駆け抜ける馬
息を大きく吸って吐いた准。
時刻は十時十四分。
インターホンの前に居る准は息を絶え絶えのまま、そのボタンを人差し指で確かに押したのだ。
チャイムの音が響く。
しかし、いくら待っても、その扉からは声も、開閉音もしない。
ミニ藍莉が居るのならば、何かしらの音を立てて居そうなものだが、それすらない。
否、そうではないのだろう。
きっと、チャイム音なんてものが気にならないのだ。
それほどの事があるのだと、准は確信を得るようにして扉の取っ手を握る。
縦に長い取っ手を引っ張るようにするとそれは鍵が掛かっていない事が容易に理解出来てしまう程に軽かった。
「⋯⋯⋯⋯」
何も言う事は無かった。
『お邪魔します』も『入りますよ』も無い。
淡々と入り、丁寧に靴を脱ぐ。
そして、散乱しているゴミと散らかった洗濯物とぶら下がったままとなった受話器と壁には血痕と床は突き破られた状態の家に入った。
そして、受話器の位置と階段の位置、そして、テレビが置かれたリビングの場所を確認して、目を細めた准はついには瞼を閉じてしまう。
、
脚の踏み場もないその床の音を立てながら、二階の階段を上がる少年。
壁に貼られたシールと落書きの跡。
二階に上がると同時に見える横に線を引かれた壁。
二つ並んだその横線は数字が記されており、一方が誰の者かはすぐに分かる。
しかし、それにすら一瞥するだけの准は二階で開かれっぱなしとなっている部屋に入った。
「⋯⋯見つけた」
半透明の男の子、蒼太だった。
蒼太は体育座りで部屋の隅っこにおり、怯えたようにそこで座っていて、准に一瞥もない。
けれど、それは准には大した問題では無いのだろう。
同じ目線になるように座り込むと、口を開いた。
「藍莉の弟だよな?⋯⋯お姉ちゃんの友達の桐江准って言うんだ。宜しくな」
「⋯⋯」
けれど、何も言わない。
蹲ったまま、固まったまま、動かないのだ。
「お姉ちゃん、返してあげてくれないか?もう、これ以上苦しませないでくれ」
「⋯⋯⋯⋯」
「蒼太なんだろ?お姉ちゃんを無理矢理生き返らせたの?」
「⋯⋯⋯だって⋯⋯。お姉ちゃん。僕のせいで⋯⋯。僕のせいで」
「お前のせいじゃない。元々、信号もちゃんと渡ったんだろ?ちゃんとしてたんだ。なんでお前のせいになる」
「⋯⋯お姉ちゃんが僕を守ろうとして」
「立派な人だな。けど、そんな立派な人を苦しめるのが、お前のしたい事だったのか?」
「⋯⋯⋯⋯」
「お姉ちゃん、もうどんどん元のお姉ちゃんじゃなくなってきてる。これじゃあむくわ⋯⋯可哀想だろ?」
「⋯⋯」
蒼太の顔は上がる。
大洲藍莉が十歳の頃と十七歳の姿ならば、この大洲蒼太はどうなのだろうか。
一方は病室に居ると聞いた。
目の前に居る少年は影がある。
つまり、元の状態に限りなく近いのだ。
「お姉ちゃん、可哀想なの?」
身体のあちこちに傷があった。
顔からは血が垂れて、よく見ると、骨が剥き出しとなっている箇所もある。
「あぁ、家族は助け合うもんだからな。これじゃあ、お姉ちゃんだけが損してる」
「⋯⋯僕、駄目な子だから⋯⋯。だから、頑張ったけど──」
「それは違うな」
「⋯⋯え?」
「駄目な子は駄目って分かってないんだ。だから、分かってる蒼太は駄目じゃない」
そう言って、頭を少し撫でた准。
血が付着する事も厭わずに。
「よく頑張ってるぞ?当然だ」
「⋯⋯お姉ちゃんと同じだ」
「そうか⋯⋯良かったよ。嬉しい褒め言葉だよ」
泣きそうになる目の前の少年。
それをめいいっぱいに抱き締める。
「よく頑張ったな。痛かったろ。苦しかっただろ?お兄ちゃんもめっちゃ痛い時、叫んじゃうからよく分かるんだ。辛かったろ?」
鼻を鳴らして、背中に手が添えられる。
「ごめんなさい、ごめんなさい。お姉ちゃん、死なせちゃった、死なせちゃった!ごめんなさい」
泣きじゃくる少年は声を荒らげて、それは精一杯に泣き腫らした。
それを咎める者も諌める者は居ない。
必要が無い。
蒼太の背中を擦るようにして、あやすようにして撫でた。
決して、慰めにはならないだろう。
「あぁ、知ってる。だから、もう許すよ。許すから、安心しろ。僕は蒼太をちゃんと許す。ごめんな⋯⋯。本当にごめんな」
「ありがとう⋯⋯お兄さ⋯⋯お姉ち⋯⋯お⋯⋯ね?」
「あぁ」
影は消えた。
姿形は無くなり、滴っていた血液は消え去った。
まるで初めから無かったように、准の身体から吹き抜ける風のように蒼太は消える。
確かにあった手に付着した血痕はもう無い。
あれほど温く、滑りがあった赤い血は、手元にさ置かれなくなった。
准は今、一人の子供の願いを潰した。
准は今、一人の子供の生命を終わらせた。
もう、立ち返る事は許されない。
「まだだよな⋯⋯」
立ち上がった准は部屋を出た。
そして、刻まれた横線二つがある壁を素通りして階段を下りる。
そう、まだ終わっていない。
一番、話さなれけばならない人物が居る。
此処に、この家に居なければならない存在。
忘れてはいけない。
彼女の存在を。
ゆっくりと、『ある物』がありそうな物を場所を探すと、やはり一つしか無いと確信して、リビングへと向かった。
本来は未だあってはいけない物であり、それを象徴する物。
その場所には一人の少女が座り込んで手を合わせていた。
『見ていられない』とは言っていられない准は、その部屋に入り、隣に座って手を合わせる。
静かに心を込めて、決して忘れない為に。
「准、来たんだ」
「あぁ」
あどけない様子で准を見た少女。
ミニ藍莉が居た。
「話をしに来た。これからの事とか、これまでの事とか。一杯」
「うん!」
小さな身体に寄せられるように精神が幼くなっているミニ藍莉。
元の姿に比較的に近い藍莉は見た目こそ一緒ではあったが、話し方、仕草に違和感があった。
だからこそ、冷静になってみれば分かりやすい話であり、単純な話なのだ。
『二人で一人』、『陰と陽』、『光と影』、『表と裏』と言った具合なのだろう。
その存在は元から二つではない。
気付けばそうなっていただけの話であり、意図して行った訳ではない。
分かってしまっている准はそれがもどかしい程に痛ましく、居た堪れないのだ。
「ちょっと寄っていいか?」
「うん」
肩に腕が当たる位置まで近付いた。
「これ、手を合わせてる時、どんな感じなんだ?」
「⋯⋯わかんない。でも、納得出来るかな」
「⋯⋯そうか⋯⋯出来るのか」
「うん」
准とミニ藍莉の前には小さな机に置かれた『遺影』があり、優しい笑顔で微笑む、当たり前の日常を送っていた筈の『大洲藍莉』の写真が、そこにはあった。
━ ━ ━
話さなければならない。
語らなければならない。
【大洲藍莉】の生涯を。
これはあくまでも常盤美羽という『時間』という概念を用いて見てきた事であり、決して桐江准本人が見て聞いて、知った話ではなく、ましてや、大洲藍莉本人から語られた訳ではないという前提で聴いて欲しい。
彼女が産まれたのは、今から十七年前の五月十一日の昼頃。
約三キロ程度の出生体重で産まれた彼女は健康体そのものであり、何不自由無く過ごしていた普通の女の子であった。
両親が共に教師という事もあり、勤勉な生活を送る事にはなっていたが、それほど不満もなく、むしろ家族の寵愛を受けていた事は想像に固くない。
そんな彼女には三つのターニングポイントが発生した。
厳密には幾つもあった筈のものを零した結果三つとなったに過ぎないのだが、それでも三つだろう。
まず、最初の転機は『大洲蒼太』という弟の誕生にある。
当時の彼女は十歳であり、弟という未知の存在に興味があった。
当然、構い倒す。
ミルクも、オムツ替えも寝かし付けすらも、自身から率先するようになる程に。
誰から見ても弟想いの良い姉であり、出来の良い姉なのだと。
けれど、何時しかそれに甘え始めたのは両親であった。
寝かし付けが遅すぎると、母親の怒鳴り声が聞こえ始めて、それを諌める父親。
初めはその程度であった。
けれど、たった一度だけ、友達との誕生日パーティを開きたいという事で、『大洲家で招待したい』という旨を語ると、母親と父親は大激怒してしまったのだ。
当時、弟の年齢は一歳。
まだ危険が付きまとう歳であり、常に様子を見ていなければならない事もあったが、大洲藍莉はその事を知らなかった。
結局、『弟』という存在は誕生日パーティを中止へと追い込んでしまい、誰からも祝わない誕生日を迎えた。
そして、二つ目のターニングポイントは両親の務めている中学にある。
そもそも、大洲家は生まれも育ちも『空弩街』という訳では無い。
父親の転勤を切っ掛けで春に越してきた家庭であり、母親は電車を使い、長らく務めている高校へと向かい、父親は異動となったばかりの近場の中学へと車を運転して通勤する事となる。
父親は担任を任された。
一年生という始まりを飾る存在を受け持つ教師は重大な役割であり、校長や教頭も彼を信頼に置いていたのだろう。
事実、彼は異動とは言え、実力と確かな指導力を買われていたのだ。
だが、そんな事は『怪異現象』には関係がない。
異動先として選ばれたのは、桐江舞喜が進学した中学であり、そして担任であった。
事件は四月十四日。
端的な話で纏めてしまえば、暴力事件を止められなかった事と責任問題に発展したのだ。
彼は度重なる、生徒達の言葉を鵜呑みにしなかったのだ。
「桐江さんの様子がおかしい」
そう言った声は多く上がっていたが、それらは「思春期ならば誰でもある事」だと一蹴してしまった。
彼は自信家であり、出来る人間だと自負していた。
故に見逃してしまい、退職に追い込まれてしまったのだ。
そして、そこからが問題である。
退職に追い込まれた自信家はどうしたのだろうか。
たった一つのミスで退職に追い込まれてしまった男は恥も外聞も棄てて、事件の発端となった女子中学生を襲うだろうか?
違う。
家庭内暴力に移ったのだ。
初めの被害者は母親であり、頬を思い切り殴り飛ばされてしまった事が切っ掛けである。
それを目撃してしまった娘と息子は当然恐怖した。
けれど、止める術も無く、黙ってそれを黙認してしまったのだ。
そして、飛び火のように母親から娘に移り、崩壊した。
それが起きたのは一年前の春。
つまり、大洲藍莉が高校一年生であり、大洲蒼太がまだ五歳の頃である。
そして、三つのターニングポイントは交通事故である。
交通事故のそもそもの切っ掛けは傷害事件にあった。
食事を済ませて、大洲藍莉が友達と電話をしながら世間ばなしに花を咲かせていた時、それは起こった。
父親の浮気とそれを発覚した母親が激昂した為に起きた傷害事件。
急いで電話を切って、弟の元へと向かった大洲藍莉は、弟の傍へと駆け寄った。
常習化する暴力は二人の子供心に負荷を掛けていき、遂に動かなくなった母親を呆然と眺めているだけに留まっていた十七歳の大洲藍莉は弟を抱えて、家の隅に縮こまる。
それを見て、父親は迫り、いよいよ娘にも手を出してしまう。
しかし、弟は耐えられなかったのだ。
その現状と傍で救ってくれていた姉の窮地に。
だから、少年は立ち上がり、警察を呼ぼうとした。
けれど、それを止めようとする父親とその行動を阻止しようとする娘の構図が出来上がる。
だが、問題が発生したのだ。
家の固定電話は台の上にあり、まだ身長的に低い少年では届かないという事態に発生した。
そうなれば、どうしたか。
向かったのだ。
交番へと。
少年は靴も履かず、パジャマで駆け出した。
多少の怪我を負った大洲藍莉もその後を追う形となり、父親からの追跡を逃れようとするのだが、悲劇はここで起きる事となる。
「信号は青になってから渡れ」という姉からの言葉を忠実に守っていた二十時一分。
居眠り運転で飛び出した車は歩行者用道路へと向かって⋯⋯。
庇ったのは姉の大洲藍莉であった。
しかし、近くにあるガードレールと挟まる形で潰された姉と衝突による衝撃は庇った筈の大洲蒼太にも届き、結果。
頭を強くぶつけてしまう。
その時であった。
走馬灯が溢れ出す。
走馬灯が駆けて行く。
走馬灯は如実に鮮明に、明確に現れた。
少年は願う。
「お姉ちゃんを助けて欲しい」と。
そして【走馬悼】は発動した。
切っ掛けは弟の大洲蒼太であった。
即死に近い大洲藍莉は茶色の髪も顔も身体も何もかもが潰れてしまい、その意識は完全に途切れてしまうものの、弟の大洲蒼太が病院に運ばられる中、緊急手術が行われる中、父親が暴行事件で捕まる中、居眠り運転で運転手が捕まる中、遺体袋に姉が入る中、大洲蒼太は姉を生き返らせる。
しかし、生命はその程度では戻らない。
過去を変えない限りは。
だから、【走馬悼】は姉である大洲藍莉を複製した。
筈だったのたが、イレギュラーが起きたのだ。
姉自身にある『弟』という要素の懇願と異分子が別れてしまうというイレギュラー。
【走馬悼】は駆ける。
流れる輪を走り、走り、走り、走り、影は灯火の輪を外れていく。
外れて、別れて、二律背反。
一方が影は無く、弟という存在に多少なりとも思うところがあった弟という存在が産まれた歳の少女。
一方は影が伸びてら弟の存在を溺愛したかけがえない姉の身体を模した弟の理想の姉。
こうして【大洲藍莉】の生涯に幕を閉じた。
遺ったのは血が付着したタイヤ痕とひしゃげたガードレールと崩壊した家庭と病院で眠り続けている弟のみ。
『空弩街』に今日も踏み外した事にも気付かずに、着実に駆ける音がした。
誰も乗せていない筈のその馬は、死のフラッシュバックを乗せて歪な街を轍を遺さず駆け抜ける。
それがおかしいとは気付かずとも、気付いていようとも、輪のとなって、中にある灯火が轢かれ潰れた事にも気付かず。
━ ━ ━
密着した身体。
触れ合っているにも拘わらず、ラブもロマンスもない空気が流れる。
俯いた顔で事の顛末を知っている准は、間違いであって欲しくて、目を閉じていた。
「どうやって、此処に?開いてたけど⋯⋯透明だからこっそり?」
「ううん。開いてた⋯⋯。多分、弟か私の気持ち次第なんだと思う。本当ならこの家に警察が貼ったテープとかある筈だし」
テープと言われて即思い出せなかった准だが、黄色いテープの事かと勝手に納得させていると、少女が口を開けた。
「蒼太の事、ありがとう」
「良いよ。良い子だな」
「当然」
口癖なのだろうと今では思うその言葉は少し幼いものの、嬉しそうなのが准には伝わってくる。
「何時からおかしいって思ったの?」
「元々、違和感あったんだ⋯⋯」
「違和感?」
「藍莉が風呂に入っている間、僕は藍莉の家に電話掛けたんだけど、この間取りを見てハッキリしたんだ」
「間取り?」
「リビングと電話が乗ってる台の位置、それと階段の位置的に、弟くんが走る音が聞こえなきゃいけなかったんだ」
確信はこの家に入った段階。
違和感は多少あっても引っかかるほどでは無かった。
けれど、美羽からの話で蒼太という存在があやふやとなると話は変わってくる。
「あの時はお母さんの足音とお父さんの野球観戦のテレビの音が聴こえてたけど、電話を取ってる藍莉の近くに来た弟の足音が聴こえないってのは不自然に思い始めたんだ」
『こらー、蒼太!!お姉ちゃんの所に行こうとしない!今お話してるんだから!』という母親の言葉から、弟は姉の元へと行こうとしたのは違いないのだ。
そして、母親の声はリビングの中であろう。
遠いままであり、呼び掛けだけはして、歩くなり走る事した弟の後を追って捕まえようとはしていなかったという事になる。
それから通話が切れるまでの数秒、何も音は無かった。
つまり、弟は存在そのものが曖昧である一つの疑念となってしまったのだ。
「私がお風呂に入ってる間に何やってるの?」
「藍莉の親がどういう反応なのか確かめたかったんだよ。あの時、何も分かってなかったし」
「⋯⋯心配してくれてたんだ」
「自分の為だろうけどな」
「ありがとう」
小さな感謝は、確かに気持ちが籠められているのを感じて、それを手放さないように、瞼を閉じた。
「そうだ、朝方に家に電話したのは?あれはなんでだ?」
「私は弟の事が希薄で、それでも親の事で心配で電話を掛けちゃった。ゴメンね」
「父親が十時に仕事ってのは?」
「パチンコとか競馬とか、お酒を飲みに行くのが十時頃だから」
「藍莉、知ってたんじゃないのか?僕の妹がお前の父さんをおかしくした切っ掛けだって、知ってたんじゃないのか?」
「知ってた。最初から。でも入院中で面会謝絶中って言われてて、准の事もその時知った」
「っ!⋯⋯だったら──」
「でも、私のお父さんが自分で選んだ事で、自分で決めた事。それにもう⋯⋯終わったことなのよ?」
少し大人びた声が確かに聞こえた。
思わずに振り返る准は右隣にいる少女を見る。
それは、少女では無くなっていた。
病室で美羽と話していた藍莉が消えた事による影響が出たのだろう。
服はジャージは消えてしまい、高校の制服となって、正座で座っている。
横に置かれていたランドセルはボロボロとなり、御守りは血で濡れて、給食袋とリコーダー無くなっていた。
「そっか⋯⋯。こうなるのね⋯⋯」
「お前⋯⋯藍莉なのか?」
「えぇ、そうよ?それしかないでしょ?」
少し微笑む彼女は「まったく、もう」と言い、呆れているようにも見える。
「そっか⋯⋯」
「なんで悲しそうにするの?元に戻るだけよ?本当にただ、元に戻って、そのまま流れるの⋯⋯。いつもの時間に⋯⋯」
「だからだろ⋯⋯」
「ねぇ?少しでいいから、私の話を聞いてくれないかしら?」
「あぁ、ずっと聞いとく」
右肩に重さが加わった。
それはまだ躊躇いがあるのだろうか、はたまたわざとなのだろうか。
兎も角、右肩に乗せられた顔は少し、軽く感じた。
それではダメだと、右手で頭を撫でるようにして重さをほんの少しだけ加える。
「私ね。弟って良いもんだって思ってたの?本当によ?」
「あぁ、俺も下が居るから分かる」
「でも、私の誕生日って何時しか弟が出来てから祝ってくれなくなっちゃってね。だから、祝ってくれない?」
「あぁ」
気恥ずかしさならあった。
『吃ってしまったらどうしよう』というちょっとした事も過ぎっている。
けれど、仕方ない。
それぐらいの事を成せなければ、この場にいる資格が無いようにも思えた少年は口を開けた。
「ハッピバースデ〜トゥーユ〜──」
声を張ってはいなかった。
二人だけの時間のように、ゆっくりと、歌を綴る。
「ハッピバースデートゥーユ〜、ハッピバースデーディア、藍莉ー。ハッピバースデートゥーユ〜」
拍手を乗せて一つの生命に感謝を込めた。
今日は五月十一日。
大洲藍莉の誕生日であり、事故の二日後である。
「ありがとうね。本当に嬉しい⋯⋯なんでだろ⋯⋯。もう、祝われる事なんて、ないって、思ってたのに⋯⋯。こんなに嬉しいもの、なのね」
微笑んでくれれば良い。
そう思ってならない准は、彼女の顔が窺えずにいる。
体温が冷め始めている手を握るり締めて、泣きそうになる顔を必死に塞き止めようと意識した。
泣く資格は少年には無い。
自分で終わらせようとしているのだから。
「ねぇ、こっち向いてくれない?」
「今、変な顔になってるから無理だ」
「それで良いわよ?私はそれでも貴方の顔を見たい」
俯いた顔を上げて「なんだよそれ」と小声で返した准は彼女の方へと振り返った。
振り返ると同時に頬に唇が当たるのを確かに感じる。
数秒、そのままで硬直していた准は、彼女から離れるのを待った。
離れた唇は優しく口角を上げて、その表情を窺わせる。
「そんな顔しないでよ?私、世界で一番幸せな気分なのよ?」
「なんだよ⋯⋯、なんでだよ。ったくさ⋯⋯そんな事したら、もう別れるみたいじゃないか」
「ごめんなさい、でも私は──」
ヤケクソで下手くそなものではなかったのだろう事は少年が何よりもそれに気付いている。
けれど、口は口で塞ぐ事で、彼女の綴る筈の言葉を遮った。
初めての告白は十歳で処女で友達が多く、慕われて優しい彼女は齢十七歳という年齢で亡くなっている。
その事実は確かに感じていたが、それをこれ以上言わせない為の抵抗の口付け。
ラブはあっても意図のある行為。
ロマンスもへったくれもない拙いキスは十秒もしない内に終わった。
離れた唇と少年を見る視線は羞恥心があり、頬は紅くなっている。
十センチ差の身長は上目遣いのように彼女を見つめさせて、少年はそれがとても可愛くも思えてしまい、同時にそれが失ってしまう事に心を痛めた。
そして、やって来た時間の時。
既に【走馬悼】の発動者である蒼太はこの世に居ない。
虚実に包まれていた世界も彼女が消えれば元に戻る。
「ありがとう。最高のプレゼント。貰っちゃった」
「⋯⋯とうぜっんだろ」
「もう、泣かないでよ。私まで、泣きたくなる」
身体はひび割れていく。
脚は既に崩壊を始めていき、片腕はボロボロに崩れている。
「お願い、私の身体、掴んでおいて?」
「あぁ」
抱き締めた身体の体温は冷えていた。
温もりは無い。
それでも、その身体を抱き留めたままの身体は華奢で動かない片腕の分まで、もう片方の腕をありったけ力を籠められているのが嬉しくて、准は彼女の頭を、腰を抱き寄せるようにして抱擁した。
「私も──」
存在は消失する。
暇は余分に与えられた。
だから、もうこれ以上は無い。
預けられていた身体の重みは完全に無へとなり、座っていた身体は縮こまるようにして最後の一片も逃さぬようにと、固くなった。
最後の言葉は一体なんだったのかは、准には分からない。
それでも、彼女は五月九日に死んでいる筈の存在であり、五月十一日の今日、誕生日の時間には存在してはならない。
走馬灯は終わった。
影が先行し、少年と過ごした約十二時間の生活も、光は順応していた学校生活も、たった二日間の出来事は終わりを迎える。
━ ━ ━
少年はすぐに家を出る事はしなかった。
衣類や雑貨類が散らかり、酒瓶が転がって、血が付着していている床を隈なく見る。
そして、呆然としながら准は弟の部屋を覗いた。
洋装や間取りが多少変わっており、二段ベッドがあり、机は二つある。
「相部屋だったのか⋯⋯」
彼女の机であろう場所にはノートと教科書、バスケットシューズとスマホがあった。
弟の机には小学校に入ったばかりであろう計算ドリルと鉛筆、それから趣味であろうゲーム機が置かれている。
しかし、そのゲームはヒビが入っており、使える様子ではなかった。
「⋯⋯この家庭なら、幾らでも嫌な想像出来るな」
そう呟いた少年は事実確認を取る事をせず、そのまま彼女の机を見た。
写真立てがあり、バスケットボール部で撮った集合写真と友人と学校行事で撮ったであろう写真が三枚たてられている。
それを眺めて、確信したような目付きで少年は写真から視線を外す。
「⋯⋯⋯⋯行くか」
そうして、少年は家の玄関を抜けた。
血濡れた一軒家付近には誰もおらず、テープもなく、平穏そのもの。
呆然としたまま、既に抱き締めていた時に感じた冷たさは太陽の温かさに掻き消されている。
「お前!終わったなら連絡ぐらいしぃなさいよ!」
准の前方に駆け寄ってくる美羽は相当怒っている様子ではあった。
「学校に戻ぉるわよ!」
「あぁ」
「お前のせいじゃなぁいのよ?!何時までショボくれるの!」
「分かってる⋯⋯。僕のせいではないな。でも家族のせいではある」
「違う。『怪異』のせいでしょ?」
事の顛末を知っているからこそ出る解答。
実際にその通りなのだ。
舞喜が起こした事件であっても根本的には『四番の騎士』のせいだと朝倉拓也からも言われている。
けれど、彼はこうも言っていたのだ。
「でも、『受け入れた』のも舞喜なんだって。言ってた。じゃあやっぱり家族の事でもあるだろ?家族の問題は僕の問題でもあるんだよ。トッキー」
美羽から見た准は苦い顔をしたと思えば、痛ましい程に悲しい表情を浮かべていき、段々と見ていられなくなっていく。
「家族で写ってる写真が一枚もパッと見で見当たらなかった!部屋はぐちゃぐちゃで、瓶が転がってて、穴空いてて、血が付いてて、でも、無かったんだ。あの姉弟がいる間にはあった、壁に貼られたシールも、身長を記念にって書く線も!」
「あの家は去年の春頃に越して──」
「そうじゃない!⋯⋯そんな事を言いたいんじゃないっ!⋯⋯僕が言いたいのは⋯⋯。僕が言いたいのは!アイツらの望んだ世界でも、家族が電話越しで笑っていても、部屋二人にそれぞれに分け与えられてても、結局の所、子供から見た親の居る光景ってのは悲惨なもんだったって事だ!⋯⋯それが堪らなく嫌だ。嫌なんだ。それを遠因で起こした妹の兄として、なにか果たせる事があった筈だ!」
始めて好きな女の子の部屋に入ったら、とんでもないぐらいに汚れていた。
しかも、血がついて床は穴が空き、元の光景に戻ってもそれは変わっていない。
挙句に、親が記念にと子供の身長を壁に測って書くという祖父母の家でもありそうなイベントは現実では起こっておらず、リビングはゴミ屋敷。
凹んだ金属バットにキッチンには散乱した皿の数々。
目も当てられない光景に溢れていた。
そして、小さな机の上にあった『遺影』は元の光景に戻ると血抜けれた包帯と救急箱。
そして、かつて着ていたであろう破れた黒の半袖と引き裂かれているピンクのヒラヒラしたスカートが虫の住まう場所となっていた。
「家庭事情に首突っ込むの?お前、バァカじゃない?」
「馬鹿でいい。終わった事と思ってその影響を受けた人物が間近に居て、それにすら気付かない僕が馬鹿じゃない?冗談だろ!馬鹿以外の何で表したらいいんだ!愚か者で何処までも、間抜けな奴だ⋯⋯僕は⋯⋯。最低だ」
気付いたのは今日のタクシーの中。
『話してくれれば良かった』とは決して言えないだろう。
元々、兄である准が起こした事件でもなければ、暴力行為に手を染めたのは父親の判断なのだ。
藍莉がどういった心情で少年を見ていたかは少年自身には分からない。
思うところもあったのかもしれない。
結局は本人に聞かなければ分からない事なのだ。
「最低なら、お前はここにいぃないわよ。私が保証してあげるわよ」
懺悔と後悔は五月の暑さに打たれていく。
これから先、彼女の居ない人生を送るのが決まってしまった准はそうして学校へと悲痛な面持ちで向かうのであった。
次回、大洲藍莉は語る編お終い。




