これから、富宮奏海は罪を語る
罪とは何を持って罪と言うのか。
罪は司法が定めており、罪人かそうではないかの判断を委ねる。
だが、一人の彼女はその意味を曲解し、酷く歪めて身に収めた。
滑稽な程に血濡れたその罪の垢は定めた人間だけでなく、自分にもこびり付いているというのに⋯⋯。
桐江准、桐江舞喜は【約束の反故】と【記憶の紛失】が引き金となった。
それだけで人を殺せるか──少なくても彼女には明確湧いた感情が募る要因となったのは間違いない。
初めは小さな祈りだった。
身体は宙に投げ出されて、重力が更に押し出そうと地面への落下を早めていく。
何度も嘘だと願い、何度も上で見上げる男を見た。
その男の瞳は、奥に差し込む夕日が邪魔をして影となり、鮮明には至らず。
気付けば、強く頭部を打ち付けて、混濁する意識に色が混じり始めていた。
赤い液体はボヤける視界に見え始め、血の気が引いたと形容するには早すぎる程に身体は寒気を齎して、抜けて行く生気は最後の懇願を為させる。
(冷たい、痛い⋯⋯。嫌だ、死にたくない⋯⋯パパ、ママ⋯⋯。助けて、助けてよ───)
黄金の光が視界を歪め始めていく。
ポツポツと照らし始めたそれはポップコーンが弾けるように鮮烈に光る事もあれば、すぐに止んで、また光るを繰り返していた。
(きーくん、助けて。──神様、お救いください)
少年という候補を思い浮かべ、即座に捨てた彼女は祈る。
奇しくも、母親と父親が自宅で拝んでいる際に聞いていたあの台詞と同じ台詞を浮かべてしまい、『発露』した。
その日、『現象』が顕現する──。
気が付けば、彼女は夕暮れ時のコンビニの前でポツン一人、佇んでいた。
理解は⋯⋯当然出来なかった。
しかし、『幽霊騒動』の一件により、それが『現象』と呼ばれるものであるという事は理解していて、対象法なるものが存在すると頭の中に浮かんでいた。
だが、問題は──その身体には事故当初の記憶が一切無かった事にある。
言わば、男に呼び出されて向かっている最中、気が付けばコンビニに立っていたという仕様。
完全に困惑し、身体は動けなくなっていた。
そして、現れてしまった⋯⋯。
角の道から小さな男の子と手を繋いだ少年が。
━ ━ ━
部屋には満遍なく敷き詰められたクローバー。
本来は幸運の葉などとも呼ばれるその葉の花言葉にはある言葉がある。
【復讐】──それがクローバーのもう一つの花言葉だ。
とはいえ、あくまでもあとから付けられたものであり、本来は幸運の葉としての側面が大きいのだろう。
しかし『現象』にはそんな人の都合なんてものは関係ない。
自然発生にも等しい『現象』は人間の都合と言うものを勝手に解釈して、勝手に整合性を取ろうとする。
存在する理由から死ぬ理由までも。
桐江准、大州藍莉、笠辺沙耶、富宮奏海は現在、ある場所に辿り着いていた。
赤い屋根に二階建てで、百坪以上もあるその豪邸級の家に三人暮らし。
中は玄関を抜けると廊下から始まり、左側には階段、その下にはトイレがあり、廊下を抜けるとリビングとキッチン、ダイニングの一体型。
ガレージは車二台分、ホールや庭まであるその自宅は誰の家か。
「ねぇ、なんで私の家なの?」
「会わなきゃ行けない人が居るからだ」
「⋯⋯そう」
奏海の言葉からは重い空気を感じさせられた。
自分の母親、父親が自身に無関心である事も然る事ながら、追加とばかりに自身を見ると化け物でも見たような顔で逃げようとする。
足取りが重くなるのは必然的であり、准が無理矢理連れて来させたに近いのだ。
「ここが奏海の家⋯⋯」
興味深そうに辺りを見渡す藍莉。
普段の彼女ならば、勝手に自宅に入る事を咎める側ではあるのだが、今回、准は許可を取っているという言葉を信じて、そのような発言はしなかった。
そんな藍莉には奏海は視認出来ずにいる。
だから、彼女の様子の変化には気付けない。
「ま、待って!お願い!」
玄関の取っ手へ手を伸ばそうとする准の動きを制止させようと声を上げた奏海。
准の後方、怯えて何かに震えるように手を手で包み込み、胸元に置いている姿は懇願と言うよりも祈りに近い。
「⋯⋯なんで駄目なんだ?」
「⋯⋯⋯⋯お願い。待って!待って!」
勢いよく開けられたその扉。
中から充満するその匂いに藍莉は鼻を摘んでしまい、沙耶は目を細めた。
「准、この匂い⋯⋯なに?」
「⋯⋯行こう」
質問は受け付けなかった。
どの道、もうすぐ知れるのだからと割り切っているからである。
前へと前進しようとする准と沙耶と何がなんやらといった具合いで准の後を追い掛けようと脚を動かした藍莉。
そして、後方で苦虫を噛み潰したような顔でその光景を見る奏海は准の方へ駆け足気味に向かい、腕を掴む。
「お願い、待って、あんたがここに来たってなんの意味もないって!考え直してッ!」
「僕はもう知ってるぞ」
「⋯⋯え?」
腕を掴んでいたその手の力は急激に落ちて、腕を垂れ下げる奏海を一瞥した准は靴を脱ぎ、それに倣うように二人も靴を脱いで奏海の自宅へと入って行く。
「トッキーがこの部屋に入ろうとして、死んだって話⋯⋯藍莉は覚えてるか?」
「えぇ、勿論」
それは二周目の時、藍莉に声を掛けて、美羽が近隣住民に声を掛けて情報を入手し、自宅へ入った時の事。
あの時、美羽は知らぬ間に死んでしまい、自宅の中へ入ろうとした程度の事しか記憶していない。
「あの時、最も解決に近い道だったんだ」
「どういう事?最終的に常盤さんは死んじゃったのよ?なのに、近いって⋯⋯」
結果的には美羽は死んだ。
だが、誰に殺されたか、その理由の解明までは至っていない。
長く続く道を歩く。お香の匂いが立ち込める例の居間の前まで来た准は立ち止まって、奏海へと視線を向ける。
「富宮」
「⋯⋯なに」
「もう、隠し事は無しにしよう。お互い腹割って話す時間だ。お前が皆に言いたい事があるように、僕も伝えなきゃいけない事があるんだから」
「⋯⋯⋯⋯私にはない」
視線が逸れる。それは決して本人も無意識の内に行った仕草であり、逸れた先に居る沙耶が見えると、反対にある壁の方へと視線を向けた。
「ならどうして『現象』が起きた?」
「それは⋯⋯」
「本当は薄々気付いてたんだろ?なんで『現象』が起きたのか」
「ちょっと待って!奏海が知ってたって言うの?」
「⋯⋯そうだ」
『現象』には必ず解決策がある。
人間よりも凶暴な猛獣にも弱点が存在するように、『現象』にだって必ず裏があり、弱点が存在するのが通例。
『富宮奏海』が『見える人間』と『見えない人間』の区別は一体何か?
それは──。
「もう誤魔化すな。お前の家族はもう──」
准は居間の襖を勢いよく開く。
右へと流れるその戸を阻むものは何も無い。
「もう、死んでるんだろ?」
「⋯⋯⋯⋯」
徐ろに覗き込む藍莉と沙耶は目を疑った。
二度見して、目を細めて、前に乗り出すように一歩、室内に入り、唖然として、呆然とするのみ。
「⋯⋯っ!なにこれ?!」
「⋯⋯藍莉、先輩。どう見えます?」
「私には、何か言ってる風にしか、聞こえ、ない」
沙耶の視界に広がるのは、四葉のクローバーが大量に敷き詰められた仏壇とその前でひたすら両親が手を合わせて拝んでいる光景。
准も今現在見ているのと全く同じものである。
「藍莉は?」
皆の視線が藍莉に向く。
けれど、藍莉は唖然として血相が変わったように苦しそうな表情を浮かべて、両手は鼻元と口元を抑えるようにして一歩、また一歩後退して壁に背中をぶつける。
「ど、どういう事?自殺したの?何あれは?!」
藍莉の見ている光景は全く違う。
両親は座ってすらいない。
腐り掛かった肉から漂う腐敗臭は鼻を突き、傍には七輪、窓はガムテープでびっちりと固定されており、畳にはドロッとした液体が濡らしていた。
肝心の仏壇にはクローバーなんてものは何処にも無く、遺影は畳の上に転がっており、ガラスが砕けて顔にヒビが入ったようにも見える。
お香なんて物も当然、置かれておらず、天井にぶら下がった照明が二つの腐乱死体を照らすのみ。
夏の暑さは亡くなった遺体の腐敗を早めていき、煉炭による匂いは既に何処かへ去っていた。
「僕には小言でご両親が神様にお祈りしているようにしか見えない。けど、藍莉には違う風景に見える⋯⋯」
何故知れたか、何故至れたか。
それは名無しと共にこの奏海の自宅へ訪れた時、名無しが両親の小言について准が質問した時の事だ。
「なぁ、この人達、なに言ってるんだ?」
「救いの懇願とクローバーを摘んできたって、そう聞いているわ」
聞いている。つまり、誰かから言われた事であり、現在進行形では聞けていないという意味にも捉えられる。
『虚象』が第三の問題について准と討論している時に気付きに至った要因の一つであり、准が苛立ち混じりに論争をしてしまった切っ掛け。
名無しもまた、『現象』の影響外に置かれている為、『富宮奏海』を認識出来ないでいた。
他にも理由はあれど、名無しが今回の事件において介入が出来ない理由の一つとして、それが挙げられる。
「僕達の明確な違いってなんだろうってずっと考えてた」
それは『見えている』と『見えていない』と直結する話。
富宮奏海は何故、人によって『見える』と『見えない』とで別れたのか。
「最初は難しい法則性があるんだろうなって、そう思ってた。⋯⋯けど違った」
その根本的理由は意外と近くにあり、だからこそ見落としていた。
それを知れたのは『虚象』へ事件のあらましや顛末を語っていた事による功績であり、導き出せた事である。
「確認したいんですけど、先輩」
「なに?」
突然振られた話題に思わず、驚いたように反応する沙耶に構う事はせず、准は問い掛けた。
最も基本的な事であり、核心的な事。
「正直に答えてください。ご両親の事、好きですか?どっちもです」
「嫌い、だね。死んで欲しいって、いつも、思ってる」
それは嘘偽りなんてに一つなく、率直に聞かれた質問へ問答無用とばかりに答えてみせる。
一切の余念も迷いもなく。
「僕も嫌いなんですよ。んで、藍莉。両親は好きか?」
「父親はともかく⋯⋯。お母さんは嫌いではないわ。少なくても、私は⋯⋯。でもその流れでいけば常盤さんはどうなるの?彼女だって見えてっ──あ、そっか⋯⋯」
「そう、トッキーに両親は居ない。火事で焼け死んでる。だから、藍莉と同じで影響が無かったんだ」
重要なのは『両親』であり、『父親か母親』かのどちらか、ではない。
富宮奏海にとって、『親』とは『両親』であり、『父親』か『母親』のどちらかではない故にそのような条件が齎された事象。
死んでしまった両親の気持ちは対象外。
何故か?──それは富宮奏海の両親が亡くなっているからである。
「コンビニで富宮と会った時、車から降りてきた三人家族が居たんだ。あの時、富宮が叫んだんだけど、子供は気が付いていて、その両親はまるで何も聞こえないみたいに無反応だった。⋯⋯子供だから見えて、大人だから見えない。最初はそう感じてたけど、違ったんだな」
それは七月二十四日のコンビニで奏海と話している時にコンビニへ訪れた三人家族。
奏海が准の謝罪に対して胸ぐらを掴みにいった際、驚いた様子で肩を震わせた子供と、それに対して何をしてるのか?とばかりに怪訝な表情を隠さず、両親は一人息子の手を繋いで店内へ入って行った。
あの時、子供には奏海が見えていて、両親には見えていない。
だから、子供だけが驚き、両親は不審な顔をしていたという光景になってしまったのである。
「⋯⋯お前が見えず、ご両親が正しく見える条件は、『両親を好いているか』だ。舞喜と蒼太にも富宮が見えていた」
「⋯⋯蒼太」
藍莉は悲しそうに俯く。どんなに懸命に世話をしても、親代わりを果たそうと、親への情というのは一朝一夕には変わらない。
少なくても小学一年生の蒼太からすれば、姉への仕打ちと自身への仕打ちを行った父親もそれを見ているだけで、挙句、押し負ける形で加担してしまっていた母親も同罪なのだ。
たとえ、どんな言い訳が存在しようとも⋯⋯。
「蒼太に聞いたよ。両親は好きか?ってそしたら、お姉ちゃん以外家族じゃない、って」
「⋯⋯⋯そんな」
小さく呟いた藍莉の悔しそうな言葉を准は確かに聞いた。
奏海も同情的な視線で藍莉を見つめて、何か声を掛けようとするものの、その声は詰まってしまい、唇を引き結ぶに留まる。
そして、奏海の正面に立った准は静かに口にした。
「何があったか。聞かせてもらうぞ」
何があったか、どうして両親がこうなったか。
思い返す事は容易い。
何故ならば、それは富宮奏海が階段から転落するよりも前に起こった出来事なのだから⋯⋯。
「本当に突然だったの⋯⋯。私だって、こんな事になるなんて思ってなくて、私だって、私だって⋯⋯」
戸惑いに拍車が掛かり、しゃがみ込んで、頭を抱えて声を上擦らせていく。
困惑は波紋ように脳を駆け抜けて、何かを悟ったように頭を抱えていた手はフローリングへと落ちていき、顔を上げた。
「ううん、違う。きっと何処かでこの壊れた家族が何処かで死ねばいいって本気で願ってた。だから、こうなって、こんな事になっちゃって⋯⋯」
右を恨めしそうに見つめる奏海の視線には横たわった腐乱死体が二体。
じーと見つめて、奏海の呼吸音が鮮明に居間の外に佇む三人の耳へ聞こえてくる。
泣きそうなのか、怒りそうなのか、それは背中を見せている為、伝わらない。
しかし、背中が大きく動き、肺が大きく活動している故に、自然と身体の機微も大袈裟になり、呼吸が荒くなっているのだと准が気付いた時には溜め込んでいた何かは徐々に亀裂が入っていき、奏海は一言だけ呟いた。
「置いていかれちゃった」
藍莉のスマホのバイブレーションが鳴る音が自宅の空気を響かせて、それが合図と言うかのように立ち上がった奏海はゆっくりと腐乱死体の前へ歩き出す。
「これがね、お母さん。これがね、お父さん」
苦しそうな顔をさせながら、指を差していき、横たわった遺体を見つめる。
その表情には陰りがあると、誰もが理解出来た。
━ ━ ━
富宮奏海が産まれて物心が付いた頃、まだ親子の仲は良好であり、険悪な関係でなかった。
それがどう言った理由からか、富宮は分からないらしいが、それでも父親と母親と姉の三人と共に旅行に行く事もあり、その頃はまだ誰も想像なんてしていなかったのだろう。
けれど、富宮が十歳を迎える前には既に険悪なムードと呼べるものは家の中に漂い始め、中学生だった姉は父親を避け、母親に悪態をつくようになり、父親も母親もそれを受け入れるようになってしまった。
そして、富宮家に訃報が飛び込む。
姉の『富宮詩香』が行方不明となり、三日後の昼間際に発見されたという事件である。
富宮は思う。誰かに殺されたのではないか、と。
それは子供もながらの想像力と呼べるようなもので、憶測と妄想が多分に含まれた思考であったものの、父親と母親へそれを口添えした時、富宮は見てしまった。
自分の残された娘に対して向ける醜悪な視線を⋯⋯。
当時九歳の富宮は身を凍らされる程のものであり、朝食の際に発した台詞であった事から、それに機嫌を損ねたとも受け取る事の出来る内容ではあるが、富宮にとっては違った。
彼女は純粋に『死ぬかもしれない』──そう身体が警告を発して、それ以上も以降も、その話題に対して触れるのを避けるようになっていく。
だが、その頃から母親が宗教勧誘に嵌ってしまい、よく仏壇に手を合わせるようになっていく様子を目撃し始め、気色の悪さから一時期は母親と会話をする事もなく、自宅で居場所を徐々に失っていった。
決して家族も蔑ろにしている訳ではなく、あくまでも会話をしないだけ。
思春期の子供を持つ親ならば、経験のありそうな程度の事だと富宮は語るも、そこから顔色が変わり始める。
富宮が中学二年生の冬頃になると、父親も母親の誘いに乗る形で宗教活動に勤しむようになり、鞄の中には『魔除けの札』と名された奇妙な御札と『長寿生命の布』と謳い買わされた手拭いを常に身に付けるようになってから、家族内は一気に冷え切ってしまう。
始まりは自身の学校生活の様子を聞く程度には父親とは仲の良かった富宮だったが、中学三年生になり、受験生という立場になり始めると態度は大きく一変していく。
曰く、
「お姉ちゃんのように友達を多く作りなさい」
「もっと良い高校に行こうという意欲や向上心は無いのか?」
「お前の友達なんて、どうせ高校になったら忘れられているんだから、もっと大事な人でも見つけなさい」
との事。
元々、内向的な性格である彼女も当初は謝罪と同時にそれなりに考えるように心掛けていたが、父親からの忠告や提案は日に日に間隔が狭まっていき、気が付けば毎日のように言われ始めると、富宮も耐え切れず激昂。
内容は、気が気ではなく大して覚えていないらしいが、
「お姉ちゃんと比べるな」
「私はあんた達の玩具じゃない」
等の言葉を吐いたのは覚えているようで、嫌気が差して一度家出もしてしまったらしい。
その家出先は当時の中学の友人の自宅を転々としている生活であり、その間、一度として警察に届けもなければ連絡の類いが来る事は無かったと言う。
それから冬休みを過ぎ出す頃には富宮と両親の関係は確実に冷え切ってしまい、両親は食事を共にし、毎日遺影に手を合わせ、仕事から帰って来た父親を労うように夜を過ごす日々が過ぎていく。
だが、富宮の居場所は気付けばなかった。
富宮家の自宅は部屋の数は五つ存在しており、その内の一つが居間、その内の一つがリビングとダイニング、キッチンとが合併したフロア、一つが父親と母親の寝室、そして最後が物置部屋である。
富宮の部屋は家出後すぐに、宗教活動の一環により購入したガラクタにより埋め尽くされてしまっており、自分のプライベートスペースは完全に消失してしまった。
それでも富宮はまだ、自分が直せれば何とかなる、また家族で仲良くなれる、そう本気で信じていたし、両親もそうなのだと祈っていた。
しかし、そうはならなかったから、『現象』は起きてしまったのだと言う事は言うまでもない筈。
富宮が高校一年生になると、両親はガラクタを購入する事こそ無くなっていたが、それでも日課としている遺影に手を合わせる事と全く知らない他者の葬式に顔を出して宗教の勧誘をするという事は事欠かすような真似はせず、積極的に他者を巻き込んでいく方針で宗教への貢献を続けていた。
抗議の電話も鳴り、それを取る母親は上手くいかないと当たるようになり、父親も帰宅後にそれを聞くと母親へ暴力行為を行うようになっていき、家庭内の冷え切った環境は遂にヒビが入り始める。
そして、今年の夏休みに入って一週間経った日、七月二十三日に転機が訪れた。
何時ものように母親が姉の遺影が飾られた仏壇の前で手を合わせて拝んでいる時である。
その頃になると、富宮自身から両親へ会話を行うという事は完全に無くなっていて、両親からも言葉を発する機会というのは極力無かった⋯⋯筈だった。
「奏海、明日ね、お父さんとお母さんとで長い旅行に行こうと思うんだけど、一緒に行く?」
それは千載一遇のチャンスであった事は言うまでもなかった。
仲が冷え切った家族仲を復元する機会というのが見い出せずにいた富宮にとっての最大の転換点であり、変われる機会に恵まれたのである。
当然、返事は早かった。
「う、うん!行く!」
富宮は行き先が何処か、聞くような事はしなかった。
仮に聞いてしまえば、それが不満なのか、と母親を不機嫌にさせてしまう要因になると考え、ゆっくり、焦らず、関係修復へ努めようと心掛けていた。
その日の夕食は豪勢で贅沢な食卓であると語る。
普段食えない料理が多く並び、母親が手作りとして作ったサラダやグラタン、更に食後にはデザートとしてプリンまで用意されており、富宮は満足気に食事を済ませていく。
金持ちだからと言って贅沢な高級品ばかり食っている訳では決してない。
収入が多い分、支出が多い中、上手くやり繰りする為、質素な食事だって当然あり、お祝い事や大事な行事の際に奮発するという庶民的な思考は富裕層もそうではない層も変わらないのだ。
だからこそ、富宮達家族三人はそのダイニングテーブルに並んだ料理を平らげる。
会話も弾んだらしく、話す内容は全てが肯定的であり、喋り掛ければ相槌や返事を返してくれる事に富宮は歓喜し、心踊らせた。
食後、富宮は父親に呼び出された。
初めは何かしらの説教かとも考えたらしいが、それにしては目線や雰囲気と呼べるものは朗らかで柔和な印象があり、頷き居間へと入室する。
入ってすぐに父親から話しをされたのではなく、母親を待った上で話をすると言われ、言葉通り待っていると母親はキッチンに溜まった洗い物を全て片してから居間へと入室した。
そう、遂に舞台は整ってしまったのだ。
「奏海、お姉ちゃんに会いたくないか?」
「⋯⋯⋯⋯え?」
開口一番はそれである。
旅行の話題でもなければ、高校の話でもなく、亡くなってしまった姉の事であった事に富宮は当然、唖然とした。
「お母さん達ね、これからお姉ちゃんに会いにいくの。言ったでしょ?奏海、長い旅行に行くって」
「お母さん、何言ってるの?旅行って⋯⋯もっと普通に」
「あなたは会いたくないの?お姉ちゃんに」
「会えるなら会いたいけど⋯⋯でも」
「じゃあ決まりだな」
そうして襖から取り出したのは七輪。
呆然とそれを取り出す様子を見ていた富宮だが、浮かれていて気付いていなかった。
その居間の窓にはガムテープがビッチリと貼られ、空気を逃がさないようにと両親が施していた事を⋯⋯。
「冗談だよね?なんでそうなるの?」
「やっぱり、お姉ちゃんに会いたいじゃない。あの時、あんな事しなければ、ね。生きてたかもしれないのに⋯⋯」
母親の瞳が虚ろだった事、それが今の富宮にも鮮明に思い出せる光景である。
父親は緩んだ口角を上げたまま、準備を進め、そして母親に手渡した。
睡眠薬を──。
「駄目だって、ね!?止めよ?こんなのおかしいって!!お父さん!お母さん!」
母親に手渡した父親の腕を掴み、制止するように声を掛けるも、次に飛び込んで来たのは拳だった。
顔を手加減無しに殴られた富宮は壁に背を打ち付けられてしまい、鼻から血を垂らし、目を疑う。
父親が初めて自身に手を上げた事、そして、そんな光景をさも当然のように見守るだけの母親に富宮は困惑の一途を辿った。
「⋯⋯⋯⋯お前はそうやって文句ばっかり。お姉ちゃんと違って、頭も良くない、友達付き合いも悪い、良い所が一つでもあったか?いい加減に親の言う事の一つぐらい、マトモに聞いたらどうなんだ?」
パシャマに血が落ちる。
染みが作られて、唇から流れた血の味が目の前で起きている光景が現実なのだと理解させていく。
「ご、ごめんなさい⋯⋯」
「奏海。いい子にしていたら、お姉ちゃんに会えるのよ?あなただって殺されたお姉ちゃんに会って元気な姿を見せたいでしょ?」
「⋯⋯⋯⋯げ、元気、な?だって、それ、それって⋯⋯、お、お、おお、お母さん?本当にどうしたの?」
ゆっくりと母親の腕が伸びて、頬に添えられる。
温もりのあるその体温が心地良くて、それが消失する事を恐れた富宮は気付けば母親の肩に手を置き、声を荒らげていた。
「だ、だだ、駄目だよ!死んじゃうんだよ?お願いだから、生きてよ!お母さんもお父さんも死なないでよ!」
「⋯⋯⋯奏海」
「お願い。何でもするから。ちゃんとお父さんとお母さんの言う通りにするから!頑張るから!だから、お願いします。お願いします!お願いしますッ!」
両親に対して、初めて土下座をした。
それほどまでに生きて欲しくて、生への執着を棄てて欲しくなかった富宮からの純粋な願いであり、祈りであった。
しかし──。
「やっぱり駄目な子ね。あなたは⋯⋯」
「⋯⋯え?」
「もういいわ。あなたみたいな子、産まなきゃ良かった」
目の前で、そう言われた富宮の気持ちを僕は測れない。
知っているのは恐らく、舞喜辺りだろう。
僕は妹ではなくて、富宮でもない。
だが、目の前で語りながら泣いている彼女の気持ちは察して余りあるとも感じる。
彼女はその母親の失望に満ちた表情と父親の嘲けるような表情に我慢がならなかった。
そして、憤慨し僕もよく知る言葉を口にしてしまう。
「ッッ〜〜!もういい、死ね!勝手に死ね!知らないから!!」
こうして自宅を飛び出した富宮はその日の夜を外で過ごした。
手頃にあるコンビニで時間を潰し、河川敷をぶらぶらとして、夏季という事もあり朝日が早く昇るのを見計らって、帰宅。
異臭がするのを感じて、目を見開いた。
(⋯⋯⋯⋯嘘よね?)
それは普段、家では絶対にした事のない強烈なものであり、鼻が曲がり、不快感が募る程の激臭。
何処が発生源なのか、富宮はすぐに理解して、徐ろにその襖を開けた。
目に止まったのは両親の死体と、藻掻き苦しんでしまった果てに仏壇を蹴飛ばして、姉の写った遺影にはヒビが入ってしまって畳に転がる物一つ。
口を開けて、言葉よりも困惑や後悔が溢れてきた富宮は頭を抱える。
こうして、富宮の罪は始まる。
そして、これから富宮奏海は罪を語る。
━ ━ ━
全てを語った富宮奏海はドロッとした手の形を二本、握り締めながら泣いていた。
それを黙々と見つめて、語り終えるまでの間、誰も言葉を発する者はおらず、藍莉は顰め面を浮かべ、沙耶は淡々と聞いており、准は悲しそうに座り込んでいた奏海を見つめている。
「私が悪いの⋯⋯。死ねなんて言ったから、諦めたから、捨てたから⋯⋯。私のせいで⋯⋯」
「奏海のせいじゃないわよ!誰だってそう思う!」
奏海の会話の内容を居間の入口前から聞いていた沙耶から伝言形式のように聞いた藍莉はそう口にする。
けれど、富宮はそんな藍莉の言葉に対して、眉間に皺を寄せて睨み付けた。
「⋯⋯藍莉には分からないわよ。私の声も聞こえていないのにっ!勝手な事言わないで!」
「⋯⋯なんて言ってるんですか?」
「勝手な事を言うなって」
「⋯⋯⋯⋯勝手な、事?」
立ち上がった藍莉は居間に入り、准の隣まで移動すると泣きそうになりながら、それを耐えるように引き結んだ唇を開いた。
「勝手なのは、貴女のご両親よ!貴女が悪くないって事は私達がよく知ってる!それを何でも自分のせいにして!何考えてるの?!」
「それが分からないなら黙っててって言ってんの!」
「なら、僕から良いか?」
次に口を開いたのは准だった。
妙に響き渡る居間に小さな警鐘のように耳へと伝わるその言葉は自然と奏海の心臓を高鳴らせていく。
二人の口論のような会話を決して止める為に口を挟んだ訳ではなく、准も言わなければならないと感じたからこそ口を開き、奏海を見つめる。
「舞喜も似たような事を母さんによく言われてたんだ。舞喜の場合は僕って比較対象が居たから、余計に酷かったと思うんだ」
「⋯⋯⋯⋯何が言いたいの?」
「大人は、いや親は子供に期待するのが当たり前なんだよ。でも、親って言っても一杯居るだろ?色んな人が居る。期待の仕方も接し方も違う。僕はお前の話を聞いて、お前の方が余っ程大人に感じたよ」
富宮にとって、意外な言葉であったのは想像に固くない。
藍莉は頷き、沙耶は微笑んでみせる。
否定や懺悔を聞き入れるものとばかり考えていた彼女にとっては予想外の反応であり、准の言葉に思わず聞き入っていく。
「けどな富宮。大人でも間違えるんだよ。そんで、その間違いに向き合えるのが本当の大人だ。けど、これは間違いじゃない。お前は両親を捨てた事を後悔しているんだろうけど、僕はそれを肯定する」
「⋯⋯何言ってるの?」
震える指先、腐乱死体の手を握った手は酷く汚れて、そのまま畳に着けられていく。
躙り寄るように准へ迫り、沙耶が肩に掛けていた黒い筒から刀を取り出し、構えるものの、その動作はすぐ取り下げられた。
それは富宮の表情が彼女をそうさせた。
苦しそうに、そして悔しそうにしながら汚れた手で准の肩を掴む。
「なんで肯定するの?私はお姉ちゃんと比べて⋯⋯だから──」
「だから駄目って言うなら、親の見る目が無かったんだろ」
「⋯⋯⋯⋯そんな事」
唇を噛み、否定しようとする。
けれど言葉は出てこないどころか、俯いて黙り込んでしまう。
「僕は腹を割って話そうって言ったぞ?」
「⋯⋯」
汚れた手を掴んだ准の手もまた汚れた。
気持ちの悪い粘液にも近い何かが掌の感覚を支配していくものの、それに対して嫌な顔一つせず手をギュッと握る。
「お前が望んでる事はなんだ?慰められたいだけか?それとも肯定的な奴に甘える事か?⋯⋯それとも──」
次に出る言葉を最も予期していたのは誰か⋯⋯富宮であった。
彼女が最も望む事。
【審判者】として暴れ回った彼女の二面性、鏡合わせの存在であり、気質、性質。
それらが最も欲していた事を富宮自身が一番理解している。
「裁かれたいのか?」
何処かで望んでしまっていたからこそ、それが実現してしまった故に起きた懺悔の顕れ。
たった一言の気持ちの発露から生まれた結果なのだと、奏海の心を蝕んでいく。
「⋯⋯だって、だって、本当に⋯⋯死ぬなんて思わなかったんだもん。いつもあんたに言った感じで、口にしただけのつもりが⋯⋯なんで、なんでこんな事に⋯⋯」
大抵は冗談で言っている言葉なのだと、受け取れる。
准もそれは同じでクラスメイトも「またか」とボソッと言う程度の事。
しかし、今回は違う。
状況が、タイミングが限りなく悪かった。
それは准にも理解出来てしまえて、堪らず拳を握り、顔は俯く。
「そうだよな。僕も、それを当たり前だって思って言わせ続けてた。だから、お前にも酷い仕打ちを受ける事になっちまった。すまなかった⋯⋯」
もしも、そんなのは現実の前には非常に流れていく。
仮に注意を促していれば、少しは奏海の気持ちも変わったかどうかなんてものは、ここに居る誰にも分からない。
けれど、そんなもしもが無い事を切に願いながら、少年は頭を下げた。
藍莉は寂しげな視線を准へと向けて寄り添おうとするも、それを沙耶が引き止める。
彼女は理解しているのだ。
今、この二人の間には誰も立ち入れないという事を。
「────っ。謝んないで!お願いだから⋯⋯。あんたは何時もそう。本当に、本当に、本当に!優しくすんなッ!私、どんどん惨めになってく。これ以上、酷い人間にすんな⋯⋯」
彼女は少年が無駄な所で優しいのを八年も前から知っている。
だからこそ、多少の嫌味や暴言を勝手に許容して発していたのだ。
甘えが生んだ慢心。分かち合う為の方法。
それらは全て裏目に出て、結局、今回の事が起こるまで何一つ変わる事の出来なかった彼女は八年前のまま、身体だけが大きくなっている。
弱さを見せるなんて事は友人相手には出来ない奏海の精一杯の気持ちの発露。
情けなさと劣等感に苛まれる彼女は今も血に濡れている。
錆付いた心は簡単には元に戻る事はないと、少年は悟っていた。
「なぁ、富宮。もういっその事、一緒に酷い奴になろう。これ以上下が無いから、上がるだけだ。気は楽だぞ?」
同情にも似たその言葉に思わずカッとなり、鋭い視線で准を睨み付ける。
「っ!だからッ!──あ、あんた⋯⋯泣いてんの?」
張り裂けそうな程の声を全身を使い叫ぼうとするも、言葉は途端にピタリと止み、驚愕の表情で正面を見た。
そんな筈がないとも、勘違いとも思い込む事なんて、出来なかった。
「友達だからな。泣くだろ?」
熱くなる身体が冷めてい感覚に襲われた奏海。
しかし、その直後、目頭が途端に熱くなっていき、手を添えていく。
事実をありのまま述べた彼女にとっては贅沢すぎる反応であり、傲慢にも似た感情が湧き上がる。
それを抑えていくように、目頭に添えて触れていた指にも力が籠められていく。
「⋯⋯信じらんない。あんた、ずっと忘れてた癖に⋯⋯。なのに、なんで?なんで!」
それは罰と報いを見定めるような言葉。
決して慰めなんてものは与えられる事もなく、長く苛まれた分以上の屈辱を受けても同情はされる事はないだろう。
それを准は確かに理解していて、どの目線と立場で今更になって物を言っているんだと、そう口にされても致し方ないのかもしれない。
だが、目の前で泣いている友人を苛む、少年以上に傲慢な思考と感情を取り払うべく、祓い除けるべく、涙ぐむ視線は真っ直ぐに向けた。
「そうだな。でも、僕達はまた友達になれた。なら、他の奴とはもっと上手くいけるんじゃないか?それを信じたいんだ」
ゆっくりと奏海の手に触れて、包み込んでいく。
流れる涙は後悔と懺悔によって流れているのではないと、奏海は正面から見て気付く事が出来て、唇を噛み締める。
「身勝手なのは承知で、きっと僕の言葉なんてなくても、勝手にそうなるんだろうけど⋯⋯。それでも聞いて欲しい」
先を促すように視線が訴え掛ける。
確かに受け取った視線と意図は少年の言葉へと変換された。
「お前が悲しいと、僕も悲しいよ」
足元へ視線が流れ、握られた手元を見て、真正面に座る少年の顔を窺う。
ほんの少しだけ口角が上がってこそいるが、それが無理をして作った微笑みであると奏海の直感は脳へ伝わり、握っている手に余った手で重ねていく。
親友では決して為せない。
同じ高校の知り合って間もない先輩ではいけない。
かつて友人であり、一度解消され、再度友人になった──初めての友人でなければ達成出来ない。
彼女が『見える』という事は、彼女の罪を理解出来るという証明に他ならないのだから⋯⋯。
語る時が来た。罪を語り、発露し、懺悔し、ありのままである為に。
「私⋯⋯私ね、きーくん。もっとお父さんに甘えたかった。お母さんを好きでいたかった。お姉ちゃんと遊びたかったし、四人で家族でいたかった」
もしもの世界。仮にそれがあるのならば、きっとそれは叶ったかもしれない未来。
『富宮詩香』を殺した犯人に辿り着く事は彼女には出来なくても、それは構わなかった。
彼女が本当に求めていたのは、本音を語れる土俵を作る事のみ。
長く捻れて、遠回りに回りくどいまであるその行動を少年は肯定する。
たとえ誰にも理解されなくても、『富宮奏海』という一個人を今日、正しく理解する為に目の前で泣き腫らしている彼女の為に耳を傾けていく。
「なんで、死んじゃったんだろ。なんで生きてくれなかったんだろ。私がいるのに、私、ちゃんと生きてるのに⋯⋯」
捻り出したようにか細い言葉を切っ掛けに吹っ切れていく。
「お父さんもお母さんも死んじゃったぁぁぁぁぁ。帰ってきて欲しいよ!わたし、独りぼっちになっちゃったぁぁぁぁ」
胸元にぽすりと置かれた頭をそっと撫でる。
真に心の叫びにも捉えられるその涙声から発する言葉に、准は決して口を挟む事はしない。
野暮な事はせず、ひたすら聞き入るのみ。
「どうしたら、良かったんだろぉ。私だって頑張って耐えたんだよ?部屋もなくなっちゃっても、文句も言わなかったんだよ!?なのに、なんで──」
溢れていく感情を止める事は許されない。
苛立ちは不満、窮屈にも感じたであろう家族と過ごした時間を思い返していく。
文句も多く、嫌いな単語が脳内に並び立つ中、それでも彼女は口にするのだ。
「私のせいで死んじゃった〜〜ッ!お父さんも嫌い、お母さんも大ッ嫌い!なのに、居て欲しかった。生きてて欲しかったぁぁぁぁぁ」
空間が大きく震える程に泣き叫んだ声に沙耶は黙って見届けて、藍莉はそんな彼女と准の様子から、口を固く閉ざしたまま瞼を閉じて、たった一言でも耳に伝われ、と望むように耳を澄ましていく。
「うぅぅぅ。⋯⋯⋯⋯お姉ちゃん。お姉ちゃん。私、帰って来てよぉぉぉ。なんで死んじゃったのー!なんで傍に居てくれなかったのーッ?!」
這いつくばりながら、畳の上に転がる遺影。
ガラスにヒビが入ってしまって、笑顔だった筈の『富宮詩香』を准は歪んで写っているようにも見えた。
富宮は今も准の胸元で泣き崩れている。
必死に懺悔と後悔、過ちを口にしている真っ最中の為、それを邪魔する訳にはいかないとゆっくりと手を伸ばしてみるも、ヒビの入った遺影には届かず。
後、数歩分先にあるそれは倒れ込んで寝そべれば届くであろうが、今だけはそうはいかない。
目にも自然と力が入り、徐々に傾きそうになる身体。
すると、遺影を誰かが手に取り、准の手元へとそっと手渡しされた。
思わずその手渡した人物を見ると──。
「奏海の事、お願いね」
初めは藍莉だと思っていた。
次に沙耶という可能性もあったろう。
だが、どちらでもなかった。
青いメッシュ、青のパーカーが腰に巻かれた一人の女性が准と奏海とは少し離れた位置で僅かに微笑んでみせる。
唖然としてしまい、目を見開いた准は口を閉ざす事を止めた。
折角のお願い事であり、頼みでもある。
ここで無下にしてしまうなんて事は准には出来る訳がないのだ。
「富宮、ありがとな。友達になってくれて」
「きーくん?」
「あの日、富宮とお姉さんに声を掛けられた事、本当に嬉しかった。嘘じゃない。今更だけど、ありがとうな」
嘘偽りのない真の言葉がどれほど伝わっているのか、不安もあり、心臓が嫌に早鐘を打っていた。
だが、後悔はない。間違っているとも思えなかった。
伝えなければ、伝わらない。
意思疎通が目線だけで完璧な程の関係性でもない准と奏海には最も適したコミュニケーションであり、最も合理的な判断。
右手に掴んだ遺影を奏海へ手渡して、視線で促す。
泣き腫らしている目元からは未だ涙は収まらず、顔は赤くなり、拭っても拭っても零れ落ちて行く涙を代わりに指で拭い、准は頷いた。
それに呼応するようにぎこちなく頷いて見せた奏海は両手で額縁を外していき、中身をゆっくりと、丁寧に摘んで引っ張り出していく。
写真を見た奏海は目元がふるえて、口元を抑えていたが、やがて言葉が漏れ出す。
「私、きーくんと仲直り出来たんだよ。だからお姉ちゃん、もう心配しないで」
子供のように、何時まで経っても枯れる事がない涙は、まるでそれまで溜め込んでいたかの如く、この日の為に枯れさせようとするかのようだった。
「お父さん、お母さん。産んでくれて、ありがとうぉ。二人みたいに、なら、な、ならないからぁぁ。ちゃんと死ぬまで見ててね。私、頑張るから⋯⋯」
そして、居間は一人の女の子の哀哭によって場を支配した。
写真をギュッと身体で抱き留めるようにして悲しみに暮れた彼女は自然と前に居る准の肩に顎を乗せて、更に泣き叫ぶ。
一人では決して言えなかった言葉。
しっかりと抱き締め、体温を感じ、身に余る程の熱量は毛嫌いし、自身の予想とは違った死を迎えた家族へ向けた子供ながらの鎮魂歌。
罪を受け入れた⋯⋯自分の弱さと言いたかった本音とありのままの言葉を口にした彼女はほんの一歩、前に進んだのだと、准は信じて右へと視線を移した。
すると、朗らかで優しい笑みを浮かべた女性が消える瞬間であり、奏海の方へと視線を向けて微笑む。
「!」
瞬間、准の視界は黄金の光に覆われる。
抱き締めている奏海の背中から光が溢れ出し、それに包まれたからだ。
准は小さく声を上げて驚き、後方で見ていた沙耶も急ぎ抜刀し前へ脚を動かそうとするものの、准が手を横に伸ばして制止する。
焼けるような熱さが背中を駆け巡り、自然と奏海は准を抱き締めるようにして痛みに耐える。
准もまた、抱き締められていく感覚によって蘇る記憶に蓋をするように瞼を閉じて、奏海の後頭部へと手を添えていく。
藍莉は察して少し不服そうにして、沙耶は瞼を静かに閉じる。
光は鮮明と化していき、形成されていた二つの葉は徐々に消えていく。
一つは『両親と姉』の葉であり、もう一つは『自分自身』の葉。
『両親』と『姉』へ向けた本音は一つの葉を浮上させていき、『奏海自身』が『家族の死を受け入れた』事によりもう一枚。
揺蕩うように揺らめくその二枚の光は四散していく。
「⋯⋯⋯⋯富宮、大丈夫か?」
一枚だけが抜け落ちたのとは違い、今回は二枚同時。
これは想定外であり、不安そうな顔付きで富宮の肩を軽く叩き、確認を取る。
「大丈夫じゃないから、もうちょっとこのまま」
「え?」
「友達なんでしょ?だったら、もうちょっとこのまま」
甘えたがる子供のように強情となり、准を抱き締める力が籠っていく。
(⋯⋯⋯⋯友達ってここまで距離近くはないだろ)
呆然としてしまう准は、仕方ない、とそう自身を納得させ、奏海は最初で最近出来たばかりの友人の体温を確かに感じて、思わず頬が綻んでいく。
「ありがとう。きーくん、私⋯⋯頑張るから」
━ ━ ━
「お父さんとお母さん⋯⋯どうしよう。警察?救急車?」
姉の写真を肌身離さず持っている奏海が寂しげな表情をしながら横たわる二人を見つめる。
未だに目元は腫れていて、少し鼻声気味なのだが、状況が状況なだけに、誰もそれに対して言及はしない。
「呼ぶなら警察だな。一応自殺って判定を下すのも警察からだし。でも、武島が来てからだ」
「なら、私が呼んでおこうか?大した騒ぎにならずに処理出来るよ?」
「ありがとうございます、笠辺先輩」
頭をぺこりと下げて、会釈をする奏海。
そんな迷いが殆ど晴れた彼女の為に、スマホを手に取り、早速自宅に連絡し始める。
警察へ直接報告ではなく、自宅を経由する。
これ一つで世間への秘匿性が格段に跳ね上がるという事実に准は怪訝な視線を送っていた。
すると、衣服を背中越しに摘ままれる感覚がその視線を振り向かせる。
「ちょっと准、こっちに来て」
不機嫌そうに准の衣服を摘みから掴みへと持ち方を変えた。
そして、掴んだ藍莉は急かした様子で居間から出ようとして、准は突然の事に抵抗しようと踏ん張る事を試みるも居間まで即座に出されて廊下の壁に押し出されてしまう。
「え?!なにさ、急に」
連れ出された准は目の前で強張った表情をする藍莉に思わず身動いでしまう。
それに条件反射したように、藍莉は両腕を斜め前に伸ばして身を預けさせようとする。
「ん」
気恥ずかしそうな目線が准へと向かい、耐えれなくなったのか瞼を強く閉じて、准へ促す。
「は?」
しかし、藍莉の動向の意図が全く理解出来ず、思わず首を傾げてしまう。
気が急いていく藍莉。不可解そうにする准。
だが、准も藍莉のしようとしている事は理解している。
抱き締めろ馬鹿者!と意訳してしまうとそうなるのだが、トラウマ持ちの准にはそんなアメリカンな映画のように抱き着く事は容易ではない。
「ん!」
しかし、藍莉も藍莉で思う所はある。
恋人である筈なのに、抱き締められた事はごく僅か。
早朝頃にも抱き締める事はなく、それだと言うのに友人には抱き締められた事は視覚化出来ていない藍莉にも伝わっており、妬いた気持ちを抑えられずにいた。
自身のトラウマと向き合うか、突き放すか、二択の選択肢が迫る中、一向に諦める素振りがない藍莉に屈したように、両腕を広げて藍莉を迎え入れようとする。
「桐江、運んで来たぞ。途中で起きてきやがって運ぶのが遅れ⋯⋯悪い、邪魔だったな」
颯悟の襟元を乱雑に掴んで、玄関から堂々と上がり込んで来た優は視線を前に向けて、二人から醸し出される雰囲気を察してしまう。
「田科、ち、ちち、違う!」
「なんだよここ?!なんで、桐江が──あ、藍莉?」
准の声に反応するように引き摺られた颯悟は振り返ると、殺した筈の藍莉が立っていた。
抱き締めて、首を絞め、最後には永遠を──と欲望丸出しの感情を抑える素振りもなく絞殺した訳だが、殺されたのが【鳥獣戯画】で使役された『人間』であると知らない颯悟には理解不能の事態と光景が広がっていた。
「どうなってるんだ!?俺は確かに殺して⋯⋯」
思わず自身の両手を凝視する颯悟に構わず、准は近付き、同じ目線の高さにまでしゃがみ込む。
「武島、お前に来客だ。たっぷり話し合ってくれ」
「は?お前何言ってんの?いいから離せよ!離せってんだよ!」
未だ優の力強い捕縛から抜け出せない颯悟の苛つき具合いには目が余り、壁を蹴り、床を踏み鳴らし、終いには優と准に噛み付こうとする始末。
そんな状態の彼を特に何も知らない人物が見ていれば、当然、辟易とした様子となっていき、准へと向けて遂に聞いてしまう。
「桐江、なんでもいいがコイツ本当にお前の友人なのか?」
「はぁ?んな訳ないだろ?」
見上げるようにして睨む颯悟に対して優も物言いたげに睨み返す。
(誰もお前には聞いてねぇんだよ)
「な、なんだよ⋯⋯」
「まぁ、田科は怖い顔はしてるからな。ビビるのは無理ねぇよ」
仏頂面に修羅へ落ちた般若も恵比寿も逃げ出してしまいそうな、その顔付きには一度は誰もが慄く。
それは颯悟も例外ではない。
「ビビ、ビビってねぇよ!」
目が細く三白眼なのが怖さを引き上げしている要素なのだが、優本人は鏡で自身を見ようとも、他人と比べようとも目元まで意識しない為、何がそれほど怖がられているのか、気付いていないというオチ。
「電波くんかお前は⋯⋯」
「なんだそれ?」
自分の知らない名前が耳に飛び込み、優は思わず聞き返してしまうも、何故か准は困った表情を浮かべてしまう。
それもその筈──。
「いやごめん、適当に言った」
「ローカル番組に出てきそうなキャラクターだったな」
そんな男同士の会話というものを藍莉は久方ぶりに見た感じがして思わず聞き入ってしまう。
そもそも准のマトモな話相手は嶺二のみという可哀想な具合いなのだが、別段、准は誰とも話せない訳ではない。
ただ会話が続かないのだ。
これはある意味では至極真っ当でありながらも致命的であり、他人とディスカッションしろ、と授業で銘打ちされて行うと、三分もしない間に会話が途切れてしまう。
本人もそれを自覚していて、コミュ力と呼ばれるものを向上させようとする気は起きず、今日までなぁなぁで生きている訳だが、藍莉はそんな准の様子をなんやかんやで見てきている。
だからこそ、楽しそうに会話をしているのに驚いてしまっていた。
(睦生くんの時とはまた違う表情、するんだ)
ある種の発見であり、それと同時に気付く。
自分だけが今この場に参加出来ていないという事に⋯⋯。
すると、廊下でくっちゃべって何時までも居間へやって来ない准達を不審に思い、ひょこっと顔を出して、その後廊下の方へと歩く奏海を見て、颯悟は戦慄する。
「⋯⋯っ!ちょっと待て!なんで奏海が居るんだ!?」
「颯悟⋯⋯」
「お前、入院したってのは嘘だったのか?!いや、運ばれて⋯⋯どうなってんだ?」
それは摩訶不思議な体験にも等しい。
颯悟自身【心火】に心と身体が滾るような熱さを発生させられている身ではあるのだが、それに気付く事は基本ない。
本人では知覚出来ないからだ。
准のように予め知っている場合、優のように邪気と形容しその存在が視認出来る場合にのみ、その正体が発覚する。
慌てふためく颯悟をこれ以上置いておく事を良しとしない優は颯悟の首根っこを掴む。
「連れてって良いか?」
「あぁ、良いぞ」
「離せ!はなぁぁせ!」
悪戯をした子供を何処かへ隔離しようとする親とそれに抵抗する子供のように暴れる颯悟の荒々しい叫びは家中に響き渡る。
そんな彼が居間へと入るまでの間、その光景をただ見つめていた藍莉は通り過ぎようとする准の腕を掴む。
「藍莉、どうした?」
思わず掴んでしまった。
決して意識的にした行為でもなく、心の騒めきに従ってしまったに過ぎない。
ここで、なんでもない、は通用しない。
言い訳は即座に思い付き、それを口にする。
「⋯⋯いえ、ただ、上手くやれるか不安で」
「藍莉。お前だって伝えたい事があるんだろ?富宮もそれは同じだ」
最後の【罪咎の対象者】は『藍莉と颯悟』の二人。
藍莉が准をよく見てくれているように、准も藍莉達の様子をよく見ている。
颯悟が藍莉を好意的に見ている事も、奏海が颯悟に惚れている事も、藍莉が颯悟に対して友人以上の何かを求めていない事も、分かりきっている事なのだ。
それに対して痰を発した者が居たと言うだけであり、なぁなぁにして、時間の流れるままに勝手に関係性が固定する事を嫌う者が居ただけの話。
熱に浮かされて、焦げていくのを止める事もせず、業火の如き炎に炙られるのを良しとする男が起こそうとした凶行は女性の夢のような時間に終わりを迎えさせた。
恋火に滾り尽くされた男の気持ちに振り向くフリのように博愛を押し通そうとした報いが、彼女の身に降り注いだという結末を准は知っている。
「それはそうかもしれないけど⋯⋯。私、あの子の声、聞こえないのよ?」
「でも、藍莉が話したら、富宮は聞こえる。伝えないより伝えた方が良いって事だ」
そして、准は知っている。
三人、共に仲が良く、昼食も一緒にし、帰りも一緒の時が多いこの三人は本心でありのままの気持ちを語った事がないという事も准は気付いていた。
何時までも時間の流れで自然に出来上がった関係に甘んじて、ぬるま湯に浸かり続けた三人は、いい加減に上がらなければならない。
浴室を出れば熱気が漂う暑い空間なのか、凍えるような冷たい空間なのか、それはその時にならなければ知り得ない事ではある。
「そうだけど、上手く伝えられるか心配なのよ。もし失敗したら、あの子の中にある『現象』が起きて来て、私達を殺すのよ?」
口にしてもいないというのに、気付いてくれるなんて特別な関係性は三人には無かった。
諦める程に熱量は容易くなく、信じる程の勇気は発生せず、省みる心は誰かが傷付いてからであり、結果として何もかもが遅かった事件。
その終止符を打つのは准ではない。
彼女達三人だ。
「なら、その時は僕が守ってやる」
「あのね!今惚気けている場合じゃないのよ?真面目に聞いて!」
「真面目だよ。真面目に守ってやるって言ってんだ」
准はそんな三人を確かに見てきている。
最後列の席、仲の良い人物は前にいる為、暇潰しに眺める教室。
そこには何時も仲睦まじい彼等が笑いながら、何かしらの話題で盛り上がる光景。
あれを准は守りたいのだ。
「え?」
「そんで僕はあっという間に死ぬ」
「あのねぇ」
呆れて物も言えない様子の藍莉にそっと笑い掛ける准は藍莉の優しく手を握る。
「だから、藍莉⋯⋯僕を助けてくれ」
「貴方だけでも逃げていいのよ?」
「良いわけないだろ?僕は嫌だぞ?また死体になったお前を抱き締めるの」
「私も貴方が死ぬなんて嫌よ」
力強く握る藍莉の手には震えがある。
決して今回の事件で准の遺体を見た経験は無くても、交通事故によりその直前までの状態になった姿を藍莉を見ている。
だからこそ想起させやすく、震え出す。
「なら、やる事は一つだな」
「⋯⋯うん」
繋いだ手を離さないようにと握り締めたその手の温かさは不覚にも准にとっては心地良く、離すのを拒む気持ちに襲われる。
一秒でも長く、そう思う気持ちは囃し立てていき、思わず急停止。
引っ張られるような感覚に藍莉は振り返り准を見つめた。!
「藍莉」
「なによ?」
「夏休み中にどっか行こう。海でも山でも観光地でも、何処でもいい」
「そっか、颯悟達と行く予定消えたものね」
「⋯⋯じゃなくて二人でだよ」
「そうね、行こっか。何処へでも」
「勝手に決めるなよ?候補選びから楽しみたいからさ」
「えぇ、分かったわよ」
しょうがないな、とばかりに苦笑する藍莉に釣られて笑みを零す准。
そして、居間の前に立ち、既に揃っている話し合いのメンバーとそれを見守る者達。
遺体もそのまま、汚れもあり、匂いもまだ残っている。
けれど、ここでなければならない。
ここが全ての発信源。始まりの場所であり、事件の発端。
階段からの転落事故は引き金であり、弾丸そのものは此処。
大きく深呼吸をする藍莉に見届けた准はゆっくりと一歩前へ行く。
「じゃあ、やるか。最後の話し合いを」
罪を語る時──それは誰にでも必要で当たり前の行動。
その行動を蔑ろにしてきたツケを払う時がやってきた。
次回、富宮奏海は罪を語る──終。




