地獄の家庭
祟良把と別れた僕が向かった先は自宅──ではなく、コンビニだった。
最近では立ち読み禁止のシールがあるせいで時間を稼ぐ術が見つからないが、それでも寄ってしまう。
『普通』という拘りは大事だと、そう気付かせてくれたのは紛れもない。
家族あってのものだ。
僕の家族は普通じゃない。
仕事先が公務員だとか、医者だとか、政治家だ。
そんな事ではなく、もっと当たり前の話。
時刻は夕方十六時半。
これ以上時間を稼ぐ術が思い当たらない事に溜め息を零した僕はコンビニを出て、帰路に着く。
普通の一軒家、普通の家族、普通の在り方なら、どれほど良かったんだろうか。
元々、家族なんて血が繋がっているだけの他人だと認識していた僕だったが、本当にそう思わないと駄目だと思ったのは中学二年の夏だった。
夜も更けていく時刻、母さんの期待高なプレッシャーと実績を積む為、塾に遅くまで残っていた帰り道──。
あの日、父さんが同じ会社に勤めている後輩の女性と仲睦まじくホテルに入ってく様子を発見してしまう。
それをどんな気持ちで母さんに言ったか、もう覚えてすらいないが、僕はリビングで家計簿と睨めっ子していた母さんに報告。
けど、母さんは──。
「良いのよ。ここに帰って来てくれれば。それにね、妻っていうのは旦那の浮気の一度や二度、赦すのも役目なの」
そう言っていた母さんの虚ろな目が気持ち悪くて、吐き気がした。
父さんが帰って来たのは深夜帯。
頭痛が酷くなる一方で勉強を続けていた頃だった。
すぐにリビングの照明は消えて、しばらくしてから僕がトイレに行こうと部屋を出て、二人共同の寝室を通り過ぎようとしていた時。
喘ぎ声が聞こえた。
母さんのだった。
僅かに空いた部屋の隙間、豆電球でオレンジ色に灯された空間が両親を僅かに照らす。
「⋯⋯⋯⋯気持ち悪い」
帰ってきてくれればそれでいい。
そう言っていた母さんだが、戻ってきて欲しいのは家族の元にではなくて、自分の所。
そこに僕や舞喜は居ない。
「お兄ちゃん?まだ⋯⋯寝てないの?」
部屋から出てきた舞喜が目を擦りながらやって来た。
それに僕は顰め面をしてしまう。
「⋯⋯お前は早く部屋に戻れ」
「トイレだって」
なら仕方ない⋯⋯とはならなかった。
現に僕の後方では活発な事この上ない両親がハッスルしてらっしゃる。
声だってダダ漏れ。
──死ねばいいのに。
「イヤホンして行け」
「なんで?」
「⋯⋯良いから付けてけ」
こんな気色の悪いのなんて聞かせるだけ毒だ。
どうせ誘ったのは母さんからだろう。
別の女とヤッた後に父さんもホイホイと釣られるように腰を振っている。
惨めな事この上ない。
断ち切り鋏がそこにあるなら、切ってやりたい所だ。
舞喜がトイレに向かい、部屋に戻るまでの間、両親の寝室前で待機した。
それを肴に僕も?
冗談じゃない。
間違えて舞喜が見たり聞いたりしないようにする為だ。
「⋯⋯⋯なんでいるの?」
そう、舞喜が困惑顔で聞いてくるが、僕は背中を押すように肩を掴み、共同部屋の寝室に帰そうとした。
「三人目──れたら、どうし──ね?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「痛い!痛い!お兄ちゃん何?」
三人目⋯⋯⋯⋯?
弟か妹?
冗談じゃない。
被害者増えるだけだ。
承認欲求を満たしたいだけの母さん。
フラフラと仕事ばかりにかまけて若い女に媚びへつらうのが趣味なだけの父さん。
そんな二人の被害者が既にここに二人居るのに、それに加えてもう一人⋯⋯⋯⋯。
地獄だろ、こんなの。
誕生日もロクに祝わず、出来て当然やれて必然だ、そう豪語する母さんが笑うのは何時だって承認欲求が満たされている時だけ。
家族とはなんだろうか。
その時、答えを知った気がする。
僕は塾を辞めた。
母さんにはキレられて、発狂して、机にある小物を腕で薙ぎ払うように吹き飛ばして喚いていたが、知った事ではない。
たとえ、次の標的が舞喜になろうとどうでもいい。
そんな自宅に帰ってきた。
今日、初めての高校登校日。
母さんに学校はどうだった?
なんて聞かれた事はないし、聞かれる必要も感じない。
そんな人が居る自宅に⋯⋯帰ってきてしまった。
「ただいま───」
「お兄ちゃん、お帰り」
妹の舞喜が洗面所からチラッと顔を覗かせた。
よく見ると服が外行き用の格好であり、小綺麗なワンピースにデニムジャケットを着ている。
(似合わねぇ⋯⋯。猿に烏帽子って奴だな)
中学一年の小娘かつ生娘がまぁそんな大人っぽい服装にさせるなんて、あの人やっぱりヤバい人だな。
「学校、どうだった!やっぱり高校って中学とは違うの?」
「知らねぇよ。一日で分かるかよ⋯⋯」
「⋯⋯そうだよね」
申し訳なさそうに顔を俯かせた舞喜。
舌を鳴らしそうになるのを抑えて、グッと瞼を閉じた。
(コイツのお家芸というか、得意技というか⋯⋯)
舞喜は被害者意識が高い。
酷い時は、全部私のせいでいいよ〜、と誰得な解決策を口にする始末だし、それは後から慰められる事を知っているからやっている行為だ。
まぁ、両親には幾らでもやってくれて構わないが、僕には是非是非やめて頂きたい。
正直、腹が立つ。
が、このまま会話なしというのも可哀想な感じもした。
だから、話題は振ろう⋯⋯。
面倒臭いけど、しょぼくれたまま外に出られると、後から煩いのが煩いなりに煩くしてくる。
「お前はどうだったんだ?」
「え?」
「だから、お前はどうだったんだよ。中学だ」
話題を振られて嬉しそうに口元が緩んだ。
成程、あの人⋯⋯やっぱり聞かなかったのか。
「うん!アタシね、友達出来たの!」
「そうか⋯⋯良かったな」
それだけ言って部屋に戻ろうと脚を動かしていく。
そんな時、珍獣の声が鳴り響いた。
「舞喜〜、出掛ける準備──なんだ、アンタ居たんだ」
リビングから洗面所に行った舞喜の様子を見に行こうとした珍獣──こと母さんが顰め面で僕に声を掛けた。
「居ちゃ悪いの?」
「何その口の聞き方?」
空気が一気にヒリついた、そう感じたのは舞喜だけだろう。
僕も母さんもかれこれ二年はこういった喧嘩を毎日している。
いい加減慣れっ子なんだが、舞喜は違う。
コイツは『家族は仲良く』なんて言う夢と誇大妄想に取り憑かれた馬鹿なせいで、今でも家族ルンルンというのを本気で信じている阿呆だ。
この家族に今更仲良くとか⋯⋯今から隕石が地球に激突して太陽を砕く並に有り得ない。
「お、お兄ちゃん」
「舞喜、早く準備しなさい。お兄ちゃんの事はほっといて」
「え、でも⋯⋯お兄ちゃんは?」
母さんの期待値大として登壇させられた舞喜は現在ホヤッホヤの中学一年生。
母さんの自称お友達でもあるママ友との交流兼睨み合い。
また何処かの自宅か高い店で食事会でも開いて子供の有益さをアピールしようと、今日もお出掛けらしい。
厚化粧で不細工で身の丈に合わない高級そうな服と鞄を持って、意気揚々と⋯⋯お忙しいこの上ないが、僕にはもう関係ない話だ。
塾を辞めると宣言してから十分程して白羽の矢は舞喜の方へ飛んでいき、小学校五年生にして一流である事を約束させられた舞喜は現在も母さんの毒牙に掛かっている最中。
けど、こんな人とマトモな会話が成立するとは思えないし、話を出来れば避けたい。
舞喜が嫌だとゴネていれば辞める可能性もあったかもしれないが、肝心の舞喜がアレだ。
もう、どうしようもない。
「行かせられないわよ!こんなだらしない子」
「だらしない母親から生まれたんだから、だらしなくなるのは当然だっての。馬鹿じゃないのか?」
「ハァ?アンタ何言ってんの?親に向かってその態度は何?アンタ、この家で偉いつもり?言っとくけどね、アンタみたいなガキ、お母さんの情けで生きてるようなものよ。悔しかったら一銭でも稼いで来なさいよ」
僕は鼻で一蹴した。
悔しかったら?何も悔しくもないんだが⋯⋯。
あぁ、でも⋯⋯強いてあげるなら、生まれた家を間違えたぐらいだろう。
こんな歯止めの利かなくなった自慰行為に満ち溢れたオンボロ女の腹から産まれたという圧倒的なまでの汚点、どう言う風に言語化してやれば伝わってくれるのか見当すら付かない。
「母さんはまるで稼いだ事があるみたいな言い方だな?聞いたぞ、父さんと結婚した後も前も働いた事ないんだろ?よく言えるな、怖ァ〜」
「准!!親に対してそんな事ベラベラベラベラと!⋯⋯⋯⋯はぁ、本当に良かったわ。こんな子に期待しないで。やっぱり女の子の方が可愛げがあるもの」
「はっ。そんな腐った頭と目で性別判断出来たんだな。驚いたよ」
ギョロっと瞳だけがコチラに向いた。
それをスルーして僕はキッチンにある冷蔵庫へと一目散。
「あ、後。僕もアンタに期待なんかされたくなんてないから。どうぞご自由に」
そうして、ピッチャーにあるお茶を取り出して、乾いているコップを手に取り注いでいく。
「ちょっと!冷蔵庫の物勝手に取らないで!それは家族の物よ!返しなさいよ!」
「煩いな。じゃあ、アンタの───じゃなかった。父さんの金、貸して。出世払いするから」
わざとらしく訂正の言葉を言うと、血管がはち切れそうな程に青筋を立てた不細工な面をした珍獣が壁を叩いて威嚇した。
ほらな、珍獣みたいな行動が出てきた。
すぐにコレだ⋯⋯。
流石に三十過ぎのおばさんが現役男子高校生の力には敵わないと分かっている。
だからこそ、物に当たる癖が出始めた。
「生意気言ってんじゃないわよ!」
「生意気にさせたのは誰だよ。半分は持てよ責任。あ、でも両親だからそこから更に半分か。良かったな、責任の割合もっと低いじゃん。嫌いだろ?責任持つの」
「お、お兄ちゃん⋯⋯喧嘩しないで!ねぇ?」
怯えて身を潜ませなが様子を見ていた舞喜だが、中学一年ともなるとグレードアップしたようで、僕の方に近付いて声を掛けてきた。
「舞喜、喧嘩じゃないぞ?じゃれ合いだって。珍しい犬とじゃれてるだけだ」
「舞喜、コッチに来なさい。穢れるわ、こんな子と居たら」
「じゃあもう汚てるな、アンタも舞喜も。風呂、行かなくて良いのか?汚れ落とさないと、皆々様にご迷惑だぞ?」
半笑いで挑発地味た言葉を口にする僕に呆れた様子を見せた母さんは舌打ちをして頭を掻いた。
「口ばっかベラベラ動いて⋯⋯。実用性のない息子を持ったコッチの気持ち、考えた事ある?」
「生産性と活用性のない母親を持った事、あんのかよ?あるんだったら同じ考えだ」
「無いわよ」
「あっそ。じゃあ、こんな息子にしたアンタらの遺伝子が終わってんじゃないの?」
間違いなく僕がこうなのは半分程は僕自身で残りはこの人らだろう。
人ってのは環境よりも遺伝子で決まるってなんかの研究データがネットにあった。
アレからだったかな?
親に反抗的になり始めたのは⋯⋯。
「〜〜!舞喜ッ!早くコッチに来なさい!行くわよ!」
「え、えと、でも⋯⋯⋯」
強烈な圧でも感じたのだろう。
僕に近寄っていた舞喜は身体をビクビクさせながら、踵を返したように回れ右をして母さんの方へと向いた。
「は、はい」
「行ってらっしゃい。舞喜、良いもん食ってけ。高いだけで不味いのもあるからなぁ」
玄関を閉めて僅か一秒という早さで鍵が掛かった。
こうして僕は家で一人となり自由な時間が訪れる事となる。
コレが日常、僕の日常。
母さんと毎日じゃれ合って、時間を潰して、部屋に篭もる。
観たい動画を見て、適当に寛いで、適当にゴロゴロするだけ。
母さんの期待大の頃は美味しいものや好きな物を買って貰ったりもしたが、それも結果次第で、九十五点以下はアウト基準。
一科目でも落とすと褒美は無し。
舞喜は今その状況に立たされている。
母さんは言う。
「いい学校に行って、いい人を見つけて、いい所に就職して、いい余生を送る為に頑張らなきゃならないのは当たり前の事で、やって当然」
と、口酸っぱく言っている。
舞喜にもそれは変わらない。
けど、僕は具体的な内容というのを母さんの口から聞いた事が一度として存在しない。
つまりアレだ、夢見がちな人なのだ。
打算的ではいけない、合理的かつ最善の人生を送る為に子供を頑張って育てました、そういうレッテルが欲しいだけだ。
子供の躍進は親の成果。
子供の頑張りは親の苦労の数だけ実り、果たされる。
そう本気で思っているのが、僕の母さんだ。
だから、萎みかけた花に水はやらない。
棄てると棄てた痕跡が残るから棄てられないから、置いているだけ。
枯れ果ててもプランターには何時までも残っている。
処理すると、枯れさせたんだと世間にバレるから、置いているだけ。
手入れも施しもしない。
「さてと、何食べよっかな」
起き上がった僕は冷蔵庫の中を再度確認。
「⋯⋯⋯⋯本当に何も無いな」
仕方ない、父さんのへそくりから取るか。
両親の自室、隅にあるタンス。
その下の段を開けて、奥に封筒のような物が見える。
棚を引っ張り出して、その封筒を取り、中身を覗く。
「また風俗とキャバ行ったのか⋯⋯。増えたな名刺みたいな奴」
既に五枚ぐらいあるその名刺を床に置き、中にある現金十数万円分を掴む。
「⋯⋯⋯はぁ⋯⋯。小っちゃいの無いのか⋯⋯」
財布に全部入れてやろう、そう考えた事もあったが、一日で使い切る自信もない僕は一万だけ取り、元の位置に戻す。
そして、棚を元の位置へと戻して、背伸びをする。
「さぁてと⋯⋯冷蔵庫一杯にしよ」
普通ならコンビニに行ってご飯を購入、安い店に行って頼んで舌鼓み、コレが定石だろう。
けど、僕の家でそれは愚の骨頂だ。
そもそもの話、母さんが冷蔵庫の中身を確認している筈がない。
していても気にしない。
だから、今からスーパーに行って冷蔵庫の備蓄を満タンにしようと気に留めるといった事は起こらないのだ。
僕の財布の中身が増えようが知った事ではないし、舞喜が熱を出しても気付かないのは当たり前。
その癖、自分の持っている鞄を置いた位置が少しでもズレていると触ったか否かと疑いを掛けてくる。
誰もおばさんの鞄なんて興味がないってのに⋯⋯。
「⋯⋯あ〜、舞喜の中学の進学祝いに何か買っとくか」
思い浮かんだのはケーキ、それか買って貰ったばかりのスマホのカバーなりでも良い。
時間的に家電量販店は行ける気がしないが、ケーキぐらいなら良いだろうと思い急いで支度。
ついでに茶葉も冷凍食品も無いし、当分の間は持たせないといけない。
「あ⋯⋯」
そんな時、僕はふと思い出した。
「コップ買えばいいか⋯⋯」
二週間前、部屋で勉強中に手を滑らせてコップを割りやがったから、買ってやっても損はないだろう。
今は僕のと兼用で使ってるのだが、抵抗感無いのか。
歳頃の女の子の筈だし、持ってても恥じる事も無いし、母さんが洗い物や洗濯なんてものが増減する事に気に留める事もない。
むしろ、迷惑掛けられれば良かったのだが⋯⋯。
「よし、行くか!」
両親の寝室を出た僕は鍵を持ち、適当にパーカーとスウェットを履いて、外を出た。
お古でギコギコと音が鳴る自転車に乗り、いざ出発!
━ ━ ━
僕が向かうべき店は二つ。
一つはスーパーでもう一つは『ナイソー』と呼ばれる店だ。
手に取ったばかりの父さんのへそくりで買ったのでは意味がないと思い、今現在僕の財布にある貯蓄で賄える金額で買える店という条件の元、選ばれた店である。
(サンキュー、ナイソー!正直、全く行った事なんて無かったけどありがとう!)
信号を複数回渡り、東地区と中央地区の間にあるその店は人が少ないながらも商品の多さに僕は圧倒された。
小粋なラジオがスピーカーから流れているその店舗はある意味夢のような場所にも感じて、目的であるコップだけに留まらず、僕はスプーンやフォーク、果てにはケーキ用のデコレーションに使う物まである事に衝撃を受けてしまう。
「これが⋯⋯三百円?!詐欺⋯⋯いや、えぇ⋯⋯」
舞喜がケーキ作りに没頭していた時期があったからこそ、見本として作り方を覚えた事があるが、デコレーションを綺麗に乗せるなんてものは相当の技術がなければ出来ないと悟っている僕は圧巻していた。
初めは簡単だと高を括っていたのも事実で、
「乗せるだけっしょ?」
と、クリスマスケーキを舞喜の為に作ってみたが、見事に失敗した。
チョコケーキがお好きと前々から知っていた為、チョコは砕いて湯煎もしたし、食べれる金箔をネットで購入して、貼っつけたり、苺と余ったチョコを使ってサンタとトナカイを作って見たりと試行錯誤自体はした⋯⋯そう、したんだけど。
ケーキの形は歪で、デコった筈の星は思い通りにいかず、クリームはヘンテコな形で、なのにサンタとトナカイだけが上手くいってしまい⋯⋯。
キウイを使ったツリーがケーキからポロッと落ちる光景を見てしまった舞喜の顔が懐かしいものだ。
悲壮感漂って、唖然としていたあの顔は偶に夢に出てきてしまう。
それと、クランベリー何処にあるんだよ⋯⋯ネットでも高いし、店にも売って無かったぞ!
あれさえあれば、完璧だった⋯⋯。
そっと手に取ったケーキのデコレーション用の道具を戻した僕は何故か、心底⋯⋯落ち込んでしまっていた。
(コップ⋯⋯どうしよう。アイツ、好きな色とかあったっけ?)
脚を進めてコップがありそうな場所まで向かっていた時、不思議な人物とすれ違った。
(───髪が赤い⋯⋯?インナーカラーとかじゃなくて、全部?!ヤバいな、バンドでもやってんのか?)
思わず振り返り、凝視する。
明らかに中高生ぐらいの見た目をした女の子。
赤い服の上に黒を基調としたドレス?ゴスロリ?みたいな格好に腰には斜めに斜線でも引いたようなこれまた黒いベルトと異様さが隠せない。
長く赤い髪は腰元まで伸びていて、前髪は左眼を隠している。
隠れていない瞳は美しい蒼眼色で、思わず息を呑んだ。
⋯⋯⋯ん?
「あれ?」
何がそんなに不思議なんだろうか。
別に髪が赤いくらい普通か。
服装も別に⋯⋯うん、普通だな。
瞳の色なんてカラコンだろう。
頷いた僕はそのままコップの置いてある棚の前まで移動し、並べられている商品を見定めていく。
コップの配色が様々ある。
青、黄、赤と信号機のような並びなのは意図してなのか、甚だ疑問だが、売れていないのはよく分かった。
(棚から動いてないのか?)
触られてすらいないのだろう。
管理も杜撰なのか、誇りがほんの少しだけ中に入っていた。
他にも犬の形をしたコップや猫の顔が描かれたコップと多種多様。
真っピンクな色をしたコップを見た時、少し引いてしまったが見なかった事にした僕は視線を逸らして、唸り声を上げながら悩んでいく。
「うぅ〜ん。黄色?いやぁ、ピンクぅ?」
気にはなる。あんなゲテモノみたいに濃いピンク色を採用した理由は何故か、という観点もあったが、何よりも目に留まって仕方ない。
思わず取っ手を握ってしまう。
中々に触り心地は良くて、握りやすい。
よく見るとコップ全面に兎の形をして彫られており、ちょっと愛着が湧いてしまう。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯。
(舞喜へのプレゼント⋯⋯。けど、購入者の都合だし、ね?⋯⋯⋯いいよ、な?)
どうも、小さなビニールとラッピングまでして貰い、舞喜が嬉しそうに開けた後のなんとも言えない顔を眺めたくて中学進学祝いにゲテモノ色のコップを購入した者です。
わざわざ店員にラッピングまで手伝って貰った挙句、買ったばかりのあのコップを見た時の表情で全てを悟った。
絶対ミスったと⋯⋯。
水玉模様とかあったし、コップ全面がピンクじゃなくて赤とか青でも良かったのに、何故かあの色を選んだ。
(僕も⋯⋯食えない男だなぁ⋯⋯)
そんな言葉は自転車のチェーンの煩い音で掻き消えていく。
既に外は暗く、横を走る自動車のライトが眩い。
近場にあったスーパーで買い物も既に済ませた僕はそのまま帰宅しようとカゴ一杯になったレジ袋を少し不安視しながらペダルを漕ぎ進めていた。
自転車に備え付けたライトは前方を僅かに照らして、景気よく段差を乗り越えて、コンクリートの道を滑らせる。
そして、僕の横を───人を通った。
「ん?!」
人が通るのは当たり前で、横を自転車で通り過ぎるのも当たり前⋯⋯だが何故か気になって仕方なかった。
思わず振り返ろうかとも思ったが、それは止めてしまい目を疑った。
一瞬の事、僅かな時間しか映り込まなかったその表情と不気味な雰囲気に僕はペダルを漕ぐ事を止めて、顰め面をしてしまう。
走っている道に人が居るのは普通の事で、今だって向かい側から人を避けるようにして自転車を走らせている。
だが偶々、自転車のライトが進行方向から歩いて来た男性を当てた時に見てしまった。
異様なまでに開かれた瞼、顎の骨が外れたように口を僅かに開けていて、白いボロッボロのフードを羽織った男⋯⋯それが何故か脳裏に焼き付く。
歳は多分、二十代ぐらい⋯⋯だと思うが、頭は頭巾のように深く被ったフードのせいで顔はしっかりと分からない。
気になって仕方なかった。
そして、恐る恐ると僕は振り返る。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
何処かの道で曲がったのだろう。
男は何処にも居ない⋯⋯。
いや、待て。
ここで逆に振り返ったら居る⋯⋯そんなパターンではなかろうか。
ホラー映画は嗜んでいる訳では無いが、流石に知っている。
ミラーに映るとか、声が聞こえたと思ったら間近くでしたとか、お決まりは正直熟知してますよ!
そう、僕の取るべき行動は一つ。
───鈴鳴らしながら、先にペダルを漕ぐ事だ!
「おらぁぁぁぁぁぁぁ」
全力でペダルを踏んだ僕による傍迷惑な走行法。
きっと今後、誰一人として実践する事のないであろうその方法を使い、少し風が身体を刺激し始めた頃に前を見る。
もう安心だ、そう心に誓って──。
「⋯⋯⋯⋯え」
逆さになってコチラを覗き込んでいる男の顔が⋯⋯そこにはあった⋯⋯。
思わず固まってしまい、自転車のペダルを漕ぐ事を放棄する。
僕の顔から僅か十センチ前後という距離に浮かび上がるのは、青白い肌、ニヤけたような顔付き、目元はバッキバキの充血で眼球から血を流して額に向けて落ちていく。
歯茎が見える程の笑顔なのに、不気味さが異様に勝るその光景に、その表情に、僕は絶叫した。
「ウギャァァァァァァァァァァァァァァァ!」
勢い堪らず右手はその男の顔面に向かって走ると、感触があった。
『うぐぅ⋯⋯⋯』
自転車はそのまま僕を残して先走り、その直後にスリップしガードレールを擦りながら最後には横転。
僕はと言うと、背中から落ちるようにして倒れ込み、背中を強打。
仰向けになった体勢で見上げた夜空は僅かにグラついて見えて、瞬きを数度繰り返して、クリーンな視界に戻すと共に前を凝視した。
「いってェェ⋯⋯⋯つ!な、な、ななんだお前!悪霊退散!南無阿弥陀仏!僕を食べても美味しくないぞ!食べるなら、その辺の雑草食ってろよ!」
ゆっくりと立ち上がった青白い男。
その表情は依然変わらず、ニヤけて何処か嘲笑っているようにも見える不気味なものだ。
返事がなく、その存在が不可思議の領域に突っ込んでいる物だと信じたくなくて、更に注意深く見ると⋯⋯。
僕は気付いてしまう⋯⋯嫌な事に。
(顔と身体の向きがアベコベじゃん⋯⋯。どんな死に方したんだよ!僕が殴ったせいか?違うよな!恨むなよ、恨んだら恨み返してやっからな!言っとくが僕は執拗いぞ!お前の億倍は執拗いぞ!だから帰れーー!───いや、帰らせてぇぇ)
僕の口は震える。
汗が止まらない。
泣きそうになる感情と現状理解に追いつかない事態に一杯一杯となって、倒れた身体を起き上がらせるのがやっとだった。
移動手段の自転車は男の奥にあり、男はニヤけた顔付きのままユラユラと歩いてコチラに近付いて来る。
『ァァァァァァ⋯⋯⋯』
僕の倍はあろうかというその身長は顔を下に覗き込ませるようにしながら、ジワジワと近付いてくる。
逃げたいのに、脚が動かない。
(何コイツ?なにドッキリ?プラカードは何処だよっ⋯⋯)
──目の前まで近寄られた。
腕はゆっくりと伸びてく。
血走った眼球がギョロっと僕の方へ向いて、死を覚悟した。
終わった、と。
「せ、せめて⋯⋯二十歳まで生きたかったなぁ」
「あら?なら生きれるわね。良かったじゃない」
背後から聞こえた女性の声。
振り返る直前、追い風が背後から駆け抜けて、衝撃音と土煙が発生し、眼前まで近付いていた男を吹き飛ばしてしまう。
煙たさが残る場所から立ち去ろうにも脚はまだ動けない。
それでも、呼吸がしたくてジタバタとしていると、靴裏に地面が無い感覚が違和感として認識し、目を見開いた。
徐々に晴れていく視界は暗闇で街灯と乗用車が駆け抜けながらも放つ光源を頼りに僕は脚元を凝視する。
「っ!⋯⋯⋯⋯なんだこれ?!」
脚元から真っ直ぐ奥に伸びるように二本の亀裂が縦に地面に形成されていた。
奥に続くその亀裂が何処まで伸びているのか確認するように正面へ視線を向けていく。
「⋯⋯⋯⋯」
眼前に居た男がまるで風に靡かれて揺らめくマッチの火のように揺れていて、最後は煙のように散っていった。
そんな異様な光景を目の当たりにした僕は更に思考を放棄して呆然となってしまう。
「なんだ⋯⋯⋯⋯なんなんだ?!」
すると、僕の肩は叩かれた。
「いった!」
「ほら、感謝なさい。命の恩人よ」
「⋯⋯⋯⋯⋯え?」
そう高らかに言い切る女性へと、ようやっと振り返る事が出来た僕は見た。
月明かりを背景に赤い髪を手で払い、自慢げに笑みを浮かべた女の子。
『ナイソー』ですれ違った黒いドレスを身に纏った異様な赤髪をした女の子を⋯⋯⋯⋯。
その薄く月明かりに照らされた蒼い瞳は不気味な程に煌めいていて⋯⋯僕は恐怖心が高ぶった。
「ギャァァァァァァァァァ!お化けェェェェェ!」
「誰がお化けよッ!このへっぴり腰!──あ、もしかして効果切れてる?!⋯⋯嘘!あ、どうしよう」
月明かりに負けない紅蓮の髪、揺蕩う事を許さない真っ直ぐに向けられた青い瞳と優雅な立ち振る舞いをするその少女を異様な容姿だと認識はした僕はまた絶叫して──何故か動揺するその少女を前に、気を失った。




