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この街は今日も語る  作者: 紫芋
夏休みシリーズ 大洲藍莉と夏を謳歌したい

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ある夏のある日の日常

忘れてはいけないのです。


夏休みは楽しまなくてはならない事を!


このお話に限り、事件性は一切皆無です。



 暑さに負けるな!というキャッチフレーズを元に流れる栄養ドリンクのCMに出てくる綺麗な女優のバストサイズを密かに想像していた桐江准は、夏を謳歌している。


 夏休み開始から一週間後に起きた『富宮奏海爆殺事件』も無事にとまではいかずとも閉幕する事ができた訳だが、少年にとっての本来の苦行は宿題であった。


「あ〜、なんでこんなに解けないんだぁぁぁ」


 顔をローテーブルに滑り込ませていき、数学の宿題として出されたプリントがクシャッとシワを作っていく。


 八月十二日、朝十時半頃の雨の激しい時間。


 雨粒がベランダに続く窓を叩き、意識がそちらへ向いた頃、インターホンがリビングに鳴る。


 無意識に意識が玄関へ向かった准はそそくさと立ち上がり玄関へと。


 そして、この時間帯に鳴る事のない来客に対して警戒するかのようにドアスコープに目を近付けた。


「⋯⋯⋯⋯誰も居ない?」


 気になって思わず玄関を開けて、左右を確認。


 しかし、雨音に絶賛支配されきってしまったこの街は傘が水を弾く音すら聞こえない程の豪雨。


 だと言うのに、玄関を出てすぐに続く廊下は濡れた形跡がなく、シミ一つ無いのだ。


「悪戯か?」


 だとしたら何故、自分の所を選ぶのか。


 そんな理由は決まっていた。


 会いたいから以外無いからだ。


「悪戯じゃないわよ?」


 耳元でボソリと凍えるかと思う程に儚げな声が一つ。


「ウワァァァァァァァァァァ!」


 閉めたばかりの玄関に肩をぶつけて、よろけて思わず倒れてしまった准はそのまま声の主の方へと不可抗力の流れに逆らえず、顔からぶつかりに行ってしまう。


「⋯⋯⋯⋯あの、先輩。ごめんなさい、離れて」


 声の主は灰色の髪にビー玉のような色素の薄まった瞳と黒いドレス姿の女性。


 ──名無しである。


「⋯⋯えぅ?!なんだこれ、うう⋯⋯⋯⋯。!はっ!」


 祝!ラッキースケベが発動。


 頭ごと向かっていった先は丁度豊満な胸であり、人間の危機本能が働いた事により頭へのダメージを避けるべく手は必然的とも言える具合いに前へと。


 そして、鷲掴んで倒れさせてしまう。


「名無し!?お前か?こんなつまんない悪戯しやがったのは!僕の心臓はクマムシじゃないんだぞ!」


 量子もつれを発生させ、放射線にも耐えて、宇宙空間に野ざらしにされても生きている地球生命体のバグの一種であるところのクマムシ先輩には決してなり得ない准の心臓は、小声の言葉を耳元で呟かられるとすぐ萎縮するへなちょこハートである。


「ごめんなさい。ちょっと、暇潰しに⋯⋯」


 名無しの視線が自然と自身の上半身へと向く。


 恥ずかしさもなく、むしろどうすれば退いてもらえるかすら考える余裕がある名無しであるが、准にとっては一大事であった。


 もはやそれは驚愕の限りであり、顔を埋めた首筋からはいい匂いがしてしまった事で不覚にも照れてしまうも、すぐに自分の置いてしまった手の位置を見て、固まってしまう。


 そして、揉んだ。


 効果音でも付けてしまえば、コミカルになってしまえるかと脳内でプヨプヨと一定のリズムの刻んで鳴らしていく中、気付いてしまった。


「⋯⋯⋯⋯お前、二年経ったらこんなデカくなんの?」


 別に現在の常盤美羽が貧相《ペチャパイ》という訳では決してない。


 標準的な大きさであり、膨らみも確かに服越しでも分かる大きさなのだ。


 だが、名無しは常盤美羽の未来の姿であり、年齢も十八歳。


 立派なレディ一歩手前まで来ていて、歳だけなら成人扱い。


 そんな名無しの胸は明らかに鷲掴んでも余るサイズ感。


(何食った?誰に揉まれた?改造手術でも施されたか?)


 准とて知っている。女性は一朝一夕に胸が大きくなるなんて事は無いという事を⋯⋯。


 それだと言うのに、胸二つ、肉の塊二つ分によって、名無し=常盤美羽という図式は一気に崩壊していく。


「あの⋯⋯そんなに揉まれても困るのよ?これ以上大きくなられても困るし⋯⋯。それより降りて貰えないかしら?」


「揉んでない。掴んでるだけだ。罰として揉まれてろ」


 脅かした罰が胸も揉むという行為と釣り合うか否か。


 答えは釣り合うのだ⋯⋯少年の中では。


「貴方ってそんなに胸、好きだった?確か、脚が好きだったような⋯⋯」


 数々の少年の奇行の中でも名無しの印象に強く根付くのはやはりストッキングを履いた脚を観察するように見つめてくるという変態的行動まっしぐらな准であり、それ以外が大して見つからないまであった。


 だが、少年にだって言い分はある。


 それは鉄の掟よりも強固で確かな誓い。


 鋼を飛び越えてダイヤモンドのように硬く、透き通った好き嫌いの話だ。


「勘違いするなよ、後輩。僕は世間一般的な脚好きじゃない。僕はお前の脚が好きなだけだ」


「余計に酷くなってないかしら?」


「安心しろ、平常運転だ」


 そう、平常運転なのだ。そして、その直後に玄関の扉が開けられて、鼻歌が混じりの言葉がやって来るのも、当然ながら平常運転である。


「ただい⋯⋯ま?⋯⋯」


 藍梨が帰ってきてしまった。


「はぁ?」


 ドスの効いた低い声が開けられた玄関の隙間から鳴り響く豪雨に匹敵する程に耳に轟く。


 彼女は夏休みという事もあり、殆ど家(隣)には帰らず、彼氏の家でイチャイチャ──などではなく、勉強を教えている身である。


 そんな彼女はビニール傘とレジ袋を手に持ち、昼ごはんは何を作れば彼氏が喜ぶかな?等と浮かれきった気分で扉を開けてみればコレだ。


 怒らない訳もなく──。


「准、説明して?襲ってるの?襲われたの?それとも浮気?」


「え、あー⋯⋯⋯⋯どっちも?かな?」


 ある意味では嘘を吐いてはいないというミラクルなのだが、問題はそこではなかった。


 手の位置、馬乗り、そしてその相手。


 全てが藍梨の地雷足り得るものであり、冷え切った視線は、気付けば准の自宅を過ぎて行き、お隣へ。


「あ、藍莉さん⋯⋯、待って!!誤解だけど、誤解じゃないけど、とにかく待って?!」


 急ぎ彼女を追い掛け、開いた藍梨の自宅の玄関に滑り込んで入ろうと素足のまま駆け足となる。


 だが、一足遅かった。


「っうぐぅ!──くぅぅぅぅぅ」


 勢いよく扉が閉められたその扉に額を思い切りぶつけて、唸り声を上げつつ倒れ込んでしまい、蹲って扉の方を痛みによって起きた涙越しに視界に収めていく。


 更に追撃とばかりにしばらくして、また藍梨の自宅の玄関は開かれて、今度は脚を直撃。


「ッッなぁぁぁ!」


 脚を庇うようにして扉の方を再度見ると、包丁を持って准の自宅に入ろうとする藍莉を目撃し、軽く悲鳴が上がってしまう。


「ま、ままま、待て待て待て待て待て!僕が悪かった!本当に悪かった!だから包丁はやめてぇぇぇ!」


 玄関へ上がろうとする藍莉。


 彼女が包丁を持つ側の腕を掴んで必死な様子で止めるものの、身体は前へ前へ進もうとする。


 まるで壊れたロボットのように止まる事を忘れてしまっていた。


「離して。どうせ脅されてる。准が浮気しないって知ってるもの。障害は排除していかないと。ね?」


(怖すぎるッッ!どうなってんだ!?)


『現象』すら疑った。何かされたのかと思わず藍莉の身体を見入るものの、何かある訳でもなく、普通に安く買えた水色のTシャツとジーンズ。


 それ以上も以下もない。


 勢いは止められず、遂に玄関を抜けて、リビングの扉へ近付こうとする藍莉の壁となるべく、前へ行き、両手を広げて抗議開始。


「藍莉、頼む待ってくれ!僕が悪かった。土下座でも何でもする!だから、せめてその包丁を置いてくれ」


「これ、私の家のよ?」


 銀色に鋭く光る包丁を見せびらかすように刃先を上にやる。


 リビングに付いた照明の影響で反射して、より怖くも見えるその刃物に怯える准だが、彼女の標的はその奥。


 沈んだ瞳は准を見ていない。


「私がどう使おうと勝手って事よね?」


「常識《マナー》と法律《ルール》は守ろう?な?」


 馬乗り、変態的言動と行動をした少年にそれを言う資格か果たしてあるかどうか、それはきっと無いのだろう。


 目の前でチラつかせている藍莉と凶器のコラボレーションは想像以上に恐ろしく、冷や汗が止まらずにいる。


 さながら、強敵を前に武者震いが起こり汗を流すように、准も怖さで震えて嫌な汗をかいていた。


「准退いて?貴方に向けるつもりは無いのよ?大丈夫。一矢報いてあげる」


「少なくてもお前が犯罪者になっても待ってやれる自信はあるがそれでもお前と長く居たいんだだからその凶器をしまってくれぇぇ〜ッ!!」


 早口で捲し立てたような言葉は終わると共に肩で呼吸をしていた。


 嘘なんて一つも吐いていない本心をぶつけたつもりである准の気持ちは届いたか、届いていないか⋯⋯。


「⋯⋯⋯⋯分かったわよ」


「⋯⋯藍莉!」


 伝わってくれた。その思いの丈をぶつけて、目の前に居る女性の凶行を防ぐ事に成功した准は本懐を遂げたような熱い眼差しで藍莉を見る。


「脚か腕だけ刺してくるから」


 悲報、本懐は遂げられず──。


 包丁をより強く握り締めて、ドアノブに手を掛けようとする藍莉を手を掴み、必死に押さえ込もうとする。


「なんでぇぇ?!ていうかお前、その言い方だと、心臓狙うつもりだったのか?止まってぇぇ!あーーー扉と藍莉に挟まってるぅぅ!助けてぇぇ」


 そもそも好きな人間に対して暴力的な行動に走る事が苦手故に、次第と後退させられていき、最後には扉と藍莉の板挟み。


「准、退いて!扉を開けれない」


「僕が最終防衛ラインなんだァァ!──ぁぁぁあ!」


「きゃあぁぁ!」


 准の背後、守るべき砦として設置された扉は容赦なく開かれて重心を掛けていた二人はそのまま雪崩込むように倒れる。


 准は背中から、藍莉は正面から倒れ込んでしまう。


 しかし、そこは彼氏の見せどころ。


 藍莉をしっかり庇うようにして、彼女へのダメージを最小限にして、代わりに自らが大ダメージを追う事も厭わなかった。


「────はぁ〜。死ぬかと思った。藍莉、大丈夫か?」


 庇うように抱き締めている准。


 胸元付近で顔を埋めて、倒れている藍莉の背中を数度、掌で軽く叩き、応答を呼び掛ける。


 チラッと、顔を見上げるように上がり、一言。


「⋯⋯抱き締めるの駄目なんじゃないの?」


 訝しんだ様子で離れようとするものの、元々は取り押さえるつもりでもあった訳で、どさくさに紛れてぎゅっと抱き締める。


「咄嗟で、勢い余ればトラウマにも勝つんだよ⋯⋯。意識させんでくれ、負けるから」


「じゃあ、もう少しこのまま」


 首筋の方へと腕が回されて、互いに抱き締める状態、このまま続けば⋯⋯良かったのだが、そうはならなかった。


「准、コイツ⋯⋯なんで居るの?」


 胸元に顔を埋めながら、篭った声でそう聞かれた准は藍莉から視線を逸らして、リビング方面へ向ける。


 准達も知らない間に藍莉が凶器として使う予定だった包丁は名無しの手元にあった。


(いつの間に⋯⋯)


 名無しと准の視線が合う。


 名無しが微笑み掛けて、包丁を天井に向かって投げてみせ、自身の身体がある高さまで包丁が落ちる。


 すると、両手を翳して准からは包丁を見えなくなり、落下していた筈の包丁はフローリングに突き刺さる事はなく、何処かへ消えてしまったのだった。


「なにあのマジックっ!」


「⋯⋯准、聞いてるの?」


「え?!あ、うん」


 勿論、誤魔化しただけの嘘なのだが、肝心の藍莉は准を見ておらず、ずっと顔を埋めっぱなし。


「お前、なにやってんの?さっきから」


 そう、ずっと胸元に顔を押し当てるばかりでチラッっと顔を覗かせて以降、何か擦り付けるようにしている藍莉。


 当然、不審に思えてならず、背中に固定していた両手を藍莉の顔へ近付けて、顔色を見ようとする。


 しかし、頑なな彼女。


 顔を准の身体から離そうとはせず、依然、びっちりと密着状態。


「⋯⋯マーキングよ。邪魔しないで」


「犬猫か、お前は」


「だってぇぇぇぇぇぇぇ!」


 蒼太がコレを見ればどう思うか?


 十中八九、准が悪者となる構図であり、舞喜の部屋で共にぐっすりと眠っている事が唯一の救いだと、頭側にある舞喜の寝室を見て安堵する。


「貴方もどうして、こんな女なんかと!まだ常盤さんとか逸花の方が説得力あるわよ!」


「いや、あれもトッキーなんだけどね?」


 そうご指名のように名前を言われた名無しこと常盤美羽はブイ!と自慢げにピースサインを二人に送り、威嚇のように睨む藍莉に対して飄々とした態度で向かっていく。


 その姿は強者にも見えるが、同時に恐れ知らずの無鉄砲にも感じられた准は首を焦燥感任せに横へ振る。


 時間が経ち、落ち着きを取り戻した藍莉は包丁の事など忘れ去ってしまい、ソファに座っている准の腕にコアラのようにしがみ付いて離れない。


「何か、用ですか?消えてください」


 敵意剥き出しの臨戦態勢で警戒を怠らない藍莉はカーペットを正座で座り、ローテーブルの上にあるコップを手に取り、お茶を啜っていた。


「用はないわよ。純粋に暇だったから来ただけ」


「そうですか、ならもう良いですよね?お帰りください、さようなら」


 シッシッと手で払う素振りすら見せる藍莉の敵対感情は常軌を逸している。


 しかし、藍莉は名無しとの初遭遇時、准の事を視認出来ずに焦燥感が詰まりに詰まった状態であった。


 更に加味して会話の流れ的にも、藍莉を下に見るような発言が名無しから幾度か放たれた事がこのような関係を構築してしまっている。


 准は迷っていた。彼女の為に上階にある彼女の自宅へ帰すべきか、そのまま藍莉を説得するかを。


 正直に言えば、准には名無しを嫌う要素がない。


 協力的であり、美人で話し相手としても常盤美羽と何ら変わらない事が名無しへの警戒度を大きく下げているのだ。


 今尚、優雅なティータイムに勤しんでいる名無しに我慢ならない藍莉は掴んでる離さなかった腕を引っ張り、駄々を捏ねる子供のように問い掛ける。


「准はどっちの味方なの?私よね?そうよね?!」


「可哀想。こんなヒステリックな女と付き合わされて、哀れね先輩。婚約してないなら乗り換えても犯罪じゃないから、オススメしようかしら」


 嘲笑うように鼻で一蹴した名無しに我慢の限界がやってきた藍莉。


 その表情を間近で見てしまった准は藍莉から離そうとするものの、より強い力で藍莉の身体と密着させられてしまう。


(あ、終わった⋯⋯)


「ヒステリック⋯⋯。貴女ね!大体、勝手に家に上がり込んでおいてなんなの!」


「貴女の家では無いわよね?なら、彼の自由意志って事。少なくても、許可は取ってるわよ?」


 どちらを応援すれば、バッドエンドが回避出来るか、准なりに考えていた時、思わず名無しを見て、訝しむ。


「いや、あげてないな⋯⋯」


 勝手に上がり込んだだけで准は是の言葉を一つも発していない。


 だと言うのに、既に許可を頂いているかのような口振りは許容出来なかった准。


「そんな嘘吐きは出入り禁止にするぞ?」


「え?!ひ、酷い」


 震えるコップ、動揺が伺える表情に胸を自身のそっと庇う姿勢。


 そして、泣きそうで潤んだ視線は准へと向かう。


「私の胸、先輩から揉みしだいたのに。私、部屋に来いって事かなって、ちょっと信じてたのに⋯⋯」


 開いた口は塞がらない准の口を閉じる方法はただ一つ。


 隣に居る藍莉に睨まれればすぐ閉じる。


「ちょっと准?それどういう事?この女からじゃないの?ねぇ?答えなさいよ」


 般若はすぐそこに居る。包丁なんて持っていなくともその眼力と掴んで離れない腕の痛みが教えてくれる。


(死ぬしかねぇ⋯⋯)


 悟った准は黙ってソファから降りる。


 そして──ただただ、綺麗な土下座をするのであった。


 それを見下ろす藍莉は立ち上がり、拳を握る。


「────────天誅ゥゥゥゥゥ!!」


 藍莉の躍起な叫び声を聞いた蒼太と舞喜が部屋から出てくる時には、フローリングでひっくり返った蛙のようにピクピクと気絶している准が居たとかなんとか。


 悪は淘汰されたのである。


  ━ ━ ━


 名無しが優雅なティータイムを送り、藍莉が警戒と監視を続けている中、舞喜と共に学校へ行く練習をするべく外へと出た准達。


 本来は藍莉や蒼太も同行している予定なのだが、名無しの登場がそれを邪魔してしまい、蒼太と藍莉は居残りを決めた。


 豪雨の中、傘は風に持っていかれそうになるのも厭わず、舞喜の通う中学校へと足繁く通う二人。


 この時の二人はバッチリ着込んで、見る者全てをあっと言わせるファッションセンスをひけらかしてやる!と言った具合いの服装などではない。


 カジュアルでラフな服装であり准に至っては、上は寝間着として使っているシャツであり、ズボンはジャージ下である。


 舞喜も白いは半袖パーカーに七分丈のズボンにサンダルと気軽なもの。


 しかし今日は豪雨。従って髪型はヘアゴムで二つ結び。


 走行中の車が水溜まりを勢いよく跳ねさせて、准の身体を盛大にずぶ濡れにしたり、准の傘だけが風にやられて骨部分をポキッとへし折られてしまったり、強風が吹き荒む中、目の前から現れた空のゴミ箱の蓋が飛んできたりと散々な目に遭う。


 しかし、准は文句を言う事はしなかった。


 たとえ今日に限り、物凄く不幸体質となってしまっていたとしても⋯⋯。


「お兄ちゃん、大丈夫?休む?」


「休ませて⋯⋯。マイ・シスタ〜」


 声の張りは完全に消えて、意気消沈と言った具合いの准を鑑みて、声を掛けた舞喜は中学校の近くにある屋根があるベンチで一休み──と行きたいのだが、強風は雨を斜め軸に降り注ぎ、木製のベンチだって当然ずぶ濡れ状態。


 座れる訳もなく、二人は立ち竦むのみ。


 仕方なく、ぼーっとしている兄妹だったが、ふと隣に居る兄へ声を掛けた。


「⋯⋯ねぇ、お兄ちゃん」


「なんだよ」


「アタシに構わないで、藍莉さんと一緒に何処かへ行っても罰は当たらないんだよ?」


 四月頃から、何処かへ行く、というフレーズを胸に何時までのその予定が組めない理由に舞喜が入っているのは事実であった。


 登校練習は実はかなりしっかりとやっている方であり、毎日欠かしてはいない。


 時に舞喜の方が挫けそうになっても准の方が催促する形で連れて行き、時に気疲れしてしまったらオブって帰る事すらあった。


 だが、彼女は仮にも中学二年生。


 本来は一人で登校する事がごく自然な流れであり、見慣れるべき光景なのだが、学校へ向かうという意識が自宅の玄関扉の前で身体に表れ始め、身体の震えが止まらない時がある。


 その為、心配になった准も目が離せないのは確かなのだ。


 だが、藍莉も蒼太の世話があり、むしろそっちの方が気掛かりな部分としては大きい。


 一緒に連れて行く事も見当してはいるが、そうなった場合、蒼太は遠慮し出してしまうのだ。


 結果、中々予定が組めないという状況に陥っている。


「⋯⋯舞喜、僕は嫌々でお前の登校練習をしてると?」


「そうは言わないけどさ、でも⋯⋯。なんというか、アタシのせいでお兄ちゃん、自由がないって言うか、足枷にアタシがなってるっていうか⋯⋯。分かるでしょ?!」


「いや、分からんけど?」


「⋯⋯もういい」


 呆れて何も言わなくなってしまった舞喜は不機嫌そうな顔で兄から視線を外してしまう。


 そして、舞喜が気付けば、准は何処かへ行ってしまっており、焦って辺りを見渡していく。


「お兄ちゃん?!どこ行ったの?」


 焦燥感が立ち上る。視線に合わせて顔は動き、身体は周囲を見渡そうと動いていく。


 その動作や仕草は徐々に焦りが如実に表れていき、次第に泣き出しそうになる。


 棄てられた、見限られた、そんな感情からやって来る目頭の熱さ。


 豪雨が未だ降り注ぐ中、雨粒が顔を打ち付けて、濡らしていく。


 しかし、それすら邪険に感じて、白のパーカーのフードを頭に被り、雨粒による邪魔を阻害した。


 諦め切れない舞喜は再度、辺りを見渡そうとする。


「えい」


 フードが頭から剥がされ、背中に冷たい感覚がやって来る。


 それは舞喜に高音で軽い悲鳴を齎した。


 ジタバタとしだした舞喜は思わず振り返ると、准が缶コーヒーと容量の少ないペットボトルを持って、揶揄うように笑っていた。


「お兄ちゃん、なにやってんの!背中が〜」


「いや〜、遊んで欲しがってたからつい、な」


「つい、じゃないよ!冷たい〜。というか、飲み物買いに行ってたんなら、声掛けてよ!」


 嬉しそうな声が滲み出ているのを准は確かに感じ取り、ペットボトルを渡して、舞喜の頭を軽くポンポンと撫でる。


「悪い悪い。今度から一緒に買いに行こうか」


「⋯⋯ほんとだよ」


 頬の緩みが抑えられない舞喜はチラチラと何度も准を見た。


 何かを言いたげな視線。開いて閉じてを繰り返す動作は自身でも止められない。


「あ、あのね。お兄ちゃん⋯⋯」


「なに?」


「⋯⋯やっぱり、藍莉さんとどっか遊びに行ってよ。私、蒼くんと学校行ってみるからさ。楽しんできてよ。一泊二日ぐらいならなんとかなるって」


「お兄ちゃんは言ったぞ。別に不服や不満があって、お前の登校練習に付き合ってるんじゃないって」


 准の言葉は真である。


 家族だから心配こそしているし、不安もあるが、不服や不満の類いは一切ない。


 むしろ、舞喜がしっかりと一人で登校出来るようになる様を直で見届けたいとすら思っている。


 舞喜もそれが分かっていて、それに対する何か恩返しのようなものを与えたい。


 そう願っている故に出した提案だった。


「お兄ちゃんさ、藍莉さんの事、好き?」


「勿論だ!」


「名無しさんの胸よりも?」


 ふと思い出されるのは黒いドレスと名無しの胸。


 豊満でありながらも綺麗な形に良い触り心地なのは准の両手が覚えており、思わず両手を見てしまう。


「うぅーん⋯⋯⋯⋯。うん!藍莉だな」


「普通、迷わない筈なんだけど⋯⋯」


「ばっか舞喜!あんな触り心地の良い胸なんて触ってみろ。トぶぞ?」


 わざとらしく両手を前にやって揉むような仕草を取る准であったが、それを軽蔑するように軽く片手で跳ね除ける舞喜は大変不服そうであった。


「良いの!名無しさんの事はもう!大事なのは、好きな人と旅行ぐらい行きたいでしょ?って話」


「まぁ、そりゃ⋯⋯本音を言えば、はい」


 准、と言うよりもミニ藍莉と約束した事を果たそうとしている傾向の強い発言であった。


 あれから四ヶ月経とうとしている中、その約束が一向に実らないというのは准にとっても思うところがあったのだ。


「だったら行ってもいいんだよ?アタシに構わずさ?」


「お節介が過ぎないか?僕も藍莉も別に自宅勤務でも満足だが?家でイチャ付けるし」


 だが頑なであった。舞喜の想定している以上の頑固さを見せている。


 既に自宅デートというものに胡座をかいて、関係良好だと本気で信じているこの兄に対して、ドカンと一発ドギツイのをお見舞いしなければならない、そう確信した舞喜はゴホンッ!と咳払いを一回挟んだ上で公言する。


「じゃあ、お兄ちゃんが名無しさんの胸は最高だった。藍莉さんのじゃ物足りないってある事ない事言いふらそっかな〜」


 悪魔の囁きにも似た、そんな言葉であった。


 契約でもお願いでもなく、命令でもない。


 純粋な脅し。それに屈する程、准は甘い人生を──。


「ハァァァ?!何言ってだーー!!ない事しか言ってねぇだろ?!止めろ!止めなさい!むむむ、む、無駄な抵抗はす、するなーー!」


「なんで徐々に怖気付いちゃってるの?」


 少年は脅しに屈しやすい⋯⋯。それが今日、妹の舞喜が把握した情報である。


「な、なんて酷い奴なんだ!?⋯⋯僕が、名無しの胸じゃないと我慢出来ないッ!?そんな訳があるかーーーーー!」


 豪雨の中、一人で遠くへ向かって叫ぶ姿。


 背中には苦悩と葛藤が文字として見えるようであり、呆れてしまう舞喜は聞こえない程度に溜め息を漏らした。


「大体だな、舞喜。お前は知らないだろ?名無しの胸の中毒性を!?」


「妹に他人の胸の良さを力説しようとするの?!やめて、お兄ちゃんみたいになりたくない!」


 両手を前に手首に掛けた傘が振り子のようにブラブラと左右を行き来する。


 傘から零れる水滴が既に濡れてしまっているコンクリートの地面を上塗りする形で落ちていく。


「何言ってんだ。血が同じが通ってんだぞ?どうせ抗えん。受け入れちまえ!」


「なんで名無しさんの胸を擁護するのさ?!そこは否定しなよ!?」


 だが、可哀想な視線は送らない。


 何故か?それは既に准がそういう人間であると理解しているからだ。


 仮に准の話し相手が舞喜ではなく、藍莉や美羽、逸花ならば引かれる事は必定であったろう。


 しかし、相手は慣れ親しんだ妹。


 言葉が止まる理由も必要性もない。


「お前も触れてみろ。多分、一週間は抜け出せない」


 キメ顔でそう言い切った准の凄みに気圧されてしまいそうになるものの、既に藍莉から事細かに朝の事情を聞いている舞喜は疑問に感じた。


「お兄ちゃんは数分で戻って来れたんじゃないの?」


「僕は藍莉という特効薬があるからな。だからすぐ帰ってこれた。この意味、わかるか?」


「あ、お兄ちゃん⋯⋯」


 思わず力強く開けた舞喜。


 それを見た准も理解して貰えたと胸を撫で下ろす。


「全然さっぱりミリ単位で理解できないけど、分かった事にしとくよ」


 舞喜は逃げてしまう。議論という戦いの場において後退や譲る言動はある意味では敗北を意味する。


 准は知っている。


 舞喜という思春期ガールの秘めた感情や欲求の強さを。


 だから、鼻で笑ってみせた。


「へっ。とかなんとか言って⋯⋯怖いんだろ?」


 挑発的に笑った口角は余裕の表れ。


 そう、准の勝ちだ。


「名無しの胸が」


「⋯⋯⋯⋯正直、興味は、ある」


 モジモジとしながらも素直な気持ちを吐露した准は自宅のある方向へと高らかに指差して声を張る。


「ならば良し!帰って、名無しの胸に飛び込んじまえ!」


「イ、イエッサーッ!」


 懐柔されてしまった舞喜。自分でも何故、妹にこんな力説しているのか甚だ疑問が頭から尽きない准は適当な事ばかりを口にして、藍莉との旅行計画を舞喜の頭から脱却される事に成功するのであった。


 登校練習の為に外出していたにも拘わらず、結局校舎が見える範囲にすら到達せずに帰ってきてしまった事と、それを促してしまった准本人の言動に玄関前で後悔しながら、扉を開ける。


(な、何やってんだ僕はぁぁあッ!)


 弾んだ力説、胸に対する闘論からの勝利を収めて、その後帰宅途中も肌触りを生娘の妹に豪語していた准はとんでもないぐらいの醜態であったと、ようやっと客観視する事に成功。


 だが、妹はそんな様子には気付きもせず、玄関を抜けてリビングへそそくさと向かう。


 そして、キッチンで警戒度マックスの藍莉が向く方向、ソファに一人座りながらテレビを見ている名無しへ向かって走り込んだ舞喜。


 何事かと驚く藍莉と、ダイニングに居る蒼太の視線は舞喜へと一直線。


 そして、ターゲティングされている名無しは近付いてくる走音に気付きつつもスルーを決め込んでいた。


 が、それがいけなかった。


 ガバッと!そうソファに身体を乗り込ませて、前に居る名無しの胸を鷲掴んだ舞喜の大胆さに後からやって来た准は後悔混じりにしゃがみ込む。


 当然、背後から胸を揉まれてしまえば驚くのは当然であり、固まった名無しはそっと背後に居る舞喜を見る。


「え、と⋯⋯何かしら?これは?⋯⋯」


 流石の名無しもこれは引いてしまっていて、青ざめた表情をしていたが、舞喜は瞼を閉じて、揉み心地を念入りに丹念に調べていた。


「う〜ん。なるほど、お兄ちゃんが夢中になるのも分かる⋯⋯」


「え?」


 困惑の一途を辿る名無し。


「は?」


 殺意にすら感じられる冷たく低い声が藍莉の口から漏れ出た。


「「ひぃ!」」


 同じタイミングで藍莉の声に慄き、ダイニングチェアから降りた蒼太と准は互いに抱き締め合う。


「お、お兄ちゃん、何やったの?!」


「僕じゃねぇよ!舞喜じゃないか!」


 絶賛、名無しの胸を堪能中の舞喜は吸い込まれるようにソファの背凭れからずり落ちるように名無しの膝元へ。


 肝心の名無しはどうしたらいいか分からず、ヘルブ要請を視線で促すも、既に状況はそんな信号を跳ね除ける程に場が荒れていた。


「准、説明なさい。蒼太、その人から離れなさい」


「は、はは、はい!!」


 准の身体から腕を離して、そそくさと舞喜の部屋へと逃げていく蒼太の背中は小さく、頼りないものであった。


 それでも、仲間は欲しかった。だから、准は逃がすまいと腕を伸ばして逃亡を図ろうとする弟分の背中を追い掛けようとする。


「あ、待て!蒼太ー!逃げるなァァァァァァァァァ!」


 ガシッ!と効果音でもなりそうな程に力強く、勢いのあるままに伸ばした右手は掴まれた。


「⋯⋯⋯⋯ここから入れる保険って、ある?」


 縮こまった身体、弱々しい覇気が微塵も感じない矮小で震えた声を発する准に対して、ニコッと影のある笑みを浮かべた藍莉を見て──察してしまう。


「あったらいいわね?探してみれば?私がさせないけど」


「ヒィィィィ!ち、違うんですぅぅ!」


「何が違うの?言ってみなさい」


「お前!鬼か何かか!」


「お兄ちゃん駄目だよ!それ僕が言ったら、睨まれるんだよ!お兄ちゃんが言ったら殺されるぅぅ!」


「蒼太ーッ!お前、お姉ちゃんを大事にしろぉぉぉぉ!」


 事情説明する事、三十分。説教を一時間。


 准は土下座と代わりに昼食を作る事を条件に許された。


 そして、舞喜はというと⋯⋯。


「どうしたら、こんなに大きくなれるんです?」


「普通にしてればなれるわよ⋯⋯。ところで離してくれないかしら?流石にもう⋯⋯」


「いえ!まだ堪能してません!」


「えぇ⋯⋯⋯。先輩、妹さんに何言ったのよ」


 ソファで優雅にしている舞喜に胸を揉まれ続ける名無しは恨み辛みのような表情で後方で謝り続ける准を睨むのであった。

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