プレリュード
短めだよ。
長いのか短いのか絶妙な時間のみ、時間逆行を体験した僕は地獄へ帰ってきた。
見上げた天井は見慣れたもので、レースカーテンから差し込まれる夕日は温かくて、視界をクリーンにさせていく。
そんな僕が最初が最初にした事は時間の確認──ではない。
「准、ちょっと!流石に恥ずかしいのよ?!」
藍莉のお腹へ顔を埋める事であった。
既に過ぎ去った記憶が蘇り始めている藍莉は口でそういいながらも頭に手を添えて撫でてくる。
しかし、トッキーが引いてしまっている事、笠辺先輩が羨ましそうに眺めている事、富宮が俯いて申し訳なさそうにしている事に変わりはない。
「⋯⋯生きてる。ちゃんと、いる」
思わず零れてしまった言葉。しかし、実感したかった。
しっかり皆が生きている事、ちゃんと戻ってこれたのだという事を⋯⋯。
「トッキーも、先輩も、富宮も⋯⋯ちゃんと居る」
「えぇ、ちゃんと居るから」
「首、痛くないか?」
殺された直接の理由は絞殺による首の骨が折れてしまった事であり、気になって思わず首筋を凝視するも、パッと見た限り、何もない。
「大丈夫よ。心配性ね⋯⋯。貴方は何ともなかったの?」
「あぁ。僕はなんともない」
「そう、良かった」
良かった⋯⋯そうなのだろうか。
怪我もなく、解決策だけ模索して帰ってきた訳だが、言い換えれば僕だけ何も被害に遭っていないのと同じなのだ。
僕はそれが少し情けなく思えた。
本当なら僕が藍莉を助けなければならない。
なのに、今回は少なくても僕じゃ駄目で、僕じゃない方が上手くいく。
それが悔しかった。⋯⋯純粋に悔しくて堪らなかった。
「そんな顔しないでよ。私はちゃんと居るから。ね?」
朗らかに微笑む彼女に僕は少し救われた気持ちになる。
その心地良さが永遠に続け、そう願わざるを得ないが、そうは言っていられない。
僕は早速、笠辺先輩に伝えた。
『田科』を捜索し協力して欲しいという旨。
『舞喜』と『田科』が接触してから先輩が接触して欲しいという旨と駆け出した『舞喜』が僕の妹であると『田科』に伝える事と、待ち合わせ場所を病院にして欲しいという旨を。
頷いた先輩はサムズアップをして急ぎ玄関を出て行き、僕達も流れるように部屋を出た。
徒歩で四人、トッキーと藍莉には富宮の姿が窺えないのだから、二人にとっては四人かもしれないが、それでも僕は五人で、病院へと向かっている。
その病院は藍莉、蒼太が運ばれた可能性があり、代わりに僕が運ばれた事のある病院。
交通事故に遭ってしまうも、僅か三日の内に退院するという偉業はしっかり轟いているのか、少々ドキドキするものの、恐らく誰も僕の顔は覚えてはいないだろう。
そんな事を考えていると、僕の服の袖を掴んで引っ張ってくる者が、ついでとばかりに肘で腕を突いてくる。
そんな事をしてくる輩はこの中では二人。
まず初めに富宮奏海だが、彼女は彼女で絶賛傷心中の為、そんな事を僕にする余裕がない。
では誰か?藍莉という線も充分にあるが、彼女も彼女で二十四日の夕方頃の富宮の転落事故の内容を話したばかりで落ち込んでいる。
そう残りは──。
「良いの?舞喜ちゃん、多分お前に来て欲しかったのよ?」
化粧もしない、将来性だけが無駄に有能で悪態と暴力も厭わない隈っ娘のトッキーだ。
「お前、今、失礼な事考えなかった?」
「何言ってるんだ?僕がお前に対して失礼じゃない事を言った事があるみたいじゃないか。長い付き合いなんだから、慣れてくれよ」
「素でキモイ」
これは馴れ合いと呼ぶか?否、呼ばないだろう。
(僕も大概だが、お前も中々に酷い奴だ)
頼むから将来友達が出来ても僕のと同じ対応はするな、マジで嫌われる。
僕だって為人に優しさはあるつもりだ。
こんなどうしようもなくて、暴力的でちょっと素体が良いだけの寂しがり屋の凶暴女であろうとも友達が出来たならば、それを絶賛してやりたいし、脅威からはある程度は守ってやりたい。
たとえ最終的に、僕が一足先に逃げる事になろうともだ。
「お前はお兄ちゃんなんでしょう?覚えてる覚えてないに拘わらずに接してあげても良かったんじゃないの?」
「背に腹は変えられないだろ」
最善の道を常に歩いて行かないと、綻び一つが仇になり、最後にはオジャン。
そんな展開だけはどうしても避けたい。
「ところで──」
「何よ?」
僕はさっきから思っている事があった。
どうしても懇願したい内容がたった一つ、今さっき出来てしまったのだ。
「もう一回お兄ちゃんって言ってくれない?なんか今の良かったんだけど。グッときたんだけど!」
さっきから後方から憐れみにも似た視線を感じるが、きっと気のせいだろう。
だって、そんな二つの憐れみの視線なんて霞むほどに隣を歩くトッキーの視線はゴミを見るような目だったのだから、仕方ない。
「コイツ、もう末期だ⋯⋯。死ぬ前に殺さないと」
「おい。なんで僕がお前に殺される体を築こうとしてるんだ?」
「まずは末期を否定しろ、馬鹿!」
流石に夕方を回り始めると肌に纏わり付く暑さは昼頃と違って収まりを見せ始めていた。
舞喜を追い掛けていた逆行前は息を荒くしながら広場まで走った事もあり、大量の汗を流したが、今現在は穏やかな気候とすら感じられるほどに涼やかである。
──いや、流石にちょっと暑いかもしれない。
バスに乗り込み、涼んだ僕達。
目的地の病院は、徒歩だけならば自宅から一時間以上も掛かる上に、この気候だ。
いくらなんでも蒼太が⋯⋯と言うよりもトッキーがバテて、死にかけのマンボウみたいな顔をしていた為、バス停で少し待ち、乗り込む事を選択。
そして文字通り、水を得た魚の如く、活き活きとした彼女は上着を手で摘んでバサバサと扇ぎながら、座席上に設置されているクーラーを自身の方へ向ける。
隣には藍莉とその膝に座っている蒼太も居るのだが、完全に自分だけが涼む事に全身全霊を施している彼女を叱れば良いのか、泣けば良いのか、僕には判断しかねた。
そんな僕の中で話題沸騰中であり、頭から湯気が出てそうなトッキーは僕と富宮が座っている座席へ腕を乗せて、僕の頭を突いてくる。
「なんだよ?お前⋯⋯」
「ねぇ?どうして病院で待ち合わせなのよ?」
「お前、お隣にヤバいのが居るんだぞ?オチオチ、居れる訳がないだろ?」
現状、まだ藍莉の部屋には武島が居座っているのは確実だろう。
警察に連絡するのが定石なのだが、藍莉の首をへし折る程の怪力を警察相手に発揮されても困るし、何より僕と『虚象』の考えた案には奴が必要不可欠となってくる。
だから、警察に捕まって貰う訳にはいかなかった。
「⋯⋯そういえば、ベランダってお隣とちょっと間が空いていた距離よね?」
「そうだな⋯⋯」
恐らく人一人分の間であり、パルクール未経験者でもちょっとの勇気で壁を渡れてしまえる。
つまり、狂人に達した武島なら、簡単に僕の部屋へとベランダを介してやって来る事も出来るという事だ。
「大丈夫なの?」
「最悪、それを想定して田科を藍莉に付かせる」
「普通、笠辺先輩に付かせるものじゃないかしら?」
女性通しだから、そう言いたいのは分かっているし、ごもっともなのはさておき、僕にも理由がある。
「いや、先輩の場合⋯⋯。多分、やり過ぎる。それに僕が個人的に信じてるのは田科の方だ。⋯⋯ていう事で悪いんだが、田科と途中から行動して貰う事になるけど良いか?」
「私は良いわよ。颯悟に二度も首を絞められたくはないから」
「お姉ちゃん⋯⋯」
「大丈夫よ」
さっきから蒼太が藍莉から離れない。
当然と言えば当然だろう。
姉の突然の死に目であり、状況も最後まではきっと掴めなかった筈だ。
これで犯人の名前と藍莉との関係性まで教えてしまえば、いよいよ蒼太も吐くかもしれない。
「それで?お前はどうするのよ?何もしない⋯⋯筈はないんでしょ?」
「僕は話さなきゃいけない奴がいる⋯」
「へぇ〜、誰とよ」
そう言われて僕が向いたのはお隣の席に座るクラスメイト。
「富宮、お前だ」
「⋯⋯私?」
やって来たのは病室。
藍莉の道案内と共にやって来たその病室は個室であり、一人ベッドで頭に包帯を巻いて、点滴を付けている富宮奏海が居た。
先程まで喋っていた富宮奏海ではなく、本物の本体である富宮奏海。
意識不明の重体であり、目覚めるかどうかも不明な彼女は仰向けで一向に動く気配もなく、そこに寝ている。
僕一人、病室へ入り、ベッド横にある椅子へ腰掛けて語り掛ける。
「ごめんな。僕、ずっとお前の事、嫌な奴程度に思ってた。けど、お前はずっと気付いて欲しかったんだよな」
八年前から昨日まで、彼女は僕を忘れていない。
けれど、僕は違う。昨日の夜になってようやく少しだけ思い出した。
事の真実をある程度『虚象』と話をした今だから分かるが、彼女には頼れる存在が殆ど居なかったのではないか、そう思う。
友人には弱みを見せれず、家族はあの体たらく。
必然的に残る候補は教師か友人以外の他人となり、教師に話をした事があったかどうかは知らないし、児童相談所に駆け込んだかも僕は知らない。
けれど、声を掛けた事がないから、こうなっている⋯⋯そう思える。
結局残った選択肢は贔屓目が患って省いてしまった他人か僕のような友人だった誰か。
そして、彼女は後者を選んだ。
「けど、お前も分かりにくいんだよ。普通、気付かないって⋯⋯」
聞こえているか、聞こえていないか、僕には判断が付かない。
けれど、聞こえていようといまいと、僕のする事に変わりはないのだ。
「ちゃんと、友達になるよ。ちゃんと気付けるようになる。勝手に約束を反故にして、忘れて、捨てた分、勝手に大事にする。だから、早く起きてくれ。そんで、いつもみたいに、罵倒の一つぐらい、飛ばしてくれ」
それが僕の望む『日常』であり、変わってはならない現状。
捌け口にでも、サンドバッグにでもなんでもなろう。
僕が忘れてしまった八年分の鬱憤は全て晴らしてくれて構わない。
だから、早く目覚めて欲しかった⋯⋯。
返事は返ってくる訳がなく、ロマンチックかつドラマチックに手を握る事もせず、僕は立ち上がる。
「また来るよ」
そう言い、僕は病室を出た。
決意表明、そんな感じで、それ以上の事は何もない。
ただ、『現象』が彼女の目覚めを妨げているというのならば、僕はそれを排除するだけだ。
『現象』の対処法は『正しい手順』を踏み、正しい行動を行えば消える。
常識で定石であり、武力を用いて祓う事は別段要らない。
僕は戦えない。だから、ゴリ押しなんて出来る訳もなく、ひたすら地道でなければならないのだ。
「もう良いの?」
藍莉が心配そうに僕は声を掛けてきた。
もっと言うべき言葉を模索したかったが、先輩の事だから、そろそろ来るかもしれない。
あの人は本当に運動神経が良すぎて困るが、頼りになる。
そんな人達を待たせる訳にはいかない。
「あぁ、藍莉達も行ってあげろよ」
「うん、分かってる」
そうして、藍莉とトッキーは僕の背後にある病室の入口を開けて、中へと入っていく。
廊下に残ったのは僕と富宮のみ。
静けさが立ち込める病院の廊下で、一向に動かない彼女へ僕は声を掛けた。
「⋯⋯富宮は行かないのか?」
「自分のお見舞いを自分でするのって変でしょ」
正直、少しおかしい話だと思ってしまった。
そのせいか、僕は微笑んで返事をする。
「⋯⋯だな。僕達だけ、先に出てるか」
「そうね」
藍莉達に一階のフロントで待っているように声を掛けた僕達はそそくさと階を降りる。
薄いピンク色の椅子に座り、隣に彼女が座った。
このまま、藍莉とトッキー、先輩と田科と舞喜が来るまでの間、この沈黙が流れるのだと、僕はそう感じていた。
「ねぇ」
けれど、その沈黙は隣に腰掛ける富宮によって破られた。
「私の中にある『現象』をどうにか出来るの?正直、その時の記憶も以降もないんだけど⋯⋯。なんだか、私って相当ヤバいんでしょ?」
【一体化】によって記憶は妨げられているのか、或いは鏡合わせの二面性故に覚えられない性質なのか、どちらにしてもトッキーから聞いた内容を元にして、そう言っているようだった。
「あぁ、多分。ちゃんと上手くいくようにする」
「私、嫌なんだけど?あんた達が死ぬの」
不安は隠しきれず、歪んだ表情を表に出して、僕を憂いを含んだ眼差しで見つめる。
けれど、僕だって彼女と同じ気持ちだ。
でなければ帰ってこないし、戻ってきたりはしない。
「⋯⋯僕はお前に死んで欲しくないよ」
「私、死んだの?」
音もなく肉塊へ変わり果てた彼女の最期。
両親と三人並んで散ったあの光景は多分夢に出てくる。
僕が履いているズボンにもその血痕と肉片が飛び散っていたが、逆行の影響でそんな痕跡は一つ残らず消え去っていた。
「そう」
何かを察した富宮は小さく頷く。
フロントから機械音と呼び出し番号がモニターに表示されている。
そんな当たり前の光景を呆然と見ていると、やって来た──。
「お兄ちゃん⋯⋯」
「⋯⋯舞喜。!田科」
病院の入口から駆け込んで来た舞喜と笠辺先輩、そして田科。
仏頂面が酷く歪んでおり、不快そうな顔色を隠す事もなく、僕の方へと歩き出した田科は僕達の傍まで来て口を開く。
「桐江、説明しろ。正夢でも見てる気分だし、半ば強引に笠辺さんに連れて来られてコレだ。話せるよな?」
しっかりと話し、そして聞かなければならない。
『僕』が知っていなくて『誰か』が知っている事柄を。
『名無し』が『跳躍』ではなく『逆行』を行ったそもそもの理由はそこにある。
僕はまだ解決するまでの情報を全て、手に入れていないのだ。
「⋯⋯舞喜、富宮と居てくれるか?」
「うん、良いけど⋯⋯」
何やら寂しそうな⋯⋯と言うよりも不満気な舞喜。
舞喜からすれば、僕が来てくれると思っていたのに、突然笠辺先輩がやってきて、気付けば連れて来られたという状況なのだろう。
『時間逆行』を行う前の事も思い出しているかは定かではないが、恐らく例外なくこの世界に生きてる皆がその影響を受けている筈。
ならば、舞喜とて思い出している点は間違いなくある筈なのだ。
「僕が行けなくて、悪かったな。急を要してて、先輩に向かわせたんだ。蔑ろにしてる訳じゃないんだ」
「もういいよ。行くね?」
僕の横を通り過ぎ、富宮の元へと一目散と歩いて行く舞喜。
「⋯⋯あぁ」
この返事が聞こえているかどうか、恐らくいないのだろう。
不貞腐れた舞喜と富宮を置いて僕達は再度、富宮の病室へ向かいトッキーと藍莉と合流。
そして、今夜の夜の事を話し合った。
決して成功する確率は低いし、『虚象』と話し合った一つの結論。
僕が、僕の欲する『日常』へと回帰させる為の議論が始まる。
━ ━ ━
一つの激情により、一方的ながらも愛する人間を不快にさせた⋯⋯その後悔は知らぬ間に彼女の後を着けて声を掛ける機会を窺っていた。
既にこの時、自身がおかしいという妙なぐらいに覚めている部分があり、止まって、引き返し、大人しく帰ろうという過ぎりのようなものもあったのだが、身体はそれとは相反するように動く。
夏の暑さによる汗を心地良く思える程、心臓が燃えていると思わされる程の熱さと、どうしようもない憤りが滾って、燃焼していた。
そして見てしまう⋯⋯桐江准と大州藍莉の仲睦まじい光景を。
その男は普段、大州藍莉のみを見て、彼女の為ならば何でもやれると宣える。
けれど、それは気持ちの話で現実的にそれは不可能なのだと誰でも感情の奥底では理解していて、思考は何時も責任の所在を求める⋯⋯だが、この男は違う。
口にして、初めて愚かさに気付く、正真正銘の愚鈍であり、口にしなければ叶わないと知っている故に口にする癖が付いてしまった可哀想な存在。
しかし、そんな事を口にするなんて事は男に許されない。
男は普通でありたかった。
男は愛を知りたかった。
男は理解してみたいかった。
それが本当にあるのか⋯⋯。
だから、惚れた。だから認められたかった。
そのたった一人の愛を求める者に対して、正しく、誠実で、誰よりも優秀であれば、きっと振り向いてくれるのだと、男は信じたかったのだ。
しかし、その幻想は砕け散ってしまう。
彼女は自身にも見せた事のない表情で腹部に乗るその愚図の顔を窺い、微笑み、許容した。
男は見てしまったのだ、自分がその枠組みに収まると信じていたものが砕け散る様を。
一方的、勝手な思い込み──それは男には通用しない。
何故ならば、男にとってそれは『現実にすれば良い話』なのだから。
だが、彼女のあの表情を見ると、それは叶わないと⋯⋯そんな彼女に甘んじている愚図の方が自身よりも彼女にとっては価値があると納得いかなかった。
敵わなかった証明なんてものは、捨てればよい。
だが、いつ殺す?どう殺す?
その思考が巡り巡って、たった十分という短い時間が男の思考を捻じ曲げる。
「アイツが死ぬんじゃなくて、俺と藍莉が死ねば⋯⋯一生二人っきりなんじゃないのか⋯⋯」
男にとって、自身の命は当然大事だった。
だが、彼女を愚図の目の前で殺して見せて、自身も逆上した愚図によって殺されれば、男にとっては幸せ以外の何物でもなかったのだ。
だから──大州藍莉を付けた。
学校へ向かっていた際も、交通事故の現場を目撃していた時も、そして⋯⋯愚図の部屋に入る所もその隣の部屋が彼女の自宅だという事も、全てを見て、知り、そして⋯⋯入り込む。
偶然にもそれは、彼女が気疲れと睡眠不足、看病による疲れから眠ってしまった時と同じ頃、室外機と壁、近くにある木々を使い、よじ登る事に成功した男はそれはそれは満面の笑みで持ち歩いてるポケットナイフを使って鍵の近くに穴を開けた。
音は当然鳴り響くし、近くを通っていた住民も音の正体と発信源を特定しようと目を動かす。
しかし、男は待つ事が出来た。
彼女の為ならば何でも出来る。
その言葉自体に偽りはない。
少し時間を置き、ようやくベランダから室内に入った男が最初に取った行動はシンプルである。
タンス漁りだった⋯⋯。
実際に彼女は帰宅後、一度として自身の部屋には入れていない。
入る前に亡くなっているのだから、気付ける筈もないのだが、仮に覗かれていれば、瞬く間に警察へ一直線だったであろう。
その男はタンス漁りで下着や衣服を手に取るという行動をしていないのだ。
この男は異常な程に熱く心を燃やしている。
だが、体温は血液の流れにより保たれる。
だから、男はタンスの中身を血で濡らしたのだ。
下着に興味がない訳では決してなかった。
しかし、思春期の一般的な男子高生の思考とは大きく掛け離れたその思考回路は手首を切ったその血により、快感を感じ、より一層狂わせる。
更に酷いのが、食事を取れば、すぐさま血を蓄える事が可能な【心火】の特異能力が異常性を加速させていく。
冷蔵庫を漁ろうとしたのだ。
だが、この時丁度、大州藍莉は一度冷蔵庫の中身を手早く取って行き、そそくさと帰宅した。
背後から襲おうと思えば可能だったろう。
しかし、それ以上に小心者が浮き彫りになり、血濡れた手は愛する者に見せられる状態では絶対なかった。
だから、彼女は勝手な都合により、一度目は見逃された⋯⋯。
しかし、二度目はなかった。
当初の目的は殺して殺される事。
一度目は動揺が大きく表れてしまい、部屋で目を見開いて固まっていたが、次は違う。
そして、そんな思い通りの理想に辿り着いた結末を夢のように見てしまえば、当然──待つのみである。
愛しくて恋しくて堪らないその男は律儀に壁の隅で玄関の戸が開くのを待っていた。
たとえ何時間であろうとも願望の為ならばいくらでも待っていられる。
掛ける言葉を脳内で何度もリピートし、抱き締めるタイミング、胸部に触れた時の反応を妄想してみたり、性行為に到れる可能性すら脳裏に浮かび、男は下卑た笑みが止まらなかった。
だが──その一方で、何故そんな事をしてしまっているのか?
そんな罪悪感と自身を罰するような感情も確かに存在しており、冷め切ったその心は熱によって溶かされて、また凍えてを繰り返し、燃焼され尽くされるまでが一周であり、それを堂々巡りのように繰り返す。
男は何時までも【心火】に焼かれている──。
そして、七月二十五日、深夜二十三時五十五分。
大州家のリビングの隅で律儀に体育座りをして帰りを待つ男の目は虚ろであった。
頭は酷く痛み、熱膨張でも起こしているのかと言うほどに酷く醜い思考に染め上げられている。
しかし、それを肯定する自分が中には確かにあり、入り乱れたその思考と感情の抑制と制御は歯止めを失い、頭を抱え始めた。
玄関の扉が開いた音が男には確かに聞こえて、心臓が跳ね上がる。
何度も脳内で予習した事を思い返し、男の居る方向へと扉が向かう為、待ち伏せには持ってこいの状況を作るべく、扉のすぐ横で待機した。
血走った眼球は男が異常なだけではなく、昨夜も一睡すらしていない事によるもの。
(来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い来い。俺の愛)
玄関から廊下に掛けて二つの足音が鳴り出して、男の息は荒くなっていく。
耐えなければならない。抑えなければならない。
みっともない姿は見せられない。
傲慢な意地だけが発達した男は自然と冷静さを取り戻し、彼女の帰還を祝う為、身構える。
夢では抱き締めると共に首を絞めて殺した。
だが、次は違う⋯⋯。
確実に抱き締めて、完全に手中に落とした上で懇願させ、祈らせて、屈服させた上で、殺す。
その誓いを立てた男の視界に確かに映った人影。
暗く沈んだ空間の照明は確かに付けられた。
次の瞬間、男はその人物に抱き着く。
問答無用で、勢い余す限り、力強く、腕が折れてしまうのでないかと錯覚してしまう程に。
「待ってた、待ってたぞ。俺の、俺の藍莉ぃぃ」
「誰?!」
茶髪の髪、癖っ毛か寝癖か見分けが付かない程のウェーブが少しかかったその髪型をした女性は間違いなく大州藍莉だと確信し、背を向けた彼女へ語り掛けていく。
「分からないのか?俺だよ?武島颯悟だ。なんで忘れるかなぁ。待ってたんだぞ?ずっと、ずっと」
「離して!」
「大丈夫!大丈夫だから!俺が着いてる。一緒に居てやるよ!嘘じゃない」
それは病院で言われた一言による遅れてしまった解答。
勿論、彼女は男にそんな答えを求めた訳でもない。
けれど、まだ解答権があると本気で信じていた男は言葉を並べていく。
「ちゃんと、やるから。殺るからさ!アイツよりもいい男だろ?分かるか?こんなに愛してるんだぜ?熱くて堪らねぇんだよ。大丈夫、すぐ桐江も来てくれる。そしたら⋯⋯俺達は永遠だ」
首元に手が回る。
微笑みは耐えず、手に力が籠っていく。
僥倖を求めて、紅潮する頬は卑しさが充満していて、ギュッと逃がすまいと彼女の背中と男の胸元は密着し、脇を締めて、明確な殺意を持って二度目の犯行を行う。
「っ!ぐぅぅあ、ぁぁがぁぁ」
「あ〜、お前って奴はなんて可愛い声で鳴くんだ⋯⋯。安心しろ。アイツはそんな声出したらきっとお前を嫌うだろうが、俺は違う。永遠に愛してやれるッ!!」
堪らず彼女の顔色を窺おうと僅かに力を弱め、正面を向かせようとする。
抵抗する力はあれど、所詮はか弱き女として、強引に腕を折る勢い任せのその行動は男にとっての快楽の一つ。
前を向かせて、涎を垂らして、死にたくない、そう訴えるような瞳を見て、高揚していく心は更に高鳴っていき、最後には首を──へし折った。
それは人の力には不可能な程であり、掴んだ首元には凹んだ跡が残り、自身が刻んだものだと認識していく。
「あ、ははは、やった、やったぞ!⋯⋯後は、桐江が、アイツが来てくれれば⋯⋯」
自然と手は胸元へ伸びていく。
「折角だし、ちょっとぐらい⋯⋯⋯⋯へへ、へへッ?!───」
男は後頭部にやってきた衝撃に耐えられず、彼女に倒れ込むようにして気絶した。
胸元に迫った手は気付けば彼女の頭付近に置かれて、静かに眠りに着いた男の後方、黒髪でツンツンとウニのような髪型の青年が溜め息を零して、両手を合わせて手首を使い、【鳥獣戯画】を解除する。
「ったく。『現象』が理由とは言え、悪趣味だな。桐江もよくもう一度やらせようと思い付くもんだ⋯⋯」
亡くなっている彼女は徐々に墨となっていき、溶けて床に流れ込む。
准が田科を希望した最大の理由はここにある。
『鳥獣戯画』自体、動物だけではなく、人間が登場する絵巻物であり、当然『現象』となっている【鳥獣戯画】にも人間は存在しているのだ。
使役人数は最大五人。
メリットとしては、顕現時かつ対象が人と認識しているならば、その人物の能力を丸々複写して顕現する事が可能である事。
勿論、命令には厳格に従い、優秀な駒として役立つ。
デメリットとしては『狐のコン』と違い、一度顕現させてしまえば、姿の変更は不可という点が挙げられる。
更に言えば『生命力』を多く消費する事が最大の難点。
今回、准が最も優先したかった事は何か?
それはそもそも大州藍莉の死を偽装する事にある。
大州藍莉が亡くなった過去を無くす事は事実上不可能ではない。
准の代わりに青年が亡くなったとて問題ないように藍莉の代わりに誰かが死ねばそれで良いのだ。
それに選ばれたのが【鳥獣戯画】である。
しかし、まだ予断は許されない。
まだ准、美羽、舞喜、蒼太が死ぬという結末はひっくり返せていないのだから。
「⋯⋯おい、常盤!」
「はいは〜い!煩いわね、全く」
悪態をつきながらも玄関から出てきた美羽。
そして、大きく手を振り誰かを招くような素振りをする。
足音は一人二人などではなく、複数人。
チョロっと玄関越しから顔を覗かせたその人物は美羽に促されるまま玄関へ入り、さらに後続に続く者達から『ある物』を受け取って、それを床に置いていく。
「あ、そうだ。大州先輩に連絡しないと」
スマホを手に取り、素早くアプリ経由でをメッセーを打ち込んでいく美羽は送信ボタンを押して正面を向き直る。
「後は大州先輩が呼んでくれれば──あれ?」
現在、大州宅には複数人の人間が作業を開始している真っ最中。
だが、その人の中である人物が居ない事に気付き、辺りをキョロキョロと見渡していく。
その人物は青年が美羽を呼び、玄関口から顔を覗かせていた人物であるのだが、知らぬ間に大州宅から姿を消していた。
「どこ行ったの?冴咲さん⋯⋯」
一方の青年は男を玄関へ持って行き、皆の視界から見えない所で半紙を両手に挟み込んで合掌。
【鳥獣戯画】を発動させ、顕現させたのは鷹の『クチ』である。
制限時間は解消された午前零時。
「さっき呼んだばかりなのに済まないが、また頼む」
返事はない。そもそも言語機能なんてものがないからだ。
しかし、その言葉に応じるように背を低くして、乗りやすい位置に座する『クチ』の頭を指で撫でて、跨った青年は男を横向きに『クチ』の背に寝かせて、合図を送る。
大きく翼を翔かせながら、准へ言われていた目的地へと向かう為、一気に上昇した『クチ』
そして、青年は怪訝そうに正面を見つめる。
今回の作戦を初めて聞いた際、青年が最も断固反対の意思を示していたからだ。
自分の仕事が多い訳では決してない。
目的地へこの男を送ればそれでお役目御免まである。
では何が不満なのか⋯⋯。
それは、桐江准達、罪咎者が最も死ぬ確率が高い場所に居るという事だ。
飛翔速度は上がり、向かい風は強風として吹き荒み、目を凝らす。
「待ってろ桐江。すぐ行く⋯⋯」
翔きの音色は夜空へ奏でられて、空を駆ける。
待っているのは地獄であると、予期していて尚、疾走する勢いは止まらない。
あと数話で終わるよ




