ここから始める罪咎の時間
私は英語や化学式よりも数学が嫌いです。小学生の頃、展開図とかいうド畜生に打ちのめされました。
三角形の求め方よりも台形の求め方を先に覚えた異端児は恐らく私が世界初でしょうが、数学になるとちんぷんかんぷんでしたね、はい。
上辺下辺ってなんだよと解らずに正解していたのが、遠い記憶です。
人間なんて、普通は四則演算さえ覚えときゃ生きてけんだよ!
でも、最も嫌いなのは古文です。
今回の話には数学要素が出ますが、ハッキリ申すと、ネットを見ました。
だって、覚えてないもん。
関数とか138億光年先の宇宙へ知識ごと飛ばしました。
皆様、聞いてください、僕のお家でハーレムが出来ました。
まずエントリーナンバーワン!
トッキーこと常盤美羽。彼女はなんと言っても元・お嬢様であり、卑屈で、図々しくて化粧もしない女性であり、僕の後輩。
特徴はなんと言っても、ストッキングを履いている事にあり、もはやストッキングが本体なのかと思われますね、えぇ。
そんな彼女にも特技があり、なんと!『時間の掌握(弱体化)』が出来るのです。
これは凄い事で、物体の時間の流れ、世界の流れを遡行して過去や未来に一飛!⋯⋯だけではなく、対象者が死んだ直後に発動させればその対象者を過去に飛ばせるというミラクルガールなのだ。
ただし、使った直後はバテやすいのが損であり、最も今後、事件を起こしそうな匂いがプンプンしますね!
続いてエントリーナンバーツー!
さややんこと笠辺沙耶先輩。なんと言っても凶暴かつ強靭な戦闘能力で男だろうと女であろうとタコ殴りにする事が魅力的であり、ロボット風な喋り方や表情筋に針金でも刺さってんのか、と思わされる程に人感がない変人先輩です。
そんな先輩もルックスは良いのですが、何故か、本当に何故かっ!僕に対して好意があって、正直に申しますと、僕は怖い──。
一目惚れと言ってくれたエントリーナンバーワンさんの方がまだ可愛いですな。
そんな彼女の最大の特徴は刀を抜いたら何故かロボット風な喋りと表情筋が柔らかくなる事にあります。
こうなった時の彼女はべらぼうに強くて、【五月病】の時なんて、正直引きました。
後、口癖は「身体は器」とかいう訳の分かんない台詞であり、これも嫌いですね、はい。
そして、エントリーナンバースリー!
あだ名無しの富宮奏海だぁ!なんとも言っても、煩い!黙れ!死ね!のオンパレードであり、ボキャブラリーが少ない事が傷であります。
僕が彼女を見ると、その勢いのまま噛み付かれそうになりましたよ、えぇ。
犬かな?チワワだと思えば可愛いものでしょうか?
そんな彼女の最大の特徴は贔屓が過剰である事であり、好きな物、人、事柄には全力投球なのに、嫌いな事にはボーク前提で退場待ったなしのド畜生、鬼畜な態度をかまして、家畜以下と虐げる眼差しを向ける度胸にあります。
ドMな方は僕の電話番号まで掛けてください、すぐに引き渡します⋯⋯僕、スマホ無いじゃん。
以上三名の要らないハーレム情報をお伝えしました──助けて⋯⋯、僕は一途でありたいの。
こんな所、藍莉に見られたら、節操のない屑とか思われる可能性だってあるじゃん。
僕の住んでいるアパートには何故か今、時駆け後輩、変人先輩、狂犬同級生の三人が家に居る⋯⋯。
すみませんが、帰って貰えないだろうか?
チワワみたいな凶暴な富宮はまだ『現象』の件があるから最悪、良いとしても残り二人は僕の許可なく平然と、淡々と当たり前のように部屋に入って来ており、変人先輩なんてお泊まりセットまである始末。
ハッキリ言って、迷惑だ。
「先輩、帰ってください」
「⋯⋯⋯⋯いや」
嫌、じゃないのよ⋯⋯。抱き枕を抱き締めて上目遣いしても駄目!
「トッキー、帰って」
「家には帰ったでしょ?」
お前の家にだよ。焼け野原になったお前の屋敷に放り棄ててやろうか⋯⋯。
「富宮、追い払って」
「お前がやれ死ね」
遂に語尾に死ねが付いて来ちゃった。自転車漕いでる時に並走する虫か何かなの?
結論──コイツら皆、嫌い!
━ ━ ━
常盤美羽には桐江准に何かあった際に時間を即、戻れるようにする為、常時着いているようにしていた。
何故か?『富宮奏海』の動向があまりにも不自然極まりないからである。
既に、准も彼女の怪しさに目を光らせているのは確かなのだが、美羽からすればそれだけでは留まらない。
幸いな事に笠辺沙耶が傍にいる為、ある程度の動向を探る事は難しくはないのだが、それでも先輩であり、恩人でもある少年をみすみす死なす事のないように注意を図っていた。
次に笠辺沙耶は常盤美羽よりも緊張が走っている。
抱き枕をギュッと抱き締めて、准の自宅から追い出されないようにする為だ。
何故か?それは至極単純な話であり、この女──お泊まりセットをわざわざ持ってきたというのに無駄になるのが嫌だからである。
「私は⋯⋯泊まる。泊めて!お願い⋯⋯」
リビングの真ん中、ソファと前にあるローテーブルの横にピッタリくっ付く形で布団を敷き、抱き枕を身体に密着させている沙耶は現在、少年の必至な抵抗に抗っている最中。
どんなに上目遣いをしても媚びても全く動じない少年だが、それには訳があった。
それは──表情が硬すぎて、ただ上を向いているようにしか見えないという事である。
仮に沙耶の表情が柔らかく、口角が多少上がっていて、頬が赤らんでいれば少年は「仕方ねぇな〜」とデレッデレな顔付きでOKサインを出したであろう。
しかし、お人形さんみたい〜と幼き頃から言われ続けた彼女は客観視出来ていない。
ルックス良し、愛嬌ダメダメ、話術鼻クソレベルな沙耶では、少年を堕とす事は叶わないだろう。
「なんでですか?!くどいですよ?!」
「上目遣いなら、何時でもする、からーー!」
「要らん!」
ならば、奥の手だとばかりに最後の賭けに出た。
「じゃあ!処女あげる!」
「要らないッ!」
だが、少年の言葉は彼女の言葉を理解した上で即答。
それに驚いた彼女は掴まれていた抱き枕を、自ら力なく離してしまう。
「へぇ?」
「うわぁぁっ!」
そして、抱き枕を引っ張っていた力は全て准が後方へ倒れる為に使われて、音を立てて尻もちを着いてしまう。
「私の⋯⋯初めて、要らな、い?」
ショック、驚愕、落胆。どれを形容しても正しいであろう彼女の心は掻き乱される。
表情は変わらないのに⋯⋯。
「いや、そんな悲壮感漂わせられても⋯⋯」
しかし、笠辺沙耶検定テストを、親の次に高得点を叩ける所の少年には彼女の表情なんて分からずとも彼女が悲しんでいるのは理解出来てしまう。
だとしても、申し訳ない⋯⋯なんて気持ちにはならなかった。
むしろ、なぜお前が悲しむ資格があるのか、とばかりに胡乱な表情で見つめている。
「お兄ちゃん何やって⋯⋯なんかいっぱい居る!」
自室から居眠りを済ませて、大きな音から兄が帰ってきたと判断した妹の舞喜は、ダイニングで座っている奏海、キッチンでコップを用いて飲み物を注いでいる美羽、そして──リビングで勝手に布団を敷いて、固まってしまった沙耶を見て驚いてしまう。
「違うんだ!これは誤解だ、なにかの罠だ!」
アタフタと言い訳を並び立てていく少年であるが、聞いている者皆が思った事を一言で代弁すると⋯⋯。
(言い訳、へったくそ!!)
となり、元より嘘が得意ではない少年はこれで精一杯の抵抗である。
「お兄ちゃん、節操のない屑だね」
「よりにもよってお前に言われるんかい⋯⋯」
「なんで?!アタシ、節操しかないんだけど?」
「馬鹿言え!こんな時間までぐうたら腹出しながら寝てる奴に節操なんてあるか」
朝は蒼太とソファで優雅に就寝。
その後、藍莉に起こされて、蒼太を連れて帰るのだが、結局また自室でお寝んね。
ぐうたら娘の爆誕である。
「お腹出してないもん!出してるのは脚と腕だもん!」
「その流れだと、顔は出てないのね⋯⋯」
「常盤さん、そこは突っ込んじゃ駄目です」
コップに注いだお茶を口に含み、喉を潤す美羽に苦言を呈した舞喜はキッチンへ向かう。
黄色の水玉の模様が施されたコップの取っ手を持ち、美羽が近くに置いたピッチャーからお茶を注ぐ。
「そうだった。舞喜、紹介するよ」
少年には接点があっても舞喜にもあるとは限らない。
立ち上がったのは沙耶であり、座ったまま奏海は軽く会釈する。
「そこの抱き枕持ってるのは笠辺先輩。変人だから気を付けろ?んで、ダイニングに居る人は富宮。凶暴だから気を付けろ?」
「悪意ある紹介ありがと。お前の明日はないと思えよ?」
「変人⋯⋯。変っ人⋯⋯、嘘、でしょ?!」
潤んだ視線が後方から、冷ややかで身体の芯を差す視線は前方からやってきたが、准はそれをスルーするようにそっぽを向いた。
退路はないが、逃げたような素振りで准はやり過ごそうとする。
「お兄ちゃんの友達、皆個性派だね⋯⋯。あ、初めまして、桐江舞喜です。何時も、兄がお世話になっています」
「ひ──宜しくね。藍莉の友人でもあるから気安くていいよ」
「はい、宜しくです!」
暗に藍莉の友人と口にした辺りに訝しんだ准は思わず顔を奏海の方へ向ける。
普段、自分には見せる事はない、業務的、割り切りのスマイル。
ジャンクフード店にあるスマイルゼロ円とどちらが爽やかか、それは残念ながらコチラであった。
何故ならば、彼女は仕事として笑っていないからだ。
自分の直接的かつ、目先の利益の為の笑顔に一切の余念はなく、妥協もしないからである。
「笠辺沙耶。変人、です」
「兄が⋯⋯すみません」
「いや、本当に変人だから。じゃなきゃリビングに布団敷いたりしないだろ」
「え?それってお兄ちゃんのじゃないの?」
「何処をどう見たんだ?」
沙耶の持ってきた布団は花柄が刺繍されており、抱き枕も含めて准が購入した事は、かつて一度もない。
おおよその察しが付いていて揶揄う為に、わざと言っているのか、本当に分かっていなかったのか、舞喜の顔を窺っても准にはその真意を掴む事は出来ずにいた。
また、美羽とは既に舞喜のお見舞いに行っていた記憶がある為、大した挨拶もなく、むしろ他よりも少し距離が僅かばかり近い。
そんな舞喜もしなければならない事柄がある。
それは、夏休みの宿題。
既に中学生も夏休みに突入しており、大好物の宿題を持参し家庭訪問と題した提出物──それが夏休みの課題であり、それら一式を舞喜に渡すと目が点となり、沈んだ表情を見せていたのは、つい三日前。
残念だが、中学生であるが為に義務教育が通用してしまう。
担任教師曰く、公平性というのもあって『学校に通っていない』から『夏休みの宿題もなし』とはならなかったらしく、遠回しに「学校に行かせろ、兄貴だろ」と注意のようなお叱りを受けてしまう。
その為、多少の叱責に対する弁明もしたかった所をグッと呑み込んだ准は、明日から早速始まる登校練習のコースを決めていた。
「常盤さん、ここ分からないんです」
「ん?⋯⋯あぁ、そこね。代入を知らないの?小学生でもできる問題よ?これ」
ダイニングにて、舞喜は美羽仕込みのスパルタ家庭教師によるご教授が始まっていた。
内容は数学であり、xやらyやらが登場する範囲。
入院中、ノートに教科書の内容を丸暗記しようとして朝倉拓也に苦言を呈されてから公式の解を自ら解き始めて半年。
講師が居ない事が災いし、中々内容が頭に入って来ない事に多少の焦りがあった舞喜は頭を掻きながら、教科書に記されている公式の解き方と紙媒体でありながら魔王のように立ちはだかる夏休みの宿題と睨めっこ。
一方の美羽はというと、教える⋯⋯と言うよりは解らない箇所に限り声を掛けて公式だけを教えて、後は自己解答を促すような方法を取っており、不安に感じた准は沙耶との会話を中断して、チラッと二人の元へと様子を確かめに行く。
(どれどれ⋯⋯)
シャーペン片手に必死に着手している計算式は准にとって、懐かしい方程式であった。
パッと見ただけで中学一年の内容ではない事は分かった准は舞喜の隣に居る美羽の所で顔を覗かせる。
「いや、これって連立方程式じゃね?」
グラフを毎度作成するのが面倒臭いからと怠慢により生まれたクソ公式であり、成人しても一般的にはエクセルでしか使わない無駄な公式なのだが、中学、高校生の生徒にとっては違う。
加減法と代入法の二種類の解き方があり、中学生でも比較的に詰みやすい公式で、准にとっても難敵の部類。
まして舞喜に関しては授業ではなく独学。
既に周りとのブランクの差は明確に広がっており、中学の授業内容だけならば、ほぼゼロの地点とさほど変わらない。
「だから代入じゃない。間違ってないでしょ、タコ」
「お前表出ろ!誰がハゲだ!素面女!」
「はぁぁぁ?!お前にとやかく言われたくはなぁぁいのよ!」
激化する言葉を止める者はいない。
舞喜は唖然とした後、溜め息を吐いて机にあるノートに数字を連ねていき、奏海はスマホで何かしらの動画を視聴中。
だが、そんな中、たった一人だけは違った。
「仲、良いね⋯⋯」
「「うわぁぁっ!」」
二人は震え上がり、お互いに肩を寄せるようにダイニングから離れて、突然背後からやってきたこえの正体を見る。
笠辺沙耶であった。彼女には恐れるものなんてないとばかりに准と美羽の背後に立ち、低い声を発声させながら介入を始めたのだ。
「⋯⋯⋯⋯そんな、同時に驚かなくても」
「すみませ⋯⋯ん?先輩、なぜパジャマ?」
あら、可愛い淡いピンク色の上下お揃いのパジャマですね⋯⋯と准はならない。
他人の家で早すぎる寝間着へと、いつの間にか着替え終えていた沙耶は佇む。
「泊まるから」
「はぇよ!ちゃんとお外見て!まだ、真っ昼間でしょ?!おやつの時間でしょ?なんで、呑気に愉快に寛いだ挙句にパジャマになってんですか?!」
「思い立ったが吉日、だね」
本人なりにめいいっぱいのドヤ顔は准以外には誰も届かず。
軽くサムズアップまでしてるというのにだ。
「せめて、石の上にも三年にしてくれません?待ってください。なんで地道に行かずにトントン拍子に進めるの?」
「でも、気は熟してた。布団があって、パジャマがあって、屋根がある⋯⋯ね?」
「いや、ね?ではないです」
これを他の友人にもやっていたら本当に引かれるし、嫌われるだろう。
しかし、この変人先輩は過去一度として、他人の家でお泊まりを事はなく、基本的に誘われる事もない。
家柄による阻害と本人の気質がクラスメイトにまともに話掛けられる事はなく、淡々と学校に行き、粛々と授業を受けるだけの毎日。
その為、准相手でなければ押し掛けのように家に入る事もなければ、強行に走る事もしない。
一方の准はと言うと、満更でもなかった。
普段、女性の寝間着姿といえば舞喜のを見るが、使わなくなったお古の服を使い回しているだけで、ザ・パジャマといったボタン付きの見るからに寝間着と分かるような服は持っていない。
更に言えば、藍莉は基本的に准の自宅では就寝しない為、寝間着姿を拝んだ事がないのである。
少年はほんの少しだけワクテカしていた。
(眼福だからそのパジャマ姿をもう少し堪能するとしようか)
男性の居る家で寝間着姿──それ即ち『見てください』と同意義だと受け取った准の視線は上から下へとガン見状態。
(僕は好きですよ、先輩のパジャマ姿⋯⋯)
だが、そんな変人先輩へ向ける熱い視線にいち早く気付いた者がいた。
目を細めて、眉を下げ、溜飲は収まらず、終いには隣に居る少年の脚を思い切り踏んづける⋯⋯豪快に、かつ盛大に。
「⋯⋯ふん!」
「痛ってぇぇぇぇ」
体重を掛けて、そのまま指の骨も砕けてしまえとばかりの悪意ある踏み抜き。
ストッキングを履いたその華奢な脚から繰り出された素足の少年に送る、多大なる嫉妬と複雑な心境の賜物。
送り返す事も出来ず、叫び声を上げた少年は濁声を漏らしながら寝転がり、踏まれた脚を庇うようにした。
「エロエロ星人ッ!」
その吐き捨てた言葉は決して少年の耳には入っていない事を承知で、舞喜の隣の席へと座り直して、再び家庭教師へと戻るのだった。
そして、少年は若干食い込んだ脚の爪とストッキングの触れた感覚が生んだ痛さに悶絶するばかりなのである。
時間は経ち、テレビを観る者も居れば、宿題に取り組む者、それを隣で見て教授しようとする者、晩御飯の相談をする者達と准の自宅では様々な光景が一つの空間で行われていた。
そんな中 、ある者が述べた者一言が場を変えてしまう。
「そう言えば、藍莉今日来るって、言ってたか?」
質問先は舞喜へのもの。スマホを持たないその少年は隣部屋に居るにも拘わらず、わざわざインターホンを押す事を渋った為に聞いたのだ。
「え?⋯⋯いや、特には何も。聞こうか?」
「⋯⋯いい。不審がられんのも違うし」
ただでさえ交際中だというのに同級生、後輩、先輩の女性と同じ空間に居るという地獄。
富宮奏海の頼みには『大州藍莉』へ話をしないという最難関が待っている。
実質的に准の自宅に居る時点で不可能に近いその条件と加味して、藍莉にこの現場を見られれば引っぱ叩かれるのなんて目に見えている准も避けたい事態な変わりない。
「そういえば⋯⋯。藍莉と先輩って⋯⋯」
一方的なのか、双方による敵対なのか。
どちらにしても沙耶と藍莉は仲が良くはない。
少なくても奏海と藍莉のような関係性でもないが、自身の全く知らない女性が恋人に対してベタベタされてしまっては敵意は湧くというのも納得出来る話だ。
更に沙耶本人も藍莉の事はそれほど気に入っていない。
理由自体は幾つかあるが、最大の要因は自身と藍莉との比較にある。
最も彼女が重視しているのは、『桐江准を守れるか』という点にあり、彼女からすれば藍莉は非力なごく一般的な女子生徒その一、二と変わらない扱いであり、本人達が幸せならばそれに越したことはないとしても、ヤキモキにも似た対抗心はそれはそれとして芽生えてしまっていた。
早い話、膠着状態による嫉妬である。
「藍莉の部屋に行けばいいじゃない。隣でしょ?」
「あぁ、そうだけど」
何故、今日の朝、准の住むアパートの前に居たのか?
それをどうして知れたのか?
部室前に辿り着いてからの挙動不審にも似た行動の数々と昨晩の彼女の動向の意味とその理由。
『現象』だからと言っても、それを発言した当の本人が怪しいのでは、訝しむのも不思議ではなく、それは意図せず顔に出てしまう。
「なに?」
だから、バレる。富宮奏海本人にも、周りにすらも──。
嘘が苦手な少年は誤魔化す術というもののレパートリーが少ないという訳では決してない。
しかし、誤魔化し方自体、人によってコロコロと替えてしまう悪癖のようなものが存在してしまう。
嶺二にならば普段通りに振る舞い、藍莉にならば何時もよりも柔らかい態度になり、美羽には嘘を吐く。
そして奏海相手には──挑発をする。
「⋯⋯なにも、ただ、変な顔だなって」
何時もよりもウザ絡みして場を乱そうとして、突然の狂言に奏海は目くじらが立った。
「⋯⋯うっさい」
だが、それが失策であるとすぐに准は気付く事となる。
返しの言葉が普段と違い、覇気もなく、語気は弱々しいものであった。
「あ⋯⋯いや今のは失言だったな。悪い」
「なによ、突然謝ったりして。だったら初めから言うなっての」
現在、彼女はソファでスマホを片手に背凭れに体重を掛けて寛いでいる。
テレビを流しながら、SNSを閲覧していたのだが、准も気付かない間にそのその行動は終わりを迎えており、何処か体調が悪そうにも窺えた。
「お前、大丈夫か?」
「⋯⋯平気」
「あの、無理しないでくださいね?」
ダイニングでその様子を聞いていた舞喜もすかさず心配の声を掛けるが、それに対して頷くのみ。
「あんまり体調が良くないなら、言えよ?冷えピタとか体温計とか持ってくるから」
「病人扱いしないで⋯⋯大丈夫だから」
「そ、そうか」
無理をしていると、誰でも分かる。
沙耶も舞喜も美羽ですらそうだった。
発汗し、息が荒くなっているのが、息遣いから伝わり、我慢の限界に達した舞喜が立ち上がり、バタバタと足音を立てながら自室へと向かう。
「ねえ、お風呂に入りたいんだけど、貸してくれる?」
「⋯⋯いいけど、長時間は止めろよ?」
「だから、病人扱いしなっ──わぁぁ!」
「おい!」
フラついた足取りは、立ち上がろうとした奏海の身体を当たり前のように床へと放り込ませた。
目の前にあるローテーブルに腕を打ち付け、渋い顔を浮かべて、デカイ音がした事により、聞き耳だけを立てていた美羽も驚いて後方に顔を向ける。
「どうしたのかしら?」
「倒れちゃった、みたい。大丈夫?」
真っ先に駆け付けたのは沙耶であり、美羽はそのまま待機。
後から准が駆け寄り体調不良にしか見えない奏海の様子を窺う。
「だ、大丈夫です」
大量の汗により、制服と前髪は濡れて、顎には雫が落ちた。
腕はベタつき、蹲って背中を押さえる素振りを見せている。
「お前、本当に何ともないのか?ちょっと変だぞ?」
「⋯⋯っ。煩い。今更心配しないで!⋯⋯今更」
「何が今更だ。今さっきの事だろう」
片目がピクリと動き、短く声を押し殺したような音が鳴らすと、俯いてしまった奏海。
不審な表情で見つめた准は次の言葉を掛けようとするものの、立ち上がった奏海がそのままノロノロと床を歩き始めた為にそれは無効と終わる。
「とにかく、お風呂借りる」
「おいおい、待て待て」
慌てて止めようとする准だが、少年の言葉には聞く耳持たず。
制止を促すように肩に触れた時、その手は払われて思わず沙耶へと助けを求めようと顔を向けると、自室からリビングへと戻った舞喜が温度計を手に持ち、奏海の傍までやって来た。
「あ、あの。熱だけでも測ってくれませんか?」
「大丈夫。心配しないで」
「アタシ達が心配なんです。意固地になっても⋯⋯いい事ないと思いますよ?」
奏海は確かに見た。その不安そうな瞳を。
そして、後方で心配そうにしている彼彼女等を。
意地の張りすぎがそうさせていると、誰でも分かる状況下で奏海の取れる選択肢は数限りがあると知り、諦めたように舞喜の方へと身体を向けた。
「⋯⋯⋯⋯分かった」
そうして、舞喜の右手にある温度計を手に掴むと、舞喜は何処となく嬉しそうに微笑むのであった。
そんな光景を見ていた准はすぐさまダイニングで座ったままの美羽の傍まで行き、声を掛けた。
「⋯⋯トッキー、藍莉と連絡って取れるか?」
何かあった時、最悪の場合を想定して藍莉に協力を頼む為。
たとえ、富宮本人が望んでいなくても、命は変えられない。
「連絡先ないわよ。彼女、すぐ隣なんでしょ?行ったらどうなの?」
「⋯⋯いや、なんか、なんて言うか。良いのかな?って思って」
「はぁ?なんで?」
妙に歯切れの悪い言葉に思わず、眉を顰めた。
視線が何処か泳いでいる准を見て、露骨に不機嫌になる美羽だが、彼女は察してしまったのだ。
思わず漏れた溜め息は溜飲を下げる為の行為であり、スマホの画面をカバーで隠して、机に置く。
准と身体が向かい合うようにした美羽は腕と脚を組み、脚で准の身体を小突くようにする。
「呆れた。お前、彼女さんの家に行った事ないの?」
「⋯⋯ないです」
「はぁ〜。じゃあ仕方ないわね。一緒に行ってあげるわよ」
女性が居れば、恥ずかしさは軽減される。
そう思っていた准の頭の中には、藍莉の弟の蒼太が大州宅に居る事など、完全に抜けていた。
「熱はないですね、良かった」
「⋯⋯ありがとうね」
「いえ、でも心配なので一緒に入りましょ?」
体温計を返した富宮、流石に舞喜のこの発言にはしばし考える時間を要した。
「いいんじゃねぇか?悪いけど、付き合ってやってくれ。舞喜、こうなると止まらないからさ」
舞喜の性格的に行ってしまうお人好し行為。
これは即ち、母性本能に近く、『守らなければ』『傍に居てあげなければ』というものから。
兄に対しては、そのような行動を起こす事は滅多にないが、他者には違う。
准からすればいつも機嫌が悪いクラスメイトという程度に収まるものだが、舞喜にとってはそうではない。
そう、違うのだ──。
「⋯⋯じゃあ、お願いしようかな」
「はい!待っててくださいね、パジャマ持ってきますから!あ、でも、替えの服⋯⋯」
「私のが、ある。万全」
「すみません。借りますね」
こうして、舞喜と奏海は浴室へと向かい、それを見計らった准と美羽はその後、お隣の藍莉の自宅へと向かうのであった。
━ ━ ━
玄関前、美羽は数分前に行った溜め息からの目を細める行為を、再度行っていた。
理由は目の前に居る先輩が震えた指先でインターホンを押すか、押さないかの激闘を繰り広げていたからだ。
「お前、何やってるの?」
「だ、だだだだだだ、だって、緊張するもんだろ?!しないの?お前、薄情な!」
「そこで薄情は使わないわよ。自然体とか柔軟とかじゃないかしら、普通」
「えぇ、ホントにござるかぁ〜?」
「蹴っ飛ばそうかしら⋯⋯」
身構える美羽、少し身動ぎして後退する准。
僅かな間が流れて、遂に蹴りこもうとする美羽の動きにビビってしまった准は勢いあまり、玄関を片手に、もう片方の手はその横にあるインターホンへと向かわせた。
軽快な音が准と美羽の耳にも聞こえて、そのまま准の腰へと脚は向かい、見事に蹴り飛ばされるのである。
「いだぁぁあ!っなんでぇだぁ〜」
「あ、ごめんなさい。⋯⋯勢い余ってしまったかしら」
惚けた態度を一摘みした美羽は手を口元に持っていき、「おほほ」と乾いた笑いをする。
「君、マジ酷くない?」
そんな態度に目を細めて睨み付ける准に流石の美羽も薄ら笑い地味た乾ききった声は出なくなり、正面を向く。
「⋯⋯⋯⋯出ないわね?」
「買い物か?」
「⋯⋯弟さん、居るんでしょ?」
「いや、流石に買い物中は一緒に行ってるよ。置いてったりしないし」
【走馬悼】の一件以来、特にそれが顕著となり、出掛ける際は基本的に藍莉が付き添う方針を取っている。
それを知っている准からすれば、買い物の際、舞喜に任せるでもなく、蒼太を一人部屋に残すという行動を取るとは考えづらかった。
「じゃあ、居ないのね。残念だったわね、彼女さんの家の中、入れなくて」
本当に、偶然。ここまで来たからにはとばかりにドアノブを何気なく下に傾けると──。
「べ、別に悔しくないし──あれ?⋯⋯なんで開いて⋯⋯」
懺悔の一旦を見た。玄関扉に凭れ掛かるようにして倒れ込んで来た蒼太は准の足元へ。
「っ!蒼太ッ!どうしっ⋯⋯⋯⋯なんだこれ?!」
慌てて、顔色を窺おうと横向きとなった身体を仰向けにした准は凄惨な蒼太の姿を瞳に捉える。
顔面は焼け爛れてしまっており、首から下は火傷したかのようだった。
だが、衣服には別段違和感なく、破れていたり、焼けていたり、千切れてしまったりといったものは見受けられない。
ただ、蒼太だけが焼けたようだった。
「⋯⋯っ!お前、大州藍莉は?!」
嫌な予感は胸騒ぎとして変換されて、最悪の事態が起こってしまったのではないかと予感させた。
「蒼太を頼んだ!!」
「待って!迂闊に行かない!先輩!」
急ぎ、蒼太を背後に居た美羽へ預けた准は靴も脱がずにひたすら前へと走り出した。
玄関を抜けて、リビングに繋がる扉が開いているのにいち早く気付くと共に、颯爽と中へと入り、辺りを見渡す。
焦りは表情に醸し出され、汗は流れて、震えが止まらない。
「藍莉!何処だ!?おい!⋯⋯⋯何処に居る?!」
叫んだ、ただひたすらに叫んだ。
目に力が入る。息は荒くなり、身体の向きよりも首の動く速度が早まる。
指先から内蔵に至るまで、震え出しているように震えは止まらず、恐怖心と忌避感は辺りに目紛しい程にある違和感と数個ほどある相違点に気付かない。
「何処にっ⋯⋯⋯⋯は?」
足元に一つ、千切れた肉が転がっていた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯な、なんだこれ?」
よく見ると、破れた布生地が足元に散らばっており、近くには学生用鞄が雑に倒れていた。
「これ、藍莉の生徒手帳⋯⋯」
千切れた肉の塊の中にある煤塗れの生徒手帳。
中身は殆ど破れてしまい、黒く変色してしまっている。
だが、それを准は開けてしまった。
『大州──』
疑いの目はやがて、混乱へと変わり、疑問と訂正すべき事実だと言い聞かせていく。
「じ、冗談だろ?!⋯⋯なんだこれ、な、なにが?どうなって⋯⋯何が、どういう事だ?!」
肉塊をそっと、ゆっくりと触る。
中には茶色の細い線のようなものが見え隠れしており、それが髪の毛だと気付いた准はその肉塊を抱き締める。
「なんだこれはァァァァァァァァァァァ!!」
「っ!先輩!⋯⋯⋯嘘でしょ?」
始めは准を、次に辺りを見た。
真っ赤に染ったリビング。薄い茶色の床も白い壁も、小さな丸机もカーテンも窓も奥にある扉も赤く染め上げられている。
思わず、口元に手を当てて、吐き気を耐える美羽は顔を顰めていく。
「⋯⋯なんで、なにが⋯⋯⋯⋯これ、全部、血?嘘よね?」
凄惨な一言であり、微かに焦げた匂いは異臭として鼻が感知した。
気分を害す程の異様な光景に現実味がなく、ただただ狼狽えて、悲痛な面持ちを浮かべるのみ。
込み上げる嗚咽感を耐えるのに蹲った美羽、そんな時、僅かに耳で感じ取った何かに反応した。
「っ!なんの、音?」
一方、准の行動はあべこべになりつつあった。
抱き締めている肉塊が藍莉であると頭で理解していながら、それを気持ちで否定するよう、苦悶の表情で辺りを見回していく。
真っ赤に染ってしまった空間には、一切気付く事もないまま。
「藍莉、あいり、おい!何処に、何処に行ったぁぁぁ!?!⋯⋯⋯⋯まき、舞喜なら連絡出来る!」
肉塊を床に手早く置き、急ぎ隣の自宅へと戻ろうと足早になる准だったが⋯⋯。
「ちょっと待って!先輩!」
「なんだッ!」
険しい表情で、突然大声で待ったを掛ける美羽に、半ば八つ当たりにも近い形で叫んだ。
けれど、美羽もそれに苦言を呈している余裕は既にない。
彼女には彼女で、嫌な予感が心を支配していたのだから。
「今の音聞いた?」
「はぁ?何がだ!?」
「今、高音というか、甲高い何か、小さかったけど⋯⋯」
「何が言いたい?!」
「せ、せせ、っ先輩の家から⋯⋯」
一瞬、唖然とした。何かあった、つまりそう言いたいのだと理解した時、顔面蒼白となった准は急ぎ戻る。
蒼太を飛び越え、すぐ隣の自分の自宅まで十秒も掛からず、玄関を勢いよく開けた。
「⋯⋯舞喜!」
最初に見たのは一人の女性が倒れている所であり、傍には黒い筒と白い紐が括り付けられた長物。
洗面所の前に淡いピンク色の衣服を着た女性が寝ていた。
それは誰か?准はすぐに判別し、駆け寄る。
「っ!先輩!どうしたんですか?!」
沙耶が倒れているという事は、何かあった以外に他ならない。
戦闘能力が極めて高く、准も彼女が刀を用いて敵を屠る現場を目撃している。
あってはならない異常事態に駆け寄り、動揺を残したまま、沙耶の顔を准は見えるようにした。
「せんぱ──っ!ウワァァァァァァァァァァ!」
思わず、手を離し、沙耶の頭部は床に叩き付けられてしまう。
あったのはぐちゃぐちゃに溶け切った肉とその断面に垣間見えてしまえる頬の骨、目玉は無くなったまま瞼は開かれており、溶けた顔の肉はドロっと床に付着する。
更に全身が爛れており、大きく損傷した部位に至っては完全に腐蝕してしまっており、原型すら留まっていない。
だが、衣服だけは破れておらず、千切れておらずの無傷であり、薄い桜色にも似たパジャマのままなのだ。
「っ!なんっ、あ、あぁぁあ」
徐々にチョコが熱で溶けていくように、沙耶の身体は溶け始めていく。
それと同時に、悲鳴と共に最悪を想起した美羽も駆け付ける。
「っ!笠辺沙耶!っ!ちょっと、嘘でしょ、ちょっと、冗談止めてよね、そんな事、そんなっ!──」
准の自宅にある洗面所は、名前の通り顔を洗う場所であり、タオルや鏡、洗濯機もあり、その奥は浴室となっている。
洗面所の入口扉の縁、赤い何かが見えてしまった美羽は視線を右へと逸らして、逸らして、逸らして、見てしまう。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯え?」
洗面所は真っ赤な光景に染まりきってしまい、天井にすら届いていた。
だが、問題はそこではない。
洗面所に染った赤は数分前までは一人の少女の体内に流れていた液体であり、弾け飛んでしまっている肉と薄ら見える白い骨の欠片は辺りに散らばっている。
そう。眼球、口内、鼻穴、裂けた腹部と砕け散った背中から大量の黄色い煙を立たせて死んでいる舞喜を美羽は見てしまった。
「⋯⋯⋯⋯舞喜、ちゃん」
そんな惨たらしい遺体となった彼女を最も近くで見下ろす人物が一人。
青いシュシュ結んでいた後ろ髪を解き、肩より下に伸びた黒い髪、恥ずかしさなどとうに捨てたとばかりに全裸で虚ろな瞳のまま下を見つめる富宮奏海である。
「⋯⋯⋯⋯舞喜っ!あ、あぁぁあ、ぁぁぁぁ、富宮、お前、これッ⋯⋯⋯どういう、ことだ?!」
虚ろな視線は今尚、下へ向けられたまま。
苦痛も悲痛さが全面に出ている少年の声は届いていないように、ピクリとも動かない。
「答えてくれ!富宮!何があった!舞喜と先輩に何があったッ?!」
荒々しくなる言葉にようやく、視線が向かった。
徐ろに動く顔、恥部を隠す事もしない、その一般的な女子高生とは思えない動向に美羽は鳥肌が立っていく。
胸騒ぎが徐々に、だが鮮明に聴覚を刺激する。
(なんだ?!⋯⋯と、富宮の奴、瞳の色が違う)
准が気になったのは瞳の色。何故、これほどに鮮血に染った空間で肌が僅かでも赤くなっていないのか、でもなく、瞳──眼球だった。
黒色だった筈の瞳の色は濃い緑色に変色しており、向けられる視線には威圧感もなければ恐怖心もない。
純粋な虚無。まるで他人事のように⋯⋯否、もはや人とすら見ておらず、その辺に歩いている見ず知らずの誰でもない誰か程度に向ける、『興味がない』とばかりに覇気も意義も意志も感じない視線。
それが准には何よりも怖く感じた。
『罪人よ、罪過の審判を賜え』
僅かに開かれた口元は告げた。
「富宮?⋯⋯お前、何言ってるんだ?っ何言ってんだよぉ!!」
悲痛に叫んだ声には痛ましさがあり、聞いているだけの美羽も自然と顰め面にならざるを得なかった。
大切な家族、恋人とその弟、頼りとなった先輩を一気に喪い、その積もり積もった気持ちを発散させるように哭く。
だが、それでも身体一つ微動だにしない奏海は綴る。
ただあるべき真実を──口にするのみ。
『四つの罪⋯⋯。為せず、果たせず、満たせず、見出だせない。罪咎の深淵は、既に四つ葉と共に鳴らされた⋯⋯』
「お前、お前は、そんなキャラじゃないだろ?僕と同じ、ぐらい馬鹿じゃないか?今になって賢いフリして、難しい言葉使わないで⋯⋯もっと分かりやすく言え!」
口調、声色、態度、立ち振る舞い。
そのどれもが全くもって同一とは思えない程に富宮奏海は変化していた。
見た目では決して判別出来ない何か、もっと別の何かが変化しており、まるで取り憑かれたようである。
『時は満ちた。四人の内、三人、葉が灯された。残り一人はお前だ』
右腕がゆっくりと上がっていく。
人差し指は准へと向いた。
「僕?⋯⋯⋯⋯っ?!なんだこれ?」
体内が急激に熱くなっていくのを感じた准は両胸の間を押さえた。
黄色に輝く一点の光は蛍の光のように小さく、淡い。
(攻撃?!常盤っ!)
藍莉の自宅で見た光景と共に蒼太の倒れ方、開かれたままの玄関からリビングに繋がる扉。
(蒼太は吹き飛ばされたんだ!だから、アイツと、先輩は原型が保っていたんだ!クソッ!)
ある程度察した准は美羽を玄関方面へと突き飛ばし、叫ぶ。
「逃げろ、常盤!僕から離れろ!」
強く突き放された美羽は一瞬、唖然としたまま、何が起きたか理解出来ず、思考を停止した状態で廊下に倒れ込む。
光はより一層強くなる。
鮮明は鮮烈へと、一点に絞られていた光は眩く周りを照らしだし、強烈に中心は点された。
『罪よ、灯れ』
──下された。判決は【死】あるのみ。
「⋯⋯うわぁぁッ───」
叫び声は中途半端な段階で打ち止めとなった。
「先輩!せん──」
掻き立てた小さな音。甲高く、瞬間的な高鳴り。
爆撃のような轟音でもなく、騒音でもなかった。
ただ、准の身体は内部から外側へと光が風船のように膨れ上がり、最後には大量の光が廊下一面に撒き散らかされながら、炸裂する。
波紋のように広がったその黄色い光は准の身体を角の丸い十字型に裂き穿たれ、胸元から背中に掛けて、貫通したような穴が形成されて、皮膚、肉、骨、内蔵の身体を形成していたものは外向きに捲れたようになり、肉塊が出来上がった。
そして、その余波は留まる事を知らず、逃げるように促した美羽も必然的に巻き込まれてしまい、強烈な衝撃が美羽を一気に玄関扉へと追い込み、玄関扉は一気に亀裂と大きな凹みを発生させる。
近くにあった沙耶の遺体は更に赤く染まり、廊下は血吹雪が出来上がり、扉も白かった筈の壁は鮮血に彩られた。
「ぁぁ、っっ。うぅ、ぁぁがはっ」
身体は衝撃による影響でズタズタに爛れてしまい、皮膚は焼き焦がれたように醜い姿へと変貌を遂げた美羽の心臓は傷を負い、頭部からは大量の血が流れていた。
背中を強く打った影響で背骨は砕け、脚はひしゃげて、もう片方は折れる超えて欠損している事に美羽本人は気付いていない。
左腕は肘から下は後ろに曲がり、腹部からは腸が飛び出ている。
そんな悲劇にもならない惨劇をただ黙々と見つめるばかりの奏海は洗面所から血溜りを踏みながら玄関扉の方向を見た。
『人は皆、罪人だ。私は、審判した。故に、致し方ない事だ』
冷ややかに、真っ直ぐと躙り寄ろうとする美羽を見下ろす。
唯一可動が安定する骨が粉砕した右腕を伸ばしながら、芋虫のようにじっくりと、じっくりと、前へと進む。
「⋯⋯せん、ぱい。どこ?ど、こ、何処に⋯⋯目がぁぁ。うぅぁ、ぁぁ」
目玉が余波の高熱により焼き尽くされて、視力は完全に失った。
美羽本人の皮膚も赤くなり、骨が薄らと垣間見得る程の爛れ具合い。
それでも、肩に当たる壁の感覚だけで前だと信じて進む美羽は右を伸ばし、冷たくなる身体を必死になって動かす。
『ゆっくり、絶えなさい。それは罪ではありません。私が許します。逝きなさい』
右手の指が僅かに何かに触れた。
その感覚にほんの少しだけ頬を綻ばせていく。
「⋯⋯せん、ぱい、きり、え⋯⋯⋯せん、ぱ─────」
『時間跳躍』にも一つ条件がある。
見えている事だ。視力が悪くても、自身が確かに世界を認識していれば発動出来るその力は眼球が爛れて視力が皆無となれば発動出来なくなるのだ。
(先輩、桐江先輩⋯⋯。私が、時間を⋯⋯戻して、助けます。死なせな、い。⋯⋯⋯⋯絶対、に⋯⋯⋯⋯死な───)
無力で非力なだけの少女が最後に触れた物を離さぬように、絶命した。
『懺悔もなしに、人は幸福になろうとしている。愚か故の道理。良かったですね。貴女の懺悔、確かに聞き届けましたよ。さようなら、醜く惨たらしいだけの人の子よ』
両手を天井へと上げて、そっと瞼を閉じる。
すると、力なく倒れ込む共に意識がハッキリとした奏海は瞼を開けた。
「─────え?」
疑うように瞬きを繰り返して、事態を呑み込もうとする奏海。
しかし、一向に理解出来ず、目の前で倒れている美羽へと声を掛ける。
「常盤さん?!ちょっと、常盤さん!⋯⋯⋯⋯何これ?」
立ち上がろうとする奏海だったが、一歩踏み出そうとした途端に倒れてしまう。
美羽の右手の先にある白い紐に括られた黒い筒に脚が引っ掛かった為である。
裸のまま、赤く染め上げられた床に倒れ込んでしまった奏海は唸り声を上げて、立ち上がろうとした。
「⋯⋯⋯っ!どういう事?なに?どういう、何が──」
途端に、何かが真っ白に染まっていく。
ぼぉーと、口を微かに開けたまま、遠くを見つめるだけとなった奏海は涙が込み上げてきて、荒い息遣いになる。
「家に帰らなきゃ、帰りたい、帰りたい、お姉ちゃん、ママ、パパ、ぁぁぁぁぁ」
子供のように泣きじゃくり、倒れた際に擦りむいた脚を押さえる素振りを見せるも、その声に応える者は一人としていない。
誰も、たった一人すら。
「⋯⋯⋯なんでこんな、私、わたし──わたし、だれ?ここ、何処?何この赤いの」
頭部に知らぬ間に付着していた血液。
それを指で拭い、ジッと首を傾げて見つめる奏海は不快感を露わにして呟いた。
「気持ち悪い」
その血が自身のものとも知らず、気付かない彼女は裸のまま、玄関を出た。
フラついた足取り、呆然とした意識、穴だらけの虫食い状態の何かは彼女の心に侵された愚か者。
懺悔を終えた彼女の時間は戻り、憂いも迷いもない笑みを浮かべて、素足のまま地面を踏み締めて、何処にあるとも知れない帰るべき場所を目指して走り出した。
「パパ〜!ママ〜!どこ〜?かなみ、ここだよーー!お姉ちゃーーん!何処〜〜?」
本編開始ですね。
恐らく、作中で三番目に厄介な『現象』の登場です。




