その少女の涙
大きく飛退する身体は、黒い馬から齎される攻撃を回避する。
色素が抜けたような濁った白い眼。萎れたように黒毛は風に靡かれず、天秤の鎖を胴体に巻き付けた【飢餓を司る馬】は高く雄叫びを上げて、空を翔た。
鋭く尖った鬣《 たてがみ》は炎を想起させる。黄金の視線を瞬く間に向けて、剣のアミュレットが埋め込まれた胴体を持つ【争いを司る馬】朝倉拓也へ向けて急接近。
漆黒の瞳は全てを見通す。赤と黒と白を基調とした旗を首元に巻かれた【勝利を司る馬】美しく艶のある毛並みは空を切らせて、勝利へ導く雄叫びを鳴いた。
人知を超えた速度が『空弩街』の上空に瞬いた。
黒の雷光が、漣のように緩やかな音と共に齎される。
猛々しい炎の流星が、地面に衝撃を加えながら疾走する。
流麗の長い糸のような竜巻は、木々を分かちながら前脚を上げる。
「⋯⋯丁度いい。お前らは見世物だ!」
白き馬が発生させた暴風を掻い潜り、上げられた前脚による攻撃をスライディングで回避。
土飛沫を舞い上がらせながら、後脚を掴み、軸とする。
そして、体重を支えていた後脚へ膝を入れ込み、体勢を崩させると、踵で倒れた白い馬へと追撃した。
グラウンドを綺麗に整えるトンボのように胴体をガリガリと地面に滑らせる。
白き馬の腹部は木々を薙ぎ倒す道具。毛並みは汚れ、巻かれた特徴的な旗は破れ始めた。
「オマケッ!───ん!」
上空に『転移移動』し、追撃を叩き込もうとした朝倉拓也は、すぐ左方向から迫る黒い靄の塊が空気砲のように飛んで来た事により、攻撃を中断。
大きく身体を反らして回避──だが、腕はその黒い靄の塊に触れてしまう。
痛みはない。魔力で身体を守るようにしているからだ。
だが、『黒い靄』はそれすら容易に貫通する。
違和感は一瞬で身体に現れた。
「っ!?腕が腐って来てる。腐食か⋯⋯」
黒いジャケットは無傷ながら、触れてしまった右腕は肉が溶け始め、骨が露見していく。
黒い斑点が腕を埋め尽くし、全身に回り始めるように肩へと侵食を始めた。
「なるほど、伊達に『人類特攻』を名乗ってないな。呪いは効かなくても、腐る効果は別途って事か⋯⋯。いいねぇ」
燃え盛る鬣が炎を醸し出す。上空を点々と燃やすようにも見えるその光景は赤い馬の象徴的な轍であった。
馬はひたすらに朝倉拓也に向けて『渇望』を齎せようと促すも、依然効果なし。
その為、行動パターンを大きく変えた。
本物の【ヨハネの四騎士】には『騎手』が馬に乗って居なければならない。
だが、【当て馬】は模造品であり、何処までいっても欠陥品。
騎手なき馬の取れる攻撃手段は限られる。
朝倉拓也を囲むように炎が発生した。揺らめく炎は上空に漂いながらも、風によって吹き飛ばされる訳でもなく、ひたすらに上昇して舞い上がる。
色濃く鮮やかな赤き炎は、影を鮮明に映す。
朝倉拓也の周囲に巻き上がる炎の中を駆ける黒い影。
白い馬は地べたを這いずり、黒い馬は上空から黒い靄を放とうと力む。
瞼を閉じた。目視で確認して防御体勢を取るよりも、感覚だよりに任せる事を選んだ朝倉拓也は、グズグズになった右腕に左手を当てながら研ぎ澄ませた。
白い馬の汚れた旗は神々しく発光し始める。
周囲を照らし、朝日が嫌に奥地を照らす林は包み込まれた。
炎の中を移動する影の速度が急激に加速する。
炎は更に猛けて、地上に生えた木々は熱に溶かされていく。
地面はマグマの海と化そうとしており、熱風に辺りは支配された。
空気は更に汚臭を漂わせ、鼻腔から通る臭い一つで身体を毒されそうな程であった。
────赤い光が朝倉拓也の肩を掠める。
────背中に小さな衝撃が走りだす。
────頭部から血が流れ出した。
たった一頭による高速移動は焦らすように直撃は避けて、機会を窺った。
男と直接渡り合える術は持っていない。それは三頭共に理解している事。
だからこそ、搦め手も含めてを使った。
白い馬による勝利への喝采。黒い馬による腕の使用不可に伴う身体を侵す靄。
そして、赤い馬による争いの渇望は加速を促した。
衝撃を膨らまし、勢いを留める事を忘れて、たった一人の人間を確実に殺す為の一撃を身をもってぶつけようとする。
黄金の眼は線を描く。四方八方、囲んだ炎の中を縦横無尽に駆け回る。
炎が力を分け与えるように赤い馬の胴体は燃え盛り、真紅に彩られた。
────そして、肉薄した。
「終わりだ」
ドンッッ!と鈍く、そして重い轟音が鳴り響く。
白い馬は目を凝らし、黒い馬は嘆声の呻きを上げる。
赤い馬が朝倉拓也に接近する僅かの間に身体を反らし、勢いよく深紅の線を走らせながら突撃する馬の顔面に蹴りを叩き込んだ。
完全なるカウンター。ジャストミートも良いとこであり、やり過ぎな程だった。
蹴ると決めていた脚に魔力を溜め込み、一撃必殺へと昇華したその回し蹴りは──。
【争いを司る馬】の頭部を塵一つ残さず、吹き飛ばす結果となった。
残った胴体は死んだ事に気付かないまま、四足の脚を無造作に動かし続けていくものの、その勢いは死んでいく。
最後には、ゼンマイが止まるように足は動かなくなった。
「⋯⋯⋯⋯次」
倒れた白い馬の眼前に瞬時に移動した朝倉拓也は、右手を前に向けて、掌に魔力を込める。
『?!』
ドリル重機で地面を削るような連鎖的に轟く音が周囲に居る者達の耳を塞がせた。
地面は大きく抉れて、巨大な轍を残し、馬の後方にあった木々を巻き込んだ形で、【勝利を司る馬】を消し飛ばす。
煙る大地に存在は見えず、慄く素振りを見せる黒い馬は動く事をしない。
見上げる男の視線が馬を萎縮させた。
濁った白い眼。震える口元は慟哭を鳴こうと開く。
直後、下顎に衝撃が走る。馬の涎が上空に飛び散る。
強烈な痛みに思わず瞼を閉じてしまう。
首に腕を巻き付けて、馬の背に乗る朝倉拓也は、首を強く締め付けた。
文字通りの暴れ馬と化した黒き馬は辺りを縦横無尽に駆け回る。
長い舌を出して、胴体から腐食の靄が強く噴き出された。
黒く埋め尽くされた視界の中、朝倉拓也は依然力を緩めず首を締める。
馬は疑問に対して頭が回らない。
何故、右腕が当たり前のように機能しているのか。
何故、身体に回り出す腐食が効果を発揮しないのか。
軋む。軋む。軋ませ骨は擦れて、ヒビが入り──。
ゴキッ!っと首が鳴った。
黒い馬の胴体は不規則に地面に向かって落ちていく。
強く叩き付けられた【飢餓を司る馬】は舌を出しながら力尽きた。
首を鳴らしながら見下ろした朝倉拓也は一息つくように息を吐く。
(魔力流し込みながらじゃないと倒せないのは、厄介だったな⋯⋯)
二、三度、右手を握り、機能を確認する。
「悪かったなぁ。俺はローシャが居る限り、肉体は新品ホヤホヤに出来るんだ」
湖の目の前に広がる黒い泥の池を見つめる。
中に入った准を確認する為、『転移移動』しようと【死を司る馬】の存在を『千里眼』で確認し、向かおうとしていた時、一人の老人の姿が目に入った。
「ようやく前に出たか。派手に暴れさせた甲斐があったってもんだな」
「⋯⋯⋯⋯」
杖をつき、曲がった腰。隈を濃く浮き彫りにした目元に皺だらけの顔。
向けられる視線はナイフのように鋭利であり、朝倉拓也を俯瞰し、観察し、窺っていた。
御老公、笠辺刀臣の前へと降り立った朝倉拓也は、厳格な様子を漂わせる老人へ向けて笑みを浮かべる。
「何がおかしい」
「存在」
誰もが言うであろう。お前が言うな、と。
失礼千万かつ厚顔無恥にも等しい態度を取る朝倉拓也に向けられるヘイトは、当然高まる。
しかし、朝倉拓也からしても、彼等『除者』の動向は目に余るものと見ていた。
「怒るなよ、ご老人。若者の軽口一つ流せなきゃ、生き恥啜ってきた甲斐が無いってもんだ」
「儂の人生が生き恥とな?」
「漁夫の利しか狙えなくなったクソジジイには丁度良いのかもな」
「なんの事じゃ?」
「気付かないとでも思ったか?ここから反対方向に数人の同業者を向かわせてるだろ。今すぐ止めさせろ」
依然、表情に変化はない。『除者』は大なり小なりで『怪異』の中にある『邪気』を感じ取れる性質を求められる。
そして、この笠辺刀臣はその性質が特に強く、三頭の馬の異質性や歪性を見抜いていた。
だが、挑む事は出来なかった。否、挑む前に止められてしまって、前に出る機会を失ったのだ。
目的は一つ。その為に、この辺鄙な森林に足を踏み入れ、治り切っていない傷を堪える思いで、現地に向かっている。
「自ら来た事は褒めるさ。だが、お前らが束になっても俺には勝てないぞ?」
「儂は何も争いに来た訳ではない」
「と言うと?」
「引渡しをして欲しいのじゃ。【刃龍】。並びにあの子供を!」
笠辺家はこの街にあらゆる目を持たせている。『現象』を駆使する場合もあれば、直接人を遣う時も。
「なんの事だか」
刀臣の言葉から逃げるように、乾いた笑いを出した。
誤魔化すにしてももう遅い。朝倉拓也は悟ってしまっていた。
バレてしまっているのだと⋯⋯。
「惚けるでない。あの黒いドブ水の中に入った小娘は危険が過ぎる。【刃龍】も同様じゃ」
事の末路を悟った刀臣は、今尚拡大を続ける黒い泥の中を見通すように眺める。
懸念点は朝倉拓也にもあった。
その一つは、同化が進み過ぎていて、引き剥がせない事にある。
桐江舞喜は生涯、【死を司る馬】と向き合わなければならないという事だ。
感情が揺れ動く度に痛みは身体を蝕み、留め止めもなく侵行していく事に他ならない。
「【刃龍】はどう言った理由でだ?奴も大人しくしていれば普通の女の子なんだがな?」
「分からぬか?奴は強力過ぎる。人の手に負えん。ならば、弱体化している今が打ち倒す好機じゃろうて」
「間伐じゃねぇんだぜ?滅ぼしてしまったら、あの特殊個体はその生を終わらせなきゃならない」
「だからじゃ⋯⋯」
【刃龍】は人が生んだ幻想的存在の最高潮。
龍を型取り、不老長寿の限りを尽くして、暴虐と加虐性の塊である。
人の手に負えない、それは人が偶発的に開発してしまった化学兵器を処分するようなもの。
そして、朝倉拓也は甘く見ていた。【刃龍】の存在は一般的には触れ回られていない。
『除者』のみが知る昔話や御伽噺に出てくるキャラクター的存在であると認識していた。
だが、実際には違う。畏怖と忌避の象徴であり、処分出来るのなら、早めに対処しておきたい部類であった。
単に朝倉拓也が強すぎた故の誤算であり、『除者』が歴史的に【刃龍】と言う『怪異』を紐解いていった際に感じた危機感が強すぎた故のこと。
自身の見積もりの甘さに、朝倉拓也の舌を鳴らす。
「だとしても、お前らの狙いは『血液』だろ?違うか?」
「儂をその辺に居る者と同一にされては困る。不老不死などに目が眩む暇があるなら、月を眺めながら酒を引っ掛けた方がマシじゃ」
「そうか⋯⋯⋯⋯」
泥の中を覗き込む。准は苦しむ舞喜に対して必死に呼び掛けをしており、懸命そうな顔が徐々に歪み出していた。
いくら声を掛けても返事をしない──。
コレだけならば、駆け寄り、肩を揺する事ぐらいしたのだろう。
しかし、舞喜の中には【死を司る馬】が取り憑いている。
コレばかりは、准の言葉に耳を貸さない。
舞喜が意識を手放した事により、主導権が傾いた事によるものだった。
「⋯⋯⋯⋯完全には同化しきってないな」
「なに?!」
「分からんか?まだ何割かは離れてるんだ」
本来、完全に同化しきってしまえば、舞喜が意識を手放すと同時に【死を司る馬】も意識を手放さなければならない。
同居人が寝るから、私も寝るよー!のようなものである。
だが、同化が完全に済んでいない事で、中途半端に夢現な状態であるが故に、好機だと踏んだ朝倉拓也は黒い泥へと脚を動かし始めた。
「今なら、軽度で済む」
「お主はこの街の行く末を案じはせのか?!せめて【刃龍】だけでも!」
立ち塞がる刀臣は隠し刀を杖から取り出し、構えようとする。
ポキッと嫌な音が耳元から届く。
身体を反らして、構えようとした段階で折れた音が聞こえた。⋯⋯刀臣は耳を疑う。
「なんじゃ?────なぜ?いや、何時?!」
戦慄の声を上げて、斜めに断ち切られた刀に目をやる。
「お前が抜こうとするからだ」
「ご当主!」
ゾロゾロと残り少ない街の『除者』が集まる。
数は四人。いずれも笠辺家を陰で支える者達であり、二人の間に割って入った。
「貴様、当主に手一つでも付けて見ろ。俺が───」
「邪魔」
平手打ち一発。意気込む『除者』の身体は左方向へと一直線に突き進み、草木に突っ込んでいく。
風が吹き荒み、目元を隠すように腕を前に構える。
「あ!貴様よくもっ!」
「ジジイ。一つ言っとく」
「⋯⋯?」
訝しむ刀臣の額には冷や汗が流れる。平常心を保とうとして、必死に強張らせる表情はより厳しい顔付きになっていく。
朝倉拓也は、肉薄して拳を振るう『除者』の腕を掴み、当たり前のようにへし折る。
続いて、槍を何処からともなく取り出した『除者』の槍の先端を手刀で折ると、無惨に宙に浮いた矛先を蹴り飛ばして、『除者』の腹に突き刺した。
「俺は贔屓が大好きで、ご都合主義であれど、ハッピーエンドを喜びたい人間だ。今のお前達にはそれが出来るとは思えん。だから、邪魔するな」
萎縮し、恐れる。残り一人となった『除者』はせっかく加勢に来たと言うのに、身体が動かない。
そんな彼に一瞥もしない刀臣は、朝倉拓也を睨む。
底にある真意を探ろうと、深く深く、見つめる。
「⋯⋯分かっておるのか!?あの中に居る者がどれほど未知で危険かをッ!?放っておけば、大変な事になりかねん!それとも、お主にはどうにか出来るのか!」
「俺がやるんじゃない。少年自身がやるんだ。それに、子供の頑張りを支えてやれにゃ、大人の価値なんざ、金勘定しか無くなるぞ?」
「それが大人としての教示だ。社会に生きるならば、まずはそれを教えねばならない」
「それは『除者』視点だろ?一般人は倫理観とか道徳心を学ばせるんだよ」
「貴様に道徳心や倫理観があるとでも?」
「無いな。あったら旅なんてしてない」
飄々と言い切った。それを聞き、刀臣は嘲るように笑う。
「口先で散々述べておいて、最後はそれか?」
「あぁ、そうだとも。だが、俺は孫娘をあんな風にしたお前にだけは、言われたくはないな」
「?!」
「フッ。忌み子だった訳では無いんだろ?なのに、何故憑かせた?沽券じゃない。権威じゃない。そう、期待したんだ、お前は⋯⋯。アルバムでも見て目が眩んだか?それとも、ジジイの戯言を真に受けた、とでも言って言い訳でもするか?なら、何故もう一人の孫娘の方にも同じ手法を取らなかった?えぇ?」
湖の反対側で準備を終えて、待機している一人の少女。
代々受け継がれる刀を腰に備えて、戦闘する気満々の彼女の顔を遠くから窺う朝倉拓也は、老人に向けて顔を向けると、お返しとばかりに嘲笑った。
「⋯⋯違う、あれは⋯⋯⋯⋯」
「そういうところさ。お前ら『除者』って奴をイマイチ信じ切れんのは。生者必守はご勝手にしてくれ。だが、俺の邪魔はするな。さもなきゃ、お前らの存在しなかった歴史にこの世界を書き換えるからな」
「そんな馬鹿な事が⋯⋯」
「知らないのか?」
向かい合い、老人に近寄る。退ろうとする脚は一歩を動かず、怯えをようやく見せ始めた刀臣の首筋目掛けて、知らぬ間に手に持っていた西洋風に形作られた鉄の剣がそっと当たった。
「っ!!」
「人ってのは、創るよりも先に壊す事を覚えた生き物だぜ?手軽に決まってる」
その剣は、あるゲームでは『どうのつるぎ』と同程度の値段の剣であり、斬れ味も耐久度も心許ない武器。
しかし、人の首を斬るのには、充分すぎる物であった。
刀臣は息を呑み、顔を引き攣らせる。
「⋯⋯消えろ。少年とその妹⋯⋯それに【刃龍】に手を出せば、俺はお前らを絶滅させる。脅しと受け取ってくれていい。そして、お前らの総本山の奴共にも、そう⋯⋯伝えておけ」
「ま、待て!【刃龍】を懐柔など、出来る訳がない!」
「懐柔?違う。寄り添いだっての。盲目も大概にしろよ」
湖の方へと身体を向け、右手を前に向ける。
軽く握るような動作をし、人差し指を親指で押さえ込ませた。
「じゃなきゃ───」
人差し指は前方に向かって弾かれる。
瞬間、刀臣の耳は一瞬で何も聞こえなくなった。
地球全体が突風に晒されて浮かび上がったように、大地は上下した。
雲は一瞬で引き裂かれ、辺りにあった木々は消滅。
朝倉拓也の身体を向けている前方三キロ圏内は大きく地面を抉れさせて、その付近にあった木々も雲も人が呼吸に必要なあらゆる元素は死んだ。
くっきりとその部分だけが絶対真空と化してしまった。
「こうなる」
膝を付き、短くなった杖を支えに、震える身体を持ち上げようとした時、目の前に居た筈の朝倉拓也は何処かへ消えていた。
そして、彼が放った強烈な一撃の方向には、黒い泥に侵入しようと茂みに隠れて待機していた少女ともう一人の『除者』が居た筈⋯⋯。
だったが、何も無くなり、平地となったど真ん中に倒れており、意識を完全に手放してしまっていた。
恐怖を埋め付けられた瞬間だった。
地獄を垣間見て、歴然の差というのを身に染みた刀臣は、俯き、歯を食いしばりながら、立ち上がる。
そして、気付けば────。
笠辺家の自宅へと皆が戻されている状況となり、刀臣は畳に寝転がった状態となっていた。
折れた刀は転がって、隣で知らぬ間に昏倒させられてしまった少女の手を掴み、瞼を閉じる。
━ ━ ━
瞼を開ければ、視界は歪み、ほぼ黒一色の気持ちの悪い世界が広がっていた。
息は当たり前のように出来る。水中に居るような感覚があるのに、冷たいとか寒いとか、そんな感じは全く無かった。
けど、ひたすらに気持ち悪い。これに尽きる。
目視で確認する光景全てが、濁った泥水の中に居ると錯覚させられるのに、耳から伝わる音は遠くから、悲鳴とか、呻き声とか、嘆く声ばかりが届く。
(舞喜を探さないと⋯⋯)
身体は浮遊感を覚えて、水中を泳ぐように前へと進む
黒一面の視界。光源の類いは無し。何時までも身体に纏わり付くように悲しい声が流れてくる事が堪らなく胸を痛めた。
脚は水中を泳ぐ時に比べて軽い。むしろ、陸地に居る時よりも軽く感じるのは何故なのだろうか。
──死にたくない。死にたくない。死にたくない。
──私の子供を返してっ!あの人の形見なのよ!
──痛い、辛い、苦しい、酷い、酷い、酷い、酷い、なんで、なんで、なんで、なんで⋯⋯⋯。
──アタシのせいで家族に迷惑が掛かる。嫌だ、独りぼっちは嫌だ。寂しい。嫌、寒いのは嫌。
様々な嘆きの声。悲痛な悲鳴も、苦しみに暮れて覇気の無い声もあれば、慟哭の限りを口から吐き出す声が耳を劈く。
────その中に、舞喜の声らしきものが確かに聞こえて、僕は目を見開いた。
「舞喜!」
耳元で発せられたように、舞喜の声が響いた。
けれど、僕の真横にも、前にも後ろにも、何処にも舞喜の姿は見当たらない。
小さな泡が足元からやって来て、顔を通り過ぎた。
上がっていく泡は水面に向かって素通りして、僕にはなんの影響を及ぼさない。
「⋯⋯⋯!」
足元を見下ろす。居た⋯⋯。妹が縮こまるような体勢で、浮かんでいた。
「舞喜!おい、しっかりしろ!舞喜!」
急いで、泳ぐように脚をばたつかせながら、底へ底へと進んで行く。
「⋯⋯?」
体育座りで俯いて、膝に額を付けているのが舞喜の現状なのだが、何故か小さな光がチカチカと見える。
それも二つ。
(そう言えば、舞喜の目の色が変わったような⋯⋯)
【当て馬】の影響なのだろうか?朝倉さんからある程度の情報は根掘り葉掘り聞いたつもりでいたけど、とんでもない伏兵が潜んでいたようだ。
「おい、舞喜!舞喜!⋯⋯⋯⋯おい!どうした?大丈夫なのか?おい!」
目が開いているのにも拘わらず、僕が見えていないかのように、虚ろな視線を送っていた。
コチラから呼び掛けて、どれだけ肩を揺すっても返事がない。
血色が悪い顔付きのまま、口を小さく開けて、無表情を貫く妹にどうしようもない寒気を感じてしまう。
まるで──舞喜じゃないような⋯⋯⋯⋯。
「⋯⋯舞喜?───────っ!」
ギロッと、瞳だけがコチラを向いた。
身体の芯がハンマーとかで叩かれたみたいな衝撃を受けた僕は、後退りをしてしまい、唖然としてしまう。
「────どうして?」
「え?」
「────どうして、殺されてくれないの?」
銀色に光ったその瞳は、深海にも似た暗い世界の此処では、酷く怖く感じる。
睨む訳でもなく、凝視している訳ではなく、遠くを見つめるように向けられたその視線は、僕を恐怖に陥れた。
「どうして、殺されてくれないの?汝は、死ぬ事によって完成される。アタシが望んだ事をどうして、成させようと動いてくれないの?」
意識が混じっている。そう聞いていた僕は初めて実感した。
舞喜はそんな口調で、そんな物言いをしない。
普段はもっと抜けている感じだし、喜怒哀楽がハッキリしている。
それが僕の妹だ。なのに、その姿形だけを象った、中身が全くの偽物に、僕は怒りが込み上げてくる。
込み上げてくるのに⋯⋯言い出せない。
強く言葉に出来ないでいる。
「アタシに大人しく、殺されろ。悲願が叶う。『家族団欒』を果たす為にも、お前は⋯⋯⋯邪魔だ」
「ぼ⋯⋯僕は────」
邪魔だと、舞喜本人に言われたのなら、仕方ないと自重も出来た。
けど、顔も知らない奴に、妹の身体で好き勝手に言われる状況が果たして正しいのか。
それが舞喜の本音だったとして、言いたい言葉の一節だったとしても。
それは、舞喜本人が言うべき言葉だ。
誰かの力を借りる事は良しとしても、最後の最後は自分の力で言って欲しかった。
少なくても、『現象』の力なんかに、借りて欲しくない。
「お前の言う通りに死んでやるつもりはない」
「⋯⋯⋯⋯愚かだな。これ程の苦しみを与えて、尚苦しめるの?酷く滑稽な存在と見た」
淡々と表情も視線も、血色も⋯⋯。
手指や身体の一つ一つの動作をせず、口だけをひたすらに動かす。
その人外的な所作は、気色の悪いもので、無機質と言うものなのだろう。
感情のないロボットが、人そっくりな色合いをした鋼鉄に似た硬い皮膚に覆われて喋っているようなものであり、酷く嫌悪出来てしまった。
「お互い様だろ。人の身体を借りてるなら、苦しめず、痛ませず。⋯⋯もっとやりようがあるだろ」
「アタシの事を汝にとやかく言われたくはない」
「いや、言うよ。僕はお前の借りてる身体の女の子の兄貴だ。お前や妹や、世間がなんと言おうと、僕はそれを貫き通すと決めた。とやかく言わせて貰う」
「⋯⋯苦しめた汝が口にする事か?我儘か、或いは⋯⋯強情な自分勝手。身勝手の極みに拍車を掛けるか?愚か者街道まっしぐらと言う奴だな」
我儘に、自分勝手。身勝手に愚か者⋯⋯。
それでも良い。僕はそれでも舞喜の兄貴で居たい。
戸籍上の云々とかではなく、気持ちとか在り方とか、そんな感じので、正しく僕は桐江舞喜の兄になりたかった。
歪んだ環境に、更にヒビを入れた僕の責任。
それはきっと、一生ものの事で、舞喜の果たしたかった事は二度と叶わないのかもしれない。
それでも、僕は────。
「良いよ。それで」
「なに?」
「認めるって言ってるんだ。僕は酷くて、最低な奴だ。愚か者街道まっしぐら。お前そう言ったな?」
一区切り付けるように、僕と舞喜の在り方を変えなければならなかった。
恨まれても、妬まれても、罵倒だって甘んじて受ける。
だから、僕は妹の兄でありたいと、強く望んだ。
「ハッキリ言う。僕はそれでも兄でありたい。そう生きていきたい」
「⋯⋯⋯⋯ならぬ。アタシが許さない。願いは果たさなければ願いとは言わない。少なくとも、この者の願いは『死』と同義。ならば、『死を司る』アタシが助力せずして、何が審判者か!」
「あぁ、そうか。お前確か、本来は人類平等に死を運ぶ存在だから、中立の立場なんだっけ?⋯⋯⋯⋯」
「肯定だ。神々から人類への制定であり、試練。それを正しく見極めるべく、神々が地球に孕ませた審判者。⋯⋯それがアタシだ」
徐々に舞喜らしい口調や抑揚が消えていく中、聞き捨てならない言葉をコイツは吐いた。
それはおかしかった。酷く歪んだ論理だと、僕は俯く。
仮にそれが本当なら、あっちゃならない。
この【当て馬】の言葉が本当なら、あべこべも良いところだ。
「なら、舞喜の身体に憑いてるのはなんでだ?」
「⋯⋯⋯⋯なに?」
「朝倉さんが言ってたぜ。お前ら、模造品なんだろ?本物は本来存在しないって言ってたぜ」
「⋯⋯⋯⋯否定」
「いや、お前は知らないんだ。舞喜に取り憑くまでの間、お前に自我なんてものはなかった。今こうして話しているのも、舞喜の身体を借りてるからに過ぎない。違うか?」
僕が昨夜、朝倉さんから聞いた話ではこうだ。
一。この世界には幾万年前には神と呼ばれる存在こそ居たが、何処まで言っても普通の人間。
二。『現象』は人の空想的思想や妄想的観点から生まれる場合が多く、今回の事件で生み出された【ヨハネの黙示録】の怪物達も『啓示の箱』と呼ばれる入れ物も、それを創った者の妄想でしかない。
三。【当て馬】は本来、公平に正しく、容赦なく人の世を乱す存在。
『現象』であり、偽物でしかないそれらは、歪の塊であり、人に取り憑く形でしか、ロクに活動出来ない半端者。
との事だ。
つまり、今舞喜の口で語られた事は、朝倉さんの話が事実なら、全て虚言であり、設定であり、偽物でしかないと言う事になる。
現に、僕は生きている。母さんも父さんも生きてて、舞喜が通っている中学校のクラスメイトも一命は取り留めているのが現状。
つまり今のコイツは、『試練』を果たせない愚か者でしかない。
「お前は虚実の存在でしかない。人に創られた創作物の一部でしかない。だから、実行する目標や指針はあっても、そこに意思は注ぎ込まれなかった。違うか?」
「否、アタシにも意思はある。こうして話している事そのものがそうだ」
「なら、どうして舞喜の意思に拮抗されてるんだ?」
「拮抗?アタシは明確に汝の腸をこの手で貫いた。同調していた故に判る。⋯⋯⋯⋯⋯⋯否、では何故、死んでいない?何故?何故?何故?何故?なぜ?なぜぇ⋯⋯」
壊れたように何度も口にする疑問。
多分⋯⋯ううん、十中八九、朝倉さんが僕と父さんと母さんを直してくれたから、僕は今ここに居る。
目的としては、この【当て馬】の思考を鈍らせる為⋯⋯かもしれない。
善意で助けてくれた訳ではないというのには、少し悲しいけど、生きてるだけで儲けものだ。
現に、舞喜を殺人犯に仕立てなくても良いのだから。
むしろ、得をしたと考える方が余程良い。
「お前、『死』を司ってんだろ?なのに、まだ誰一人として殺せていないのは、おかしいだろ?」
「ならば、即刻ここから出るのみだ」
人と話している訳じゃない。
僕が話しているのは情緒は一丁前のクセに、人をロクに知らない怪物だ。
仮に六華相手に同じ問答をしたら、僕は策士策に溺れるかのように、裏を読まれてあっという間に論破されて終わる。
彼女は人の営みを知っていて、人の情緒を、機微を見れる事の出来る生命体だ。
だが、コイツは違う。『啓示の箱』から出てきたばかりの中身が大人っぽいだけの生後二日目の存在でしかない。
「街の者を等しく『死』へと導くのに、長い暇は要らぬ。少し詩えれば済む話なのだから⋯⋯」
まだ僕でも言い負かせる術はある。
言い負かせて、少しでも舞喜との同化を引き剥がしていく。
無理矢理ではなく。少しずつ、ゆっくりと、丹念かつ丁重に。
そうしなければ、引き剥がした時、舞喜の意識が【当て馬】に残り、【当て馬】の意識が舞喜に残る羽目になる。
そんな事はさせない。させてたまるか。
嘘が苦手な僕は、生後二日の怪物に対して、嘘を吐く。
「そんな事をしたら、舞喜ごとお前を朝倉さんが殺すぞ」
「⋯⋯⋯そんな訳が無い。人の情と呼ばれるものは、それほどに脆弱だと言うのか?アタシだけならともかく、この身の少女まで⋯⋯有り得ない」
「無いって?多分、さっき出てったお前の同業者は今頃死んでるんじゃないか?」
「まさか⋯⋯。同志らが出てくる事も織り込み済みだったとでも⋯⋯」
勿論、想定外。僕からしたら、泡吹いて倒れそうな事態だった。
現に身体中から血は噴き出した訳で⋯⋯。
想定では、舞喜と和解して、朝倉さんの力で舞喜と【当て馬】の意識を引き剥がして貰う。
これが安牌であり、目指したかった流れ。
けど、現実はそんな思い通りに事が運ぶなんて、そうは無い。
「どうする?僕は了承してるぞ?舞喜が殺人犯になるよりも、余っ程マトモな選択だと思ったからな。じゃなきゃ、あんな風に妹を説得なんてしないだろ?」
「汝の謝罪は偽りだったと?あれ程の嘆きと切望を訴え掛けた妹の言葉に対して⋯⋯汝と言う奴は⋯⋯」
「そうじゃない。妹が手を汚すと分かってるのに、それを止めない兄は居ないってだけだ。ただまぁ、僕は酷い兄だからな。結局、選択肢が絞られてたってだけの話だ」
この黒い世界に来て、初めて舞喜の顔が顰めた。
酷く動揺しているようにも見えて、唇が小刻みに震えている。
人間同士の会話によるコミュニケーションには、否応なく本心とは違う別の意思が同居しているもの。
プラスの感情の時もあれば、マイナスの感情を胸に抱く。
悪態を吐く散らかす、その裏では内心嬉しかったり。
貰い物にお礼を述べるものの、その裏ではとっとと手放してしまいたいと思ったり。
感情の機微の把握が上手い者は居ても、天才は存在しない。
それこそ『読心術』の類でもない限りは⋯⋯。
生後二日で、仮の肉体を借りているだけのコイツに、口喧嘩で負けるとは思えなかった。
「⋯⋯⋯⋯」
「お前という存在は虚像。意思も偽物だ。僕と同じ半端者。そんなお前が妹に取り憑くなんて、お前が舞喜を最も軽んじてるんだよ」
「──────否、違う。アタシの意思は本物だ。存在が創り物?馬鹿も休み休み言うんだな」
「なら、なんで『一人称』がアタシのままなんだ?」
あらん限りに目を見開いた舞喜は自分の存在を明確にするように、両手を交互に見つめる。
頬を触り、身体に触れて、僕の方へと視線を向けた。
「⋯⋯お前は偽物だよ。だから、実物の舞喜の身体を、意思を⋯⋯返してくれ」
「⋯⋯ならん」
「⋯⋯え?」
「許さない、許さない、許さない!アタシの使命はこの先で決めたらいい。アタシの在り方は人類を駆逐してから考えれば良い!アタシの在り方は⋯⋯アタシが決め────うぅ、ァァァ」
突然狂ったように、頬に爪を立てて傷跡を残しだしたと思えば、苦しみ始めた。
もう何が何だか⋯⋯。そう思っていた僕だが、舞喜の瞳が白銀ではなくなって、元に戻っていると判ると肩を掴んで強く揺する。
「僕だ!兄ちゃんだ!⋯⋯舞喜!しっかりしろ!」
「ぁぁ⋯⋯。お、お兄ちゃん、お兄ちゃん。アタシ、痛い、痛いよォ。た、助けて⋯⋯」
呻き声混じりに助けを求められた。
「あぁ、待ってろ!すぐに────」
だけど、助け方までは⋯⋯聞かされていない。
完全な想定外で、僕も朝倉さんにこういう時の対処法は聞かされていなかった。
僕は勝手に、舞喜の意思が表に出てきたという事が、【当て馬】に勝ったという事だと思っていた。
でも、違う。ただ舞喜が帰ってきて、身体の中に居る【当て馬】の影響が残ってるから身体に痛みがあるのだろうと、高を括ってしまい⋯⋯。
「ああああぁぁぁぁぁーーーー!熱い!熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!嫌だ!嫌だ!もう嫌!アタシ、アタシは──」
「舞喜!しっかりしろ!気を強く持て!」
頬を掻き毟るように爪を立てて、傷が色濃く残る。
手を押さえようにも力が強くて、すぐに手が頬に向かう。
「嫌だァァ!触らないでェェェ!」
舞喜の手の甲が僕の脇腹に当たった。
内側を針で刺されたみたいな痛みと、何かが破裂したみたいな痛みが、同時に僕を襲う。
「うごォッッ!!」
後方に薙ぎ倒された。昏倒した意識は瞼を閉じれば落ち着いていく。
痛んだ脇腹を手で押さえるものの、違和感があった。
(⋯⋯⋯っ!?あれ?⋯⋯)
空いていた。手の甲で一発。たったそれだけで脇腹は抉られてしまっていた。
触ろうとすれば、空洞を撫でるように手は身体に触れている感触がない。
神経が麻痺しているだけかもしれない。
そう思い、恐る恐る目視で確認しようと脇腹へ覗き込む。
(⋯⋯マジかよ)
痛みは徐々になくなっていく。視界がグラグラとしていたものが、段々と歪んでいってるのが分かる。
目の前に居る舞喜が何かを叫んでいる。
でも、僕にはその言葉が篭った風に聞こえた。
何を言ってるのか、僕には分からない。
分かりたいのに⋯⋯。
僕はそのまま意識を手放してしまいそうで、必死に目を見開こうと堪える。
(⋯⋯⋯⋯舞喜⋯⋯っ!)
人が立っていた。舞喜の他にもう一人。
黒い世界で、誰が立っているのかなんて、ロクに認識出来ないけど⋯⋯それでも分かる。
「あ、朝倉さん」
そう僕は掠れていながらも嗄れた声で呟く。男は振り返り、ゆっくりと頷いて、僕の方へ近寄ると、空洞になった身体の部分に手を伸ばす。
「よく頑張ったな。だけど、忘れるな。お前の相手は今日、二人だ。ここで倒れられても困る」
「わ、分かっ────あれ?痛みが⋯⋯ない!」
嘘のように痛みが消えていた。
舞喜の一撃で空いた脇腹へ手を徐ろに当てる。
「⋯⋯⋯傷がない」
「ビギナーズラックって奴だ。さてと」
背をぐーっと伸ばした朝倉さんは、振り返り舞喜を見た。
「ごめんなさい!ごめんなさい!違う!違うの!なんで!ぁぁぁぁぁ、ごめんなさい!ごめんなさい!」
錯乱したように右手首をギュッと握っていた。
血濡れたその手を凝視して、首を横に振りながら、必死に謝罪していた。
「ま、舞喜?」
「お、お兄ちゃん!あぁー、ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
駆け寄って、必死に縋るように僕の腕を掴んで離さない。
「そんなつもり、なくて、本当に!お願いお願いします。許してください!もう、お兄ちゃんしか居ないの!家族はお兄ちゃんしか居ないの!だから⋯⋯ぁぁ」
「舞喜。僕は別に怒ってる訳じゃない」
何時もの舞喜に比べて、弱腰で、身体を震わせて⋯⋯酷く狼狽していた。
目を見開いて、僕の顔を窺う。
僕は舞喜をギュッと抱き締めて、頭を撫でる。
僕のやらかしてしまっていた事に比べれば、このぐらいは些事だ。
これぐらいの事を許さなきゃ、フェアじゃない。
大きく息を荒らげた舞喜は上目遣いで、不安そうに僕を見る。
そしてまた、頭をポスンと僕の胸元に預けた。
舞喜の身体にはまだ【当て馬】が居る筈で、身体の中は痛みに覆われている筈なのに、それでも僕に身体を預けてくれている。
それが何よりも嬉しかった。
「もう良いか?」
「⋯⋯え?」
朝倉さんが僕達二人の元に近付き、舞喜が警戒したように背中に隠れようとする。
腕で庇うようにして背中に逃げ込もうとする舞喜の動きを制止させながら、僕は朝倉さんの言葉の意図を理解した。
「中にいる奴をどうにかする。これから先、苦労が絶えない。良いな?」
「⋯⋯あぁ」
元に戻れば、舞喜は全部、自分だけの意思、自分だけの行動で事を起こして、事態を悪化させた。
そう思うようになる。
「頼んだ」
僕は頷いた。舞喜は怪訝な顔をさせながら僕を見つめる。
「お兄ちゃん?」
「大丈夫。ちゃんと、僕が居る。不甲斐ないかもしれないけど、ちゃんと支えるから⋯⋯」
「⋯⋯⋯うん。ありがとう」
掻き毟った傷痕を潤すように涙が流れた。
黒い世界は徐々に霞だして、黒い霧に覆われたように視界は広がっていく。
差し出すように舞喜を朝倉さんに預けた。
後方に居る僕を二、三度、不安な顔をしながらチラチラと振り返って見る舞喜にそっと、微笑んだ。
受け入れたように舞喜は瞼を閉じて拳を握る。
「安心しろ。呪いだ」
優しい声色で目の前に立っている朝倉さんの右手に何かを持った状態で、身体を反らす。
そして────舞喜の身体は朝倉さんに貫かれた。
━ ━ ━
黒い世界は晴れていく。鮮やかな晴天に早変わりしていき、朝日に当たった草木の匂いが鼻腔を擽った。
胸の中心を貫かれた舞喜は傷跡もなく、静かに眠っている。
首筋に手を当てて、呼吸を確かめる。
「⋯⋯⋯⋯良かった」
「なんで俺が殺すんだよ。⋯⋯さぁ、少年。少ししたら──」
「分かってる。電波塔に行けばいいんだろ?」
小さなショルダーバッグの中身を覗き込む。
『遺品』であり『切り札』。僕が『プルトン』と呼ばれる男に対抗出来る唯一の手段。
汗に濡れて、額にへばりついている舞喜の前髪をそっと梳くう。
上半身を持ち上げて、ギュッと抱き締める。
ちゃんと生きてて、ちゃんと身体に体温を感じた。
少し熱くて、汗の匂いがするけれど、それが愛おしいと感じる。
「舞喜⋯⋯⋯⋯。まき」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
湖に流れる細波は、静やかで穏やかだった。
抱き上げた舞喜の身体を、名残惜しけれど手放すように地面にそっと置いた。
頬に流れていた涙を親指で拭って、頭を撫でる。
僕は死ぬ訳にはいかない。これから先、舞喜に降り掛かる障害の幾つかを払い除ける枷になる為にも。
立ち上がり、朝倉さんを見た。頷いて合図を促す。
「もう良いのか?」
「早く終わらせたいからな。早く終わらせて、六華を元に戻してあげたいしな」
小さな筒を握り、存在を感じようとする。
結局、六華を感じる事は出来なかったけど、封印されているのは確かだ。
「分かった。俺はこの子を病院に連れて行く。良いな?」
「⋯⋯⋯⋯⋯うん」
病院に行かないという選択肢も勿論あった。
けど、朝倉さん曰く、
「元に戻ったら、精神的な負荷は大きいぞ?今は【当て馬】との同化で、罪悪感は高揚感とかで緩和してるが、同化が無くなれば否応なく負担が来る。入院費ぐらい出してやるから、専門家に頼れ」
との事。
それに、朝倉さんは口にこそしなかったが⋯⋯。
折り合いが悪くて、剰え殺そうとした僕と二人きりの生活を始めるのはハードルが高過ぎる、という意味もあったのだろう。
病院での見舞いを通して、少しずつ折り合いを戻していけという意味も含まれていたのかもしれないが、実際はどうなのか、僕には測れない。
いずれにしても、僕のやる事は生きる事そのもの。
生きて、舞喜がちゃんと居ても良いと、その必要性を示さなければならない。
「⋯⋯⋯⋯行けるか?」
「────あぁ!」
両手を合わせ、指を絡めて頷いた。
パンッ!と鳴ると共に、僕はまだ鮮明に覚えのある場所に立っていた。
肌寒くて、何処か寂しくも感じるその場所は、展望鏡が外に向かって並んでいる。
けれど一部の箇所には、その展望鏡が無くなっていて、ガラス片が大量に床に転がっていて、縦に伸びた壁は崩れ去っていた。
「⋯⋯⋯⋯」
二人の人間が居た。
一人は茶髪の女性で、昨日の朝に自転車を立て掛けてくれた外国人。
佇んで壁を背にして、腹部辺りに両手を握りながら、やって来た僕へと真っ先に見つめている。
もう一人は、その女性と向かい合うようにしながら、口論をしており、アンダーカットの髪型、黒いジャケットとデニムパンツを履いていた。
鋭い目尻には隈があり、顔色は血色が悪いようにも見えて、全身も少し痩せ細っているようにも見える。
「なんだお前?!何処から⋯⋯来た?」
「⋯⋯アンタを捕らえに来た」
訝しだ男は女性と向かい合っていた身体の向きを、僕に向けると、嫌悪の表情を浮かべた。
長身で、僕より一回りも大きいその体格は威圧感が凄まじかった。
心臓は早鐘を打つ。大きく深呼吸をして、身構える。
僕はコレから、戦う。きっと無様で、滑稽なぐらいに下手な動きをする。
けど、逃げる訳にはいかない。
僕は六華を助ける為にも、僕は前へ一歩、踏み出した。




