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この街は今日も語る  作者: 紫芋
夏休みシリーズ 富宮奏海は罪を語る

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兄妹の傷痕

 四つに分断されているその世界の内、黒く淀んだ世界に光が流れ込む。


 雪崩込んだその黄色い光は冷め切る寸前の身体をそっと優しく包み込み、やがて浸透した。


 世界は色褪せていって、公園と砂場が広がる小さいながらも大切な場所に色が宿る。


 残り三つの世界は未だ、黒く淀んだままで、一切の光が見当たらない。


 何か声が聞こえる。音がして⋯⋯目を開けようにも開けられないでいる。


『罪は今尚、侵す事を止めないでいる。目覚めなさい』


 目覚めるつもりはあるのに、それが叶わない。


 方法は覚えているのに、知っていて、いつも通りしているのに、どうして?


『三葉の葉が光らぬ内に貴女は目覚めなければならない。貴女が本当に望むものの為に⋯⋯。急ぎなさい』


 そんなの私は知らない。


 何それ?望むものってなんの事?


 分からない。お願い、落ちないで、私の身体、落ちないで!


「え?⋯⋯⋯⋯」


 七月二十六日、深夜⋯⋯、私は目覚めた。


 膝は崩れて、自然に起き上がろうと、辺りを見渡しながら身体を動かして、手を床に着ける。


 ヌルッと何か掌に付着して、目を凝らしてその正体を見ようとする。


 視界は何故かボヤけて、上手く定まらない。


 赤い⋯⋯ううん、赤黒い⋯⋯。


「⋯⋯え?え!えぇ」


 血だった。ようやく事の重大さに気付いた私は辺りをしっかりと見回す。


 肉塊が二つ。人型の痕跡が残った物が二つ。


 肉塊は分からない。けど、人型のものの一つはきーくんだった。


「なにこれ?⋯⋯」


 もう一つの人型のそれは誰か?きーちゃんだったものだと理解するにはどれ程の時間を有したのだろうか?


「あ、ぁああああああああーーーーッ!!」


 私は──人を殺した?


 そんな筈ない、なんなのこれ?なに?


「きーくん!起きて、起きてよぉぉぉ!!」


 赤く腫れた皮膚、無くなった眼球。


 それをそっと抱き留めて、泣き叫ぶ。


 私は、私は何をしてるの?何がしたいの?


 分からない。どうして、こんな事になってるの?


「⋯⋯ひでぇな。これ。⋯⋯お前だな、桐江を殺ったのは」


「⋯⋯⋯⋯⋯分からない」


「テメェの中に居る、気持ちの悪い邪気に言うんだな。【鳥獣戯画】っ!」


 黒髪の男性が玄関に佇んでいた。


 紙を一枚取り出して、それを両手で音を鳴らして挟み込んでいると、墨で作られた蛙が出てきて、それは徐々にちゃんとした形の巨大で黄色くて黒い斑点のある蛙に変わっていく。


 そして──。


「呑み込め、ガマ!」


「あっ──」


 視界は暗くなった⋯⋯。


  ━ ━ ━


「あっ!あぁぁぁッ!」


 僕は思わず起き上がり、大きく乱れた息が耳に伝わるまで余韻があった。


 壁に掛けられた時計を見ると時刻は二十五日の朝七時前。


 別段、起きていてもおかしくない時刻だが、問題は別だろう。


「今の⋯⋯夢?にしては⋯⋯」


「起きたわね」


 声の方向は真横から。冷えた声色、聞くだけで凍えそうなその儚い感じには聞き覚えがあった。


「⋯⋯っ!トッキー大人版。じゃなかった。名無し!」


 灰色の長い髪、黒いドレスコーデに色素の薄まった瞳をした別嬪さんバージョンの常盤美羽が何故か枕元に立っていやがる。


 いや、なんで?不法侵入じゃね?


「えぇ、美女コンクールで一番になれる常盤美羽よ」


「いや、そこまで言ってない」


 引っ越して来てからその日以降、一度も顔を見せてこなかった彼女だが、どんな要件があって僕に顔を出したか、出すとすればどんな用事か⋯⋯一つだろう。


 トッキーの『時間跳躍』の件もあるし、間違いないと確信を持った僕はタイマー切れになったクーラーの電源を入れて、トッキーの方へ視線を向ける。


「⋯⋯そうか、お前がトッキーに『時間跳躍』させてたのか」


「そうよ。でも、今度は貴方の番」


 どうやら、僕の知るトッキーと違い、目の前に居るトッキーは対象者に対して『時間跳躍』させる際、その対象者が【死ぬ】必要はないらしく、他多数の事が出来るようになったと豪語していた。


 言わば現代版トッキーの上位互換に当たる。


 何かしらの思惑があるのだろうというのは察するに余りあるが、どんな事を考えているか、僕はエスパーではない為、知り得ない。


「⋯⋯なんでだ?」


「ケースバイケース。過去の私にはする事があるように、貴方にもある」


「⋯⋯富宮の友人になるだけじゃ駄目なのか?」


「駄目。それじゃあ不十分。カレールーが皿に大量に盛られてるのに、白米は一口分だけみたいなもの」


「それはもうイジメに近くね?」


 というか、皿から意図的に米だけ抜いたまである。


 鬼畜が過ぎると虐めを超えて暴力だぞ。


「そうよ。⋯⋯だから、貴方が変えて、あるべき過去から理想の未来へ」


 ベッドに無遠慮に腰掛けたトッキーは僕の枕をギュッと抱き締めて、天井へ向けて放り投げる。


 それを受け止めると、頭に乗せてバランスを取り出す。


(何やってんだ、コイツ⋯⋯)


 暇人でもそうそうしない事を目の前で披露されているのだが、拍手喝采でもお求めなのだろうか。


 いずれにしても僕はまだやらなければならない事があるようだ。


「無茶言ってないか?情報なんてないぞ?」


「いいえ、あるわよ。ちゃんと異変はある。見逃さないで、ちゃんと見て。それでしっかりと話を進めて。来るべき日まで⋯⋯」


「来るべき日?」


 細く閉じかけられた瞼の内側に宿るビー玉のような瞳孔は僕の見つめて離さない。


 僅かな間が部屋に流れると、溜飲を下げるように俯いて、再度僕を見る。


「弾丸はまだ三つある」


「弾丸?」


 思い浮かべたのは本物の弾、ではなく四葉に光った富宮の背中だった。


『まだ』という先んじて加えた単語に合わせて、現代のトッキーの話を推測するに富宮の背中が光り出したあの葉を全て消せば、僕達の勝利という事なのだろう。


 その方法を僕は聞こうとするも──。


 それを見越してか、持っていた枕を縦に投げつけられて、受け止める姿勢を取る。


 伸ばした手をしっかりと枕を掴み、一言文句を垂れてやろうとするものの、そのまま僕の身体は後ろへ倒されそうになると共に持っていた枕は僕の方向へ向けて力が加わったように顔面へと寄っていく。


 気付けば、抱き締められていた。


(なにこれ?⋯⋯⋯⋯マジで何?息出来ないんだけど?)


 枕越しに抱き締めるなら、無しでお願いしたかった⋯⋯。


 いや、問答すら口が枕とくっ付いて出来ないんだけど。


 背中を通して震える腕の感覚が伝わる。


 なにかに怯えている、そう捉えてしまう事も出来て、枕を奥に居るであろう、トッキーの背中を擦ろうとして、腕は途端に止まった。


(⋯⋯⋯⋯まだ、僕は怖がっているんだ⋯⋯)


 仕方ない、とばかりに意を決して頭を撫でた。


 柔らかな感覚、色が変わり、見た目も変わったが、それでも僕の後輩である事には何一つとして違いはない。


 普段なら無闇に頭を撫でるなんて凶行、僕には出来ない。


 まぁ恐らく、藍莉と笠辺先輩、サナ辺りなら許してくれるだろう。


 そして、今回⋯⋯名無しもその枠に追加しなければならないかもしれない。


 腕の震えは次第になくなると、枕は僕の膝元に落ちて、それを視線で追う頃にはベッドから降りようとするトッキーは立ち上がり、すぐ側にある窓へと歩き出していた。


 ゆっくりと慎重に開けた窓、無風であるにも拘わらず、妙に暖かい空気は入り込むのを肌で感じた。


「じゃあ行くわね、先輩。今度、美味しい手料理食べさせてね」


「素麺で良いか?」


「⋯⋯それは嫌」


 そっぽを向いたように顔の向きを変えて、ベランダを素足で踏み、そして、柵の上を飛び越えて上階へと上がって行った。


「アイツ、前世は忍者か何か?」


 あまりにも慣れた動きはスムーズが過ぎて、心配になるでもなく、驚く間もなく、淡々と粛々に姿を消した彼女。


 そんな美女コンクールという名のミスコンもどきで優勝クラスのトッキーが良い残した弾丸はまだ三つ。


 最悪なのは、一発で複数人巻き込めるのだから、もはやロケット砲の方が近いのかもしれない。


 だとしたら、家ごと粉々なのはお察しだが、被害現場を直接見た試しがない僕は結局、想像で語るしかないのだ。


 さて、ここで現在の状況を説明した方が良いだろう。


 僕が自分の意思で自分の力だけで彼女の事を思い出せたという点からして不信感があり、質問されてしまったのが事の始まりだ。


 まず、彼女の身に現在起きている事を彼女が知る前に言い当てる事で、それに対処しようとしていると印象付ける事。


 トッキーが前持って教えてくれていた情報あっての物種であり、マジック披露と同程度に驚いて貰えたが、それと同じぐらいに信じられないといった様子でもあり、全ての説明を終えた後に自宅に戻って行った。


 数時間すると泣きべそをかいて帰って来ると、真実だったと知ると泣き疲れた様子で、舞喜の部屋で蒼太を込みで三人仲良くご就寝してしまった。


 次に、彼女自身が僕達を殺す可能性がある事。


 どんな風に、どんな手口でなのかはトッキーから聞かされていない僕も説明のしようがなかったが、『現象』というものを経験している側の人間だった事と舞喜が話に参加していた事が功を奏して、納得はして貰えた。


 実際に背中に映し出されたあの四葉状の光は何なのか、僕にも見当が付かない。


『現象』による影響で付いてしまったのだろうが、どういった『現象』なのか、どういった効力があるのか、何もかもが不明瞭の中、模索していかなければならないのが現状だ。


 最後に、僕達自身、今回の件を早期解決する為、協力をお願いした。


 ハッキリ言って、トッキーが味方に居る段階でかなり強力な戦力であるにも拘らず、解決の糸口が一向に見えていないのは異常事態にも近しい。


 聞いた話によれば、復活してすぐ爆発!なんて事もあったらしいから、油断も予断も許されないのだ。


 藍莉の件のように『時間跳躍』をし続けて、『現象』が発生した切っ掛けを直で見れる状況下に、トッキーを置けなくなった今、やれる事は限られる。


 笠辺先輩も殺されているらしいから、戦闘能力も高いのかもしれないし、僕の出来る事は数限られるし、舞喜や蒼太まで死んでいる所を見ると無差別の線だって捨てきれない。


 何にしても、僕は今日予定がある。


 七月二十五日──この日、最後の補習であり、予定では僕は死ぬ日。


 そして、藍莉も⋯⋯。


 結局、前日に藍莉は蒼太を迎えに来る事はなく、自宅に帰っているかどうかすら、分からないのだが、舞喜曰く、連絡が付かないらしいから、何かあったのかもしれない。


 心配はある。だが、彼女自身、僕と離れて何かしたい事でもあるのなら、どうしたものかと問われれば、受け入れるのだろう。


 僕は大洲藍莉を一度死なせてしまっている。


 僕よりも良い人が見つかった可能性だってゼロじゃないし、それならそれで仕方ない。


 付き合って、彼氏らしい事を出来た試しが本当になく、どうして付き合ってくれと言ってくれたのか、心底謎のままなのである。


「女々しい⋯⋯のかな?」


 正直、そう思う。客観的に見ればかなり酷い部類かもしれない。


 だが前提として、付き合っている彼女に何も出来ておらず、デートというデートをした試しもなく、「好き」という単語も彼女に対して言った回数は多分、片手で数えられる程だ。


 薄情者、様々である。


 棄てられるのも道理というものだ。


 そういえば、武島辺りが好意を抱いている事自体、藍莉は何となくだが、察している疑惑がある。


 その虫除けに僕を選んだというのならば⋯⋯いや、納得出来ない。


 僕じゃなくても良い筈だろう。


 何故、そうなったのか、甚だ疑問だ。


 そんな事を思考して、カーテンを開けて時計を見る。


 既に時刻は七時半。


「さてと、補習に行く準備しなくっちゃな」


 着替えを済ませて、鞄をダイニングチェアに乗せて、朝食のパンを焼いている時、舞喜の部屋から人が出てきた音がする。


 これほど静かな足音は舞喜ではない。アイツはもっと煩い。


 となれば、候補は自然と一人になる。


「おはよう」


 リビングを抜けて、僕の隣の席までやってきたのは富宮奏海だった。


 寝癖が酷く、黒い髪はボサボサであり、眠気まなこのままノロノロと椅子に座っていく。


「おー、おはよう。結局泊まっちまったけど、部活の準備はどうするんだ?」


 風呂にも入らず、ご飯も食べずに寝てしまった彼女の為に、ご飯ぐらいは用意してやろうと、パンをトースターに追加投入し、棚から皿を一枚出す。


「⋯⋯今日、あんたが言ってた常盤さんに会いに行く。その方がもっといい情報持ってそうだし」


「気を付けろよ?何時頃帰って来る予定だ?」


「うーん。夕方頃かな?」


「そんなら大丈夫だな。アイツは僕の補習帰りに合わせて学校の校門に居るだろうから、捕まえれば良い」


「わかった」


 特徴は既に言ってある。見つけようと思えば、あれほど見つけやすい人物もそうはいない。


 まぁ、見つけようとしても見つからなかった事件も二週間前にあったんだが⋯⋯。


 元々、後ろ姿からして雰囲気というか背格好が独特というのだろうか、分かり易い部類な為、透明でもなければ比較的に即発見が容易なトッキーは前から見てもトッキーらしさが滲み出ている。


 猫背、ノーメイク、面倒臭そうな表情がデフォルトであり、春夏秋冬どの季節、どんな気候であろうとストッキングを必ず履く変態だ。


 僕には分かる。アイツ、僕がストッキングが好きだから履いてるんだろうが、それは違う、断固否定の意思を貫かせてもらう。


 僕が好きなのはストッキングじゃない、ストッキング越しに見えるトッキーの脚の方だ。


 これを看破出来ない時点でアイツはまだ甘い。


(ふっ。トッキーもまだまだ、甘いッ!⋯⋯決まったぜ!)


 トースターから甲高い音が鳴り、パンの香ばしい匂いが鼻を通る。


 焼きたてが最高に美味しいのだから早く頂かなければ⋯⋯。


「何ニヤけてんの?」


「⋯⋯⋯⋯パンが焼けたらこんな顔になるんだよ」


「そんなにパン好きなんだ。でも気持ち悪い」


 悪かったな⋯⋯キモくて。良いもん、後でトッキーに慰めて貰うし⋯⋯。


 いや、アイツなら事情説明した途端、察して蹴ってくるかもしれない。


 止めておこう、そうしよう。


 慰め貰うなら藍莉にだな。⋯⋯⋯⋯アイツ、帰ってくるんだよな?


 藍莉に相談という手が思い浮かばなかったのは何故か?


 トッキーが昨日は連絡が取れないという事前情報を持っていたからだけではない、彼女が僕や蒼太が死ぬと分かれば、馬鹿みたいに奔走するのが目に見えているからだ。


 協力して欲しいという気持ちもあるが、死なれて困るのは僕達であり、藍莉がどうして、どうやって死んだか、その経緯も知れない現状、無闇矢鱈と関わらせるのは愚策な気もする。


「藍莉の奴、何処に行ったんだ?蒼太もそのままだし、トッキーの連絡先知らないしで事情の説明出来ないし⋯⋯」


 こういう時、僕にもスマホがあれば!


(おのれ!許さないぞ、ゴーストバスター先輩!命助けてくれて、感謝感激ですけど!)


 そんなどこからともなく現れそうなあの人に悪態を付きつつ、僕は補習へ向けて焼けるような空の下、学校を目指していた。


 パンを食い終わり、テレビとスマホの二刀流で暇潰しをする富宮を置いて、僕は一人、太陽を憎んだ。


 しかし、その恨み辛みは目の前からやって来る人物により掻き消される。


「居たよ⋯⋯」


 茶髪の長髪、ボサついてるのか、寝癖なのか、見分けが付かないウェーブが掛かったような髪型をした女性が一人、服装はよく見慣れた体操服であり、まだ距離はあるが、すぐに分かってしまう。


 そんな特徴的な大洲藍莉が何処か疲れた様子でこちらに向かって歩いて来た。


 足取りは重く思えて、少しフラついているようにも見えるその脚の動きは暑さに当てられてバテてしまっているのかと思い、急ぎ駆け出すまでにそれほどの時間は要らなかった。


 傍まで駆け寄った僕に俯いた顔が上がり、気付くと申し訳なさそうな顔色を浮かべる。


「⋯⋯准。ごめんなさい、昨日はそのまま、蒼太を預けて貰いっぱなしにしちゃって」


 少し枯れた声色、よく見ると目元は腫れており、泣いた後のようにも思えた。


 何故だろう⋯⋯。そんな筈がないと分かっているのに、嫌な想像をして、嫌悪感に募らされる。


「悪いけど、明日もお願いできるかしら?出来ればで良いんだけど」


「あぁ、良いけど」


「ありがとう。今日は補習よね?頑張ってね」


 そう言って、さも当然のように僕の背後を抜けて立ち去ろうとする。


『これで良いのか?』


 いい訳がない。何が悲しくて腐乱死体が底に沈んだドブ川へ更に大量に棄てられた廃棄物を数十年放置した状態の汚水を飲まされたような気持ちにならなければならないのか。


(僕は⋯⋯何がしたいんだろう)


 気持ちが抑えられなくなっていく。


 自分達は聞いた話ではかなりの苦労を強いられているし、実際に危険な目にもあって、今回だって頑張ってるつもりだ。


 それなのに別の男と呑気に朝帰りと来たものだ。


 別に棄てるならそれはそれで良い。けど、隠れてどうこうされるのは、気持ちが良くない。


 心が騒つく。苦し紛れに誤魔化していた何かが発露されていく感覚が心地良くて抑えられない。


 沸点を超えた湯が鍋から溢れてくるように、グツグツと水分は湯気へと変化し、代わりに熱を帯びていく。


『死なせた事とこれから先死なせない事は同一ではない⋯⋯。殺れ、殺れ、殺れ、殺れ殺れ、殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ殺れ。殺せ、お前の幸せの為に⋯⋯』


 無数の声が耳元だけでなく脳内からも聞こえてくる。


 誰の者か、一人一人の声が重なり合って年齢も性別も判断が付かない程の多くの声。


 心地良い声が響いていく⋯⋯⋯⋯違う、駄目だ!


 死なせたのだって僕が何も出来なかったからだ。


 これから先、死ぬ保証があるのと同じぐらい、死なせない保証だってあるかもしれない。


 もっと苦しんで、痛くて辛くて、酷い死に方をする事だってある。


 視界が包まれた。


 光景が広がって、蘇るように映り込む。


 誰かの部屋⋯⋯、僕の住んでる部屋と同じぐらいの大きさのそのスペースで、赤い鮮血が壁一面に塗りたくられていた。


 肉塊が一つ、何かメモ帳のような物が落ちて、落ちて⋯⋯生徒手帳だ、名前は名前は───。


「うぅっ!っっおぉぉぉあぁッ!」


「准ッ!どうしたの?!大丈夫!?」


「っ?!はぁ、はぁ、はぁ、ぁぁぁ」


 吐き気が止まらず、吐瀉物を地面に散らばらせていく。


 なんだ今の⋯⋯。異臭が鼻をついて、強張った顔の筋肉は悲鳴を上げたみたいに痛い。


 痛い?なんで、目元が痛いんだ?


「准!目から血が!大丈夫?!どうしよう?!」


 その言葉に釣られたように手で目元を触れる。


 濡れた感覚が指に付着して、それを見えるように引いていく。


「⋯⋯なんだ、これ?!」


 赤い。本当に血が付いていた。


「救急車?!あ、スマホがない!学校に!あぁ、違う、家の方が!どうしよう!どうしよう!」


 心配しなくていいの一言が言えないくらいに身体は疲弊してる。


 吐くって行為がこんなに疲れるものなのか?


 いや、どちらかという、体力なさが露呈したのかもしれない。


 運動不足と素麺ばかりの食事のせいでこんな事になったんだ。


 いや、それ以上に問題なのは、慌てふためく藍莉の方だ。


「大丈夫だ。し、心配ない」


「心配ない訳ないでしょ?!取り敢えず、病院に──」


「良いからッ!!別に⋯⋯」


「⋯⋯でも」


 何が起きたか、何があったかはともかく、僕がしなければならないのは『富宮奏海の件』だ。


 今は自分の事にかまけている余裕がない。


 補習も早く終わらせて、今日死ぬかもしれない藍莉をどうにかしなくちゃならない。


 さっき見た光景、生徒手帳には藍莉苗字が記されていた。


 嫌な憶測だけど、『富宮奏海』に憑いている『現象』が人を殺すとあんな人の形をしなくなった肉塊に変わる⋯⋯そんな予期が出来てしまう。


 させる訳にはいかない、それは絶対厳守だ。


「んな事より、舞喜と連絡取れるか?家の鍵は蒼太が持ってるか?」


「え?えぇ、出来るし、持たせてる、けど⋯⋯」


「なら藍莉、そのまま学校に来てくれ」


 嘔吐した際に付着した液体を腕で拭う。


 気持ち悪さは未だに残っていて、未だに胸の騒つきは奥底で蠢いている。


 言い換えれば、体内に無数の小さく這う虫の感覚が分かってしまうようなもの。


 これを払拭するにはどうしたらいいんだ?


 本当に病院へ行って、腸を洗って貰うでもすれば治る⋯⋯訳ないよな。


「どうして?病院は?このまま補習に行きますって言わないわよね?」


「頼む、どの道補習自体は今日、終わらせたいんだ!」


 仮に補習を今日、サボったとしても、明日に引き継がれるだけの話。


 けれど、今回のように過去をトッキーがある程度捻じ曲げてしまった弊害が、悪い意味で活きてしまってる。


 朝倉さん曰く、生死に関わる事柄はある程度の猶予は余白があるらしい。


 理由としては『生』と『死』は、観測者であろうと一つの事で大きく左右されるほど曖昧で不確定要素の塊だから、らしい。


 曖昧なものに規則性はなく、一律の順序がない。


 だから、命ある者は皆が違う、そう言っていた。


 けれど『補習』なんて規則性の塊で、明日が無理なら明日、明日が駄目なら明後日──と必ず予定を組ませられる。


 今日、サボったらそれだけで乱れて、時間の流れはごっちゃになってしまう。


 昨日、映研に行ったのも、実は割と危なかった部類だ。


 仮に前持って「映研に行く」と言伝をした上で二十五日に向かっていたのが一周目さいしょで、トッキーがそれを知らず二週目つぎ以降に前日の二十四日に向かってしまえば、それだけでトッキー並びに映研メンバーは消える。


(紗央里さんって人もそれで巻き込まれた⋯⋯。いや、違うかな。副部長の制度自体が消えるって事は流石にない)


 いずれにしても補習は遅れられないし、休めない。


「病院に行ってからでもいいでしょ?」


「駄目だ。休めない」


「なんで?ちょっとは自分の心配しなさいよ!」


 ジャージの袖を指で掴み、僕の目元に当てていく。


 血涙してしまった為に拭ってくれている。


 その為、彼女のジャージは血で汚れていく⋯⋯それが申し訳なくて、その手を掴んだ。


「ちょっと、何やってるの?せめて血だけでも落とさないと!ただでさえ目から血なんて異常なのよ?」


「こういう場合、無闇矢鱈に触らないのが、吉なんだぞ?」


「あっ!そうよね、ごめんなさい」


「気にしなくていい。多分血管が切れたじゃない⋯⋯と思う」


「じゃあ何処から流血してるのよ、馬鹿」


「馬鹿だから補習に行くんだよ」


 言ってて悲しくなるが、致し方ない。


 お陰で少しだけ藍莉の表情は和らいだ気もする。


「藍莉、僕には僕のやる事がある。お前の事だから、昨日は何か用事があったんだろう?」


「⋯⋯⋯えぇ」


「それは言える事か?」


「⋯⋯ごめんなさい。心の整理が出来てないの。せめて夕方頃には、ちゃんと、言う⋯⋯から」


「藍莉?」


「⋯⋯でも、上手く、言える自信ないの⋯⋯。本当にどうなってるのか⋯⋯私にも、分からなくて。疚しい事はしてないし、起きてない。本当よ?⋯⋯でも、辛くって」


 しゃがみ込んでいた彼女は泣き声を微かに漏らしながら、ジャージの袖で顔を隠すようにする。


 こういう時、何を言えば正解なのか、何をしてやれば良いのか、僕の脳には情報を持ち合わせていない。


 抱き留める事は怖い事だ。衝動的、感情的であれば意識よりも先に身体が動いてなんて事はない。


 けれど、意識が優先的に前に来ている今の僕は、怖いんだ。


 時期的にも近く、身体を纏わりつく暑さが酷似して、『刃龍の最期』を想起させる。


 抱き留めた身体は紅の閃光に散ったあの女性と被ってしまう。


 抱えた身体の重さが徐々に軽くなるのを知ってしまい、逃げていく熱は四散し、空気に漂って一体化するかのように僕の手元を離れていく──。


 あの感覚が純粋に怖い。


 抱えた際に垂れ下がる腕、身体を包むように被せた白いローブと最期に残った忌まわしい髪留め。


 あんな事が嫌で、そんな結末を憎んで、今の僕を作っている。


 その過程と顛末に刻まれた傷跡トラウマは結果として今、目の前に彼女を抱き締める事を恐れさせる。


 軟弱を被った臆病者。非力を冠する無能の弱者を我が物とばかりに手に入れた僕の出来の悪さとくれば、ここまで来ればお笑いものだ。


(六華⋯⋯)


 生者必衰にしたって、あんな死に方はないだろう⋯⋯。


 あれじゃあ、忘れられないし、何時までも覚えていてしまう。


 怖さは武器にはなり得ない。


 ならば、どうすれば彼女を泣き止ませられるか?


 抱き締めるは駄目だ⋯⋯突き飛ばすじゃ済まなくなる。


「⋯⋯大した事、出来なくて⋯⋯ごめんな」


「ぅぅ、え?」


 彼女の後頭部へ腕を回して、僕の額を彼女の額にゆっくりと付けた。


「准?⋯⋯」


「悪い、抱き締めるとか、いい言葉とか考えようとしたけど、僕には無理っぽい。これが手一杯だ」


「⋯⋯⋯⋯。うん」


 頬に感触がやって来た。


 藍莉の両手が添えられて、右と左、逃げ道を無くした僕の行き場は前か後ろ。


 後ろなんて有り得ない⋯⋯もう、前しかない。


「じゃあ、何時になったら、抱き締めてくれるの?」


「⋯⋯分かんない。意外と先かも」


「うん、そっか。⋯⋯待ってる」


 前髪が暑さで濡れる。それなのに不快感はない。


 汗が混じり、微睡みに身体を包み込まれたように仄かな温もりが僕達の周囲のみに形成しているようで、何処か和らぐ。


 この気持ちが同じならば、どれほど良いんだろう。


 きっと、違うだろうし、同じなんて事はないのかもしれない。


 それでも、望まずにはいられなかった。


 今なら、行ける気もして、後頭部に留めていた手は離していく。


 その腕は震えて、怖がりな本音が身体に出始める。


「⋯⋯無理しなくても、良いのよ?別に強要した訳じゃなくて──っ!」


 自分からしたのは、きっと初めてだ。


 身体は震えているけど、それももう仕方ないと割り切ってしまおう。


 このキスは僕からの初めてだ。結局、僕は知能指数が低いやり方でしか考えが至らなかったのだと、少し億劫にもなるのだろう。


 本当に──攻略本が欲しい⋯⋯。


 それから少しして、落ち着きを取り戻した藍莉は何故か、そう何故か嬉しそうだったのだ。


 僕はというと⋯⋯⋯⋯。


(僕、吐いた後だったよな?ヤバくね?!⋯⋯何やってんだッ!馬鹿か!馬鹿なのか!バーカ!バーカ!)


 後になってから気付くという、どうしようもない不甲斐なさと申し訳なさに心苛まれていた。


 正直、死にたい⋯⋯。


「あ、藍莉ぃぃぃ!僕はどうしたらぁぁぁぁぁあ」


 縋る相手も一人しかいないのだから、縋るしかないだろう。


 藍莉の腰に腕を絡めて、お腹辺りに顔を擦り付けながらベソをかく。


「ちょっと!恥ずかしいからっ!何泣いてるのよ?!あ、後⋯⋯それと、あの」


 グイグイと押し退けようとする藍莉は言い淀む。


「お風呂、昨日から入ってないの。だから、その⋯⋯」


「⋯⋯嗅げと?」


「違うわよ!というか、そんなに良いものなの?」


「いや、ちゃんと嗅いでないから分かんない」


 だから嗅ごう、そうしよう。


 僕は全力で顔を藍莉の方へと持って行く!


「もうぅぅぅ!嗅ぎに行こうと顔を寄せないの!犬かッ!!」


 頭を手で必死そうに押されながらも僕は抵抗を止める事はしない。


 男の子だよ?彼女の匂いぐらい嗅いでみたいって欲求があったって然るものだと思うでしょ?


「貴方ぐらいのものよ?私の身体の匂い、嗅ごうとするの」


 ちょっと待ちたまえ。流石に僕だけなんて言うのは侵害だぞ?


 少なくてもパッと思い浮かんだ候補者が居るのだが⋯⋯。


「牧原とか武島とか牧原とか⋯⋯あれ?今二回言ったか?まぁいいや」


「さっきも言ったけど、そんなに良いものなの?」


「だから、嗅いでみないと分かんないって」


 実際、匂いを嗅いだ事はあるのかもしれないが、僕の嗅覚から送られた脳にはそれが鮮明に残っていやがらない。


 都合の悪い頭め、クリーンしてあげたい所だが、人間の構造上それは不可能。


 恨むぞ、マジでさ。


 一方の藍莉は恥ずかしそうに近くにある『象願林』の草原まで歩き出して、辺りにある木々に身を隠すように裏へと移動した。


「汗かいてるし⋯⋯。お風呂に上がってから。それなら良い」


「それだとシャンプーとかボディソープの匂いするだろうが」


「⋯⋯。じゃあ冬」


 それはそれで構わない。が、僕も藍莉も今日、明日ともしれない命。


 せめて、ちゃんと堪能しておきたい気持ちはある。


「うぅん〜〜」


「悩む余地ないでしょ」


 僅かに赤らんだ頬を浮かばせながら、キョロキョロと辺りを見回して、小さく呟く。


「⋯⋯⋯⋯一回だけよ?」


「おぉ、藍莉様!!」


「わ、分かってると思うけど、匂いを嗅ぐだけよ?」


「はい?」


 僕は完全にそのつもりなのだが、その先なんて存在するのだろうか。


「その⋯⋯その後に、色々と、ね?」


 いや、彼女にとっては違うようで、その先が既に脳内イメージで出来上がっている模様。


 是非、3Dプリンターで実際に出して欲しいものだが、それは叶わないだろう。


 僕は必死になって彼女の考える次を模索するものの、一向に分からず、諦めたように口にした。


「ごめん、本当に何言ってんの?」


「⋯⋯⋯⋯⋯っ!〜〜〜!もう良い!早くしなさいよ」


 さて、何処を嗅ごうか。真正面を向いている彼女だが、箇所の指定はされていない。


 つまり──。


「僕には今、無限の選択肢が要求されているって事か!」


「え?い、いや、違うわよ!お腹だけなんじゃないの?」


「そんな事、誰が言った?そもそも偶々、偶然、何気なしに腹部があっただけで、僕はお前の匂いなら何処でも嗅げる」


「嫌な、自信ね。⋯⋯ちょっと引くわよ」


「引いてくれていいさ。男の子ってのは、引かれるぐらいが丁度惹かれるって言われた事がある!」


「へぇ〜誰から?」


「朝倉さんから」


「じゃあ、駄目ね」


 この辛辣そうな表情、本当に駄目っぽい。


 くそっ!選択肢を狭めてしまったか⋯⋯。


 いや、ちょっと待て。一回とは言い換えれば時間の許す限りの一回だよな?


 つまり、逆説的に言えば、僕は一生藍莉の匂いを嗅ぐ事も容認されるという事だ。


 何せ、時間設定はされていない。


 持ち時間は無限大にして最大限にして最長のパフォーマンスが出来るか否か⋯⋯、たったそれだけの話なのだ。


 つまり、僕次第じゃないか!


 補習には着いて行って貰うのはもはや確定として、風呂やトイレはどうするかだな⋯⋯。


 いや、舞喜ならいいかもしれない。


 舞喜に僕がトイレや風呂に行っている間、交代キープして貰って⋯⋯天才じゃん!僕って奴は。


「早くしなさいよ⋯⋯。嫌な汗、かいてきちゃうし⋯⋯。私、眠たいのよ」


「じゃあ腹部、一生分」


「一生分!!何言ってるの?あ、貴方⋯⋯」


 あれ?伝わってない?


 もっと直接的な方が良かったのだろうか。


 改めて口にする為、わざとらしく喉を鳴らして、指を差し示す。


「お前のお腹は僕のもんだ。他の誰にも渡すなよ?」


「あげる予定、無いわよ別に⋯⋯⋯⋯」


 気恥しさから来る照れ顔を見た。


 木の根の上に座り、身体を差し出すように両手を広げる彼女は目を逸らしていたけれど、それでもそれが何処か可愛くて、愛しいって思えるんだと思う。


「はい、どうぞ」


 呆然と見ているだけだったから、きっとヤキモキしたのかもしれない。


 少し、僕の頬も綻んで、自然と脚は運ばれる。


 そっと、ゆっくりと、頭を乗せていく。


 膝枕に非常に近い形ではあるものの、顔を腹部に乗せて、ギュッと腰周りを抱き締める。


 これならいける、そう気付いたのはちょっと後の事。


「僕、藍莉の事、大好きだ」


「お腹の匂い嗅がせてくれる女が好きって事?」


「違うって」


「分かってる、冗談よ。⋯⋯⋯⋯良かった。なんだか体調悪そうだったけど、少し良くなったみたい」


 頭を優しく撫でられる。心地の良い気分だ。


 母親にもして貰った事がないから、どんなものか知らなかったけど、成程⋯⋯良いものだと実感出来る。


 多幸感に身体はふわりと浮いたようになるし、体温も匂いも息遣いもちゃんと感じられて、恵まれてるって気がした。


「⋯⋯心配掛けてごめん」


「ううん。良いわよ、いくらでも掛けてくれて」


 そう、少し笑みを零した藍莉。


「言っとくけど、こんなに都合のいい女、居ないわよ?」


「知ってる⋯⋯」


 散々、あれこれと言い訳は密かにしていたけれど、存外、人を好きなるのは単純な理由で良いのかもしれない。


 僕が彼女を好きなのは、こんな風に優しくて愛嬌があってしっかり叱ってくれる時はそうしてくれる⋯⋯そんな所。


 成行きは突発で病室だった。


 けど、トッキーの件もあって、言った方が良いだろうぐらいの感覚だったけど、今は少し後悔してる。


 もっと、考えて言えば良かったと⋯⋯。


「私も、貴方の事⋯⋯大好きよ。多分、世界で一番」


「⋯⋯⋯⋯聞いてもいいか?」


「何を?」


 正直、ここで言うのはムードが崩れるし、どうかしてるとも思う。


 けど、こんな多幸感に包まれた後になって改めて聞くのも違う気がした。


 多分、遅すぎたんだと思う。


『どうして僕を好きになったのか』を。


「⋯⋯藍莉ってなんで僕を選んだ訳?付き合うだけなら、幸坂とか嶺二とか⋯⋯良い人っていうか⋯⋯」


 僕よりも高スペックな部類は五万と居る。


 幸坂は頭も良いし要領も良い。正直、僕とは比較にならない程には、そうだと思う。


 それに優しいし、アイツ存外いい顔で笑うんだよな。


 嶺二はお人好しが先行する癖はあるけど、基本困った人は放って置かない。


 機微も聡い方で、僕も何度も助けて貰った。


 あぁいう奴はちゃんと幸せになって欲しいって願わずにはいられない。


 そんな事を考えていると、藍莉は「ふふふ」と気品あるお嬢様のような笑いをしだして、僕は瞼を開けた。


「何、笑ってんだよ」


「だって⋯⋯。そんな事を心配していたの?」


「⋯⋯はい」


「馬鹿ね。貴方って⋯⋯。そんなの好きになっちゃったからよ」


「二年生になって偶々、貴方を見る機会が増えたでしょ?クラスも一緒だし、帰りのスーパーも同じ時あったし」


 まだ引っ越す前の藍莉の自宅は学校からも僕の住むアパートからも離れた位置にあった。


 バス通学だった記憶があるが、それは置いておくとしよう。


「その頃って、私の家族があぁなっちゃう前じゃない?私、気になって貴方の事、見てたのよ」


 それは一種の恨みや嫉みにも当たるものだったのかもしれない。


 舞喜は当時、まだ入院中。


 二年生になってクラスが一緒になったから苗字を知って、それからという具合いだろう。


 まぁ、僕は普段から目立つ部類ではなかったし、『現象関連』で教室を出たからと行って皆が皆噂する程、暇でもない。


 街自体が異変に溢れているのだから、話のネタは盛り沢山。


 きっと、僕に眼中があったのは嶺二と彼女と富宮ぐらいのものだろう。


「⋯⋯最初は楽しそうな顔してるのが、嫌な時もあったの。けど、貴方の周りの事を偶然、睦生くんと話してるのを聞いてね。なんだか、同情的になっちゃって⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯」


「そこからかな?今なら分かるけど、『現象絡み』で外を走り回ったりしてるのを見掛けたり、教室を勝手に理由付けて抜け出したり、偶に傷だらけになってる事もあったかな?」


「それ見てると、助けたいなって⋯⋯。それでよ」


 確かに僕は彼女の言う通り、そんな機会が多かった。


 傷だらけになる時もあったし、校舎を飛び出して、『刃龍の残滓』をクリスタルに保管したり、本当に現象に絡まれた事もある。


 成程、よく見てるんだな。そう、感慨深いものを感じて、顔を見上げた。


 膝に頭を乗せて、膝枕。


 見上げた表情は破顔したもので、愛おしく感じて腕を伸ばす。


 頬に触れた手、温度は滑らかに透き通っていき、じっくりと感じる。


 藍莉もそれに呼応するように僕の手の方へ顔を寄せてつつ、手を重ね合わせた。


「だから、貴方が好き。なんの憂いも要らない、私の本心よ。貴方が他の人を好きになっても、貴方が貴方であるなら、きっとこの気持ちは変わらないもの」


「⋯⋯僕もそんな藍莉が世界で一番好きだ」


 間違っていないこの気持ちをありったけ込めて、伝えた。


 口元が緩んでいく藍莉、自然と瞼をそっと閉じられていき、彼女の親指は僕の手の甲を撫でるようになぞっていく。


「っ。なんだか暑いわね」


「だな⋯⋯。うん、そうかも」


 頬は淡く、ほんのりと赤く、火照ったようだ。


 もう、迷いはない。僕は彼女の気持ちにちゃんと、向き合えるような気がする。


 まだ確信とかはないけど、それでも、そうしていきたいって思えるから⋯⋯。


 しかし、少し疑問点が生まれた。


 それは、()()()()()()()()()()()()()()()()()──というものだ。


 いや、厳密に言えば出来ないのである。


 アイツは現状、そんな事を受け付けられない。


 家族の話は禁句言葉タブーワードで絶対に触れちゃいけない一線ライン


 藍莉の言っているのは二年生になってからの話ならば、尚更だ。


 アイツの家族、親戚は一年前の『刃龍の一件』で皆殺しに遭っている。


 ある筈がない。あの朝倉さんだって、それを理由に遠ざけるように助言までしていた程だ。


 じゃあ、僕になりすまして、誰かが嶺二と話をしたという事になる。


 誰だ?僕は知らないぞ?本当に⋯⋯。


 朝倉さんと初め会った時の事を思い出した⋯⋯。


「難儀だなぁ、少年。アッチもコッチも化け物だらけ。ついでにアソコにも⋯⋯いやぁ〜、不幸自慢出来るぜ?──」


 あの時のあの言葉、顔が向いた方角としては、学校の方向だった。


 最初は学校を通り越して更に別の場所とも思っていたのだけど、もしかしたら⋯⋯違ったのかもしれない。


 あの人は知ってたんだ⋯⋯、【僕の通う学校に何かが潜んでいる】事に。


 紗央里って人の件もある。──他人事ではいられなくなるかもしれない。


 僕がこれから補習で通う学校。


 何時も通りの真新しさも微塵もない普通の学校へ向かうのが急に怖くなった。


「大丈夫?」


「⋯⋯っ!?あ、あぁ、うん。平気」


 この高鳴る鼓動の原因は彼女によるものだと信じたかった。


 胸騒ぎによる鼓動の高鳴りなんて、僕は要らない。


 心配そうに顔をのぞかせる藍莉。


 それを払拭させるように笑ってみせるものの、自分でも分かるぐらいには、ぎこちなかった。


「また、キスでも⋯⋯する?」


 キスは決して、万能薬ではない。


 ただの愛情表現の一種でしかなく、慣れてしまえば胸の高鳴りなんてないまま、平然と出来るようになる行為。


 しかし、病は気からとも言うし、僕はそれを受け入れるように頷いた。


 ゆっくり近づいて行く藍莉の顔には緊張が走っている様子で、それが何処か可愛くて⋯⋯。


 これから先、何があるか、どうなるかは僕には分からない。


 けれど、どうか──目の前に居る彼女だけに集中させてくれ。


  ━ ━ ━


 じっくりと藍莉のお腹の匂いを堪能した後⋯⋯当初の予定通りに僕は補習へと向かう事にした。


 学校には何かが居る。それが分かったからと言ってその存在を確認出来ないのならば意味が無いし、『富谷奏海の件』も残っている。


「確か、学校にシャワーあったよな?水泳部の⋯⋯」


 お風呂に入っていないと言う藍莉に僕は水泳部が使うシャワーをご提供したのだが、彼女は大変不服そうに口元を尖らせた。


「私は暖かい湯が欲しいのだけど」


「いや、でも⋯⋯荷物も全部学校なんだろ?」


「っ。そうよ。仕方なかったのよ」


 理由や何があったか、そこら辺の事は聞けていないし、聞ける雰囲気でもなかったが、彼女はどうやらバスケ部の部室棟にスマホ、財布といった貴重品類を始めとした鞄等の荷物も全て置いて来てしまったらしいのだ。


 それを最初聞いた時は「?」が思わず浮かび上がってしまった。


 雨が降っていたから傘を差して店に入り、帰り際には晴れていたから傘を忘れて来てしまいました、テヘ!──なんて、そんな状況とは訳が違う。


 何か理由があって、もっと言えば藍莉が焦る様な何かがあってそうせざるを得なかった。


 そう考えた方が自然としっくり来る。


「准、私の着替えはどうするのよ?」


「あ⋯⋯」


「貴方ね⋯⋯。私、女子なんだけど?」


「いや、そこ関係ないじゃん〜」


 正直、忘れていた。風呂に入るにしろ、シャワーだけを浴びるにしろ、着替えは必需品であるという事をしっかり失念していた。


 言われてみれば、学校に帰ったからと言って荷物の中に着替えが必ずしもあるとは限らない。


 汗臭くなった体操服を替えとして用意しておく女子もいるにはいるけど、そもそもの話、藍莉が高校に進学した頃には不和の家庭が完成していた。


 家族それぞれの言い分はきっとあったろうが、藍莉は妥協していた節もあるし、最低限の衣類と文房具しか持ってなかったのだろう。


 そうでなければ、フラストレーション解消の為に引越し後にお洒落に気を遣い始める訳がない。


(どうしよう⋯⋯。あ、そうだ)


 一つ、いい案が思い浮かんだ。


 正直、僕も同行してやりたいが背に腹は変えられない。


 心を鬼にして提案する事にしよう。


「舞喜に届けさせる。中学に通う練習も兼ねてだ。丁度良いだろ?」


「私はちゃんと知らないけど、学校に通うのって、あの子にとっては辛いんじゃないの?」


 辛いのだろう⋯⋯、百も承知だ。


 元々の切っ掛けは【当て馬】だろうが、舞喜の意思と同調する形で増長していった感情が、結果として去年の春に起きた事件を齎してしまい、都合良く記憶は改竄なんてされず、『何故こんな事をしたのか』『何をやってるんだ』『どうしたら償えるか』という自分を責め立てる言葉を並べ始めた。


 被害者の数だけならそれほど多くはないが、それでも進学したての出来たてほやほやの中学生。


 様々な考えが巡り巡って、入院中も深く沈んだ表情を浮かべる事も多かった舞喜だが、何時までもそういう訳にはいかない。


 僕自身は中学をマトモに行かなくとも、通信高校や夜間学校等を通って、卒業してある程度の自立が出来るようになるならば、それで構わないと思う。


 しかし、舞喜本人が『中学に行きたい』と入院中に口にしたのを皮切りに、手を貸そうと決めた。


「アイツが決めた事なんだ。自分からそうしたいって⋯⋯。でも、それは本人がやらなきゃいけない事だろ?だから、敢えて行かせてみる」


 恐らく、償いのつもりなのかもしれない。


 もしかしたら、自分から叱責される事を望んでいるのかもしれない。


 自罰的な考えなんて無駄なのだと思考が理解していても心がそう納得させてくれないのだ。


 分かっている、僕一人の力では多分、舞喜は前に踏み出せないなんて事は⋯⋯。


 でも、舞喜を助けてくれる人間を僕自身が作っていって、一人でも多く巻き込めれば、変わるかもしれない。


 兄ならば──舞喜の家族ならば、妹を支える為に、敢えて非道になっても仕方ないと、そう感じる。


「⋯⋯分かった。なら、部室に着いたら、着替えを届けさせるようにする」


「それと昨日、舞喜が心配してたから、ちゃんと謝っといてやれよ?」


「⋯⋯うん。ごめんなさい」


「今日の藍莉は謝ってばかりだな⋯⋯」


 悪くないぞ、と口にするより表情で示した方が効くと感じて柔らかな笑顔を見せる僕だが、効果はいまひとつのご様子。


 申し訳なさが先行し過ぎている感じもするが、そこは立ち直ってくれると信じて何も言わない。


「悪いとは、本当に思っているのよ?連絡する手段がなかったのもそうだけど、そっちの事を軽んじてた。蒼太を預けっぱなしにしてたし⋯⋯」


「なら、ちゃんとそれを舞喜に伝えてやってくれ。僕はもう、届いてるから」


 昨日の夜は、僕よりも舞喜の方が騒がしく、「やばい!寝盗られたんじゃないの?!」とか「何かあったらどうするの!お兄ちゃん、GO!!」と息巻くだけ息巻いて、スヤスヤと疲れ果ててお寝んねしてしまったが、本心では口先以上の不安感があったのだろう。


 仮にもあの歳で中学の友人関係は事実上の自然消滅してしまい、仲の良いのは家族を除けば、藍莉とトッキー、蒼太と最近では牧原と富宮となる訳だが、頼りになる輩が多い分、何かあった時の不安感も絶大なのだ。


 諸刃の剣じゃないんだから、もっと信じてやっても良いとも思うが、はてさてどうなるか⋯⋯。


 蝉の鳴き声が五月蝿く響き渡る中、斜面を通る。


 もうすぐで学校だ。隣を一緒に歩く藍莉を見ると、何処か不安感を滲ませた表情をしていた。


 思えば、何故学校ではなく家に帰ろうとしたのだろうか?


 荷物を取りに行った方が手間は省けて良いと感じる。


「藍莉、なんで学校に向かわなかったんだ?歩いて来てた方向からして学校の方が、家よりも近いだろ?」


 途端に始めてしまった僕の質問に「あ〜それね」と一呼吸置くように呟いた。


「部室棟どころか校門まで閉まってたのよ。時間厳守だからそういう所は⋯⋯。それならいっそ、帰って落ち着いて部室棟に荷物だけ取りに行って帰ろうとしてたの」


「二度手間じゃないか?」


「分かってる、でもバスケ部の練習が始まる時間まで居ると色々聞かれそうだったから⋯⋯」


 開門は八時半、補習の始まる時間は八時四十五分。


 部活の始まる時間は部活によってマチマチだが、大体、九時半から十時半の間。


 成程、確かに一時間程、時間に余裕がある。


 体育館で練習するから、荷物を取りに行くだけなら見られる心配すらないって事か⋯⋯。


 それにしても、聞かれるって余っ程の事があったって事になると思うのだが、何があったんだ?


「ねぇ、私。学校に残った方が良いのよね?」


 少し怪訝そうに口にする彼女の表情には苦いものを感じる。


 本当に嫌ならその際は良いのだが、出来れば残って欲しいのが本音。


「聞きたい事もあるし、聞かせたい事もあるから、出来ればな」


「聞かせたい事?」


 トッキーが校門前まで来てくれる⋯⋯何時もならそうだし、今回もそうだと信じたい上での行動。


 トッキーに今回の事件の事を聞かせて、色々と対策を練りたいというのが真実なのだが、信じてくれるかはまた別。


 けれど、言わなければ藍莉自身が身を守れない危険性が出てくる。


 聞いた話では藍莉と蒼太は自宅で亡くなっていたらしいから、場所さえ変えれば何かが変わるかもしれない。


 そんな淡い期待を胸に秘めて、辿り着いた⋯⋯学校前まで。


「舞喜が来たら、褒めといてくれ。んじゃ」


「貴方も頑張りなさいよ?補習、しっかりね?」


「おう!」


 小さく手を振る彼女に見送られながら、昇降口へ入っていく僕と部室棟へと脚を運んだ彼女。


 僕はこの時、まだ知らなかった──大州藍莉が今回の事件において、核心的な物事を心に潜ませていた事を⋯⋯。


  ━ ━ ━


 准が補習に向かってから一時間半以上が経過した現在、溜め息混じりにシャーペンを走らせる准とは別に部室棟で荷物を持って、別の場所で一度待機。


 その後、聞き耳を立てて、グラウンドと体育館に各々の部活メンバーが練習を始め出した笛の音とバッシュの音が聞こえると、校門前までダッシュ!その後、前持って連絡しておいた舞喜が着替えを持って来るのを待っていた。


「どうしよう。言うべきかしら。でも言わないと⋯⋯」


 それは語るべきか否か悩む程だった。


 彼女は知っている。二人が険悪な事とそれに茶々を入れようとしていた人物の事を⋯⋯。


 以前から予兆自体はあって、それとなく言い聞かせてきていたが、それも自身が声を掛けてくれる口実だったという解釈に収まってしまい、頭を悩ませていた。


 罰する気はなく、むしろ放置していた自分にも落ち度があると感じてしまう。


 理由は一つ、大事なものが欠けたからだ⋯⋯。


 世の中はトントン拍子に何もかもが上手くいくならば、それで良いのだろうが、そうはならないのが常であり、必然的な事柄である。


 昨日の夕暮れ、最悪的な展開を目の当たりにしてしまい、その後も様々な口論と罵声の末、分かり合えないと判断した彼女の一言は一人の人物を苦しめた。


 泣く資格はないと蔑んで、自罰的になった帰り道は既に明るく、腫れた目元と枯れかけた声だけが、嫌に現実感を帯びせていき、事実として残る始末。


 こんな筈ではなかったと、口にするのは容易い。


 だが、自身よりも酷い状況下に置かれている人物が居て、それが間近の存在ならば、口には出来なくなる。


 少なくても彼女にとってはそうなのだ。


 それが今もまだ、心の中に渦巻いていて、准の存在で多少なりとも落ち着きが見えようと、一時凌ぎにしかなりはしない。


 晴天の真っ青な空を見上げるものの、燦々と照らされた太陽が瞼を閉じさせていく。


 暑さよりも心に吹き荒れた嵐が身体を騒つかせて、汗を滲ませる。


「藍莉さ〜ん」


 遠くから、藍莉を呼ぶ声が響く。


 その方向に顔を向けると、大きく手を振った舞喜と空いた手に蒼太の手が繋がれている。


「あ、来たわね。舞喜ちゃん、蒼太も」


 無邪気に舞喜から手を離した蒼太が藍莉目掛けて走り出す。


 そして、身体前面で蒼太の身体を受け止めた藍莉は蒼太の顔を窺う。


 結局は会う事が叶わなかった弟。健気に無邪気で怪我もない弟を見た藍莉は微笑む。


「お姉ちゃん、昨日どこ行ってたの?」


「ごめんね。ちょっと色々あって。大人しくしてた?」


「うん!当然!」


 頭を軽く撫でて、されるがままの蒼太から視線を外し、ゆっくりと近付いて来る舞喜へと目を向ける。


 茶色の紙製の袋を持って、それを届けに来た舞喜はそんな姉弟を見て少し笑顔を浮かべながら、舞喜の近くを行く。


「そ。なら、良いわ。舞喜ちゃんもありがとうね」


「いえ、構わないですけど、なんで着替えなんですか?言われた通り、体操服とジャージ一式持って来ましたけど⋯⋯」


 下着とタオルという簡易的お泊まりセットが詰まったその袋の中身を舞喜はわざわざ覗いて確認する。


「ちょっとね。准に頼まれちゃって」


「え?!お兄ちゃんが着るんですか?」


 引き攣った顔をしながら、袋の中を覗いていた顔は藍莉へ向く。


「えぇ、サイズ、合いますか?」


(なんでそうなるのよ⋯⋯)


 ふと、目の前に居る舞喜の発言から、「やっぱり血は繋がってるのよね」と心の中で溜め息混じりに思ってしまう。


 要らない所で変化球、更にはボークもお手の物。


 それが桐江兄妹なのだと、改めて再認識してしまう藍莉は舞喜の持ってた袋を掴んだ。


「違うわよ。私が着るのよ。ところで舞喜ちゃん、大丈夫だった?」


「蒼くんが居たので、なんとも。でも、一人だとちょっと怖いですね」


 先程までのやんわりとした雰囲気は何処へやら、気付けば、警戒心が跳ね上がった少女が目の前に立っているのだから、藍莉は目を細めた。


「周りの目を気にしちゃうと言うか⋯⋯」


「そう、でも良かったわ。何ともなくて」


 藍莉は舞喜がどういった心境なのか、症状の程度を知らない。


 率先して准も語らない辺りが、そうさせているのだ。


 藍莉の心配気な表情に気付いた舞喜は強ばった笑顔を見せるも、やはり不安感は拭えずにいる──そんな時だった。


「お姉ちゃん、僕ジュース欲しい」


 腕を引っ張る蒼太に目が行く。


 暑い季節に幼い子供の体力では徒歩三十分以上も掛かる道は険しい部類に当たる。


 舞喜が一緒の為、事故の不安感こそなかった。


 しかし、そこだけに目がいきがちになり、水分補給という観点を見落としていた藍莉は急ぐように校門の方へと歩き出す。


「買ってあげるわ。中に入る?」


「うん!」


 蒼太と藍莉が校門内に入り、学校の敷地に入る。


 釣られるように、何より置いて行かれないように舞喜もその脚で学校へ向けて脚を動かして⋯⋯敷地内に一歩、踏み出した。


【呪い】が身体を覆った。


 自己暗示にも近いその【呪い】は舞喜の身体に無数の黒い手が伸びていき、全身を強く、強く、強く、激しく締め付ける。


 傍から見れば手なんて無く、【呪い】の類は垣間見えないだろう。


 しかし、確かに舞喜には見えている。


「っ!あッッ。はぁ、はぁ、はぁ⋯⋯⋯⋯」


 縛られて、囚われて、結び付いたその【四騎士が齎した因果の呪い】とそれを弱体化させるように埋め込まれた『呪外輪の蹄』が交錯し、結果として舞喜の心臓は一気に心拍数を上げて、身体は痙攣、視線も覚束無くなり、思考はドンヨリとしたものへと変わっていく。


「舞喜ちゃん?!」


 何時までも後ろからやってくる気配を感じなかった舞喜に気付いた藍莉が振り返ると、呼吸困難にも近い状態となって蹲る舞喜だった。


 急いで駆け出して傍に行き、背中を擦ろうとすると

 火花が散ったように藍莉の手は舞喜の元から弾かれて、爪が僅かに欠ける。


(な、なに?!これ⋯⋯⋯)


 触れる事はれる事と同意義であり、『触らぬ神に祟りなし』という言葉の通り、『呪外輪の蹄』の複数ある内の一つの効果で【呪い】の効力を落とすのと同時に朝倉拓也の手により、強制的に他者が触れられないように細工が施されている。


 仮に細工無しに触れば──【呪い】は伝播する。


 超特大の【人に手向けられた試練のろい】であり、去年の四月に舞喜が受けた【馬に乗る司りの四騎士(あてうま)】の効力ちから


『支配を求め』『勝利に固執し』『飢餓を齎して』最後には『死を賜る』正真正銘の厄災。


 人間という一種族にのみ与えられた一つの試練であり、選ばれた者は新たな道へ導く為の審判者ジャッジマンにして、副産物。


 駆られる蹄は因果を鳴らして、水面を渡り選別の一途を弾けさせる『人類特攻ヒューマン・キラー』でもあるそれ等は現代では存在せず、神話、偶像、秘像の類いであり、現出してはいない。


 だが、【模造品】ならば話は変わる。


 本来の【馬に乗る司りの四騎士(あてうま)】はそれぞれ、決まった順に現れる。


 他の黙示録も同一であり、正しい並び、手順、方法で現界されるのが通例だが、【模造品】に関しては例外であり、人に憑くという本来ありもしない性質を持ったそれ等は現実問題として人に憑いてしまった。


 その結果──桐江舞喜は【呪われた】


 それは事件を解決した後を尾を引き、彼女の心に巣食い続け、急激なストレスを感じるようになると、連鎖反応として【呪い】も出るようになっている。


「ッッ。だ、大丈夫で、す。ちょっと、立ち眩みが⋯⋯ぅぅっ」


 嗚咽感が腹から喉、そして口元までやって来てしまい、口を抑える。


 吐き出されたのは黒い何か。ドロっとしたシロップのようなものであり、決してそれが血液ではない事は見て明らかであった。


『呪いの液滓カス』と呼ばれるものであり、体内に宿っている【呪い】が発動した段階で更に発動する『呪外輪の蹄』により、強制的に効力を落とし、絞りカスとして体外に吐き出させようとした結果、生まれたもの。


【呪い】は人の生命力を糧にして効力が増していく。


『呪外輪の蹄』は【呪い】を糧に効力を発揮し、【呪い】が強ければ、強い程に効力が増大する。


 その効果は【呪い】の効果を鎮めるだけに留まらず、『辺りにいる者の生命力の剥奪』がある。


 これにより【呪い】を受けた者は人が周りにいる限り、【呪い】では死なず、【呪い】を除去していく事が可能なのだが⋯⋯それを埋め込んだ朝倉拓也は【呪い】の件も『呪外輪の蹄』の事も、知っていながら、その情報を何一つとして伝えてはいない。


 その為、補習中に呑気ながらの欠伸をしている准にとっても、舞喜の現状は想定外の事であった。


「舞喜ちゃん?!」


 黒い液体は鼻からも漏れて、ポタポタと数滴落ちていく。


 咳き込む舞喜に藍莉は触れようとするも、先の手に加えられた衝撃が脳裏を過ぎり、途端に伸ばそうとした腕は止まる。


「舞喜お姉ちゃん!」


 蒼太が堪らず舞喜に触れようとするその手を懸命に止めに入る藍莉。


 何も出来ない、してやれない。


 背中を擦る事や垂れてしまった黒い液体を拭ってあげる事も叶わないと頭で理解した時には藍莉の顔は酷く苦痛に満ちた表情を浮かべていた。


「ごめんなさい。私のせいだわ」


 それから二分、一頻ひとしきり吐くだけ吐いた舞喜は完全に疲れ果ててしまい、涙を溜めて壁に凭れ掛かりながら、そっと手を伸ばす藍莉の手を掴む。


 汗に濡れた腕から、発汗の程度が半端なく、大粒の汗が前髪を濡らして、滴る。


「舞喜ちゃん!大丈夫⋯⋯じゃないわよね」


 スポーツドリンクを脚近くに置いて、様子を窺う藍莉、そのすぐ後方には学校の校門があり、潤んだ眼で見つめた。


「学校の中に入ろうって意識すればするほど、怖くなって⋯⋯。おかしいですよね、自分のした事なのに⋯⋯」


 吐く事にも体力を使い、先程まであった元気は嘘のように消沈している。


 フラついている身体は、自由意思を奪われたようにフラつき、脳はズキリとした痛みに襲われて、視界は鮮明さを失ってモヤのようなものが眼球の上から被せられたように悪い。


 ペットボトルの蓋を開けて、ゆっくりと手渡して行く藍莉とそれを受け取って飲もうとする舞喜、そして心配そうに様子を手を掴む蒼太。


「そんな事ないわよ。貴方のお兄さんも言ってたでしょ?悪くないって」


「でも⋯⋯」


「舞喜お姉ちゃん、学校嫌いなの?」


「どうかな?嫌い⋯⋯なのかも」


 確信はなく、何処か他人事のような受け答えをしてしまう舞喜に悲しげな表情を浮かべる藍莉は優しく頭を撫でる。


 その行動に舞喜は訝しむように見つめて、最後に諦観した。


 伸びていた藍莉の腕は自然と舞喜に払われて、壁に手を付けながら立ち上がろうとする。


「ごめんなさい、もう大丈夫ですから。私、帰りますね⋯⋯」


 暗く沈んだ瞳は『正しい者』には理解されない。


 だから、大州藍莉は見抜けず、唇を噛む舞喜の表情は失望や絶望感よりも、劣等感が強く浮き彫りになっていた。


「待って、舞喜ちゃん。私も一緒に帰るわ」


「⋯⋯⋯⋯どうぞ」


 スマホを取り出し、准へ予定変更の意を表すメッセージを伝言して貰う役を選ぶ。


 送信する相手だけならば沢山居るが、准と話せる相手ともなると数はかなり限定されてしまい、少し迷った末に、選ばれたのは──。


「逸花に頼んでおこうかしら」


『夢龍』は今日も使いっ走りが確定した。


 スマホで逸花にメッセージを送る姿を羨ましそうに眺める舞喜はフラついた足取りで帰路を辿る。


(そうだよね⋯⋯。そうなんだよ。結局、アタシ馬鹿だから、駄目だから⋯⋯。お母さんとお父さんの言った通り、お兄ちゃんと違って出来も悪いから⋯⋯、だから、学校にも行けないんだ⋯⋯)


 自然と涙が溢れて、視界はいよいよ道を示す事をしなくなった。


 理解出来る訳がないと蔑みを覚えた十三歳の女の子は藍莉の必死の言葉も聞かず──。


「駄目ぇぇぇぇぇぇ!!!」


 ──道路に飛び込んでいた。


 斜面を降りきった舞喜は真っ直ぐの方向には車道のみが横軸に広がっているのみにも拘わらず、ガードレールを自ら跨いで、ワゴン車と激突しに向かって行ってしまう。


 急ぎ斜面を走り出す藍莉と唖然とする蒼太は叫ぶ。


 そして──激突は回避された。


 ワゴン車が急停止し、ブレーキ痕を道路に付けていく中、荒くなった息を整える間もなく、庇った際に倒れ込んだ舞喜を睨む。


「はぁ、はぁ⋯⋯⋯。何やってるのッ!!」


 交通事故で自身と弟が一度死に、目の前で准が轢かれたという彼女にとって完全な地雷を踏み抜いた舞喜は叱責される。


「お姉ちゃん!舞喜お姉ちゃん!」


 ガードレール越しに居た蒼太もようやく状況が呑み込めたようで、安否の声を叫び、姉が無事な事に安堵を浮かべる。


 そして、ワゴン車に乗っていた青年が一人、降りてくると、急ぎ藍莉と舞喜の元へ駆け寄って行く。


「大丈夫か!危ないだろ!飛び出したりなんかして!勘弁してくれよ!」


 怒りでどうにかなりそうなのを耐えるように睨む青年だが、誰も非難なんて出来はしない。


 十中八九、舞喜が原因なのだから。


「ごめんなさい!私の不注意です」


「怪我は?!」


「舞喜ちゃん、怪我は?」


 互いは舞喜を見つめる。蹲りながらも、身体は震えていた。


 死への恐怖心からではない。


「もうっ、ほ、放って⋯⋯放って置いて、くださいっ」


 絞り出した声には生気は感じられず、蹲るばかり。


 地面に反射したその声を聞いて初めに反応したのは藍莉であった。


「何言ってるの?!舞喜ちゃん?」


「わ、私はぁぁぁ!⋯⋯駄目な子だからー!お母さんにも、お父さんにも⋯⋯棄てられて、出来が悪いから!死ぬしかないんですッ!!なんで、死ねないの。なんで皆、優しいの⋯⋯、なんで出来ないの?なんでッ!なんでぇ⋯⋯」


 夏休みはまだ始まったばかり。


 けれど、蒼太にすら普通に通れる校門をたった一歩、進んだだけで起こってしまった発作と【呪い】は舞喜の心を蝕む。


 友人が居ない、校舎に入れない、両親からの言葉、様々なものが心の中で入り乱れて、理解などされないと自らをふるいに掛けて行った生殺与奪は失敗した。


「うぅぅぅぅ──」


「病院、病院だ。救急車を呼ぶから。動けそうなら歩道に行って!」


 スマホをポケットから取り出して、急ぎ救急車を呼ぼうとする青年。


 判断は間違っていない、殴打してしまった箇所が目視では見えないところにあるかもしれない、頭を打ってしまい今後、影響が出るかもしれないという善意からの行動。


 しかし、そんな言葉を聞いた舞喜は蹲るのを止めて、這いつくばりながら男性の脚元へと手を伸ばす。


「や、やめてください!お兄ちゃんにも見捨てられる!捨てられたくない!一人ぼっちになる!嫌だッ!」


「君ね!怪我してるかもしれないんだぞ?!」


 大きく声を荒らげる両者。


 涙を流して、ゆっくりと膝を下ろしていく。


 藍莉は舞喜の行動に目を疑った。


 蒼太はその光景が異様であると気付く。


 舞喜は土下座をしていた⋯⋯。


 何の躊躇いもなく、慣れた動作と手付きで頭をアスファルトが広がる車道に擦り付けている。


「大丈夫です!大丈夫です!大丈夫ですから⋯⋯。大丈夫です⋯⋯、大丈夫に、なりますから、大丈夫でいさせて、ください⋯⋯。アタシ、もっもっと、もっとちゃんと出来るっ、子になるからぁ」


 青年は純粋に、目の前で頭を垂れる女の子を不気味に感じてしまう。


 舞喜の後方に居る藍莉すらもそれは同様である。


(なに、これ⋯⋯。どういう事?准は知ってる、の?)


 怯えと恐怖が身体を突き動かした結果、土下座という選択肢が浮かび上がる事自体、間違ってはいないだろう。


 しかし、舞喜のそれは常軌を逸している。


 善意の言葉、自身の行いを垣間見えない言動、圧倒的なまでの自罰性からくる言葉。


 普段から舞喜の事を見ている藍莉には想像も付かないような事が目の前で行われているのだと、唖然とした様子で眺めるのみ。


「⋯⋯⋯⋯君、この子のお姉さん?こんな事、俺⋯⋯言いたくないけど親御さん、どんな教育させてるの?」


「⋯⋯⋯気を付けさせます」


「⋯⋯はぁ。怪我はないんだね?」


「あ、ありません」


「なら良いよ。もう!気を付けてくれ!病院に行った方が良いってのは、言っとくよ。それじゃあッ!!」


 急ぎ、ワゴン車に戻り、サイドブレーキを解除した青年はすぐにその場を去って行く。


 早い話、関わり合いたくなかったのだ。


 青年は確かに見てしまっている。


 舞喜が飛び込む直前の光景を⋯⋯。


(笑ってたな⋯⋯。最悪だ、夢に出そう⋯⋯)


 一方、車道から歩道へと戻りたい藍莉は舞喜の肩を掴んで、立ち上がるのを支えようとする。


「舞喜ちゃん、立てる?」


「はぁ、はぁ⋯⋯⋯⋯大丈夫、大丈夫、大丈夫」


「舞喜ちゃん?」


 小声で滑舌も非常に悪く、何を呟いているか藍莉には聞き取れずにいた。


 そんな舞喜の言葉を少しでも懸命に聞こうとする藍莉は耳を澄ませていると、耳元で舞喜が呟く。


「藍莉さん、私、大丈夫に見えますか?駄目な子に──見えますか?」


「っ⋯⋯⋯⋯」


 思わず身体は離れて舞喜の方を見ると、意気消沈し魂でも抜かれたかのような舞喜がそこに佇んでいた。


「舞喜、ちゃん?」


「⋯⋯藍莉さん」


 息を呑んだ藍莉は静かに後退りをしようとする。


 しかし、ここは車道。歩道に近く、安全な道を行くのならば前を突っ切るのが早く、懸命だ。


 それを知っている藍莉は思わず後ろへ向かう脚を止める。


(まさか、何かの『現象』に舞喜ちゃんの身体に憑くいた、なら良いわね⋯⋯)


 俯く顔からは表情が窺えずにいた。


 日光はまだ上にあり、影は地面へ描かれているというのに、表情が読み取れないという不気味さが藍莉の身体を強張らせる。


 徐ろに顔は上がった⋯⋯。


「ごめんなさい。私、どうかしてました」


「え?」


 素っ頓狂な程に何時もの舞喜へと戻り、何食わぬ顔で微笑んでいた。


 それには藍莉も呆然としてしまうも、それに構わず舞喜は続ける。


「助けてくださってありがとうございます。お礼はしますので⋯⋯帰りましょ──。あれ?」


 しかし舞喜が一歩、踏み出そうとすると、カクンッ!と急に視界から舞喜が居なくなり、藍莉は驚き下を見ると、下半身だけが脱力したような状態となった舞喜が自身も驚いたような顔をして自分自身を見回した。


「舞喜ちゃん!平気?」


「⋯⋯あはは、腰が抜けちゃったみたいです。えへへ」

以前は兄が後方で見てくれていた、此度は違う!


残念だが、何時までも甘えるな、妹よ!


だから、苦しめ。

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