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この街は今日も語る  作者: 紫芋
Spring hour 桐江准は普通でありたい

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『世界記録劇場』桐江家崩壊の狂想曲

これで君も桐江舞喜マイスターになろう!


これで舞喜の事が五割は分かるよ!


そして多分、舞喜はブラコンだ⋯⋯。


想定と違うな⋯⋯。何故だ⋯⋯。

「ただいま」


 血濡れたパジャマで帰宅した桐江舞喜の足取りは重かった。


 とてつもない倦怠感と、何時までも騒がしい声が耳元で鳴り響く中、玄関の扉を勢い余って壊してしまう。


 けれど、無関心を貫くか如く、扉を後方へと投げ棄ててしまった。


 そして、当然のようにリビングへと向かっていく。


 視界はグラグラと、まるで顔自体を揺らされたように上下左右に揺れて、吐き気が込み上げる。


 それでも帰ってきた。帰ってこなければならない。


(⋯⋯⋯⋯アタシ、なんで帰ってきたんだっけ?)


 けれど、身体に、心に、ヌメっと浸透していく『現象』に侵《こわ》されている舞喜は、自分の意思による行動か、何かによって突き動かされて行動を取っているのか、自身でも見当が付かず、非常にアンバランスな、思考、精神状態となっていた。


「⋯⋯た、ただいま」


 蚊の鳴くような声で帰宅した事を告げる舞喜は、両親の寝室へと入ろうとする。


 何故、自分の寝室ではなく、先に両親の寝室から入ろうとしたのか、舞喜自身も分かっておらず、身体が勝手に動いてしまったから、としか言いようがなかった。


 けれど、舞喜は部屋のドアを開けて、ゆっくりと覗き込むようにして、室内の様子を窺った。


「⋯⋯⋯⋯あれ?」


 父親が寝ている。しかし、母親が何処にも居ない。


 キョロキョロと室内の様子を観察し、震え始める手はドアノブから離れていく。


「何やってるの!アンタは?!」


 背後から声がする。威圧感が溢れ、何処か曖昧だった意識が明確化していく。


 背筋は途端に凍り付き、息を呑む間も無く、舞喜は振り返る。


「ひぃっ!────お、お母さん。た、ただ────」


「アンタ、何このテストの点数は?」


 差し出された一枚の答案用紙。


『社会【71】』と綺麗な字で採点されたその紙は小テストに怯える舞喜はその紙を受け取り、俯いてしまう。


 いずれはバレてしまう。けれど、それは覚悟が必要な事であり、この時の舞喜には、バレる覚悟がなかった。


 何故、普段兄妹の寝室に入る事もしない母親が、今日に限って入って来たのか、それは知り得ない。


 ご厚意にしている奥様方から受け取った日頃の情報収集の賜物かもしれない。


 母親の脳内カレンダーには、今日か昨日辺りには小テストが返ってくると知っていたのかもしれない。


 もしかしたら、偶然気になって、中に入っただけかもしれなかった。


 その全てという可能性もあれば、全く違うかもしれない。


 しかし、どちらにしても、舞喜にとって現状、最も負荷の掛かるイベント事であったのには、変わりないのだ。


「⋯⋯⋯あ、あの⋯⋯ご、ごめんなさい」


 恐る恐る、敵対心を含まさず、丁重かつ丁寧に、震える唇を動かしながら、腰を曲げて謝罪した。


 だが、既に一度沸騰したお湯が、瞬間的に氷点下まで降下する事が無いように、母親の怒りゲージは既に限界ギリギリ。


 舞喜の顔を見ただけで血管がはち切れそうになり、オドオドとした様子で謝罪する態度と対応に対して、更にフツフツと怒りが湧き上がる。


 そして、頭を上げた舞喜のその泣きそうな面を目視すると、湧き上がっていた怒りが、頂点に達してしまう。


「ごめんなさい?ごめんなさいですって!?ふざけないでよ!この馬鹿ァァァァッッ!!!」


 鋭く、素早い平手打ちは舞喜の頬を炸裂した。


 一瞬、首ごと持っていかれたのではないかと錯覚する程の頬の痛みは、大きく倒れ込んだ舞喜の表情を唖然とさせる。


 慣れた痛みだった。覚えている衝撃と感覚。


 ズキズキと赤くなった頬を撫れば、指の感覚と頬の感覚に、乖離的なまでの違いがあると感じてしまえた。


 謝らなければならない。自分は下手に出て、目の前で血走った眼をあらん限り見せる女性に対して、媚びへつらわなければならない。


 完全無欠の上下関係に隙などなかった。


 親と子。同じ女性であり、家族。


 受けて来た仕打ちに対しての対抗策は、同じ家に住む兄から一切教わらず、見様見真似《みようみまね》で乗り越えようとした時もあった。


 だが、出来なかった。少女は自分が想像していたよりも弱く、優しかったからだ。


『家族団欒』、『仲良しこよし』。


 ずっと描いていた理想《みらい》図は既に破れかけていて、何時真っ二つになるともしれない不完全の状態。


 構想はあった。思想は目紛しく、何時かこうなれば良いなぁ、程度の簡易的で普遍的なもの。


 けれど、少女は原点を明確に持っている。


 何故、『家族団欒』を夢見るのか。


 桐江舞喜は、まだ、覚えていた。


「〜〜〜ッッ!!⋯⋯⋯⋯ご、ごめんなさい。うぅ、ご、ごめ──」


 堪えよう。せがもう。訴え掛けよう。


 少女の夢の続きを描き続けるまでは、走り続けなければならない。


 確固たる意思はあった。


 挫ける事はあって、臆する事もあるだろう。


 それでも、前を進み続けて、やがて何時かは、そう願わざるを得ない少女の情動は突き動かされていく。


「煩い!この出来損ない!何よ、この点数は⋯⋯惨めで愚鈍なだけの結果出しちゃって!アンタに通わせた小学校もただしじゃないのよ!!もうォォォォォォ!お母さんをこれ以上、失望させないでよね!この愚図ッ!」


 母親は知らない。娘と取り付けた約束がどれ程の覚悟があったのかを。


 母親は見ていない。娘が抱いていた感情の重さを。


 母親は知覚しない。娘の中に居るその『現象《そんざい》』を。


「⋯⋯⋯ご、ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい。ちゃんと出来るようになります。次はもっとやれるようにしますから!」


 胸が劈く程の痛みに襲われて尚、舞喜は堪えて、堪えて、額を床に擦り付けながら謝罪した。


 一般的であれば、それに胸を痛めるのは至極当然の事。


 頬を叩いた理由にしても、衝動的であれば、すぅーっと怒りの感情が冷めていき、後に否応なく罪悪感が湧き上がるというもの。


 しかし、母親はひと味もふた味も違う。


 確かにこの時には衝動的に込み上げた情は収まり始めて、青筋が立っていなかった。


 けれど、母親はここから、惨めに這い蹲るように謝罪する自分の娘を見て────。


 自分を正当化した。これは正しい行いだと、これは母親が娘に行う当然の行為であり、躾であり、教育なのだと割り切る。


「知らないわよ。もう、どうでも良いわ⋯⋯。ホント⋯⋯アンタはどうしてあの子みたいに出来ないの。どうして、ちゃんとやらないの?!どうしてここまで愚図の醜態をこんな簡単に晒せるの?!他の子だって、もっとちゃんと出来るわよ?!ほっっっんとに⋯⋯⋯もう、ホントに⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 涙が込み上げてくる。今までも散々罵られ、悪態の限りを言い尽くされてきた舞喜だったが、今日程、悲痛な事はなかった。


 比べられる度に劣等感が心に膿を生ませていき、自分は駄目だと嘲る。


 けれど、それに対して反旗を翻す事はしない。


 ひたすらに事実だと割り切って、奥に沈ませておくばかり。


「はぁ〜。で、何その血?自殺でもしようとしたの?なら、とっとと死んでくれない?⋯⋯⋯⋯まさか、返り血?アンタ、まさか人様に手を出したんじゃないわよね?!」


 薄色のピンク色のパジャマに白の短パン姿の舞喜は、現状、真っ赤な血で衣服を汚している。


 べっとりとトロみのあるその血は、胸元辺りに付着していて、一見だけで何かしらの事があったと想起出来た母親は娘の返答を待った。


「何とか、言いなさいよッッ!!」


「⋯⋯⋯⋯」


 舞喜は思い返して、吐き気が止まらなくなっていった。


 何故、自分は学校の校舎内であんな事をしたのか。


 何故、自分はあんな事が出来たのか。


 何故、自分はその現場を目撃して、家にのこのこと帰ってきていたのか。


【当て馬】の厄介極まりないのは、その性質にある。


 取り憑かれた者は【当て馬】のせいだと認識しない。


 取り憑かれた者は皆、自分の意思で、自分の手で何かを果たそうと動く。


 取り憑かれた者は皆等しく、植え付けられた役割を、さも自分のやりたい事のように、やらなければならない事のように思い込む。


 一種の使命感のようなものに苛まれていき、その思い込みを激しくさせる。


【当て馬】は表には基本出ない。


 取り憑かれた側も、それを認知せず、認識しない為、何時までも自分の意思だと誤認し続ける。


 だから、舞喜は激しく苦悩した。何故一人、教卓に座って、クラスメイト同士の殴り合いを笑いながら楽しんでいたのかを⋯⋯。


「はぁ、もういいわ。どうでも良い。あの子も最近、私に手を出すようになっちゃったし⋯⋯。こんな事なら、二人共棄てれば良かった⋯⋯」


「は?」


 下がった頭が一気に持ち上がった。


 目をあらん限り見開いて、母親を凝視した。


 これまでに無い衝動が身体を動かそうとする。


 筋肉が強張る。耐えようと、抑え付けようと躍起になっていく。


「何よ愚図。お母さんに文句でもあるの?アンタの母さんよ?アンタより偉いのよ?子供なんだから、親に従って当然なの。当たり前の事なの!⋯⋯早く、産まれないかしら」


「⋯⋯⋯⋯⋯産まれる?」


 異端な者を見るように、母親を見上げる舞喜の表情には戦慄の文字が浮き彫りになった。


 腹部を擦る母親の艶かしい表情に、吐き気は止まらない。


 冗談の類いだと信じたかった。嘘偽りの言葉であると願いたかった。


 しかし、母親の性格をよく知る舞喜には、それが冗談でも、嘘でもないと、深く痛感してしまう。


「⋯⋯アンタとあの子と違って、良い子が産まれる筈よ。アンタらの教育を踏み台に、次は立派な子に育てて見せるわ。そうしたら、私だって、私も⋯⋯」


 思わず立ち上がる舞喜は母親に近付く。


 顔を引き攣らせながら、恐怖心が渦巻く感情を抑えつつ、腕を掴む。


「待って、待って!産まれる?三人目?」


「はぁ?!アンタらなんて役立たずなんだから、実質一人目よ。調子に乗るんじゃないわよ」


「あ、え?あ⋯⋯」


 何かが砕ける音がした。理想は確かにあった。


 兄にすら見限られる程の甘くて、何処か御伽噺にも近い、そんな空想的な絵図。


 それらは一気に破れ去り、微風に転がされるように飛んでいく。


「退きなさいよ!」


 激しく突き飛ばされた舞喜は両親の寝室がある部屋付近の壁に大きく背を打ち、膝を崩して、打ちひしがれた。


 母親はそんな舞喜の様子に一瞥もせず、さっさと寝室に戻ろうと背を向ける。


「要らない。アタシは要らない?お兄ちゃんも要らない?じゃあ、要らないお兄ちゃんに嫉妬してたアタシって何⋯⋯?」


 ボソボソと自分に言い聞かせるように呟いた。


 頭の中は滅茶苦茶になっていく。


 歪だった家族。不破ばかりが起こる普遍的な家族の形に、新たな命が芽吹く。


 それは言い換えれば、その子ばかりが優遇されて、兄と自分の居場所は失墜する事を意味していた。


 兄は悪態を付きつつも、赤ん坊の世話ならするだろう。


 舞喜が赤ん坊の頃からそうだった。嫌々ながら、文句を何時も垂れるものの、最後には面倒を見てしまっていた。


 ミルクも、オムツ替えも、初めてのトイレも、ままごとも全て、学んだのは兄の嫌々ながら〜からである。


 それが大きくなればなるほど、兄は次第に見なくなった。


 何時までも子供ではいられないからとばかりに、一人前に行って、後方確認をしなくなった。


 背後にピタリとくっ付いて行こうとする舞喜には、兄の歩幅は大きくて、否応なく置いていかれる構図が生まれてしまう。


 気付けば、舞喜の居場所は喪失していた。


 母親の教育《ぎゃくたい》のお鉢が回って来てからは、それが顕著になっていき、最後には兄にすら見放されてしまった。


「僕もそう思う。悪かったな、僕が兄貴で」


 その言葉は昨晩、兄に言わせてしまった言葉だった。


 思い返し、苦渋を舐めたように酷く辛い顔を浮かばせる。


 答えて欲しかった言葉は真反対だった。


 もっと抵抗や意思表示を顕にして欲しくて、嘆いた言葉の返答がそれだった。


 完全な失策だったと気付いたのは、家を飛び出してからかなりの時間が経過した後の事。


 自分が居なくなっても、兄が居れば家族は仲良くなれると、本気で信じていた。


 託そうともした。しかし、見放されてしまって傷付ける結果に終わってしまい、後悔はだけが膨らむ。


 また、呆れられる。失態ばかりの自分を深く苛んで、痛め付けるだけの自分がこれ以上にない崖っぷちに立たされていると、この時ようやく悟った。


(⋯⋯アタシはどうして産まれてきたの?アタシはどうやったら、認められるの?アタシ⋯⋯アタシは⋯⋯⋯⋯。騎手《アタシ》は⋯⋯⋯ッ!)


 居場所はどうすれば手に入るのか。


 ────『勝利』にして掠め取れば良い。


「騎手《アタシ》の存在意義は何?騎手《アタシ》が必要とされる場所は何処?騎手《アタシ》はただ──」


 その勝利をどのように手にすれば良いのか。


 ────『争い』を巻き起こし、そうせざるを得なくすれば良い。


「騎手《アタシ》は認めさせたいだけなのにィィッ!」


 そんな事をしたら、皆が苦しむ。


 ────ならば、皆が『飢え』に苦しめば、対等だろう。


「アタシは⋯⋯⋯」


 黒い液体が目元から、口元から、耳元から、流れ込む。


 床に溢れ、溶け込んだように身体は侵食《こわ》され始める。


 だが、その黒い液体の流出は、途端にピタリと止んだ。


 僅かな間を空けて、呑み込まれるように身体の内側に収納されていく。


 舞喜の黒い瞳が鈍く煌めいた。


 白銀の瞳へと黒の瞳孔は剥がれ落ちる。


 変貌を遂げて、口元には涎のように黒い液体が滴り落ちる。


 目は血走り、床を手を付けていた筈が、気付けば床を掴むように、指先は床を大きく食い込ませていて、穴を開けた。


 恐れは途端に消失して、武者震いのように身体は震え出す。


 眉を顰めて、徐々に怒りが込み上げていく。


 烙印を押されるように心臓は熱くなり、血管に流れる血液は急激な加速を始めて、頬を赤らませる。


 パジャマに付着した血を見る度に、衝動は加速度的に増した。


(何をしたい?何をやりたい?どうありたい?⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯決まってる。ア(・)タ(・)シ(・)は────)


 齎さなければならず、果たさなければならず、尽くさなければならない。


『死』への挑戦と『死』という概念の超越。


『死』という人間ならば逃れようのない結末を齎すその存在は色濃く反映されていく。


 桐江舞喜は受け入れた。桐江舞喜は了承した。


『死ぬ』べきだと。『死ぬ』必要があると。


『死ななければならない』存在であるのだと、認知して、認識して、呑(・)み(・)込(・)ん(・)だ(・)。


「当たり前の家族が欲しかっただけなのにィィィィィ!!!」


『勝利』と『争い』と『飢餓』以上の恐るべき存在。


 最後の蒼馬。四騎士のフィナーレを飾り、最も直接的な象徴。


 揺らめく蒼白い馬には乗馬している者は居ない。


 馬を駆るのは何時だって人間であり、馬とて人を選ぶ。


 だが、その選り好みの時間は終わりを迎えた。


 その少女には乗馬の権利と義務が同時に与えられたのだから⋯⋯。


 いずれ誰にも訪れて、誰にもやってくる結末を『桐江舞喜』は取り込んだ。


 本来、十二歳の女の子が『死』という観点に対して、深く考えたりはしない。


 しかし、舞喜は違った。【ペイルライダー】に見初められてしまい、剰《あまつさ》えそれを取り込んでしまった。


 自分の価値は低いものだと──だから、死ぬべきだと、認識してしまったその瞬間に起きた出来事。


 求めるものは、一つの顛末。


『家族団欒《いっかしんじゅう》』のみ。


 抵抗感は少女の嘆き。抑圧されていくのは少女の呻き声。


 恐怖心は次第と抜け落ちてしまい、少女は少女の身でありながら、少女ではない何かに突き動かされていく。


 叫ぶと共に高揚感は跳ね上がり、躍動感に包まれた。


「ちょっと!アンタ、うるさ────」


 壁に亀裂が入る。地震でも起きたように室内は大きく揺れて、床に大量の黒い液体が流れ込む。


 映り込むのは三頭の馬だった。


 赤い色合いに黄色の目をした馬。


 黒い色合いに白色の目をした馬。


 白い色合いに黒色の目をした馬。


 床一面に黒い水面が浮かび上がる。


 その水面に透き通るその三頭は、対象者を睨む。


 眼光は水面からでも怪しく光る。


 逃れる事は出来ない。逃れる謂れは失った。


「な、なんだ?どうしたんだい!?」


 寝室から飛び起きた父親は、突然やってきた大きな衝撃の行方を探るべく、母親の近くへと向かった。


「なんだ?泥濘《ぬかる》んでる?」


 リビング一面が泥水に覆い尽くされたように、脚を重くさせていく。


 次第と身体は麻痺していき、身体は硬直した。


 父親、母親からは視認出来ないその三頭の馬によって睨まれた結果、身動きが取れなくなってしまった。


 ゆっくり、力なく立ち上がった舞喜は後方に居る両親の方へと振り返る。


 白銀に煌めくその瞳を向けて、口を動かした。


「【渇望しろ】」


「は?何言って────」


 母親に向けての言葉──ではなかった。対象者は一人。


 父親の方であり、急激な高揚感と果たさなければならない使命に心動かされていく。


 気付けば身動きは当たり前のように取れて、眼前で座り込んでしまった母親の後頭部を思い切り殴り付けていた。


「っっ!!あ、貴方⋯⋯なんで?うぅ⋯⋯⋯ぁぁ」


 突如やって来た奇襲。その犯人が愛している旦那の手によるもの。


 母親は酷く狼狽するものの、すぐに察した。


 目の前に居る娘による行いだという事に⋯⋯。


「舞喜ィィィ。アンタ、何やったの?!何したの!?お父さんにィィ?!?」


 顎に向かって蹴りを入れられた。


 脳を大きく揺らされて、寝室の扉に胸を強く打ち付けられる。


 縮こまるように身を固め、殴られる恐怖心に恐れる母親は、思考した。


 何故、父親が急に娘の命令を聞くようになったのか、を。


 そして────。


「⋯⋯⋯アンタ、まさか、身体使って⋯⋯⋯この淫乱めェェェ!!この人は、私の物よーーーッッ!!」


 若い肉体、艶のある肌。ニキビもなければそばかすもない。


 桐江舞喜、十二歳の美徳の一つであった。


 歳を取れば皺《しわ》は増える。皺が増えれば、興味は薄れられていく。


 女性の価値は当人それぞれだが、母親は自身の事を娘に比べれば、賞味期限切れだと認知している。


 だからこそ、身体を使えば靡くのはどちらか?それは、言わずと知れた結果なのだ。


 けれど、父親も阿呆ではない。


 娘に手を出すなんて愚行をする考えすら思い付いていないし、娘も懐柔目的で身体を差し出した試しはなかった。


 それは『現象』による効果──。


『飢え』を起こし、『争い』を撒き散らし、『勝利』へと昇華する為の効果。


 人類ならば誰もが平等に受ける洗脳であり、本能の活性化。


 それを舞喜は父親に与えたに過ぎない。


 痛みに耐え兼ねて、舞喜の方へと縋るように、躙り寄る母親は舞喜の脚を掴む。


 それをひたすら寡黙となっていた舞喜は、白銀の視線を刺しながら見下ろした。


 舞喜は笑う。怪しく、不敵に、恐れなどないとばかりに、高揚感がそうさせる。


「⋯⋯【飢餓の先を見ろ。飢えに耐えかねて、地べたを這いずれ】」


 それは拷問だった。


 満たされる事が生涯ない、呪いの言葉。


 常に空腹、常に喉は潤いを求め、常に衝動に駆られてしまう、戒めの呪言。


 見開かせれた瞳と瞳が向き合い、言葉は脳に大きく作用されていく。


「うぅぅ⋯⋯⋯。アァァァァァァァァァァァァ!」


 頭が常に割れそうになり、空腹感といつ如何なる時も飢えに苦しむ身体を与えられた母親の行動は早かった。


 舞喜の脚を手早く離すと、急ぎキッチンに向かい、冷蔵庫から食材をあったけ、キッチン台に置いた。


 そして、むしゃぶり尽くすように人参から白菜、牛乳に、ペットボトルに入った紅茶や、生の豚肉を口の中に放り込む。


 噛むなんて行為は行わない。ひたすらにしゃぶり尽くすように、生き汚く惨めったらしく食材を手に取る。


 ビニールやラップで保存されている物ならば、ラップごと食う。


 紙パックに入った飲み物ならば、角度80°を維持してコップに注ぐ事なく飲み干そうと意気込む。


 しかし────それらはすぐに吐き出されてしまう。


「うぅッ。⋯⋯⋯うぇぇぇ⋯⋯⋯。はぁ、はぁ、腐ってく、なんで?!」


 牛乳パックはすぐに冷蔵庫に戻された。次の食材を冷蔵庫からいち早く手に取る際、無意識に定位置に置いたもの。


 目が眩んだように冷蔵庫の中身に触れた。


 しかし、物は腐っていく。手で触れようと、舌に触れようと、喉に触れようと、胃に収納されようと⋯⋯。


 すぐに腐る。黒く変色し、卵は緑色の何かに色付き、堪らない吐き気に身を任せる。


 そんな事を延々と繰り返す様を見飽きてしまった舞喜は、佇むばかりで微動だにしない父親の方へと顔を向けた。


「⋯⋯⋯⋯お父さん、どうして家族の事、無視するの?お父さん、アタシ達家族の事、嫌いなの?」


「あぁ、嫌いだ」


「⋯⋯そっか。⋯⋯⋯⋯嫌いなんだ。⋯⋯そっか」


 何も感じなくなってしまった舞喜は、そのままキッチンに向かい、次なる食材を求めて冷蔵庫に手を伸ばそうとする母親の頬を思い切り平手打ちして、退かした。


 余った中身は、飲みかけの牛乳パックときゅうりと冷凍食品数種類のみ。


 母親が手に付けたものも含めて、全て准が買い揃えていた物だったが、今では数少ない。


 生でも齧《かじ》れるきゅうりを手に取ろうとするものの、舞喜を押し退け、そのきゅうりを強奪した母親が口に含ませた。


 しかし、結果は変わらなかった。


 蹲り、腹を押えながら首を横に振る。


「⋯⋯不味い。不味い、不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い不味い!不味イィィ!!」


「⋯⋯⋯お母さん、何か作ってよ?母親でしょ?」


「ハァァァァ?嫌に決まってるでしょ!?准に頼みなさいよ!」


 眉を顰めた舞喜は、キッチン台にある牛乳パックを手に取り飲む。


 目を細めて、喉の渇きは潤わない事に笑みが零れる。


「お兄ちゃん、学校だよ」


「はぁ、はぁ、はぁ。そんな事より、コレ、何?!お腹が空くのに、食べられない。食べられないのに食べたくて食べられないッッ!」


「飢えてるからだよ」


「知らないわよ!何とかしなさいよォォォ!娘でしょ!親の為に尽くしなさい!それがアンタらの存在意義でしょうに!」


 怒声は部屋に響き渡る。同時に外からの凄まじい衝撃が窓を揺らし、爆発音が絶えない中、舞喜はある一点を見つめていた。


「⋯⋯⋯そっか。じゃあ、もう要らないよね」


「え?」


 向かった先は食器棚。棚を開いて、陶器の薄い皿を手に取ると、それを窓に目掛けて投げた。


 パリンッ!と、豪快に窓に叩き付けられた事により三分割され、次々に投げ込んでいく。


 ストレス発散かと言われれば、決してそうではない。


 食べられないなら、あっても仕方ないという、断捨離的な行為。


 無感情にガラスのコップも、ガラス製の皿を投げ捨て、プラスチック製の皿は両手でパキっと真っ二つ。


「アンタ、何やってんの?何やってんのよォォォ!止めなさい!止めてぇぇ!」


 制止を訴え掛ける悲鳴にも動じず、背を向けながら、黙々と作業のように続ける。


 手前から奥へ奥へと捨てていく。ひたすらに機械のように、無感情に無機質なままに、割って、投げて、手に取って、放り捨てて、手に取っての繰り返し。


 破片は転がり、細かいものから大きく残ったものまで様々。


 そして、次へ向けて手を動かした舞喜の手はピタリと止んだ。


 右手側、奥に敢えてしまい込んだ濃いピンク色の兎柄のコップが、そこにはあった。


「⋯⋯⋯このコップ⋯⋯⋯。お兄ちゃん⋯⋯」


 珍しく貰ったプレゼント。決して値が張る高級品という訳ではない。


 貰った時点で既に、ヒビが入ってしまっており、危ない為、舞喜当人が両親の手によって捨てられないようにと、食器棚の奥へと潜ませるように隠したのだ。


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 取っ手を掴み、ゆっくりと引き出そうとする。


 右手で掴んだコップ。その右手を押さえるように左手が自然と右手を掴んで力を込めた。


 家族からの貰い物自体が比較的に珍しいこの家庭では、コップ一つは宝物に等しく、次第と右手は離されていく。


「お兄ちゃん⋯⋯⋯⋯⋯っ!」


 これ以上、無駄な行為を止めさせようと、舞喜の肩を母親は強く掴む。


「止めなさい!こんな事に何の意味があるの!良いから!離れなさい!」


「食べても吐くなら、もう皿なんて要らないでしょ?あんな食べ方するんだもん」


 貰ったコップを指を使って奥に押すようにして、触れられないようにすると、次に目に止まった皿を手に取る。


 その時、舞喜が手に掴んだ皿が目に留まり、思わず手を伸ばす。


「はっ!?それ⋯⋯結婚した時に貰った皿なの!」


 伸ばされた母親の手をひらりと躱して、皿を上に持ち上げて、届かないようにする舞喜は鋭い視線を母親へと送る。


 汲み取ったように母親は、腕を下げると、歯を食いしばりながら、頭をグググッと、ゆっくり、下げた。


「お願い、します。それだけは返して⋯⋯、返して!」


 誰がどう見ても、嫌々なのは明白。


 それでも、背に腹は変えられないと、悔しそうな表情を浮かばせながら、懇願した。


「そっか⋯⋯。ロクに使ってないけどね。こんな皿」


 いっそ、今までよりも勢い良く、鬱憤を晴らすように二枚セットになっていた赤と青の皿を同時に床へと叩き付けた。


「ぁぁぁぁ」


 母親の下げた顔。その視界には、砕け散ったガラス製の皿が粉々になった様を見せつけられてしまい、膝を落として、拾い集めようとする。


「私の、ぁぁ、なんでこんな⋯⋯⋯アンタ、な、何やってんのよーーー!!」


「⋯⋯⋯⋯」


 悲痛な声を上げながら、掻き集める。指は破片によって切れてしまい、血を床に落とす。


 砕けた破片にも当然、血が付着してしまうものの、厭わぬまま両手を最大限使って、血眼になる母親を見下ろす舞喜は思い返していた。


(⋯⋯⋯⋯これがアタシだったんだ⋯⋯惨めったらしい)


 叱られた時、さも当然のように、土下座をさせられた記憶が甦る。


 殴られた時、追撃で蹴られてしまった時の痛ましい痛みが甦る。


 それが今では、まるで真反対。


 立場が逆転したように、母親は這い蹲るように、惨めにも、修復不可となった皿を、何時までも意地汚く必死になって、頭を床に近付けさせながら掻き集めている。


 それが滑稽にも思え、愉快にも思え、愉悦を感じて⋯⋯自然と笑みが出た。


「ハッハッハ⋯⋯」


「アンタ、何笑ってんのよ!!」


「アッハッハッハッハッハッハッハッハッハハッハッハハッハッハ。最っ高ーー!何この高揚感っ!」


「⋯⋯はァ?」


「だって、お母さんが何時もやってた事じゃない!自分の為だけに壊す!特別だから誰がなんと言おうと他人を蹴落としてでも、我を突き通す!この心地良さ⋯⋯⋯、なーーーっんで!今まで教えてくれなかったの?!コレを知ってたら、知ってたら⋯⋯⋯」


 涙が自然と溢れ出る。深く心酔したように愉悦に溺れる少女の歪んだ笑いに、母親は絶句した。


 正しく壊れている家庭。その中で最も、堪える事を覚え、膿を発散出来ずにいた少女が、人生で最も得をした教訓。


 それは、『傷付くより傷付ける側の方が幸せ』だという事。


 被害者は心を蝕み、身体は毒牙に苛まれていき、全てを無くす。


 加害者は愉悦が脳を刺激して、幸福感と達成感に満ち溢れる。


 堪える事は偉い事で、間違っていない。


 堪え続ければ、何時か必ず判って貰える。


 堪える事で、人は同情されて、味方が増える。


 ──そんな舞喜の思想は、全てひっくり返った。


 堪えたところで、誰も褒めてくれなければ、矯正をしてくれない。


 堪え続けても、誰からも理解を得られず、見て見ぬフリをされる。


 堪えるだけでは同情はされず、何時までも孤独のまま死ぬだけ。


 勝ち取らなければならない。居場所も、意味も、理由も、必然性すらも、何もかもを。


 だから、少女はひたすらに笑った。


 それが叶うと確信的なまでの情動が、少女を歪に笑わせていた。


「あ、アンタ⋯⋯どうかしちゃったんじゃないの?!」


「そうだよ!アタシね、どうかしてるの!最高だよねェェェ!」


「⋯⋯⋯あ、ぁぁ」


 突き付けられる少女の顔には、今まで見た事もない狂ったような表情があり、母親の砕けた皿を掻き集める為に動かしていた筈の両手も、恐怖から動かなくなっていく。


「あ、あなた!何とか言ってよ!」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 一向に返事が返ってこない事に、母親は寝室の前で何時までも佇んだっきりの父親の方へと目を向ける。


 まるで、電力が切れたロボットのように、微動ダニもしない父親に、母親は躙り寄り、しがみ付くように身体を揺すった。


「ちょっと!」


「だから、言ったんだ。あの時⋯⋯。堕ろせって」


 母親の様子を窺う素振りを一切見せない父親の言葉には、覇気がなかった。


 何度腕を強く振ろうと、身体を揺すろうとも、何も変わらない。


「誰が好きで、君なんかと⋯⋯」


「な、何よ!ハッキリ言いなさいよ!」


 ボソボソと呟いた父親の声は、母親の喚く声に掻き消されていく。


 父親は好きでこの母親と結婚した訳ではない。


 父親には当時、好意を寄せた女性が居た。


 それを掠め取る形で、母親が無理矢理襲って身篭る事で、責任を取らせようとした結果、桐江家が出来上がったのだ。


 逃れられないと諦めて、家庭から逃げるだけの父親。


 傲慢の限りを尽くして、世間体にしがみ付く母親。


 見て見ぬフリをして、知った気になった愚か者の息子。


 そして──堪える事が賢い生き方だと信じた挙句、馬鹿を見るだけ見たメルヘンチックな娘。


 家庭内崩壊はとっくに起きており、今回の事が無くても似た結果には、きっとなっていた。


 ただ、早まっただけに過ぎない。


 ただ、実行した人物が娘だったか、兄だったかの違いだけだ。


 ただ、それだけの事。それっぽっちの出来事だ。


「お父さん?コッチに来て?」


 言われるがまま、不気味に歩き出す父親は娘の傍に移動を開始。


 初めは引き摺られるように父親の動きを制止しようとしていた母親も、床に倒れ込むようになってしまい、その行方を見守るだけとなる。


 そして、父親の顔を手で強く掴む。


 されるがままの父親は抵抗もしない。


 骨が軋む音が鳴る中、痛みに悶絶もしなければ、悲鳴も上げない父親は律儀な人形と化している。


「⋯⋯⋯⋯フフフ」


 僅かに持ち上がる父親。爪先がまだ地面に着く程度で、身長差から鑑みても脚が宙に浮くなんて事はない。


 不敵な笑みを浮かべた少女の顔は、母親の方へと向いた。


「な、何するの?何してるの?!何やってるの!」


「何って⋯⋯⋯⋯こうするの!!」


 そのまま、母親が掻き集めていたガラス片へ向けて、一気に父親の顔を思い切り投げるようにして、真下へ向けて叩き付けた。


「っぶぅぅ⋯⋯⋯⋯」


 大量の破片が顔に突き刺さる。鬱憤を晴らす時が訪れた。


「キャーーーッッ!な、何やってるのッッ!」


 頭部に脚を乗せて、ガラス片と顔面を押し付けるように体重を掛ける。


 皮膚を、肉を、骨を切り刻むように、ガリガリと脚を左右に動かしていく。


「お兄ちゃんがデキ婚で産まれたって言われた時、なんか予想着いたんだよねッッ!どうせ、お母さんが薬でも盛ったんでしょ?!でもね、だからって父親が家庭内で起きた事をスルーなんて、酷いじゃない?だから⋯⋯だからさァァァァァ!!!」


 下に押し潰すように頭部を踏み鳴らし、再度、ガリガリとガラス片を顔面に擦り付けていく。


「見て〜?お母さん、お掃除だよ?ちゃんと出来てるでしょ?掃除機じゃお皿は吸えないから、お父さん使おうと思ったの。ハッハッハ〜〜!人間モップだァァァ!」


 血溜まりが床に広がり始める。


 抵抗もせず、ひたすらに擦り付けられるだけの父親と、それを嬉々として実行している娘を見た母親の顔は絶望感と、恐怖心に身を震わせていた。


 自分もこれと同じ事をされる。最悪、それ以上の事をされる可能性がある。


「うっ!うぅぅッ!!うぅぅぅーーッッ!」


 気付けば、ガラス片に顔面を擦り合わせるという暴力は終わりを迎えており、ひたすらに父親の頭部を踏み付けて、床に小さな穴を作る作業に入っていた。


 地響きにも似た怒号が鳴る。踏み鳴らされたその音は鈍く轟いて、怨嗟と恨みを一身に乗せていた。


「お父さん、壊れたお人形さんみたい」


 ピクピクと痙攣する父親を見た舞喜の表情は間違いなく愉悦だった。


 これ以上にない加虐性と暴力性によって、自分の地位を確立していく達成感。


 死への片道切符を手向ける事が出来るという幸福感。


 そして、一人殺れれば、二、三人目も変わらないだろうという驕りが、鼓動を早める。


 求めるは、『一家団欒《いっかしんじゅう》』。


 あの世で仲良く、皆と手を繋いで幸せにその先を過ごす為の行為。


「お願い、止めて!止めてぇぇぇぇ!!!」


 飢餓に蝕まれ、抑え切れない空腹感と収まりようのない暴力性が常に身体を締め付ける中、苦虫を噛み潰したように叫んだ母親の張った声に、舞喜の眼がギョロリと向かった。


 萎縮させられる。後退りして、距離を取ろうとしてしまう。


 本能的に恐怖心が勝ってしまい、視界に収める事を躊躇してしまう母親は、震えながら手を床に付けながら、壁に背をぶつけた。


「⋯⋯⋯⋯誰に命令してるの?」


 父親の頭部から脚が離れた。


 邪魔だとばかりに父親を蹴り飛ばし、リビング方面に転がして、グチャっとドロっとした肉が叩き付けられた音が鳴る。


 一歩。母親を捉えて、歩き出す。


「はァ⋯⋯?まさかとは思うけど、アタシにじゃないよね?ねぇ?違うよね?」


 二歩。圧が掛かったように、母親の全身に重さが加わった。


「アンタ以外居ないでしょ!?馬鹿じゃないのーッ!はっ⋯⋯。ち、違うのよ!今のは⋯⋯その⋯⋯」


 三歩。壁を沿うようにして、全力で座り込んだまま壁沿いにある寝室へと逃げようとする。


「⋯⋯アタシね、食べ物に触れると、その物腐っちゃうの。お母さん、何でか⋯⋯分かる?」


「し、知らないわよッ!!」


 這うようにして寝室へと入る。


 奥にある窓を目指して四つん這いのまま、涙ながらに腕を伸ばす。


 けれど、その腕はすぐ近くまで来ていた舞喜によって掴まれてしまう。


 ゆっくりと顔を近付けて、耳元でその答えを呟く。


「お父さんとお母さんの子供だからだよ」


「わ、私達のせいって言いたいの?!」


「⋯⋯じゃあ、なんで?答えてよ」


「それは⋯⋯」


 冷たい視線が新たなる解答を求める。


 完全に恐怖に支配された思考。唇を震えて、身体はどうしようもなく自由を求めて藻掻く。


 振り払おうとする腕と、大して力を込めずに拘束し続ける手は、拮抗なんてものを見せず、抵抗は徒労に終わる。


 答えを待つ舞喜の視線が、母親の思考を鈍らせる。


 焦燥感は増すばかりで、正しい解答が何か、掴めていない母親は、自身が生き残る為に考えていく。


(私達のせいじゃない。私達は悪くない。私は悪くない!私は⋯⋯⋯⋯そうだ、そうよ!そうだったのよ!)


 傲慢な性格から導き出された一つの解答。


 その答えには自信すらあり、間違いなく納得して貰えるものだと信じていた。


 口角がぎこちなく上がり、歪な笑みを浮かべながら、舞喜の腕を強く掴む。


「お兄ちゃん⋯⋯。そう、お兄ちゃんの妹だからよ!それ以外ないわ!」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯そっか⋯⋯」


「そ、そうよ。あの子を捨てましょ!そうしましょ!ちゃんと、ちゃんとするから!だから、ね?」


 駄目押しの言葉で完全陥落。


 勝ち誇りは母の涙と共に有り。〜完結〜。


 と、そうなれば勿論良かったのだろう。


 血はこれ以上流れない。被害者は増えず、自宅から兄が出るという事自体、本人すら簡単に了承しそうなものだった。


 だが、それは母親の緩くて、何処までも自分にとって都合の良い話でしかない。


 白銀に染まった瞳は瞼によって隠された。


「お母さん」


「な、なになに?!」


 母親の腕を掴んだ手が、そっと離れる。


 終わった、ようやく理解してくれた。ようやく解放される。


 この後の算段として、警察に連絡し、娘を保護所に送って、自宅を捨ててでも距離を離す。


 そうして、二度と、永遠に、金輪際、娘と関わりを持たなくて済む。


 狂って、イカれた娘の気色の悪い顔など見なくても済む!そう、母親は安堵すら浮かべていた。


「お母さん、産んでくれて有り難う。お陰で────」


 先程まで母親の腕を掴んでいた手は距離を離していき、母親は大粒の涙を浮かべる。


 優しく口角を上げた舞喜の表情からも、この先は何も起きない。


 確信していた──。それを人は、油断と言う。


 閉ざされていた瞼は開き、白銀の瞳が露わになる。


「お母さんの醜い顔が見れるよォォ!」


 離れようとした舞喜の手は、指をピンッ!と伸ばして、母親の腹を抉った。


「ッッ〜〜。ぁぁぁぁぅぅ⋯⋯⋯⋯。イヤァァァァ!!」


 脚がバタつく。悲鳴は絶叫へと変わり、痛みで発汗を起こす。


 痛みと同時に気持ち悪さが込み上げていき、突き破られた腹の方向を、母親は見てしまう。


 グチャグチャと内蔵を掻き回し、腸を引き摺り下ろすように引っ張り、更にもう片方の手で、その穴を広げていくその様を。


「ぁぁぁぁぁぁ⋯⋯⋯⋯ぁぁぁッ!」


「ヒャッハッハッハッハッハッハ!!何その顔ォ〜!最高!最高だよォォ!こんな顔が見たくて、堪らなかったの!有り難う、産んでくれて!育ててくれて有り難う!本当に最ッッ低の人生だったよォォォ!!!」


 腸を握り締め、ブチブチと音を鳴らす。


 腸の少し下、新しい生命が宿る箇所を舞喜は目視で確認すると、二ヘラァっと歪な笑みを浮かべると、それを引っ張り出して手で潰していく。


「ぅぅぅ、あぁぁぁぁぁ〜〜ッッ!!」


 強烈な痛みによって、爪を立てて腹部を抉っていく腕を引っ掻きながら、藻掻かせる。


 縦に伸びた赤い線が四本。泡を吹き出しながら、涙と鼻水を垂らして、悶絶して、絶叫して、失禁して、抵抗して、意識が絶たれそうになると、顔を殴り付けられて無理矢理覚醒させられた。


 血がベッタリと顔に付着し、匂いが酷くなる。


 小さな噴水のように血が腹部から溢れ出た。


 舞喜が着ていたパジャマが更に血で染まり上がるも、当人は気に留める事はない。


「⋯⋯アタシね、許せない許さない許しちゃ駄目だと思うの!よりにもよってお兄ちゃんを捨てるなんて!あんだけ贔屓して、あんだけ贔屓しまくって!散々口酸っぱく贔屓しまくってて、最後にそれ!!?信じられない、信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じられない信じ───あーーーーーーーーーーー!!!!」


 日頃から何かと比較され続けてきた鬱憤。


 散々、振るわれてきた暴力のツケが回ってきた。


 罵り、嘲り、嘲笑して、侮蔑を意味する言葉の羅列は無限大に思い出せる。


 大腸を引き出していく。ヌルッとする感触と、僅かなザラ付きが異様に残る手を脇目も振らずに動かし続ける舞喜を止められる者は誰一人としていない。


「やって当然、出来て必然何だよねェェェ?!なのに⋯⋯⋯⋯アタシのお兄ちゃんを、お前が!お前のせいで!お前のせいで!お前の!!お前!お前!!お前!!お前!あぁぁぁ!!!あーーッッ!!!死ね!死ね!死ね!死ね!アタシの為に、お兄ちゃんの為に⋯⋯⋯し───」


「⋯⋯⋯⋯母さん、父さん、居るか?⋯⋯⋯母さん!父さん!」


 玄関の方向から声がした。


 よく聞き馴染んだ声の主は、コンプレックスの対象であり、喧嘩別れしたっきりとなっていた兄のもの。


「⋯⋯⋯お兄ちゃん?!なんで⋯⋯?あ、ど、どうしよう!あ、アタシ⋯⋯⋯⋯⋯いや、でも⋯⋯」


 白銀に染まっていた瞳が、元の黒色に戻っていく。


 焦る様子で握った子宮を床に落とし、息を荒らげる。


 大量に付着した母親の血液は、血生臭く、髪はベトベトに仕上がっていた。


 頬にも首元にも、手に脚の指の間にもそれは付着してしまって、言い逃れようのない事態になっている。


 誰がどう見ても、舞喜以外に犯人は居ない。


 そんな構図が出来上がっている中、舞喜は薄っすらと微笑む。


「お兄ちゃん、お父さんとお母さん、嫌ってたんだもん。褒められるよね。居ても良いって⋯⋯。アタシ、生きてて良いって⋯⋯」


 母親の髪を鷲掴みして、引き摺っていく。


(アレ⋯⋯?どうして死にたいんだっけ?アレ⋯⋯?どうして生きてて良いんだっけ?アレ?アレレ?アハハ⋯⋯⋯なんだか、訳分かんなくなってきちゃった⋯⋯)


 苦笑いにも似た何かを浮かべた舞喜はそのまま母親を引き摺りながらリビングの方へと歩き出す。


「褒められなきゃ、認められなきゃ」


 そう自身を奮いに掛けていく。


 ズルズルとフローリングを擦る音が耳を劈いて、母親の背に一発だけ蹴りを入れ込み、振り返ってリビングへと向かう。


 チラッと、覗き込もうとするものの、顔に母親の血液が何時までも付着していては、怖がられると思い、拭っていこうとする。


 が、既にパシャマの裾も袖も血液でベトベトな状態。


 仕方ないと、母親の衣服、背中側を使って顔を拭いた舞喜は静かに頷くと、ヒョイっとリビングで父親の状態を見て唖然としている兄の方へと顔を出す。


「おかえり、お兄ちゃん」


 せめて気持ち良く笑った。その笑みが、何処となく歪になってしまっているのに気付く事はない。


 そして、コレから⋯⋯兄にすら手に掛ける事をこの時の舞喜は予期していなかった。


 アレから、十数分後──。


 娘を除いた家族三人はリビングに転がった。


 そして、兄を手に染めた少女は、自室に向かい、惨めな自分を許せないとばかりに、自分の居た痕跡を消すかのように部屋を荒らす。


 小テストの答案用紙を握り潰し、馬鹿みたいに騒ぐだけ騒いで、逃げるように玄関を出た。


 自分が生きていても良い理由──それを探る為、植え付けられた使命に身体が動く。


 虚ろな瞳は崩壊した街へと向けられる。


 濁り切って、焦げ切った感情は、その日の活動限界まで、滾る事を止めなかった。


  ━ ━ ━


 暗転し始めた世界から吹き抜けるような風が、身体を包んだ。


 深夜の時間帯特有の冷たい空気が漂う自宅まで戻ってきた二人。


 朝倉拓也は准の顔を窺うように見つめると、肩に手を置いた。


「どうだった?」


 未だに震えたままの身体を縮こまらせるように、肩を狭め、振り返る。


 目線の先にあるのは食器棚。


 食器棚に答えがある、その解答が分からなかった准へ朝倉拓也が気を利かせて送られた『世界の記録』の光景は、途中から食器棚に目が行かなかった。


 暴れるだけ暴れて、怯えるだけ怯えて、悲鳴をあらん限り上げたあの劇場は、真に地獄絵図そのもの。


 手を汚した側も、傷付けられた側も、双方にメリットのない惨劇が繰り広げられただけであり、准の心臓は高鳴りっぱなしだった。


「⋯⋯⋯僕が思ってた以上に舞喜は辛かったのと、思った以上に好かれてたって分かった、気がする」


 食器棚にある濃いピンク色のコップを手に取る。


 ヒビが入ってしまい、使い物になるか、ならないか、使ってすらいない為分からないそのコップを手に取った際の舞喜の表情は、あの瞬間だけは、間違いなく普段の舞喜のものだったのを、准は間近で見る事が出来た。


 泣く訳にはいかない。泣けば、隣に居る男が頬を抓るからだ。


「このコップさ。どんなものかなって、期待しながらラッピングが解いて、出てくるのがコレなら、面白いよなって、揶揄う感覚で買ったんだ」


 少年は語りたくなった。このコップを購入した経緯を。


 単純な悪戯心と、多少の好奇心に負けて買っただけのコップであり、店員からも、マシかよ⋯⋯とばかりに白い目で見られながら購入したそのコップは、本来大した価値にはなり得ない。


 ただ、この桐江家において、妹の舞喜へと贈る物だったからこそ、意味があったに過ぎなかった。


「けど、『現象』が現れて、自転車ごと落としちゃって、ちょっとヒビが入っちゃったんだ⋯⋯⋯⋯」


「⋯⋯オチ、読めるぞ?」


「やっぱり?────そう、喜んでくれたんだよ。目キラキラさせて、ヒビ入ってる事に文句こそあったけど⋯⋯、嬉しそうだった」


 睦生六華と初めて出逢い、自宅で会話をして、去った後の事。


 お食事会を終えて、帰ってきた舞喜は当然のように自室へと入ると、机に向かって勉強を開始。


 そのタイミングを見計らって、ラッピング袋に入った濃いピンク色の兎が彫られたコップを手渡した。


「⋯⋯⋯良いの?」


「進学祝いだからな。要らないなら、僕が使うだけだ」


「要る!」


 食い気味だったその姿勢に、苦笑いを浮かべながら、ラッピング袋を受け取らせて、その様子を確認していく。


「⋯⋯⋯⋯⋯」


 自然と准は微笑んだ。舞喜はじっくりと中身を確認していき、興味津々な様子で袋をゆっくりと開けて、そっと手に取った。


 口元を少し震わせて、泣きそうな面を浮かべながら、顔を上げて准を見る。


「えへへ、お兄ちゃん!ありがとう!」


 ただの自己満足のつもりだった。


 偶にはそういう事もしてみよう程度の認識で購入した筈が、贈った側も何処か嬉しくなれたその日の夜は、もうやって来ない。


 思い出になって、兄妹の内、どちらか片方が話を切り出すまでは訪れる事はない。


 何時かは忘れてしまう程度の出来事は、別の誰かにとっての当たり前で、桐江舞喜にとっては、かけがえのない出来事であった。


 今では贈り物を置いて、当人は何処かへ家出中。


「少年」


「分かってる。舞喜の事、少し分かった気がするから⋯⋯。僕、頑張るよ」


「⋯⋯あぁ、頑張れ」


 静かな激励は確かに届いた。


 胸を締め付ける感覚は、確固たる意思を焚き付けていく。


「アイツの嫌いも、好きも、全部受け止めて、全部引っ括めて、アイツを受け入れる」


 言葉にしていく。絶対に果たさなければならない事だと、言い聞かせるように。


 今度こそ、間違わないように。


「受け入れて、ちゃんと家族になる。両親の分まで、ちゃんと愛して、ちゃんと────」


「それは俺に言うもんじゃないぞ」


 言葉を塞き止める。ハッとなった様子で、朝倉拓也へ視線を向けると、少し頷いて促すようにする。


 唇を噛み、手に取ったコップを食器棚に戻した。


「⋯⋯そうだな。ちゃんと言う。明日、全部言う。ちゃんと言葉にして、伝えて、認めて貰う」


 食器棚には唯一残ったそのコップ三つは、一様に色も大きさもバラバラだった。


 その中でも、やはり異彩を放つ濃いピンク色のコップは、よく目に留まり、あの日手渡した妹の顔を想起させる。


 買って良かった。──罪の意識が増すのだから。


 手渡して良かった。──あの日の笑顔を取り戻したいと躍起になれるのだから。


 残してくれて助かった。──まだ、ちゃんと繋がりがあるのだと、確信が持てたのだから。


 桐江准は、普通では無くなった妹を、普通にする為、険しい顔をさせながら、食器棚の戸を静かに閉めた。


 残り数時間後に活動開始。


 それまで英気を養うべく、部屋に戻った准は、ぐっすりと眠りに着こうとする。


「あ、忘れてた」


 机に向かって『ある物』を鞄の中から取り出して、声に出しながら頷く。


 最後に手に小さな筒を握って、布団の中に潜り込む。


 六華が封印されている小さな筒を枕元に置き、『遺品』は机に置かれた状態で、ようやく準備は万端となった。


 明日の為の着替えも椅子に置かれていて、舞喜に語り掛けるべき言葉も考えている。


 失敗は許されない。恐れもあれば、不安は解消されない。


 それに対して、大丈夫だと自分に言い聞かせながら、布団に包まった准の寝息は聞こえてきた。


さぁ、決戦日、次回から始めるよ!

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