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この街は今日も語る  作者: 紫芋
Spring hour 桐江准は普通でありたい

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産まれてこなければ⋯⋯⋯⋯

 街に流れ込んだ怨嗟の炎と黄金の黄泉水は『空弩街』上空を漂い出した。


 一滴一滴、飛沫を上げるよりも早く空へと飛翔したように向かっていく。


 生者を朽ち果てさせ、永久の庭へと誘うその炎と海はシールが剥がれるように沈んだ人々から離れていき、炎に呑まれた者達の元へと去っていった。


「どうして、何故だッ!婚姻も済ませて、マイヤを『エルサーユ』への導きは既に整った筈だと言うのに!」


 そんな異常現象かつ緊急事態を電波塔の展望デッキの内部から見下ろしていたプルトンは激昂しながら、天を衝こうかという程に叫ぶ。


 プルトンの計画は大きく崩れ去っていた。


 予定では【七人の天使】は爆発する筈が無い。


 想定では【悪魔の王】が灰になる訳が無い。


 規定では【紅蓮の龍】が指定した座標から逃げる事は無い。


 論定での果てで来る筈だった【生命の苗木】が落下してこない意味が分からない。


 火定の【裁きの火柱】は何故か大陸へ向かって直撃しなかった。


 そして今──約定された【黄昏の炎と黄泉水】が消滅しようとしている。


「【ヨハネの四騎士】は何してるんだ!なぜここに来ないッ!これでは俺が【降誕】するまでの手筈が整えられない!あの国をやり直せないッ!クソがッ!」


【四馬に見初められた者】が一向にプルトンの元へとやってこない


 目算が外れ、計画は明確に歪になっていく。


 修正点があまりにも多すぎて投げ出してしまいそうになる程に思い通りにいかなかった。


 上空で渦となって舞い上がっていく【黄昏の炎と黄泉の水】。


 遂に街から完全に撤去されてしまう。


 怨嗟の炎は僅かに上空を漂った曇り空を晴らす燃料となり、黄泉の水は霧のように消滅してしまった。


 この光景にプルトンは苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。


「なんだ、なんなんだ、あの男。⋯⋯⋯⋯マイヤの理想郷が⋯⋯⋯潰えるとでも言うのか?」


 近くに寄れば歯軋りの音が聞こえる程に悔しさを滲み出していたプルトンの背中を徐ろに触れて寄り添うように身体を密着させたマイヤ。


 彼女は顔も見ず、ただ額を背に付けるのみ。


「プルトン⋯⋯⋯⋯。?!プルトンッ!」


「え?」


 音よりも早く斬られた。


 感触も痛みも起きぬまま、プルトンを庇うように腕を広げたマイヤは斜めに一線を引かれて、崩れ落ちるように倒れ込んだマイヤの肩を抱いたプルトンの表情は筆舌に尽くし難いものであり、悔しさや悲しさ、後悔がこれでもかと籠められていた。


「マイヤ!────ッ!お前は⋯⋯⋯⋯」


「よう」


 朝倉拓也は既にそこに居た。刀を片手で持ち、つまらなさそうにしている青い瞳で見下ろして、プルトン達を蔑視している。


「つまらない事に随分な死者を出しやがったな。流石はアメリカ人。やる事が日本人とは一線を画す事この上ない」


「貴様、よくもマイヤを⋯⋯⋯⋯。俺の、俺の全てをォォォォ!」


 沸き立つ怒りは即座に向けられた。


 肩を抱き寄せ、マイヤの表情を確認するよりも早く実行犯の男の顔を睨む。


 プルトンは見ていた。朝倉拓也が自身の邪魔への貢献を最も果たしてくれた存在である場面を幾つも。


 手の届く筈だった理想郷までの道のりはぽっと出の男によって完全に遮断され、断絶されてしまったのだ。


 憤慨ぐらいは許されよう。


 そして、当の本人である朝倉拓也はと言うと、あっけらかんな表情であり、プルトンを更に苛立たせていく。


「それは新手の冗談か?アメリカンジョークもここまでいくと寒いんだな」


「なんだとッ!」


「安心しろ。ソイツは死んじゃいない。あくまでもお前を斬っただけだ」


「マイヤは斬られた!その日本刀でな!言い訳するんじゃねぇッ!」


 怒声は展望デッキに響く。指を差して男が片手で持つ刀を示す。


 人を斬ったという行為を些事程度の認識で二人を見つめる朝倉拓也の視線は僅かに横に逸れた。


 プルトンが羽織っている茶色のジャケットの縦に伸びたファスナー部分を強く掴まれ、ゆっくりと引っ張られる。


「プルトン、私⋯⋯⋯⋯傷、何処にも無いわ」


「────え?」


 ウェディングドレスの彼女は肩から腰へ掛けて斜線が引かれたように斬られた──だが、傷は愚か痛みすら何処にも無かった。


「大丈夫なのか、本当に?⋯⋯何処も痛くないのか?」


「え、えぇ⋯⋯⋯」


 唐突な出来事に身体は一気に脱力させられたマイヤを見たプルトンの早とちり⋯⋯のようなものであり、マイヤには傷は一ミリも付いていない。


 身体を掌で確かめるように触り始めたプルトンの表情には未だに恐れや不安が残る。


「言ったろ。斬ったのはお前だって。斬らせて貰ったぜ。『可能性』をな」


「『可能性』?」


「お前がこれから果たしたい何かがあったとしても⋯⋯それが叶わなくなる。────ついでだ。コレもやらせて貰う」


 腕を伸ばした。


 標的を定めるように伸ばした腕を十二芒星が描かれた箇所へと向けた朝倉拓也はプルトン達の方を見たまま、魔力を掌から放つ。


 小さく、ビー玉一つ分程度の大きさのそれは目ではとても追えない程の速度で地面に置かれて黒い煙を噴き出していた箱へと直撃。


 カンッ!と甲高い音が鳴ると同時に黒色の『啓示の箱』は中が膨張したように膨らみ始めると、一気に破裂。


 風船が割れたような炸裂音が数十程鳴ると箱に亀裂か入り、最後は見るも無惨な解体ショーが行われたようにバラバラと化す。


 ネジ等の類いはなく、組み立て式だったその箱はパーツの一つ一つが粉々に砕け散り、黒かった箱は白色へと元に戻った。


「っ!『啓示の箱』が!⋯⋯⋯」


 黒い煙はもう立たない。重厚的な厚みがあった箱はもう見る影も無くなった。


 あるのは、血で描かれた十二芒星と警察官だった者達の黒く焼き焦げた遺体のみ。


 透き通るように陽射しは展望デッキへ齎される。


 影がフロア内部に伸びていく。


 追うようにマイヤは視線を向けて次第に目を閉じた。


 鼻は人の焼けた匂いで充満し、煤汚れた壁と床が事件性を物語っている。


 理想郷を目指した果てに出した犠牲は一つ、二つでは既に済まされない。


 百という数を優に超える被害が齎されてしまい、それが自分の為に行った凶行だと言われれば目も塞ぎたくなる。


「悪いねぇ⋯⋯。まぁ、命取らなかっただけでも温情だと思うんだな」


「ふ、巫山戯るな⋯⋯⋯⋯⋯⋯。俺は、マイヤは⋯⋯なんの為に⋯⋯。こんな辺鄙な国にやって来たと言うんだ。こんなどうでも良い国なんかに、わざわざァァァ〜〜ッ」


「プルトン⋯⋯⋯。私はもう良いの。本当に、もう⋯⋯⋯」


 朝倉拓也に遅い掛かろうとしたプルトンの脚は後方へと引っ張られる形で制止する。


 掴んだ上着、その手は震えていて何処か目を背けるように下を向いていたマイヤはボソリと呟いた。


「良いわけがない!あんな、あんな国を変えなくちゃ、俺達は⋯⋯お前は、何時までも幸せになれない。それはあっちゃいけない事なんだ」


 マイヤはゆっくりとプルトンの顔を見始める。


 表情を窺い、見れば見る程に苦しそうな顔をした。


 やがて、口元を押さえて涙を流し始める。


「どうして諦める!なんで捨て鉢になろうとする!俺がいる!俺が着いている。お前の叶えたい理想を俺は何時までも願っている。それを叶えたいって願望もある!それを、それを⋯⋯⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯⋯。っ!あ、あのね、プルトン、あのね───」


 何かを言おうした。告げなければならない事だった筈で、それを前からちゃんと伝えられていれば、きっと何かが変わったかもしれない。


 遅すぎた言葉を告げようとマイヤは吃るように言葉を発しようとした。


 だが、マイヤの意を決した言葉は、まるでプルトンが躱すように目を背けられた事で挫けてしまう。


「お前の顔、覚えたからな?」


「いや、忘れて貰って結構だ。どうせ、お前は明日明後日にはもう居ない。そんな奴に覚えられても、ウザイだけだしな」


「なん⋯⋯だと!貴様ァァァァァ」


「駄目、プルトン!」


 悲鳴にも近い声でプルトンの腰に抱き着いて制止を促す。


 マイヤは知っている。プルトンは自身には強引な行為に走らない事も、無理難題をふっかける事も無いという事を。


 信頼と言えば聞こえは良い。


 しかし実際はどうなのか────。


 マイヤは深く痛感しながらプルトンを止めに入っていた。


「マイヤ、だがな──」


「お願い、ちゃんと聞いて⋯⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 綺麗に化粧をした彼女の頬は涙に濡れていた。


 ウェディングドレスは煤に汚れて純白とは到底言えない物となっている。


 そんな光景を見つめていた朝倉拓也は目線を少し下に落として、訝しむような表情を向けた。


「お前、どうして何時までも囚えてるんだ?可哀想とは思わないのか?」


「何をッ!」


 真っ先に反応したのはプルトンだった。


 泣いているのも、こうやって身体を張って強行を防ごうとしているのも、どちらも彼女だ。


 そして、そうさせているのは自分だとプルトン自身が一番分かっている。


「⋯⋯⋯⋯⋯」


 マイヤは何も言わなかった。


 口を引き結び、ひたすら殻に篭もるようにプルトンの背に隠れる。


「まぁ、良いか。お好きにどうぞ」


 吐き捨てるように前へと歩く。


 通気性の良い穴が空いた壁の方と向かう朝倉拓也を視線で追うプルトンは叫んだ。


「待て!何処に行く!」


 一種の威嚇だった。勝てないと知っていても噛み付かなければ生き残れないし、勝ち取れない。


 それをご丁寧にアメリカでたっぷりと教わったプルトンの声は上擦りながらも虚勢を張る。


 だが、朝倉拓也にはそれはどうでも良かった。


 虚勢だと言うのは傍目から見ても分かるものであり、表情が、姿勢が、仕草や動作といった見る所で顕著に浮かび上がっている。


 ゲージの中で震えて怖がる犬に対して積極的に構いに行くのは愚策なのと一緒だ。


 朝倉拓也は仕掛けてこなければ何もしないし、する意味もないと割り切っている。


 後手に回ろうとそれはカバー出来る範囲の出来事であり、すぐ優勢へと巻き返せる実力差がある事は男が何よりも知っていた。


「⋯⋯⋯もうその箱の中身は全部壊して、外に漏れ出たモノも俺が殺した。お前が【再誕】する事も、ソイツが【世界の管理人】になる事も無い。つまり計画は頓挫が確定したって事だ。これ以上、構う理由が無いだろ?」


『啓示の箱』あっての計画でそれが要だった。


 言い換えれば、それが崩れ去れば一気に瓦解して計画は空中分解。


 どんなに『怪異』が強力であろうとも、どんなに周到な計画や作戦を立てようとも結局は箱頼み。


 神頼みするには、彼等は実力が足りなかった。


「それと────」


 壁に手を添えて飛び降りる準備をしていた朝倉拓也はふと思い出したように後方で呆然としている二人の方へと振り返る。


 警戒したプルトンはマイヤを庇うように前へと歩き、手を伸ばして薄過ぎる障壁となった。


「早いとこ、別れ話をする事を勧める。婚姻数分だけで悪いとは思うがな」


「待て!何を言ってるんだ!戻って来い!マイヤ、離せ!離してくれ!」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯ッ。お願いだから!────此処に居て⋯⋯⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯マイヤ」


 朝倉拓也は上空を飛翔した。


 姿が小さくなっていくその様子をひたすらマイヤに抱かれたまま、見過ごす事となったプルトンはマイヤの方へと目を向ける。


 そっと抱き締めて、体温の低い彼女に温もりを与えていく。


  ━ ━ ━


 騒然とした街に落ち着きは許されない。


 朝倉さんと別れてから駆け出した僕は瓦礫の山と化した道を抜けて、舞喜の通う中学校へと遠回りしつつもようやく辿り着いた。


 グラウンドにはテント仮設置されており、大量に敷かれたブルーシートには登校していた生徒や避難して来た人達で溢れ返っている。


 十数人の教職員と後から避難した数名の人達が行方不明者の捜索や安全ケアの為に不精神的に不安定となった人達に寄り添っていた。


「舞喜⋯⋯⋯⋯何処に行ったんだ?」


 左右に顔を向けて、注意深くとは到底言えないぐらいの散漫さで脚を前に動かしながら、人混みを潜りつつ見知った顔を見たかった。


「舞喜!舞喜ぃぃぃ!」


 僕は叫んだ。避難して来た人の事など省みる様子もなく、ひたすらに⋯⋯。


「ぅぅう、痛い、痛いよォォォォ」


「大丈夫だからね。すぐにお医者さん、来てくれるから」


 子供が泣いて、母親がそっと背中を擦りながら不安そうな顔をしているのを見た。


「家が、私達⋯⋯⋯⋯どうなるんですか?」


「生きててただけでも良しとしよう」


「何言ってるんですか!?帰る場所が無いなんて、死んだようなものでしょ!」


 老夫婦が疲弊し切った顔で項垂れる。


 心に来ないとは言わない。けど、見つけなければいけない人物がいる中でも意識が妙に他者へ向いてしまう。


「あの子のせい!あの子のせいで!ぁぁぁぁぁあ」


「分かったから、少し落ち着け!今、応急処置してる」


「医者でもないのに、治る訳ないじゃないですか!?巫山戯ないでくださいッ!」


 タオルケットで身体を隠すようにしながら大量の血が付着した手に包帯を当てている女子中学生とそれを処置している先生。


 耳から聞こえる情報量が多すぎて、舞喜を探す所じゃなくなってきている。


 喚くような声も泣き叫ぶ声も何もかもが煩わしいと感じ始めた。


(⋯⋯⋯⋯⋯舞喜、何処に行ったんだよ⋯⋯)


 やがて、僕の脚は止まった。


 耳を塞いで他方から流れ込む情報から逃げ出したくて堪らなくなった。


「君、大丈夫か?!」


 すると、男性の大声が耳元から聞こえて、僕は思わず反応してしまう。


 ふくよかな体型をした五十代ぐらいの茶色のスーツを着た男性だった。


 不安そうに僕を見ていて、僕は思わず耳から手を離す。


「あ、はい。大丈夫⋯⋯です」


「何処か怪我は?体調とかは?休める所は少ないが、あそこのスロープ辺りで休んでもいいんだよ?」


「いえ、人を探してるだけです」


「生徒かい?僕はここの校長だよ」


 校長──つまり、この学校の頂点の人。


 僕が在学中だった去年とは別の人が校長という立場に就いた人という事だろう。


 それでも僕は条件反射のように校長先生の腕を掴んで口を開いた。


「あ、な、なら⋯⋯⋯。一年の桐江舞喜って女子生徒、知りませんか!妹なんです!」


 簡潔的に伝えた情報は校長先生を酷く動揺させるものだった。


 嫌な想像が過ぎった。


 ここまで来て、まさか────。


 そんな筈が無いと隠そうとしていたもしもの結末が、ここに来て振り返したように胸を締め付けていく。


「き、桐江⋯⋯⋯⋯。あ、あのだね。少し良いかい?」


「え────」


「良いから来たまえ」


 誘導されるように校舎側へと移動を開始した校長先生に僕は酷く狼狽した。


 聞かされる内容は何なのか、それを考える余裕すらあったかも分からない。


 けど、分かる事があったとすれば⋯⋯⋯⋯。


 舞喜は無事に五体満足では無いという可能性のみだった。


 ────けど、すぐにその不安は別のものへと変化する事となる。


 校舎の端っこ側までやって来た僕は誘導した校長先生の口から聞かされた内容に思考が追い付かなくなっていく。


 舞喜が友人数名と一緒に自分のクラスメイトに暴行を働いたというもの。


 しかも、ただの暴行事件ではない。


 意識不明の重体に追い込まれた生徒が複数人。


 死亡した教職員も居る。


 明らかな過剰的暴行で一部の生徒は顔の判別も付かない程というオマケ付き。


 最悪なのは街が今こんな状態の中、救急車が簡単にやって来てくれる訳も無く、被害に遭った生徒の多くは酷く衰弱した状態にあるという事だった。


 けど、そんな馬鹿な事をする程、舞喜はおかしい奴じゃない。


 母親に心酔しているかのような態度や言動は見受けられても、それは友人と一緒に暴行を働いた事と直結しない筈だ。


 学校では学校の顔をして、家では家の顔をする。


 少なくても、舞喜からしても親の日頃の行いを忌避する様子だってあるというのに、同じ轍を踏むとは思えなかった。


「馬鹿な!そんな筈ない!アイツに限ってそんな事!」


 だから、否定したかった。母親のような奴になって欲しくないと懇願でもするように、居ない舞喜に代わって弁論を始める。


「その友達は何処ですか!?ソイツらに誑かされたに決まってる!」


「⋯⋯⋯⋯複数人の生徒が君の妹さんがやったという証言があるんだ。今はこんな事態だからそれどころじゃないがね。⋯⋯⋯⋯⋯僕だって信じたくないよ」


「⋯⋯⋯嘘だ」


 付け足されたような言葉に僕は視線を逸らしてしまう。


『信じていない』とは言っていない。


『信じたくない』と言う校長先生の言葉からはそれだけ複数人以上の目撃者が居たという事に他ならない。


 学生服を着ていない女子中学生が校舎を歩き、挙句に血塗れの状態ならば嫌でも目に留まる。


 事件性があるのではないかと僕でも見てしまう。


「ま、舞喜は何処行ったんです?」


「それが⋯⋯⋯⋯何処かへと行ってしまったらしいんだ」


「そ、そんな⋯⋯⋯馬鹿な。舞喜に限ってある筈が無い。そんな訳が⋯⋯⋯⋯何かの間違いとか、勘違いって事は無いんですか!?」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 視線が僕から逸れて、無言を貫かれしまった。


 僕は直接その現場を見た訳ではない。


 それでも校長先生の顔色からその凄惨さが目に浮かんだ。


 認めたくなかった。


 舞喜がそんな事をしてしまっただけに留まらず、逃げるように学校から離れた理由《わけ》も、誰にも分かっていない。


 暴行事件を起こした発起人であり、クラスメイトに怪我まで負わせた重要人物。


 巻き込んで一緒に暴行事件を起こしたとされる友人は突然糸が切れたみたいに昏睡してしまい、話も聞けない状況。


 つまり────。


(舞喜が事件の重要参考人として扱われるって事か⋯⋯⋯⋯。そんな事⋯⋯⋯⋯)


 この校舎の端っこに誘導されて辿り着くまでの道にあった体育館では多くの悲鳴や涙声が聞こえていた。


 それが事件に巻き込まれたクラスメイトかその保護者のものかは分からない。


 でも、何故かそうなんじゃないか、そう思わざるを得なかった。


 校長先生はそれからしばらくすると他の先生らしき人に呼ばれる形でその場を去ってしまう。


 僕はと言うと────ひたすらに俯いて呆然としていた。


 家族が犯罪者になった────別にそこに忌避感や言い表しようのない怒りがあるとかではなかった。


 ただただ信じられないという気持ちが何時までも残り続けている。


 舞喜の行方は分からず。ただ精神的に僕はダメージを負っただけどなってしまう。


「探さないと⋯⋯⋯⋯」


 茫然自失なんて何時までも続く訳がない。


 僕は立ち上がり、凭れていた壁から背を離して歩き出す。


 仮に見つかったらなんて言おう。


 話せる機会はあるのだろうか。


 理由とか何かあったのか、もしかしたらイジメられていたというケースだってあるのかもしれない。


 それに嫌気が差して、遂に爆発した⋯⋯。


「─────『怪異』の可能性⋯⋯⋯⋯」


 正直、そっちの方が嬉しかった。


 気持ちや溜飲も幾らかは落ち着きを保てるし、何よりも明確な理由がある。


 衝動的に人を殺しました、なんて言うのは何処までも納得までで理解には及ばないし、実行はしないし出来ない。


 一線を超えてしまう恐怖心や理性が働いているからだ。


 でも、今回の舞喜にその一線を踏み越えさせたのが『怪異』というのならば、納得も理解も出来る。


(⋯⋯⋯⋯⋯⋯探しに行かないと⋯⋯)


 ザワザワと騒然としたグラウンドへと脚を踏み入れた。


 耳を塞ぎたかった。もしかしたら舞喜のせいで被害に遭った人物が居るのではないか、そう思ったらあらゆる情報が目障りになり始めた。


(⋯⋯⋯⋯あれ?なんで僕は舞喜がやったって認めてるんだ⋯⋯⋯)


 校長先生の前ではあれほど否定的だったし懐疑的だった態度は次第に無くなっていた。


 それどころか、僕もあの母親の子供ならやりかねない、そう薄っすら思えてならなかった。


「そうだ⋯⋯。母さんと父さんにバレるとマズイ⋯⋯。殺される」


 母さんは世間体を気にする。どう考えても当事者である被害者が一番被害を被る状況下でも、あの人は自分の立場を優先する気概があった。


 最悪の場合、施設への引き渡し前に過剰な暴力で舞喜の事を殺しかねない。


 足早になっていく。意識はやがて明確に身体に表れた。


 駆け出した僕の事を誰も気に留める様子が無かったのはむしろ僥倖だった。


 責任に対して顔向け出来ないというのもある。


 逃げ出したかった気持ちもあって、白い目で見られてしまうのではないかという不安感が余計に脚を早めた。


 僕だけでも責任逃れがしたかった。


 妹のしでかした事で、家族の僕にはお咎めなしであって欲しい。


 その為の言い訳なら幾らでも考えられる自信もある。


 ────なのに、純粋に妹を心配する気持ちも確かにあって、兄らしい事をに一つとしてしてこなかった僕が多少なら請け負いたい気持ちもあった。


 自分が一番、自分という人物を理解出来ないでいる中、僕は無我夢中で疾駆する。


 瓦礫に脚を引っ掛けてしまい転んだりもした。


 目的地である場所まで三十分という遠さに嫌気が差し始めたりもした。


 家が押し潰されてしまい、泣き崩れる人を無言で素通りして、母親が怪我をしていると叫んで伝える大人の男性が救急隊の人と一緒に助け出そうとしている現場も通り過ぎていく。


 何故か涙が流れる。


 思えば、こういう時に限って『普通』であろうとして敢えて見過ごしてしまった事柄が多くあったと痛感させられた。


 誰もが藻掻いてる状況下で自分だけ呑気に保身に走ろうとしている惨めさが酷く身に染みてしまって、辛くなっていく。


 ちゃんと変わりたかった。


 自分らしさもあって、しっかりと状況に向き合える人間になりたい。


 なのに、それにすら勇気がいる僕という存在は何処までいっても愚か者なのだと痛感させられてばかり。


 駆け出して既に十分以上が経った。


 大きく息を吸っては吐いての繰り返し。


 辿り着いたのは一軒家。


 皆が困り果ててる中、一人だけ保身や名誉、妹の事だけで走り抜いた愚か者の帰るべき場所に辿り着く。


 この東地区と中央区の間に位置する僕の自宅は被害を免れたのか、比較的に何時もの状況と何ら変わらなかった。


 だけど、既に違和感もある。


 自宅の玄関の扉がこじ開けられていた。


 しかも、かなり強力な力で無理矢理捻ったようにドアノブは曲がってしまっていて、玄関の扉自体は外へ投げ出されたように道路へ落ちている。


「はぁ、はぁ⋯⋯本当に『怪異』の仕業か?⋯⋯はぁ、はぁ」


 ホッとする自分が確かに居た。


 言い訳が付く、そう納得させられる材料があるのなら、それだけで安泰になれる。


 舞喜が舞喜自身の意思で実行していないというのなら、僕だけなら味方にもなってやれるかもしれない。


 おかしな話だった。僕は自分の家が荒らされているかもしれない可能性がある状態となっている自宅の前で笑っているのだから⋯⋯⋯。


「⋯⋯⋯⋯母さん、父さん、居るか?⋯⋯⋯母さん!父さん!」


 避難した可能性も勿論考慮していた。


 流石の二人もあれ程の爆発音と異常事態があれば逃げる択を取らざるを得ない筈で、むしろ安心すら覚える。


 玄関で靴を脱ぎ、壁を手に付けて昼間に差し掛かる時刻の中、カーテンが閉まり切って暗がりと化したリビングを目指して歩いて行く。


 扉を開けて一歩出ればリビング。


 そこから右方向にある二つの部屋の奥側が両親の寝室。


 トイレにも風呂場にもいる気配は無かった。


 つまり、自宅に居るという選択を取った場合、もうそこしか二人が滞在出来る箇所が無いという事になる。


 ゆっくりとドアを開けようとした僕はノブを捻って引っ張ろうとした───。


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯え?」


 リビングに人が倒れていた。


 ガラス越しに見えるその人物は誰か⋯⋯。


「父さん!?」


 勢いよく扉を開けた僕は急ぎ倒れていた父さんに駆け寄って肩を揺する。


 うつ伏せで倒れた身体を仰向けにして顔を窺おうとすると、僕は喉の奥が詰まった感覚に見舞わされた。


 僕の手は父さんの身体から離れて、床に着いたまま離れない。


「か、顔が⋯⋯⋯⋯。な、なんだ、なんだよ、どうなって⋯⋯⋯⋯。き、救急車。救急車ッ!」


 ハンマーでも使って殴られたように顔は凹みを見せていて、大量の血が顔や衣服に付着していた。


 元の原形なんてものは消え去っていて、別人だと言われた方が納得のいくぐらいに父さんの顔は傷付けられている。


 視界が覚束無い。気付けば呼吸は乱れて、耳に届けられる音は自分の息遣いと鼓動の音だけだった


 既に手に付着してしまった血液は無駄に温かく感じられて、逆に寒気すら覚える中、僕は急ぎスマホを取り出そうとした。


 後ろポケットにしまわれたスマホを操作しようとした頃、僕は指の動きを止めて硬直してしまう。


(⋯⋯⋯⋯救急車、すぐに来てくれるのか?⋯⋯⋯⋯間に合うのか?いや、でも、あぁ⋯⋯。どうすれば、どうしよう。どうしたら、どう──)


 ドンッ!と両親の寝室で床に何か落ちた音が聞こえて、僕の意識は一気にそちらに向いた。


「⋯⋯⋯⋯ま、舞喜か?舞喜なのだよな?」


 僕はこの時、違和感のようなものをもっと持つべきだった。


 自宅に帰る選択を僕が取った理由は両親に妹のやってしまった罪に対して少しでも援護をする為に先んじて手を打って置こうとしたから。


 その自宅の玄関扉は道路に投げ出されてしまっていた段階でどうして舞喜がやったと確信的なまでに思い至る事が出来たのか────。


 妹の行った凶行も全て『怪異』のせいだと思い込みたい僕は都合良く物を見過ぎていた。


 この場面、この状況────街の混乱に乗じて別の誰かが犯した強盗犯という線だって一向にあった筈なのに、僕は何故か確信すらあって、疑う余地すら置いていない。


 ─────だから、舞喜が両親の部屋から顔を覗かせた時、素直にホッとしてしまった。


「おかえり、お兄ちゃん」


 顔に付着した血は数滴程度では済まされず、ベッタリと頬や前髪、パジャマにも付いている。


 それなのに、意に介さないように僕に向けて微笑んでくるコイツに僕は酷く安堵した。


「お、お前⋯⋯⋯⋯。何やってんだよ⋯⋯。父さんが倒れてるってのに⋯⋯」


「うん、知ってる」


 瞬間、空気がガラッと変貌し始めた。


 何処か虚ろだった舞喜の瞳《め》からは僕の身体に絡み付くような視線が送られた事により、初めて妹相手に恐怖にも似た感覚が芽生えてしまい、萎縮してしまいそうになる。


 けど、口調も態度も様子だけなら何時もと何ら変わらない。


 ただ、ねっとりとした何かが纏わり付いてくる感覚だけが違和感として身体を硬直させている。


(⋯⋯⋯⋯相手は舞喜だ。『怪異』じゃない。ならなんて事は、ない!)


 言い聞かせるように何度も何度も、心の中で復唱した。


 自信を持たせる為というのもあったが、この瞬間から何かを間違えると僕は終(・)わ(・)る(・)。


 恐怖心がそう訴え掛けていた。


「お前、学校で何かあったのか?兄ちゃんで良ければ話は聞くぞ?⋯⋯⋯⋯だから───っ!」


「大丈夫。もう、話とか要らない」


「────え?」


 扉と壁越しで見えなかった舞喜の右腕。


 僕の妹は母さんを引き摺って近付いて来た。


 妹は実の母親の髪を引っ張っていた。


 それはまだ分かる。いや、本当はマズイのだが、状況としてまだ理解出来る。


 口元から大量の血が溢れ出る母さんの顔も父さんに比べれば軽傷と思えてしまう程だった。


 ────問題は母さんの腹部にある。


 母さんの腹は裂かれていて、中身が床を引き摺られていた。


 吐き気が込み上げてくる。腹部から見せびらかすように露出した腸や女性的部分がワザとらしく引き出された状態で呻き声を上げる母さんを見た僕は口元を強く押さえる。


「うぅぅ────。お、おお、お前!何やってんだ!」


「え?あ〜、だって貴方みたいな子要らないって言われちゃったから。ほら!小テストの点数、バレちゃってさ」


「えぇ?あ、アレは部屋に⋯⋯⋯」


 僕が舞喜の机に置いたあのテスト用紙を母さんが見た。


 それならこの人は確かに激昂はするだろう。


 舞喜の頬もよく見れば叩かれたような痕と髪のボサボサ具合いから頭を掴まれたのは容易に想像出来てしまった。


 だが、現状の母さんの状態から見て、過剰防衛が過ぎる気もしてしまう。


 刃物で腹を切り裂いたにしては切り口が広い気もする。


 ダラダラと止まらない血液は吐いているズボンを濡らして、床を引き摺る度に跡が残り続けていた。


「うん、お母さん、勝手に私とお兄ちゃんの部屋に入って私の荷物だけ纏めようとしてたの。酷いよね、最低だよね、残酷だって思わない?」


 母さんを投げるように父さんの隣に棄てた舞喜は僕にだけ視線を向けて、なんて事の無いように言葉を綴っていく。


「あんなに頑張って、あんなに尽くして、努力して、認められようって耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて⋯⋯⋯⋯⋯⋯。けど駄目だった」


 体幹が悪くなった人のように左右に身体を振りながらキッチンの方へと歩いて行く。


 気怠げと言うには少し威圧感があって、高圧的な態度と言うには自罰的にも見える今の舞喜に掛けられる言葉が見つからなくなっていた。


「舞喜⋯⋯⋯⋯」


 冷蔵庫から取り出した牛乳を紙パックのままガブガブと飲んでいく舞喜。


 垂れた口元は白い液体────と言うには少し黒く変色していた。


 更にキッチン台の上に放置されていたパンの袋に手を付け始めると、雑に袋を破りだして食パンをそのまま食べ始める。


「うん、不味い。やっぱ、駄目だよねぇ」


「!?おい、パンが⋯⋯⋯⋯」


 大口で口に含んだ食パンはまるで菌が繁殖するのを倍速で見せられているように口を付けた部分から徐々に黒緑色に変色を始めていき、僕は絶句した。


 舞喜は苦い顔を浮かばせながら、口を付けたパンを行儀悪く小さく振っていく。


 パンは────完全にカビが一面に広がって、食べられる状態ではなくなったにも拘わらず、更に口にしだす。


「あ、ぁぁ、な、何やってんだ!は、吐けって!」


「んっ!え、あぁ驚かせた?どうしてかな?食べ物が腐るんだよ。私が触るとさ。まぁ、良いけど」


「ば、馬鹿言ってんな!───あ、そうだ!忘れてた!」


 思わず床に落としていたスマホを手に取り、指を走らせる。


 足音が一歩分、コチラに近付いた。


 たったそれだけで、全身がビクッと上に跳ねたようになって、足音のした正面を向く。


「なにやってんの?救急車でも呼ぼうとしてる?」


 焦点が合ってない舞喜の瞳がコチラを睨んでいた。


 表情だけなら普段と何にも変わらないと言うのに、瞳だけが憤慨でもしているようなものに感じる。


 思わず僕の目線は床へと向いてしまって、視界は倒れた父さんの脚と母さんの腕が映り込む。


「⋯⋯⋯⋯お前、学校でもやらかしたんだろ?これ以上に罪増やしてどうするんだ!?僕も一緒に警察に行ってやる!謝罪ぐらいなら幾らでも付き合う!だから────」


「遅い」


 水底に沈められたような声が身体を一気に凍り付かせた。


 寒暖差が激し過ぎて、いっそ死ぬのではないかと錯覚させられそうな程に身体は危険信号の震えが止まらない。


 虚ろだった瞳の奥は底が見えずにいて、何時までも暗闇に閉じ込められるのでないかと思った。


 ゆらりと舞喜の身体は左右に揺れて、僕の方へ近付いてくる。


「遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅いッッ!」


 徐々に早くなる言葉はピアノの連弾のようだった。


 僕は立ち上がって後退りをしていく。


 舞喜は父さんの脚をなんとも思わないように踏んで、僕に近寄って来る。


「今更、兄貴面?アタシの事とかどうでもいいって態度してたじゃん。それに、アタシに示してくれたのはお兄ちゃんじゃん!」


「⋯⋯。何が?僕がお前に何を示したってんだ?」


「アタシね、感激したの。激励したいって思った!誰かを従わせるなら結局は力でッ!捩じ伏せるのが早いんだって!ほら!お兄ちゃんが昨日、お母さんにしたみたいにさ〜。アレ、正直────興奮した」


 アレにそんな意図は無かった。


 舞喜は確かに泣きながら震えていたのを僕は覚えている。


 アレはてっきり、理想としていた家族を僕がぶち壊す様を見て舞喜は悲嘆に暮れているものだとばかり思っていた。


 だけど、舞喜が今語った言葉には悲嘆なんて言葉とはむしろ真逆の言葉が発せられた。


 背中に何か触れた。腰辺りに出っ張りのようなものが当たって手でそれを確認していく。


「⋯⋯⋯お前、どうしたんだよ?こんな事言う奴じゃなかったろ?」


「⋯⋯ほら、やっぱ分かってない。見てくれてない。お兄ちゃんのクセにだよ」


 言い返せる言葉が見当たらない。


 事実として僕は今まで舞喜の事を見ていたフリしかしていなかった。


 母さんと父さんと一緒に家族団欒の仲良し一家で在りたいという理想を『くだらない』の一言で片付けてきたのは間違いなく僕の意思そのもの。


 正直、今でもそれはある。


 けど、前に比べれば少しは寛容な態度で見届けてやろうぐらいの感情も確かにある。


「アタシ今、凄い気持ちいいの。身体がポカポカして、抑えられないって気するの。最高だよね!家に居てもずっと凍えてた身体が、ここに居ても温かいんだよ!」


 自分の胸元をギュッと掴む舞喜の表情には、下卑た笑みにも似たものが浮かび上がっていた。


 獲物を後一歩で追い詰められる狩人そのもの。


 腰辺りに当たっている出っ張りを捻り、急ぎ後方へ移動する。


 それは僕と舞喜の寝室だった。


 タンスや椅子が乱雑に床に転がっている所から母さんが入って暴れたのだろうと分かるその場所に逃げ込んだ僕の後を執拗に追尾する舞喜は部屋に入る。


「お父さんね、アタシに殴られた時、女の子みたいな悲鳴上げて倒れたの。アタシでも上げた事ないのに」


 舞喜は普段我慢強い女の子。


 だから、殴られようと髪を引っ張られようと蹴り飛ばされようと、大して声を上げない。


 ────いや、我慢強いなんて言葉はきっと間違ってる。


 正しくは、声を上げれば追加で打たれるから耐えなくちゃいけなかっただけだ。


 僕はそれを知っていて──見過ごした側の人間。


 自分もその仕打ちを受けるのが嫌で、わざわざ関わりたくなくて、避けてきた側の卑怯者。


 それが今、爆発したんだろう。


「お母さんね、三人目の子供、妊娠してたんだって」


「⋯⋯⋯⋯えッ?」


 腸を引き摺り出された母さんを思い浮かべた。


(外に抉り出されたアレは間違って無ければ子宮だった筈だ。⋯⋯⋯⋯て事はッ!)


 部屋に入った舞喜はロボットのように横を身体を向けながら、顔だけが僕の方向へ向いた。


 開かれたカーテン。窓から射し込む陽光は舞喜に不気味な影を齎している。


 どういう訳か、腕や脚に黒い手のようなものが巻き付いているようにも見える舞喜に視線が外せない。


 握っていたスマホは手の力が抜けてきて、床に落とされる。


「でも、お兄ちゃんの言った通り、こんな家で兄弟が出来ちゃったら⋯⋯⋯。産まれて来ちゃったら地獄見ちゃうもんね?産まれて来なければ⋯⋯フフッ、それに越したことはないよね?だから────殺《と》っておいてあげたよ」


「はぁ、はぁ、はぁ、お、お前⋯⋯⋯⋯⋯。そんな理由で?母さんの腹、カッ捌いたのか?どうかしてるぞッ!!」


「どうか、してる?」


 不気味と異様さを隠すか素振りもない舞喜は首をこくりと傾けて、少しだけ上を見上げる。


「そっか⋯⋯⋯⋯。おかしいなぁ〜」


 ギョロりと瞳だけがコチラに向いた。


 そして、徐々に口角が上がっていく。


 目も笑ったようにも見えてきて、寒気が全身に染み渡る。


 脚裏は接着剤で床と固定されたように離れなくなっていく。


 呼吸一つで喉が熱くなって痛みを帯びる。


 鼓動一つで全身の力を抜き取られるように脚は震え始めた。


 瞬き一つで舞喜の様子が変化していると錯覚させられていく。


「お兄ちゃんだって、お母さんとお父さんに対して似たような事やったじゃん。散々暴言吐いて、言いたい放題言って。暴力だってした⋯⋯⋯⋯。渇望したんでしょ?自分が上なんだって証明したくて」


「な、何の話だ?僕はそんな事考えた事ない!確かに暴言だって吐いたけど、それは────」


「あ〜駄目駄目。逃げたら。飢えからは逃げられない」


「え?」


「人は勝ってこそ生きてる価値がある。争いこそが求められる証明。飢えを認めてそれを受け入れるべきなの。それで⋯⋯⋯⋯⋯死を直視しなくっちゃ」


 僕は頭が?(ハテナ)で埋め尽くされた。


 普段なら、何処の馬鹿が吹き込んだ、そう苦笑いでもしながら嘲笑してやる所だが、今はそれが出来ない。


 舞喜の言葉一つ一つに意識を向けて意図を理解しようとすればするほど混迷に行き着き、次第に抜け出せなくなっていく。


「────どうしちまったんだ?舞喜。お前⋯⋯本当にらしくないぞ!?『怪異』って奴に化かされたのか?だったら、少し待ってくれたら兄ちゃんがどうにか────」


「アタシはァァァァッ!」


 発狂したように突然の叫び声に僕は更に固まる。


 感情任せに吐き出すように口を開いた舞喜は僕の方へと身体を向けてじわじわと近寄って来た。


「アタシはね、証明したいの?アタシが居て良い理由を。お兄ちゃんに何時も負けてばかりの今までの温厚なだけのアタシが勝つ為には争わなきゃいけないの。お母さんは何時も言うの。お前もお兄ちゃんに賢くなれ。凄くなれ。お母さんを失望させないで、ってね。応えなきゃね?応えてあげなきゃ、家族で娘で女の子なんだもん」


「⋯⋯⋯⋯舞喜、僕は別に偉い訳でも賢い訳でもない。お前はお前のペースで、自分なりに頑張っていけば良いだけだ。違うか?」


「違うよ?」


 舞喜を避けるように身体を反らしていき、部屋の外へ出ようと画策する。


 それをいとも簡単に許した舞喜はそれでも僕の後を追うように脚を止めない。


 落としたスマホから通知音が鳴る。それに気を取られる事もない舞喜は真っ直ぐに僕の方へと視線を向けた。


「頑張っても頑張っても頑張っても頑張っても、幾らどんなに努力しても届かない事ってあると思うんだ。アタシにとってはお兄ちゃんがそう」


「そ、そんな事は──」


「アタシはね。お兄ちゃんみたいに『家族で居て良い』なんて思われてない。死んだのと同じなんだよ。死んだの。要らないって言われたあの日に。こんっっっなに⋯⋯尽くしてきたのに」


 死刑宣告は既に通達されていた。


 舞喜はそう言っている⋯⋯⋯⋯そう気付くまでに少し時間が掛かってしまう。


 舞喜の本音は僕以上に有り触れていて、当たり前だった。


 僕が不必要と切り捨てようとしていたものを舞喜は欲している。


 舞喜が求める理想の根底のようにも感じた。


「────頑張ったのに、勉強もちゃんとして、友達と遊ぶよりも勉強して。やりたい事よりも勉強して。嫌だけど、我慢して苦労して、苦手なものだって頑張って⋯⋯⋯⋯」


 僕は舞喜のしたい事や、やりたかった事を深く知らない。


 見てこなかった証拠だ。


 何が得意で、何が苦手で、どういうふうに改善しようと努めてきたのか、その一切を僕は知らない。


 散々、投げ出すように放置してきたツケが回ってきたという宣告。


 慟哭にも似た悲痛な言葉は僕に動揺を齎していく。


「誰かと話す時は何時も怖いって事、お兄ちゃん知らなかったでしょ?」


「怖い?」


「だって、比べられるんだもん。誰にでも。学校でも、家族でも、他人でも⋯⋯⋯⋯」


 俗に言うマウントという奴だろう。


 子供が頑張った結果は親の成果。


 親の努力は必ず子供が果たさなければならないという歪な設計。


 それらとそれを作った母さんと父さん。


 それに知らぬ間に便乗していた僕によって舞喜にそう言わせているのだと、ようやく理解した頃、僕はリビングまで後退りで戻っていた。


「アタシがアタシでいれる理由。アタシがちゃんと居て良い理由。アタシが家族として居られる理由。アタシが求めてる以上にお兄ちゃんは知らぬ間に持ってる────」


 部屋の出入口付近で急に止まった舞喜は俯いたように下を向いて肩を震わせる。


 その小刻みな震えは大きくなっていく。


 初めは何処か体調でも悪くなってしまったのだと思っていた。


 けど、すぐに気付いた──。


 舞喜はただ笑っているだけなんだと。


「──────アッッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ。何それーー!ハッハハハハハハハハハ」


 甲高く、小馬鹿にしたような笑いを発した舞喜の身体はやがて縄でも巻き付かれたように黒い手が絡み付きだす。


 一つ一つが小さな手。けど、その数は無数。


 夥しいまでにある黒い手は舞喜の顔は指先以外の肌を黒く塗りつぶした。


(⋯⋯⋯⋯⋯なんだ、コレ?なんだよ、一体⋯⋯⋯⋯⋯)


 虫が全身を埋め尽くしたように蠢くその黒い手は徐々に舞喜の身体を締め付け始める。


 ウエストが絞られるように腰周りが小さくなっていくにも拘わらず、舞喜は平然とした様子を見せていた。


 それが堪らなく不快に感じてしまう。


「だから〜。アタシ、お兄ちゃんやお母さんがやったみたいに、力で勝ち取る事にしたの」


「そ、そんな⋯⋯そんな事しても居場所が手に入る訳じゃない!お前は、か、勘違いしてる!こんなの⋯⋯⋯⋯居場所を狭めに行ってるようなものだろ!」


「⋯⋯⋯⋯⋯お兄ちゃんに分かる訳ないじゃん。だってお兄ちゃん⋯⋯お母さんにもお父さんにも期待されてるんだもん。アタシとは違う。違うのに、なんで分かるの?だったら正解は何?」


「⋯⋯⋯⋯せ、正解って⋯⋯。罪を、受け入れる事だ、ろ?」


『怪異』から舞喜を引き剥がす方法──そんなもの知りはしなかった。


 けど、舞喜の感情の起伏によって現れたりするものだと仮定した僕は恐る恐ると言葉にした。


 解答として僕の放った言葉が正しいものなのか⋯⋯。


 その結果はすぐに発せられた。


「罪?アタシが受けた仕打ちは蔑ろで、アタシのやった行いだけが否定されるの?それって、結局⋯⋯お兄ちゃんが都合の良い風にしかアタシを見てない証拠だよね?違う?」


「秩序に重んじろって言ってんだ!───っ!」


 やってしまった、そう勘づいた時には空気はより冷たくなってしまっていた。


 壁から白い粉のようなものが落ちていく。


 椅子や机からは異様な音が鳴り出して、脚部分が突然へし折れた。


 床は軋む音が苛烈になって舞喜が近寄ってきた事がよく耳に入るようになる。


「⋯⋯⋯⋯秩序⋯⋯⋯⋯⋯。自分から家族の不和を広めていったお兄ちゃんがそれを言うの?」


「その家族が歪んでたんだ!だから、お前がその歪んだ部分を受け入れなくてもいいんだ!それは──」


「歪んでても家族なのッ!!!」


 視界が一気に薄暗くなった────。


 リビングはカーテンが閉められていて、昼間だと言うのに薄暗かったのは確か。


 けど、それとは比較にならない程にリビングもキッチンもダイニングも舞喜の後方にある僕達の寝室も全部が暗く染まった。


「お兄ちゃんにとっては塵芥程度の存在でも、アタシにとっては違う!たった一つしかない家族なの!それをッ!それをーッ!それをォォォォ!」


 舞喜の背後から何か現れた。


 靄のような煙でフィルターが掛かったようであり、シルエットも歪で鮮明とは決して言えないけど、それでも何か見えてしまった。


 それは一頭の馬。馬の胸元辺りが丁度僕の頭と同じ高さをした巨大な馬が舞喜の後方から現れ出す。


「はぁ〜。ホント⋯⋯⋯⋯。お兄ちゃんって、お兄ちゃんじゃないよね。もっと妹に優しくしてよね。お兄ちゃんなんだから。アタシばっかりとばっちり受けて、アタシばっかり殴られて、アタシばっかり比較される。言いたい事もやりたい事も全部、全部!全部ぅぅぅ!フフ、『お兄ちゃんみたいに賢くなってから〜』で終わりなんだよ?」


 唖然とした僕の前には髪を掻き毟りながら、睨み付ける舞喜が居る。


 そして、煙と一体化しているような馬らしき形をしたソレが二頭────舞喜の後方から僕を見下ろしていた。


「ハッハハハ。それ何時終わるの?何時になったら受け入れられるの?お兄ちゃんが一言、もっと、もっと⋯⋯⋯⋯アタシの事も家族の事もちゃんと見てたらこんな事になってない。お兄ちゃんは逃げただけ。家族の問題なんて知った事かって、一にも二にも先に、トンズラこいただけ。そんな人を『お兄ちゃん』って呼んでるだけ温情だって思わない?思うよねぇ!?」


「⋯⋯⋯」


「⋯⋯⋯無言か⋯⋯⋯。へぇ〜アタシを惨めにするんだァァ。流石はお兄ちゃんだね」


 ハッとなって正面を向いた僕は青ざめた。


 舞喜の僅かに緩んだ表情にはドス黒い炎が滾っていると真っ先に感知出来る程、殺意にも似たものが醸し出されていた。


 喉が渇いて、肌はヒリつく。視界は徐々にフラつき、冷や汗が流れる。


「ッ!いや、そ、そんなつもりは────」


 弁明しようと急ぎ言葉を掛けようとする。


 瞬間、視界は暗転した。急激な寒気と吐き気が訪れると、自然と膝は床に着いた。


 馬が地面を駆ける音が鳴り響く。


 僕の周りをグルグルと軽快に踏み鳴らすその音は耳に伝わればその分だけ心臓を強く締め付けられた。


 鼓動が煩く感じた。全身が強ばったように力が自然と入る。


 恐怖心がフツフツと沸き立ち、悪寒が何時までも収まらない。


「そうだよね。アタシは棄てられたんだもん。棄てられる予定もないお兄ちゃんがアタシの事⋯⋯⋯⋯⋯分かる訳ないもんねェェェ?!」


「僕が取り合う!お前を棄てられないように!だから──」


「煩いッッ!!」


 僕の言葉を遮った舞喜は眼前まで近寄って来た。


 腕を伸ばせば身体に触れられる距離に舞喜は毅然と立っている。


 圧倒的なまでの威圧感《プレッシャー》が口を開かせようとしない。


 深呼吸をして落ち着こうとする度に喉が焼けて、肺が焦がされたみたいに咳き込む。


 体内は虫が無数に蠢いたみたいな感覚がし始めると、吐き気は更に増して口元を押さえた。


 すると、低姿勢な僕の身体を包み込むように、舞喜は僕を抱き締めた。


 僕の額は舞喜の腹部にぽすりと収まり、後頭部を優しく撫でてくる。


 なのに、一向に落ち着かない。むしろ、恐怖心は増して肥大した。


 視界は歪んで、息は荒くなっていき、離れたくて堪らないのに動けない感覚が煩わしい。


「こんな事なら⋯⋯⋯⋯アタシ、産まれてこなきゃ良かった」


「っ!お前、何言って───」


 舞喜の膝が僕の顎に直撃した。


 天井に向かって顔が動くと共に身体の自由は奪われたように床へ向かって落ちていく。


 直後、視界は暗くなって身体は後方へと急激な速度で向かって行った。


 安全バー無しのジェットコースターという日本には絶対に存在しないアトラクションを自宅で体験した。


「うぅぅうぅぅぅ〜〜〜〜〜ッッッ!!!」


 舞喜の小さな手一つで額と頬を強く掴まれた僕の全身は一気にテレビ台のある方向へと一直線に突き進んでいく。


「がはァァ〜〜ッッ!」


 背中から胸元を貫く程の強い衝撃と圧迫感と痛みが駆け巡る。


 思考は判断と理解が至らず、呻き声を上げるのが手一杯。


 強まっていく握力。リンゴを片手で握り潰されるように僕の顔面はぺっちゃんこになるのではないかと一人緊迫していく。


「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。


激痛なんて生易しい。強烈なんてみみっちい程の痛みが脳を震撼させる。


声は取り留めようのないものに変わっていき、脚をジタバタとさせるのが精一杯の抵抗だった。


舞喜に目を向ける事すら出来ない。そのまま握り潰されそうになる恐怖感とどうしようもない現状に叫び散らかす事しか出来ない。


「ならもう!家族皆で死ぬしかないよねェェェェェェェェェ!!!」


 僕の身体は舞喜の華奢な腕によって持ち上げられて、後ろへ向かって投げるように僕は地面に叩き付けられた。


「ッッッ〜〜!!!」


 首を強く打ち、ボギギィィッッ!!と鳴ってはならない音が耳に届く。


 呼吸が数秒間、途絶えた。意識が朦朧となっていき、か細い息を吐く僕の顔から手が離れた。


「アッハッハッハッハッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ〜〜。お兄ちゃん良いよ!アタシもちゃんと生きてて良いって実感出来たら、ちゃんと死んであげるから!」


 高笑いを上げた舞喜。緩急を付けたようにスンッと落ち着きだすと屈み始める。


 ゆっくりと顔を身体に近付けると、僕の胸元に頬を当てて擦るように頭を動かした。


(な、なに⋯⋯⋯⋯やっ、てん⋯⋯だ?)


 顔が動かせなくなった為に目だけで舞喜の動向を確かめていく。


 手に力が入らない。痙攣する身体は必死に意識を保とうと呼吸をしようとする。


 喉を通った酸素は肺へ向かい血管へと染み渡る度、全身は虫が這いずり回られた感覚が訪れた。


 抗いたい。藻掻きたい。そんな気持ちに襲われるものの、既に身体は自由を奪われていた──。


 痛みは苛烈さを極めて、鈍化を始めた肌の感覚と口元と鼻から溢れ出す血が煩わしい。


「だから────」


 ゆっくりと腕を上に伸ばした。


 それを呆然と見つめる僕に止めれる術は無く、懇願するように眼差しを向ける。


 だけど、舞喜の恍惚とした表情を窺うと僕は諦観してしまった。


「ま⋯⋯⋯⋯⋯⋯きぃぃ───」


「先に逝っててェェェェェェェェ!!!」


 言いたい事、言わなくちゃならない事、やらなくちゃ駄目な事────。


 その全てを全く果たせないまま、舞喜の狂気に満ちた顔を最後に──。


 腹部に訪れた強烈な痛みを切っ掛けに、プツリと意識が途絶えた。


  ━ ━ ━


 血濡れた自宅。鮮血は滴り落ちる中、少女は一人黄昏れる。


 やりきった──。そう確信すらあった少女の足取りは妙に重いまま玄関を出た。


「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ。⋯⋯⋯⋯⋯⋯何が面白いんだろ?あ〜〜、わっかんないけど、気持ちいい〜」


 昂る高揚感は未だに少女の身体の熱として残り続けている。


【勝利への渇望】は固執を齎す原動力《いいわけ》。


【争いを促す多幸感】は無秩序に身体を熱くする燃料《おもいこみ》。


【飢餓という惹起《じゃっき》】は自身の行いを無理矢理正当化する為の武器《きべん》。


【死という救済】は辿り着く顛末へ導く為の理由《うそ》。


 張りぼて造りの少女の躍動と飛躍的思考は留まる事を知らない。


 顔を叩き付けた手の触感は鈍くなっていく。


 曲がった口元を正しく元に戻す理由と方法を失い、引き笑いを浮かべる。


 手で確かに握り潰した新たな生命《いのち》の感覚は既にない。


 腸を掻き回し、掴んだ感触は鈍化を始めていき、滴っていく血の音は小粋なダンスを促す。


 少女は笑う。少女は笑うしかない。


 起こした物事を都合良く忘れられる程、世の中は決して甘くない。


 感情任せの一挙手一投足は少女の身に降り掛かる。


 涙が流れた。それは感情によって引き出された雫。


 けれど、その理由が掴めないでいる少女は血の付着した手で目元を拭う。


「ヒャッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハーー。ハハハハ、ハハ、ハ⋯⋯⋯⋯。何やってんだろ、アタシ」


 少女は歩く。混乱が長引き、未だに悲劇のど真ん中に置かれている街を練り歩いた。


 辿り着く場所は何処かなど、少女は知らない。


 興味も無ければ、意味も無いと吐き捨てるようにひたすら一歩一歩を緩やかに──覚束無い足取りが身体を動かしていく。


 誰もが思う、何かあったのだろうと。


 けれど、そんな未成年の少女に対して声を掛ける者は一人として居ない。


 自分の事や家族、友人の事で手一杯、それもある。


 だが、最大の理由は───。


 少女が壊れてしまったのだという忌避感と畏怖感が傍目から見ても理解出来てしまえるからだ。


 手を差し伸ばしてくれる存在が何時でも何処でも居る訳が無い。


 人々は知らなかった。『怪異』という存在を。


 人々は危ぶんだ。自分のこれからの人生を。


 人々は涙した。喪った者の数とその悲惨さに。


 被害者、加害者──共に得どころか損しかしない事件は緩やかに終息しようとしていた。


 ある男は女を抱き留めたまま、街を呆然と眺めるばかり。


 あの男は空を駆けて目的地を移動した。


 ある少年少女は居なくなった友人の安否を確認する為に痛めた身体を動かして自宅に向かおうとしている。


 そして────桐江准は息絶えようとしていた。


 普通で有り触れた家族という光景を、いの一番に放棄した少年は最も有り触れた家族を求めた妹の手によって、意識を失おうとしている。


 特別な関係という訳でもない、普通の妹が豹変した──。


 それを齎したのは誰なのか、准は虚空となった腹部を天井に向けながら考えた。


 けれど、結局その思考は思い通りにはならず、痛みと気持ち悪さが増していく身体に従うように、ゆっくりと瞼を閉じてしまう。


(舞喜⋯⋯⋯⋯、違うんだ。お前は一個、大事な事を間違えてる。お前は────)


 欠けた壁、血濡れた床、外れた玄関。


 倒れている家族三人。


 見ていた気になって、中途半端に兄を演じていただけの自己陶酔の兄。


 自分だけを見続けて、取捨選択を我が物顔で出来ると息巻いていた母。


 見る事を放棄し続ければ、他人事のまま居続けられると思い込んだ父。


 その三者は────たった一人の少女によって、静かに眠らされた。


児童養護施設に送られる方法と言うのは主に二種類あります。


緊急時の処置として一時保護所のような場所に子供を避難させるか。


ケースワーカーのような人を伝って親御さんと相談し合って引き取る手続きへの段取りを進めていく。


この二種類です。


なので後者の場合、高々数日程度で子供が保護所にポイは有り得ません。


その裏付けの為に母親には妊娠していた事にしました。


書いてる私も罪悪感はありますので。


酷い奴だな⋯⋯⋯。



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