泡沫の記憶
前提知識としてですが、この作品に出てくる登場人物、み〜んなどっか壊れてます。
常識的に考えてそうはならんだろという点を敢えて、何個か入れてます。
「貴方の事が、好きなんです。どうか⋯⋯お付き合いしてください!」
馳せた記憶の断片の始まりはここ。
本当にただの一目惚れ。
何となく自販機で飲み物を買おうとしている時、迷ってる私に対して「遠慮しなくていいから迷って買いな」なんていう言葉一つでコロッと落ちた私は傍から見れば滑稽な存在であろうに、それを慈しめる自信があった。
夕暮れ時、偶々──ううん、私が待ち伏せに近い形で、さも鉢合わせしたように彼と一緒に帰宅している途中、私の様子がおかしい事に気付いた為に、意を決して告白した。
ムードはなかったかもしれない。
断られても仕方ないと内心思っていたし、胸の高鳴りから早く脱却したかった。
結果としては肯定も否定もなく、二日でいいから待ってくれというものであった。
私はそれを快く了承してしまい、すぐに後悔する。
胸の高鳴りは未だ脱却せず、何を聞かれても応えられるようにしておきたくて、家で雑誌を読み漁ったり、ネットの情報をかき集めたのがつい三ヶ月前。
あの時の私と、今の私は違う。
同じ身体だというのに、この燃えるような心情を隠す事を選んだ。
私はあの私とは違う。違うから、肯定されない。
肯定されないのならば、私は独りぼっちの存在。
そんな存在は夢現に見てしまった。
皆の理想、かつての私、決して覚えている訳ではないのに、夢からの脱却の際、何よりも拒んだのは──現実での存在であり、やり直しがいくらでも効く夢への退避。
けれど、私にはその権限がない。結果として現実に戻り、拒否と拒絶を繰り返して、今の私が居る。
起き上がった私が最初に感じたのは、何処か浮いてしまったような存在の薄さ。
認知されないと気付いたのは、『空弩街』在住の者にのみの健康診断を実施した時。
私は察してしまった──誰にも見られていないという事実と圧倒的な恐怖心。
物に触れる事は出来るというのに、何故か『時間の干渉』が勝手に発動してしまう。
手すりが粒子以下の物へと変貌を遂げてしまった。
普通に学校の様子を見ようと、階段を歩いていただけだというのに⋯⋯。
孤独が辛いのは知っている。けれど、誰も肯定されない人生に意味があるかと問われればそれは違うと公言出来てしまう。
気付いて欲しかった、だから彼の後を付け狙った。
家にも侵入して、彼の動向を探っていたけれど、全く違和感を持たれなかったし、窓を開けてみても、電気を付けてみても、『幽霊』のせいにされてしまう。
なによりも、私の心の奥底に眠っていた感情が燃え広がっていく。
駄目、抑えなきゃいけない。
耐えて、我慢して、肯定して、受け入れて、諦める。
それで良い。そうでなければならない。
貴女は私であって、私ではない貴女。
彼が認めてくれた貴女は私ではない。
だから、耐えなきゃいけない──だというのに、辛くなって、居た堪れなくなって、酷く心を騒つかせる。
寝ている彼に僅かに寄り添おうとするも、その隣は私ではない別の人が陣取っている。
慰める術を知らない私は彼に触れられない。
触れれば消える可能性があるのだから。
記憶は邪魔となっていたのだろう。
私は私、貴女は貴女──それを隔てる境界線は記憶にあり、身体じゃない。
それが深層心理に眠っていた結論で、その果てにこうなったのだと、即座に理解してからは早かった。
彼の部屋を出て、家にも帰っても惨めになるだけだから、此処に居る。
燃えて何もかもが消え去った常盤の家。
私の古巣であり、何もかもを消失した忌まわしい残光の燃えカス。
酷い夢を見ているようだ。
私ばかりがこんな仕打ちを受けている気がしてならない。
世界に嫌われていると、『現象』を通して理解させられているかのような気持ち。
せめて、気付いて欲しい⋯⋯、分かって欲しい。
此処に居る私は孤独じゃないと、此処に居る私はちゃんと■■■■■■■のだと。
酷い女だと客観的に見てても分かる。
辛い現実に縋りたいだけの惨めな存在に成り下がっても、意気地無しでも弱虫でもいい。
家族が居ない私。家族が居た貴女。
こんな気持ち、知りたくなかった⋯⋯。
━ ━ ━
煤と錆で汚れた柵は玄関からの侵入を防ぐ為のものである。
しかし、その柵は鍵が壊れてしまっており、ユラユラと甲高い音を鳴らしながら前後に揺れていた。
「ここが、『常盤の家』」
「あぁ、そうだ」
辺りを見回してある確認を行う僕を牧原逸花は特段なにも言ってこない。
「見つけた⋯⋯。あれだな」
発見したのはピンク色のボロボロの紐。
玄関口から左側を進み、かつては綺麗に並べられていたであろう煉瓦が並べられた花壇を越えた先にある木が数本。
その木の一本に括り付けられていたようだ。
造林に囲まれた屋敷。そして、人の侵入を防ぐ為の巨大な鉄格子。
写真には鉄格子が写りこんでいなかった⋯⋯。
つまり、敷地内に入って写真を撮ったという事になる。
火事となった丁度その日、武島が居た事もそうだが、写真を撮った者も怪しく感じてならない。
「もう良いか?」
「⋯⋯あぁ。構わない」
火事現場は臭いが立ち込めるものだと思っていたが、既に時間が経ち過ぎてしまった為に、臭いはなかった。
というのも、この現場に建っていたのが屋敷というのは写真を見た時のイメージでしかなく、現在この場所には倒壊しきってしまい、黒ずんだ建物だった瓦礫しか残っていない。
心霊スポットですら建物の形は保たれているというのに、この場所にあった建物は何も残ってはいなかった。
「見えるか?」
「いや、見えない⋯⋯」
「見ようとしないからだ」
「顔を知らないんだよ!」
顔を知っていればもっと具体的なイメージが湧くものだが、人相も知らないのにどうすれば良いというのか⋯⋯。
「チッ。⋯⋯仕方ない。ならば私の力を使え」
「力?」
「私は『夢龍』だ。そして、夢というのは時に人の中にある記憶を呼び起こす性質もある。言っただろ、記憶の整理が夢なのだと」
『刃龍』の親戚ともならなさそうな可愛らしい名称だ。
夢を司るとするならば、悪夢を見ないようにしてくれそうでなんとも助かる力この上ない。
「でも、根本的に消えてたら⋯⋯」
「それはない。時間の流れそのものが改変されたのならまだしも、その兆候もなければ形跡もない。つまり、体験、体感した記憶はそのまま引き継がれていなければならない」
「つまり、過去を変えられた訳ではないから、流れているままの時間であって、その時間で体験した事は頭では覚えているって事か?」
紙に一本の線を横にビューと引いてそれを『A』と準える。
そして、その『A』では【あんぱん】を食べたとして、餡子の美味しさに舌鼓をした。
しかし、邪悪な存在が一本の線で悪さをして線を引き始めた最初の地点に戻されてしまう。
世界ごと時間を戻されてしまった為に、記憶は保持しておらず、好きな【あんぱん】も買い占められてしまった為に、僕は【メロンパン】を購入してしまう。
結果として【メロンパン】を食べて満足してしまい、『A』で堪能した【あんぱん】の美味しさを知らず生涯を過ごす──。
と仮定した時、【あんぱん】を買い占められてしまって世界は『A』とは違う『B』へと変化し、一本だった線は中心辺りで枝毛のように別れてしまう。
そして、僕はそんな『A』での記憶は保持していない為、『A』の事は「あんぱんあったらいいなぁ〜」程度のもので納得せざるを得ない。
しかし、今回の件に関しては時間の流れすら変えられていない為、枝毛の『B』には移行していない。
つまり『A』のまま、【あんぱん】で舌鼓した世界の為、記憶自体は保持されていて、単純に思い出せないだけという事。
「そうだ。分かってるではないか」
あの牧原に珍しく褒められてしまった。
正直、「知ってて当然だ」と叱責と悪態のオンパレードが雨あられのように飛び込んでくるとばかり思っていたのだが、嬉しい誤算を貰ってしまう。
「じゃあ、始めるぞ」
意気込む彼女は制服に手を掛ける。
しかし、その動き、途端に止まり、僕の方へと視線を移す。
「⋯⋯おい?レディが脱ぐんだ。視線を逸らすなりしたらどうだ?」
「え?脱ぐの?六華は脱いでなかったぞ?」
不機嫌な表情を浮き彫りにして、鋭く睨み付けられる僕は思わずホールドアップをしてしまう。
しかし待って欲しい。
『刃龍』は衣服も靴も下着も全て自前の鱗で作っていたし、自慢すらしていた。
だから、僕は牧原もそうなのだとばかり思っていたのだ。
「あいつと比べるな!奴が変質的過ぎるのだ!」
「左様で。じゃあ、片目閉じてまーす」
「もう片目は潰されたいという事だな?」
赤い瞳が僕を凝視する。
目線が合ってしまうと、本当に潰されかねないと、危機感が身体を即座に回れ右させる。
「そんな理由で隻眼なんかになったら、一生笑い者だな⋯⋯」
「『龍』に付けられるんだ。誇りに思え」
思えないから笑い者なんだがな⋯⋯。
それに、「『龍』に片目潰されたよ」なんて口が裂けても言えないし、言ってしまったとしても信じて貰える筈がない。
分かった上で牧原は言ったのだろう、そうに違いない。
どうしてだろう、『常盤美羽』の家の敷地内で、『常盤美羽』を探す為にここまで来たのに、何故かクラスメイトの女の子が背後で素っ裸になるのを黙認しているという状況。
何故か、凄い興奮するんだが!なんだ?
鶴の恩返しのように覗いてはいけないのか、それとも鶴ではないのだから覗いても良いのか。
衣擦れの音が無駄に耳に残るのは何だろうか、ひょっとして焦らしプレイ的なものが好みだったのか?
新境地に着いた。そうだとすれば、牧原には頭を下げるだけでは足りないのかもしれない。
ここは僕もいっそ脱ぐという選択肢は⋯⋯いや、ないな。
仮に脱いだら多分、殺される。
「おい、後ろを向いたまま、手を差し出せ」
「え?⋯⋯腕を切ろうとしてるのか?」
「馬鹿!服だ。地べたに置いておくのが嫌なんだ」
「綺麗好きめ!嫌いじゃないぞ、そういう所」
視線はそのままを維持、そして身体を少し右へと向けて腕を後方に伸ばす。
「知っている」
まだ温かい半袖のシャツ、スカート、ソックスと履いていた靴を回収した僕は受け取った靴を敢えて踏み、衣服を抱き抱える。
恐らく下着の類はシャツとスカートの間に挟まっているのだろう。
ブラジャー特有の固さみたいなものがないのは、なんでだろうか?
ちょっと覗くのも在りかもしれない。
クラスメイトが下着を着用していないなんて、前代未聞の大事件だ。
「おい、覗くなよ?」
「⋯⋯ヤダなぁ。ちゃんとあるか確認しようとしただけだっての」
危機一髪とはこの事、もう少しで思わず手が出る所だった。
「はぁ?私はコチラを振り向くなと言ったんだ。あるとはなんだ?⋯⋯貴様、下着を──」
「馬ッ鹿!んな訳あるか!お前の下着なんぞに微塵たりとも興味なんて湧くか」
微塵もないけど、粒子単位ではあるかもしれない。
だから、それが傾いて⋯⋯という場合もあるにはある。
「⋯⋯ほぉ〜、そうか。では、その持っている衣服を大事に抱いたままの姿勢でいれるな?」
「⋯⋯⋯⋯ちょっと動くかも?」
「クズめ」
「仕方ないじゃん〜!こちとら男の子ぞ!?女の子の下着とかに興味ある歳頃なんだよ〜!許してくれよ〜」
僕が清廉潔白の純粋無垢なホワイトボーイと思われるのも心外な限りだ。
邪な気持ちがちょびっとくらいあったって良いと僕は思う。
シミだって時が経てば、良いものだって思えるかもしれないし、僕は僕自身を肯定してやりたい限りだ。
「清々しくなるな。⋯⋯⋯⋯ちゃんと、着てるからな?」
「何色?」
「⋯⋯うぅ、コイツ⋯⋯。お前、人には言わない癖に、龍に向かってなんでこうも厚顔無恥でいれるんだ?!」
「さぁ、慣れかな?」
実際に慣れの部分が近い。人同士よりも龍と会話している時の方が楽しい時があって、今がまさにそれに該当する。
小さく高い唸り声を上げる牧原。
「⋯⋯黄色」
「え?なんだって?もう一回言ってくれ!」
ほらな、龍って存外楽しい生き物だろ。
人じゃ言わない事も挫けて言う時がある。
だから、龍との会話は比較的には楽しい部類に入るのだ。
「煩い!顔を向けるな!瞼を閉じろ!変態!」
「はいはい。分かった、分かった」
しかし、僕は聞いてしまった。
確かに、聞いてしまったのである。
(黄色か⋯⋯。牧原の奴、意外と控えめなご様子であると見た)
僕は抱えている衣服を向けて視線を落とす。
ここまで行ったら見ても変わらなさそうなものでもあるが、流石に止めておこう。
本当に殺されかねない。
地面を擦る音が鳴る。脚裏が地面と接地した状態で動いたのだ。
「ゥゥゥゥゥゥ⋯⋯」
小さく上がる唸り声、それは最初、聞こえるか聞こえないか分からない程度のものであったが、徐々に耳に届くようになると、風が吹き荒んで来た。
月明かりというなんともアテになりづらい光源は、薄っすらとした影を地面に作っており、僕の影は大きな影が呑み込む。
衣服をしっかり掴み、靴はそのまま踏んだままの為、飛ばされる事もなく、夏になった季節には強すぎる風は肌心地の良い体験を与えてくれた。
次に吹いた風は生暖かいものであり、それが吐息であるとすぐに察した僕は、声を掛ける。
「⋯⋯終わったか?」
『あぁ』
どうやら変身──いや、元に戻ったというのだから、還ったとも呼ぶべきだろう。
『人』から『龍』になる事は決してなく、『龍』から『人』へと程度や環境、文明形態に合わせて変化する。
『龍』が生きていく為の一つの術であり、不必要だった機能。
振り返るとそこには、『牧原逸花』と呼ばれ慕われている『龍』の姿が確かに映っていた。
「白いんだな」
日本昔ばなしに出てくる蛇のような龍。
鱗の一枚一枚が白く、頭部から尾に掛けて背中に伸びている棘は濃い青色で、手と呼ぶべきか、脚と呼ぶべきか、いずれにしろ手脚が六本ある長尺の龍。
二本の青い髭は重力に逆らいたいのか、フワフワと浮いていると気付いて、地面に視線を向けると胴体は手脚含めて僅かに浮いている。
『悪いか?』
「てっきり黄色かと思った」
『ふんッ!食われたいのか?貴様』
「人は不味いらしいぞ。どうせなら、美味しいの食えよ」
龍の眼孔は僕の頭をすっぽりと埋まりそうな程に大きく、電源が切れたテレビのモニターのように僕の姿が黒く映り込む。
「で?どうすんの?わざわざ姿を見せたってのに、何もしない事は無いんだろ?何したらいい?」
『そこに寝ていればいい。それで済む』
「はいよ。⋯⋯服抱えたまま?」
『そうだが?』
「分かった、顔に埋める」
寝転ぶ前、僕は敢えて、そう、敢えて、身体と腕に挟んでいた牧原が着ていた衣服を顔に乗っけようとする。
『ええい!やめい!何をするつもりだ!匂いでも堪能しようと言うのか?!この変態め!』
姿が変わってもやはり牧原は牧原なのだとよく分かる言葉遣いで、僕を吹き飛ばそうとする程の勢いある咆哮は身体を僅かに揺らす。
人の言葉を喋りながら、口元はその言葉と全くあっていない程度に大きく開かれていた。
赤い口内は綺麗なもので奥歯までくっきりであり、前歯は牙のように尖ってこそいるが口に収まる程度のサイズ感。
虫歯はパッと見た感じだが、無さそうだ。
「いやいや、被害妄想が過ぎるって。屋外で寝るのに、月明かりが邪魔なんだって」
『⋯⋯本当だろうな?』
「うん。ジュンクン、ウソツカナイ」
『片言なのだが⋯⋯まぁ、もういい。好きにしろ』
ようやく寝転んだ僕は仰向けで予定調和のように牧原の衣服を顔に乗っけた。
だが、ふと疑問に思ってしまった事を思い出し、僕はペラっと牧原の衣服を捲って顔を覗かせる。
「つかさ、ここまでの長い道のり、おまえに乗っけて貰えれば済む話だったんじゃねぇの?」
そう、かなり長い道のりであった。長い上り坂を越えて、平坦な道を歩き、くねっとした道を通り過ぎてようやく辿り着いたのが、この跡地。
体感で一時間は多分掛かっている。
ハッキリ言えば、乗っけ貰った方が楽に着いた。
『私は『刃龍』のように軽い存在ではない。背に乗せるのは我が名誉を賜りし時のみと、そう心に刻んだ身。貴様に私の背に乗る資格があるものか』
義理堅そうだもんな。多分、藍莉ならば乗っけてくれそうではあるが、実際のところどうなんだろうか。
「確かに、浮いてなかったら重そぅぅぅウワァァァァァァァァァァァ!!」
僕の上半身と下半身丸々鷲掴むように前脚が乗っかってくる。
というか多分、僕よりも少し小さい程度。
そんな脚に体重が掛かって、潰されそうになってしまう。
『誰が重いだと?』
「嘘です!ごめんなさい!今日最後に食べたのパスタだから、吐いちまったらたらこ塗れになるぞぉぉぉ〜〜!」
脚が離れて、超低空の旋回をして、元の位置に戻る牧原だが、龍となってしまった為に表情が大して変わらなくなってしまい、読み取りにくい。
表情筋が固くなってしまうなんて、デメリット以外の何物でもないだろうに⋯⋯。
『貴様は口と言葉が軽すぎる⋯⋯龍とは何時でも人を捻れる存在というのを頭の片隅はおろか、飛んで消えてしまったのか?』
確かに龍は強い。間近で見ていたからこそ分かる。
軍事兵器を用いて、ミサイルなり機関銃なりをぶつけりてもピンピンしていたのがあの『刃龍』であり、鱗に出来た僅かな掠り傷を壁にシミが出来た程度のものと考えていたぐらいだった。
炎も吐いてたし、車や建物なんてそこら辺にある雑草や葉っぱ程度と考えていた程で、何もかもが隔絶しているのも確か──。
けど、僕はそれでも言い切れる。
「⋯⋯でもお前、優しいだろ?それが全てだ」
ワニのような瞬膜が左右から行ったり来たりをした龍は少しだけ顎を上に上げて、目を細めた。
だが、やはりというべきか、表情が読み取れないのに変わりはない。
『優しい事と何もしない事が同一と考えるな。私はあくまでも己が正しいと信じている事を行っているに過ぎない』
「そっか。ふっ。なら、それでいいや」
『⋯⋯では、始めるぞ。目を閉じろ』
「⋯⋯」
遮光のように牧原の衣服を頭から被り、顔を隠した僕の視界は本当に暗くなった。
瞼を閉じて、牧原の衣服が更に影を強めたからである。
両手を腹部の上に置き、呼吸のしにくさは牧原が着ていた衣服から漂う匂いで何とかなりそう。
いや、なってないけど、誤魔化しという意味で、何とかする。
『っふ!』
風が大きく吹いた。やがて咆哮が遠退いて、衣服が徐々に大きく靡いていくのを感じる中、衣服が落ちないようにと片手を顔の上に乗せて、待機。
そして、巨大な咆哮が耳を劈かせると、意識がピタッと止まってしまった。
━ ━ ━
巨大で野太い鳴き声のようなものが震響して林の中を駆け抜けた。
その咆哮は天を駆け、疾走の限りを尽くすと、静かに緩やかに消えていき、残ったのは耳から伝わり脳に刺激されて情報のみ。
そして嘘のように吹いていた微風も木々の擦れる音は消え去り、静寂が場を制した。
「なんですか?さっきの音?」
「⋯⋯熊?」
『空弩街』には熊出没の情報がない。
しかし、何処からか降りてこないとも限らない中、その可能性は確かにあると、椎奈は頷く。
「⋯⋯龍」
誰かがポツリと零した単語。
訝しんだ表情で藍莉を見つめた椎奈は少し半笑いであり、サナは自身を視認出来ない舞喜の近くで考える素振りをしていた。
「先輩、本気で言ってます?」
「えぇ、少なくても『常盤美羽』はそう言っていたわ」
「そうでしたか?」
「うぅん。どうだろ?」
自信がない舞喜が訊ねた先は椎奈なのだが、彼女も同様に黒いドレス姿の女性の話の内容を一言一句覚えている訳ではなく、何処か自信なさげに答えてしまう。
「⋯⋯行きましょう。近くに准が居るのかも」
「はい!」
「凄い先輩、そんなの分かるんですね」
「いえ、ただの勘よ」
当てずっぽうに近い。
先程まで話していた黒いドレスの女性曰く、「龍と仲良しこよし」という発言から准は龍と行動を共にしている節がある。
そんな推測に近い考えから、目的地までの道を足早に駆けて行く。
「お姉ちゃん。龍は居るよ⋯⋯」
「え?⋯⋯サナちゃんまで、いやサナちゃんだから説得力があるというか〜。」
「本当に居るの?龍なんて」
半信半疑の疑問が完全に解ける人物、サナが身振り手振りで示す。
「はい。赤い龍、『はりゅー』は『先生』も怖がってた。特に空がピカァーって赤く光った時は凄かった。身体が震えてた」
大きく手を広げ、腕を斜め上に広げるその姿はまさに色も相まって──。
「光った⋯⋯。空が?花火じゃなくて?」
「ううん。違う」
花火ではなかった。夏の時期に風物詩として大会が開催される程のものではあり、一番に思い浮かべそうなものであったのだが、安直が過ぎたようである。
「知ってる?」
「いえ、知りません」
椎奈は首を横に振る。
「アタシも知らないです」
舞喜は手を横に振る。
結果、三人ともマトモに知らないという事が分かった。
そう、空がピカッと光る程のものは雷ぐらいのものだが、赤くは光らない。
そんなレアな出来事が起きれば流石に少しぐらいは覚えているようなものだ。
「准なら知ってるかしら」
「サナ見た事あるよ。『はりゅー』を」
「へぇ〜、どんな龍なの?」
「えぇとね、長〜い赤い髪に、ここにお団子があって、綺麗な人だった」
サナは左側頭部付近に拳を作り、人物像を大雑把に語るのだが、問題は龍ではなく、人と言った事にある。
流石に人相を語らってもらう予定はなかった為、藍莉、舞喜、椎奈は互いに視線を向けて、首を傾げた。
「え?⋯⋯人?龍だよね?」
「うん。でも人になれるから。お姉ちゃん達と同じ服してたの」
「制服?⋯⋯学生やってるの?!」
椎奈と藍莉がまさに今同じ服装である。
分かりやすい見本がある事で尚の事、混乱し始めるのは椎奈であった。
「でも、うちの学校、赤い髪の子なんて居ました?」
「後⋯⋯お兄さんのお友達とよく一緒に歩いてるのを見てた」
「准の友達?⋯⋯」
そもそも、いただろうか?なんて藍莉は考えていたが、すぐにその答えは出てきた。
しかし、一足先に椎奈が口を開き、答えを発する。
「もしかして、睦生先輩じゃないですか?お弁当一緒に食べてるのちょこちょこ見掛けますし」
唯一、准と仲が良いのが睦生嶺二であり、掛け値無しで接する事の出来る存在。
他クラスでも准の友人と問われれば、皆が嶺二と答える程には仲が良い。
「⋯⋯そういえば、睡眠薬がないと寝れないって睦生くんの事、言ってたけど何か関係あるのかしら?」
昼間に准に一服盛られてしまった際、発していた言葉は間違いなく、何か知ってるようであり、二人だけの秘密。
「それに、彼にだけやたらと『現象』から遠ざける所あったし」
『幽霊騒動』で藍莉の弟が通う小学校へ夜中に向かった際、明らかに嶺二だけは頑なに小学校へと向かわせようとはせず、帰るように進言し続けていたのが、藍莉の印象に色濃く残っている。
明らかな特別視が目に見えて分かる。
「准、何を隠してるの?」
隠し事が多い──そう感じた藍莉の予感は外れている。
そう、外れているのだ。
問題なのは、言いたくても言えない程、ただただ悲惨で無慈悲な結果しか訪れなかっただけの話なのである。
━ ━ ━
濁流のような勢いを超えて、『夢の空間』に入った牧原逸花こと『夢龍』は現在、海中を瞬く間に駆けていた。
『夢の世界』は世界全体が夢のようなものだとすれば『夢の空間』は人の中にある『夢』を空間化して、自由に移動できる状況の事である。
とはいえ、寝ている准は移動出来ず、あくまでも移動が可能なのは『夢龍』のみ。
マリンブルーが煌めく空間を移動し、泡のような形をしたものの中から景色が浮かんでくる。
『違うな。これではない』
妹の誕生日を祝う為、家族の帰りを待っている准の様子が映し出された泡を通り過ぎ、更に前へと進む。
『っ!なに!』
白い飛沫が上がり、空間は途端に泡に包まれていく。
勢いを殺し、ゆっくりと眺めていく『夢龍』は瞼を瞬かせて、その泡に映り込む一つ一つを注視するようにして見つめていくばかり。
声も上げず、黙々と役目を全うする為に、ひたすらに顔を、瞳を、胴体を動かしていく。
それは小学校の頃の思い出の光景。
それは友達と初めて拳を使った喧嘩をした時の光景。
それは両親が家を空けて、妹と二人で過ごしていた時の光景。
『コイツの親はどうなっている……』
思わずそんな言葉が漏れてしまった時であった。
膨れ上がる泡が目に浮かび、そこへ注目すると、『夢龍』は目を細めて、近付く。
徐ろなその動きは慎重であり、至って冷静に見つめて、驚く。
『刃龍⋯⋯。貴様の記憶か。随分と大きいものだ』
明るく薄い紫色の瞳と赤い髪、左側を団子にして、後ろ髪をハーフアップという高校生というには少し目立ち過ぎる髪色と髪型をしているその彼女は楽しそうに三人でアイスを食べながら、談笑していた。
『⋯⋯⋯⋯楽しそうなものだ』
それだけを口にして、そっとその場を後にして、眺める泡の集合体。
どれが正解か、どれが『常盤美羽』に繋がる記憶、夢なのかを『夢龍』は判別しなければならない。
訝しむように見つめる『夢龍』は手当り次第にといった具合に泡へ向かおうとした──。
淡く照らされていた海の世界は突然日光の差し込まない深海のように暗くなってしまう。
照明が突然落ちたようなものであり、慌てた様子で辺りを明るくしようと力を込める。
マッチに火が付いたようにボォン!と音を鳴らして周囲三十メートル圏内は淡く優しい火の光に包まれ、泡の光景を再度確認しようとする。
『なんだ⋯⋯何故、動きが止まっている?っ?!⋯⋯まさか悪夢か、厄介な!』
『夢の空間』にある泡の中の光景はまるでビデオを一時停止したように固まったままとなっていた。
そして、ノイズが走りだし、泡が瞬間──炸裂してしまう。
『な、なんだこれは?!私は知らないぞ?!こんなの?!』
泡が全て弾け、黒い何かが一人、海の中を佇む。
ボンヤリとした黒い人型は顔も身体の骨格すら曖昧で、何処か揺らめいている。
『夢龍』は背筋に寒いものを感じてしまい、目を見開いた。
『き、貴様ッ!研究所に──』
突撃した。進撃し、空間の激震は『夢龍』の動きを瞬間的に停止させてしまい、胴体へ目掛けて拳が振るわれてしまう。
『ッッわぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜!!!』
「ッッッ〜〜!カァァァァァァァァァァァァァァア」
どよめく咆哮は空間に大きな震えを発生させて、暗く深く、決して抜け出させないとばかりに下へ、下へ、下へと押し込まれていく『夢龍』は痛みにより動けず、息吹を吐こうとするも顔面に強烈な蹴りを叩き込まれてしまい、視界は一気にふらつきを覚え、身動きを取る前に尾を掴まれてしまい、投げ飛ばされる。
『ッッッぅぅぅうううううううううぁぁあ!!ハァァァァ!』
距離が離された事による一世一代の大博打。
空間は弾けるようにして音を掻き鳴らし、強烈な白い息吹が【黒い何か】へ直撃した。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」
しかし、それを縫って来るかのように、正面に姿を現すと口元の肉を抉るように掴み、手はやがて食い込んでいく。
『ッッ!!』
「いたい、いたい。なんで、なんで──」
尾を大きく回して、【黒い何か】の腕へと叩き付けると、怯んだように力は抜け、大きく胴体は旋回し、距離を更に空けようとする。
「敵だ、俺達の敵だ、許さない」
「私の子供を返しなさいよ!この屑!」
「お前がいるから、お前なんかがいるから」
「お姉ちゃんに会いたい。冷たい場所は嫌だよ⋯⋯」
『なんだ?!何処から聞こえて、いや、どうして全方位から聞こえるんだ!?!』
あらゆる場所からスピーカーを通して聞かされているかのように大盛況の空間。
本来は有り得ない異常事態であり、完全な誤算。
『桐江准!いや朝倉拓也!人間の子供に何を埋め込んだ!!』
「許さない、許さない、許さない、許さないゆゆゆゆゆゆゆゆゆ────■■に■■て■■!?ァァァァァァァァァァァァ!!!」
全周囲からノイズまみれの声が耳を激しく刺激し、空間は更に落ちる。
『うわぁぁぁぁ!!』
重力場が発生し、胴体は途端に押し潰される感覚がやってきた。
痛み以上に呼吸のしづらさ、尾や手脚を一つも動かせない程の圧が『夢龍』を襲う。
「何故だ、何故死んだ、死んだ、何故、何故、何故、何故、何故何故⋯⋯なんでェェェェェェェェェェェェェェェェェェ!!!!」
『なッ!』
無数に広がる暗闇と化した空間は漆黒に染まり上がり、大波のように逃げ場のない闇は『夢龍』へと尋常じゃない速度で向かって来た。
そして──呑み込まれた。
『うわぁぁぁぁッッ!!〜〜〜ッ!こ、これは?』
暗闇にはポツポツと奥から『夢龍』へ向かって彗星のように泡が迫り来る。
『記憶がチラホラある。しかし、速いな』
瞼はマトモに開ける事は叶わず、半開きのままとなり、中から電圧高めの電気ショックを直で受けているように脳は痛みと痺れでマトモ判断が付かなくなっていく。
そして、彗星は光速の速さを持ってして『夢龍』へと迫る──。
『ふざけんな!何とかしろ!朝倉拓也なんだろ!』『死ななきゃ良いって話じゃない。それ以前の問題なんだから』『なんでッ!こうなる』『お前、もしかしていい子ちゃんでいるつもりか〜い?』『私はね准、龍なんだよ』『お願い、私の身体、掴んでおいて?』『初めまして、ドラゴンハンターです』『お兄ちゃんがもっと別のお兄ちゃんなら良かったのに!!』『死んでください私の為にィィィィィ』『私の背は人間のもの。さぁ行こう』『ぁぁぁぁぁ〜〜!痛ッッてぇぇぇ〜〜!!』『お前はお兄ちゃんなんだから家族の分まで──』『准、今日は何処調査に行くよ!』『こんな事なら、私、生まれてこなきゃ良かった⋯⋯』『お前は僕にパンツを綺麗に見せてくれる為に、ストッキングと黒以外のパンツを履いてくれた』『ちくしょォォォォォ!!』『先輩、明日晴れると良いですね?』『ここが痛いんだ⋯⋯ずっと、居なくなってから気付くなんてしたくなかったのに』『甘えんな少年。世の中、そんな単純で済んだら、楽な事はない』『どういう、どういう事?⋯⋯准!准!』『刃龍の事を思うならば!懇願しろ!!!』『お前なんか居なくてもなんて事ないって、笑ってやる』『六華⋯⋯さよなら』『■■■■■■■■■■』『苦しいでしょ?じゃあお身体、要らないね?』『俺達二人はずっと友達だろ?』『違うんだ⋯⋯違ったんだよ』
『貴方の事が、好きなんです。どうか⋯⋯お付き合いしてください!』
『それだ!!!』
手元に一つの泡を持つ。
泡沫に消えていく光景と記憶は『夢龍』に涙を齎した。
海を越えて陸地へと昇る『夢龍』は夜空に煌めく星へと駆け上がるように上昇し、零れる雫は小雨のように降り注ぐ。
だが、ダメージの蓄積も重なり、力なく落下していき、准の寝ている隣で大きな音と激震を走らせながら、倒れ込んだ。
身体は小さくなり、人の形を形成すると、准がよく知る『牧原逸花』へと成ると、喉にまで込上がっていた吐瀉物をぶち撒けて、大粒の涙を溢れさせる。
同調の反動──夢とは記憶であり、客観的に見ている分だけではなく、当時を経験した人間の感情も丸ごと乗っかってしまう。
それにより、准が当時感じた心が一気に逸花にまで浸食してしまってのだ。
「ぁ、ぁぁ、はぁ、はぁ。二度とやらん!」
久方ぶりに見た『刃龍』と親友の死に様。
馬鹿正直に眠ってしまっている少年の妹から発せられた言葉やその他諸々が全て、逸花の心拍を跳ね上げていき、鼻水を垂らさせて、嗚咽を漏らさせる事態になった。
だが、少年に対してそれを責める事はしなかった。
「イカれてる⋯⋯。殆ど、はぁ、一年未満の出来事ばかりだ⋯⋯。はぁ、はぁ。心は壊れてるのか?コイツ?」
━ ━ ━
ご丁寧に顔の上に置いてあった衣服を持ち、改めて着直した逸花は、ぐーすかぴーと眠り転けてしまっている准の身体を大きく揺すりながら、声を掛ける。
「起きろ、唐変木!馬鹿!間抜け!おおぼら吹き。童貞!」
「誰が童貞だ!⋯⋯あ、おはよう」
間抜けな寝起きの面がどうも鬱陶しく、腹立たしくも感じてしまった逸花であったが、先程の泡沫の記憶を垣間見てしまった事でキツく言いにくくなってしまい、口を悔しそうに閉じていく。
「蹴っ飛ばしてやりたかった⋯⋯くっ!」
「なに?なになに?⋯⋯お前、なんか顔赤くね?どうしたんだ?」
「煩い、お前が必要としている『常盤美羽』であろう記憶引っ張り出してきた」
手元にあるのは一つの泡の結晶。
夢から引っ張り出して来た正真正銘、准の記憶であり、それを固体として具現化した物であり、扱いは『夢龍』に一任されている。
「へぇ〜、⋯⋯あれ?触れてる感覚ないんだが?」
濃い青色のクリスタルの中に泡が入っているような形状であり、触れると高を括っていた准だったが、指は簡単にすり抜けていき、前後にいくら動かしてもその感覚は変わらず始末。
呆れて息を吐いてしまう逸花は無駄に諦めと往生際が悪い准の近くに向けた結晶を遠ざけてしまう。
「当たり前だ。私が呼び出した物だからな。扱いは私次第。当然、触る許可も私次第だ」
「でもそれ、僕のだよね?」
「煩い、泣き虫!」
「はぁぁぁ?!テメェ!言っちゃならねぇ事を。事実陳列罪でとっ捕まえてやる、そこに直れ!」
「黙れ!直るのは貴様だ!早く座れ、軟弱者めが!」
思わず指を差してしまう准だが、それを手で払い、更に投げ技で軽々しく座らせた逸花はご機嫌ななめなご様子である。
「早く、始めるぞ?ほらこっちを向け」
「⋯⋯すげぇ眠たいんだけど、これまた寝たりしないよな?」
「安心しろ。映像が飛び込むようのものだ。アトラクションとして楽しめば眠気も飛ぶ」
正座で待機している准の目の前に結晶を持って行くと、逸花の指に少し力が籠められた。
瞬間、青く無数の線を描きながら、光り輝くと准の視界は真っ白となり、取り込まれるかのように見入ってしまう。
「後はコイツ次第だな⋯⋯」
結晶は消えた。砕けたと共に准の中に泡が入り、記憶を再度植え付けると同時に元の記憶領域へと戻って行ったからだ。
瞬きこそすれば、何処か遠くを見つめるように正座のままいる准は涙を僅かに零す。
まだ、『常盤美羽』が起こしてしまった『異常現象』は去っていない。
逸花も准がこの『旧・常盤邸』へ脚を運んだ理由自体は既に聞いている為、当たりを絞る為の候補としては正しい判断だろう。
『龍』の感性を持ってしても気付けない『時間の干渉』とは、ある種の究極であり、理の限界値。
人が提唱した固定概念にして、人類が生誕する遥か大昔の時期から確かに存在しているその概念に『龍』とて例外なく影響を受ける。
「『常盤美羽』⋯⋯。桐江准、お前は難儀な生を生きているな⋯⋯」
少年の瞼から零れる涙を拭い、そっと微笑んだ逸花は夜空を眺める。
「もうすぐ、夏の大三角形の時期だな⋯⋯」
七月上旬のこの頃、大気汚染や街灯などの影響が重なり、星を眺める者も多少落胆の声を上げる者が居る今日この頃、逸花は上空に浮かぶ星々を眺めてはそっと目を細めた。
そして、意を決したように、背後を振り返り声を掛ける。
「藍莉、いい加減に出て来てくれないか?意外とそこはバレやすいぞ?」
鉄格子の奥、暗く茂みとなっている場所から現れたのは、大洲藍莉だった。
『夢の空間』からの帰還時には既に辿り着いてしまっており、鉄格子越しで『夢龍』から『牧原逸花』へと変化する姿をバッチリと目撃してしまい、焦って隠れてしまった彼女達。
だが、龍の聴覚は人のソレと比べるのが烏滸がましい程のものであり、僅かに漏れる焦りの声と殺したような息遣いはしっかりと耳に届いており、隠し通すのを諦めてしまった。
「逸花。貴女は一体⋯⋯」
「『龍』」
「⋯⋯ッ!じゃあ、サナちゃんが言っていた赤い──」
「それは違う龍。私とは別種で、私とは価値観も違う『刃龍』の事」
閃光に散った赤き鱗を纏わせ、戦闘モンスター。
化け物よりも化け物で、怪物よりも怪物の『冷徹』『暴虐』『忌避』の三つを兼ね備えていた悪魔よりも悪魔とさえ言われた龍。
『夢龍』とは違った性質と性能を持って生まれた『刃龍』を思い馳せる逸花は、少し微笑んでいた。
「嘘、牧原先輩⋯⋯。何かの冗談ですよね?」
しかしそれに気付かず、椎奈が茂みからやって来て、不安そうな表情を浮かべながら恐る恐ると聞いた。
「⋯⋯軽井椎奈。冗談というのは、こういう時に言うものではないと知っていて述べているのか?それとも、ただの戯れか?」
「そ、その話し方⋯⋯先輩じゃないみたい」
「むしろ、今までの話し方が嘘だから当然だろう」
陽気で明るく、はっちゃけ、オーバーリアクションのグループの繋ぎにして、クラスのお転婆娘は仮の姿。
冷淡かつ毒舌が好きで、どちらかといえばクレバーな部類の龍。
口調も喧しい方ではなく、視線も明るいものではなく、暗く落ちたように冷淡なものである。
「⋯⋯そこに准がいるの?」
「⋯⋯⋯⋯あぁ」
「貴女に見えて、私には見えない、か」
悔しそうに瞳と口を閉じてしまい、俯く彼女に精一杯の言葉を掛けようと思考し、逸花は口を開く。
「生まれた才の問題だ。悔やまなくていい」
『龍』でなければ、恐らくは藍莉達と同様に准の事は見えていなかった可能性は大いにある。
ただ、生まれた瞬間の種族の違い、格の違いであり、そこに後悔や羨望を覗かされても、逸花にもどうしようもない話。
仕方のない事なのだ。
「それに、私には『幽霊』が見えない。その点、そちらに軍配が上がると思うが?」
「そう」
「あ、あの。こういう事言うとアレなんですけど、いい加減、中に入りませんか?」
「⋯⋯そうね」
鉄格子を隔てて会話をしている異状性に舞喜が口を挟む。
それに静かな了承をした藍莉は『旧・常盤邸』の正面口にある柵を目指して歩いて行く。
そんな三人の様子を眺めるだけの逸花は、また夜空を眺めて、天体観測を楽しむのであった。
━ ━ ━
草原が広がるその場所は、私のお気に入り。
必要な物はポシェットと大きめの鞄一つ。
タオルケット一枚、ブルーシート、飲み物とおにぎりのような食べやすい食糧のみ。
ポシェットの中はスマホ、小型の望遠鏡、ハンカチ一枚ともう一つ。
これで済んでしまう。
けれど、欲しているものは手に入らない。
もう、全てが遅すぎると知っているからこそ、諦めなければならないというのに、心の中ではそれを否定したがっている。
全くもって煩わしい。けれど、それが自分なんだと、何処か納得出来てしまうから、完全否定も出来ないでいる。
見上げる空は星々が点々と辺り一面に騒然かつ圧巻の瞬きを見せており、この場所で、星を眺めているのは私だけであり、私だけの視点。
七夕にはまだ早いけど、ここから見える天の川は壮観の一言に尽きる。
父が連れて来てくれたこの場所は私の唯一の家族との思い出で、最後の望み。
あの家にはもう何もない。
三日程行ったり来たりを繰り返していたあの焼き焦げの家は私の居場所だった。
けれど、住所も変わって、過去の事のように事件は過ぎ去ってしまい、現実は当然のように私を置いて、流れる。
時間は──今日も、この瞬間にも流れているのだ。
風が吹き出した。貴女が好きだったものは、ちゃんと私が受け継いでいる。
瞼を閉じて、思い馳せた。
初恋の思い出、苦しい時期に寄り添ってくれようとしてくれていた彼の表情、大きく伸ばした手の重なる時、思わず視線を向けると、同じように向いてくれていた時のあの惚けた顔も全て知っていて、全部ちゃんと思い出せる。
統合された私達、纏まった私。
貴女達の記憶はしっかりあって、私とは違う時間を生きた貴女達。
私以上に幸せな私も居れば、私以上に不幸な私も居る。
それでも彼は、先輩は何故か必ず居て、必ずどうにかしようとしてくれて、時に失い、時に消えて、時に破綻して、時に不理解を生んだ。
そして、今の私は──消失の一歩手前。
報いが来たと割り切る事が出来れば、それでも良かった。
けれど、私は往生際が心底悪いらしく、望んでしまう。
「先輩⋯⋯。私、私⋯⋯どうしたらいいんだろ」
二つの条件が胸を焚き付けた。
今回の騒動は十中八九、私が切っ掛けで、私の往生際の悪さが災いして発してしまった事。
伝えたい、述べたい、喚きたい。
そんな感情が逼迫させていく。
髪が靡き、ブルーシートは揺れて、掛けてあるポシェットにある鋏は小さく、そして鈍く煌めく。
さながら二等星のように輝くそれをそっと手元に寄せて、上へと突き上げる。
ポシェットは空っぽ。心は詰まって、詰まって、パンパンに腫れ上がり、限界スレスレ。
濁って凝り固まってしまった煮凝りのような、どうしようもないこの気持ちの精算は、自分だけでは出来そうにない。
こんな事ならば言えばよかったのかもしれないと後悔を募らせていく。
「好、き⋯⋯。うん。大好きなんだ。きっと」
見上げる夜空に向かって、終止符を打つべく、最後の言葉は投げられた。
だから、私はその刃を喉元に向かって、突き刺す。
過去編、いずれ書くかもしれませんがまだ書きません。
夏休み、満喫させてあげたいしね。
でも、何も無い日常を書く訳ないんだから、つまりそういう事です。




