小さな救済
『象願林』。
この街が質素で変哲も無い村と呼ばれていた頃から存在する神様を祀っていたとされる場所であり、知名度も認知度も、この街出身の者なら誰ならそこそこある林だ。
大きさとしてはそれほどでもなく、二キロ平方メートル程度の小さな林であり、道に迷う事も少なく、舗道すらされている、なんて事のない場所でもある。
そんな場所に呼び出された僕は、岩に彫られた『象願林』という文字を凝視して、中へと入って行く。
この暗がりは、月明かりすら木々によって押し殺されているような所であり、進めば進む程、その視界に映る景色が黒く染まり上がっていって不気味さを醸し出していた。
息を呑む。そっと、誰かに気取られないように進めていく脚取りはさながら、コレから何が良からぬ事をしようとしている者のようで、勇気が試されているようだった。
息は荒くなり、目的地に辿り着いても落ち合う地点を言われていない事から、脚を進めるか、止まるかを迷わされる。
けれど、立ち止まれば背後に何か居るような感覚がずっと付き纏ってくる為、自然と選択肢は絞られていく。
僕が気付いた頃には、『象願林』の奥に辿り着いていた。
「⋯⋯⋯⋯⋯なんだここ⋯⋯」
水面があった。月明かりを綺麗に染めた湖が眼前にあって、気付かぬ内に心奪われていた。
波一つ立っていないその景色に、僕は思わず脚を動かしていく。
『象願林』は【翡翠色の象】が祀られている場所、という認識でしか聞かされておらず、こんな綺麗な湖があるなんて聞いた事もなかった。
辺りには山が埋めつくし、雑木林が立ち並ぶ。
まるでこの湖を囲っているように、護っているようにも見えるその景観に脚を踏み入れた。
無人の中、僕は大きく深呼吸を繰り返す。
この場所だけが、街の悲惨さと地獄のような光景とは切り離されたようにも窺えて呆気に取られる。
「すげぇ⋯⋯⋯⋯」
深まり出す夜の時間帯故になのか、星空が鏡のように湖に映し出されている事に驚愕した。
御伽噺のようなこの場所に、僕は脚を踏み入れていて、物語の中に入っているような感覚が心を踊らせる。
知らない景色、知らない場所、見た事もない美しい背景。
それら全てが僕の心を埋め尽くす。
湖の前に立ち、顔を窺わせる。
酷い顔だった──。自分のしでかした事だと言うのに、自分が被害者のように濁らせるその不細工な面に心底失望した。
傷跡のようなものは何一つとしてないというのに、気怠げな表情はより濃くて、衰弱でもしているような面構えに、より絶望していく。
上空を見れば月がより一層輝いて見えた。
湖を見渡せば、星空が瞬いて見える。
そんな中、場違いのようにポツンと立っている僕は何者か、考えさせられた。
僕はアイツの兄貴というレッテルを剥がされただけの、ただの愚か者。
それだけしか、考えが至らない現状の中、足音が後方から鳴った。
「これはお前次第だぞ少年。俺は手を貸せない。既に【啓示】も【七人の天使】も【悪魔の王】と【紅蓮の龍】も【降り注ぐの苗種】も【鉄槌の火柱】も【婚宴】も【再臨】も【種による選別】も全てぶっ潰した。けれど【ヨハネの四騎士】は違う」
男はそう言いながら、僕の背後から近寄って来る。
目的地はここだった事は明白で、振り返る僕に対して不敵に笑うのみ。
「何で⋯⋯ですか?」
どうして【当て馬】と呼ばれる者だけの対処を怠った──いや、敢えて逃したのか、皆目見当が付かなかった。
僕は見た。この人が『黒く巨大な角の生えた化け物』と『深紅に染まった龍』と対峙している所を。
『六華』にしても同じ事で、それだけ出来るなら、どうしてやってくれなかったのだろうか。
どうして、わざとらしく舞喜に関してのみ、残したのか⋯⋯⋯⋯、そのまま終わらせてくれればどれ程良かった事か、どれ程安心出来た事か。
「結局は人の物語だからだ。少なくても、事態を招いた根源はいても、それを最後に受け入れたのは妹さん本人だからな。そのせいで憑かれた。皆が皆、否定していた中、一人だけ受け入れたんだ。これでいいやってな」
『人の物語』とは、つまり⋯⋯⋯⋯。
僕の負わせた責任は、僕が果たせという事なのだろう。
けど、それだと疑問が残る。
「あんな事を、ですか?⋯⋯舞喜が本当に?」
舞喜のやらかした事は一にも二にも、加虐性が有り余ったような動きばかりだった。
母さんの腸を抉って、父さんの顔をぐちゃぐちゃにして、僕の生命を停止させようとするあの動向に、僕は懐疑的なのだ。
『受け入れた』──そう口にはするけれど、舞喜がそれを許容するビジョンが見えない。
「そうだ⋯⋯。傷付くより、傷付ける方を取ったという話さ。皆傷付くのは嫌だろ?」
傷付く。そう言われてしまえば、何も言えなかった。
それを一切無視して、関係ないフリを続けていた僕が最もの加害者なのだろう。
責任逃れのように妹の振る舞いを、母さんの行いも父さんのスタンスを全て──。
理解した気になって、許容したような過ごし方をして、抵抗だけして解決しようとしなかった僕自身が、舞喜からすれば酷く歪な存在にも見えたのかもしれない。
今日、舞喜は言った。
「──アタシね、感激したの。激励したいって思った!誰かを従わせるなら結局は力でッ!捩じ伏せるのが早いんだって!ほら!お兄ちゃんが昨日、お母さんにしたみたいにさ〜。アレ、正直────興奮した」
僕としては、そんなつもりは無かった。
苛ついて、ただ抵抗するように母さんを殴ったようなものだった。
けど舞喜にしてみれば、そうは見えなかったのだろう。
自分の今の現状を打開する為の方法であり、活用法で、自分を肯定させる為の手段だった。
母さんが日頃暴力を行っているよりも、普段それを行わない僕がする事により、『暴力』という行為に舞喜は意味を見出した結果、『傷付けられるよりも傷付ける事で従わせる』というスタンスが生まれたのだろう。
僕が普段から思っている舞喜の印象と今回の舞喜の印象の最大の相違点はココだ。
『暴力』という行為に歯止めがない。
むしろ、それを行う事で屈服させて、自分が上で相手が下だと言う方針を取った事で、自分の存在価値を高めようとしている。
傷付けられるよりも、傷付ける方が良い──。
その考え方自体が、そもそも傷付けられた側の思考だと気付いているから、それに縋ったようにも見える。
「どうして。こんな⋯⋯」
憂う気持ちもある。でも、そんな感情はきっと舞喜にとっては露程のもので、塵芥にして捨てても良いのだろう。
僕という存在は舞喜にとっては不要で、不必要な存在だと、本人の口から言われた。
どうして、こんな事になってしまったのだろうか。
もっと上手く、向き合って接してやれれば⋯⋯。
いや、何が違ったのだろう。
母さんからの評価を常に気にしてきた舞喜にとって、僕がどれほど言っても、きっと変わらなかった筈だ。
「分かっているんだろ?そもそもの切っ掛けは少年、お前だ。違うか?」
隣に座り込んだ朝倉拓也がそう呟いた。
切っ掛け、それは昨日の夜の些細な喧嘩。
僕にとってはその程度の認識だった。
すぐに舞喜は帰ってくる、どうせ不貞腐れながらも部屋に居る。
そう思っていたのに、ドアチェーンが何故か掛けられていて、慌てた僕が駆け出したら気絶して朝を迎えていた。
(⋯⋯⋯⋯なんだよ、それ⋯⋯⋯⋯本当に、なんだよッ!)
あの夜、もし僕が追いかけていれたら、何か変わったのだろうか。
あの夜、見つけて話をしていれば、何か変化はあったのだろうか。
いや、どうだろう⋯⋯⋯⋯。
下手をしたらあの時には既に『暴力』と呼ぶものに対して羨望のようなものがあったのかもしれない。
行う勇気を後押しする形で【当て馬】が取り憑いたのなら、直接それを肯定したのも、舞喜当人でしかない。
けれど、そうなるように意図せず誘導して、決定的にさせたのは、他ならぬ僕自身だ。
そう思えば、日頃からあるコンプレックスの象徴である僕が今更、どうこう言っても仕方ないようにも感じる。
「⋯⋯いえ、そうです。けど、僕がアイツに対して何を言っても⋯⋯」
「それを無理にでも聞いてもらう為の期待を密かにしてるから、俺の話を聞いてるんだろ?」
僕の指がピクリと動く。どういう訳か胸中穏やかではいられない。
完全に図星を突かれたように顔は引き攣られていくと共に、自然と畏まったような姿勢を取ってしまった。
完全に言いくるめられた子供のように、ただ俯いた。
反論も討論の余地もない。僕は密かに期待している。
この人なら、僕という愚か者と舞喜との関係に対して、修正点を見出してくれる事を。
どう言った風に言葉を投げ掛けて、どう言った風に動けば、元の舞喜に戻ってくれるのか。
そして、元に戻った舞喜に対しての償い方というものをこの人なら、『朝倉拓也』ならば導いてくれるのではないか、そう思わざるを得なかった。
縋れる人が一人しか居ない、という消去法という訳ではない。
正しく、この人なら⋯⋯⋯⋯なんて思考が明確に僕にはあった。
悔しさなんて湧いて来ない。事実しか言い当てられていないし、全くもってその通りだったから。
こんな人気のない場所に行け、そう言われて、のこのこと独りでやって来てしまっている時点で、お察しだったのだろう。
「だったら、やる事は単純だ」
立ち上がった男は僕を見下ろす。景気の良い顔をしていて、僕とは真反対。
頼れるか否かは、僕では測れない。けど、頼らざるを得ないのもまた事実だった。
「まずは、思いの丈を叫べ。何の憂いも要らない。家族を助けるのに、自分に凝りがあっちゃぁいけないんだ」
「アンタ、なんなんだ?」
僕は一度として、助けてくれとは言っていない。
けど、まるで悟ったように、見て来たように、僕の言葉に合わせて動き、発言するこの男が俄然分からなくなってきた。
「⋯⋯ふっ。誰だったら良いんだ?神様か?人か?それとも化け物だったりして?」
二ヘラァっと笑う男は揶揄うように、そしてわざとらしく嘲笑しているようだった。
僕はその人をさながら、神様とも、人とも思えなかった。
この人が現れてから劇的に何かが変わった感覚が、確かにある。
黒い髪に青い瞳。黒いジャケット、濃い緑色のズボンと茶色のブーツのようなものを履いた、よく分からないヘンテコな男。
『龍』を当たり前のように屠り、化け物を当たり前のように淘汰する正真正銘の怪物。
僕は男を見上げて、敢えて、笑った。
「⋯⋯誰でもいいですね⋯⋯。悪魔でも」
その言葉はほんの少しでも対等で居たいという、一種の慰め。
この人のように不敵で在りたいという慢心だった。
この男のように、なんでも悟れて、理解したい。
僕のような偽りではなく、事実として悟っている人間で在りたいという心からの願望が明確にある。
「はっはははー、違いない!さぁ、叫べ!思いの丈を!お前は何を望んで、何を求めた!その全部をぶちまけろ!」
僕は喉が鳴った。何故そんな事をしなければならないのか、少し戸惑った⋯⋯。
訝しんだように男を見つめる。けど、男はそれに対して自信ありげに僕を見下ろして、深く頷くのみ。
それ以上の事は何も言わない、言ってこない。
そうしなければならないという強迫観念のようなものすら湧いてくる。
徐ろに立ち上がった僕は、星空が綺麗に反射する湖を前に萎縮した。
ぶち撒けたい心は、あるにはある。
けど、気恥しさのようなものも当然あって、僕は再度、後方へと移動して見守るように腕を組む男へと視線を送った。
それでも男は頷くのみ。それ以上の事は何もしない。
こうなればヤケだと、ぶち撒けたい思いを言葉にするべく思考する。
何を言いたい、何を叫びたいか。
一杯、沢山あって、思いの丈なんてものでは括れない程に山のように積み重なっていた。
募り積もった言葉の羅列をどう言語化させようか。
瞼を閉じて、小刻みに一定間隔に息を吸っては吐いていく。
(僕が今、一番吐き出したい事。叫びたい事⋯⋯。これだけはって言葉は⋯⋯⋯⋯)
欺瞞や嘘偽りのない言葉を吐きたかった。
純粋で有り触れている、なんて事のない言葉は要らない。
僕はきっと、コレからも間違える。
僕はコレからも何かを踏み外したように、誰を苦しめてしまう。
それでも、そうだとしても。諦めたくなかった。
一つ諦めてしまったら、それがずっと当たり前になってしまうんじゃないか、そういった恐怖があった。
僕が欲しいのは『当たり前の日々』。
母さんも父さんも、もう帰ってこないかもしれない。
仮に舞喜が戻っても、僕は一生恨まれて、妬まれて、嫉みの限りを尽くされるかもしれないけど、それでも良いと思った。
僕がそれだけの行いをしてしまった、それはもう変えられないが、コレからを変えたと強く願う。
激しい流動に呑まれる。心の機微は一つの感情に覆われた。
責任の取り方もまだ分からなくて、どう償えば良いのか見当が付いていない。
だとしても、僕は捨てたくなかった。
自分に残った良心の呵責か、或いは意地汚さが、僕を心を燻らせていく。
僕が掲げてきた『普通』は、色彩が無数にある画用紙のようなもの。
ヘンテコで、歪な形で、それが何を示しているのか、という問いにすら答えられない疎らで芸術性の欠片もない稚拙な光景。
誰が見てもつまらなくて、誰が居ても良いそんな『日常』が僕は欲しい。
『普通』という有り触れた事柄は、僕一人では成し得ない。
『普通』という敷居の低さは、『日常』という浸透しきっているものへと昇華させたかった。
僕が居て、舞喜が居て、六華も、睦生も、祟良把も居る。
そんな何処にでも居て、有る。
そんな『普遍』が欲しいと強く願った。
見栄を張ったように大きく息を吸い込んで──────吐き出された。
「俺は棄てない!俺は助けたい!何もかも、見捨てない!『日常』を⋯⋯諦めてたまるかァァァァァァ!」
傍から聞けば、蛮声にも聞こえたのだろう。
見知らぬ人からは、大声で叫んだ事により、驚かれる事であり、人気のない場所だからこそ出来た事だった。
木霊はしない。一方通行に流れた僕の雄叫びは山に掻き消されて、反響もなく沈んでいく。
「ふっ。最高だな、少年」
腕組み後方理解者面をする朝倉拓也はそう呟いて、嬉しそうな笑った。
僕もそれに釣られて、少しだけ笑ってみせる。
「じゃあ、始めるか。お前の凝りを取り除く為に」
朝倉拓也は腕組みをやめて、ポケットに手を突っ込むと、大きな欠伸をしながら、再度前を歩く。
隣に立って、僕を見て、頷いた。
コレから何を聞かされるのか、コレからどうなるのか、僕には分かり得ない事だけど、僕は舞喜を元に戻す為、六華がちゃんと居てくれる為、僕は真っ直ぐと前を見つめる。
「お前が悩んでる事はなんだ?まずは、ちゃんと言語化しろ」
「⋯⋯⋯舞喜を元に戻したい。けど、舞喜は僕を⋯⋯それだけじゃない。家族を嫌ってる。でも、舞喜を元に戻すには、僕達家族が謝罪する必要あるって思ってた。なのに、肝心の父さんと母さんは夜逃げしちゃって⋯⋯」
後ろ姿が今でも焼き付いている。
完全に見捨てたような表情は、冷徹と思えないでいた。
完全に見慣れた表情、普段から当たり前のように僕達に向ける視線で自宅去った僕の両親。
今更、追い掛けても無駄なのは明白だった。
手立てなんてものは、何一つとしてない。
「⋯⋯成程。お前一人では出来ないのか?」
「出来る訳がない。僕は特に嫌われてる」
コンプレックスが災いした最悪のケースだと思っている。
誰よりも助けたいのに、誰よりも距離があるのだ。
ある意味、一番の地雷だと自嘲気味に自認している。
そんな地雷源こと僕、桐江准が舞喜に何を言っても、きっと聞き入れては貰えない。
俯いてしまうまでに時間は掛からない。
僕はあれほど啖呵を切ったというのに、もう自信を喪失しそうになっていた。
「お前が嫌われてるって言う、その考え方をどうにかしなくっちゃな」
悠々とそう口にした朝倉拓也の言葉に僕顔は徐ろに上がっていく。
「え?」
「家に帰って、食器棚の中を覗いてみたら分かる」
「⋯⋯⋯?」
食器棚⋯⋯そこに何か特別な何かなんてあるとは思えない。
とは言え、今日一日、食器棚を覗いてのも事実だった。
「⋯⋯⋯次、何を悩んでいるんだ?」
取り留めもなく、次の疑問や悩みを打ち明ける手番が回ってきた。
僕としてはまだ解決していない事だったから、まさかの後回しに少し動揺してしまう。
「え?あー、えぇと⋯⋯⋯⋯責任、取り方」
「なんだって?お前、カラオケで悪戯混じりにマイクの音量バーを弄られた奴かよ。小っちゃくなってくなぁ〜」
「そんな展開、見た事ないんだが⋯⋯⋯」
どうやら、声のボリュームが自信の無さに表れて、絞られていってしまったようだ。
そんな事で、わざわざ復唱するのも恥ずかしいが、それをちゃんと言えないのも恥ずかしい気がして、今度は声を張るようにして述べた。
しっかりと聞いて貰うように。しっかりと理解されるように──と。
「えぇと⋯⋯⋯。その、舞喜に酷い事をしたんだ。だから、その⋯⋯⋯⋯。戻ったらその責任を取ろうって思ってて」
舞喜にお鉢が回ると分かっていながら、母さんからの期待を自ら手放した事。
舞喜が頑張っている事に対して、一度として『頑張れ』の一言も掛けた試しがない事や、兄妹らしい馬鹿話なんてロクにした事がない、母さん関連の話になると避ける様子を見せた事もある。
一度でも、『家族団欒』に関して、興味を惹かれた様子すら見せた事がない。
後は⋯⋯舞喜の嫌いな茄子だけ舞喜の皿に多く盛ったり、洗濯が乾いてないのに適当に乾いてるって返事したり、見たいテレビの時間起こしてくれと言われて返事したのに、敢えて寝たフリをして寝過ごしてしまったり⋯⋯⋯⋯他多数。
(アレ?⋯⋯僕、さては最低か⋯⋯?)
具体的には口にしなかった。
きっと、精神的な弱さが露呈した場面で、朝倉拓也が僕に向ける視線も、何処か呆れたものに変化している。
視線を逸らしたい所だけど、それはそれでもっと自分が惨めになる気がして、それでも堪えようと最後の抵抗のように、口を引き結んだ。
「⋯⋯責任⋯⋯ねぇ。俺は両親の問題だと思うがなぁ」
「⋯⋯でも、僕も────」
「そういう風にさせてきた両親に問題があるって言ってるんだ。親は完全じゃないが、完全だと子供に思わせるのが役目なんだ」
「⋯⋯役目?」
「そうだ。別に子供が馬鹿でも、親が馬鹿でも良い。重要なのは、『あ〜、この人が親で良かった』って思われる事が重要だと、俺は思う」
それは一種の『理想的な親』というものだ。
母さんも、父さんもそんな素振りを見せた試しは一度としてない。
僕が物心が着いた頃から今日に至るまで、ずっとあの傍若無人っぷりを遺憾無く披露していた。
ずっと私達、両親のターンだと豪語するように、妥協なんて一切せずのオンパレードだった記憶しかない。
子供の成果は親の努力による賜物。
からの殴る。
子供が賞賛されれば、親はそれ以上に報われるべき。
からの蹴る。
良い学校に行って、良い所に勤めて、良い人を貰って、親に日々感謝しながらその生涯を費やす事は、やって当然、出来て必然。
からの机の上を床に撒き散らす。
親あっての人生、親が居なければ畜生以下なんだから、親に感謝を忘れる事は許さない。
からの壁を叩く。
親の命令は、神様が下す命令と同意義で同列なんだから、黙って従え。
からの物を投擲。
もっと律儀な子に産まれて、頭の良い子に育って、忠順な素敵な子だったら、母さん苦労しないのにね。
からの発狂。
等などが挙げられるが、正直、僕はそれをスルーしまくっていた。
けど、舞喜に関しては少し違うかもしれない。
アイツの場合は真面目に受け取らないまでも、ある程度そうしていた節がある。
それを駄目だと、いけない事だと、ちゃんと僕の口から話した事は⋯⋯やっぱりない。
「そもそも、誰も親を完璧だなんて思わない。歳を重ねればそれは如実に出てくるし、親だって楽の一つや二つはしたいもんだ。それでも子供の前だけでも、見栄や意地のようなものを張りたがろうとする。それが親ってもんだと思うがな」
「じゃあ、完璧じゃないだろ⋯⋯」
「違う違う。大事なのは、『完璧だと思わせる』って事だ。ずっとじゃない。ほんの少し、一時的でも良い。この面に関しては頼れる、誇れる、流石だ!って言われる理想的な親を振る舞えってんだ」
「じゃあ、本当に完璧じゃなくても良いと?」
「完璧なんてつまらないぞ?人間、成長を糧に生きてて、それを嬉しいって感じる生き物だしな。上手くいった、次も良くなりたい、これをどうにか達成したいっていう欲求⋯⋯成長意欲とか、向上心、探究心と受け取ってもいい」
完璧だと自負した事も、何かしらでその称号を得た試しもない僕にとっては、なんら普通の話に聞こえる。
テストで良い点数を取りたいとか、料理を少しでも美味しくしたい、トイレ掃除の交代を承諾して貰おうと思ってて、今回失敗したけど、次回は頑張るぞい!⋯⋯的な感じだろう。
「子供ってのは、親に出来る事は自分でも出来るかも?って一度は思う生き物だ。アレをやってみたい、こうしてみたい、って家の中で思うのも、初めは怖さを知らないとか、危ない以前にそういった面が先に前に出てくるからだ。その逆は反面教師って言葉で括られるけどな」
「⋯⋯⋯じゃあ、僕は親を反面教師として見てたって事か⋯⋯。まぁ、同じ穴の狢だった訳だけど」
母さんに言われた言葉が思い浮かんでしまう。
『親の責任』について言及したら、『兄の責任』について責め返されてしまって、何も言い返せないまま母さんと父さんを玄関口から出て行かせてしまった。
ロクでなしの母さんですら、強く言及出来る程に、僕は『兄』と呼ばれる存在を正しくこなせていなかったという、身も蓋もない話。
僕自身もその枠組みに収まっていると、強く認識してしまったからこそ、『責任』の取り方というものに対して、強く焦がれている。
「それは違う」
静寂を衝くように、朝倉拓也は口にした。
僕はその言葉に導かれるように、俯いた顔を男に向ける。
「なんで?俺は直接言われた事なんだけど⋯⋯」
「言った本人が合ってるかなんて分からないだろ?俺から見れば、母親とお前は随分と違うように思える」
具体的にどう違うのか、それが分かれば苦労はしない。
イジメによくある話だ。
加害者が被害者に対してイジメを行っている時、それを見て見ぬふりをする傍観者は、加害者か、本当にただの傍観者なのか、というもの。
僕はこれまで、傍観者は正しく傍観者なのだと、そう思っていた。
被害者から見れば、勿論傍観者も何もしなかったという観点で悪にも見えるのだろうが、傍観者側からすれば被害者側に立つ事は、恐れるべき事だ。
被害者の有り様を知ってるから、この一点に尽きる。
殴られるのが怖くて何が悪い、誰だって痛いのは嫌だ。
僕も母さんに殴られれば痛い。
見て見ぬフリをして何が悪いのか。
僕なんて、母さんを視界に収めていなくても椅子ごと蹴っ飛ばされた記憶すらある。
コンロから吹き出る火に手を近付けるな、そんなのは常識だ。
火傷の心配もあるし、何より触れただけ熱くて堪らないからだ。
火は熱くて痛いもの。使い方は正しく、安全面を考慮するべし。
なら、イジメはどうだろうか。
火という加害者に近寄りたいかと問われれば、間違いなくNOだ。
正しい運用方法は、正しく傍観者である事。
傍観者が加害者だと言う論理は、僕からすれば一方的な物言いでしかない。
傍観者は被害者にならない為に加害者も被害者も見て見ぬフリをするしかないのだと、そう、前までは思っていた。
けど、今になって思う。
傍観者も等しく加害者だ。
舞喜と母さん、それに関わる事に対して忌避感と畏怖感を持って接してきた僕だから言える。
舞喜のあの表情を見てれば、十中八九、僕は被害者側に知らぬ間に立っていたのだと⋯⋯、嫌でも気付かされる。
「母親が妹の事をどう思ってたか、知ってるか?」
普段から散々罵倒されていたのを聞いているからなのか、どれが本音で、どれが不意に出た言葉なのか、聞いている側の僕も判断に困る。
ひょっとすれば、全て本心で偽りない言葉でした、というパターンもある訳だ。
怒る理由、睨む理由、物に当たる理由、舌打ちをする理由、全てがある意味、法則性のある母さんに限って言えば、一つ──。
「⋯⋯⋯自分の都合の良い駒⋯⋯とか?」
母さんは自分の思い通りにならない時に限り、百パーセント怒る事が確約されているような人物だ。
一番酷いのは、舞喜が勉強疲れで入浴が長引いていた時、母さんが入って来て、怒鳴りつけた時だろう。
時間にして二十分程。直接、その場を見ていなかったが、リビングに戻って来た時の舞喜が見せた疎外感と不服そうな顔と、それをひたすら睨み付けていた母さんという構図は、慣れっこだった僕でも身動いだ。
そんな僕の解答に対して朝倉拓也は、まるでクイズでもしているように、お腹の前にドラムとバチを見立てて、叩くフリをする。
最後に「じゃん!」と言い、頭上へと両手を伸ばした。
「承認欲求を満たす餌、が正解でしたーー!」
突然、頭上にモニターに映し出された解答のように『承認欲求の権化』と大々的に浮かび上がっている⋯⋯⋯だが、問題はそこじゃない。
いや勿論、何処からともなく、クイズ番組に出てきそうな黒い画面に白のゴシック体でババン!と出てくる事自体、おかしいのは分かっている。
それでも、僕が最も眉を顰めた点は、母さんが承認欲求であるというところだ。
正直、僕の知る承認欲求が高めの人物と言うのは、もう少し自己肯定感が低かったり、自身に対してのネガティブ発言が過度なイメージがある。
母さんとは、かなり違いがあるように思えた。
「⋯⋯⋯⋯本当に言ってるん?嘘でしょ?」
「他者承認欲求って呼ばれる、まぁアレだ⋯⋯。自己肯定感が低めの人にありがちな事柄だ。自分に自信が無いけど、他人の『YES』には敏感なんだな、きっと」
「僕はてっきり、自己陶酔してるのかと⋯⋯」
もっと言うなら自意識過剰。更に付け加えるなら、自己中心的かつ、気宇壮大に、他者視点過剰、世間体に対して敏感過ぎる阿呆⋯⋯と様々。
それに加えて承認欲求お化けなんて、この世で生きていくには世界を間違えたとでも言いたげなステータスをしていらっしゃる。
僕の母さんは、きっとこれを聞けば大激怒間違いなしだろう。
「自己陶酔なんてしていない。そうだとしたらお前の母さんは、もっと家族に積極的に関わろうとするさ。言動がウザくなるのは否定しないがな」
アレ以上にウザくなってしまうのか。
なんて嫌な気持ちにさせられてしまった僕は、朝倉拓也に問い掛けた。
「なんで承認欲求なのさ?」
僕の視点からは母さんが承認欲求である事なんて考え付かなかった。
承認欲求が高めの人物=自己肯定感が低い、この図式が刷り込まれていたからだろう。
朝倉拓也は僕の質問に少し言い淀んだ様子を見せるものの、湖に映り込む星空を眺めながら、答えてくれた。
「⋯⋯お前の母さんは、正しさがある場所を求めたからだ。『子供の成果は親の努力の賜物』⋯⋯なんだろ?結果を自分で出さなくても、自主性に重んじて、その後に結果を出してくれる駒が欲しかったんだ。まぁ、お前が産まれたばかりの頃はそんな事、微塵足りとも考えなかったろうがな⋯⋯」
付け足されたような言葉に僕は顔を顰めた。
たとえ、産まれたばかりの頃はその気がなくったって、最終的にはあの性格に、あの態度、あの仕打ち。
もう既に言い訳のようにも感じるし、どうしようもない事実として受け入れざるを得ない。
「⋯⋯それで?正しさって何さ?」
「⋯⋯子供が結果を残せば、その親の教育は、それより下の成績の子供よりも『正しい』って事になるからだ。それが中間、期末、入試で結果が残れば、ある意味では絶対的な地位を確立出来るからな」
「⋯⋯⋯⋯僕、言っちゃなんだが⋯⋯そんなに好成績を残せた試しは無いぞ?」
「中学一年の入りたての頃にあった小テスト」
無理矢理にでも思い出すよう促されるように呟かれたその言葉で、まんまと僕は思い返した。
舞喜も昨日、そのテスト用紙を机に置きっぱにしたまま出ていき、今日の朝か昼かに母さんがそれを発見した、あのテスト⋯⋯。
進級後に必ずやるあのテストは、中学に上がって直ぐに訪れる洗礼のようなもの。
小学校の頃にどれだけ学び、どれだけ頭に入っているかを確かめるおさらい感覚の催しにも近い。
だからアレは、成績表の評価基準にもならないし、たとえ0点の採点であっても、教師はお咎めを口にしないのが通例となっている。
けれど、僕の家族に限って言えばその限りではない。
当然、母さんが持ち帰ったテスト用紙を監修しに来る仕様で、母さんも躍起になる時期でもある。
とは言え、僕も舞喜に対して、そんなテストがある事を口にした事はなかった。
知っていれば、もしかしたらもっと春休みの期間は勉強に力を入れていた可能性もあるし、『英語』のテストで初めて知ったあの達筆な書き方と、その酷さを指摘する事も出来たかもしれない。
「あれ、お前は全部九十五点以下、無いだろ?」
「⋯⋯もう覚えてない。多分そうだったって気がするだけぐらいだぞ?」
本当に覚えていない。あの時はガムシャラでやる事成す事の全てが母さんに見られてしまうという緊迫感と恐怖心で一杯だった。
日常が常に逼迫した緊張感の中、過ごす時間の殆どは勉強だった記憶しかない。
舞喜もそれを知っていたからか、僕に何かを頼る事をしなかったし、僕も頼られる事を邪険に思っていた。
気付けば僕は、母さんの傀儡を辞めて、舞喜がその余った枠組みに入っていた。
もし僕があのまま、母さんの傀儡で有り続けていたら、何か変わったのだろうか。
この状況下の幾つかは、丸く収まったくれたのだろうか。
もしもの話、なんて何処まで言っても、『もしも』以上も以下もない、取り留めのない話だ。
けど、期待は⋯⋯⋯⋯正直してしまう。
「⋯⋯まぁ、承認欲求高めの母親と家族に忌避感を持ってる父親の二人。それとお前の決定的な違いは妹を見る観点の違いにある」
「違い?」
「お前の母親と父親はそもそも、妹の事を家族が彩る為の道具程度にしか見ていない」
「⋯⋯⋯彩る?」
僕は朝倉拓也の言っている言葉の意味が正しく理解出来なかった。
何を言いたくて、『彩る』という言葉を使って表現したのか、その一切が掴めずにいる。
そんな僕を察してか、朝倉拓也は少し顔を背けるように視線を逸らすように上空を見つめた。
「⋯⋯まぁ、言い方をかなり悪くすれば⋯⋯アレだ」
唸り声にも似た声を小さく上げながらも、腕を組んで考え込む。
どれだけ悪い言い回しというものが飛び出るのか、僕自身も少し緊張しながら耳を立てた。
「この子に下の子が居れば、もっと勉強を頑張ると思うのよ〜!的な感じだ」
わざとらしく黄色い声を出して朝倉拓也に少しイラッとしてしまった。
けど、理由は二つあった。
一つは、その声真似は十中八九、母さんを真似てのものだという事。
もう一つは、朝倉拓也が発した言葉自体にだった。
「⋯⋯⋯⋯僕のせいで舞喜が産まれたって、そう言いたいのか?」
「う〜ん、まぁ⋯⋯理由だけならな」
「んな馬鹿な!」
年中盛ってるような両親が、よりにもよって僕を理由に二人目を欲したなんて、絵空事のような話だった。
納得のいかない事だと僕は声を荒らげるも、朝倉拓也はお構いなしに言葉を続ける。
「お前の母親は少なくても、お前が将来、独りで勉強に精を出す可能性よりも、妹か弟が居れば、精を出すって判断したんだよ。それに、母親に下の子が告げ口をすれば、その状況が何となくだが分かるだろ?」
「⋯⋯⋯⋯そんな理由で⋯⋯」
嫌に納得出来てしまった。
母さんなら考え付きそうな感じがしてならない。
僅か数秒で論破された気分に陥ってしまい、僕は顔を隠すように膝に額を付ける。
そんな僕の肩をトン!と、手を置いた朝倉拓也の顔をチラッと覗き込むと、何故か少し笑っていた。
「まぁ、勉強に本格的な精を出すよりも前に、お前は一抜けピーした訳だがな。ハッハッハハ〜」
「笑い事じゃないんだがっ!?」
本当に笑い事ではない。少なくても僕にとっては。
高笑いを臆面もなく上げる朝倉拓也は、大阪のおばちゃんがやりそうな感じに、手を上下に軽く振った。
「まぁまぁ〜。でよ、結局、下の子が妹では効果が無いって判断したから、養護施設に預ける事を決めたんだろうよ」
「⋯⋯んな、無茶苦茶な⋯⋯⋯。というか、なんでそんな知ってるんだ?僕はそんな事情、話してないぞ?」
「俺は何でも知ろうと思えば知れるんだよ。深く追及するな、無駄な時間になるぞ?」
「⋯⋯⋯なんなんだ、マジでアンタ⋯⋯」
「悪魔で良いんじゃなかったか?」
確かに僕は口にそこした。でもそれは冗談とかジョークのような類いであって、本気で言った訳ではない事をこの男は知っている筈──だと言うのに、このわざとらしい感じが妙に癪に障る。
「煩いよ⋯⋯」
せめてのもの抵抗のように小さく呟いた僕の肩から、気付けば朝倉拓也の手は離れていた。
確かにあった筈の感触と言うか、重みみたいなものは自然と消えていて、男の方へと振り向けば、既に立ち上がって僕の事を見下ろしている。
その威風堂々⋯⋯と言うには少しおちゃらけた態度が目に映るこの男は自分が絶対的な存在であるかのように豪語して、立ち振る舞いから只者では無いと感じさせられた。
けど、僕はまだ少し、ほんの少しだけ不安があった。
この男が何でも知れるのなら、どうして舞喜の行方を探し当てられなかったのだろうか。
どうして、母さんの心境や過去まで知っている風な事を口に出来るのか。
その方法や、内容を教えた意図のようなものが見えてこなかった。
深い猜疑心が心を覆い尽くしていく。
この男の目的が見えない。この男の目標のようなものが、全くと言っても良いぐらいに表に出てこない事が、怖かった。
「で、お前は妹をどう見てたんだ?」
そんな僕をジーッと見下ろしていた朝倉拓也は、そう口にする。
僕が投げ掛けた質問の解答は、まるで迂回しながら導き出されようとしていた。
男の術中に丸め込まれたようで、唇は震える。
両手は腕を掴んで、自分自身を抱き締めるようにして座り込んだままで、一切動けない。
「言いたくないなら良いが、俺も質問の答えは言えないぞ?」
悟られているのではないか。常に心を読まれているように、先読みされてしまっている感覚が身体を襲う。
(⋯⋯⋯⋯僕は、もしかしたらとんでもない人に聞いてるんじゃないか?⋯⋯⋯⋯自分の想像している以上の⋯⋯)
そんな事を思った時だった。
「心読める相手にそれは今更だろ⋯⋯少年」
「⋯⋯⋯⋯⋯え?」
僕は顔を引き攣らせた。朝倉拓也の言った言葉を理解するまでに時間を有してしまい、腕を掴む手の力は更に加わっていく。
「読心術っていう『魔術』を使ってる。この世界に『魔術』は存在しないから、詳しく言っても分からないだろうがな」
「⋯⋯⋯魔術?」
「俺の事は良いんだよ。今は味方だと思ってくれて構わない。どうせお前に何かする事があったとしても、騙すなんて手間、要らないだろ?催眠、洗脳、暗示に幻術と何でもござれが俺なんだから」
「⋯⋯⋯あんた、ヤバい奴なんだな⋯⋯やっぱ」
「それこそ今更じゃねぇか?」
⋯⋯⋯⋯それもそうだった。割とこの人は僕が初めて目撃した時点で、ヤバい人ではあった。
さっきまで、戦友のように隣に座ったりしてたからムードに流されて忘れかけていたけど、この人は『龍』を後ろ蹴りだけで十数メートルも吹き飛ばせる正真正銘の怪物。
力勝負だけに飽き足らず、精神的作用のある『魔術』と呼ばれるものまで使えたとしても、何ら不思議はなかった。
「で?お前は妹をどう見てたんだ?めんこい奴と思ったのか?不細工だと思ったのか?」
「妹の顔なんて見慣れ過ぎてて、可愛いとか不細工の基準に当てはめた事すらねぇよ!」
見慣れてる⋯⋯それ故に、豹変した時の表情は色濃く脳裏に刻み込まれた。
血走った瞳と、不気味に尖った口角。
僕の顔を掴もうとした時の舞喜の狂気的なまでの笑みと動きは何時までもトラウマとして焼き付けられてしまった。
けど、普遍的だと勝手に盲信していた、元の舞喜の事はちゃんと思い出せる。
物心付いた頃から、それこそベッタリで、僕は正直ウザイと感じてすらいた。
一人になれない時間の多さ。両親か家事をロクにしなかったから飯も二人分は六歳頃には作ってたけど、舞喜は嫌いな物があればすぐにポイポイと僕の皿へ捨てていく。
遊んで欲しいとせがんでくるし、友達付き合いや学校の事も一々聞かせようとしてくる。
正直⋯⋯⋯独りっきりの時間が早く来ないか、と内心思った時も多かった。
けど、僕の感情や思った事を度外視して、舞喜の行動だけを見れるように多少はなった今の僕には分かる。
────分かってしまう。
「⋯⋯⋯⋯独りっきりが嫌いな奴なんだなって⋯⋯今なら思う。まだ十二歳で、妹で⋯⋯⋯。僕、何やってたんだ⋯⋯⋯ホントに⋯⋯。何やってたんだよぉぉぉ」
「⋯⋯そうか」
自然と涙が出てきた。ロクに構ってやった試しがない事に不甲斐なさと情けなさが込み上げてきてしまう。
自分のしでかした事の大きさは、一回っきりの出来事で発生したんじゃない。
もっと小さくて当たり前の日常の中で積み重なっていって、自然と大きくなっていったもの。
塵も積もれば山となる、と言うが、僕は舞喜に対して積もらさせ過ぎたのだと、気付いてしまった。
「コンプレックスってあるだろ?コンプレックスってのは、劣等感から生まれるものだ。それであって、一種の憧れや目標でもある」
そう言いながら、朝倉拓也は僕の頬を抓った。
「分かったか?妹の憧れ君」
揶揄うように別称を名付けてくる朝倉拓也の指の指圧が妙に痛い、痛すぎる。
「いいてててて!」
不快感のようなものがない分、より一層酷く痛みを感じた。
「まだ泣くな。言ったろ。終わってから泣き喚けってな」
「ッッ。ご、ごめんなさい⋯⋯」
そうだ、僕に今、泣く資格なんてない。
それにコレは僕が舞喜にやった事と同じ事。
手法や手段は違っても、僕が確かに舞喜へと与えた。
憧れ、そんな風に思われる資格は⋯⋯、正直ないと言うのに⋯⋯。
不意に思い出してしまった。
まだ舞喜が幼稚園児ぐらいの時、お転婆が抜けずに無邪気な様子で走っていた際、公園の硬い地面へ身体が転けてしまい、泣きそうになった日の事を。
あの時、僕は母さんに後から怒られるのが嫌で「泣くな、面倒になるから」と、そう注意した事があった。
舞喜はそれに応えたように、鼻を啜りながら無理矢理涙を堪えて、最後には衣服に付いた砂を手で払いながら、一言。
「うん!まき、泣かない!」
⋯⋯⋯どうして、泣かせてやらなかったんだろう。
どうして、無理に我慢をさせたんだろう。
あの時、もっと当たり前に泣かせてやるのが、兄だったのではないだろうか。
母さんに叱られるのは確かに怖かったが、それ以上に怖い事があると、どうしてあの時考え付かなかったのだろうか。
「僕は、最低だ。⋯⋯⋯⋯兄貴失格だ⋯⋯⋯」
頭を抱えた。ずっと後ろに居た筈の妹の事をここまで蔑ろにしていた事実に、真実に、今になって⋯⋯最も最悪な時期に理解してしまった。
母さんも、父さんも⋯⋯僕に比べれば可愛いものだ。
きっと、僕の方が舞喜の心を追い詰めた張本人だろう。
現に僕は、舞喜によって兄貴というレッテルを剥がされた身。
悲しそうな表情が甦る。
昨夜の夜、舞喜が家出してしまう直前、涙を堪えて玄関口へと向かっていく舞喜の後ろ姿が何時までも忘れられない。
自分の不甲斐なさと不出来さを棚に上げて、結局は自分の事を正当化しようと、屁理屈と誤魔化しの言葉を延々と投げ掛けていただけの愚か者。
それが、僕だ────。
「けど母親と父親よりも、お前が家族の中で最も妹と接してきたって事実に間違いないは無いだろ?」
「⋯⋯それはそうかもだけど⋯⋯。それの大半は──」
「そういう積み重ねなんじゃないのか?信頼とか、信用ってのは」
「僕はその舞喜自身にッ!⋯⋯ッッ『別のお兄ちゃんなら良かった』!そう断言されたんだよッ!!」
僕は大声で叫んだ。自分の心にしっかりと響かせるように、目一杯に喚くように声を荒らげる。
自然と唇は引き結んでいって、俯きそうになった。
────けど、僕のそんな行いを朝倉拓也はそれを許さないかのように、言葉を発した。
「まぁたしかに。その後泣いて飛び出すに決まってるか⋯⋯。『否定』して欲しかったんだから」
「────────『否定』?⋯⋯⋯⋯え?」
目が見開かれた。朝倉拓也の方へと勢い良く目線が向かい、嘘偽りでないかを確かめるような素振りを取ってしまう。
あの時、舞喜の言葉に対して『肯定』を示してしまった。
言葉が詰まって、何か言い出そうとする喉は、何時までもギュッと絞められたようになってしまう。
冷や汗が流れた。段々と目が泳ぎ始めるのを感じる。
朝倉拓也を見ている僕の視界はブレるようになっていく。
それなのに、何故か目が離せないまま、男の言葉を待っていた。
「そりゃ、憧れてたり、目標にしてる奴が、よりにもよってこんな兄な上に、母親に対してアレだけ啖呵を切れる奴なんだ。恐怖から救ってくれる対象とすら見てたろうな」
「で、でも⋯⋯。それじゃあ、舞喜の言う『家族団欒』とズレてるような気もする、けど⋯⋯」
「ズレてないさ。だって、妹さんからしたら──」
風が吹いてくる。夜風木々を抜けて、僕達二人の元へと通い、最後には湖に映る星空を歪ませた。
漣が僅かな音を立てて流れていく。
その波音が妙なぐらいに耳に入って、男の言葉を遮ろうとする。
「家族なんて、お前ぐらいのもんだろうからな。そうもなる」
「⋯⋯⋯いやいや、ちょっと待ってくれ。矛盾してる!アイツは母さんにご執心だったんだぜ?なんで僕だけなんだよ?!」
「そりゃ、執着もするだろ。父親は母親の命令でどうとでもなるが、肝心の母親とお前は対立中。一般的に見ても、母親に非があるのは明白で、妹からしても母親を説得させたかったんだ」
「⋯⋯⋯⋯」
「だから、条件を出した。『自分の努力だけで、母親の要望通りの高校に行けば、謝罪しろ』ってな」
作り話の類いだと信じたい。なにかの勘違いか、冗談の部類だと思い込みたかった。
「嘘だろ⋯⋯⋯⋯それ⋯⋯」
けど、男の真っ直ぐに向けられた、その視線が偽りであると許容する事をさせてくれなかった。
逃げ道を塞がれたように行き詰まった思考は、徐々に苦しい言い訳だけを浮かばせる。
けど、どれもこれも拙いもので、シャボン玉が弾けるように、すぐにそんな言い訳も無駄だと知ってしまう。
「いや、嘘じゃない。だからお前の母親は妹さんに塾なり家庭教師に行かせなかった。文字通り『自分だけの力』で頑張れるって証明させる為にな」
「その目標の高校ってのは⋯⋯」
「等区高校って言う、お金持ちの高校だな。その特待生なら、学費は何割かは免除。成績を上位で維持し続ければ、街の外にある難関大学の推薦も貰えて良い事尽くめのリッチ高校。知ってるだろ?」
ゆっくりと頷いた僕の生気は、搾り取られたように活気や根気がなかった。
舞喜があれほど頑張ってるのは、誰の為か。
独りで寂しい思いをさせてしまったのは、誰の所為か。
泣かないように堪えさせた挙句、最後に泣かせたのは誰だったか。
────全部、僕だ。等しく僕の怠慢と傲慢が招いた事だった。
償いとか、そう言った事を口に出来るような立場にすらないのだと、僕は痛感させられる。
胸中にグルグルと目紛しい言い訳が回り出す。
『母さんの所為である、だから言い訳をしろ』
『家族の事なんて見て見ぬふりしかしなかった父さんを言い訳に使え』
『子供だったんだから仕方ない。兄貴になりたくてなった訳でもないのだから、しょうがなかったと投げ出すのも手段の一つだ』
全部、全部が⋯⋯僕を肯定する為のもの。
────けど、それが等しく、僕の弱さであるのだと、胸を痛ませる。
どうして、こんな弱い人間なんだろう。
どうして、もっと早く気付けなかったのだろう。
「全部壊したのが⋯⋯。僕って事か⋯⋯」
そうポツリと俯かせた口元は走った。
そう納得させる為、理解する為に僕の本能がそう言わせたように⋯⋯。
いや、違う。きっと、気持ちを楽にさせたかっただけだ。
少しでも自分の安全圏や安心感が増していけば、この胸がつっかえたような感覚が抜けていくんじゃないか、そう思っただけの事だった。
「いや、そもそもの話。見切りを付けたのが母親からなんだから、お前は関係ないだろ?どうしてお前の所為なんだ?」
「だって⋯⋯」
男の顔を窺うと、本当に訳が分からないと言いたげな顔を浮かべていて、腕を組んで、片脚を地面に向けてトントンと数回、爪先で叩く仕草をしながら、僕へ向けて言葉を投げ掛けた。
「確かに、お前のせいで妹は傷付いたかもしれない。だが、それと母親や父親の言う、『兄としての責任』ってのは同一ではないと思うがな?」
「でも!────」
「そもそも、妹さんがその気なら、お前ら三人、とっくに死んでる」
僕の言おうとしていた言葉を無理に遮られる。
どうしても語らなければならない、そんな頑強な意思のようなものを感じたし、僕もそれに従った。
気付けば辺りは無風で、木々の擦る音も、波風のようなものも無くなっていて、朝倉拓也の声はよく耳に届くようになっていた。
「両親が死んだら、殺した原因を作ったのが自分のせいだって思い詰められる兄ってのを、妹さんは分かっていたから、敢えて殺さなかったんだ」
「⋯⋯んな事言ったら、舞喜はどうして『家族が死んだら私も死ぬ』みたいな事言ってたんだよ!辻褄合わないだろ?!」
その狂気的な笑みには、怨嗟の念が籠っていた。
見る者全ての背筋をゾッとさせるような、禍々しさすらあった豹変後の舞喜は声高らかに、いっそ甲高い悲鳴にも似た声で僕に向かって確かに言い放ったのを覚えている。
「ならもう!家族皆で死ぬしかないよねェェェェェェェェェ!!!────お兄ちゃん良いよ!アタシもちゃんと生きてて良いって実感出来たら、ちゃんと死んであげるから!」
あれは十中八九、僕を殺すつもりで叫んだ言葉。
言い逃れようのない、僕のしでかしたツケとその対価を払わそうとした物言い。
木霊でもしたように居ないはずの舞喜の言葉はずっと耳にこびり付いたまま、離れる事をしなかった。
「それに、おかしいだろ!本当に殺すつもりはないなら、なんで手を出したんだ!!」
「そこなんだよなぁ。【ヨハネの四騎士】⋯⋯じゃなくて、【当て馬】の面倒いところって」
「え?」
面倒くさそうに首を傾げた朝倉拓也は瞼を閉じて、爪先を地面へ叩く動作を止めた。
腕組みを止め、僕の方へと視線を向けると、自身の右胸に向かって人差し指を当てる。
「アレらは本心に僅かばかりにある『勝利』への渇望と、それを促す為の『争い』への助長を肥大化させる。更にそれを促進させる『飢餓』が常に身体を動かそうと躍動感が向上するんだ」
「⋯⋯つまり?」
「勝ちたいから、戦わせる。けど、何時までも気持ちが保たない。そんな貴方に、飢えをプレゼント!これさえあれば、半永久的にこのループを楽しめるぞ!わーいお得っ!的な感じだ」
そう、深夜の通販番組のような口調で説明した朝倉拓也のニヤニヤ顔が止まらない。
この人の情緒はどうなっているのだろうか。
けど、比較的に『勝利』だとか、『争い』とか『飢餓』と言われてもピンと来なかった事が少し分かった気がする。
簡単に言っちゃえば、僕や舞喜のクラスメイトを襲った理由はそこなんだと思う。
常に勝利に飢えていて、その手段が争いだという事。
舞喜はその『勝利』を促す為の『争い』に、それを持続させる為の『飢え』が常に身体を蔓延っているのだろう。
朝倉拓也の言葉が事実なら、【当て馬】は舞喜の意思で使役した上で、僕達を襲ったという事になる。
舞喜が僕達を襲いたいという衝動に駆られて、それに従ったという事に他ならない。
僕は、正しく舞喜にとっての敵という事だ。
「じ、じゃあ、やっぱり──」
「勘違いするな。それでもそれら全ての終着点の『死』は、まだ誰一人として、妹さんの手によって齎されていない。つまり、本人的にも堪えてるんだ。じゃなきゃ、やっぱりお前ら家族も、被害に遭ったクラスメイトも、自らの手で全て鏖殺してる」
「堪えてる⋯⋯⋯⋯」
アレが堪えている表情とは、とてもじゃないが思えなかった。
過去一番に活き活きとした歪な表情で、殺戮や暴虐を尽くす事を厭わないと言いたげなあの顔は、堪えているなんて口にする事は僕には出来ない。
本当に信じていいのだろうか。本当に舞喜は僕の事を殺すつもりはなかったのだろうか。
仮に舞喜に恨まれていなかったとしても、それはそれで僕に責任がある。
僕は僕自身を赦せない段階まで来ている。
間違いなく僕は加害者で舞喜は被害者だ。
そう認識するしか出来ないし、そうさせたのも間違いなく僕のやらかしである所も大きい。
「お前は言ったな、責任の負い方を、払い方を知りたいって」
「⋯⋯言った、けど⋯⋯⋯⋯」
すっかり抜けていた僕の二つ目の質問がここに来て回帰した。
ずっと迂回し続けていた僕の問いに対して、解答がくる。
胸が騒つく。どうすれば良いのか。どんな無理難かが飛び込んで来るのか、ソワソワとし始める僕の身体を無理矢理にでも押さえ付けるようにして、身体を強ばらせた。
朝倉拓也はそんな僕を見て少し微笑んだ。
何故か、微笑んだのだ⋯⋯。
「簡単だ。妹さんの兄貴で居続けろ。一緒に擦り合わせて、一緒に理想的な兄妹ってのになっていけばいい」
とんでもないぐらいに普遍的な解答だった。
責任の負い方について問い掛けた筈の解答がそんな陳腐で有り触れた、何処の誰でも言えそうなものだった事に、僕は声高らかに反論しようとする。
「でも!────」
けど、僕の反論や異議は簡単に掻き消された。
まだ終わっていない。まだ続いていると訴え掛けるように言葉は再三に遮られる。
「怖いのも良い、恐れるのは当然だ。きっと、またお前の事をボッコボコに殴り付けてくる。それはお前的には仕方ないって思ってるんだろ?」
「⋯⋯うん」
「⋯⋯⋯だけど、忘れるな。お前が妹さんの前に行って、仮に死んだら⋯⋯⋯⋯。本当の意味で妹さんは歯止めが効かなくなる。一度手を染めたら、それはもうブレーキが壊れたのと一緒なんだ。あの子は本能に対して理性で抗ってる」
イマイチ納得も理解も出来ない内容だった。
手を染めたら戻れなくなる、という点に関してはまだ分かる。
けど、抗っている、という点に関して懐疑的だった僕は、朝倉拓也へ訝しんだ視線を送った。
僕の視線から言いたい事が伝わったように、しばらく考え込む朝倉拓也は手を顎に置き、瞼を閉じる。
「犯罪は駄目だと分かっている。けど、盗ろうと思えば盗れてしまう。でも、無きゃ死ぬって物があったとして、お前は盗ろうとしないだろ?」
瞼を閉じたまま、具体的な例を挙げる。
どうすれば僕にも伝わるのか、朝倉拓也的にも悩んでいる風なのは明白で、僕もそれに応える為、考えた。
「⋯⋯盗らない⋯⋯けど、それが理性で抑えるって事か?」
「理性ってのは、身体で学ぶんじゃなくて、頭で学ぶからな。そう言う意味じゃあ、あの子はしっかりしてる側だ。そんな子をお前は、殺人犯に仕立てたいのか?」
瞼が開かれた。真っ直ぐに僕へと向けられたその視線には強迫観念にも似た圧を感じる。
けど、そんな風に威圧されなくても、僕の心は決まっていた。
「⋯⋯⋯⋯⋯嫌だ」
「なら決まりだな。普通、兄貴ってのは妹を犯罪者に仕立て上げたりしない。お前がコレからお手本になって、ちゃんと兄貴してれば、それで償いになるのさ」
「しでかした事に対して、やる事が小さくないか?それじゃあ、まるで⋯⋯、普通に生きていろって言ってるようなものだろ?!」
「それで良いんだ」
情緒が乱れたように放つ僕の言葉と相反するように、淡々と静かに言葉を奏でる男との対比に、僕は動揺する。
余裕の表れや、生きた年齢分の人生経験の差が、如実に、そして遺憾無く発揮されているように感じた。
他人事に対して首を突っ込むにしては、やたらと献身的にも感じる男の声色に僕は惨めになっていく。
「⋯⋯⋯でもさ、それで償えるって、僕には思えない⋯⋯。もっと、こう⋯⋯なんと言うか⋯⋯⋯。大胆な事とか、大きな事とかさ!」
「────お前の言いたい事は何となくだが、分かる。まぁ、大半分からんがな」
それは前置きのようだった。僕が困り果てた顔をしているのを見て、敢えてそう言っている風にも感じ取れて、申し訳なさが込み上げてくる。
「先に言っとくが、兄妹一緒に生きてく事自体、それは小さな事なんだ。誰にでも、何処でも有り触れてる事だからな。でもな、小さな事を見落とす奴が大きい事に着手して上手くいく訳がない」
瞳の奥にあった冷たく、圧のあった感覚は次第と薄れていった。
仕方ないな、と言いたげに微笑んでいる朝倉拓也の眼差しに僕は俯いてしまう。
小さな事、有り触れた事、そんな普遍的な事ですら、ロクに成せない僕とは何なのだろうか。
手を血に染めさせて、狂気的な笑いを発声させて、悲しそうな物言いをさせて、最後には──。
『生まれてこなければ良かった』、そう言わせてしまった僕と言う愚か者は、どこまで惨めなのだろうか。
自嘲気味な感情と、底の見えない泥水に沈んだ僕に、果たして『普通の兄妹』というものが為せるのだろうか、それが一番怖くなった。
許してくれるとは思っていない。何時までも嘲笑と罵詈雑言の言葉を妹に投げ掛けられる事を加味した上で、僕は妹の兄貴で有り続けれられるのか、不安になる。
「動機も継続する理由も小さくて、ショボくて、ダッサくて良いんだ。問題なのは、そのやろうとした事に対して、意味があるか、ないか。この二つだけだ」
僕の頭に朝倉拓也の手がそっと置かれた。
ワシャワシャと慰めるように手が動く。
止めて欲しい。手で振り払って、意固地でも情けない姿を見せたくなかった。
けど、僕の腕は動かない。それを許容するように、ずっと頭を差し出すように、俯いたままであった。
「きっと、この先⋯⋯、お前と妹は親の居ない苦しい人生を送る。一緒に居ても、後ろ指を差されるかもしれない。妹の罵詈雑言もあるだろうし、何も知らない他者から酷い言葉を投げ掛けられる。それはもう止まらないし、俺は無かった事にはしてやらない」
「⋯⋯⋯⋯」
「お前もお前なりに妹に思う所があったのは、よく分かった。嫌味と罵りだけのコミュニケーションしか無かった母親と、意に関せずと黙秘を決め込んでいた父親の間に生まれたお前は、きっと何処かで妹の存在自体を蔑ろにしていたのも事実なんだろう。それは生涯、否定するな」
僕は頷く。小さくて頭が動いていたのかすら分からない程に小さい動作。
けど、朝倉拓也は僕の承諾を意を受け取ったように、頭を数度ポンポンと叩き、手を離した。
「だけど⋯⋯コレから先、妹の事を見続けて、妹の為に動こうとしているお前は誰よりもお兄ちゃんだ。誇りに思え。少なくても、俺は尊敬するぜ、少年」
僕は徐ろに顔を上げて朝倉拓也へと視線を向けた。
自信に満ち溢れて、欺瞞や偽りのないその表情に僕は当てられる。
泣きそうになるのを塞き止めようと、瞼をギュっと閉じて、堪えようとした。
泣きそうになれば朝倉拓也は止める為に頬を抓る。
最初はそうだった。自宅に居る時も抓るまでしなくても言葉で無理矢理抑え込ませようとしていた。
────なのに、今はそれをしてこない。
卑怯にも感じた。試されているのかと疑い、泣いてしまえば罰が待っているのではないかと、無理矢理抑え込もうとして、堪えて、堪えて、堪えて⋯⋯。
「迷っていいんだ、屈折した光みたいに意見を変えてもいい。状況や事態がそうさせる事だってあるんだからな」
優しい声色は続く。僕の泣きそうな顔を前に、視線を逸らさず、僕だけに向けた言葉を奏で続けるこの男は正しく狡い奴だ。
「それでも、意思だけは変えるな。妹さんを助けたいって気持ちは曲げるな、無理にでも死ぬ事になっても押し通せ。ありのままであれ。それでいて、守りたいって気持ちを強く持て。向き直るのは今しかない。騙されたと思って、意地を通してみろ。間違ってたら、俺が代わりに一度死んでやる、約束だ」
顔を少し突き出して、朗らかに笑ってみせた。
僕よりも歳上の筈だろうに、子供のような笑みで、心を溶かしていく。
保険を掛けられて、僕のやらなければならない事を肯定してくるコイツは正しく悪魔だ。
失敗すら受け入れそうな、この男を酷く恨んだ。
失敗が許されない中、たった一人の妹に対してやらかした失敗も寛容な眼差しで見続けるこの男に縋りたくなってしまう。
「良いのか?僕は⋯⋯⋯⋯妹を助けたい。アイツに罵られるのも、貶されるのも承知なんだ。けど、アイツの傍に居て良いのかな?前みたいに⋯⋯前以上に、僕はちゃんと舞喜の事を支えようとして、良いのかな?」
『日常』を見捨てないんだろ?だったら、やらなきゃな?」
手を差し伸ばされた。対等と言うには少し僕は低い位置に居て、コレから先の事に不安しか残っていないけれど、それでも覚悟は決まった気がする。
「⋯⋯うん!」
僕の責任は『妹と一緒に生きていく事』だ。
馬鹿が馬鹿を見た結果、遠回りだけしていたけど、もう吹っ切れた気がする。
やる事も、やらなければならない事もちゃんと明確に、線となって見える気がした。
謝罪もする。謗りも甘んじて受ける。罵詈雑言の数は無数にあるだろうし、死ぬ思いだって受けてしまう。
それでも僕に残された償いは、僕が引き受ける。
アイツは悪くない。僕が全部悪くて、僕の責任だ。
アイツの罪も始まりは僕経由。アイツのコレから仕出かすかもしれないやらかしも、僕の償いの枠に収める。
それも全部引っ括めて、僕は舞喜と、ちゃんと家族になりたい。
歪で、何処かひん曲がってしまった関係をほんの少しでも真っ直ぐ正す為に、僕は差し出された手を掴む。
「⋯⋯泣くなよ?抓るぞ?」
「────っ。泣いてない」
と言いつつも、目元を腕で擦る。
誤魔化した僕に対して、朝倉拓也は揶揄うように笑う。
「そろそろ戻るか。食器棚の様子、見たいだろ?」
「⋯⋯そうだった」
一つ目に僕が投げ掛けた質問。
僕が舞喜に嫌われている云々に関するものに対する答えが食器棚の様子を見れば分かるというものだった。
まだ、何があるかは分かっていない。
食器棚程度で僕の投げ掛けた質問の解答が見えるとも思えなかったが、騙された気になってしっかりと、脳内やる事リストに追加する。
「⋯⋯⋯それと、俺は先に行ってるから、ここを出たら学校方面に歩け。出て左だ、良いな?」
「え?道違くない?」
僕の自宅はこの『象願林』を抜けて、真っ直ぐ横断した後、広い道に出た先にある。
左となると通学中に何時も使っているバス停等もあるが、当然今は使用出来ない。
そんな僕の懐疑的な表情を見た朝倉拓也は、大きく溜め息を吐くと徐ろに近寄ってきた。
「お前なぁ〜。【刃龍】の追っ掛けになって、友人をそのまま置いてったろ?」
友人⋯⋯⋯睦生と祟良把の事だろうか。
たしか、最後に会ったのは中学へ向かおうと道中一緒だった時────。
「⋯⋯⋯⋯あッ!」
自分でも驚く程に忘れていた。
忘却の彼方なんて生易しい程の遙か銀河へと遠くやってしまった二人の存在をようやく思い出した僕は、頭を抱えてしまう。
「⋯⋯はぁ〜」
「止めろよ!クソデカい溜め息なんてさ!」
本当の本当に呆れられた顔をさせている朝倉拓也に少しばかりの抵抗を示すものの、多分意味なんてなかったと思う。
効果いまひとつ────どころか、効果がなかった、とテキスト表示されているようなものだった。
「友達は大事にしろ。少なくても、お前の数少ない男友達は近くを歩いてる。会って体育館に戻して来い。かなり傷を負ってる」
「え、睦生が!?」
「死ぬ程って訳じゃない。けど、無茶させても良いって感じでもない。取り敢えず、全部終わったら、俺が来た段階から死んだ奴は蘇生させるし、街を元の状態に戻してやれるが、わざわざ一回蘇生するから死んでも良いって理由にはならんだろ?」
「アンタ⋯⋯⋯人を生き返らせられるのか?!」
正直、どんな事よりもそっちの方が驚いた。
この人、マジで何者なんだろうか。
突然、やって来たこの男の事を名前しかロクに知らない僕は素直に興味を持った。
けど、肝心の朝倉拓也当人はそんな僕の眼差しを軽く流すようにそっぽを向いて、背を向けた。
「俺に出来ない事は基本ない。ただ率先してやらんだけだ」
「ん?ならなんで、今回はやってくれるんだ?」
「⋯⋯⋯⋯まぁ、色々な。思う所もあるんだよ」
そう言った朝倉拓也は顔を学校方面に向けた。
目を凝らして、遠くへと視線を向けるようにして⋯⋯。
しばらくすると、朝倉拓也は僕の方へと顔を向けて、ニヤニヤと笑いながらこう言った。
「まぁ、あれだ。難儀だなぁ、少年。アッチもコッチも化け物だらけ。ついでにアソコにも⋯⋯いやぁ〜、不幸自慢出来るぜ?」
「ん?何の話だ?まだ何か居るのか?」
僕は男の向いた方向を見る。けど、見た限りでは、ただの林。
奥が黒く染まっていて、その先を歩く事自体を拒みそうな程の深い闇が木々の間に広がっていた。
ただそれだけ⋯⋯⋯⋯。
「⋯⋯⋯ふっ。何でもない。さぁ行くか」
歩き出した朝倉拓也の後を追いかけるように僕の脚は動き出す。
最後に同情気味に語った言葉の真意が分かるのは何時になるのか、この時の僕は考えもしなかった。
ただの憐れみにしては、どこか含みがあって、それだと言うのに敵意のようなものは無くて、複雑な心境にさせられたあの言葉は───なんだったのだろうか。
こうして、僕が朝倉拓也によって齎された『小さな救済』は終わりを迎えた。
何処までも馬鹿で、稚拙な考えで逃げてばかりだった僕に対して、意味を与え、その答えを導いた朝倉拓也のお説教は幕を閉じる。
そして、僕の新しい第一歩は、幕を開けた。
イジメに関して少し書きましたが、私紫芋は申し訳ないですが、傍観者は加害者ではないという自論です。
だって、怖いじゃん、被害者になるの。
鞄を投げられたら、机と椅子を階段から落としてください。
唖然とすんじゃね?!
弁当を捨てられたら、その方の教科書と椅子と机、ついでにロッカーにあるもの全てをプールに投げ捨ててください。
驚愕し過ぎて、最後は何も無くない教室で後で喚くぞー!
殴る蹴るをされたら、後頭部を水筒でスタンプ感覚で殴ってあげてください。
コツとしては利き手に体重を掛けるイメージです。
イジメっ子の親御さんが文句を言いに来られた場合。
親御さんに一言、「あなたの不出来な息子さんは、私のお陰で頭のネジが二度と外れない良い子になりましたよ?」と言ってあげてください。
これで絶句して帰るってー!
殴った事に対して言及されれば、「あちらが先に加害者だったのを被害者にしてあげたんですよ?私のお陰でウィンウィンですね」と言ってあげてください。
嘆いて帰るかもね?
それでも直らないなら、子供を産ませられない身体にしてあげてください。
神経集中してるので悶絶もんだぜ!
という事を中学生の頃、進級時にクラスが一緒になったイジメられっ子の友人に冗談半分のアドバイスを送ったところ、そもそも私の存在が邪魔でイジメる所では無かったと、そう言われて私は悲しくなりました⋯⋯。
ソレはイジメに入りますか?
イジメはイジメられた側の意見優先ですよね?
十数年越しに言及してやろうか、私は現在悩んでおります。
そのイジメられっ子は、現在、婚約中のお相手が居る模様。
律儀に十数万する婚約指輪買ったんだって、結婚指輪より高いって嘆いてました。
因みに今度、結婚式に呼ばれるぞい!(フォトウェディングじゃねぇから、コチラも金が掛かる⋯⋯)
傷付くよりも、傷付かない人間に皆はなろーーッ!




