微睡み
厚底のサンダルが煉瓦が敷かれた道を景気よく鳴らしていく。
一歩、二歩、三歩と足早になっていくその足音。
味方は二人居る。
一人は茶髪にポニーテールに長袖のシャツにボタンを全開させて胸を露出させている男性、女性とも受け取れる端正な顔立ちをした男。
もう一人は三メートル程もあるどデカい長剣を肩で支えており、金髪に無精髭を生やした精根尽きていそうな男。
共に視線の先には静まり返った夜闇では視認しづらいボロボロの黒いジャケットを羽織った男が、ここだ、と教えるように衣服を強風で靡かせていた。
欠伸をしながら、片手間で手に持っている缶コーヒーを爪で開けると、口に含んでいく。
そして、飲み干したと共に、三十メートル先にあるゴミ箱へ直球ストレートと言わんばかりに投げ込み、円形の穴にすっぽりと入って行った。
ゴミ箱に落ちている缶同士が触れ合う。
それが音が始まりのゴングとなり、空気は敵意と殺意に溢れた。
三者三様、各々の攻撃手段を用いり、黒いジャケットを羽織った男へ向けて走り出し、戦闘が始まった。
それは瞬きの間に起きた事。
一瞬と形容する事すら烏滸がましい程の出来事。
気付けば、三人共に倒れ伏していた。
一人は近くにある雑居ビルの壁にめり込まれてしまい、持っていた長剣はその下の地面に突き刺さっていた。
一人は少し離れた位置にある造林地区の木々に落ちてしまい、綺麗な輪郭の顔は削れてしまっており、突然の奇襲と勘違いして身構えた烏を驚かせていく。
一人は地面に倒れ伏してしまい、臓器が地面に転がっていた。
血液が大量に流れた事よりも、自身の臓物というものが外に漏れているという未体験の事態に霞む意識ながらに驚愕し戦慄する。
こうして、一秒にも満たない瞬間的戦闘は、隔絶された実力差で叩き返されてしまい、幕引きとなった。
当然のように背を向けて、大きく伸びをする黒いジャケットの男は小さく唸り声を出しながら、上を見上げる。
聳え立つ電波塔のてっぺん付近は風穴が空けられていて、中が筒抜けとなっていた。
その中へと向かう為、地に脚を浮かせて、最後は飛ぶようにして入って行ってしまった男はつまらなさそうに背後に居る瀕死の女を一瞥だけして去って行く。
試合というには瞬時で、殺し合いというには一方的過ぎる些事で、重大な出来事と言うには大袈裟が過ぎるだけの話。
しかし、三人共に男によって定められた条件に従い、負った傷を全て癒される事もないまま、街を離れた。
その条件の項目の一つ。
『朝倉拓也がこの世界を去るまでの間、街への立ち入りは禁止』
近くを監視するだけでも、それに抵触するという鬼畜なその条件は、条件破りしようと思考した後、視界を僅かでも揺らした瞬間、全く別の場所へと強制的に転移するという鬼畜仕様。
それを数十程経験した三人。
結局、一度として街への帰還は果たせずにいた三人は諦めたように待った。
ただひたすらに、その時を──。
そして一年と数ヶ月。それが過ぎ去った時間であり、停滞させた時間。
朝倉拓也は居なくなってから条件は破棄される事となり、女は街へ戻って来た。
パッツンボブ、鋭い目付きに内包された黄色の瞳をしたその女性は誰よりも早く──『空弩街』へと帰って来たのだ。
誰よりも早く帰って来た理由、それは⋯⋯。
「かーーーーっ!やっぱええなぁ、昼間っから飲む酒はぁぁ!」
──酒を飲みたかったからだ。
この上ない幸せだ、とばかりにグラスを一口で空にさせて、通り掛かった店員に声を掛けた。
北区にある『食事処』と呼ばれるストリート街にて、女は昼から開店している居酒屋へと転がり込んだ。
「おっちゃん、生おかわり!あ、後アレも頼むわ」
貼り紙を指差し、今月のお得品の注文を頼んだ女に応じた店員は張った声でそれを承諾。
急ぎキッチン担当の者へ注文品を口にし、それを聞き届けた女は店の隅に置かれたテレビの中継を呆然と視聴する。
「ほんま、この街は変わらんの〜。あーーやっぱ、行きつけってのはええなぁ〜。ウチ、生きてて良かったで、ホンマに」
八杯目に突入する生ビール。それが机に置かれたと同時にグラスの取っ手を勢いよく掴んで、またくちに含んで、「かぁーーーッ!」と意味もなく張った声を出す。
「お姉ちゃン。そんなに飲んでると馬鹿になるヨ」
女の真正面に座る桃色の髪を二つ結びで団子にしている少女は淡々と忠言する。
そんな少女の言葉にグラスは自然と机に強く置かれた。
「ぁぁあ?!喜雨。自分、いつからそんな口聞けるようなってん?ウチはこの為に生きとんねんで?無かったら死ねと同義。分かるか?分からんわな⋯⋯自分、子供やねんし」
「子供みたいな見た目にしたのはお姉ちゃんでしョ?ワタシのせいじゃなイ」
思うところがある様子で、視線がすぅーと脇へと逸れていき、流れるようにグラスはまた口元へ運ばれる。
喉を鳴らして、味を噛み締めた女は飲み干したグラスを先程とは違いゆっくりと机に置いて、片目を瞑っていた。
「固い事いいっこなしや!ほら、自分の分も頼んだったから、食い」
誤魔化すように既に並んだツマミ用にと注文し届いた料理数点分を、喜雨の方へと並べていく。
「お姉ちゃんお酒臭イ⋯⋯」
顔が近くに来た時、鼻を摘む訳でもなく、そう淡々と口にした喜雨は手元にある料理を品定めするように見比べていくのであった。
店に設置されているテレビでは、ニュースが放送されており、相次ぐ失踪事件に対して警察組織が連携し巡回の強化を図る旨を伝えている。
その後に流れた映像で映った住民の心境を聞く場面に出てきた高校生男子数人のシーンで喜雨は思い出したかのように女の方へと目を向けた。
「あ、そうダ。昨日、面白い人を見つけたヨ。ワタシの事を人と思ってないのに、人みたいに接してくれる男の人」
「へぇ〜。まぁどうせ、顔に釣られた阿呆やさかい、そんなん放っときや」
喜雨の手元に置かれた皿に盛られた料理を箸で丁寧に摘んでいき、口に含む。
そして、新しくやって来た生ビールを口に含ませて味を堪能中の女の言葉は素っ気ないものであった。
しかし、それに一切構う様子もない喜雨は女に続けて言葉を紡ぐ。
「ううん。なんか、ごめんなさい、ありがとうって言うのを教わっタ。こうやって、頭を下げるやツ」
「へぇ〜、自分なんかしたん?」
大した興味もないとばかりに空になった皿の上で箸をタップダンスさせていく女の視線は、やはり喜雨へと向かいておらず、メニュー表ばかりに注目していた。
「お菓子食べようとしタ」
ようやく、視線が喜雨へと向いた。
しかし、それと同時に焦った顔色を浮かべており、皿の上での箸のタップダンスも自然と止んでいる。
グラスの取っ手を持ち、注がれているビールを飲もうとするも口元までは行かず、諦めたように机にグラスを置いてしまう。
「⋯⋯⋯⋯喜雨、まさかとは思うけど、盗もうとしたんちゃうやんな?」
子供に言い聞かせるように優しい声色。
しかし、その奥には自身が叱られるのを恐れる臆病さもあり、怯えたような目で喜雨を見ていた。
それに物怖じも動揺もせず、喜雨は自論を提供する。
「盗む?ワタシの視界に映るもの全て、私の物でしョ?違うノ?」
「⋯⋯⋯⋯酔い冷めてもーた。アカン、また飲み直しやないかい」
「お姉ちゃん、酔えないよネ?」
不思議そうにする喜雨に、残念そうな顔色で俯いて首を横に振る女は一気にグラスの中にあるビールを飲み干していく。
顔は赤らまず、シラフで居続ける女は足を組んで、鞄から取り出した煙草を吸い始めた。
「酔った気になりたいんや、黙っとき。それで?そのお菓子どないしたん?店ん中で食ってもうたんとちゃうやろな?」
酒と煙草のダブルパンチで脳がぼぉーとする感覚に幸福を感じながら、灰皿に煙草を置いた。
しかし、その幸福感も喜雨のやらかした可能性もある発言によってすぐに冷めてしまい、掻き乱されるように木製の机の模様を眺めていく。
「ううん。その男の人が買ってくれタ。半分だけだけド」
「えぇ人やなぁ。甘っちょろいゆうか、詐欺の電話に馬鹿正直に受け答えしてそうゆーか⋯⋯」
「そうだネ。少なくても、貧相な顔立ちしてたヨ?お姉ちゃんそっくり」
その言葉は女を不機嫌にさせるには充分な程にパンチが効いており、表情筋が微動だにしない喜雨を俯いたまま、睨み付けた。
「しばかれたいんか、ワレ」
「止めてヨ。お姉ちゃんの身体は元々不細工に生まれたかもしれないけど、ワタシは精巧に、緻密に、丹念に創られた美少女にして国宝級だヨ?それに傷を付けるなんて、正気の沙汰じゃなイ」
自慢げに語る自身の理。
その女の子は愛されている自覚があり、希少価値があるという事を理解している。
世界にただ一つの生命体にして、複製不可の特別個体であると、自認と自覚を持っている。
だからこそ、本当に殴り掛かりそうになる女を言葉で出力される以上に焦った心境は、喜雨の発した言葉自体が早送りのように捲し立てる勢いがあった。
一方、女はグッと握られた拳を開き、肘を机の上置いて、顎を掌に乗せる。
不貞腐れたような顔色は徐々に悲しみに暮れるようになって思い返すように口にする。
「ウチかてな、好きで歳取っとんちゃうんじゃ!十年前なんて、男がホイホイ寄って来よったのに⋯⋯あーー!こんなんなら『除者』なんかになるんや無かったわ⋯⋯。そしたら今頃は男の稼ぎで悠々自適のマイライフ。なんで逃してもーてんねん!ウチって奴はっ!」
本気で後悔している女は遂に頭を抱えるように両手を側頭部へ持っていく。
誰とて選択ミスのようなものがあって、些細なものから大きなものまで多岐に渡る。
その中でも女の選択ミスは『除者』になってしまった事だ。
若気の至りか、或いは取り戻しや巻き戻しが利くと本気で信じていた十代の終わり頃。
本人も当時は予想していなかった今の自分。
そんな予想にもしていない現在進行形で今を生きる自分の傍に居る喜雨は手前に並べられた皿をそーと女の方へとスライドさせて行くようにして渡す。
そして──。
「『怪異』を袋叩きしている時のお姉ちゃんは最高に活き活きとしてるヨ」
「喧しいんじゃ、ボケェェ!」
がっつくように箸で目の前に並んでいる料理を片っ端からやけ食いしていく女を見つめるばかりの喜雨は訝しんだ。
「慰めたつもりだったのに、失敗しちゃっタ」
何故そう思ったのか、どうして間違えたのか。
自問自答を今日も繰り返す骸魅喜雨は無表情である。
━ ━ ━
晴天とはいかなかった朝日は陰りのある雲の上に隠れてしまって、傘を差すか否かで悩んでしまえる天候である。
そんな絶妙に中途半端という言葉がお似合いの中、准の固く閉ざされていた瞼はゆっくりと開けられていく。
「⋯⋯あれ?」
いつ頃寝てしまったのか、全く記憶にない准。
目覚めればタオルケットが一枚、膝元に掛かっており、脚の感覚がそれを伝えた。
壁側に向いていた顔は天井の方へ向き、昨夜の事を思い返す。
(⋯⋯⋯⋯もしかして、僕⋯⋯寝落ちした?)
買い物帰り、リビングに居た舞喜、藍莉、蒼太、名無しに一声掛けた後、そのまま寝室へ飛び込み、ぐっすりスリープモードに入ってしまった准は冷や汗が止まらない。
「やっちまったッ!飯作んの忘れてた!」
昨夜のご飯の当番は准であり、それを放棄してしまった事となった准は急ぎ起き上がろうと身体を上げようとする。
「───っ!⋯⋯え?⋯⋯⋯⋯」
起き上がろうとする際、右腕が妙に動かしづらいという違和感から始まり、流れるように右方向へと目を向けると、人が悠々自適に寝ていた。
「藍莉?」
隣でぐっすりと寝顔を見せている藍莉。
そして、気付く。部屋には付けた覚えのない冷房のスイッチか既についており、部屋は快適な空間と化していた事に。
「⋯⋯⋯⋯」
起き上がるのを止め、枕の上に頭を乗せた。
再度藍莉見ると、自身の腕を枕して寝ているのが窺える。
先程、頭を乗せたばかりの枕を藍莉の方へとやり、少しだけ藍莉の頭を手で支えて浮かせると、枕を滑り込ませて、自身にか掛かっていないタオルケットを代わりのように藍莉の足元へと寄せていく。
「んん⋯⋯。んぁ?⋯⋯お、はよ」
パチッと、眠気まなこが抜け切らない瞳を見せ始めた藍莉は准の存在を確認するように顔に手を近付けていき、触れる。
その手を准は掴み、優しく握って、枕元まで持っていく。
「もう少し寝てていいぞ」
「うん。⋯⋯⋯⋯分かってる」
少し寄せられた身体は密着する。
元々、シングルサイズのベッド。
二人が並んで寝るには少し手狭な大きさで、互いに譲り合っているような状態。
その譲り合いの比率を藍莉の方を大きくするように、隅に寄った准。
自然と近付こうとする藍莉を誘導するようにして、真ん中に位置させる。
握られたその手を准自らが離す事をしなかった。
藍莉の顔が准の身体に寄り、小突くようにぶつかる。
(僕、撫でるの得意って訳じゃないんだけどな)
無意識の内に行った藍莉の仕草や行動を察した准は苦笑にも近い笑みを浮かべながらも藍莉の頭を優しく撫でていく。
梳くように、愛おしさを多分に含んだ。
やがて、微睡みの中を漂っていた藍莉は、再度眠りについたのを確認すると、頭を撫でるのを止めて、手をゆっくりと離す。
名残惜しさのようなものはあったが、頼めば握ってくれる事など百も承知だった准は藍莉から視線を外してベッドから離れて行く。
部屋の扉はゆっくりとしまった。
━ ━ ━
今日、准達の予定はシンプルであった。
それはお買い物である。
ただし、スーパーやコンビニへ向かうお買い物、ではなく⋯⋯水着を購入する為の買い物。
だが、准は訝しんだ。
水着なんてどうせ、一年に一回しか着用しないんだから要らなくね?⋯⋯と。
残念ながら、『空弩街』にはアミューズメントパークや屋内プールといった類いの施設は存在しない。
去年までは遊園地が存在していたが、今では廃棄されてしまい、人気はおろか鳥すら近くを飛んでこない始末。
その為、水着の着用なんてものは、准から見れば不必要であり、高校の体育の授業、もっと言うならば選択授業である水泳の項目にチェックを入れておけば泳げるし、楽しめると言われれば楽しめる。
だから要らんだろ⋯⋯、そう口にした准だったが、舞喜のある一言で掌を返すように躍起になり現在──電車の中で舞喜、蒼太、藍莉と共に目的地であるショッピングモールへ赴いている最中なのだ。
「お兄ちゃん、はしゃぎ過ぎ」
「どこがだよ⋯⋯」
「身体じゃなくて心がはしゃいでる」
吊り革に手を掛けて立ちっぱなしになっている准の正面に座る舞喜。
ジト目で呆れ返った表情を浮かべた舞喜であったが、そんな妹の態度に、分かってないな、とばかり准は豪語する。
「馬鹿野郎。男の子だぞ?年中はしゃいでるに決まってんだろ」
そう言い放つと舞喜の隣に座っていた蒼太の頭を撫でて、嬉しそうに脚をばたつかせていく。
「年中はしゃいでるなら、手、出しさないよね」
小声でボソッと、隣に居る准に対して悪態をついた藍莉の言葉は誰にも聞こえない。
「そう言えば、藍莉、水着って言ってるけど、何処で使うんだ?九月の体育に水泳はないぞ?」
「旅行で使うに決まってるでしょ」
「え?旅行先決まったの?勝手に?」
悲しそうな顔をする准を見た舞喜と藍莉は互いに顔を見合って、苦笑いをした。
「一緒に決めようって言った本人が寝てるんだもん。逸花も明日と明後日しか予定空けられないって言ってたし、仕方ないでしょ」
既に旅行先は決定し、目的地もある。
明日の旅行に向けて、藍莉達はショッピングモールへ向かって行く。
駅を降りて蒼太と手を繋いで改札へ進む藍莉と、切符を手に掴み、一足先に前進していた舞喜と、三人の後方で自分のペースで改札へ向かう准。
ショッピングモールまでは改札から地続きとなっている道を藍莉と舞喜とで雑談をしながら歩んで行く。
夏休みというのもあり、人通りは目まぐるしい程に多く、猛暑の陽射しが身体を当てる。
だが、ショッピングモールの自動ドアを通った瞬間に包み込む冷気が猛暑ということを忘れさせていく。
「涼しい〜」
蒼太が憎き太陽から放たれる陽射しから解放されたように朗らかな微笑みを浮かべる。
だが准は腕を擦り、辺りを見渡す。
「高低差激しくない?」
「そう?私は丁度いいまであるけど、寒い?」
「まぁまぁかな?どうせ慣れちゃうだろうし」
「お兄ちゃん、魚みたいだね」
小馬鹿にしたように後方に居る准へと振り向いた舞喜が口にするも、不服な表情で舞喜を見た。
「それはどんな気持ちで放った感想?」
「それで?ギョン──」
「藍莉さん?!」
揶揄う二人に圧倒された准は逃げるように蒼太の傍へと移動していく。
そんな准に蒼太を任せるように目的地へ一足先に進んでいた舞喜の方へと小走りに追い掛けた。
目的地は二階。水着の特設コーナーが大々的に設置されており、藍莉達はそこを目指してエスカレーターに乗っていく。
その時、一階に降りるエスカレーターに乗っていた女性が藍莉達が通り過ぎた瞬間に振り返り、そして睨んだ。
「あの子ら⋯⋯。末期やな」
厚底サンダルがエスカレーターの足場を小刻みに鳴らしていき、一階に降りたと同時に上がりのエスカレーターへ乗り込み、准達の方へ迫っていく。
藍莉達の後方に居た准はすぐ横を通り過ぎる女へ意識はせず、そのまま通り過ぎさせてしまい、蒼太と話し込んでいた。
前方、先に前を歩いていた舞喜に追い付いた藍莉は辺りに広がる女性専用の服屋、時計屋等を見渡す。
そして、後方に居る准へ話し掛けようと振り返った。
「死ね。『怪異』」
「え?」
目の前にはパッツン前髪にボブヘアの女性。
殺意は赤い瞳として映し出されて、線をなぞるように下に落ちていく。
「藍莉!」
右手は握られており、振り下ろすように藍莉の頭部目掛けて進む。
だが、先に気付いた准が女の腰へ飛び込み、放たれようとした拳は唖然とする藍莉の左肩ギリギリを通り過ぎて、直撃は避けられた。
ドンッ!!と二階の床として敷かれていたタイルはヒビが入り、亀裂として床を瓦解させていく。
「おい!嘘だろ!蒼太ーー!お姉ちゃんと舞喜を連れて一階に──」
「邪魔や、ガキンチョ」
「!?──っうぅぅ!」
准が女の方へと顔を向けた時には、腹部に強烈な痛みが発生し、声にならない声を唸らせた。
肺に訪れた圧迫感による苦しさよりも、先に困惑は脳裏を駆け抜けていく。
気が付けば、准の背中はガラスケースが砕け散る勢いで叩き付けられてしまう。
マネキンを跳ね除けて、崩れ去った床の一部の破片は宙へ舞い、震動はフロア全体に響き渡る。
「准!」
「お兄ちゃん!!」
駆け寄ろうと脚が無意識に動いた藍莉と舞喜は一心不乱で、床に発生した亀裂や転がってくる物等には目も向けず、一直線。
それはもう、分かりやすいぐらいに⋯⋯。
藍莉のすぐ後ろから倒れた准の元へ駆ける舞喜の腕は一気に引き寄せられていき、舞喜は直後に硬直し、汗を流す。
女が腕をへし折りそうな勢いで掴み掛かり、一向に離してくれる様子ではなかったからだ。
「どこ行こうとしとんねん。化け物共⋯⋯。か弱い青少年の人生に纏わり付きよって。大概にせぇよ、ゴミめ。お姉さんが粉々にしたっからな」
「な、なんなんですか?!」
抵抗もしている。
何者か問い掛けると共に掴まれた腕を必死に引き剥がそうとするものの微動だにもせず、悪戯に体力ばかりが奪われていく。
舞喜の危機にいち早く気が付いた藍莉。
准の元へ向かう脚は停止して、女と舞喜の方へと踵を返していく。
「『除者』や。そんだけ言えば分かるやろ」
「『除者』って田科さんと笠辺さんと同じ⋯⋯」
二人の姿が脳裏に過ぎる。
その中でも、田科と初対面の際に向けていた殺意。
その殺意よりも明確に棘が鋭く、触れるだけで全身を穿たれるようなその殺気に舞喜は立ち会っている。
それに気付いた時、抵抗する力は抜けていき、怯えと恐怖により俯いてしまう。
近くに転がっていたブランド物の赤いバッグを手に取った藍莉は女の頭部へ向けて叩き付けようと勢い任せに振りかぶる。
しかし──。
「あの子らの事、知っとんのかいな?へぇ〜、よー生かされとんなぁ。こんな生ゴミみたいな奴」
躱された。
舞喜の腕を離し、身体を翻して裏拳の要領で舞喜の顔面に叩き付けて床に倒れ込む。
そして、対面した藍莉の正面には構えた動作を行う女が居た。
気付けば、藍莉の手元にバッグは無く、宙へ浮かされてしまっており、流れるように下から上へと藍莉の首元目掛けて女の手は迫る。
「ッッッ〜〜!」
手折ろうか、二つに割るか、引き潰すか、引き摺るか、嬲り殺しにするか──。
女が現状浮かんだ選択肢は多種多様。
急激な速度で酸素が送られなくなった事で目眩を引き起こし始めた藍莉は首元に掴まれた手を引き剥がそうと抗うものの、力は抜けていき、身体を蹴る勢いも徐々に弱くなっていく。
その時だった。
「は、離れろ!」
背中にはガラス片が突き刺さり、頭から血を流して、左腕が感覚停止寸前まで追い込まれている准が立ち上がった。
既に満身創痍。瀕死から五歩手前程度。
崖はすぐそこで、波風と潮の匂いが鼻を突いている箇所に立たされているようなもの。
咳き込む度に突き刺さったガラス片は揺れて、背中に痛みを齎していく。
視界は悪く、ボヤけているが藍莉と舞喜が危機的状況下にあるというのは察しがついている准は一歩、また一歩とガラスケースの段差を降りて、歩き出す。
「君、待っとき。すぐ終わらせたんで?自分の人生、こんなんに汚染されたら、下水に行き汚く生きとる鼠と何ら変わらん人生送るで?」
「僕は、離れろっつったんだッ!」
怒声が鳴る。
やれやれと首を横に振り、鋭い視線は准へと向いた。
「根性見せるんなら、ドンとコッチこんかい!口先だけの奴は弱ぁ見えんでぇぇ!」
張った声に呼応して、力任せに脚を前へとやっていく准とそれを待ち構えるように藍莉の首を掴む女。
そんな女の身体が僅かに揺れた。
腹部辺りから来るその小さな衝撃はとてもではないが女にダメージを与えるには不十分極まりないものであり、女は下へと目を向ける。
「⋯⋯⋯なんや坊主」
大洲蒼太がそこに居た。
姉の危機に准よりも早く小走りながらも駆け出して、女の腹部を力一杯に殴り付けている。
けれど、恐れもある。不安もあり、恐怖はすぐに訪れた。
だが、蒼太はそれでも女の方へと向かい拳を構えた。
涙は溢れ出して、臆面もなく泣いている。
けれども、それでも助けようとするその意思が身体を動かした。
「お、お姉ちゃんを、は、離せ!離せぇぇ」
「そ──たぁぁ」
掠れ始めた声を振り絞るように名前を呼ぶ藍莉。
それは蒼太の耳には届いていないものの、女には聞こえていて、何か訝しんだ様子で蒼太へと向き直る。
「あのなぁ、このお姉ちゃんは病気なんや。誰かが治さなあかん。けどなぁ、死なな治らん病気やねん」
「違うもん!お姉ちゃん病気じゃない!違う!違うぅぅぅぅ!」
「言いたい事は分かるで?でもな、堪忍してくれや、自分の為にもなぁ」
女を叩く小さな手を掴む。
少しぎこちない動きではあった。
「すまんの、許さんでええから」
意を決したように口にした直後、蒼太を持ち上げる。
そして、近くにある支柱へ向けて蒼太を投げた。
「ぅぅぅぅ!あーーー」
悲鳴はすぐに止む。
支柱に激突させた蒼太の額は血を流し、落下と共に床を大きくぶつけた。
ピクピクと痙攣し始めた蒼太。
急ぎ、駆け寄った舞喜はそんな蒼太を起こそうと、うつ伏せとなった身体を仰向けにしていく。
「蒼くん。⋯⋯大丈夫?っ⋯⋯蒼くん!」
額から流れた血はこめかみ部分を通り抜けて、髪を濡らしていた。
亀裂のある床にも血痕が見受けられて、舞喜は絶句してしまう。
そして女を睨むと共に立ち上がろうとするものの、蒼太が叩き付けられた支柱に身体は吸い寄せられるように女の華奢な脚が舞喜を押した。
「ッッ!ううわぁぁ、離して!離せぇぇ!」
「自分、酷いなぁ。ドブやのーて、ドフの鉛みたいやなぁ。なんで田科くんも沙耶も生かしとんねん。頭トンだかんか?───ん?」
汚らわしいものを見るその視線は舞喜から外れた。
「っっ!」
藍莉の首を掴んだ手は離れていき、代わりに舞喜を台のように使い、宙へと一回転して迫って来たものの攻撃を躱す。
「っ!!」
大胆なアクロバティックに右拳を前に突き出していた准は慄き、すぐさま上を見上げる。
そして、徐々に背後へと視線は誘導されるかのように動いていく。
「おっそいの〜。アカンで、そんなんじゃ、あかん。パンチっちゅうんはな──」
着地した女は、右脚を伸ばし、左脚を畳んでいた。
次の動作が予測出来ない准はたじろぐ程度の事しか出来ず、傍で咳き込んでいる藍莉と真後ろに居る蒼太と舞喜、どちらを庇うかの選択肢が訪れる。
だが、それは必要すらなかった。
「こうやろがぁぁぁ!」
気付けば准の脚は床から離されてしまっており、宙に身体を預けていた。
動揺、意識的な理解、相手の取った動作、その一切が不明瞭かつ不鮮明なまま、浮いた身体に拳は叩き込まれてしまう。
「うっっ──がはぁッ。あぁぁ──ぁぁぁぁ」
舞喜、蒼太、藍莉、この三人から大きく突き放されるように二階フロアへ上がる為に使ったエスカレーターの近くまで拳一つで吹き飛ばされた准。
風のようなものを全身で感じ、衝撃が全身を支配し始め、重い一撃が入った腹部に遅れて痛みが訪れた。
殴り飛ばされてから、藍莉達と距離を空けられたという事に気付いたのは意識が混濁し始めてからの事である。
「⋯⋯⋯⋯ぁぁ、────」
座り込んだように頭は下を向き、意識を手放した准はそのまま床に倒れ込んでしまう。
「スマンな。ウチ、これでも加減はしとんで?」
そんな貧弱な少年が気絶した事を見届けた女は倒れ込んだ藍莉の頭を脚で踏み付けて臆した舞喜に問い掛けた。
「⋯⋯さて。どっちから死にたい?」
身体は氷点下の大地に放り捨てられたように震えた舞喜は当然、答える事が出来なかった。
蒼太を庇うようにしているものの、折り畳まれた膝は泣いたように床に着いて、涙を浮かべ始める。
「泣くなや。人やない癖に。ウザったいからお前からでええわ」
「⋯⋯っ!いや、嫌だ!お兄ちゃん!お兄ちゃんーー!」
「びーびーと鳴くなやッ!!耳障りもええとこや!一発で逝かせたるわぁぁ!」
拳を握り、舞喜の泣き腫らした顔面へ向けて振りかぶる。
一歩、左脚が踏み込まれると共に右拳は舞喜へ向けて迫り出した。
「っっ!おどれは?!」
一階からガラス製の柵から一気によじ登ってきたボブヘアの少女に眉を顰めた女。
舞喜へ向けて放っていた拳の動きは即座に停止。
そして、蹴り込まれようとしていた攻撃から身を庇うべく右腕を使い防ぐ事で重い一撃の直撃を回避した。
「い、逸花⋯⋯⋯⋯?」
黒のタンクトップとデニムジャケット、スラッとしたベージュのズボンと黒のスニーカーという戦闘には不向きな格好で現れた牧原逸花。
ガラス製の柵を使い、手で全身を支えて蹴りを入れ込んだものの、大したダメージにはなり得ていないと知るや否や舌打ちをする。
(チッ。『除者』だな。厄介な⋯⋯。しかも、この女⋯⋯)
牧原逸花は知っている。この女の名前と戦闘スタイルを。
辺りをキョロキョロと見回しながら、真正面に居る女への警戒を怠らない逸花は奥歯を噛んだ。
「⋯⋯⋯⋯誰や思ぉたら、赤い龍の腰巾着かいな」
すぐ近くで倒れ込んでしまった藍莉の傍に駆け寄り、背中を擦る逸花。
だが、安堵の表情など浮かべていられる訳がなく、苦しい顔をさせながら女を睨む。
「何故お前が居る?!」
「朝倉くんが居らんなったからや。あの子居ると『空弩街』来れんしなぁ。仕事も着手出来んくなる」
「はっ。臆したのか?あの男に」
嘲笑と共に鼻を鳴らした逸花。
しかし効果はなく、むしろ軽蔑の視線を送り返された逸花と女は依然、膠着したように睨みを利かせたまま。
「はぁ〜。自分かて三枚おろしにされてから、あの子と接触せんようにしとったんやろ?大体の話は笠辺家の役人共から聞いとんで」
去年の春──初めて朝倉拓也がこの世界に現れた時、いち早く警戒したのは二匹の龍であった。
現れた男の中にある圧倒的なその力に本能にも近い警戒の鐘は早鐘を鳴らしていき、双方共に襲撃した過去を持つ。
だが、相手にもならず、頭部から尾へ架けて、丁寧に三枚に分断された挙句、勝手に治されて、途中からは相手にもされなかった存在。
朝倉拓也との初邂逅は、僅か一分程度で幕引きとなった。
苦渋と屈辱、更には見下した態度が気に入らない正体不明の異世界人。
圧倒にして絶対的なその圧に屈した逸花は奥歯が削れる程に噛み締めていた。
そんな折、腕を引っ張ろうとする感覚がやってきて、過去の忌々しい記憶から直視すべき現実へ逸花を引き戻していく。
「⋯⋯い、逸花、准を、さ、先に」
藍莉が震えた手で逸花の手を引っ張っていた。
その手を優しく手に取り、ぎこちないながらも微笑んだ。
「喋るな藍莉。まずは酸素を柔然に脳に届ける為の呼吸をしろ」
その言葉に倣うように藍莉は少しずつ息を吸い始める。
女は訝しんだ。この二人の距離感、話し方、信頼に置いたような藍莉が逸花に向ける視線。
それらの要素と『龍』である逸花の事とは当て嵌めていき──辿り着いた。
「もしかせんでも正体明かしとるんか?『怪異』ちゅんは歪やな〜。蟻が蛇と仲良しこよしかいな。キッショイなぁ。はよ、死ねば良いねん。人様の世界にお前らドブは要らんねん。理解せぇや」
逸花のは瞳は怪しく光った。
「私は龍だッ!」
「はっ。虐めたるわ、はよきぃ?」
駆け出した逸花と合わせるように構え出した女は怪しく笑う。
既に二階フロアはズタボロ。
中途半端に崩掛けてしまい、斜面のようになってしまったそのフロアを恐れる素振りもなく女へ向かって突撃していく逸花は鋭利な爪と赤い瞳をチラつかせながら、女へ向けて攻勢に入る。
「ッッダァァァ〜〜〜!」
薙ぎ払われたその鉤爪のような鋭い斜線は女の髪を僅かに切り裂き、驚いた女に構わず、蹴り飛ばして、藍莉達から距離を離していく。
「龍をナメるな!人間とは程度が違うのだ!」
「ほざくな。なら、人間社会に入り込まんと、勝手にぬくぬくお山に篭もっとけやド阿呆」
厚底サンダルが床を用いてステップを踏み鳴らす。
勢いは徐々に死んでいき、両脚が完全に両方着いたと共に、更に畳み掛けるように逸花は前へと飛び出して、口を大きく開けた。
(特大の息吹だ。受け取れぇぇ)
ピカっと周囲を照らし出すと、暗転したように周囲の照明は落ちる。
明かりが元に戻った直後、光線は成った。
白い稲光を齎して、白光の光線は女の身体が小さく思える程の特大サイズの息吹がショッピングモールから突き出る形で放出される。
建物は大きく揺れて、辺りに居る者は耳鳴りを起こし、重力が一気に加速したような感覚が身体を支配して、床にへばり着く。
白いタイルだった筈の床は直線を引いたように黒い線と僅かな火の粉を残して、逸花の目の前から女は消え去っていた。
「はぁはぁ──後はあの人形の居所を──」
「何終わった気になっとんねん、ダボめ」
「なっ!」
真横に佇む女の声に反応した逸花は急ぎ振り返るものの、その時には既に視界の中に女は見えなかった。
「ぐぅ〜〜ッ!!」
裏拳による顔面の強打は意識を一瞬手放し、タンクトップという掴みやすい箇所に手を持って行き、続いて第二撃が逸花の腹部へ直撃すると、逸花は吐血した。
「ゆうたやろ?蛇やて。自分、朝倉くんに力抜かれてる事、失念しとんとちゃう?」
当然のように抵抗する逸花は女の強烈な第三撃を受け止める。
力む力と拮抗する攻撃。
しかし、攻撃に籠めていた女の拳から途端に力は抜けて、左手を前へやってしまった逸花。
「しまった!」
「ふぉぉぉらぁぁぁぁぁぁ!!!」
華麗な回し蹴りは逸花の後頭部へ直撃し、身体がバウンドする程の勢いで床に寝かされてしまった逸花は為す術もないまま視界は暗転しそうになるのを耐え抜き、迫る攻撃に備えて距離を開けようと脚をばたつかせる。
「ウチは知ってんねんで?こんな風にお前らみたいな害虫ど突きのめす為に帰ってきたんやからなぁぁぁ!」
逸花の左脚を掴んだ女は床に何度も、何度も、何度も、何度も叩き付けていき、床は軋みを超えて倒壊してしまう。
浮いた感覚が女の身体に纏わり着くものの、攻撃は止まなかった。
「使えるもん使わなな!」
頭部付近に落ちていく瓦礫、足元にある瓦礫、周囲に落ちようとする大きな瓦礫。
それら全て使うべく、女は掴んだ逸花の脚を振り回すように真上から迫る瓦礫に逸花の身体をぶつけて粉々にしていくと、その勢いを止めず、自身の足元にある瓦礫へ向けて投げ飛ばした。
「っっつぷぅ、わぁぁ」
鉄骨が逸花の胸を突き刺さる。
逃げ場のない血は鉄骨を辿るように流れていき、引き抜こうと弱々しくなる握力を使って鉄骨に触れた。
「まだ終わりちゃうでぇぇ!」
逸花の身体に突き刺さった瓦礫は一階フロアの綺麗な床に衝突してしまい、その勢いは瓦礫を崩れさせるには充分な程であった。
そして、女は周囲から落ちてきていた瓦礫を足場に壁を蹴るように角度を調整していく。
黒い残像のようなものだけが周囲に飛び交っているような光景。
異常とも呼べるその俊敏性と重力に逆らった動きを逸花は見ている暇などなく、突き刺さってしまった鉄骨と睨めっこ。
最後の足場と想定した位置に女の厚底サンダルが着く。
鳴り響いたその足音に逸花は閉じかかった瞼の中にある瞳を背後へ向ける。
「死ね。ドブ共にめ!」
大きく蹴り込んだ女の勢い余るその直線。
残像が逸花の視界に入る。
腕は頭へ向けて庇うようにするも、間に合わないと察して目を見開く。
まさに瞬間的加速が齎した殺人的攻撃。
脚の筋肉というバネと瓦礫という足場を使った急接近は逸花でも対応しきれず、女の折り曲げた膝は──。
逸花の頭部へ直撃した。
瓦礫が落ちてから僅か三秒。
その間、逸花の頭部の骨は砕け散り、脳みそは外に弾け飛んだ。
肝心の女は立ち上がり、着地した箇所に転がった肉片を見て、それを蹴り飛ばす。
「終わった。まぁ、あんなに弱ってる龍なんか、ウチの相手ならんわな⋯⋯」
首を鳴らして上階へ上がる道を探す女。
その時、女の眉は下がり、辺りを見渡した。
違和感というよりも不自然な光景であった。
それは居なくてはならない存在、聞こえなければならない音、感じなければならない感覚である。
「人が居らん?⋯⋯なんや?これ⋯⋯」
戦闘が始まって五分未満。
人の姿、息遣いから悲鳴、泣き声。
人気の無さに女は呆然としてしまい、立ち竦む。
「⋯⋯⋯⋯まさか!あの蛇ぃッ!」
振り返るとそこには、何も無かった──。
瓦礫はおろか、倒した筈の逸花の死体や近くにあるエスカレーターすら存在せず。
気が付けば、ショッピングモールから徒歩五分圏内にある改札前で立ち呆けていた。
「⋯⋯⋯⋯しもうたッ!微睡まれたんか!クソッ!」
『夢龍』としての能力。
それを用いて、知らぬ間に夢と現実の合間に立たされた女は一人で慌ただしいショッピングモールを出て、一人で目覚めた。
髪をくしゃくしゃにさせていき、苛ついて仕方ないとばかりに地団駄を踏み鳴らす。
「〜〜〜〜〜!あぁぁぁぁぁ!クソがぁぁぁ! 」
歯軋りを鳴らしながら、勢い余って改札のモニターを殴る。
完全に粉砕して穴を空けた公共の物。
そこから腕を引っこ抜いて、急ぎ戻ろうと脚を動かした。
その上空で白くて巨大な物が空を飛んで行った、そう現場近くに居た者は後に語ったのである。




