駆け抜ける馬
息を大きく吸って吐いた。
最近はよく深呼吸をしている気がするのは気の所為か⋯⋯。
時刻は十時十四分。インターホンの前に居る僕は息を絶え絶えにさせたまま、目の前にあるボタンを強く押した。
チャイムの音が響く。普段は気にしないそのチャイム音は今日に限って緊張を走らせた。
しかし、いくら待ってもその扉からは呼び掛けの声も無ければ、開閉音もしない。
大洲が居るのならば、何かしらの音を立てて居そうなものだが、現状それすらない。
いや、違うのかもしれない⋯⋯。
きっと、チャイム音なんてものが気にならないんだろう。
それほどの事がある事は何となく分かる。
もう分かっているから、僕は扉の取っ手を握った。
縦に長い取っ手を引っ張るようにするとそれは鍵が掛かっていない事が容易に理解出来てしまう程に軽かった。
「⋯⋯⋯⋯」
何も言う事は無かった。
『お邪魔します』も『入りますよ』すらも。
淡々と玄関へと入ると、丁寧に靴を脱ぐ。
散乱しているゴミと散らかった洗濯物とぶら下がったままとなった受話器と壁には血痕と床は突き破られた状態の大洲家へ僕は入った。
受話器の位置と階段の位置、そしてテレビが置かれたリビングの場所を確認して、目を細めた。
脚の踏み場もないその床の音を立てながら、玄関口から見てすぐ前にある二階への階段を上がる。
途中、壁に貼られたシールと落書きの跡をなぞるように触れていく。
二階へ上がると同時に見える横に線を引かれた壁、二つ並んだその横線は数字が記されており、一方が誰の者かはすぐに分かる。
しかし、それを一瞥した僕は開かれっぱなしとなっている部屋が目に留まった。
まだ朝だというのに夕方過ぎの夜のように暗く、静けさが逆に異常とも感じれてしまう程であった。
その部屋は確かに人の気配があって、扉の隙間から二段ベッドがあるのを確認すると、ドアノブに手を伸ばす。
────その扉を開けた。
「⋯⋯見つけた」
半透明の男の子、蒼太だった。
蒼太は体育座りで部屋の隅っこにおり、怯えたようにそこで座っている。
僕には目もくれず、ひたすらに縮こまるように座るだけでリアクションの一つも無かった。
何かに怯えて、どうしていいか分からず、ひたすらに縮こまるしか出来ない──そう言われれば弱く見えるかもしれないが、どう見ても体格からして舞喜よりも歳下で、幼稚園児にも小学生にも見える。
僕は出来る限り足音を消しながら、近付いて同じ目線になるように屈んだ。
「藍莉の弟だよな?⋯⋯お姉ちゃんの友達の桐江准って言うんだ。宜しくな」
「⋯⋯」
反応は無し。蹲ったまま、固まったまま、動かない。
無理もないのかもしれない。いくら姉を引き合いに出したとは言え、いきなり他人にそんな事を言われたら、無言で居続けようとするものだ。
なら、どうするべきか。子供だから単純なんて思わない。
大事なのは納得してもらう事、それだけだ。
「お姉ちゃん、返してあげてくれないか?もう、これ以上苦しませないでくれ」
「⋯⋯⋯⋯」
「蒼太なんだろ?お姉ちゃんを無理矢理生き返らせたの?」
「⋯⋯⋯だって⋯⋯。お姉ちゃん。僕のせいで⋯⋯。僕のせいで」
ようやく発した言葉はやっぱり、弱々しく、覇気のないものだった。
「お前のせいじゃない。元々、信号もちゃんと渡ろうとはしたんだろ?ちゃんとしてたんだ。なんでお前のせいになる」
「⋯⋯お姉ちゃんが僕を守ろうとして」
「立派な人だな。けど、そんな立派な人を苦しめるのが、お前のしたい事だったのか?」
「⋯⋯⋯⋯」
ピクリと指が動いたのが見えた。もう一息といった所だろう。
子供相手でも、動揺を誘ってでも、やらなきゃいけない事はある。
僕は約束している。だから、言葉を綴っていく。
「お前のお姉ちゃん、もうどんどん元のお姉ちゃんじゃなくなってきてる。これじゃあ──可哀想だろ?」
「⋯⋯」
蒼太の顔は上がる。
大洲藍莉が十歳の頃と十七歳の姿ならば、この大洲蒼太はどうなのだろうか。
一方は病室に居ると美羽に聞いた。
目の前に居る少年は影がある。
つまり、元の状態に限りなく近いという事だろう。
「お姉ちゃん、可哀想なの?」
除けられた頭が上がった事で初めて見えた傷があった。
身体のあちこちに傷があって、顔からは血が垂れている。
よく見ると、骨が剥き出しとなっている箇所もある。
それを気味悪がる事はない。
これ以上の恐怖も、気持ちの悪さも、吐き気を催す者も存在しているのを僕は知っているから、小さな男の子の身体がおかしな形や傷だからであるからといって忌避感は抱く事はなかった。
「あぁ、家族は助け合うもんだからな。これじゃあ、お姉ちゃんだけが損してる」
「⋯⋯僕、駄目な子だから⋯⋯。だから、頑張ったけど──」
『駄目な子』なんて言葉を久しく聞いてなかった。
けど、もうそれはとうに乗り越えた事だった。
「それは違うな」
全部言わせたら、きっとそれを受け入れてしまう。
だから、蒼太の言葉を遮るように僕は言葉を発した。
「駄目な子は駄目って分かってないんだ。だから、分かってる蒼太は駄目じゃない」
そう言って、頭を少し撫でた。
血が付着する?構うものか、もうとっくに濡れてる。
とっくに僕の手は血濡れていた。今更重なったとしても気にも留めない。
「よく頑張ってるぞ?当然だ」
「⋯⋯お姉ちゃんと同じだ」
意図して言った訳ではなかったのだが、彼女の口癖を偶々言った事で蒼太は少し柔らかい笑みを浮かべる。
「そうか⋯⋯良かったよ。嬉しい褒め言葉だよ」
徐々に泣きそうな顔を浮かべる蒼太に僕は何が出来るのだろうか。
蒼太はもう十分に頑張って、耐えて、耐え抜いた。
なら、もう大丈夫なのだと思わせなければならないのではないか。
出来る事は極小数。限りある時間と限りある手法で安心させる方法は何かを考えた。
ふと、思い出したのは公園での出来事。
嶺二が去った直後、藍莉によって抱擁されたあの熱はまだ残っている。
見知って一ヶ月、話し始めてたった十時間ぽっちであの抱擁は唐突な気もした。
けど、今思えば、あれが大洲なりの慰め方だったのではないだろうか。
それとも────。
いずれにしても、僕の出来る手立てはこれだけだった。
「よく頑張ったな。痛かったろ。苦しかっただろ?お兄ちゃんもめっちゃ痛い時、叫んじゃうからよく分かるんだ。辛かったろ?」
僕は蒼太を抱き締めた。ギュッと身体に包み込むように蒼太を抱き留めるように。
鼻を鳴らしながらも僕の背中に手が添えられた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。お姉ちゃん、死なせちゃった、死なせちゃった!ごめんなさい」
泣きじゃくる蒼太は声を荒らげる。
必死な謝罪を咎める者も諌める者は居ない。
必要とすらしなかった。
蒼太の背中を擦るよう、あやすように優しく撫でた。
きっと、姉に比べれば拙いだろう。
きっと、僕は何時かコイツに恨まれる。
きっと、僕はロクな死に方をしなくなるだろう。
それでも構わない。それでも良いと思った。
僕に今出来る事はもう、コレだけしか無かったから。
「あぁ、知ってる。だからもう許すよ。許すから、安心しろ。僕は蒼太をちゃんと許す。ごめんな⋯⋯。本当にごめんな」
「ありがとう⋯⋯お兄さ⋯⋯お姉ち⋯⋯お⋯⋯ね?」
「あぁ」
影は消えた。姿形は無くなり、滴っていた血液は消え去った。
まるで初めから無かったように、身体から吹き抜ける風のようにして蒼太は消えていく。
確かにあった手に付着した血痕はもう無かった。
あれほど温く、滑りがあった赤い血は手元には、もう付着していない。
今、僕は一人の子供の願いを潰してしまった。
今、僕は一人の子供の生命を終わらせた。
もう、立ち返る事は許されない。
徐ろに立ち上がった僕はそこに居た筈の蒼太の面影だけをしっかりと焼き付けて、背を向けた。
「まだだよな⋯⋯」
この空間は何処までいっても『仮初の世界』で【走馬悼】の中での話。
何時までも回り続けて、影を走らせるだけのもの。
それはある意味変幻自在。ある意味では最も自由な空間。
肝心の蒼太が姉の死に気付いているのなら、きっとある筈。
二段ベッドがあり、そこに蒼太が居たというのに、肝心の物が無いという事は別の場所にあるのかもしれない。
脚取りはヤケに重かった。それでも進まなくちゃならなかった。
部屋を出た僕は一目散に刻まれた横線二つがある壁を素通りして階段を下りる。
そう、まだ終わっていない。
一番、話さなれけばならない人物が居る。
此処に、この家に居なければならない存在。
忘れちゃいけない。大洲藍莉というの存在を。
ゆっくりと『無ければならない物』がありそうな場所を探そうと、最もらしい場所へと歩いて行く。
もう一箇所しか無いと、確信した。
────僕はリビングへと向かった。
本来はまだあってはいけない物であり、けれどこの空間を明確に象徴する大切な物。
一階へと降りて、辺りを見渡して散乱しきっているゴミを出来る限り踏まないように、歩いて行く。
女性もののシミが付いて汚れた衣類、食べ残されたパンくずや冷凍食品の外袋と様々な物が床に落ちており、本来ならば色々とリアクションを取る所を全てスルーして行った。
悲しさが増していく。最も自由である筈の空間でどうしてこんな世界と状況を作ったのか、僕には理解出来ない。
出来ないけど、トッキーの話してくれた内容を加味すれば、自然と受け入れられた。
玄関前まで戻った僕は右手側にある戸をゆっくりとスライドさせて、リビングを一望する。
そこは汚れ切っていた。
テレビはモニターに穴が空いていて、床は汚れで充満、ゴミ袋が乱雑に棄てられている。
ローテーブルの上にある灰皿は一杯になっていて、酒瓶が一本置かれていた。
密接しているキッチンは皿や鍋がシンクに捨てられたように放置されており、コンビニ弁当とカップ麺が置かれている。
(⋯⋯⋯⋯っ。コレも僕のせいだな)
リビングから地続きに広がる居間へと目を向けた。
その場所には一人の少女が座り込んで手を合わせていた。
『見ていられない』とは決して言っていられない。
その居間に脚を踏み入れると、静かに隣へ座って手を合わせる。
静かに心を籠めて、決して忘れない為に。
「准、来たんだ⋯⋯」
あどけない様子で隣に座った僕へ視線を送った。
大洲藍莉がそこには確かに居る。
僕は正面を向いたまま瞼を開けた。
「話をしに来た。これからの事とか、これまでの事とか。いっぱい⋯⋯」
「うん」
ミニ藍莉は身体に引っ張られるように精神年齢が幼くなっていく。
元の姿に比較的に近い藍莉は見た目こそ一緒ではあったが、話し方、仕草に違和感があった。
けど、冷静になってみれば分かりやすい話で、物凄く単純な話だったのだろう。
僕は後者の大洲を偽物だと言っていた。
けど、それは違ったのだろう。本当は──どちらも大洲藍莉当人なのだろう。
『二人で一人』『陰と陽』『光と影』『表と裏』と言った具合で、その存在は元から二つではない。
気付けばそうなっていただけの話であり、意図して行った訳ではなかった。
どちらが表と裏か、どちらが陰で陽なのか、どちらが光と影なのか⋯⋯。
きっと、どちらでもないんだろう。
正しく均等に、平均的に分けられたのではなくて、様々な要素が組み合わさっているだけで、きっとどちらも正しいし、どちらも間違っているとも言える。
一人の存在が二人に別れた。それはつまり、ある意味ではどちらも元の一人からは別であるという事でもある。
「ちょっと寄っていいか?」
「うん」
許可を貰った為、僕は早速密着出来る距離まで近付いた。
僕の腕にミニ藍莉の頭がコツンと置かれる。
それを直視する事は出来なかった。
────もう、制限時間は過ぎようとしている。
「これ、手を合わせてる時、どんな感じなんだ?」
「⋯⋯わかんない。でも、納得出来るかな」
「⋯⋯そうか⋯⋯出来るのか」
「うん」
僕とミニ藍莉の前には小さな机がある。
その机に置かれているのは『遺影』だった。
優しい笑顔で微笑む、当たり前の日常を送っていた筈の本物の『大洲藍莉』の写真がそこにはあった。
━ ━ ━
話さなければならない。
語らなければならない。
【大洲藍莉】の生涯を───。
これはあくまでも常盤美羽という『時間』という概念を用いて見てきた事であり、決して桐江准当人が見て聞いて、知った話ではなく、ましてや、大洲藍莉本人から語られた訳ではないという前提を念頭に置いて欲しい。
彼女が産まれたのは、今から十七年前の五月十一日の昼頃。
約三キロ程度の出生体重で産まれた彼女は健康体そのものであり、何不自由無く過ごしていた普通の女の子であった。
両親が共に教師という事もあり、勤勉な生活を送る事にはなっていたが、それほど不満もなく、むしろ家族の寵愛を受けていた事は想像に固くない。
そんな彼女には三つのターニングポイントが発生した。
厳密には幾つもあった筈のものを最終的に零した結果三つとなったに過ぎないのだが、それでも三つだろう。
まず、最初の転機は『大洲蒼太』という弟の誕生にある。
当時の彼女は十歳であり、弟という未知の存在に興味があった。
当然、構い倒す。
ミルクもオムツ替えも寝かし付けすらも、自身から率先するようになる程に。
誰から見ても弟想いの良い姉であり、出来の良い姉として頭角を現し出す。
けれど、何時しかそれに甘え始めたのは両親からであった。
寝かし付けが遅すぎると、母親の怒鳴り声が聞こえ始め、それを諌める父親。
初めはその程度であった。
けれど、たった一度だけ──。
友達との誕生日パーティを開きたいという事で、『大洲家で招待したい』という旨を語ると、母親と父親は大激怒してしまう。
当時、弟の年齢は一歳。
まだ危険が付きまとう歳であり、常に様子を見ていなければならない事もあったが、まだ小学生五年生の大洲藍莉はその事を知らず、口にしてしまっただけの話なのだ。
結局、『弟』という存在は誕生日パーティを中止へと追い込んでしまい、誰からも祝わない誕生日を迎えた。
そして、二つ目のターニングポイントは両親の務めている中学にある。
そもそも、大洲家は生まれも育ちも『空弩街』という訳では無い。
父親の転勤を切っ掛けで春に越してきた家庭であり、母親は電車を使い、長らく務めている高校へと向かい、父親は異動となったばかりの近場の中学へと乗用車を用いて通勤する事となる。
父親は担任を任された。
一年生という始まりを飾る存在を受け持つ教師は重大な役割であり、校長や教頭も彼を信頼に置いていたのだろう。
事実、彼は異動とは言え実力と確かな指導力を買われていたのだ。
だが、そんな事は『現象』には関係がない。
異動先として選ばれたのは、桐江舞喜が進学した中学であり、そして担任教師でもあった。
事件は新入生の入学式を終えてから一週間以上が過ぎて、ある程度落ち着きが見え始めた頃。
端的な話で纏めてしまえば、暴力事件を止められなかった事と責任問題に発展したのだ。
「桐江さんの様子がおかしい」
そう言った声は多く上がっていたが、それらは「思春期ならば誰でもある事」だと一蹴してしまった。
彼は自信家であり、出来る人間だと自負していて、それ故に見逃してしまい、退職に追い込まれてしまう。
問題はここからである。
退職に追い込まれた自信家はどうしたのだろうか。
たった一つのミスで退職に追い込まれてしまった男は恥も外聞も棄てて、事件の発端となった女子中学生を襲うだろうか。
違う───。家庭内暴力に移行してしまったのだ。
初めの被害者は母親であり、頬を思い切り殴り飛ばされてしまった事が切っ掛けである。
暴力行為を目撃してしまった娘と息子は当然、恐怖した。
けれど止める術も無く、黙ってそれを黙認してしまったのだ。
縮こまって、庇うように、庇われるように、寄り添うように。
だが、家庭というのは小さな箱。
飛び火のように暴力行為は母親の手によって娘へと当たりを移して、遂に崩壊した。
それが起きたのは五月九日⋯⋯⋯⋯つまり、准とミニ藍莉が出会う昨日の話だ。
大洲藍莉が高校二年生であり、大洲蒼太がまだ六歳の頃である。
最後のターニングポイントは交通事故だ。
交通事故のそもそもの切っ掛けは傷害事件にあり、食事を済ませて、大洲藍莉が友達と電話をしながら世間ばなしに花を咲かせていた時、それは起こってしまう。
父親の浮気とそれを発覚した母親が激昂した為に起きた傷害事件は二階に居た大洲藍莉の耳にも届き、急いで電話を切ると、弟の元へと向かった。
傍へと駆け寄り、抱き留める。守る為に⋯⋯。
常習化する暴力は二人の子供心に負荷を掛けていき、遂に動かなくなった母親を呆然と眺めているだけに留まっていた十七歳の大洲藍莉は弟を抱えて、家の隅に縮こまる。
父親は迫り、いよいよ娘にも手を出してしまう。
しかし、弟は耐えられなかった。
その現状と傍で救ってくれていた姉の窮地に。
だから少年は立ち上がり、急ぎ警察を呼ぼうとした。
けれど、それを止めようとする父親とその行動を阻止しようとする娘の構図が出来上がってしまう。
そこで問題が発生したのだ。
家の固定電話は台の上にあり、まだ身長的に低い少年では届かないという事態が起こる。
そうなれば、どうしたか。
弟は直接交番へと赴こうと脚を動かしたのだ。
靴も履かず、パジャマ姿でひたすらに駆け出す。
多少の怪我を負った大洲藍莉もその後を追う形となり、父親からの追跡を逃れようとするのだが、悲劇はここで起きる事となる。
「信号は青になってから渡れ」という姉からの言葉を忠実に守っていた二十時一分。
居眠り運転で飛び出した車は歩行者用道路へと向かって⋯⋯。
庇ったのは姉の大洲藍莉であった。
しかし、近くにあるガードレールと挟まる形で潰された姉と衝突による衝撃は庇った筈の大洲蒼太にも届き、結果。
頭を強くぶつけてしまう。
その時であった。
走馬灯が溢れ出す、走馬灯が駆けて行く。
走馬灯は如実に鮮明に、明確に現れた。
少年は願う。
「お姉ちゃんを助けて欲しい」と。
【走馬悼】は発動した。
切っ掛けは弟の大洲蒼太である。
即死に近い大洲藍莉は茶色の髪も顔も身体も何もかもが潰れてしまい、その意識は完全に途切れてしまうものの、弟の大洲蒼太が病院に運ばれる中、緊急手術が行われる中、父親が暴行事件で捕まる中、居眠り運転で運転手が捕まる中、遺体袋に姉が入る中、大洲蒼太は姉を生き返らせる。
しかし、生命はその程度では戻らない。
過去を変えない限りは。
【走馬悼】は姉である大洲藍莉を複製した。
──筈だったのだが、この時にすらイレギュラーが起きてしまう。
姉自身にある『弟』という要素によって多少なりともあった複雑な心と在り方は文字通りに分かたれようとしていたのだ。
【走馬悼】は駆ける──。
流れる輪を走り、走り、走り、走り、影は灯火の輪を外れていく。
亀裂に耐えれなくなり、弾けるように分裂。
外れて、別れて、二律背反。
一方が影は無く、弟という存在に多少なりとも思うところがあった弟という存在が産まれた歳の頃の少女。
一方は影が伸びて、弟の存在を溺愛したかけがえない姉の身体を模した弟の理想の姉。
こうして【本物の大洲藍莉】の生涯に幕を閉じられた。
遺ったのは血が付着したタイヤ痕とひしゃげたガードレールと崩壊した家庭と病院で眠り続けている弟のみ。
『空弩街』に今日も踏み外した事にも気付かずに、着実に駆ける音がした。
誰も乗せていない筈のその馬は死のフラッシュバックを乗せて歪な街を轍を遺さず駆け抜ける。
━ ━ ━
密着した身体は触れ合っているにも拘わらず、ラブもロマンスもない空気が流れる。
事の顛末を知っている僕は、間違いであって欲しくて静かに瞼を閉じていた。
「どうやって、此処に?開いてたけど⋯⋯透明だからこっそりか?」
「ううん。開いてた⋯⋯。多分、弟か私の気持ち次第なんだと思う。本当ならこの家に警察が貼ったテープとかある筈だし」
テープと言われて即思い出せなかったが、黄色いテープの事かと勝手に納得させていると、ミニ藍莉は声を漏らす。
「蒼太の事、ありがとう」
「良い子だな、あの子⋯⋯」
「当然」
口癖なのだろうと今では思うその言葉は少し幼いものの、嬉しそうなのが伝わってくる。
「何時からおかしいって思ったの?」
疑問点を投げ掛けられた。それ程深く考えるまでもなく僕は答えていく。
「元々、違和感あったんだ⋯⋯」
「違和感?」
「藍莉が風呂に入っている間、僕は藍莉の家に電話掛けたんだけど、この間取りを見てハッキリしたんだ」
「間取り?」
「リビングと電話が乗ってる台の位置、それと階段の位置的に弟くんの走音が聞こえなきゃいけなかったんだ」
確信はこの家に入った段階、違和感は多少あっても引っかかる程では無かった。
けど、トッキーの話で蒼太という存在があやふやとなると話は変わってくる。
「あの時はお母さんの足音とお父さんの野球観戦のテレビの音が聴こえてたけど、電話を取ってる藍莉の近くに来た弟の足音が聴こえないってのは不自然に思い始めたんだ」
『こらー、蒼太!!お姉ちゃんの所に行こうとしない!今お話してるんだから!』という母親の言葉から、弟は姉の元へと行こうとしたのは違いない。
間違ってなければ、電話を最初に取った後、母親はリビングへ向かったのだと思う。
そうなると電話の中では、リビングで弟を呼び止める声を出したけど、追い掛けて捕まえようとはせず、何故か遠くから声を張って説教を始めた事になる。
どう考えても違和感しかない。
けど、弟は存在そのものが曖昧なら話は変わる。
元々、受話器を受け取った大洲同様、声が聞こえない、見えない存在だったのならば、僕からはその音が拾えない事になる。
スマホから漏れる音という情報は、ちゃんと母親の足音や野球観戦は聞こえるというのに、弟と姉の部分だけが空白として扱われた。
あの時本当は、弟くん自身から母親の怒鳴り声に反応してちゃんとリビングへと引き返した後、説教されたのだろう。
そうすれば辻褄合わせは出来る。
「私がお風呂に入ってる間に何やってるの?」
「藍莉の親がどういう反応なのか確かめたかったんだよ。あの時、何も分かってなかったし」
「⋯⋯心配してくれてたんだ」
「自分の為だけどな」
「ありがとう」
小さな感謝は、確かに気持ちが籠められているのを感じて、それを手放さないように瞼を閉じた。
「そうだ、朝方に家に電話したのは?あれはなんでだ?」
「今の私は弟の事が希薄で、それでも親の事で心配で電話を掛けちゃった。ゴメンね」
「父親が十時に仕事ってのは?」
「パチンコとか競馬とか、お酒を飲みに行くのが十時頃だから」
そう言えば、言い詰まったように『仕事』と言い換えていたけど、あれは一つの誤魔化しであると同時に抵抗だったのかな。
自身の父親が酒に溺れて、暴力を振るっているというのに、そのくせパチンコや競馬等で金を浪費しているという目の上のたんこぶの話をそうそうできる事ではない。
少なくても大洲には⋯⋯。
「藍莉、知ってたんじゃないのか?僕の妹がお前の父さんをおかしくした切っ掛けだって⋯⋯知って──」
「知ってた、最初から。でも入院中で面会謝絶中って言われてて、准の事もその時にはもう知った」
「っ!⋯⋯だったら──」
「でも、私のお父さんが自分で選んだ事で、自分で決めた事なの。それにもう⋯⋯終わったことなのよ?」
少し大人びた声が確かに聞こえた。
思わずに振り返る。右隣にいる少女へと視線を向けた。
それは、少女じゃ無くなっていた。
病室でトッキーと話していた大洲が消えた事による影響が出たのかもしれない。
それとも⋯⋯病院に居る蒼太の容態が急変したからか。
どちらにしてもあまり良い話ではない。
着用していたジャージは消えてしまい、高校の制服となり正座で座っている。
横に置かれていたランドセルは所々破れていて、ボロボロとなっていた。
外れた御守りは血で濡れて、給食袋とリコーダーは無くなっている。
「そっか⋯⋯。こうなるのね⋯⋯」
大人びた声色や不思議と優しく緩やかだった。
使い古されたランドセルを撫でた藍莉は不思議そうに見つめる。
「お前⋯⋯藍莉なのか?」
「えぇ、そうよ?それしかないでしょ?」
少し微笑む彼女は「まったく、もう」と呟いて、呆れているようにも窺えた。
「そっか⋯⋯」
僕が壊した象徴。僕が壊した家族と生命。
舞喜が原因で家庭崩壊を招く事になったとか、元々家族仲が多少歪だったというのもきっとあったのかもしれない。
けど、本当の意味で家族を終わらせたのは、やっぱり舞喜の起こした事件であり、それ自体が僕のせいだ。
(⋯⋯⋯⋯なんでこうなるっ。なんで⋯⋯)
もうすぐ終わってしまう。僕が原因で壊した家族と生命に償う時間は刻一刻と過ぎていく。
「なんで悲しそうにするの?元に戻るだけよ?本当にただ元に戻ってそのまま流れるの⋯⋯。いつもの時間に⋯⋯」
「だからだろ⋯⋯」
「ねぇ?少しでいいから、私の話を聞いてくれない?」
「あぁ、ずっと聞いとく」
右肩に重さが加わった。
それはまだ躊躇いがあるのだろうか、はたまたわざとなのだろうか。
とにかく、右肩に乗せられた顔は少し軽く感じた。
それではダメだと右手で頭を添えるように置き、僕の方へと寄せる形で右肩に来る重さをほんの少しだけ加算させる。
「私ね。弟って良いもんだって思ってたの?本当によ?」
「あぁ、俺も下が居るから分かる」
「でも、私の誕生日って何時しか弟が出来てから祝ってくれなくなっちゃってね。だから⋯⋯祝ってくれない?」
「あぁ」
気恥ずかしさなら多分にあった。
『吃ってしまったらどうしよう』というちょっとした事も脳裏を過ぎる。
けれど、仕方ない。
それぐらいの事を成せなければ、この場にいる資格が無いようにも思えた。
「ハッピバースデ〜トゥーユ〜──」
心を籠めた。真心と言われるものがあるなら、きっとこう言った時のものだ。
恥ずかしさは自然となくなっていく。
僕の壊した生命に報いる機会はここしかない。
鼻歌で僕の拙い歌に追尾するように奏でられていく。
「ハッピバースデートゥーユ〜、ハッピバースデーディア、藍莉ー。ハッピバースデートゥーユ〜」
今日は五月十一日。
大洲藍莉の誕生日であり、事故の二日後。
「ありがとうね。本当に嬉しい⋯⋯なんでだろ⋯⋯。もう、祝われる事なんて、ないって、思ってたのに⋯⋯。こんなに嬉しいもの、なのね」
微笑んでくれれば良い。
きっと牧原や武島、嶺二辺りにでも言えば、散々祝ってくれるだろうに⋯⋯。
そう思えば少し申し訳ない気もした。
体温が冷め始めている藍莉の手を握り締める。
泣きそうになる顔を必死に塞き止めようと意識した。
泣く資格というのは僕には存在しない。
自身の意思で明確に終わらせようとしているのだから。
「ねぇ、こっち向いてくれない?」
「今、変な顔になってるから無理だ」
「それで良いわよ?私はそれでも貴方の顔を見たい」
ゆっくりと顔を上げた。
叩かれでもするかもしれないし、罵詈雑言を浴びせられるのかもしれない。
ただでさえ、ルックスは良い方ではないから、サンドバックには丁度良いのかもしれない⋯⋯。
僕は右方向に居る藍莉の方と振り向く。
それと同時に頬に唇が当たるのを確かに感じる。
目を見開いて数秒間、そのままで硬直していた。
彼女から離れるのを待って、唇は優しく口角を上げて、その表情を窺わせていく。
目頭が熱くなっていく。
駄目だ、泣くな、泣く訳にはいかない。
僕にはそんな資格は無い。
────けど、耐えられそうになかった。
肝心な時に限って何時もそう⋯⋯。
情けない気持ちが膨らみ始める。
「そんな顔しないでよ?私、世界で一番幸せな気分なのよ?」
「なんだよ⋯⋯、なんでだよ。ったくさ⋯⋯。そんな事したら、もう別れるみたいじゃないか」
「ごめんなさい、でも私は──」
言葉は要らなかった、求めていない、聞きたくなかった。
本当に終わってしまう、本当に尽きてしまう。
だから──口で口を塞ぐ事で、彼女の綴る筈だった言葉を無理矢理ながら遮る。
初めての告白は十歳で処女で友達が多く、慕われて優しい彼女は齢十七歳という年齢で亡くなってしまった。
僕が取り零してしまった罪の象徴。
ロマンスもへったくれもない拙いキスは十秒もしない内に終わりを迎えた。
紅くなった頬は羞恥心が溢れているのがよく分かり、離した唇を指でゆっくりとなぞる。
十センチ差の身長は上目遣いのような状態で、不意に可愛くも思えてしまう。
けど、そんな一時にも制限時間というものはやって来る。
永遠に続けば良いとすら感じる心地の良い世界は終わりに向かって駆け抜けていた。
既に【走馬悼】の発動者である蒼太はこの世に居ない。
虚実に包まれていた世界も藍莉が消えれば元に戻ってしまう。
「ありがとう。最高のプレゼント。貰っちゃった」
「⋯⋯とう、ぜっんだろ」
「もう、泣かないでよ。私まで、泣きたくなる」
身体はヒビが入った。音のようなものは一切なくて、まるで元に戻るように、時間が戻されるように形は崩れていく。
藍莉の脚は既に崩壊を始まっていて、片腕はボロボロに崩れていた。
「お願い。⋯⋯⋯私の身体、掴んでおいて?」
「あぁ」
抱き締めた身体の体温は冷たくて、温もりは無い。
でも、何故か心は温かくなる。
とても不思議な感じで、ずっと続けと懇願した。
僕が強く抱き留めれば、藍莉もそれに呼応するように片腕を強く僕の方へと力を加えていく。
藍莉の後頭部へと手をやり、目一杯に彼女を感じようとする。
「⋯⋯私も──────」
砂粒のように崩れ去った⋯⋯。
預けられていた身体の重みは完全に無へとなり、座り込んでいた身体は縮こまるようにして最後の一片も逃さぬようにと蹲る。
最後の言葉は一体なんだったのかは、僕には分からない。
それでも、彼女は五月九日に死んでいる筈の存在であり、五月十一日の今日、誕生日の時間には存在してはならなかった。
走馬灯は終わりを迎える。
影が先行し、出逢った僕と過ごした約十二時間の生活も、光が順応していた学校生活も⋯⋯。
たった二日間の出来事は終わりを迎えた事を意味していた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯ーーーーっっ!!」
だから、僕は雄叫びを上げた。ひたすら、我儘なぐらいに泣き叫ぶ。
やはりこの街はクソだ。クソで、クソで⋯⋯⋯⋯。
僕は正真正銘の人殺しだ⋯⋯。
━ ━ ━
少年はすぐに家を出る事はしなかった。
衣類や雑貨類が散らかり、酒瓶が転がって、血が付着していている床を隈なく眺める。
そして呆然としながら准は蒼太が居たあの部屋を覗いた。
家自体の洋装や間取りが多少変わっているものの、二段ベッドがあり、L字に机は二つある。
「やっぱり相部屋だったのか⋯⋯」
藍莉の机であろう場所にはノートと教科書、バスケットシューズとスマホが置かれていた。
蒼太の机には小学校に入ったばかりであろう計算ドリルと鉛筆、それから趣味であろうゲーム機が置かれている。
しかし、そのゲームはヒビが入っており、とても気軽に使える様子ではなかった。
「⋯⋯この家庭なら、幾らでも嫌な想像出来るな」
そう呟いた少年は事実確認を取る事をせず、そのまま彼女の机を見た。
写真立てがあり、バスケットボール部で撮った集合写真と友人と学校行事で撮ったであろう写真が三枚たてられている。
それを眺めて、確信したような目付きで少年は写真から視線を外す。
「⋯⋯⋯⋯行くか」
そうして、少年は家の玄関を抜けた。
血濡れた一軒家付近には誰もおらず、テープもなく至って平穏そのもの。
呆然としたまま、既に抱き締めていた時に感じた冷たさは太陽の温かさに掻き消されている。
「お前!終わったなら連絡ぐらいしぃなさいよ!」
准の前方から駆け寄ってくる美羽は相当激怒している様子であり、近寄ると共に殴り掛かりそうな程であった。
だが准はそれに対して反応を示さず、むしろ俯いてしまう。
「学校に戻ぉるわよ!」
「⋯⋯⋯⋯あぁ」
か細く零れた声を出した。それが美羽にとっては不服であり、舌打ちをして肩を掴みに掛かる。
「お前のせいじゃなぁいのよ?!何時までショボくれるの!」
「なんでそんな事言えるんだ⋯⋯⋯⋯。僕のせいではあるだろ?」
「違う。『怪異』のせいでしょ?」
事の顛末を知っているからこそ出る解答。
実際にその通りであり、舞喜が起こした事件であっても根本的には【当て馬】のせいだと朝倉拓也からもお墨付きを貰っている。
けれど、彼はこうも言っていたのだ。
「でも『受け入れた』のも舞喜なんだって、そう言ってた。じゃあやっぱり家族の事でもあるだろ?家族の問題は僕の問題でもあるんだよ。トッキー」
美羽から見た准は苦い顔をしたと思えば、痛ましい程に悲しい表情を浮かべていき、段々と見ていられなくなっていく。
吐き出したい言葉は口から感情的に漏れていた。
止める術など、もはや無かった。
「家族で写ってる写真が一枚もパッと見で見当たらなかった!部屋はぐちゃぐちゃで、瓶が転がってて、穴空いてて、血が付いてて、でも、無かったんだ。あの姉弟がいる間にはあった、壁に貼られたシールも、身長を記念にって書く線も!」
「あの家は去年の春頃に越して──」
「そうじゃない!⋯⋯そんな事を言いたいんじゃないっ!⋯⋯僕が言いたいのは⋯⋯。僕が言いたいのは!アイツらの望んだ世界でも、家族が電話越しで笑っていても、結局の所、子供から見た親の居る光景ってのは悲惨なもんだったって事だ!⋯⋯それが堪らなく嫌だ。嫌なんだ。それを遠因で起こした人物の兄として、なにか果たせる事があった筈だって事なんだよッ!」
初めて女の子の部屋に入ったら、とんでもないぐらいに汚れていた。
しかも、血がついて床は穴が空き、元の光景に戻ってもそれは変わっていない。
挙句に親が記念にと子供の身長を壁に測って書くという祖父母の家でもありそうなイベントは現実では起こっておらず、リビングはゴミ屋敷。
凹んだ金属バットにキッチンには散乱した皿の数々に虫が集ってどうやって住んでいたのか不思議でならない程に、目も当てられない光景に溢れていた。
そして、小さな机の上にあった『遺影』は元の光景に戻ると血抜けれた包帯と救急箱。
そして、かつて着ていたであろう破れた黒の半袖と引き裂かれているピンクのヒラヒラしたスカートが虫の住まう場所となっていた。
「家庭事情に首突っ込むの?お前、バァカじゃない?」
「馬鹿でいい。終わった事と思って、その影響を受けた人物が同じ教室に居て、それにすら気付かない僕が馬鹿じゃない?冗談だろ!馬鹿以外の何で表したらいいんだ!愚か者で何処までも、間抜けな奴だ⋯⋯僕は⋯⋯、最低だっ!」
知ったのは今日のタクシーの中。
『話してくれれば良かった』とは決して言えないだろう。
元々、兄である准が起こした事件でもなければ、暴力行為に手を染めたのは父親の判断なのだ。
藍莉がどういった心情で少年を見ていたかは少年自身には分からない。
思うところもあったのかもしれない。
結局は本人に聞かなければ分からない事なのだ。
「最低なら、お前はここにいぃないわよ。私が保証してあげるわよ」
懺悔と後悔は五月の暑さに打たれていく。
これから先、彼女の居ない人生を送るのが決まってしまった准はそうして学校へと悲痛な面持ちで向かう事になる。
次回、大洲藍莉は語る編お終い。




