嫉妬心
「え?旅行?」
「うん。舞喜が行ってこいってさ」
昼食終わりの正午十二時過ぎ。
少し早めの食事を取り、准の寝室に置かれた机の上にある大量の宿題をこなすべく、藍莉の学力という助けを借りて着々と問題を解いていく。
そんな折に挟まった小休憩の時である。
登校練習へ向かった際の会話を逐一解説する羽目になった准は旅行の件も口にした。
「確かに行きたいのは山々だけど⋯⋯蒼太と舞喜ちゃんも連れて行けば良いじゃない?」
「僕も帰りにそれを聞いたら、『二人』って念押しされちまったんだよ」
「一緒に行っても私は構わないんだけど。⋯⋯どうして私達だけに拘るのかしら?」
恋人だから。最初はそう感じた藍莉であったが、それにしては固執が過ぎる気もして、違和感を感じざるを得なかった。
普通、旅行となると、はしゃぎだしたり、騒いだりするのは舞喜と蒼太の二人の方である。
子供らしく観光地の情報やちょっと方言を調べてみたり、お土産なども様々。
だが、二人はそんな気も無いと言いたげに現在、舞喜と蒼太は名無しと共に、スマホでお気に入りの男性アイドルグループのライブに見入っている真っ最中。
音量は最大であり、部屋まで漏れているその歓声と歌い声は、今尚流れていた。
「⋯⋯多分、出来るって証明したいんじゃないかな?」
「証明?」
「⋯⋯僕達って言っちゃなんだけど、割と積極的に世話しようとする側だろ?藍莉も蒼太にさ」
「まぁ、過保護なのは否定しないけど。仕方なくない?」
まだ今年の内に半年が過ぎて二ヶ月。
新学期が始まって四ヶ月しか過ぎていない季節の間、様々な事が起きた。
それは時に命を落とす事件もあり、決して命の剥奪が難しい世界ではない。
だからこそ、姉の立場である藍莉は蒼太に対して、過保護と罵られようとも、その姿勢を崩す事を辞めないだろう。
准だって似たようなものであり、去年から起きた『現象』に関する事件は結果として様々な物事を齎していて、知見して、取り込んでいった。
その中には妹の舞喜に関する事だって含まれている。
「分かってるよ。悪いなんて一言も言ってない。けど、舞喜も蒼太も、多分だけど⋯⋯自分達だけでもやれるぞって所を見せたいんじゃないか?」
舞喜も蒼太も兄と姉に常日頃、助けられているという実感はあって、それに対して報いようと何かを考える。
母親の家事の手伝いをする幼い子供のような、そんな優しさから生まれた成長する切っ掛け。
知らず知らずの内に大人になっていく子供達。
舞喜は来年には受験生となり、蒼太もこれから先、成長期が訪れて大きくなって姉の藍莉の身長を追い抜いていくだろう。
誰にも成長の機会を奪う権利がないように、彼女達にも訪れる事なのだ。
「⋯⋯独り立ちって事?」
「まぁ、多分⋯⋯その前段階って所かな?」
舞喜の発言には聞き馴染みがあった藍莉は思い返す。
小さな弟の手を取り、お隣の藍莉の自宅へ辿り着いた矢先、玄関口での事。
「⋯⋯蒼太にね、言われたのよ。貴方と一緒に何処か行ってきたら?って」
「⋯⋯蒼太もか」
シャーペンをノートの上に置き、頷いた准は立ち上がってリビングへ。
スマホから大音量で流れるライブ動画を真剣に聞いている舞喜と取り敢えず一緒に見ているだけの蒼太、お守りとして一緒に見ているだけの名無しが座るソファへ近付くと、舞喜の肩を軽く叩き、返事を促す。
「ん?お兄ちゃん、なに?勉強終わったの?」
「藍莉と二人だけで旅行⋯⋯本当に行っても良いのか?」
安易に一緒に行かないのか?そう口にはしなかったし、する気もなかった准は回りくどい。
しかし、気を使っている⋯⋯もっと言うなら、心配をしているからこそ、普段妹には使わない回りくどい言い回しをしてしまう。
「二人で、行く決心が付いたの?」
誇張するように口にする舞喜は、そんな准の回りくどさも、心配も見透かされていた。
そんな舞喜の表情には陰りなんて一つもなく、むしろ躍起になる前触れのようにハツラツとしている。
「まだ未定。舞喜と蒼太次第だ。僕達は断ってくれても一向に構わないし、何かあってもすぐに迎えない。それは分かってるんだろ?」
「だから!アタシと蒼くんは良いって言ってるんだよ。偶には二人で楽しんできたら?」
前のめりな心が舞喜の身体を動かす。
ソファの背凭れに上半身を着かせた舞喜はペチペチと拳に全く入っていない力で准の腕を叩いていく。
「僕達が居ない間、登校連習とかどうするんだよ?僕が居なくて、蒼太と一緒に行くって言っても、お前に何かあっても蒼太だけじゃ対処し切れないだろ?」
「そ、それは⋯⋯。何も無いかもしれないじゃん」
「あのなぁ⋯⋯」
無計画のまま、流れるように計画か策略か謀略か。
いずれにしても、考えなしで傍から離れる訳にはいかないと断固拒否の意思を示し出した准は舞喜を訝しんだ視線で見つめていく。
細く、力強いその眼に思わず背凭れに隠れるようにする舞喜は遂に耐えきれなくなってしまい、隣に座る名無しの膝元へ逃げ込む。
「名無しさん!助けてぇぇ」
「私に振られても⋯⋯⋯⋯」
「お願いしますッ!」
見上げられた顔からは切望な瞳が見えた。
困ったような表情で背後に居る准と膝元にうつ伏せで縋るような舞喜を交互に見て、しばし考える。
舞喜の視線から感じる希う気持ちに徐々にに押されていき、ギブアップとばかりに息を吐いた。
「先輩、その間⋯⋯私が世話をするわよ」
「名無しが?」
驚いた様子で名無しを見ると、何処か諦めてしまった、そんな印象にも思える顔付きで准を見つめていた。
成程、と頷いた准は背凭れ越しに隠れている舞喜を睨むも、舞喜本人にはそれが見えていたい為、少し抑えたようにガッツポーズを取っている。
「駄目です。それなら軽井さんに面倒を見てて貰った方が何倍も安心出来ますから」
准の背後、寝室から話を聞いていた藍莉が遅れてリビングにやって来た。
不審感を隠す様子もなく名無しへと視線を送る藍莉と、背後からそんな藍莉の鋭い視線に気付いて尚、気付かないふりでもしているように、名無しは背を向けている。
「なら、軽井さんに声掛けなさいよ」
「⋯⋯それは」
出来なかった。現在、軽井椎奈とは藍莉との折り合いが良くない状態である。
ただでさえ、騙すような形で呼び出した挙句、偽物の遺体を見せ付けて、テンパってた所にスタンガンで気絶。
起きた時にはベッドで寝かされていて、部活にも遅刻。
肝心の藍莉はサボりで当日に事情説明を受けていない。
聞けたのはつい昨日の事。
納得した様子もなく、不機嫌な様子で帰って行く彼女の後ろ姿を見届けた藍莉は申し訳ない気持ちもあり、椎奈との折り合いが悪くなってしまったという経緯だ。
「貴女、他に頼れる人、他に居ないでしょ?富宮さんはリハビリやら引っ越しで忙しいし、武島颯悟は罪悪感を残しているのと貴女も恐怖対象である事に変わりない。まぁ、彼が接触禁止を言い渡しているのだから、どの道無理。違うかしら?」
答える術がまるでなかった。
事実、現状の藍莉の頼れる術というのは皆無に等しかった。
奏海は左手に麻痺が残り、リハビリの上、家族が全員死亡という惨事である為、その対応に追われている。
颯悟は優に連れられて優の自宅で軟禁状態。
『現象』に染められた結果、人生を棒に振った者への対処として優が率先して行っている事ではあるものの、大人しく付き従ったのも、また颯悟自身の意思である。
その中でも、大洲藍莉との接触禁止令は必然だろう。
以上の事から、大洲藍莉には現状、頼れる存在が欠けた状態なのだ。
「⋯⋯」
「まぁ、そんな言ってやるなよ。⋯⋯僕が口にして欲しいのはコイツがどうしてそんなに『二人』を拘るかだ。一応、聞かせて欲しいんだけどな?」
顔を覗かせるようにして舞喜を見ると、顔を名無しの太腿に隠すようにして表情は窺えない。
しかし、何かしらの思惑がなければ、あからさまに表情を隠すような素振りをしないという事を准でなくても見抜けてしまえる。
「だって⋯⋯⋯⋯」
「ん?」
篭った声が耳を通り抜ける。
「⋯⋯だって、朝倉さんが言ってたんだもん。『何時かは独り立ち出来るようにしとけ』って」
探りを入れようと、前のめりになっていた感情は途端に引き下がる。
(⋯⋯⋯⋯朝倉さんが)
それはどういう意図で口にしたのか、去年の春の事件を間近で見ていた准なら、理解出来てしまえた。
准、舞喜の二人は親元から離れて生活していると言っても良いが、独り立ちとは違う。
強いて言えば、『見捨てられた』という表現が正しい。
信頼が完全に失墜して、見限られたのだ。
そんな兄妹が今尚、路頭に迷っていないのには理由がある。
それは、このアパートの一室を事実上購入しているからだ。
水道代、ガス代、電気代も含めた費用は去年の春から准達の両親からの了承有りで、朝倉拓也の定期預金から引き落とされていて、ある意味では不自由のない生活を送っている。
では、何故スマホを購入しないのか。
それは未成年が携帯を購入する場合、保護者同伴、または役所に向かい書類を受け取った後、購入するという手続きが通例だからだ。
中古の携帯機器を購入し、SIMカードを月額払うという手も当然あったにはあったが、准の預金通帳に振り込まれるのは、決まった額のみで、舞喜の将来の為にと貯金を少しと、残りは生活費に当てている為、残らないのが現状である。
そしてバイト言う選択肢に関しても、一年前にやってはいたが、『現象関連』が目立ってしまい辞める結果となり、それ以降は働けずにいた。
結果、何時までもスマホを持っていない珍味な人間の出来上がりとなったのだが、そんな少年も独り立ちというワードには敏感になる。
将来とはつまり、未来の姿なのだ。
だが、准には『現象』に振り回される一生しか思い至らない。
そして、その光景には舞喜も巻き込まれている。
その為、妹だけでも脱却されるという意味合いも込みで貯金をしている訳なのだが、現状の舞喜を見ていると、それが叶わないと思う時が、准にはあるのだ。
登校練習だけの話ではない。
准の知り合いという建前がなければ、人と話す事が困難な妹。
暴力性、危険の残り香、【当て馬】の侵食。
それらが舞喜の人生の都合の良い時に限り、阻害をしている。
だが、それさえ乗り越えられれば、独り立ちという点は、ある程度可能なのではないか?
そう思えていた准が導き出した結論は当然──。
「分かった。じゃあ、僕達だけで行ってくる」
「准?」
突然の舵切りに藍莉は動揺すらしていたが、構わず准は舞喜を真っ直ぐに見た。
「その代わり、何処に連れて行きたいか、舞喜が決めてくれ。それでも良いなら──」
「分かった!蒼くん、早速探そ!」
「え?う、うん」
名無しの太腿から即座に脱却した舞喜はソファから立ち上がり、スマホで旅行スポットを手当り次第に探し始める舞喜と蒼太。
ダイニングへ向かい、ヒソヒソと蒼太と話し声をさせつつ、楽しそうにしているその光景に朗らかな笑みを見せる准はそのまま、部屋へと戻って行こうとする。
けれど、それを引き止めたのが藍莉だった。
「ちょっと准。誰がこの子達の面倒見てくれるの?ちゃんと決めてるの?」
「⋯⋯⋯⋯名無しでしょ?」
「なら、旅行に行かない」
「えぇーー!?」
准は驚き堪らずに大声を上げてしまい、名無しは深く溜め息を零す。
名無しは信用ならん!を我を通す藍莉の説得には人が否応なく必要となった准は固まってしまうのであった。
散々迷い、グルグルとリビングを練り歩き、節操と落ち着きがない少年と、それを微笑ましそうに眺める名無しと、そんな様子を見て舌打ちしそうになる藍莉は悩む。
誰ならば、舞喜と蒼太の面倒を見てくれるのだろうか?
スマホを手に取り、連絡先の一覧を難しい顔をしながら眺める藍莉は唸り声を上げて、頭の中で出会った人物を思い浮かべていく准。
そして、そんな光景をアイスティー片手に、優雅に寛ぎながら見つめる名無しの喉から茶が通る音が静かに鳴る。
比較的に両者にも信頼があり、快く引き受けてくれそうな好条件の人物は早々居るはずが──。
「良いよー!けど、どうせだから当日、詩葉ちゃんも自宅に連れて行くね?」
「えぇ、ごめんね。こんな事、頼んじゃって」
「ううん。良いんだよ〜」
結論から申すと『夢龍』に世話を焼いて貰う事に決定した。
少ない選択肢と僅かにでも可能性があるのは、誰か?
そうなった時、最も承諾を二つ返事でしてくれそうな者が牧原逸花しか居なかったのだ。
「いけるって?」
「えぇ⋯⋯。それにしても貴女が逸花の事まで知ってるなんて⋯⋯意外でした」
「意外じゃなくて、そっちの情報不足なだけでしょう?」
「准、やっぱりこの人、追い出そう」
「やめな?!流石に敵視が過ぎるぞ?」
何故、逸花にお鉢が回ったのか?
それは何も二つ返事してくれそうな甘っちょろそうな龍だからという理由だけには留まらない。
名無しが何かしでかした際の対処が最も出来そうな人物が逸花だったという判断なのだ。
名無しは准に『可視化』という特殊な視野感を与えた前科がある。
あれにより、藍莉と舞喜等の人物は准を視認出来なくなってしまうという事態に陥り、厄介この上ない外敵認定を藍莉が名無しへしてしまうのも必然であった。
問題はその度が過ぎるという点。
「お前、名無しを嫌い過ぎじゃないか?何かされたのか?」
名無しが直で聞いている事を承知でリビングで警戒心バリバリの藍莉へ准は問う。
「だって⋯⋯────だから」
「え?なんだって?」
難聴系主人公のように聴き逃した──などではなく、ソファに座っていた名無しも聞こえない程に小さく、蚊の鳴くような声だった。
藍莉も察して欲しくて、しかし、言わなければ伝わらない事もあると知った。
だが、口にしても良いものか、迷いもある。
その結果、小さいながらに発した言葉が出てきてしまった。
一度口にすれば、二度目に必要な勇気は減少傾向。
「っ。准が掠め取られるって思ったんだもん、だから⋯⋯」
だから、二度目はしっかりと准の耳にも聞こえるように、ハッキリと伝えた。
その嫉妬心が醜いものであり、情けない事この上ないと感じた藍莉の気持ち。
目の前でふんぞり返っている女性相手に負ける可能性、掠め取られるという危機感は、相手している准に対しての裏切りにも似ていると気付いている。
それでも感じざるを得ない程、准と名無しは慣れ親しんだ関係に思えて、自身が准と構築している関係以上にも思えてしまった。
何よりも、玄関先で見たあの光景で名無しは全くと言っても良い程に動じてはいなかった。
それが藍莉にとって、不服だったのだ。
「あら?先輩、こっちに来ても良いのよ?」
そして、肝心の名無しはというと、ソファの背凭れに腕を置き、挑発的な様子で微笑んだのだが⋯⋯。
藍莉には挑発的にというより、魅惑や誘惑の類いが籠った微笑みに見えてならない。
ちょいちょい、と手首を利かせたお誘い仕草までしてみせて、わざとらしく潤ませた瞳に、不覚にも藍莉は息を呑んでしまう。
自身よりもスタイルが良いという点だけでなく、仕草や所作、動作に可憐さのようなものが備わっており、勝てない、そう痛感させられてしまったのだ。
そして、そんな魅惑の女性がお誘いしているのは、気怠げで貧相そうな服を着こなして、寝癖がある事にすら未だに気付いていない間抜け面の少年であり、力強く凝らした瞳はソファへと向いた。
「常盤、流石に空気読め。今どう考えても、僕が藍莉を慰めようと声掛けるフェイズだったろ?」
「はいはい。お熱い事この上ないわね」
分かってましたよ、とばかりにアッサリとした態度で前を向き直った名無し。
そんな様子に不可解さを覚えた藍莉だが、視界は一気にソファから離されて、蚊帳の外へと押しやられる。
頬には少し冷たい手の感触が藍莉にはあり、視線は准が居て、離れない。
頬を玩具のように掌を用いて弄ぶ准に多少の苛立ちはあるものの、准からのスキンシップというのは珍しく、されるがままになる藍莉の頬は紅かった。
「な、なに?人の頬で楽しそうにして⋯⋯」
「いや、嫉妬されて嬉しい事ってあるんだなぁって思ってさ」
准にとっても藍莉が嫉妬心剥き出しで好意を持ってくれている、それが素直に嬉しくて思わず頬に触れてしまったに過ぎないのだが、満更でもない藍莉の視線は意図せず准から離れようとする。
「安心しろ。僕は藍莉一筋のつもりだ」
「⋯⋯本当?」
チラっと、上目遣いで正面に居る准へと視線を向けた。
何処か恥ずかしそうにしている彼女に対して、笑い掛けた少年は自信を持って口にする。
「勿論」
その言葉にやる気のようなものが湧き溢れた藍莉の嬉しそうな様子を見て、もう安心だ、とばかりに頬から手が離した准。
一呼吸置かれた二人だけの空気感。
藍莉は准を真っ直ぐに見つめて、口角を少し上げた。
「じゃあ、どうしてこの人の胸を揉みしだいてたの?」
静寂の空気は冷え込んでいき、ダイニングで何かを察した蒼太はビクッと身体を震わせて、准は冷や汗を流す。
コップに注がれていたアイスティーが空になったの目視で確認した名無しはキッチンへと歩いて行ってしまい、准の味方は必然的にリビングに居なくなり、絶体絶命。
視線は彼方此方を縦横無尽に駆け巡り、動揺が誰でも分かる程に准の態度は変わっていく。
「⋯⋯⋯⋯藍莉、人には知らない事だってある。僕はそう思うんだ」
ははは、と捨て台詞にもなり得ない乾いた笑いをして自室へ戻ろうと脚を動かして、退避を選択。
「─────あ」
だが当然の事だが、腕を掴まれて逃げるという選択肢を無理矢理封じ込めた藍莉の手の動く速度は俊敏であった。
「逃がす訳、ないでしょ?そう言えば、はぐらかされてちゃんとした説明されてなかったわ。言いなさい?あの肉塊の何処に魅力されたの?」
目の前に立って退路を断たせるのではなく、強制的に視線を向かせて、ついでに意識も向けさせるという常套手段に准は屈していく。
そして、この少年──嘘が吐けない。
更に、藍莉は察しが良い事も加味して、下手な嘘は更なる逆鱗を垣間見る兆候として成る可能性を危惧した准は慌てた様子で弁明をしていく。
「い、いえ。決して、二年で大変豊満になったなぁ〜と感心していただけで、決して!疚しい気持ちなん──」
「貴方、常盤さんの胸を生で見るなり、触った事、あるの?!」
鋭い視線が准の心をグサリッと刺さる。
あくまでも疑問視から出た質問。
女性の胸なんて鷲掴む機会がこの少年には今日という時間まで無い──そう思っていた藍莉だが、意表は突かれた。
「いや、あれはどっちかって言うと、触らされたと言うか、見せられたって言う方が表現として正しいって!僕は見たくて見たんじゃない!」
少年はゴールデンウィーク前に一度、不可抗力によって似たような事をやらかしている張本人であり、現行犯である。
幸い、当時から常盤美羽に惚れられていた事が幸いして事なきを得たのだが、今回に限ってはそうはいかない。
何故ならば、一度目よりも二度目というのは、色々と軽くなる。
勇気を振り絞る量もそうだが、口も軽くなるのだ。
「ハッキリ言おう!僕はアイツの胸よりも脚の方が好みだッ!」
「貴方、恋人相手に何言ってんのよ⋯⋯⋯⋯」
軽蔑の眼差しというのは冷ややかであり、瞳の奥底には暗く波紋すら流れてこない程、深海のような暗さと怖さがあるのだと、この時の少年は学んだ。
そして、一つの教訓を学んだ准を他所に鼻で笑った舞喜もまた、兄を軽蔑した様子で見つめているのであった。
「お兄ちゃん、馬鹿じゃん」
その台詞は紛うことなき事実であり、今の准には大ダメージになり得る。
聞こえていなかった事だけが唯一の救いなのだった。
━ ━ ━
夕飯の食材調達は基本その日だけのものではなく、否応なく翌日やそれ以降の食材も調達するのが一般的であり、冷凍食品という日持ち性能が抜群の商品が生まれてから、特にそれは顕著になった。
お昼に藍莉が買いに行った筈なのだが、味噌と料理酒の購入を忘れてしまっていた彼女からのお願いを断れる訳もなく、文句も言わずテクテクと外出をした少年。
お叱りを終えて、気分転換という観点からも率先して向かったまであった。
豪雨は過ぎ去り、小雨程度に収まりつつある曇り空。
曇天と言うには夕陽が僅かに差し込んでいて、明日の天気に光明が見え始めてる頃合いでもあった。
歩道の人通りは少なく、前日に買い物を済ませていた計画性がピカイチの方々は当然、この豪雨が過ぎ去ったばかりの日にスーパーへやってくる訳もなく、閑古鳥が鳴いている店舗へカゴを持って歩いていた准は言われた通り、味噌と料理酒を手に取る。
そして蒼太の為にと、チョコ菓子二袋分をカゴに放り込んだ。
「ん?⋯⋯」
お菓子売り場の棚を凝視して、お菓子と睨めっこ状態の女の子が居た。
別段、それ自体に准が不審感を持ったつもりはなく、問題は格好と髪色という容姿にまつわる部分。
大道芸をやっていますよ、と言われた方が納得のいく黄色を基調とした赤と青のラインが入ったカラフルな色の服は袖辺りは何か中に入っているのか膨らみがあり、太腿辺りまで丈があった。
白いスカートは短く、少し捲れば下着が真っ先に見えてしまいそうな程である。
何よりも、彼女の髪は桃色の髪ではあるのだが、頭頂部から下に伸びるように白、緑、黄色と目が痛くなる程にカラフルな細いメッシュが際立っていて、二つの団子に纏めているという髪型なのだ。
舞喜と同等ぐらいの身長。
パッと見で分かる歳下の女の子がかなりの変わり者だと主張しに来ていて、准は人目も憚らず困惑すらしていた
両手には被っていたであろう白のマリンキャップが握られている。
片手を離して、お菓子へと手を伸ばし、それをキャップ中へ放り込むと勢いよく被り出す。
「⋯⋯⋯⋯え?」
どう見ても窃盗だった。当たり前のように左右確認をする素振りもなく、我が道に振り返りなぞ無い!とばかりに堂々と立ち去ろうとするその女の子を正義マンであらせられる准はすかさず停止を促した。
「おい、それは駄目だろ?」
肩にポンっ!と逃がすまいと驚かせる意味も込めて力強く掴んだその肩は、准の想定と違って驚くような素振りもなく、ゆっくりと振り返る。
深緑色の瞳は准の顔と掴まれた手を行ったり来たりを繰り返して、最後には呆然とした様子のまま下腹部を押さえた。
「⋯⋯おいおいお兄さん。こんな麗しいレディに向かって肩を掴むなんて、新手のナンパにしては進み過ぎだヨ?孕んじゃったらどうするノ?」
「え?」
カゴを手からずり落ちそうになる准は何とか握り直した代わりに、女の子の肩を離してしまう。
無理もない。初対面、悪事を働いた側が上乗せのように気持ち悪い事を言いだしたのだ。
身動ぎをして後退しても責められはしない。
けれど『現象』という未知に比べれば、女の子の見た目が異様てあろうと、言動が頭のネジが数本程トンでそうなものであろうとも、准にとっては可愛いものなのだ。
「あの、君。帽子の中、お菓子入れたろ?早く戻せよ?」
「え?どうしてなノ?ワタシは欲しいと思っタ。そこに理由を求めるなんて野暮をわざわざお兄さんは聞きに来たってのかイ?暇人なんだネ」
正面へ向いたその女の子は端正な顔立ちをしており、さながら人形のようだった。
だが、同時に准には違和感が芽生えていたが、それを振り払うように目の前に居る怪少女との会話を進める。
「⋯⋯暇人なのは否定しないが、盗みを止めろって言ってんだ。将来ロクな事にならないぞ?」
「将来の計画性も背景もミリ単位で浮かんでいそうに無いお兄さんがワタシに道徳を説こうってのかイ?」
真っ直ぐと微動だにもせず、直立で言葉を綴る少女。
そんな少女が面と向かって初めて最初に取った行動は、少しだけ准に近付いて顔を覗かせる事であった。
ふむふむ、と言小声で言葉にしてみせる。
何が、ふむふむ、なのか准にはさっぱり分からず、顔に何か付いてしまっていたのかと思わず、掌を頬に触れて確認するものの、汚れなどの類いは見受けれず、気付けば少女は元の位置へと戻っていた。
「⋯⋯うん、やっぱり貧相な顔だネ」
超ド直球の一言にイラッと来た准は溢れる怒りの感情に対して無理矢理蓋を閉めるように、堪えていき、代わりに作り笑顔を浮かべてしまう。
「殴られてぇのか、お前は」
「ワタシは事実しか言っていなイ。ワタシは間違ってないからネ」
傲慢の頂点に位置する者にしか発する事の出来ない言葉を口にした少女の頭は、やはり何処かおかしいのだろう、そう納得させた准は逆に冷静になっていき、笑みの代わりに不機嫌さを表情に出す。
「いや、現在進行形で社会の秩序を乱してるんだよ。明らかに間違った道に進んでるのはお前だ」
「え、嘘?!ワタシが間違ってルッ?!⋯⋯ナイナイ」
瞼を閉じて、へにゃっと緩んだ唇と共に右手は横に振られていく。
そして、突然何事も無かったようにまた棒立ちとなって、准と向き合う状況が維持される事となったのだが、流石の准もここまでの違和感を見逃す程、愚かではなかった。
(何だこの子⋯⋯。おかしな奴なのはともかく、それ以上にこの子、瞬きをしてない?)
どう頑張っても、人間には瞬きが必要不可欠な動作である。
目の乾燥を抑える為、無意識下の内にしているその瞬き。
少女を意識して観察していた准には、少女が一度たりとも、瞬きを行っていない事に気付くと共に、突然寒気が背筋を掠めて行った。
「⋯⋯どうしたノ?プリティーチャーミーでキューティーでハニーのような可愛い顔しているワタシの顔をジロジロ見ちゃっテ?惚れちゃっタ?ごめんネ。ワタシは興味が無いんダ」
背筋は確かに寒く、なんなら凍えそうなのだが⋯⋯。
それを上回る程に、少女の言動とらしく無さそうな身振り手振り。
その、一挙手一投足がヘンテコに振り切ってしまっており、准も堪らず呆れてしまい、頭を悩ませた。
「僕も本来ならお前に興味なんざ感じねぇよ。論点のすり替えなんてしようとしやがって。キューティーでハニーな女の子みたいになりたいなら、常識を学べ」
ハニーなフラッシュの女の子の事など名前と主題歌しか知らない准にとって、キューティーでハニーな女の子は正義の味方。
だが、物語を知っている少女は、違うぞ、と口にする事はなく淡々と語る。
「キューティーでハニーな女の子は復讐者でアンドロイドだけど、ワタシは違ウ。ワタシに復讐心なんて感じなイ」
准の目の前にいる少女の口角がまた僅かに上がった。
准は気付いてしまった。
ある人物を思い出したと共に⋯⋯。
(この子、笠辺先輩みたいに表情豊かな方じゃないのか?妙に似てるんだよな⋯⋯。いや、アッチはもっとロボットっぽいけど⋯⋯)
草葉の陰で泣かせてしまいそうな事を無遠慮に思う准。
しかし、人形のような精巧な顔付きと固い表情は似ているものを感じて止まない准は思い出す。
普段、笠辺沙耶と接している時の対応を。
「⋯⋯取り敢えず、帽子の中の物を出せ。じゃないと店員呼ぶぞ?言っとくけど、僕はかなり温厚な対応と言うか、甘い方だと思うぞ?」
「⋯⋯分かっタ」
パッと帽子を両手で持つと、流れ作業のようにひっくり返してお菓子を床に落とした少女。
次に衣服の内ポケットから十数円程度の飴をボトボトと落としていく。
最後に短いスカートのポケットから何かを取り出そうとし、上へ上へと引っ張ろうとする少女の下着は丸見えであった。
だが、気付いていない様子で取り出す作業を続ける事に我慢ならず、溜め息を吐いて近付いた准は、スカートの裾を持つ。
そんな准にゆっくりと首を傾げていくも、「早くしろ」という准の言葉の語気に負けた少女は息を合わせてスカートから正方形に梱包されたチョコスナックを勢いよく取り出した。
「これで全部か?」
しゃがみこんでいた准が少女を見上げて口にする。
想像以上の数のお菓子を床に落とし、想像以上に衣服に詰め込んでいた少女に慄いていた准は若干、声を掛けた事そのものを後悔していたが今更無かった事にするという訳にはいかない。
一つ一つ、丁寧にお菓子を掴んでは腕に挟み、掻き集めましたと言わんばかりに両腕いっぱいに集まった。
「うん。じゃあ、買って来テ」
それを全て押し付けるように手渡していく少女に准は半ば強引にお菓子の山を受け取ってしまう。
体格的な問題もあって、少女が抱えている時に比べても余裕のある准だが、窃盗未遂の物品を手に取ってしまった事にハラハラとしてしまい、冷や汗が走る。
「待ってるネ」
「おい!」
少女は踵を返すように回れ右をすると、そのままレジのある方向へと歩いて行き、背中は遂に見えなくなる。
残ったのは手元にある大量のお菓子と床に置いた購入する予定の商品のみ。
財布には余裕があっても、買ってやる義理が果たしてあるかと問われればある筈もなく、すぐ側にある棚へと目を向けて、一つ一つ、戻していく。
「置いてくに決まってんだろうが⋯⋯」
全て戻し終えた後、本来の目的にである商品をレジに通して、買い物を終えた准は、レジ方向へ向かって行った少女に見つからないように、急かした手付きで商品を買い物袋に詰め込んで、店舗から出ようとした。
「買って来てくれタ?」
しかし、店舗にただ一つしかない客用の出入口付近で棒立ちで待機していた少女にあっという間に見つかってしまう。
それも出入口のど真ん中であり、通行の妨げにしかならない位置での待機行動。
准を見つけるなり、両腕を前へと伸ばして「はイ」と受け取り準備を済ませた少女の厚かましさは世界一である。
「買う訳ないよね?」
「⋯⋯⋯⋯⋯この男、女の子を誑かして、好き放題に生きてる屑ダ」
「おい!誰が節操のない奴だって?!」
咳払いが通り掛かりの主婦の方から鳴らされる。
いくら何でも店舗の出入口での口論は最悪の場合、出禁を食らう可能性もあると焦り始めた小心者の准は少女の腕を掴んで一度外へと出た。
店舗の隣にある駐輪場へ向かい、すぐ近くにある壁に凭れた准は口にする。
「あんだけの菓子を僕が買ってくれると?他人のお前に?」
「お兄さん、ここでワタシに恩を売る事が出来れば、それだけでお兄さんは幸せになれるヨ?本当だヨ?」
人差し指を天に向けて差した少女は、相も変わらず変わらない表情をしたまま、押し売りを始めた。
『いい事が起きる』ではなく『幸せになれる』というニュアンスの違いにも等しいそれに多少の興味もあった准は怪しむ態度は継続しつつも、顎を手に乗せて考える素振りをする。
「ほう、たとえば?」
「明日会った時、何かあれば助けてあげられル」
「なんで今日じゃねぇんだよ」
即効性はないと分かり、落胆を隠しきれない准。
「今日は活動時間外」
言い訳にも近い言葉で、仕方ない、といった具合いに頷いた。
「⋯⋯因みに聞くが、幸せってのは、お前基準か?」
「うん、そウ」
「さいですか。帰ろうかな」
手には既に目標達成の物がある。
それを持ち帰り、藍莉に手渡すだけで、彼女の溜飲が多少なりとも下がる事を信じている少年にとっては最重要事項と同等。
少女の我儘に応えてやれる程の余裕があるものかと、そのまま駐輪場から出ようとする。
だが、腕を引かれた⋯⋯。
言葉など一切なく、余韻も余白もないまま身体はピタッと停止し、前進する脚はぎこちなくなる。
力を増していく准の腕。
しかし、少女は依然変わらず、腕を掴んで離れない。
「おい、なんだよこの展開。二度目なんだぞ?離せよ」
既に藍莉と似たような状況になってしまった為、デジャブを感じざるを得ない准はゆっくりと振り返る。
力んでいる訳でもなく、踏ん張っているような姿勢でもない、棒立ちで片腕だけを准の方へ伸ばして、腕を掴んでいる少女は『余裕綽々』だった。
「ここに可愛くて麗しい美少女が居て、貧相で取り柄がノミサイズしかないような男の人に頼み事をしていル。コレって見方を変えれば奇跡のような事だって、お兄さんは思わなイ?」
「⋯⋯⋯回りくどいぞ?なんだよ、早く言えよ」
「お菓子買っテ」
単純明快かつ回りくどさを一切省いた結果、お菓子が欲しいだけだった少女の表情は未だ微動だにしない。
腕も同様に離される事はなく、逃げられない准は少女の術中。
じーとひたすらに瞬きもしないその深緑色の瞳は真っ直ぐと准へと向かっており、状況的にも逃げられないと悟った准の上がった口角は引き攣っていた。
「金は?」
「ワタシに通貨の類いがあれば、とっくにそれを手に持って店に居た棒立ちの人達に声を掛けていル。そんな事、馬鹿でも分かるのに、お兄さんは分からないんダ」
「買って欲しいなら、それなりの態度があるよな?そんな事言われて買う訳ないだろ?」
至極真っ当な言葉を投げ掛けた准の腕からようやく手が離れた。
痛みはなく、掴まれた際に出来た手形だけが明確に残っている。
不思議な事が起きている、そう感じる准は腕の神経が麻痺でもしたのかと疑ったが、もう片方の手で手形のついた腕を擦った。
(ちゃんと感覚がある)
自分の腕を訝しんだ目で見つめていた准は、それを齎した張本人へと目を向ける。
准はすぐに不可解そうな顔をさせて、自然と目線が下へと落ちていく。
「⋯⋯なにしてんの?」
「パンツ見せてル」
両手で短い丈のスカートの裾を摘んで、たくし上げていた。
恥じらう様子もなく、淡々と必要な工程だとばかりに見せ付ける白の下着。
だが、残念な事に少年は見知らぬ小さな女の子の下着には無関心であり、露骨に機嫌を悪くして少女よ顔へ視線をやる。
「僕が言いたいのは、なんでそんな事をしてるのかって話だ」
「⋯⋯態度ってそういう事じゃないノ?!」
驚愕の事実!と行動で示すようにスカートの裾は重力に従うように下へ落ちていく。
だが、その後すぐに考える素振りをしだした少女は瞼を閉じて、数秒──思い至ったように瞼を開いた。
「⋯⋯シミ付きの方が好ミ?!」
「帰る」
踵を返した准はこれ以上の面倒はゴメンだとばかりに一瞥もせず、帰路である歩道へ脚を動かしていく。
しかし、少女は諦め切れずに今度は准の腰に抱き着くようにして抵抗を図り始めた。
「待っテ。待っテ。待っテ。捨てないデ。ワタシが悪かった事は謝る、この通リ」
遂に自身の行いに省みたか、そう思った准が少女の方へと向き直ろう為、顔を向けるとそこには──。
「どの通りだ?僕には揶揄ってる奴の顔にしか見えん」
腰に抱き着いた少女の顔は、誰がどう見ても小馬鹿にしているような表情であり、口を大きく窄めたひょっとこをベースに、更に目を細めて目線は何故か准ではなく斜め上の空へと向いていた。
これでも謝る側にいるのは少女の筈なのだが、それを微塵も感じさせないその顔は何処で身に付けてきたのか、誰が教え込ませたのか、不覚ながらも准は気になってしまう。
しかし現状、そんな事を言えば付け上がるのは少女であり、准にとってメリットがある筈がない。
怪訝で嫌悪のある表情を崩す事はなく、腰から離れようとしない腕を剥がすべく、力を籠めていく。
だが⋯⋯。
(ッ!!ちょっと待て!いくら何でも締め付けが強すぎないか?!⋯⋯痛くないから気付かなかったけど、コイツ僕が腕を引き剥がそうと力を入れた時だけ、力入れてんじゃないよな?)
少女の力加減と絶妙なタイミング。
それらは人間が出来る芸当の枠組みを超えていた。
腕を剥がそうと手前側へ力を籠めていく准とは反対方向に力を籠めていく少女。
腕を引き剥がそうとすれば、それに抵抗する為、締め付けようとしてきて圧迫感のようなものが生じるのが普通なのだが、准にはそれが感じない。
それどころか、一ミリすら動かず、横にも前方にも行かず、腰には圧迫感のようなものが一切感じてはいなかった。
腕を引っ張られた時と同様、強制的に歩行を停止させられた時に発生した引かれる感覚以降、何もないのだ。
一分のズレやブレもなく違和感すら感じないその技術は人間業では不可能であると、機械がそれをしている訳ではなく、人間がそれをしているという恐怖が准の心を戦慄させる。
(この子⋯⋯もしかして素の握力とか筋力みたいなの、僕より余っ程強いんじゃないのか?──『現象』か!?)
女の子に駄々を捏ねられて腰に腕をしがみ付かれるというイベント。
それは一気に、『死一歩手前』だと身体は抵抗をする事を恐れ、抱き着いている腕から手を離していく。
しかし、すぐ腕の方も腰から離されて、徐ろに少女へ視線を向けた准は喉を鳴らす。
「⋯⋯⋯⋯お兄さん、謝るって何?ワタシ、した事ないかモ」
無表情に二つ、深く奥底が見えない緑色の瞳はつぶらであるにも拘わらず、恐怖対象と認識していく准の身体は一歩、後退して辺りを見回す。
人気の少ない歩道。停車している数が少ない駐輪所に二人きり。
逃げ道として確保しておきたい道は坂であり、渡るにしても現在地からは丸見え。
完全に詰んでいた。
(⋯⋯⋯⋯もう、こうなったら言う事言って、死んだらそん時だな⋯⋯)
勇敢な戦士に備わった矜恃というには小さく矮小な意地であり、プライドのようなものが湧き立っていく。
されるがまま、やられるがままの状況というのが、『現象相手』になると躍起になっていき、意趣返しの一つでも企みたくなる少年心は燻られていき、目の前に居る少女へ注視の視線を向ける。
「頭下げて、ごめんなさい、とか。お願いしますとかだ」
「こウ?」
意外な程に律儀に従い、同じ動作をする少女。
「そうだ」
上擦ってしまった声色。恐怖が蓋を突き上げて、立ち込めた上で出てきそうになる。
それをひたすら誤魔化すように喉奥を咳き込ませて、カモフラージュ。
無意味にも感じるその行為に何処までの成果が出ているのか、准本人が客観視でもしない限り分からない。
だが、そんな余裕は既に消え失せてしまっており、躍起となって道徳心を説く道へ進んだ。
「普通、人にものを頼む時はそうするんだよ。分かったか?」
「分かっタ」
そうして奇抜な髪色と服装をした少女は頭を下げて、口にした。
「ごめんなさイ、お願いしまス」
警鐘の音色は未だに鳴り響いている。
それでも、少女が『現象』であると仮定している准は命の手網を握られていると承知した上で、口にした。
「⋯⋯⋯⋯待ってろ、買ってくるから」
「お兄さん、貧相な顔して優しいね。脱ぎ立てあげようか?」
そう言い、スカートの中に手を入れる少女に目も当てられなくなった准は露骨に引いてしまう。
「やっぱ、買うのやめよ⋯⋯」
「それは話が違ウ。ワタシとの約束を反故にする事がどれほどの事か知らなイ?」
「聞いた事ないし、知らないんだよなぁ」
何処まで踏み込んで良いのか、探りを入れるという名目で少し軽口へ戻っていく准は少女の腕を掴んで首を横に振る。
既に太腿辺りまで降りていた下着を履かせる為の説得を五分掛けて行い、疲れ切った表情で再度入店。
その間、少女は准の忠告⋯⋯条件通りに外で待つ事となり、しばしのリフレッシュ期間を経て、少女の所へと戻って行った。
「ほら、お菓子だ」
レジ袋には少女が盗もうとしていた菓子全てが入っていた訳では決してない。
慢性的な金欠野郎の財布はお菓子十数個で火の車と化すには十分な動機なり得る為、半分に候補を絞らせた上で購入したのだ。
袋の中を覗く少女は数秒、硬直したように動かずにいた。
そして途端に、顔だけが不気味に准の方へと向く。
「ワーイワーイ。えぇと⋯⋯苦しゅうない」
「ありがとうって言ってくれ」
「ありがとウ、面倒臭いお兄さン。お陰で今日は楽しい時間になったヨ。ワタシはこの出会いに感謝して生きていク」
レジ袋をしっかりと掴み、ようやく立ち去ろうと准の真横を通り抜けようと歩き出す。
胸を撫で下ろした准はようやく解放される安堵に張り詰めていた糸を緩ませていく。
「そう言えば、お兄さン」
「?!?⋯⋯な、なんだ?」
「骸魅。骸魅喜雨。それがワタシの名前」
突然の自己紹介に戸惑いが隠せなかった准であったが、さよならまでもう少しの辛抱、と心に言い聞かせながら、口を開いた。
「僕は桐江准だ。えぇと骸魅ちゃん?」
「喜雨でいイ。骸魅って言われても、一文字多くて会話のペースが遅れル。お兄さん、律儀にワタシを呼ぶ時に何度も言いそうだしネ」
「わかった、骸魅ちゃん」
「⋯⋯お兄さん、意地が悪いって言われなイ?」
レジ袋を振り子のようにブンブンと振っていく喜雨。
見上げた視線は曇り空の間を縫って現れた夕日に差されて綺麗に映る。
「むしろ、めっちゃ良いって言われるぞ?」
「難儀だネ、桐江お兄さん。──じゃあもう行くヨ。お菓子苦しゅう──ううん、違っタ」
頭を下げて腰を曲げた。そして一言。
「ありがとウ」
そう言い、テクテクと准へ振り返る素振りもなく去って行った少女の背中は小さくなり、完全に見えなくなるまでその様子を見届けた准は大きく息を吐いた。
気の休まらない買い物はこうして無事に幕を閉じ、帰路へ辿り着いた准は買い物袋を力無くダイニングへ置いて、自室へと戻って行く。
ベッドの上で疲れ切った身体と心を休ませるべく、瞼を閉じた准は静かに眠りに着くのであった。




