責任のゲシュタルト
目を開けば、僕は生きていた。
生きていたの理由は何なのか。
手脚も、臓器も唇も舌も何もかもが正常に動いている事に実感のようなものが持てる。
明確に────。
「⋯⋯⋯⋯⋯なんで?」
開口一番がそれだった。本当に意味が分からない。
僕は死んだんだな、そう実感していたし、事実として実の妹に腹を貫かれて床に転がされた筈だった。
けど、生きている。
身体をぺたぺたと触って実際の身体なのかを確かめる。
実は幽体離脱的な事になってしまったのではないかという疑いを晴らしていく。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯実感が湧かない⋯⋯⋯」
身体を触ったぐらいで意識が途切れる直前の痛みや記憶が払拭される程、甘い設計が成されていない人間の構造はこういった時に素直に判断出来ない。
いっそ嫌なぐらいに────。
物音がする。僕はその音のする方向にビビるように注視して顔だけを動かして確認しようとした。
音の鳴る方向は玄関口から。最初は窃盗の可能性というのも疑ったが、それはすぐに無いと理解出来た。
僕のすぐ側に転がっている筈の両親の身体が今現在、リビングに倒れていなかったからだろう。
僕は僥倖だと思った⋯⋯。素直に嬉しい気持ちに包まれる。
(舞喜の奴⋯⋯殺人犯にならないで済んだって事か⋯⋯。ははは、なんだ、そうか⋯⋯⋯。良かった!⋯⋯本当にッ!)
両親が亡くなってしまう危機感──それは正直どうでも良かった。
僕の不安は舞喜が真の意味で人殺しにならなかったという結果に集約されている。
あんな両親でも舞喜にとっては親であり家族。
舞喜に腹をぶち抜かれて、押し問答にも近い本音を聞いて初めて『舞喜』という人間性を理解出来た気がする。
アレは、僕が思ってた以上にまだ子供で甘えたい歳頃の女の子。
家族の愛情に飢えていて、人一倍機微に敏感で耐える事が取り柄の妹。
僕というコンプレックスであり評価基準が邪魔して、舞喜は自分の人生というのを正しく謳歌出来なかった。
だからこそ、僕や母さんの日頃自宅で見せる暴力性が舞喜にとっては最後の手段のようなものだったのかもしれない。
僕と母さんという反面教師が居れば、暴力で物事を上手く運ぼうとする事には限界があると理解出来る筈だ。
母さんから始まった家庭内暴力は僕と舞喜に。
そして、僕は抵抗するように手を出されれば手を出し返す方針を取って対処していた。
舞喜は母さん寄りだった事も相まって、それが痛ましく思えた筈。
けど、それと同時に普段から横暴な人が萎縮したように見えたのは、舞喜にとっても特別な事だったのかもしれない。
────完全に僕と母さん、それを見て見ぬフリをしていた父さんのせいだ。
歪に拗れた家族関係。修復不可に近いこの状況を収束させるには、僕含めた家族皆が舞喜相手に話をしなければならない。
四の五は言ってられない。僕は母さんが嫌いだし、父さんも嫌いだ。
だが、妹は信じている。まだ信じているんだ。
『家族団欒』とか『家族仲良しこよし』というものを。
完璧にその理想通りに上手くいくとは思えないまでも、前と違って少し話をしたり、好き嫌いについて語ったり、雑談のようなものを家の中でするのだって有りなのかもしれない。
背中越しにある壊れたテレビ台の上にある写真には、僕が中一の頃、唯一家族旅行をした時の写真があった。
決して良い思い出という訳ではない。
そもそも、この頃には家族という存在に懐疑的な気持ちで接していたし、キャンプと言っても母さんの連れの家族と一緒だった。
母さんの都合で連れて行かれたに過ぎなくて、仲良しこよしを無理矢理演じさせられたに過ぎない。
でも、思えば⋯⋯⋯、あの時の舞喜は本当に楽しそうだった気がする。
立ち上がった僕は玄関口へととぼとぼと向かった。
舞喜を探そうとしてくれている。
どんなに口ではあぁ言っても、最後には親としての責任とか役目みたいなものがあったんだと、信じたかった。
僕達家族は皆屑でも、屑なりに出来る事はあって、それを果たそうと動いている。
────そう、信じたかったのに⋯⋯⋯。
母さんの手元にはキャリーバックがあった。
黄色の箱、黒色の取っ手。それをボコボコになったフローリングにタイヤを挟ませてしまい、舌打ちしながら、玄関の方へ引き寄せようとしている。
ボストンバックを二つ持って、そんな様子を呆然と眺めている父さんは何もしないまま、僕の方へと視線を向けた。
「准⋯⋯」
その顔は顔面の骨が砕け散っていない至って健全な顔付きをした父さんそのもの。
そして、腹を切り裂かれて中身が飛び出していない苛つき混じりの母さんの顔だった。
二人共、まるで舞喜に負わされた傷なんて初めから無かったように生きている。
それは嬉しかった。悔しいけど、それでも僕は嬉しかった。
舞喜を説得させられるのは結局、家族皆でなければならないから、その為には母さんも父さんも生きててくれなきゃ困る。
なのに、どうして───。
「父さん、母さん⋯⋯⋯えと、何やってるんだ?」
「ん?あぁ、アンタ起きたんだ。いっそ寝てれば良かったのに⋯⋯」
チクチクと物申してくる母さんに普段なら僕も噛み付く所だけど、それ所じゃなかった。
ボストンバックだけならまだ分かる。
けど、キャリーバックも手元にあるとなると、話は変わってくる。
まるで────。
「⋯⋯⋯父さん、どっか行くのか?」
「⋯⋯⋯⋯」
俯くだけだった。何も答えてくれない。視線を逸らして、相手にされたくないと逃げるように母さんの方へと目を向ける。
「答えろよッ!」
「⋯⋯まぁ、うん。そうだな⋯⋯母さんが決めた事だしな」
父さんの悪癖が出た、そう思い僕は舌を鳴らす。
父さんは何時もそう。基本的に受動的な生き方をしてきて、母さんの言う事ならなんでも聞く代わりに自分では率先して動く事をしない。
人のような動き方をするだけの思考ロボット。
だからこそ、僕は中学二年の時、父さんが別の女性も居る際には素直に驚いた。
あんな人でも浮気するんだと。
「で?アンタ、何ボーッと突っ立ってんの?手伝いなさいよ!」
「⋯⋯⋯アンタら、状況分かってんのか?街は大混乱で、今⋯⋯一人でも手が居る状況なんだぞ?」
「知らないわよ!他所は他所、ウチはウチ。コッチの事で手一杯なのに、わざわざ人様の気なんて掛けてらんないわよ」
手一杯──。ボコボコになったフローリングでキャリーバックのタイヤを挟ませている事が手一杯なのかと思うと、笑いが込み上げそうになった。
それに問題はまだある。一番の問題は──。
「アンタら、舞喜はどうするんだ?あんな事になったのも、元はと言えば僕達のせいだろ?!」
そう、僕は母さんと父さんがどう言った流れで舞喜に襲われたかを知らない。
でも、結果としては被害者でもある。
たとえ切っ掛けが僕らだったとしても⋯⋯。
母さんと父さんは僕のように意識が途切れる寸前の記憶はちゃんとあるのか、舞喜に襲われたという認識はしているのか、それを確かめたかった。
「なんで、私達のせいなのよ!あの馬鹿が一方的に殴ってきたのよ!」
「アンタな!日頃の行いってのを、見つめ直す事も出来ない程に馬鹿になったのか!僕達が蔑ろにしてきた分、舞喜がその被害に遭ったんだ!分かるだろ!?分かってくれ!」
「⋯⋯⋯被害?ハッ。何よ、だったら私も被害者よ」
「⋯⋯⋯え?まぁ、そりゃ、なんと言うか」
母さんに至っては腸が飛び出る一大事件相当の被害を負っていた。
被害者と言われても何となく理解は出来る。
物の言い方と口調から被害者感がトップギアなのを置いておけば、という注釈は入るが⋯⋯。
「あんな出来の悪い子を持っちゃったから、私の評価はボロボロよ!知ってる?!あの子、学校で生徒さんに手を上げたのよ、信じられないッ!そんな事されたら、私の評判も評価も皆塵と化すの。最悪、最悪ッ!あーーーー!なーっんで、あんな不良娘に育っちゃったのよ!」
「⋯⋯⋯⋯⋯は?」
街の状況が理解出来ていない──それだけなら世間知らずの馬鹿で終わる話だった。
けど、問題は⋯⋯もっと歪だったのかもしれない。
歯止めのようなものが効かなくなっていくのを、感じる⋯⋯。
「⋯⋯⋯何言ってるんだ?アンタ、今⋯⋯どういう状況なのか、分かってるのか?自分の評価とか評判とか⋯⋯そんなの気にするよりもっとやる事あるだろ!?」
「ある訳無いでしょッッ!!!」
ドスドスとコチラに近付く母さんはそのまま、僕の頬を思い切りグーで殴り付けられた。
耳鳴りが発生し、頬に衝撃が走る。
とんでもない奇行と突然の暴力によって、僕は床に倒されてた。
少しの間、殴られたという事実に疑いすら生まれて、思考は余白を残す。
暗がりの夜となった外から漏れる月明かりが怒声で何かを言っている母さんと無言のままそんな様子を見つめるだけの父さんのシルエットが黒く映る。
「────私は散々、あれだけ!これまで!たっっっっっくさん、世話してやったのに!見なさいよ!これッッ!!」
突き出されるのは母さんのスマホ。
画面にはメッセージトークの一覧であり、盛り沢山の未読無視。
全て、母さんが一方的に懇意にしている他のお母様方のメッセージであり、内容からして『中学での暴行事件』だった。
主犯格の舞喜の事を『舞喜ちゃん』やら『娘さん』やらと敬称を使って、母さんに事実確認をさせるような内容が数十件程ある。
警察沙汰のこの事件──当たり前の日常なら当然事件性確定の事件を調査と捜査をしなければならないが、今は当たり前の日常とは掛け離れていた。
街は未曾有の被害に死者まで出ているのだろうと言う事は、実際の遺体を見ていない僕でも想起出来る程だった。
警察も暇ではない。書類作成に提出と普段から働き詰めの彼らも街を巻き込む大災害があったとなれば総動員で現地に赴き、事の対処に当たらなければならない。
そんな中、父さんと母さんは何をしている?
────夜逃げしようとしているのだ。
笑い話にもなりはしない。
「アンタ!お兄ちゃんでしょ!なんであんな馬鹿の面倒をちゃんと見なかったのよ!お陰で私の信頼は失墜したも同然じゃない!あーーーーーーーッッ!
!!こんな事なら、もっと早くにあの子を手放しておけば良かった!!」
「な、何言ってんだ!ざっけんなよ!逃げずに探しに行くぐらいしろよ!その鞄も、舞喜を探す為の物だって、そう言ってくれよ!」
期待したかった。何処かでこっそり、反抗的な息子の前では粗暴な親をして、この後姿を消したと思わせて一生懸命に舞喜の行方を探す、そんな不器用な親の光景を夢見たかった。
けど⋯⋯表情が、態度が、それはないと物語っている。
「⋯⋯⋯はァ?!んな訳ないでしょ!あんな出来の悪いだけの愚図、誰が居るってのよ!犬のオムツになってた方がまだ価値があるわよ」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯冗談だろ、嘘だろ、アンタ、なんか恨みでもあんのか?」
「あるわよ」
「⋯⋯⋯⋯な、なんだよ」
「⋯⋯⋯お腹痛めて産んだ子がとんでもない底辺だったなんて、恥以外の何者でもないでしょ。折角産んであげたのに、それなのに、母親は殴るし、家は滅茶苦茶!オマケに暴力事件で私の信頼と信用は地に落ちてる。産まれた事自体が間違いだったって思わなきゃ、やってらんないわよ!」
絶句した。言葉にならないって経験は何度かあったが、ここまで身が凍る思いをしたのは、初めてだった。
何処かで信頼したい、信用して、最後には幸せに終わる。
そう、願っていた────。
けど、もう⋯⋯⋯駄目だ。
この親は畜生だ。自分の利益と他責でしか生きていけないゴミでしかなくて、人の存在価値というのが、自分を中心にしか見れていない。
正しく歪な存在。こんな人が僕の母親だという事が素直に悔しかったし、苦しくなる。
「何泣いてんの!メソメソしてる暇があるなら、母さんの為に何か一つでも尽くしなさいよ!」
「ッッッ!アンタって人はさァァァァァァァァ!」
のしかかるように母さんに馬乗りになって、首を絞めた。
こんな人が、こんな人の為に苦しんだ舞喜が馬鹿みたいだと素直に思った。
だから、殺してやりたいと身体は動く。
力一杯に床に接着する勢いで体重を腕に掛けて、首を絞めていく。
自分の限界まで手に力を込めて、母さんの首を絞めて絞めて絞めて絞めて絞めて絞めて絞めて絞めて絞めて絞めて絞めて────。
勢いよく、僕は突き飛ばされた。
「ぁぁあ!うぅ────っ!うぅ!」
倒れた僕の脚元には父さんが持っていたボストンバックが置いてあった。
けど、それを確認したと同時に拳が飛んでくる。
当たり前のようにその強打を一発受けると、床に頭をぶつけて、誰かが僕の身体に乗った。
「親に手を上げるのか、准ッッ!」
これまで散々黙りこくっていた伏兵の父さんがここに来て僕の顔目掛けて、殴りに来た。
意外すぎて対処のしようも無い。
体勢を大きく崩された僕はされるがまま、頬を力一杯に殴られた。
歯が床に飛んだし、飲み込んでしまったのもあるかもしれない。
「お前って奴はァァ!母さんの言った通りにしてればいいんだ!」
「ぁぁぁあ、やめ───っっ!」
一方的な暴力に太刀打ち出来ず、垣間見る事が出来たのは、虚無のような瞳をした父さんが感情と身体を切り離したように僕を殴っている姿だけ。
何十発殴られたのか、僕も数える暇も余裕もない。
ひたすらに額に向かって殴られ、目元を殴られ、頬を殴られ、鼻を殴られ、耳付近を殴られて⋯⋯⋯。
終わった頃には僕の意識は、途切れ途切れとなっていた。
「はぁ、はぁ、はぁ⋯⋯⋯⋯。母さん、行こう」
「えぇ、そうね。こんな子、もう要らないわ」
「⋯⋯⋯」
馬乗りされた僕の身体から父さんが離れると、脚元にあったボストンバックを掴んで玄関を出ようとする。
駄目だ、それは駄目だ。今ここで何処かへ行かれたら、完全に舞喜の理想が潰える事になってしまう。
僕達のやってしまった行いに対する報いが、清算出来ないままになる。
一生分の凝りとして残り続けて、後悔しかしなくなる。
だから────父さんの脚を掴んだ。
自分でも不思議なぐらいに手早く⋯⋯。
「はぁ、はぁ⋯⋯⋯⋯。待って、くれ。父さん、母さん。舞喜が、舞喜がぁぁ。僕達じゃないと、ま、舞喜が⋯⋯⋯」
「⋯⋯アンタ、馬鹿じゃないの?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯へぇ?」
「あんな子ももう要らないわよ。勝手に野垂れ死ねば良い。アンタ同様ね。これからあの子が何をしても私達のせいじゃないから。だって、離れて暮らすんだもん」
「しょ、正気か!?そんな事、誰が許すんだ!」
「私が許すのよ。それに、朝倉さんって人が此処に来てね、言ってくれたわよ?『お好きにどうぞ』ってね」
「⋯⋯⋯⋯っ!」
僕は自然と怒りが湧いてきた。
よりにもよってあの男が舞喜を『怪異』から引き剥がす為に必要な人材を削りに来るなんて、愚行以外の何物でもない。
(あの男、何やってんだッッ!どういう事だ!)
なんでこの家に居たのか、それはどうでもいい。
問題なのは、舞喜を助けられる筈の二人がこの街から消えようとしている事だ。
ご近所付き合いなんてものは狭い領域の中で行うものだが、母さんの場合はこの街のかなり広域に居る奥様方と面識がある。
顔見知りとなっているのだから、この街に居れば自然と居所もバレて舞喜の事件を掘り返される心配が出てくるだろう。
その為の処置として街から去るというのはある意味では合理的なのかもしれないが、それでも今じゃない。
まだ早すぎるし、短絡的が過ぎると感じた。
「アンタ、に⋯⋯とっては要らなくても⋯⋯⋯。舞喜にとっては違う!分かるだろ!?母親なんだから!父親だろ!子供の、願いぐらい、気付いてやれよッッ!親としての責任は⋯⋯無いのか!?」
思いの丈を叫んだつもりだった。
『親としての責任』──それは子供を産んだ時点で発生する自覚にしろ無自覚にしろ発生する事柄。
僕は親になった事が無いから、そんな責任なんてものは実感出来ないが、二人にとっては違う。
良心の呵責────それに縋りたかった。
もう、それぐらいしか引き留める為の手立てが見当たらなかったから。
じぃーっと僕を見下ろす母さん。僕の腕を払い除けて玄関口へと歩き出した父さん。
その二人の光景をうつ伏せになって倒れる僕は見つめるばかり。
「そんなのに期待してたの?」
「────え?」
「アンタだって、私らの事嫌ってたでしょ?都合良く親を見てない?ざっけんじゃないわよ!」
「⋯⋯⋯⋯⋯だって、アンタらが──」
「ハッキリ言っとくわ!親としての自覚なんて、アンタが反抗的になってから持ち合わせていないわよ」
「ぼ、僕のせいだってのか?!」
風評被害の極みみたいなものだと感じた。
これだとまるで、僕のせいで芋づる式に舞喜の事も嫌ったみたいなものじゃないか。
起き上がろうとする僕の身体は思い通りに動かない。
殴られた痛みがどうしても手を顔に寄せてしまう。
腫れた頬は冷たいフローリングに当たっている時が気持ち良く感じるのがウザったらしいと思えた。
「アンタのせいよ?それ以外無いでしょ?アンタの反抗的な目が舞喜にも移ってきたから、愛想尽かしたのよ」
「勘違いしてんじゃねぇよ!!アンタのせいでそうなったんだろ!」
「⋯⋯⋯アンタも家族でしょ?なんで自分は違うみたいな言い方するのよ?そういう所でしょ?」
「それは⋯⋯その⋯⋯」
「結局、アンタは誰かのせいにしたいだけでしょ?お互い様よ」
僕は何も言えなかった。
舞喜の為に家族の引き留める⋯⋯。
確かにそれは間違っていない。けど、僕はそれ以上に責任という誰かが負わなくちゃいけない事柄から逃れたい気持ちも確かにあった。
口先では何とでも言っておける。結局は親がその責任を晴らして、僕だけ悠々自適⋯⋯なんて阿呆らしい考えも確かにある。
家庭内事情を知っている僕からすれば、両親は絶好のカモみたいなものだ。
事が上手く運べば、糾弾されるのも、罰せられるのも、全て両親だと考えていた。
そして、舞喜は『家族のせいでこんな不安定な子になった』と憐憫のようなものこそ向けられるが、情状酌量の余地があると、糾弾の数は減少傾向──。
そう踏んでいた。けど母さんはそれを織り込み済みだったという事がここに来て邪魔をし始めた。
「家族皆で仲良くなんて、愚図は言ってたけど────そんなの出来る訳無いでしょ!?分かりきってるんだから、アンタも否定的で協力しなかったんじゃないの?私も同じなのよ?」
「⋯⋯⋯」
「アンタは『親の責任』とか何とか言うけど、やった実行犯の罪は消えないのよ?私はそんな負えない責任まで取り持つ程優しくないから」
「⋯⋯っ!散々、親として役目を放棄してきてか?!今、それを言うのか!」
「『親として責任』って何?衣食住だって提供してるし、アンタみたいに金だって取ってないでしょ?学校にも行かせて、私の言ってた高校よりもアンタの行きたいって言ってた高校に通わせてあげてるじゃない」
「⋯⋯⋯⋯⋯それは、駄々を捏ねたからで、あって⋯⋯」
「でも、了承はしたわよね?」
母さんの言う通り、最後の最後に折れたように『好きにしろ』と言ってくれたのは間違いない。
散々反抗的に接して、最後には学費も出してくれている。
責任⋯⋯⋯⋯責任ってなんだろうか。
僕の思っていた責任ってのは、もっと当たり前のようにあって普遍的なものだと思っていた。
果たさなければならない事に対する負責のようなもので、もしもの為の埋め合わせ──。
そう思っていた⋯⋯。
なのに、母さんの言葉からは確かに果たせているようにも聞こえてならないのは何なのだろうか。
ふてぶてしいまであるその態度が理由か、あるいは毅然としている様子がそう思わせているのか⋯⋯。
いずれにしても、僕には判断が付かなくなっていた。
「⋯⋯それに『親としての責任』って言うけど⋯⋯。アンタ、『兄としての自覚』が無いんじゃないの?」
「⋯⋯⋯『兄としての自覚』?」
「散々言ったわよね?『お兄ちゃんなんだから〜』って。アンタに確かに言ったわよ?何度も、何度も!」
僕は無言のまま俯いてしまう。
一切否定出来ない。言い返そうにも頬の痛みが思考を遮ってくる。
両手が自然と握られた。強く、強く⋯⋯⋯⋯。
なんの否定材料も思い浮かばなかった事が溜め込まれた悔しさを更に増させた。
けど、母さんはそんな僕の表情を窺ったのか、追い打ちを掛けてくる。
「結局、アンタがとやかく私達両親に口答えして黙らせてる気になってるけど、私達からすればアンタも同じ穴の狢なのよ。分かったら、もう視界に入ってこないでね。あの愚図共々仲良くしなさいよ、愚図」
母さんはその言葉を最後に去ってしまった。
父さんは僕の方へ目線を向ける事もなく玄関を出て行ってしまう。
「⋯⋯⋯」
二人の足音は夜風に消えた。完全に聞こえなくなってしまってから、僕は悔しさで嗚咽する。
『兄』として何かしてやれた事はあったか、そればかりを堂々巡りのように繰り返してしまう。
『責任』なんて言葉では生易しい『戒め』のようにも感じた。
僕はずっと、両親とは違う──そう思っていた。
そう思いたかった⋯⋯⋯⋯。けど、現実問題として僕は何も違わなかった事しか痛感していない。
僕だけじゃあ、助けられない、救えない。
押し潰されそうになる感覚がずっと身体に纏わり付く。
「くそ、くそ!くそぉぉッ!⋯⋯⋯⋯どうしたら、良いんだよ、どうしたら⋯⋯⋯⋯」
「どうしたら責任逃れ出来るんだよぉ〜ってか?」
玄関口の壁からヒョイっと誰かが顔を覗かせた。
小さく愉快そうに手を振って嘲るような笑みが腹立つこの男は⋯⋯。
朝倉拓也と名乗っていた男だ。
「⋯⋯⋯はァ?あ、アンタは⋯⋯」
「よっ!また会ったな。少年死に掛け坊主」
「僕はそんな妖怪のような通称も渾名も貰った試しはない!───というか、アンタ、母さんに何吹き込みやがった!」
「出て行きたそうだったからな。街から出てって貰った」
飄々とそう言い切る男は事の重要性が分かっていない。
母さんと父さんが居なきゃ、どうにもならない現状の中、よりにもよってその二人を街から出すなんて、どうかしている。
ハッキリ言えば、愚の骨頂で、やらかし度合いは半端ない。
「ふ、巫山戯んなよ!舞喜が、か、『怪異』に⋯⋯」
「『怪異』?ああ、『現象』の事か。だろうな、じゃなきゃ【馬】が見つかる筈だしな」
僕は耳を疑った。『現象』とはどういう事だ。
『怪異』と『現象』と呼ぶ意味もわざわざ呼称を変える必要性もあるのかすら懐疑的で、謎が深まるばかり。
何よりも、舞喜にその『怪異』やら『現象』やらが、張り付いているとこの男の口振りから知っているようにも聞こえた。
それが腹立たしい事この上ない。
「⋯⋯⋯知ってたんだな?舞喜に何か取り憑いていた事を⋯⋯っ!」
荒らげた声が部屋に響いた。お隣さんに届くぐらいだったけど、構うものかと続けて言葉を放とうとする前に、朝倉拓也は僕の眼前まで近寄って顔に触れようとする。
「とりま、怪我だけでも治してやる」
「⋯⋯くそッ!」
悪態を付くものの、動けない事には変わりない。
何時までも怪我まみれという訳にもいかない僕の顔面に浮かび上がった腫れは朝倉拓也がぺたぺたと触るだけで一気に引いた。
どんな魔法かトリックかは知らないけど、本当に引いた事に絶句すらしてしまう。
僕の傷を治した朝倉拓也は我が物顔で自宅に押し入り、辺りをチラチラと確認し始めた。
「ありゃ〜、こりゃ酷いなぁー。まぁ、一回見てるんだけど」
「じゃあ口にするなよ⋯⋯」
「ところでさ、お前⋯⋯、妹さんの写真とかあるか?」
「⋯⋯あるけど、それが何?」
「見てみたら分かる」
何を企んでいるのか、僕には皆目見当が付かなかった。
両親を引き留めるべく、駅に向かおうとも思ったが、リビングから玄関に掛けての出入口前に朝倉拓也が佇んでいる為、逃げ出せない。
僕は言われた通り、原型が残っていないテレビ台の上に飾られていたひび割れている写真立てに手を伸ばす。
その中から、舞喜が写る写真を手に取って男へと目を向ける。
「これがなんだってんだ?」
「⋯⋯⋯俺は見ろって言った。ちゃんと見たのか?もうアハ体験並の変化があるんだよ。残り五秒だぞぉ〜」
「?⋯⋯変化?」
そんな物が消えたり、現れたり、色が変わったりと七変化するような仕様は、この写真には機能されていない。
分かりきってる事をわざわざ確認する理由なんて思い浮かばなかったし、必要とも感じなかった。
ここで舞喜の顔が別人に変わっているとかなら、笑ってやるところだった。
けど、ある意味ではそれ以上の変化だったのかもしれない。
「⋯⋯⋯⋯⋯っ!?な、な、なな、なんだ?どういう事だ?何が、どうして⋯⋯⋯」
「⋯⋯」
舞喜が写った一枚の写真。無理矢理連れて行かれたキャンプ場で撮影した一枚にピースしながら写る舞喜の顔どころか全体は黒く変色していた。
煤にも似た汚れがあるのか、そう思い僕は指で擦り始めるものの、一向に拭える気配がない。
まるで、撮影した段階からそこにあるようだった。
「⋯⋯⋯⋯⋯どうなってんだ?」
顔の形は滅茶苦茶であり、下に落下した水滴のように耳やら髪がよく分からない方向へと向かっており、ピースサインの為に前へ向けて伸ばした両腕はグニャッと渦巻いたような形となっていた。
何よりも、首元、腕、脚と肌が見える部分は黒い手のようなものが貪り尽くすように埋め尽くされていて、首辺りは締め付けているようにしか見えない。
(⋯⋯?背景にこんな青い光⋯⋯あったか?)
右から、つまらなそうにしている僕、真っ直ぐとピンッと立っている父さん、舞喜の肩を掴んで、ぎこちなく笑っている母さん、そしてピースサインをしている舞喜、という順番なのだが⋯⋯。
丁度舞喜の背後には綺麗で小さな山脈があり、それは緑色やら茶色やらと自然豊かな色合いをしていなければならない筈だったのだが──。
何故か、その山脈を覆い尽くすように、一点に眩く光る青いライトのようなものが写し出されていた。
「⋯⋯⋯⋯なんだこれ?」
「──────それ、多分【ペイルライダー】の瞳だ」
「⋯⋯ぺいるらいだー?どこに所属してるレーサーの名前だよ」
「⋯⋯【ペイルライダー】は【死を司る馬】だ。睨まれたって事は死ぬって事だ」
『死ぬ』──その明告に僕は絶句してしまった。
何かを言わなければならない。冗談や嘘の類いだと信じたくて僕は上擦った声を上げる。
「⋯⋯⋯⋯は?な、え?え?!はっ?!」
「とんでもないのに目を付けられたねぇ、少年」
「な、なんで⋯⋯⋯⋯。昔から舞喜の周りに居たのか?!でも⋯⋯」
テレビ台の上に写真立ての中に飾られていた写真の為、比較的によく視界に映る一枚であり、こんな劇的な変化をされれば嫌でも気付く筈だ。
なのに、気付いたのはついさっき───。
(あ、でもさっき起きた時、写真見たけど気付けなかったな。いや、その時には無かったのか?⋯⋯どっちだ?)
若干眠気まなこな事もあった為、正直ちゃんと写真を見れていたかも少し怪しい。
ずっと変わる事のない、思い出を切り取った一枚が写真と呼ばれるもの。
だからこそ、変化が顕著に現れるとは思いもせず、先入観からスルーしていたと言われても納得出来てしまえる。
「⋯⋯一応言うが、『取り憑いた』のは今日の朝方だろうよ。【ペイルライダー】が人に憑くってのも相当レア中のレアなケースだが⋯⋯あんな神の遣いが人に何年も何週間も憑いていたら、その当人の肉体が持つ訳がない。もって三日だろうな」
「っ!そんな⋯⋯⋯⋯。嘘だろ?」
死刑宣告のようなものだ。不吉な青の光と黒い手が写真に写る舞喜を誘っているようにも見える。
「写真写りに影響が出てしまうのは、『死』って概念は時間の概念との関連性が薄いからだな。寿命とか言われても明確に医者の余命宣告通りに死ぬ訳じゃないだろ?つまり、時間に左右されないんだ。だから、こういった所で顕われる。多分、赤ん坊の写真とかにも何枚かは同じのが出てるんじゃないかな?」
『死の概念』が時間の概念との関係性が薄いってなんだ。
余命宣告が外れるのは、人が完璧じゃないからじゃないのか。
駄目だ、着いていけない。どうなってるんだ。
オカルト専門学校にでも通えばそんな知識は手に入るようなものなのか、それともネットに転がってる情報で事足りるのだろうか。
僕は男の顔を見つめた。それを訝しんだように見た男は一蹴するように視線を斜め上に反らしてしまう。
「【ペイルライダー】も【ホワイトライダー】も【レッドライダー】も【ブラックライダー】も皆、妹さんに取り憑いたのは必然だったろうな」
「⋯⋯⋯必然?」
街は大混乱で、死者すら出ている。
舞喜だってその枠組みに入っていたっておかしくなかった中、まるで予定調和のように口にした。
それが僕には不信でしかなかった。
「こんな家庭環境なんだ、むしろ格好の餌だろ」
『怪異』の出で立ちや、生まれる原因を六華から聞いた限りでは、たしかに十二分に有り得るのだと、納得せざるを得なかった。
負の感情や突発的な出来事によって発生するという『怪異』は舞喜のこれまでの現状を鑑みれば、むしろこれまでよく耐えていたと賞賛すらされても良い。
「その、えぇと⋯⋯四匹も居るのか?その馬って」
「あぁ、俺は敢えてその馬共の事を纏めて【当て馬】って呼んでるがな」
「当て馬?それって囮とか引き立て役とかのアレだろ?聞いた限りじゃあそんな風には聞こえないんだが?」
【ペイルライダー】やら【ブラックライダー】とか名付けられている割には随分と小物臭く感じてしまう。
ネームバリューの程は知らないが、十四歳の女の子が片腕一つで僕の身体を持ち上げられる程にパワーアップしているとなると、相当の強さをしていると見て間違いない。
なのに、『当て馬』なんて言われてしまえば、流石に威厳と言うか、迫力が数段落ちてしまう。
「【当て馬】って呼び名にも意味はある。さっきも言った通り、俺は『怪異』の事を『現象』と呼んでる。物に何か作用する事を『当てる』と言うだろ?」
『怪異』とか『現象』とか呼び名なんてどうでも良かったが、取り敢えず僕は聞く事にした。
(⋯⋯⋯⋯あれ?なんで僕は真剣に聞いてるんだ?だってもう、舞喜をどうする事も出来ないのは、さっき確定したばかりじゃあ⋯⋯)
両親が夜逃げしてしまった現状、舞喜を止める手段が事実上存在しない今、僕が聞いても無駄だけ無駄な気もした。
けど、朝倉拓也はそんな僕の事などお構いなしに言葉を続けていく。
「今回の場合、妹さんの溜め込んだ感情に作用する形で馬が『取り憑いた』から主体や肉体はあくまでも妹さんのままなんだ。だが、馬共は引き立て役。馬が箱から出てきて遣われると、『取り憑いた』人間は馬の効力を使う。馬を使えば、こんな廃墟寸前のボロ家みたいな内装を生み出せる程の力が発揮出来る⋯⋯。だから【当て馬】なんだよ」
聞いた限りで分かったのは────。
舞喜は『取り憑かれている』為、舞喜の身体が表に出ている状態である事。
『当て馬』は表に出ている舞喜の自由意思で『当て馬』の力を振る舞えるという事のみ。
それが事実なら、『当て馬』の主導権は舞喜にあるようにも聞こえる。
僕はてっきり操られてるとか、乗っ取られているように思っていた。
──いや、本当は気付いたのかもしれない。
そもそも、【当て馬】が舞喜の身体を使って暴れているのなら、この自宅で僕と会話をする必要性がない。
黙々と殺戮を繰り広げれば良いのだから。
会話の内容も間違いなく舞喜本人の心境の吐露だった。
【当て馬】が舞喜の代わりに語ってくれました、なんて愉快で荒々しいパペットマペットになってくれた訳がない。
『怪異』が憑いてるとおおよその察しが着いて、話せば話す程、舞喜本人の意思なんだと、痛感させられたのも確かだ。
「⋯⋯⋯⋯一つ聞きたい」
「はい、なんだい?」
「舞喜が自分の意思で僕達を襲ったって事か?今の言い方だと、そうだとしか思えないんだが⋯⋯」
「────お前はどう思う?」
「どうって⋯⋯」
「お前にとって妹はなんだ?」
その質問はなんだ?何か探っているようにも聞こえるし、純粋な興味や好奇心から発せられた問いにも聞こえた。
僕にとって妹とはなんだろうか。
僕は舞喜の事をどう思っていたのだろうか、ここに来て分からなくなってしまった。
何気ない時間で問われたらきっと『母さんの傀儡』と声を大にして言えるのだろうが、もうその線はなくなってしまっている。
母さん本人も襲われているのだから、その線からは脱却したとみて間違いない。
なら、今の舞喜はなんだろうか。
僕は今の舞喜をどう思っているのか、朝倉拓也からの問いに答える事が出来なかった。
沈黙が続いて、固まったように顔を強ばらせるだけの僕に、朝倉拓也は嘲笑を浮かべながら口にする。
「両親から興味を持たれない為の『当て馬役』ならもう要らないな。自分の自尊心を高める為の『引き立て役』なら、街が壊滅するまで待てばいい。そのタイミングで止めに入って、上手く説得しちまえば、お前は一躍ヒーローだ。家庭環境もベラベラ話しちまえ。涙無しでは語れない感動話の爆誕だ」
拳が握られ、男を鋭く睨む。
言い表せようのない激しく燃える情念に支配されて、思わず殴り掛かろうとするのをグッと耐えていた。
「妹のやらかした事から逃げたいんだろ?だったら素直に身を引くのも手段として間違ってないぞ」
それは両親と同じ愚行だと、僕は強く否定したかった。
自分はせめて正しく在りたい。自分は間違った選択を選べない立場において、『逃げる』という選択は完全な選択ミスなのだと理解している。
僕だけは間違う訳にはいかない。
よりにもよってあの両親と同じ道を歩む訳には決していかなかった。
「両親の味方をするのかッ?!」
「別に味方って訳じゃない。ただの一般論だ。多大なリスク負ってまで人生を謳歌出来る程、人生ってのは楽じゃないからな。諦める手立てぐらい、予め考えておくもんだ」
似たような言葉を僕自身が口にしたのを思い出してしまう。
丁度、舞喜の通う中学校から小テストが返却された日であり、僕がそれを嫌がる舞喜から掻っ攫うようにして見た昨夜に僕は確かに言った。
「──お鉢が回った自覚あるんなら、それなりに逃げ道も考えとけよ」
散々、舞喜とやかく言っておいて、責任の所在とその立場に立たされている。
お鉢が回ってきた自覚なんてしていない。
気付けば訪れて、勝手にお鉢が目の前に転がってきて⋯⋯逃げ道なんて考えている余裕すらなかった。
諦める手立て──つまり、両親と同じ事をしろという事なのは分かる。
でも、そんな屑に成り果てたくもない気持ちもある。
だからと言って、じゃあお前にどうにか出来るのか?と問われればきっと『無理だ』と口にしてしまう。
昨日までの舞喜は努力しても報われない事に苦悩していた。
母さんのご機嫌取りはさぞ辛かったろう。経験者だからこそ分かる。
けど、一度として『自分が辛いから代わって欲しい』とは口にしていない。
本当に『家族団欒』とか『仲良しこよし』を実現する為に僕を表に立たせようとしていたに過ぎなかった。
お鉢が突然回ってきた事自体は舞喜も変わらない。
けど、僕は避けた。避け続けて、逃げるだけ逃げて、気付けば今日の出来事だった。
滑稽が過ぎる────。
アレだけ上から目線で物を語っておきながら、肝心の僕本人はノーガードで何時までも慢心していたのだから、笑い者になるのは必至だ。
でも、それでも僕は────。
「それに良かったじゃないか?」
「何がだ⋯⋯」
「邪魔な両親が消えてくれて。妹に感謝だな?」
「────黙れってんだッ!」
雄叫びを上げて、胸ぐらを掴みに掛かる。
自然と動いた身体。沸き立つ怒りの感情に身を任せた。
けど、朝倉拓也はヒョイっとそれを避けてしまい、代わりに僕は勢い余って転けてしまう。
フローリングに顎をぶつけた。脳に振動が加わると呻き声のようなものを上げて、背後で暇そうに見つめる朝倉拓也を睨み付ける。
「アンタ!さっきから何のつもりだ!!」
「いやな、迷ってるみたいだったからさ。どっちかに舵を切らせてやろうっていう優しさだよ」
「な、なんだよ⋯⋯それ」
僕に近寄りすぐさま屈んだ朝倉拓也の目線は起き上がった僕と同じ高さになった。
知らぬ間に、朝倉拓也が向ける視線は暇そうなものでも、つまらなさそうなものでもなく、真剣で、冷淡で、苛烈なものへと打って代わっていた。
「何時まで逃げ腰なんだ?お前⋯⋯」
絶対に逃げられないと身体が理解させられる程に視線から加えられる威圧が感じられる。
指一つ動かせない。動けばそれに反応して首を掻っ切られそうだと、思わず冷や汗が流れてきていた。
次第に震える身体。思わず逸らしたくても逸らせない視線に僕は吃るような声で反論するしかなく、口をゆっくりと開く。
「僕は、その⋯⋯えぇと、あ、ああの、に、逃げ、てるわ、訳じゃ───」
「逃げてるさ。そうやってイジイジグチグチとしてれば、お友達や大人が助けてくれる。妹の暴行で自分は被害者になって、親は夜逃げ。誰から見てもいい餌だろうなぁ」
ギュッと心臓を鷲掴みにされてしまった気分だった。
逃れられない忌避感と言い逃れようもない本心が、赤裸々に明かされていく。
抵抗なんて出来る訳もなく、ひたすらに軽々と口早に語られる。
「お前は迷ってる。助けたい気持ちもあるけど、あんな怪力と暴力性を秘めた怪物娘に太刀打ち出来る訳がない。だから諦められる口実と目処の両方立つってなぁ」
「⋯⋯」
「更に言えば、兄貴らしい事をしてこなかった僕ちんが今更になって妹ちゃんがマトモな話に応じてくれる筈もないと高を括ってる。あ〜ダメだ〜もうおしまいだ〜!ってか?」
「⋯⋯⋯⋯煩いっ!」
「ついでに言えば、親の夜逃げによって妹の面倒は大なり小なりで自分の責任になる。歳も後二、三年したら成人になっちゃう。ん?ありゃ?二十歳まですぐ目の前だなぁ〜。あらら〜、重大な事でさぁ〜ねー」
────丸々全て語られた気がした。
ムカつく言葉遣いで心の奥底にあった気持ちを全部丸ごと語られてしまった僕は俯いてしまう。
蹲り、縮こまって、瞼を強く閉じた。
僕は──弱過ぎる。心が精神が圧倒的に弱い。
欲しかったのは口実だった。誰かに後は託したと逃げたかった。
助けたい気持ちも勿論無いわけじゃない。
けど、既に僕の言葉じゃあどうにもならないと理解してしまったから、託して⋯⋯誰かが責任を負って、知らんぷりを決め込みたかった。
僕と両親が原因で舞喜があそこまで思い詰めてしまっていたなんて事を理解したくなかった。
舞喜が犯した罪に対して、舞喜に対して犯した罪の責任とはどうすれば償えるのか、償える自信も無くて、不安や恐れが常に付き纏う。
それが堪らなく怖かった。
『普通』で在りたいと遠回りばかりしてきた僕のツケは両親の分まで回ってきたのだと、両親が逃げた玄関口で理解出来てしまう。
仮に舞喜が元の舞喜に戻ったとしても、会わせる顔すらない。
『お兄ちゃんが別のお兄ちゃんなら良かったのに』
その言葉は僕は確かに肯定した。
けど、一番効いたのは───。
『産まれてこなければ良かった』と舞喜が自分で口にした事だ。
アレはもう、駄目かもしれないと悟ってしまった。
自分の言葉では舞喜は変えられない。
どんなに取り繕ってみても、きっと僕は『兄』としての立場は失墜しきっている。
そんな中、あーだこーだと講釈を垂らすなんて真似が出来る訳がない。
追い詰めたのは誰か。両親が居ない今、僕だけだ。
この街に残っている舞喜の家族は誰だ。僕だけだ。
学校で暴力事件を起こして、肝心の友人も昏睡状態の中、一番理解してやれる可能性があるのは誰だ。
────やっぱり僕しか居なかった。
けど、それは分かっているけど。
それでも僕には無理だと分かってしまう。
「僕はアイツに顔向けが出来ない⋯⋯」
「なんで?」
「知ってるんだろッッ!?僕はアイツの事を可能な限り避けてきた!馬鹿にもしてきた!内心、コイツ阿呆だなぁって、笑ったりもした!叶わない理想ばっかり追い求めて、母さんの言いなりになって、その結果がコレだ!────僕にどうしろと⋯⋯」
寝室は同じで、両親と比べても自宅で共に過ごす時間も同じ。
夕食を食べる時間も寝る時間も出来るだけ一緒だった。
その上で僕は避け続けた。
母さんを言い訳に使って、理解出来ない妹の思考と感情、そこから生まれた理想が混迷を極めて、最後に逃げる択を選んだ末路。
おかしい奴だと内心は嘲笑い、接触も可能な限り避けて、良い兄を演じていただけの偽物。
自分という存在が可愛い余りに見誤った結果が現在の僕達家族の顛末なのだと⋯⋯気付きたくなくて、また逃げる道を模索していた自分が嘆かわしい。
一度として舞喜のしたい事、やってみたい事に対して言及した事があったろうか。
いや、無かった。これまでの僕の人生で舞喜本人にそんな言葉を投げ掛けた試しは一度としてない。
蹲る僕の肩は掴まれた。無理矢理、顔を上げさせられて、朝倉拓也と目線が合う。
怪訝な顔をした男は何故か首を傾げた。
「それでもお前はあの子のお兄ちゃんだろ?」
「⋯⋯⋯だから!その兄が愚図で何の役にも立たない奴だから!アイツの分まで責任が負えないろくでなしだって、そう言ってんだよォォォ!」
掴まれた肩を大振りで払い除けた僕の呼吸は大きく乱れている。
自分でも不思議なぐらいに悔しさや煩わしさが込み上げてきた。
どうにかしたい気持ちと、無理に決まっているという思考が混ざり合って、溶け込んで、歪な色と形になっていく。
自分がどうしたいのか、どう在りたいのかすら、もう分からなくなっていた。
「それ込みで会いに行けば良いだろって言ってんだ」
「何言って⋯⋯るんだ?」
状況が正しく理解出来ていないのか、そう思わざるを得なかった。
こんな愚図に何を言われても舞喜の心に一ミリ足りとも響く訳がない。
責任なんてものを負える程、殊勝な心掛けをしてきた訳でもない僕が今更兄貴面して何になると言うのか。
目に見えてしまう。また殺され掛けるに決まっている。
嫌ってる奴の顔をわざわざ見たいと思わない。
それは舞喜にだって言える話だろう。
僕ではどうしようもない。僕ではどうにも出来ない。
でも、止まって欲しいし、止めて欲しい。
元の舞喜に戻ったらちゃんと謝りたい。
無かったことには出来ないけど、やり直しが効くなら、受け入れた上で戻りたかった。
家族と言う奴に───。
「物事を変に考えてるな?お前は数学の学者か何かなのか?」
「え?」
「良いか?兄貴が妹に会う事以前に、家族が家族と会う事に理由なんて要らない。それでも強いて求めるなら、『会いたいから』だけで良い。それが家族ってもんだ」
「⋯⋯でも、僕は」
その『会いたい』人物当人が最も僕を嫌ってるという点にある。
一方的に突き放していて、今度は一方的に会いに行くなんて、いくらなんでも我儘が過ぎるというものだ。
舞喜にとって僕が要らない存在だと言うのならそれでも良い。
けど、消えるにしても舞喜をどうにかしてからじゃなくちゃならない。
なのに────その方法は両親の失踪で潰えた。
オマケに僕の言葉ではどうにもならないと心に刻み込まれた。
悪循環のオンパレードというものだろう。
「確かに、お前はろくでなしで、いい加減で、愚図でノロマ。オマケに早寝もあやとりも射的も出来ない劣化版の〇太君みたいなもんだろうな」
「⋯⋯⋯僕は少なくてもテストの点数は良い方だ」
「馬ッ鹿!稀に奴は百点を取りやがるんだぞ!?友人は少なくても、いつものメンバーに転校した駄目男君と映画版含めて十人程存在するのに対して、お前なんて二、三人ポッチ。比べて奴はどうだ!?将来の相手は学校のマドンナであり、風呂好きの女性!花火が原因でボヤ騒ぎになったとは言え、アイツ起業してる身だったんだぞ?充分立派だろ。対するお前はどうだ?」
「い、いや⋯⋯⋯⋯そう言われても」
起業する目処もなければ、その将来設計は流石に早すぎるし、考えた試しすらない。
その所為か、僕は言い淀む。けれど、男は続けて言葉を言い放つ。
それはもう散々な程に⋯⋯。
「ぐうたらで中途半端、やる事成すこと全部いい加減。何処かで何時も誰かのせいだなって思ってるくせに、人助けしようとしたら既に手遅れ。挙句にムッツリスケベのスケコマシ。もはや役満だな」
「いや、僕は女ったらしじゃねぇよ!」
付き合った人間も仲良くなった女子もかなり限定的だ。
なのに、どうしてムッツリスケベのスケコマシなんて言葉が出やがるのだろう。
頭がお花畑なのだろうか、それとも慰めのつもりなのか。
「⋯⋯⋯⋯まぁ、良いか。んでだ──」
「まだあんの!?」
正直、お腹一杯なのだが、朝倉拓也は止まる気配を見せようともしない。
「馬鹿な癖に無駄にネットで拾った知識を披露して褒められたら有頂天になるしか能のないド阿呆だろ?すぐにいじけて、あーだこーだと迷ってばかりの縦横無尽の優柔不断野郎。一回決断したくせに一つの物事が関わると、全部見直そうとして結局何も出来ないド底辺。人生自分を中心に回れば良いのになぁとか考えてるのに、少しでもそれを可能にしようとする努力と技量を僅かでも上げようとしない体たらくで、尚且つ!女性にモテない男性みたいな言い訳をグチグチ延々と繰り返すしか取り柄のない愚図中の愚図だ。更に───」
「やめろよォォォォォ!もう分かったから!もう!」
「分かってねぇよ、愚図。こういう時だけ先んじて言葉が出るのも止めろ。そういうとこだぞ?保険だけ掛けたい、でも何かを達成する努力はや〜よって⋯⋯なんだお前、前世ニートだったのか?」
保険と言うより保障が欲しいまである。
しかもこれ、侮辱罪に当たると思うんだが、良くもまぁここまで罵倒の言葉が並び立てられたものだと、呆れてしまった。
「知らねぇよ⋯⋯⋯⋯。アンタ、人を傷付ける言葉をそんなベラベラ喋って楽しいのか!」
「最っ高だなッ!生きてるって実感さえ出来る。あざぁーーっす!」
ドヤ顔で胸を張って言い切られた⋯⋯。
何だこの変人。新手の化け物か何かなのだろう。
まだ出会って一日も過ぎてないのに、どうして他人にここまで言われなきゃならないのか。
「クソ野郎だな、アンタ!」
「だな、否定しねぇ。あーでも、良かった良かったぁ──」
胸高らかに張っていた状態を戻すと、僕の両肩に手を置いて顔をゆっくりと近付けた。
耳元に口を近付けて、ボソッと言葉を綴る。
「俺は親にも手を上げた事ないし、妹に殺されそうになる程に悪感情を持たれた事も無いから、下には下がいるって、良いな!やっぱ!」
「っ!⋯⋯⋯⋯⋯⋯クソめ」
「ふっ。自暴自棄になるなよぉ?仮に俺のせいでお前が自害しても、俺は警察に出頭してやんねぇ。逃げ仰せるしぃ、その自信しかない」
肩から手を離した朝倉拓也は徐ろに立ち上がると、再び僕を見下ろす状態へとなった。
僕は相も変わらず座りっぱなし。
まぁ仮に立ったとしても、身長差で見下ろされる事に変わりはないのだけど。
「お前さぁ〜。自分の事をロクに理解してないだろ?」
「自分の⋯⋯⋯⋯事」
「こんな『愚図でノロマ』と『いい加減で中途半端』、『スケコマシのド底辺』と『我儘な優柔不断がくっ付いた大馬鹿者』をそれぞれフュージョンさせた後に更にジョグレス進化。加えて究極進化までさせたってのに取り柄があるようでまぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっったく無いッ!そんなお前でも───自分のやらなきゃいけない事とやりたい事の分別は付くだろ?」
────僕はどうしてここまで罵倒をされなければならないのだろう。
少なくても、僕はこの人に何かしただろうか。
しかも冗談とかジョークとかの類いだと、まだツッコミのようなものも入れたのだろうがこの人の場合、全部本音に聞こえてしまった。
気付けば目頭を自然と熱くなっていく。
耐えられそうになかった。ここまで馬鹿にされて、コケにされたというのに、事実でしかないのもまたそうさせてしまう要因でしかない。
反論のしようも無くて、討論に持っていこうにも、『スケコマシ』の部分だけで勝ち抜ける要素なんて僕にはなかった。
つまり完全敗北は必至な事であり、泣き寝入りを決め込むぐらいしか手がなかったのだ。
「ごめん、ちょっと泣きたくなってきた」
「駄目だ!泣くな」
「え?!なんでぇ⋯⋯⋯」
「実の妹が先に泣いてるからだ。慰めてやれんのは現状、兄貴のお前だけだ。全部終わってから泣け、泣き喚け。それ以外は俺が許さない」
とんでもない暴挙に走った独裁国家のトップのような物言いをした朝倉拓也の言葉に僕の喉はキュッと閉まった。
何度も言うが、この人は割と本気でそう言っているのだろう。
僕しか妹を慰められないというのも、泣くのは全部終わった後と言うのもそうだし、この人が許さないという点も本気に感じる。
だがそれを分かった上で、僕は懐疑的になってしまった。
「⋯⋯⋯泣い、てた⋯⋯⋯⋯」
僕には理解出来なかった。あの狂気的な表情と殺戮性が満点の攻撃を食らった後ではそう思う事も難しい。
表情も、言動も、態度も、雰囲気すらも溜まっていた怒りの情念が抑え切れずにゆっくりと流れ込んでしまったものに近かった。
狂ったような笑みを浮かべた舞喜の瞳には深海にも似た暗くて淀んだものがあった。
心底、僕に対して思う事もあったのだろうと発された言葉からは滲み出ていたのも分かる。
泣いていたと言うよりも嗤っていた、という表現の方がピッタリだと思ってしまう。
「⋯⋯⋯分からないのか?」
「⋯⋯分からない⋯⋯⋯⋯」
率直に聞かれた答えに僕はそう答えるしかなかった。
僕の機微の疎さが原因なのか、それとも朝倉拓也だから分かる事なのか、僕には判断が付かない。
誰がどう見ても、僕には積年の恨みを晴らしたかったようにしか見えなかった。
「なら、それまでだな」
「え?」
「今のお前じゃあ、妹を助けられない。絶対にな」
勘違いをしているのだろうと呆れてしまった。
舞喜を助けるには家族三人、僕と母さん、父さんが必要である。
少なくても、僕一人で舞喜に謝罪を述べた所で何も変わらない事は知っていた。
家族が夜逃げした段階で、僕は舞喜を助ける手段も方法も手立てと呼べるものも全て失った事を意味している。
それなのに、むしろ僕が馬鹿だと言いたげに溜め息を吐いた男に僕はイラッとしてしまう。
ストレスの発散法なんて幾つもある中、僕はボソッと男の知らない事実を突き付けるように言葉を考える。
少しでも悔しがって欲しかった。
驚いた表情だけでもして欲しくて、視線を逸らしながら口にする。
「父さんと母さんが居なくなった時点で、初めから無理だっての」
「いや、お前一人事足りるぞ?」
「⋯⋯⋯⋯⋯はぁ?」
「だから、あの子は両親の事なんて別にどうも思ってない。欲しかったのはお前なんだよ」
マズイ、本当に理解出来なくなってしまった。
『欲しかったのは僕』という意味が分からない。
『事足りる』という言い方からも、まるで僕一人で充分だったと言うニュアンスにしか受け取れない。
そんな筈がない、ある訳がなかった。
現に僕は失敗して殺されかけている。
それだと言うのにどうしてそう言い切れてしまうのか、皆目見当が付かない。
「⋯⋯⋯⋯そ、それ、どういう事だ?」
「────東地区にある『象願林』って知ってるか?」
「⋯⋯⋯まぁ、有名な神様が祀られてるって言われてる所だし、場所ぐらいなら⋯⋯」
とはいえそれぐらいの情報しか知らない。
高校からもアクセスしやすい林であり、赴いた事は一度としてないけど、祟良把経由で聞いた事がある。
曰く、『翡翠色の巨大な十メートル越えの象』がいる。
曰く、『大昔は神様として祀られていたが、最後には信仰が薄れた悲しい神様』だとか。
今になって思えば、それも『怪異』──いや、『現象』と呼ばれるものだったのかもしれない。
象が翡翠色に光るって、羊が攫われても見つけやすいように毛皮をペイントするとか、鹿の角を蛍光色で染め上げるとかじゃあるまいし⋯⋯きっと『現象』なんだろう。
「⋯⋯なら、そこに来い」
「はァ?!なんで?」
「⋯⋯少し、ポンコツが過ぎて目に余る⋯⋯。それに良いストレス発散法があってな。それには人目が無い方が都合が良いんだ。スマホ持ってって良いから、そこに迎え」
「⋯⋯分かった、けど⋯⋯⋯⋯」
「けど?」
「⋯⋯⋯いや、良い」
僕は述べる事を放棄した。言っても無駄だ、そう思って、結局僕は言われるがまま、手に持った写真をポケットにしまい込んでスマホを落としたままにしていたであろう自室へと向かう。
部屋入れば、雑に放り捨てられたようにある中学の小テスト用紙がクシャクシャになった状態で落ちていた。
それを拾って確認すると、『英語』と記された小テストであり、『0』と綺麗な赤い字で点数が書かれている。
「⋯⋯⋯英語じゃあ、百人一首擬きは難しいよな⋯⋯」
舞喜の机の上には残りの答案用紙がある。
手を付けられていない様子で、『英語』の用紙だけを見て母さんがブチ切れたといったところだろう。
舞喜の机の下に落ちていたスマホを拾って、無音にも等しい寝室を肌で感じる。
普段ならこの時間に舞喜が座って勉強をしていた。
一人で黙々と、淡々と⋯⋯⋯⋯。
『やりたい事よりも勉強』と舞喜は確かに口にしていた。
僕が普段から当たり前と思っていた事は、当人にとっては苦痛で嫌な事だと、どうしてもっと念頭に置いて考えなかったのだろうか。
歳頃の女の子は地獄の家庭環境の中、どうにかしようと奮闘していた。
僕が不貞腐れた顔で帰って来ても変わらずに『ただいま』の一言を必ず言ってくれていた舞喜は今は居ない。
寒さすら感じる虚無に塗れた自宅に残った家族は僕一人。
これではまるで僕だけが棄てられたようだった。
(⋯⋯⋯⋯あぁ、そうか。舞喜の奴はこんな気持ちをずっと味わって生きてたのか⋯⋯)
いっそ誰かに笑われたかった。
馬鹿な奴だと嘲笑混じりに言われて自認したかった。
僕はとんでもない愚か者なんだと、ここに来て真に理解した気がする。
『失敗は成功の糧』とか『失敗しても次がある』とか言う奴がいるが、そんなの嘘だ。
────大嘘吐きでしかない。
失敗にも二種類ある。
取り返しの付く失敗と取り返しの付かない失敗。
この二種類だ。
取り返しの付く失敗と付かない失敗なんてものは結果を見なければ分かるものじゃない。
だから、その失敗をしてしまう段階では気付かないし、気付けないから『成功の糧』になるかどうかも判断が出来る訳がなかった。
『失敗しても次がある』⋯⋯⋯⋯。
次ってなんだよ。全く同じシチュエーション、全く同じ時間と空間、人数、環境、季節、体調や健康状態が全て一緒で初めて言えるものだ。
つまり、次なんて存在しない。
少なくても今の僕の状況は、二度と同じシチュエーションになっちゃいけないものだった。
それなのに失敗した⋯⋯。でも、何がどう間違っていたのか、それが分からない。
全部合ってたようにも思えたし、全部間違っていたようにも感じる。
けど、間違いなく分かる事があった。
「⋯⋯⋯僕は、アイツの兄貴、失格だ」
『お兄ちゃんが別のお兄ちゃんなら良かった』
そう言われて僕は肯定したのを思い出す。
今ならもっと強く肯定出来る。
僕は責任の取り方も負い方も知らない、正しくガキだ。
背負いたくないっていう膨らむ妄想と逃避の意思が身体を締め付ける。
背負わなきゃいけないという自罰性と後悔だってあるというのに、それ自体が自己陶酔なのではないかと疑い掛かってしまう。
僕は僕という存在をあまりにも知らなさ過ぎる。
責任とはなんだ、責任はどれだけ辛いのか、責任を果たすとは何処がゴールで、責任なんてものは一体どれだけの事をすればゴールに近付くのか⋯⋯。
その全てが分からなかった。言葉の意味や必要性は分かる。
でも、責任はその時の状況によって負うべき重さとその期間が変わるもの。
自信がない。僕が逃げずにアイツのしてしまった事に対する責任を果たせるという自信が一切合切なかった。
軟弱な精神性、歪な精神構造と笑われても構わない。
僕はどうなっても良い。だから、誰か⋯⋯僕に責任の取り方を教えてくれ。
僕に⋯⋯舞喜を助けられる方法を教えてくれ────。
朝倉拓也が准坊に長い長い罵倒のレパートリーを言い放つ所で、一部私自身と被る点があり、グサッときました。
良いじゃないか!ネットの知識を自慢しても!
良いじゃないか!馬鹿でも!
でも、小学か中学の頃の国語の授業で、ネットの知識と本の知識の違いは、著作者が居る居ないの責任の話だったのを思い出しました。
エイミールとスイミーしか覚えてねぇよ⋯⋯。




