしまった。


 途端に後退りして、さっきまで座っていた椅子に逆走。


 結局、何も言えずに座り直してしまう。


「やらかしたのは、本人の意思だからだ。俺は女子供でもあろうと、皆等しく、やっちまった責任はしっかりと取るべきだと思ってる。少なくても、『妹さんの起こした事件』は十中八九、本人の根底にある欲望が原因だ。それを増長させたのは【当て馬】だが、それでも⋯⋯無かった事にしたら、堂々巡りになるだろう?お前だって、永遠に面倒は見れない。それは分かるだろ?」


 僕を案じての言葉⋯⋯そう楽観的に聞く事も出来た。


 けど、それはきっと目の前に居る朝倉さんが望まない。


 今回の事件の被害者でもあり、加害者でもある舞喜は、中途半端な立ち位置に立たされているのは、間違いない。


 僕自身はもう、決心したつもりだった。けど、揺らぐ。


 本当に舞喜の事を最後まで、朝倉さんの言う『自立』する時まで、罵倒や謗りが当たり前にあるこの現代で、面倒を見る事が出来るのか。


 途中で、ギブアップ宣言しないか心底不安だった。


 僕は自分の弱さと根底にある臆病さに悲しくなる。


 ここまで自分自身が未熟で、弱い生き物だと思っても見なかった。


「怖がっても良い。だが、逃げ出すな。逃げたら、これまでのお前の決心も行動も全部パァーだ。過去の自分を裏切る事になる。それは人類が殺人以上に最もやっちゃいけない愚行だ」


 どう返したら良いのか、分からなかった。


 僕は椅子に何度も何度も座り直して、机を正面に、パスタに口に含ませる。


 あれだけ温かかった筈のパスタは、冷め始めていて、味が損なわれたような気がした。


 不服そうな顔をしながら、咀嚼もロクにせずに飲み込んだ。


「⋯⋯じゃあ僕は、やっぱり妹の事にちゃんと向き合わないと駄目なんだな」


 それは独り言で、自分に言い聞かせるようなものだった。


 怖くて恐れる僕の弱さの露呈。露骨な程に構って欲しい僕の甘えだった。


「⋯⋯⋯」


 けど、朝倉さんは何も言わなかった。


 何かを言いそうになるなんて事もなく、ひたすらに無言を貫くのみ。


「⋯⋯⋯朝倉さんはあるのか?こんな事⋯⋯僕みたいなケースになった事は、あるのか?」


「無いとは言わないが、お前みたいにグチグチ考えなかったな。それは仲間が良くしてくれてた、俺は突っ走って、後の事は後だと言って割り切ってたし」


「⋯⋯どうなったんだ?」


「一度、失敗した事がある。二年間会えなかった。けど、仲間がその後助けてくれて、一緒に暮らせるようになった。色々と言われる時もあったが、俺の世界は実力主義至高な世界だったから、比較的に黙らせれたよ」


「世界?」


 その言葉を待ってました、とばかりに胸を張ってドヤ顔をする朝倉さんは、今日一ムカついた。


 いや、まぁ、今日はまだ始まったばかりなんだけど、それでもこれ以上にない程にムカつくドヤ顔だったのは間違いない。


「俺は異世界人って奴だ」


「⋯⋯⋯」


 僕は怪訝な顔を浮かべる。それに不満そうな顔をした朝倉さんは、引き攣った顔をして、前のめりな姿勢になった。


「信じてねぇな!?」


「⋯⋯まぁ、うん。信じてない」


「だ、だって、『魔術』使えるんだぞ!?この世界には無いんだぞ!?」


『魔術』と言われても⋯⋯。正直、『現象』という存在の方が余っ程ロマンがあった。


 昔から『悪魔憑き』がどうとか、『魔女』がなんちゃらと言って裁判してた時代背景がある海外の見聞きしている分、『魔術』なんてものも『現象』によって齎された副産物にも感じられる。


 そりゃ、この人はとんでもなく強いのは否定しない。


 実際、あんなに巨大で強固な鱗を持っていらっしゃる『龍』やら『青黒い巨人』を完膚なきまでにボッコボコに出来る時点で、この人は『強者』の立ち位置なのだろう。


 だが、『強者』だから『異世界人』なんて言うのも、早計に値すると思える。


「『現象』が居れば、その『魔術』ってのと似たような事出来るんでしょ?」


「あぅ⋯⋯。まぁ、それは、うん。そうだな」


 頬をポリポリと指で擦りながら、目を逸らす朝倉さんに、僕はジト目で追い打ちを掛けた。


「ほら、やっぱり」


「で、でもな。『現象』って言っても、万能じゃないんだぞ?結構弱点なんかは露骨なんだぞ?」


「じゃあ、舞喜に取り憑いてる【当て馬】の弱点は?」


 僕は挑発混じりに言葉にする。


 いっその事、ここで舞喜に取り憑いている【当て馬】の弱点を根掘り葉掘り聞こうとした。


 けど────。


「⋯⋯人の身体を使ってる。これ以外ない」


 淡々とそう言った。本当にそれ以外無いですよ、と言い切るように。


 口に含んだパスタを無理矢理飲み込んで、完食した僕は、フォークを皿に置き、朝倉さんと向かい合った。


「それは弱点じゃないじゃん!」


「弱点だっての!【当て馬】然り、【ヨハネの四騎士】は本来概念的存在なんだから。触れられない、干渉不可、神出鬼没。ある意味人類にとっちゃ、【悪魔の王】より厄介で、面倒いんだぞ!?それに今回の【勝利を司る白い馬(ホワイトライダー)】には、大した効力も位置付けもされてない。ただ白くて『勝利』への躍動を高める道具的立ち位置でしかない。やっぱり人の身体を使ってる分、イージー何だよ」


 僕にはそのイージーとノーマル、ハードとプロフェッショナルとかスーパースターの違いすら分かっていない身なのだが⋯⋯。


 難易度が上がれば上がる程、パス回しがやたらと上手いとか、フォワードにボールが回れば百パーセント点を取られるとか、そんな露骨な違いとかあれば、まだ納得出来た。


 けど、それは低い難易度を見ている前提での話。


 僕は今回、【当て馬】と呼ばれる存在を初めて見て、聞いた内容だった。


 当然、相違点なんて、理解出来る筈が無かった。


「⋯⋯じゃあ、本来は?」


「【七人の天使(ラッパ吹き)】の時点で、総人口滅びるから⋯⋯知らん。面倒くなる前に基本、根本から潰してるし」


「⋯⋯⋯⋯」


「止めろよ!そんな目で見る事ないだろ!仕方ねぇじゃん!全滅するぐらいなら、先に潰すのが定石なんだから!」


「違ぇよ!僕が言いたいのは、この状況は面倒いの部類に入ってない事に意義を申し立てたいんだ!」


 荒らげる声を出す。けど、そんな僕に首を傾げて腕を組んだ朝倉さんは、先程とは打って変わり、余裕そうな表情となった。


「面倒じゃないな。だって、お前はお前のツケを払うだけの話で、【刃龍】に関してもお灸を据えるって意味で封じてるだけだ。街の状況もこれ以上悪化しないし、何が面倒いんだ?」


「それは、そうなのかもだけど⋯⋯⋯」


 言葉に詰まってしまう。


 俯いて、視線を逸らしてしまう。


 僕の眼前まで距離を詰めた朝倉さんは佇んで、僕を見下ろす。


 それが直視できない。悟られてしまう事を恐れる。


 逃げ腰で居たい訳では無い僕の感情を見透かされる、そんな気がして、太腿に手を置いて、顔を他所へと向けた。


「⋯⋯お前、言ったな。出来事を無かった事に出来るんじゃないか?って」


「────うん」


「その考え方自体、そもそも逃げてんだよ。お前、そんな逃げ腰であの妹さんと向かい合うのか?」


「⋯⋯⋯⋯⋯」


 やっぱり、見透かされた。


 極論、怖くて、恐ろしい。これが全てだった。


 助けたいけど、いざ本番前になると、本当に大丈夫なのか、不安が高まってしまう。


 舞喜を助けたい気持ちは勿論ある。


 けど、舞喜を助ける人材が眼前に居れば、縋りたくもなってしまう。


 多分、この人はわざと僕にやらせようとしている。


 僕じゃなきゃいけない、そう口にするけれど、きっとそれは違う。


 この人の事だ。僕が無理だなんだと、駄々を捏ねれば勝手に事件を解決してしまうのだろう。


 最後の最後で、僕が逃げないように、ご飯を作って居座らせようとしている。


 僕が自主的に動く事よりも、敢えて、臆する方に賭けたのだろう。


「何度も言うが、逃げるな。コレはお前のやってしまった後始末だ。自分が路上で捨てたゴミを他人に捨てさせるなんざ、自分がゴミですって身体で示してるようなものだ。そんな奴に堕ちてくれるな」


 後始末。そう言われればそうなのだろう。


 僕は向かわなきゃならない。僕は挑まなければならない。


 死ぬ気で、死ぬ覚悟を持って⋯⋯。蔑まれる覚悟はとっくにしていた。


 それを今更、投げ出せない。


 大きく息を吸って、震える唇で吐く。


「分かってる。ううん。分かった」


 そっと、視線を朝倉さんに送る。


「⋯⋯⋯!」


 男は微笑んでいた。頷いて、頭をワシャワシャと撫でてくる。


 随分と雑に、犬か猫でも撫でてるような感覚で、撫でている男の手を払う。


「止めろよ」


「まだまだお前はガキって事だ。難しいなら、頼れば良いが、逃げるなよ?逃げると後に響く。響いた分だけ亀裂が走って、最後は修正不可になる。人間は建築可能な家じゃない。建て替え可能な存在じゃない。壁を戻してやれるのも、俺だから出来るだけで、普通は出来ない。だから、せめて⋯⋯自分の事ぐらいは、ちゃんと知れるようになってろ」


「⋯⋯⋯⋯あ、うん」


 どういう辻褄合わせだったのか、どういう意図と意味で言ったのだろうか、僕には皆目見当が付かないでいた。


 けど、激励のつもりなのだろう。


 僕は男の心配そうな微笑みに負ける形で、頷いてしまった。


「なら良い。────ほら、そろそろ行くぞ。助けるんだろ?」


「っ⋯⋯。あぁ!」


 準備を始めた。僕が舞喜を取り戻す為の準備と、『プルトン』なるアメリカ人男性と話し合う為の準備を進める。


 春用に前から出していた白と黒の薄いブルゾンジャケットに、黒いチノパンを履く。


 用意してあった小さなショルダーバッグに『遺品』を詰め、コレで準備万端!とバッグ肩に掛ける。


「少年、コレを腕に巻け」


「うん?コレって⋯⋯リストバンド?」


 渡されたのは紺色のリストバンド。何処からどう見ても普通のリストバンドであり、僕は怪しむ。


「⋯⋯⋯なにこれ?」


「やる気が出るお守りだ。俺が強敵相手に戦う時に何時も巻いてた物だ」


「────それは、ご利益有りそうだな」


「フッ。だろ?」


 僕はリストバンドを右手に巻いた。


 ジャケットの中に紺色のリストバンドと言うのは随分と不格好になってしまったものの、別に見た目重視で向かう必要もない為、構わないと思ってしまった。


 朝倉さんの後に続くように僕は玄関に向かい、ランニングシューズを履いて、扉の外に出る。


 日光がやたらと眩しく感じた。瞼を少し閉じて、眉を顰める僕は、手を翳す。


 青空の広がる文字通りの晴天の日、僕は強敵二人を相手にする時間が迫った。


「じゃあ、予定通り⋯⋯お前を指定の場所に移す。妹さんをその後に送るからな。上手く行けば『プルトン』の所に即座に送ってチャチャッと解決。良いな?」


「⋯⋯わかった!」


 意気込む声を鳴らした。それに答応えるように頷いた朝倉さんは両手を合わせて、指を絡ませる。


「よし、行ってこい!」


 最後の激励を飛ばされると共に、両手を叩く音が鳴り、僕の視界に広がっていた道路と建ち並ぶ家々は無くなり────。


 あの『象願林』の奥にある湖の傍まで、やって来た。


 僕は大きく深呼吸し、空を見上げる。


 高鳴る鼓動は耳に届き、煩く感じる。


 湖に目を凝らすと、不安そうな僕の顔が水面に映り込んでいた。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫!」


 言い聞かせる僕の表情は依然、変わらず。


 でも、やらなければならない。だから、立ち上がって、拳を握って、瞼を閉じた。


 その瞬間、ボンッ!と何かが鈍く炸裂した音と共に、草木を鳴らす音がして、瞼を開ける。


 その方向に振り返ると、目を見開いた僕の視界には。


 妹が────苦しそうに胸を押さえる桐江舞喜が確かに居た。


━ ━ ━


 膝が砕けているような力ない歩き方で、街を縦横闊歩する舞喜は目を見開いた。


 目の前に突如として現れた男。黒いジャケット、渋い緑色のズボンに、茶色のブーツという異色な格好をした黒髪の男が、何処からともなく、余白なしに現れたのだ、驚かない訳がない。


「⋯⋯⋯⋯誰?」


「随分とまぁ、蝕まれてるな。ご愁傷さん」


「はァ?!」


 質問に答えず、憐れまれた言葉を投げられた舞喜は、鋭利で殺意に漏れた視線を向けた。


 揺らりと力無く振るう両腕。腰を低く、膝を少し曲げて、野獣にも似た体勢で見開かれた瞳は徐々に剥がれていく。


「怒るなよ。⋯⋯⋯⋯ん?お前、【死を司る馬(ペイルライダー)】と同化したのか?」


「⋯⋯」


「まぁ、自分じゃ、判らないか」


【当て馬】は憑く事を悟らせない特性のある『現象』だ。


 決して、【当て馬】だけではないものの、その特性は自己判断と植え付けられた使命や役割と言ったものの境界を曖昧にする。


 曖昧なものに対して、目の前で起きてる現実を勘定に入れて判断する傾向が強い。


 今回の場合も、自身の行なった行為=自分の意思で行った行動だと、誤認させるのだ。


 しかし、【当て馬】の厄介な部分は、取り憑いた本人の奥底にある暴力性と加虐性のみを極めて向上させる事にある。


 つまり、全く暴力性や加虐性の無い者に対しては効力は皆無と言っても良い。


 そんな人間は存在しないという前提を省けば、にはなるが⋯⋯。


「丁度良かった。欲しかったの」


 涼しい春風が流れる街だと言うのに、舞喜の身体は汗でびしょ濡れ。


 息も荒く、焦点の合わない瞳には、危機感や畏怖感を醸し出させた。


 血濡れたパジャマは返り血で埋め尽くされているもの。


 返り血は残虐性の表れそのものであり、非情な存在を意味していた。


 ケタケタと笑みを零す少女へとゆっくり歩き出す男は、そんな少女に対して余裕の笑みを浮かべて挑発する。


「⋯⋯何をだ?ジャーキーか?チュールか?それとも遊び用の綱とかボールか?」


「お前の命ッ!【渇望しろッ!】」


 唱えられたその文言は人類特化の悲痛な命令。


 飢えを身体の奥底から躙り寄らせる背徳の極み。


 勝利を見せ付け、争いを助長する惨劇の綴りだった。


 しかし、男は依然と変わらず⋯⋯。


 ただ歩き、目の前に迫り来る。


「っ!────なんで?」


 慌てたように一歩後退した後、背筋を伸ばした舞喜に、何かを勘付いた様子を見せる朝倉拓也は、目を細めて脚を止める。


「さて、意外と侵行が早い。間に合うか⋯⋯?」


 本来、【当て馬】は等しく当て馬として遣われるべき扱いであり、表に出てきてはならない。


 目立つ事はあっても、それは何処まで行っても、別の存在をアピールする為の道具でしかない。


 しかし、現状の舞喜は【当て馬】を────【死を司る馬(ペイルライダー)】と同化中。


 見た目こそ大した変化は無いものの、自らの意思と【死を司る馬(ペイルライダー)】の意思が溶け合っている状態である。


 それ即ち──『二人で一人』。


「お前の事をなんと呼んだらいい?【死を司る馬(ペイルライダー)】か?『桐江舞喜』か?それとも⋯⋯ペル子ちゃんとでも呼んだ方が良いか?」


「⋯⋯⋯⋯⋯馬鹿にするな。騎手《アタシ》とアタシの欲望を、絶望を、過剰なる力を持つお前には分かるまい!」


 今の『桐江舞喜』は【死を司る馬(ペイルライダー)】の状態は、本来では起こってはならない異常現象であり、想定外の出来事だった。


 朝倉拓也とは当然、今日初対面ではあったが、その異質さと鮮烈さが、身体を突き動かす。


「口調めっちゃ変わるやん⋯⋯。怖ァ〜」


 人類に対して『平等に死を齎す存在』として、あるまじき行動だった。


 等しく人を見定め、平等に終わりを与える存在。


 駆ける音は死刑宣告の音色そのもの。


 震える大地は終わりまでの制限時間《カウントダウン》。


 導く事よりも迎えさせる事を何よりも重視する『死そのもの』の筈が、少女の身体と同化した。


 否──。


 朝倉拓也は大きく舌打ちをする。


(⋯⋯⋯⋯こりゃ、アレだな。家族ぶっ殺そうとしたけど、加減してました⋯⋯は本(・)当(・)に(・)、もう嘘になっちまったな)


 瞼を閉じて考える。このまま少年の元へと『転移移動』させてしまって良いものかと⋯⋯。


 桐江舞喜が兄含めて家族に手を出した昨日の行為。


 本来ならば、家族は皆、死んでなければならない筈だった。


 それを無理矢理回避させたのは、紛れもないこの男だ。


 伝える必要性など皆無だとばかりに、『舞喜が手を抜いた。だから少年は生きている』と嘯《うそぶ》いた昨夜だが、今ではもう通用しない。


 この少女は間違いなく殺そうとしていた。


 ────否、一度殺している。


 だが、朝倉拓也は信じたかった。それを乗り越えられる可能性に縋って、抗いながらも達成する姿というものを。


 非力な者が何かを成そうとする姿は美しいと、本気で思っているからこそ、男は敢えて送り届けようと、両手を合わせた。


「お兄ちゃんが待ってるぞ。叱られてこい」


「っ!お兄ちゃんはもう死ん───」


 指を絡め、手の平を叩く。気付けば、少女は眼前から消えていた。


 迫り来る少女の姿は男の視界から居なくなり、予めセッティングしていた場所へと飛ばす。


「⋯⋯⋯⋯⋯少年、頑張れよ」


 その小さく呟く声には自信が無かった。


 少年が、再び死ぬ可能性が大いにあった。


 それでも、判っていながら、敢えて送った。


 少年の為、だけではない。それを達成した時、少年が大きく前に前進する事が出来るのでないかという可能性に賭けたかったのだ。


 それがいずれ、街だけに留まらず、世界全体の問題を解決出来る礎になると信じて──。


 朝倉拓也は来る時まで、傍観者を演じる。


 場所は大きく変わり、『象願林』の最奥。


 透明度の極めて高い湖を中心に野原が広がるその場所に、桐江舞喜は突如移動した。


「何処だ!?⋯⋯此処は?」


 唖然とする様子に辺りをキョロキョロと見渡して、一人の人物が目に留まる。


「─────え?」


 それは殺した筈の少年だった。臨んで穿った腸《はらわた》。


 鼓動を感じ、体温を覗き込み、瞼を閉じた時に、自らの意思で突き立てた手《やいば》は床に貫通させた筈だった。


 その筈が、今⋯⋯そこに佇んでいる。


「よう。随分、苦しそうだな」


「⋯⋯⋯⋯⋯なんで?」


「⋯⋯お前と話し合う為に、朝倉さんに力を貸して貰った」


「そうじゃない!なんで!⋯⋯死んで、ないの?」


 口元を手で押え込み、片目をピクピクとさせている。


 驚愕の事実だった──という訳では無い。


 明らかに即死だった。


 間違いなく、心臓《こどう》が止まっていた筈なのに、なぜ生きているのか。


 何故、酷い目に遭わせた張本人の前に堂々とそこに居るのか。


 何故、理不尽な言い訳を並べて、狂気を見せた筈なのに、恐れずコチラに向かって来ようとしているのか。


 舞喜は頭の中がグチャグチャになっていく。


(⋯⋯なんで?どうして?アタシ、ちゃんと酷い事言ったのに。滅茶苦茶にしたのに!なんで、なんで!なんでッ!!)


 少女は恐れる。少女は戦慄する。少女は嘆き、呻く。


 准が一歩、少女に近付けば、少女は一歩、准から離れようとする。


 罪の意識が込み上げた。臨んで行った筈の事だと言うのに、時間が立って冷静になっていく自分自身に青ざめた。


 手が震え、身体は寒くなる。


「お前が加減してくれていたからだろ。お陰で死なずに済んでる」


「⋯⋯そんな筈⋯⋯⋯だって、あの時、確かに⋯⋯⋯⋯」


 夢か、幻か。疑う心に掻き乱されて惑う。


「⋯⋯話を聞いて欲しい。僕の話を一度で良い。ちゃんと、伝えたいんだ」


「な、何さ、何さ!今更!今まで散々マトモに話を聞いてくれた事も無かったのに。⋯⋯命乞いのつもり!?」


 募り積もった感情──言いたかった感情も、一つ残らず行動と言動で、余す事なく昨日の内にぶつけた後。


 もはや、覚め醒めとすらしていた少女は萎縮する。


 既に殺してしまったものだと思っていた。


 既に罪を背負ったものだと認識していた。


 既に自分の諸事情さえ終わらせれば、それで済むと思っていた。


 幽霊となって文句でも言いに来たのかと、身構えて緊張で身を強ばらせる。


「命乞いじゃない。殺したいなら、仕方ないって諦める」


「なら──」


「話を全部聞いてくれたら、な?」


 静けさが舞い込んだ。前進、後退する脚が、互いに息ピッタリと停止する。


 無風の朝に漂う鼻腔を擽る草木の匂い。


 目を細めて訝しんだ舞喜は、唇を震わせた。


(話?話って何?どうして?アタシのやった事、分かってないの?!⋯⋯⋯⋯怖くないの?)


 燻る感情は滾る。殺したいという欲求。叶えたいという欲望。一つの音色は殺人教唆を鳴らして、三つの音色は黒い液体から漏れ出ようとしている。


 堪える心が本心か否か──舞喜当人では理解出来ない。


 だが、再会して顔を見て、声を聞き、吐息と瞳と様相を見れば見る程、舞喜の心には別の感情が芽生え始める。


「⋯⋯⋯⋯分かった。⋯⋯でも、アタシが一つでも気に入らなかったら⋯⋯⋯⋯殺すっ」


 最後の最後で言い淀んだ。言い淀んでしまい、少し頬を赤らめる。


「あぁ、ありがとう」


 第一フェイズ、完了。


 桐江准は、現状の桐江舞喜には歯が立たない。


 力比べをしてしまえば、あっという間に腕をへし折られて、顔の骨はプレス機で粉々になったみたいにグチャグチャとなり、内蔵はぶち撒けられてしまうのがオチ。


 人の形をしていない遺体の出来上がり一直線となる。


 だが、話し合いに持ち込み、【当て馬】と『桐江舞喜』を引き剥がすならば、桐江准でも可能だ。


 同化の原因は時間では無い。舞喜の心境、望みに引き寄せられた結果、混じり始めて同化という形を遂げたに過ぎない。


 引き剥がす事は容易ではない。一つ一つ、舞喜の抱える問題を解《ほど》いて、解《と》かして、解《かい》さなければならないのだ。


 湖の縁に座り込んだ准は、隣へ座る事を促すように地面に数度、手で軽く叩いた。


 汗は頬へ流れて、顎へと向かう。


 臆してはいる事を察せられてはいけない。


 隣へ汚れたパジャマを着た少女が座る。


 自分は『兄貴』なのだと言い聞かせた。


 隣へと座り込み、警戒心を何時までも張り巡らせる妹を『化け物』だと思い込まないように心掛けた。


 准はゆっくりと舞喜の顔を窺う。


 眉を顰めながら、右胸をグッと押さえる舞喜は体育座りで准をじーっと見つめた。


「舞喜、先に言っておく」


「?」


「⋯⋯僕は、やっぱりお前の兄貴、失格だ」


 舞喜はグッと拳が握り、准の顔色が変化していくのを見つめた。


 悲しそうに、悔しそうな顔色をした准に、目を見開いた。


(なんで?どうしてそんな顔をするの⋯⋯⋯?)


 訳が分からず、動揺する。脚の指をギュッと締めて、両腕は脚を更に強く締めた。


 痛みは治まらず、別の痛みが込み上げる。


 我儘で、夢見がちな少女は目を逸らしそうになるのを我慢して、目を凝らす。


 少年は徐ろに口を開く────。


  ━ ━ ━


 小さな頃の夏休み。陽炎が地面を強く揺らして、日射する強い光は頭を焦がすように照り、影を色濃く映す。


 少女は走った。ひたすら追い付きたくて走った。


 目の前を歩くだけの兄は何時も前を歩く。


 なのに、歩幅が違っていて、態度が違っていて、やる事為す事が少女とはまるで違った。


 酷く歪んだ家庭環境。幼い頃から誰が悪くて、誰が酷い存在かなんて察しが着いていて、兄の周りをウロウロとするのが日常茶飯事になるまで、そう時間は掛からなかった。


 気温40度越えの灼熱日。その日、幼い舞喜は転んだ。


 走って走って、追い付きたくて、最後に顎を地に打つ強打が待っていた。


 号泣して、必死に兄を呼ぶ。両手を伸ばして脚をばたつかせて、わざとらしく口を開ける。


 面倒くさそうに、鬱陶しそうにしながら振り返る兄は一瞬立ち止まって、視線を切った。


 それが本当に悲しくなって、本当に泣いた。


 アスファルトの地面。直射日光による熱は身体を焼くようになり、服は大きく汚れて、擦りむいた傷跡は言い訳では済まない。


 兄が煙たがっているのは妹は知っていた。


 それでも、両親に縋るよりも兄に縋っていたかった。


 最後の最後には必ず手を差し伸ばしてくれるから⋯⋯。


「泣くなよ。僕が母さんに叱られるだろ?」


 口は嫌味っぽく、本当に迷惑そうにしていながらも傍まで歩いて来た。


 これが妹にとって嬉しくて、その手を強く掴む。


「ぐすっ。⋯⋯⋯⋯うん!」


 擦りむいた傷は数日経てば瘡蓋《かさぶた》となり、更に数日掛ければ完治する。


 けれど、妹に怪我を負わせたとして、腕の骨をその日⋯⋯兄は母親の暴力によって折られてしまった。


 泣いてはならない。泣けば誰かが傷を負う。


 背が大きく見えた兄は、巨悪の二人に比べれば小さく弱い。


 そんな兄が初めて、その巨悪の背をした一人に反抗した時、舞喜は瞠目した。


 感心があり、羨望があった。


『勝つ』という事は屈服させる事。


 縮こまっていた兄の背は、気付けば大きくなり、見下ろす立場になっていた。


 憧れは増していき、背を追い越す事は憧れを越した事を意味する。


 そんな兄は今、弱く見えた⋯⋯⋯⋯。


「────止めてよ。なんでそんな顔するの?」


「僕が酷い奴だからだ」


「⋯⋯⋯⋯そうだよ。お兄ちゃんは酷い奴だよ!アタシのこと無視して、話もマトモに聞いてくれないっ!なのに、なんで自分が被害者みたいな面してるの!」


 被害者は自分だというスタンスを崩す事なく、准を強く責め立てる。


 強く握られた拳には、怒りがあった。


 語る度に思い返して、顔を窺う度に悲痛になる。


 理解出来ない存在では決してない事が、舞喜を苦痛にさせていく。


 一方の准は、悲壮感を滲ませていた。


 自分のしてしまったツケを清算しなければならない。


 それは良い。問題は、その負債があまりにも積み上がり過ぎていて、先が見えないという事だった。


 黒く淀んだ何かが、口元から垂れる。それは人が流してはならないものだと准は理解していて、拭ってやる事も出来ない。


 変えたのは誰か。そうさせたのは誰か。


 汚れた手に付着したその血は誰のものか。


 准は──全てを背負い込む事を決めていた。


「悔しいからだ。お前の期待も、お前の言葉も、お前の気持ちも⋯⋯何もかもから逃げていた僕自身が許せないからだ」


「⋯⋯⋯⋯⋯っ!止めて!」


 それは遅れて来た者への叱責だった。


 散々逃げ回り、置いて行った筈の者が突然戻って来た。


 あれほど、声を発して叫んでいたというのに⋯⋯。


 自分の都合だけで帰って来た事に対する文句も勿論ある。


「止めない。ちゃんと伝わるまで⋯⋯」


「何それ?」


 自分本位かつ、身勝手な物言いに苛立ちを覚える。


 それでも手を出さない。グッと言われるまでもなく堪える自身がいる事に、一切の違和感がなかった。


「────覚えてるか?」


「?」


 徐ろに語り掛けられた舞喜は顔を向ける。


 体育座りで、どちらかと言えば少女の方が疲弊しているようにも感じる歪な状況下で、准は語った。


「昔、まだお前が小学校上がり立てぐらいの頃。お前が転んだのを僕は無視した時の事だ」


「⋯⋯⋯続けて」


「あの時、僕は『泣くな』って言ったの、覚えてるか?」


「覚えてるよ」


 舞喜にとっても印象深い日だった。その要因は決して隣に座る兄によるものではないが、それでも関わりは十二分にあった。


 瞼を閉じずとも思い馳せれる。それは苦い思い出で、暑い真夏であり、まだ幼い少女だった頃。


 何もかもがまだ不鮮明で曖昧ながらも無邪気に笑えて、泣けた日だった。


 語句の一つ一つがそれを物語り、困らせる事もしばしば。


 けれど、その日を境に、それはピタリと止んだ日でもある。


「僕はあの日の事を後悔してる。⋯⋯⋯⋯今更だけど」


「⋯⋯声を掛けないで、黙々と帰った方が良かったって事?」


 手を差し伸ばす事をせず、ひたすら前進する兄の後ろ姿を想起する舞喜は、表情を歪ませる。


 だが、准はそれに対して首を横に振って否定を促す。


「違う。あの日、『泣くな』って口にした事だ。あの日からだろ?お前がちゃんと泣かなくなったの」


「アタシ、一昨日の夜も泣いてた気がするだけど」


 兄の脚にも腰にもしがみ付いて、懇願した夜の出来事。


 自分は棄てられて家族ではなくなる。分かっていながら肯定し、受け入れた。


 苦渋もあった。悩みは募り、一緒の部屋に住む兄には相談が出来ない不思議な状況下。


 諦めるように首を縦に振って受け入れたあの日、舞喜の心中では、何かが変わった。


 託す事を選択し、結局成せないと知って、今に至る。


 正しい選択をしたと間違いはないと豪語出来た筈なのに、容認はして貰えなかった。


 だから、泣いた。玄関を開けて、走って、走って、走って、気付けば全く覚えのない変哲の無い、ただの公園。


 兄を待って、待って、苦しくなって、誰も自分に興味が無いと知ると、悲しくなって蹲るだけの時間もあった。


 そして、今──兄は隣に居る。


「それは、母さんの件があったからだろ」


 舞喜の頭に触れようと手を伸ばす。けれど、ピタリと動きを止めて、すぐにその手は足元に置かれた。


 その一連の動きを見つめた舞喜は、不満そうに視線を逸らす。


 逸らして、地面に生い茂っていた草を引き抜いて、目の前にある湖に投げ捨てた。


「僕が言いたいのは、自分の事で、自分の為に泣いてないだろって話をしてるんだ」


「アタシの為だよ?」


 泣きたいから泣いた。これは間違いなく本当の事だろう。


 母親にぶたれる事を恐れて、兄に悟られる事から逃れたくて、弱さの露呈は叱責の合図だった舞喜にとって、泣く事は本来許されない。


 だが、それでも中身は何処までいっても十二歳の少女。


 危機管理能力のようなものが、身体や精神を僅かでも潤そうと少女は嘆いて、布団に包まった日々。


 それを黙認し、見て見ぬフリだけが上手くなった准は、全て見ていた。


 見ていたが、それを口にせず、逃げていただけ。


「アタシが叱られたくなくて。アタシがお母さんに殴られたくなくて。アタシが期待されていないって言われたくなくて」


「やっぱり、母さんの事ばかりじゃないか」


「⋯⋯⋯っ。だったら!?今更泣けって言うの!?」


「泣かない人生の方が良いに決まってる」


「だったら!」


「でも、お前は泣かなすぎた気もする。我慢強くなって、無駄に踏ん張る事を覚えて、努力して、見てもらいたかった筈が、見ようともしない僕と両親のせいで⋯⋯余計に我慢強くなっちまって⋯⋯⋯⋯ごめんッ!」


 向かい合って、頭を下げた。


 土下座だった。舞喜が散々母親にしていたその動きを兄がするのは初めての事。


 無防備にも等しいその動きに目を疑い、拳が握られる。


 唇が嫌に震えて、自然と目に力が入った。


 自然と身体は立ち上がり、震える唇を開けた。


「⋯⋯今更────今更過ぎる。なんで、今?なんでこのタイミング?ねぇ?なんで!」


「⋯⋯そうだな、今更だってのは分かってる。それでも言わなきゃいけないって思った。だから今言った」


 生殺与奪は誰が握っているのか。


 准はそれならばいっそ、ウチ明かそうと口にしていく。


 言葉にするのが遅過ぎた。行動で示すのがノロすぎた。


 逃げて逃げ続けてしまっていた少年は、それを全て分かった上で、頭を下げる。


「⋯⋯⋯⋯」


「お兄ちゃん⋯⋯言ったよね?アタシが、家族皆の輪の中にアタシも居て。それで、お兄ちゃんは⋯⋯おんぶに抱っこか、いいご身分だな、って」


 准が想定していた以上に静かな声色が流れ込む。


 舞喜が想像していた以上に穏やかな声色を発した。


 自分の思っている以上に冷静だった。


 自分が望んでいた展開と大きく違っている現状に、何処か落ち着いて腰を置ける事に、不快感と満足感が入り乱れる。


「言った」


「アタシね、何も出来ないって知ってるから」


 改めて座り込んだ舞喜は体育座りで湖を眺める。


 映り込む自分の顔色は何処にでもいる普通の少女。


 なのに環境だけは、卑劣さの限り尽くされた地獄だった。


「知ってるけど、見て欲しかった。アタシが頑張るところ。アタシがちゃんと褒めて貰えて、それを切っ掛けに皆が仲良く⋯⋯出来るかもって、そう信じてた。でも、お兄ちゃんはそれを一蹴したよね?」


 姿勢をそのままに頭を上げた准は舞喜の様子を窺う。


 憐憫を向けられていた。黒い瞳は、刃のように准の身体をザクザクと刺すように眼光は鋭かった。


「あぁ」


 力無ない声色を漏らす。語勢など、准には初めから消え去っており、覇気と呼べるものは深く沈んでいた。


 叶うはずがないと、大して考えずに投げた。


 今更そんな事して何になる、そう口端々に言葉を掛けて自分は真っ先に逃亡。


 父親は初めから居ないも同然。母親は加虐性の極みに満ちて背後にピッタリと居座り続ける。


 兄はそんな状況下に立たされていた妹の眼前から一人黙々と逃げたのだ。


「アタシ、どうしたら良かったの?頑張らなきゃ良かったの?逃げたら良かったの?もっと叫んだら良かったの?縋ったら良かったの?怖がったら良かったの?ねぇ?⋯⋯どうしたら良かったの?」


「お前は変わらなくて良かった。変わらなきゃならなかったのは、僕達の方だ」


 准の言葉はある種の慰めや、哀れみのように聞こえた舞喜は口を引き結びながら、強く睨んだ。


 鋭く走る威圧感に、訴え掛けられたように、俯いた准は少し息を吐いて呼吸を整える。


 聞きたいのは正しい選択。情けや哀れみは無用だった。


 それを言葉にせずとも感じ取った准は俯いた顔を正面に向けて舞喜の顔を見上げる。


「⋯⋯強いて言うなら⋯⋯信じ過ぎたんだ。僕達を」


「家族を信じるなって?⋯⋯そういう事?」


「あぁ。僕達に期待を寄せ過ぎたんだ」


 駄目な家族に寄り添い過ぎた。故に寄り添った側も歪んでいき、おかしくなった。


 誰よりも家族に対して意識を向けて、自己犠牲にも等しい形で、兄と母親の関係を修復しようとした少女。


 結果として、解答を間違えて。選択を間違えて。


 今、ここに居る。


「僕達はおかしかった。間違いなくおかしくて、それに気付いてたお前もそれを見て見ぬフリをして、結局こうなった」


「見て見ぬフリ?」


「間違ってるか?」


「間違って⋯⋯⋯⋯ない」


 間違った家族を見続けて、おかしくなった家族の歪みを一身に受けて。────憧れてしまった。


 最もマトモで、最も清潔だった筈の少女は、最も歪んでいる。


 話す機会は多くあり、対話する時間は満ち溢れていた。


 だが、間違ってしまった。家族の在り方に正しさなんてものは存在しない。


 しかし、間違った家族の在り方というものは、きっとあった。


 舞喜はそれを見た上で、『コレがアタシの家族』と言い聞かせて逃げてしまった。


 中途半端に憧れて。中途半端に夢を見て。中途半端に絵空事を並べ立てた。


「お前は暴力さえ可能なら勝った気がしてるんだろうけど、それは間違った指針だ」


「間違ってるの?アタシが?!」


「⋯⋯⋯⋯」


 耳を劈く怒号が叫ばれた。瞼を閉じて、まだ十二歳の少女の言葉に胸を痛める。


(コレが僕の罪。僕は当たり前に過ごしていた事のツケだ)


 肩に手を置かれて、揺するように前後に身体が動く。


 少しずつ爪が皮膚に食い込む。呼び掛けるように何度も、何度も、何度も、准は舞喜に呼ばれる。


「────ねぇ!」


「間違ってるに決まってるだろッ!」


「示したのは⋯⋯っ!お兄ちゃんじゃん!」


 瞼を開けて、強く舞喜を睨んだ。


 掴んでいた肩から手が離れて、弱々しい声色で呟く。


 間違ってしまった指針《かぞく》を道標に、歩き進んでしまった舞喜は、無邪気に笑う。


 正しいと信じて、恐れるのは道そのものではなく指針そのもの。


 なのに、その道しかないと諦めて、一人黙々と歩いた。


 その結果──身体は酷く血に濡れて、手は赤い液体を滴らせて、嗤う存在になってしまった。


 あってはならない光景。本来起きてはならない物事。


 それを招いたツケを払わなければならないと、准は拳を強く握り締めて意気込む。


「そうだ。僕が示しちまったんだ。だから、間違ってる僕が間違ってるって言ってるんだよ!」


 哀しそうに唇を噛む。瞼は自然と閉じていき、俯いた。


 その様子をしっかりと見つめた准は、それでも訴え掛けた。


「母さんの腹かっ捌いて、父さんの顔をグチャグチャにして、僕の事を殺そうとして、それがお前の言う『勝利』って奴なのか?そんなの強さじゃない!」


「⋯⋯⋯⋯」


「お前は言ったな、感激した、激励したいって思った。誰かを従わせるのは結局力で捩じ伏せるのが早いんだ。たしか、お前そう言ったな?」


 語気が強まっていく。舞喜の一挙手一投足を見逃さないように目を見開いた准は、舞喜の肩を強く掴む。


 ビクッと身体が震えて、その手を払い除けようと舞喜も掴み返す。


 だが、その手が温かく。逆に血で汚れた自分の手が冷たく感じてしまい、力は徐々に弱まった。


「ハッキリ言ってやる。誰かを従わせるのに、力だけなんて言うのは嘘だ。お前に友人が居るように、僕にも友人が居るように、誰かと付き添うなんかに暴力性なんて要らない。僕には分かる。今のお前は、歪んだ見方でしかものを見れていない」


「⋯⋯馬鹿にしてるの?」


「馬鹿にしてるさ!だってそうだろ?!力だけ頼るなんてすぐガタが来るに決まってる。お前、本当は分かってるから、僕を生かしたんじゃないのか?」


 准の言葉に、舞喜はピクリと反応した。


 一種のすれ違いだった。事実確認もなく、憶測や言伝にも似たものを鵜呑みにした准の言葉に舞喜は視線を逸らす。


「⋯⋯⋯アタシは、お兄ちゃんを殺そうとした。お父さんもお母さんも皆」


「⋯⋯⋯⋯⋯でも、僕は生きてる」


「っ!だから!殺したんだよッ!アタシの手で!ちゃんと!心臓の音だって確認したの!なのに⋯⋯なんで?」


 腹を貫いて、心肺の音を確認した舞喜は、安堵したようにリビングから立ち去る。


 それが、兄を殺した妹が行った最初の行動だった。


 殺意は明確で、意思もあった。間違いに間違いを重ねた少女は、本来兄の顔を二度見る筈が無いのだろうと、そう心に刻み込んでいた。


 だが、現実問題として兄は眼前に居て、肩を掴まれている。


 一方の准も訝しんだ。


(⋯⋯どういう事だ?朝倉さんから言われたのは、手加減してたって⋯⋯)


 朝倉拓也から聞かされていた内容と、手に掛けた張本人との主張に、食い違いが起きている。


(⋯⋯⋯⋯⋯それでも、結局は生きてるんだ。構うものか)


 問題は桐江舞喜の現状からの救出。自身の事を議題にしている余裕は、准には無かった。


「⋯⋯⋯⋯僕はそれでも生きてる。それが全てだろ?違うか?」


「⋯⋯⋯っ。でも、お兄ちゃんだけ生きてたって⋯⋯」


「母さんも父さんも生きてる」


「えっ?────そんな、そんな筈⋯⋯?!」


 驚きで目を見開いた。言い淀んだ舞喜は酷く狼狽したようにキョロキョロと視線を泳がせる。


(どういう事なの?なんで?なんで?なんで?だって⋯⋯)


 脳を強く踏み潰す勢いで、父親を蹴った。


 腸を引き摺り出して、母親を嘲笑った。


 呼吸をしているのか、心臓が動いているのか。


 そういった生命確認を両親に対して取った覚えはない。


 それもそのはず⋯⋯。


 どう考えても、どう見ても。死んでいると確信したからだ。


 父親はまだ生存の可能性があったかもしれないが、母親に関しては十中八九、死んでなければおかしい程の致命傷だった。


 致死量にも至った血液の噴出。


 痙攣は身体を激しく揺らして、投げ捨てた時には声も鳴らず。


 それから更に時間が経過した事により、死を確信していたのだ。


(間違いなく死んでなきゃ⋯⋯でも、なんで?え?!⋯⋯え?)


 困惑は一途を辿る。喉を鳴らし、准の手を擦った。


 幽霊ではない。間違いなく生きている。温かさがあり、感触もしっかりとしている。


 それに安堵する自分に、困惑した舞喜は不可解さに陥った。


「ちゃんと生きてる。元気に夜逃げしちまったけど」


「⋯⋯ハハ、そうか、そうなんだ⋯⋯。やっぱり逃げたんだ」


 乾いた笑いが出た。想像も出来てしまい、想起するまで早かった。


 どんな風に自宅を去ったのかも、どんな顔色と顔付きで出て行ったのか、舞喜には手に取るように理解してしまう。


「キャリーバッグとボストンバッグを二つ持って二人共、僕を殴ってとっとと行っちまったよ」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 不意に准の顔を窺う──窺ってしまった。


 不思議な感覚が胸を渦巻く。心臓がやたらと早く鳴り、頬に向けて手を伸ばそうとして、止めた。


(心配した?アタシが?今更⋯⋯?)


 自身を嫌悪した。舞喜のチグハグとした言動と行動は、胸中を騒めかせて、芯がブレていく。


「母さんに会いたいか?」


「なんで?」


「僕だけ生きてても無駄なんだろ?」


「そんな事───っ。なんでもない」


 傍から見れば、意地悪な質問だったろう。准もそれを自覚した上で口にした。


 感情を犇めき合わせる表情を確かに確認した准は、少し安堵の表情を浮かべて、ようやく眼前に居る舞喜の頭に向けて手を差し伸ばす。


「母さんの期待に応えるのは、辛かったか?」


 優しく撫でた。血と汗に塗れた髪。けれど、普段撫でるなんて事をしない准には、違いは分からない。


 舞喜は気恥しそうに視線を逸らす。けれど、抵抗はしなかった。


「⋯⋯当たり前じゃん。でも、応えるしかなかったじゃん!」


「僕のせいだな」


「そうだよ!アタシはお兄ちゃんの代わりに応える羽目になったんじゃん!」


「⋯⋯そうだ。僕のせいで、お前にお鉢が回ってきた」


「だったらさ!なんで⋯⋯なんで、何も言わなかったの!」


 潤んだ瞳は真っ直ぐに准を見る。


 瞳の奥底にある悲痛な感情は、准の心に突き刺さる。


 母親に興味を持たれる事がどういった事になるのか、先行していた准の背中を見ていたからこそ、理解していた。


 けれど、家庭という箱庭には逃げ場なく、言い訳にも等しい必要性を手探りで求めながら頷かざるを得なかった。


「アタシにお母さんの興味が向く事、分かってたよね!ねぇ!」


「あぁ、だろうなってすぐに察しが付いてたよ」


 分かった上で役を降りた准は、引き継ぎなんてものを一切せずに舞台から去ったようなもの。


 その後釜からすれば、最悪のコンディションからの始まりに変わりない。


「お前、母さんの視線が向いて、あれやれこれやれって初めて言われた時、苦しそうな顔してたよな」


「やっぱり、見てたんだ。⋯⋯⋯⋯なのに、なんで」


「僕も逃げたかったからだ。僕は食事も欲しい物も頑張り次第で一杯貰える自由よりも。大して興味も湧かれないし、欲しい物は手に入らない、そんな明確な不自由さを選んだ」


 お食事会があれば、豪華な晩飯にありつける。


 テストの点数、成績表の評価によって欲しい物もお小遣いも貰えた。


 母親の態度も柔和であり、緩和される。


 実力主義の極みのようなものだった。


 准は、そんな状況から逃げたのだ。


 父親の浮気。それに対する母親の態度や行動が気に入らなかったというのも当然ある。


 けれど、それを言い訳にして、これまでの環境から一変したかったという気持ちを優先しただけの事だった。


「それは結果的に正しいって、今でも思える」


「アタシの話、聞いてた?どうして⋯⋯どうしてそんな事、アタシの前で──」


 撫でていた兄の手を払い、一歩、後退する。


 固まったように准の手は浮いたまま、拳を作った。


 その拳を下ろして、舞喜へ向けて優しく微笑む。


「お前はなんで逃げなかったんだ?」


「アタシは最初、期待に応えれば家族全員仲良くなれるって信じてた。でも、お兄ちゃんがあのままだと何時かまた、酷い目に遭うって思って⋯⋯だから──」


「僕に対して母さんを謝罪させる?」


「⋯⋯知ってたんだ」


 嬉しそうに口元を緩ませた舞喜に、准は僅かに目を細める。


「まぁな⋯⋯。でもな、そんなの間違ってる」


「⋯⋯なんで、否定するの?なんでそんな事⋯⋯っ!」


 動揺する舞喜に対して、詰め寄るように脚を動かす。


 言いたい言葉が多くあった。


 けれど、その殆どは──。


 舞喜の窪んだ目元。窶れた頬。ボサボサの髪。血濡れた衣服を見て、何処かへ飛んで行ってしまった。


 だが、絶対に言っておかなければならない言葉だけは、明確に覚えている。


「もっと、自分の為に頑張れば良かったんだ。もっと、自分を好きになれるように母さんを使えば良かったんだ。なんで、お前は⋯⋯」


 穏やかに、何処か冷静にも見えれば冷淡にも思える語気で、言葉にした。


「好きにしたよ!アタシのやれる事、やりたい事⋯⋯」


「本当にそうか?本当に自分のしたい事だって、胸を張れるのか?謝罪する母さんを見た僕が、お前に対して感謝するとでも?」


「⋯⋯⋯⋯⋯だって。だって!アタシには────」


 全身に力が籠る。語れば語る程に感情と思考を掻き回されていく舞喜の胸中は穏やかではなかった。


 自身が劣っている自覚はあって、蔑まれている自覚もある。


 悔しさを感じるのは常日頃であり、虚しさをペンに走らせて、誤魔化す毎日。


 溜め込んだものが吐き出されていく。


「アタシにはっ!⋯⋯うぅ、それしかなかったの!分かってる?!アタシは何も無かったの!アタシは期待もされてなくて、期待される事がどんなに羨ましい事か。お兄ちゃんちゃんと分かってるの!?」


「⋯⋯期待される相手が正しいとは限らないだろ?」


 母親に期待される事が決して良い事ばかりではない。


 少なくても実体験として准は、母親からの期待から逃れた側の人間だ。


 だが──准というある種、分かりやすい少年の背中を見てきた舞喜だって、分かっている。


 ────期待は、その気になれば、誰にだってしても良い。


「アタシはお兄ちゃんに期待されたかったのッ!!」


「えっ?」


 素っ頓狂な声が鳴る。顔を歪ませて、叫んだ言葉の意図を理解しようとした。


 妹が兄の背中を追い掛ける姿を、間近で見た試しはない。


 振り返るのは悲痛な呻きや叫び声を上げた時のみ。


 だから、気付けなかった。舞喜が准に対して、期待を寄せていた事に⋯⋯。


「お母さんに褒められるのも嬉しいと思うよ?!でも、でもね⋯⋯アタシはお兄ちゃんに期待されたかった。一番身近に居る人に期待されないなんて、死んだのと一緒なんだよォ!!」


 悲痛に慟哭の叫びを上げた舞喜は、思いの丈を告げる。


 准は冗談か嘘偽りの類いだと疑った。


 けれど、表情が、声色が、思いが嫌でも伝わって胸を痛める。


「ねぇ!分かってる!何時も何時も、見てるフリをして見られない気持ち、考えた事ある?ねぇ!⋯⋯ねぇ!!」


「済まなかった」


 それしか准には言えなかった。


 見過ごしていた真実に対して、それだけが、准の言える言葉であり、動揺がそれ以外を許さなかった。


 情緒を激しく揺らす。憎みもあり、妬みもある。


 けれど、最も先にあったのは、憧れだった。


「ホントに今更。本当に⋯⋯今更」


「今更なのは分かってる。今更でどの面下げてなのも勿論知ってる。身に染みてる」


「⋯⋯⋯うぅ、なんで、なんで、こんな人がお兄ちゃんだったんだろ。なんで、妹なんだろ!他人だったら、親戚だったら⋯⋯⋯⋯」


 嘆き苦しむ。嘆いて、ひたすら『もしも』の話を口にする。


 それは過去に対する冒涜だった。空へ向かって唾を吐くように、自身のコレまでを否定する言葉だった。


 准はそんな行いを許さない。許してはならないと、心中が滅茶苦茶の中、呟く。


「それでもきっと、お前の事を見てないよ」


「⋯⋯⋯最低」


 引き攣った笑みを浮かべた。苦笑いなんて生易しい程の醜いその表現は、喜びと同時に悲痛を物語る。


 伝えたい言葉は何時も何処かで遮ってしまい、不必要と感じてしまえる感情は伝わってしまう。


 それが兄妹だからなのか、背を見続けた結果なのか。


 准の優しさは、嫌なぐらいに心へ流れ込み、浸透する。


「お前が居なくなって。一人の部屋になって。それでようやく気付いたんだ。お前の兄貴で居たいなって、そう思ったんだ」


「それこそ、本当に今更だよ!自分勝手が過ぎる!」


 目が見開かれる。慌てた様子になっていき、頭を抱えた。


(違う。そんな事が言いたかったんじゃないのに!⋯⋯どうしてっ!)


 脳が痺れる。身体に力が入っていく。高揚感が溢れ出す。


 強張る筋肉は金縛りにでもあったようで、ピクリとも動けなくなっていく。


 腹部から込み上げる何か。喉を掻き毟りたくなる程の熱は口内に溢れ出して、バレないように呑み込む。


「⋯⋯あぁ。だから、勝手にそう思うだけだ」


「駄目!それは嫌!」


 口早に言葉に出た。出したい言葉が口から告げられた事に心中は歓喜に包まれるも、それを表に出す素振りは見せないように心掛けながら、続きを述べていく。


 伝えたい言葉を。伝えなければならない言葉を。


「アタシは⋯⋯アタシは、うん。アタシはお兄ちゃんが⋯⋯お兄ちゃんでいて欲しい、かも」


「⋯⋯」


 一度手を下したのは間違いなくて、それは取り消せない。


 明確に殺意を持って殺した相手の傍に居たいと望むのは、お門違いも甚だしい限りだ。


 舞喜の望みは『一家団欒《いっかしんじゅう》』にある。


 その為に家族を殺し、自分の生きても良いという証明が成せれば、自身もその身を捨てるつもりだった。


 だが、その気は徐々に、ゆっくりと、着実に薄れ始めていた。


「ごめんな。僕なんかが兄貴で」


 それは家出したあの日の言葉の続きのようにも感じた舞喜は、口元を隠すように手で押さえた。


「ごめんな。ちゃんと気付いてやれなくて」


 見ていた気になっていただけの愚か者は、そう言葉にしていく。


 自身がどれ程、愚かで未熟で情けない存在なのかを⋯⋯、一つ一つ丁寧に。


「ごめんな。お前の事、ちゃんと見ようとしていなくて」


 舞喜は大きく首を横に振る。


 それは一種の禊ぎのようなものに近かった。


 今度こそ、ちゃんと少女の兄である為に、自身が課した告げるべき項目を、しっかりと舞喜の耳に伝えていく。


「ごめんな。父さんと母さん、謝らせられなくて。ごめんな。僕がお前の残った家族で、ごめん、ごめん」


「止めてよ。止めてよ⋯⋯⋯⋯」


 後悔と償いだけが残った兄妹には、これから先、地獄が待ち構えている。


 それでも手放さないようにしっかりと見つめた。


 准はあの日、確かに舞喜が口にした一言が、何時までも脳にこびり付いていた。


 僅か十二歳の女の子が口にするには、余りにも重く残酷な言葉。


 それを言わせてしまった時点で、置かれている環境は地獄であると明白であり、確定にも近い。


 だから、桐江准は普通では無い少女に向けて、謝罪する。


「ごめんな。生まれてこなければ良かった、なんて言わせて、本当にごめん」


 あの日、その言葉を言われた時点で、桐江准は真に兄貴という立場を追いやられた。


 あの日、腹を突き刺された痛み以上に、その言葉が何よりも強く衝撃を受けてしまい、喉が締め付けられた。


 あの日、やってしまった事の大きさを明確に体感してしまい、自らを省みた。


 滑稽であり、愚かであり、正しく傍観者だった少年は、正しく屑だったろう。


 謝罪したからといって、その傷は塞がらなければ、傷付けた側の傷も、早々元通りになるものでもない。


「僕がお兄ちゃんだったせいで、お前にそんな事を言わせちまった。僕のせいだ。ごめん」


「なんで⋯⋯。だって、だって⋯⋯」


 自身の中にある理想像が欠片ごとに崩れ始める音がする。


 爛酔は冷め始めた。


 掲げられた『勝利』の意味を改める。


 必罰は傾き始めた。


 求めるべき『争い』に翳りが見える。


 滾沸は収まり始めた。


 絶える事のない筈の『飢餓』は満たされる。


 嘱望は霞み始めた。


 探していた『死』までの道は塞がれる。


 三(・)分割されていく。離れるように別れていき、流されるように漂い意味を求める事や、その必然性にも感じた使命感は和らぎを覚えた。


「僕はお前に生きてて欲しいんだ。死ぬなんて、頼むから言わないでくれ。僕は舞喜の生きてる世の中があって欲しい」


「⋯⋯⋯⋯」


 何かが、小骨が喉に突き刺さったような感覚に襲われる。


 違和感は小さなものから始まり、意識する度に肥大化を続けた。


 そして、それを察する様子もない准は、舞喜へと本心を打ち明かす。


「母さんも父さんも忘れろ、なんて言わない。僕の事も憎んでて良い。殺されてもいい。だから、やりたい事は目一杯やって、全力でやって、生きててくれ。頼む」


「でもアタシ⋯⋯」


「ちゃんと責任は取るから。お前の重荷を幾らか分けてくれ。好きな分分けてくれ。出来なかった⋯⋯ううん、違うか。しなかった分だけ、背負わせてくれ」


 覚悟はあって、努力もすると心に誓った。


 後は、准が伸ばした右手を取るだけ。


「良いのかな?⋯⋯アタシ、生(・)き(・)て(・)て(・)良いの?アタシね、生きてても良いのかな?」


「⋯⋯あぁ。勿論だ」


 意識が無理矢理引き剥がされ始める。


(───あ)


 舞喜は察してしまう。このままでは何かが終わる事に。


 意識は長くて薄いゴムのようなもの。引っ張り続ければ、やがては千切れてしまう。


 今、その意識はほんの少しだけ、端から千切れ掛けるのを感じた。


 准の右手に乗せるように、ゆっくりと舞喜の左手が伸びていたというのに、急な方向転換を始めて、自身の胸元に手を向かわせる。


「舞喜、どうした?」


 異変は目の前に居る准にも伝わった。


 明らかに様子が変わった。口元からは黒い液体が垂れ始めて、苦しそうに胸を押えている。


 発汗が更に酷くなり、目を開けてられない様子だった。


「だ、大丈夫⋯⋯だ、から」


 全身に亀裂が走る。瞳は黒色から剥がれ落ちるように白銀に染まり、その異様な様子は空気を一変させていく。


「お兄ちゃ───うぐっ!ァァ!」


 痛む心臓を押さえる動作を取り止めて、眼前に居る兄の方へと手を向かわせて縋ろうとする。


「舞喜?!」


 准もそれに合わせて伸ばそうとした──。


 だが、間に合わなかった。


 大地を大きく揺らす震動が身体の自由を奪う。


 直後、准の身体は猛スピードで突っ込んで来たトラックに轢かれたような勢いで、後方に吹き飛ばされた。


 呼吸は遮られ、視界は暗転し、身体の骨は瞬時に砕け散る。


 内蔵を貫通し、皮膚を突き破り、骨が露出したと共に、30メートル先に聳える木々に強く叩き付けられてしまう。


「アァァァァ!⋯⋯⋯⋯お兄ち───」


 舞喜の意識はピタリと途切れた。


 テレビの電源を切られたように黒く染まり、鎮まった。


 あれほど上げていた慟哭も瞬時に止んで、これで安心──。


 と、なる筈がなかった。


 身体から黒い液体が漏れ出る。


 トロミのあるその泥にも似たそれは、湖に溶け込み始めて、草木を腐らせた。


 中心に居る舞喜は、その黒い泥の中に沈んで行ってしまう。


「うぅ、ま⋯⋯舞喜ぃぃ⋯⋯」


 掠れた声に、歪む視界はボヤけて輪郭が定まらない。


 何故、まだ生きてられるのか不思議でならない状態の中、准は立ち上がろうとする。


 ボギギギィッ!と複数の骨が、更に折れてしまい、力なく倒れた。


 感覚が無くなった。それに気付いたのは、地面を黒く汚す泥から、何かが出てきた時である。


 それは天を貫く程に疾走した。


 鳴り響くは、馬の豪快な足音。貫くは人類の行く末。


【勝利を司る馬(ホワイトライダー)】は黒く淀んだ泥の中から駆け上がる。


【争いを司る馬(レッドライダー)】は黒く淀んだ泥の中から這い上がる。


【飢餓を司る馬(ブラックライダー)】は黒く淀んだ泥の中から舞い上がる。


 晴天は沈んだ。曇天を大きく広げて、空を衝く稲妻が迸る。


 蹄の音色は高らかに。金切り音は盛大に、馬の口元から鳴らされると同時に、風が激しく荒ぶった。


 木々は跳ね除けられていき、雲を引き裂く轟音は、勝利を謳った凱旋と化す。


 焼け落ちる大地は広大に伸びていき、街を追い越し海を走る光景は、争い渦巻く境界線。


 草木は枯れていき、暗雲を立ち込めるその空気は、正しく飢餓の最高潮。


 そして──黒い泥の中に埋もれながらも白銀に光る二つの淡い輝きは、鈍化する事なく、世界を見つめる。


 その視線は准の方向へと向き、照準を定めるように、白と赤と黒の馬は睨み付けた。


 ただし、准にではなく、その隣に立っていた朝倉拓也に、ではあるが⋯⋯。


「⋯⋯⋯⋯まぁ、及第点か。ほれ、起きろ少年。妹さんが馬鹿で薄情な馬と、今世宜しく来世永劫まで連れ攫われるぞ?」


「うぅ、ぁぁ。⋯⋯⋯あれ?なんで?」


 傷が治っていた。


 否、初めから痛みが発生してしまうような出来事が無かったのではないかというぐらいに、元通りに戻っていた。


 隣へ、いつの間にか立っていた朝倉拓也の顔を視認すると、申し訳の立たない顔をした准は、ゆっくりと立ち上がる。


「悪い。失敗した」


「上空から眺めてたから知ってる。このまま手を取っちまえ〜って、ハンカチ必須もんのエール送ってたんだけどなぁ」


「⋯⋯⋯⋯マジで持ってんじゃねぇか!」


 紺色のハンカチを一枚、右手首の関節を利かせながら振り回している朝倉拓也はこれ見よがしといった様子であった。


 バレちった!とばかりに舌を小さく出しながら、ポケットにしまい込み、上空から見下ろす馬三匹を一瞥する。


「少年」


「⋯⋯なんだよ?」


「妹さん、助けたいか?」


 考える暇など要らなかった。即断即決の流れを見せるように准は頷く。


「そっか。フッ、ならやる事は一つだ」


 不敵に微笑む朝倉拓也は再度、三頭の馬へと視線を送る。


 一瞬、白く瞳が光った。


 荒々しく吹き乱れ、夜闇を禍々しく照らす炎が盛り立ち、汚臭と淀んだ空気を醸し出す馬三頭は、途端に地面に向かって叩かれてしまう。


 急激かつ唐突な衝撃が地面を強く抉り、大き縦穴を形成し、その中に落ちていく。


 悲鳴と呻きは落ちた直後に鳴り響いた。


「お前は、あの泥に入れ。一応侵入可、だからな」


「⋯⋯⋯いや、入ってどうしろと⋯⋯。ううん、分かった」


 何か策があるのではないか。そう信じて、疑問を疑問のままにした准の首を横に振られた。


 それを見届けるように頷いた朝倉拓也は背を強く叩く。


「よし!行ってこい!」


 准の背中が僅かに銀色の光り出し、身体の内側に流れ込む。


 それに気付く事なく、雄叫びという名の鼓舞を自ら掻き鳴らしながら、ガムシャラに走り出す。


 ひたすらに真っ直ぐ。ただ真っ直ぐ、黒く沈みきった泥の中へと向かって、脚は動いた。


「舞喜ーーーーー!」


 走り幅跳びのように助走は満足に活きたまま、水泳の飛び込みのように泥の中に侵入した准の姿は、朝倉拓也からは見えなくなる。


 それを機に、朝倉拓也も視線を変えて、駆け上がる馬三頭へと目をやった。


「馬刺しになりたい奴から順に来い。来ないなら、勝手にコッチから解体してやんよ」


 嘲笑混じりにニヤリと笑う。


 人の感情に疎い神々の遣い達。そしてその模造品たる馬三頭でも理解出来る事があった。


 男は馬鹿にしている⋯⋯と。


 高らかな号哭を上げて、駆け出す。確実に殺す為、明確な殺意を持って、朝倉拓也へ向かって行く。


『大洲藍莉は語りたい』の際に出てきた台詞を流用している箇所があり、違いもありますが仕様です。


あれは所詮夢でコッチが本来起きた事です。



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