『幽霊少女』は少年を導く
──かなり長めです、ご注意を。
現在の桐江准はスマホを所持していない。現代の高校生としてはかなり特殊な部類である訳だが、本人は普段から困ってる素振りを見せない。
素振りは見せないが、内心困ってはいるのだ。
友人に連絡を取りたい時、ネットで流行りとなってる情報や動画を閲覧、視聴したい時に限ってスマホを探る動作が抜けずにいるのがこの少年であるが、そんな、少年が今最も困っている事がある。
それは──。
「やっば、あんなしんみりする別れ方したのに、何処に『常盤家』があるのか分からない⋯⋯」
『常盤美羽』の捜索の為、自らも同じ土俵に立ち、同じ境界に居なければ見つける事が出来ないと踏んだ准は、彼女の藍莉と妹の舞喜に一服盛るという犯罪を犯してまで決意を固めたというのに、肝心の居場所の手掛かりが何一つとして見つかっていない状況なのだ。
藍莉の監視下で『常盤美羽に関する情報』を探ろうとすると勇み足で近付き、張り手を食らわされる予感に屈服してしまったとはいえ、ここまで計画性がないと逆に感心するレベルである。
しかし、そんな准でも別のアプローチは考えていたのだ。
それは、『常盤美羽』が独りの時によく立ち寄る場所は何処か?というものだ。
二ヶ月も前になるゴールデンウィークで全てを失った彼女の傷は早々に完治するとは准は思えず、最も密接な場所を探そうと『常盤家』を探ろうとしていたのだが、ここで問題となってくるのは情報を入手する場所と手立てである。
睡眠薬を盛って寝かせた藍莉を自身の部屋のベッドで寝かせて、舞喜を本人の自室へと寝かせて、藍莉の鞄から彼女の家の鍵を取り出し、キッチンテーブルの上に置く。
蒼太が帰って来た際にすぐに帰れるようにする為の処置であり、それぐらいの事しか出来ないと踏んだ少年は、白い半袖のパーカーに黒のインナー、七分丈の渋い緑色のズボンと少し古くなりつつあるお気に入りのランニングシューズを履いて、朝倉拓也から貰ったペンダントを最後に首へ掛けて、意気揚々と玄関を出たのがつい三十分前。
既に路頭に迷ったようなものである。
「ひ、ひょっとして⋯⋯僕。結構ピンチだったりする?」
ピンチもピンチ、大ピンチな状況であった。
歩道のど真ん中で佇んでも准に気付かれる様子はなく、人は当たり前のようにすり抜ける。
姿が見えないという事は居ないと同意義であり、存在もあやふやとなっている准の身体は透明人間に限りなく近いのが現状。
服を着ると服も消え、物に触れるとそれも傍からは忽然と姿を消したように映るマジックショーの観客が喝采に湧く事の間違いなしの透明具合である。
視認して初めて声を掛けるというのが人間のコミュニケーションの取り方であり、念じて意思疎通を図れる『テレパシー』を使えた詩葉の弟の朔が居れば、また変わったアプローチも可能だったろう。
だが、朔は居ない。人間のコミュニケーションの取り方も早々に変わらない。
准はひとまず『空弩街』の北区にある図書館へと向うべくバスへと乗り込み、空いている席には座らず、立って身体を揺られる事を選択。
自身が座っている所に何も知らない人が同じ座席に座るというのは、准も相手さんを不快と感じての判断。
そんな、無駄な所で遠慮しがちな准はふと、ある事に気付いてしまう。
(あれ?これ⋯⋯無賃乗車し放題じゃね?)
悪い考えが働き始めた准は吊り輪に手を掛けながら、そっと訝しんだ。
このバスは乗車し、降りる際に支払いを済ませるタイプ。
人からは視認されない、財布はあるが中身を消費したくない、バスの運転手に不審に思われたくないという三つの観点が過ぎり、窓に映っている順調に流れる街の景色を見つめた。
そして、バス停で停車したバス車内は席を立つ者が数人、運転席側へと向かい財布を開けたり、ICカード代わりとなっているスマホを取り出したりしている中、起きた。
「お客さん、ちゃんと払ってください」
「払っちょったでしょ?」
「払ってないよ」
マスクを付けた運転手と高齢のおばあちゃんが揉め合っている。
おばあちゃんの勘違いが起こした小さな問題。
乗客が降りるのに手間取ってしまわないように、後方で僅かな列のようになってしまっている乗客を誘導し、先に支払わせようとしている中、おばあちゃんもその流れに乗ろうと脚を動かし始めた。
「おばあちゃん、このバスね、降りる時に払うの?だから、おばあちゃんまだ払ってないのよ」
「だから、払っちゃって、いってるやがい!」
運転席側に顔を覗き込ませて話を膠着させていく。
「何やってんだよ⋯⋯」
准が運転席側へと向かい、仕方ないとばかりの態度を取って、おばあちゃんに声を掛けた。
「ばあちゃん、財布出して。払ってないのは僕も見てたから」
「払っちょらんいう事ない!私はボケてない」
「だからね、お客さん。払ってくれてないのよ?私はずっとここにいて、ちゃんと払ってるか見てるんだから。ほら、ここにあるメーターでも分かるし」
小銭を入れる小さな縦穴とその横にあるメーター。
黒い画面に赤い文字で入れた金額が表示されるものであり、運転手も人が通り下車する際には目視で見る必要が出てくる。
運転手はしっかりと見ていると主張し、おばあちゃんは払ったと主張。
准が見ていた限りでは、払ってはいなかったが、それでも確信はなかった。
「取り敢えず──」
「お客さん。あんまし酷いとコッチもそれ相応の対応しなくちゃいけないの」
「じゃから!払って言っちょるよ!」
准の声は届かない。何を言っても二人の会話。
そこに准はいなかった。
「あの⋯⋯私、払いますよ」
准の丁度真後ろから聞こえた声に思わず振り返ると、二重のせいか眠そうな顔に何処か頼りなさそうな猫背、首筋辺りから結われた後ろ髪は垂れ下がっているのが嫌なのか、肩に掛けた状態で淡いピンク色の長財布を持っている。
白を基調としたセーラー服には涼しさを感じさせて、紺色のスカートが気品さが増させる。
その制服を准は知っていた。
(等区高校の生徒か。なんでこんな時間に)
自身もテスト終わりにより早めの帰宅が出来た身だという事をスッカリ失念しており、訝しんだ視線でその女子高生を見つめる。
「払っちょるって──っえ?良いんかい?」
「はい」
そそくさと料金を支払った女子高生は元々座っていた後ろ側の席へと戻って行くのだった。
あっという間に事を終わらせたその女子高生を心の中で賞賛した准は、再度動き始めたバスに揺られる。
「ねぇ、莉緒。良いの?」
「うん?何が?」
そんな女子高生の隣に座っている同じセーラー服の女子が声を掛けた。
何処か心配そうな声色であるのだが、言われた当の本人はそれに気付いていない様子。
「おばあちゃんの分、払っちゃって」
「良いよ。困ってたし」
「お人好し〜。そりゃ運転手は困ってたけど⋯⋯。莉緒、アンタ金欠なんでしょ?」
「う〜ん。でも良いかなって」
「はぁ〜。程々しときなよ?何時も最後に馬鹿見んの、アンタなんだから」
深い溜め息と忠告を残して、その友人は取り出したスマホの画面を見つめる。
「ねぇ、あそこに居る人って⋯⋯」
「うん、なに?⋯⋯それがどうかしたの?」
友人の見つめる先は運転席が見える段差の先にある座席。
人はそこにしか居ない。優先座席には誰一人として座って居ないし、立ってる客も居ない。
しかし、莉緒が求めたのはその優先席方面なのである。
「⋯⋯ううん。なんでもない。ごめんね」
「変な莉緒」
鞄からブックカバーが為された小さな本を取り出して膝元に鞄を置き、それを押さえるように腕を置いて、莉緒は読書を始めた。
触らぬ神に祟りなし。莉緒は誤魔化すように無理矢理意識を本へと向けようとするものの、その視線は時々、准の方へと向いていたのを、見られていた准本人は気付かず──。
━ ━ ━
バス代を支払い、やってきたのは図書館。
なのだが、図書館の入口は自動ドアとなっており、一向に開いてくれないのである。
「嘘だろ!こんな事あるの?!おーい!開けぇぇーー!開けゴマ!やる気出せ!入らなきゃ客にすらなれねぇだろーが!おーーい!根性見せてみろーー!」
大振りで手を振り、シャドーボクシングで仮想の敵を相手取ってみたり、自動ドアに密着し懇願してみたりするものの、結局ピクリ足りとも動かない。
嫌われてるような頑なさに肩を落とした少年は、そのまま手すりに凭れ掛かって人の出入りを待つ事にした。
そうでもしなければ、図書館に出入りすら許されないのだから、仕方なのない事である。
「自動ドアにすら嫌われてる僕って⋯⋯」
それから、自動ドアが開いたのは五分後の事であった。
偶々、お爺さんが自動ドアを開けて帰宅しようとするのに乗じて准は図書館に入る事に成功したのだが、問題はここからである。
『常盤家の跡地がある場所』というのは新聞記事には載っていない可能性があったのだ。
事故として処理されたその事件はなんの捻りもなく、報道局も煙草からの出火だと言われており、金持ち一家の火災事故として書類送検もされている。
だが、新聞記事には事故のあった場所の住所なんて普通は記す訳はなく、ニュースでも県名と街の名前は出されていたが、それ以上の事がないのだ。
「とにかく、探すか⋯⋯」
まだ二ヶ月前の新聞、または雑誌。ハッキリいってかなり地味で面倒臭い事をしてる自覚もあるのだが、もう立ち止まる事は許されない。
騙して、独りになった分際で今更になって「辛い」とは口に出来ない少年なのだ。
「新聞⋯⋯新聞⋯⋯⋯⋯。あった!四月分」
急ぎ、棚に納められている分厚いファイルを二冊分取り出して、閑古鳥がなく図書館の席に着いた。
准はこの時、勘違いにも似た間違いに気付きもしないまま、『常盤家の火災記事』を見つけようとしている。
だから、見つからなかった──そう、見つからなかったのだ。
独りで黙々と『常盤』の文字を意識して火事があった事故を探していたのだが、全くもって見つからず始末。
余分に五月十日辺りまで範囲を広めて分厚く纏まった新聞記事を読み漁っていたが、『先入観』が邪魔をしてしまう。
必ず『常盤』の名前で報道されて記事にもされている、と。
しかし、火災事故の記事自体はあったが、『常盤』の名前が無い事と人数が合わない事でスルーしてしまい、パラパラと捲っては苦い顔を濃くするばかり。
(⋯⋯⋯⋯お手上げだ⋯⋯。なんだかなぁ)
忌避感のようなものを感じてしまった准はそっと五月分のファイルを乱雑に閉じた。
新聞記事は見る人自体が減ったにしても、今尚読む人はいる。
世間に情報を伝える方法として新聞があり、それを見て世相や情勢を知る術として長らく使われてきた。
そんな新聞ですら『常盤家の火災』には興味を示さず、熱愛報道やら人身的な殺人事件や外交問題の記事の方が見出しとしてはよく出来ていて、他人事のように書かれている事が准には耐えられなかった。
事実、書いてる人間は他人事で記事にしているし、それが仕事である。
何も間違っていない。単純に准が子供なだけなのだろう。
正面の自動ドアからではなく、窓の鍵を開けてよじ登るようにして図書館を出た准は途方に暮れてしまった。
完全にアテが外れてしまったという拍子抜けな結果とこれからの動向に頭を悩ませてしまっている。
既に街は夕暮れ時。三時間以上も黙々と記事を読み漁って目は疲れてしまい、陽の光は一層眩しく感じられてしまう中、目的地もないまま歩き出した。
このままでは『常盤美羽』を探せない。
このままでは『監視者』としての役を果たせない。
過去の自分の行いに悔いる術が見当たらないと、落ち込んだ様子を見せる少年。
だが、まだ見捨ててはいなかった。
人では見えないのなら、『バグ』に見つけて貰えれば良いだけの話なのだ。
「お兄さん、こんにちは!」
「え?⋯⋯⋯サナ?み、見えるのか?僕がっ!」
「は、はい。み、見えます、けど?」
白のフリルが備え付けられた黒のワンピースに椎奈に買って貰ったのであろう白のポーチを引っ提げて、首を傾げる白髪の少女と視線があった。
この街は異常だらけのイカれた世界。
だからこそ、手立ては少し捻ればポンポンと出てくるものである。
『幽霊』も同等に。
「なんで僕が見える⋯⋯。いや、今は良い。サナ、軽井は居るか!?」
「家だけど。なんで?」
「調べて欲しい事があるんだ。『常盤美羽』についてだ!」
小さく細い糸のような光明ではあるが、『常盤美羽』に辿り着く為の行動。
新聞記事に欲しい情報がなければ、ネットを頼れば良いだけの事であり、不特定多数の人間の情報というのは、時に間違いを拡散する事態を招くが、その情報が誤りであると見抜ける力、情報の正しい精査さえ出来れば、間違いを回避出来る。
少なくても『空弩街』という大きくもない、小さくもない変化を続けるこの街は『異変』に恵まれている為、他所の人間もネット上では細かい情報を求めてくる。
雑誌記事に載る事が稀にあっても、新聞やニュースにはならないような『異変』はネットサイトの方が数多く広がっているのが現状なのだ。
そんな一縷の希望に縋りたい准なのだが、サナはそんな事情をまだ聞いてもいない為か、不審そうに准の顔を見つめている。
「お兄さん?うわきってやつですか?」
「違う。僕のようなジェントルマンに浮気なんかする術があるか。⋯⋯それに浮気なんてしたら、正義の鉄槌が十、二十程、飛んでくるだろうし⋯⋯」
主に藍莉からの鉄槌。仮に無事に帰って来れたとしても地獄が待っているというのに、それに拍車を掛けるような真似をする度胸が湧くわけがない。
あったとすれば、藍莉はすぐに察してしまう。
つまり、それが全てなのだ。
「てっつい?⋯⋯⋯⋯お兄さん、何かあったの?」
「あ、あぁ。まぁな⋯⋯」
准は事細かくは話さず、バッサリと大まかに内容を話した。
『常盤美羽』の存在が消えてしまっている事とその理由が自分の過去に言ってしまい、実行させてしまった事が起因しているという事。
そんな事態の中、サナとはまた色合いが違う白髪の女性に半ば強制的に『可視化』の影響を受けて、准本人の存在を視認されなければ、皆からは『可視化』されないという状態にいるというもの。
『常盤美羽』を探すには『常盤家』を訪れる方が遭遇率があるのではないかという推測からその場所を求めているという事。
以上の三つのみを伝えた准──。しかし、サナは頭がこんがらがってしまい、唸り声を小さく上げながら空を見上げた。
「よくわからなかったけど、お兄さんも『透明人間』みたいな『幽霊』になったって事?」
「う〜ん。逆だと思うけど⋯⋯。まぁその解釈で良いかな?」
『幽霊』のような『透明人間』というのが正しい解釈なのだが、サナにはそこまでの違いはない。
あるとすれば、『幽霊』はすり抜けが可能で、物に触れても傍から見ればそれは浮いているように見えるという点にあり、『透明人間』はすり抜けが出来ず、物に触れれば一緒に消えたように見えるという点が挙げられるが、厄介なのは『幽霊』と『透明人間』の違いをパッと見抜ける人間が圧倒的に少ない事にあり、『幽霊』が物を浮かせようが、『透明人間』が物を消えたように見せようとも、そこに真偽を求める者は数少ない。
だから、対処が遅れる。
『透明人間』に塩を振ってお経を流してどうするのか、という話で、『幽霊』を普通の鉄格子に閉じ込める事なんて出来はしない。
「『幽霊』の視点って皆が思ってるよりも面白いよ!皆が見えないモノが見えたり、人をこうやって見てどんな事してるか見てても怒られないし」
「随分とまぁアクティブね?」
「むふー」
ポーチを手にぶら下げたまま、腰に手を当ててバッチリ胸高らかにドヤるサナに准は少し頭を痛めてしまったように、手を頭に当ててしまう。
「ちょっと軽井に似てきたな⋯⋯」
「褒めてくれてるの?」
「え?⋯⋯う、ん。褒めてる」
サナが軽井椎奈二号へと変貌を遂げてしまうのを阻止するべきか、そのまま現状維持をさせるか、准は思わず考えてしまう。
これでもサナ単独で准の家に訪問する事もあり、買い物に連れて行ったり、近況報告を聞く事もあれば、お泊まりで家に泊まる事もあった。
舞喜が帰って来た事と舞喜自身はサナが見えない事も影響して、最近はお泊まりもない。
しかし、もう一人、妹が出来たような感覚で准と家に訪問するお隣さんの藍莉はサナを好意的に見ているのも間違いではない。
「でもお兄さんどうするの?その『透明人間』じゃないと会えないんでしょ?」
「多分⋯⋯『可視化』って言ってたから、きっとそうだと思う」
手掛かりなしで『可視化』した所で意味はなく、むしろデメリットばかりが負債のように積み上がる。
『常盤美羽』のように皆の中から『常盤美羽』に関する記憶が消失する訳ではないが、残ってしまった分、苦しむのは准ではなく藍莉と舞喜だという事を誰よりも知っているのは准自身。
そんな居た堪れなさを察したサナは准の手を握り、前へと歩き出す。
「じゃあ、お姉ちゃんの家に行こ!」
「え?⋯⋯僕もか?」
それはつまり後輩の女子の家に行くという事である。
しかも、ご本人の許可なしに。
これには流石の准も苦い顔を浮かべながらサナの脚を止めさせてしまう。
(⋯⋯でも、軽井に事情を話したとして、アイツ危ういんだよなぁ。見てて心配になるというか、妙に慌ただしいというか⋯⋯)
『幽霊騒動』の際、大男の前に飛び込む形でサナを庇ったというのを藍莉経由で聞いていた准は、この手の事件に関して椎奈を現場に行かせないように心掛けていた。
命あっての物種という言葉の通り、死ぬより生きてる方が事態を悪化させるよりも何倍も良い、そう准が思っているからこそ、軽井椎奈をある意味では信頼し、信用していない。
更に言えば、椎奈は藍莉と同じ部活仲間でもある。
ただでさえ無茶をさせない為に一服盛ったというのに、椎奈から送られたメッセージに『准』の名前があれば、すっ飛んで来てしまう事は容易に想像出来てしまった。
「行こ!ね、行こーよ」
片手で握っていた准の手は気付けば両手で握り締められており、駄々を捏ねる子供のようであった。
誰かに甘えるという事を長らくしてこなかったサナだが、ここ最近では似たような表情を見せる機会は増えてきている。
それが嬉しくもある准は引かれる腕に忠順に従う。
「ヤケに今日は甘えてくるな⋯⋯何かあったのか?」
「だって、お兄さんずっと遊びに来てくれないじゃん」
膨れっ面に蜂の針のような言葉は准になんとも言えない心苦しい顔を浮かべさせた。
これまで准の自宅にサナから上がり込む事はあっても、准からサナに会いに行くという行動を起こした事はなく、それが多少なりとも不満があったのであろう。
サナは甘えるように不満を漏らした。
「⋯⋯悪かったよ。じゃあ行こうか」
「うん!」
「でも、その前に一つ」
「なに?」
振り返ったサナの肩を掴んだ准は目線の高さを合わせるべく、しゃがみ込んで真剣な面持ちを見せた。
「今回の事が終わっても、椎奈お姉ちゃんには僕が家に行った事は言わないようにな?」
照れ臭さがあったからでは決してない。
問題なのは藍莉の方であり、椎奈の家に訪問した事がバレてしまえば准の明日は吹き荒む荒野に投げ出された哀れな子供のような気持ちで藍莉と接さなければならなくなる。
その理由は至って単純であり、准は藍莉宅に一度も訪問した事が起因していた。
悲しい事にこの少年。彼女の新居に立ち入った事は一度もない。
そして、圧倒的なまでに近場故、行く必要性が皆無である為に起きかねない地獄のようなフライングはバレれば准の首が物理的に跳ね飛ぶ危険が伴う。
細心の注意を払わなければ、明日には命が刈り取られると考える准はサナを言い含める言葉を使い、頼らざるを得ないのだ。
「うん!」
「よし、行くかー!」
「おーー」
大きく腕を上げたサナと手を握って歩き出す。
『常盤美羽』を捜索するという確固たる意思を糧に。
━ ━ ━
「ただいまー」
「え!いきなり玄関開けんの!?」
『幽霊』はすり抜けれるというのに、まさかの手動で玄関の扉を開けたサナ。
その様はまさに、この家の子供として生まれてきたかのようであった。
「うん。何時もそうしてるよ?」
「親御さん⋯⋯。大変だろうに」
そう、軽井家には親御さんが居る。仮にバッタリ玄関前に居た場合、突然扉が開いたという風にしか見えない。
『ポルターガイスト現象』の幕開けであり、お引越しも検討しなければならない事態になりかねないのだが、まさか自分の娘が『幽霊』を居候させてるとは露にも思わないだろう。
そんな子犬を拾うかのように『幽霊少女』を拾ってきた張本人の軽井椎奈は階段を降りて来ており、バッタリ准とサナと出会してしまった。
「サナちゃん、お帰り」
元気よく玄関前まで駆け寄る椎奈は、当然のように来客一名様を華麗に無視して、サナの正面へと向かった。
「まぁ、だろうな」
藍莉と椎奈は『幽霊』が見える体質であるという共通点がある。
その為、椎奈には准が視認出来るというのは期待してはいなかった。
むしろ、妥当だとすら感じてしまった准は、相も変わらず喧しい椎奈を見つめるばかり。
「そうだサナちゃん。今日ね、ケーキ買ってきたの!前に言ってた苺が二つ乗せの。一緒に食べよ?」
「うん!」
靴を脱ぐと共に手に持って、サナと椎奈の後を追うように玄関先から正面にあるキッチン兼ダイニングへと入った准はまるで首脳陣を警護するSPのように隅へと移動して二人の動向を見守る。
冷蔵庫から取り出されたのはカバーが為された白い箱。
それを雑に開けていく椎奈はキッチン棚へと向かい、皿を二枚取り出した。
箱の中をチラチラと見つつ、ポツンと乗ったホイップクリームよりもデカい苺が乗っかっているショートケーキを皿に盛っていき、その一枚をサナに渡す。
「美味しそうだな⋯⋯」
そんな本音を聞いたサナはチラッと准の方を見つめるも、苦し紛れの笑顔を浮かべた准は手を横に振って、お構いなしとサインを送る。
多少の戸惑いはあったサナだったが、既に椎奈がケーキを口にしてしまっており、合わせるようにケーキを口に含む。
食べた瞬間、眉は上がり、口に広がる甘みとクリームの滑らかさがフォークから離れる時にはサナの戸惑いは消え去っており、頬が溶けてしまう程に幸せそうであった。
「ん〜〜〜っ。幸せぇ〜」
そんなサナよりもオーバーリアクションに舌鼓をする椎奈は本当に幸せそうな様子であり、気の所為か頬が赤くなっている。
(不二家の女の子か、お前は⋯⋯。良いなぁ)
唇に付いた白いクリームを舌をペロッと舐め取る椎奈を羨ましそうに見つめるだけに留まっている准の眉は段々と下がっていく。
『透明人間』でなければ、サナからのお裾分けぐらいは催促したであろう准だが、残念ながらそれは叶わない。
何処の店かも分からないが、今度聞いてみよう。そう決心した少年は彼女の目の前で食し、そして一口をせがまれても、分け与えない策略を密かに立てていくのであった。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「ん?どったの?」
皿に盛ってあったケーキは綺麗に平らげられてから数分の時間が流れた。
スマホを見て皆が投稿しているショート動画を観ては黙々といいね!を押していったりしている時、サナが本題を切り出す。
だが、スマホに無我夢中で空返事に近いものであり、少し不服そうに顔を顰めたサナは立ち上がって椎奈の傍まで移動しようとする。
移動中にサナから准へと向けられた視線は「任せて!」と意気込んだ熱意のようなものがあった事を准は忘れる事は決してないだろう。
「パソコンを貸してほしいんだけど⋯⋯ダメ?」
意外な提案。少なくても椎奈視点からはサナがパソコンを見たい、使いたい言う発言はこれまでには一切なく、洋服を着せられるお人形と化している時も我儘は言わず、好きな料理もなんでも良いと一点張りだった少女が催促をした。
スマホに向けられていた視線、意識は隣までドボドボと歩いて来たサナへと無意識に向いていたのである。
「良いけど、何か調べ物?使い方とか分かる?」
「うん!教えてもらう」
そう言い、准の方へと視線を向けるサナであるが、准本人は「止めろ!」言わんばかりに手を勢いよく振り、流石の椎奈も不審がる様子を見せた。
あくまでもサナしか見えていないのだが、首を傾げて再度椎奈の方へと顔を向ける様子に疑念が発生したのだが──。
「そっかー」
なんやかんやで信頼もあるサナを信じた椎奈は多少の疑いこそあっても、「パソコンぐらいならまぁ良いかなぁ〜」といった具合にOKサインを出したのである。
(誰に?⋯⋯⋯⋯まさか、私にも見えない『幽霊』がこの家に、居る?!)
だが、明らかにもう一人、ダイニングの隅っこに誰かが居るような素振りに恐怖心が募ってしまう椎奈なのであった。
ケーキが入った白い箱の中身は残り一つ。
サナがそれを知ると、「食べたいから置いておいて」と椎奈に伝えた事により、綺麗に三角形で区切られたショートケーキは冷蔵庫に静かに冷やされる事となったのであった。
「この子、あざとくなったなぁ⋯⋯」
そんな様子を全て見ていた准は思わず呟いてしまう。
まさか、あれほど喜怒哀楽に乏しそうな白髪少女が嘯いた笑みを浮かべるとは、准は想像していなかったのである。
『世界のバグ』として吐き捨てられた存在──『幽霊』は、今日も元気に女の子を誑かす。
「部屋にあるから行こっか?」
「うん!⋯⋯こっちです」
二階にある椎奈の自室へと一足先に向かった主とその後を追うように階段を上がろうとするサナは後方に居る准へ向けて手を振る。
椎奈には聞かれない程度の小声は椎奈には聞こえなかったが、同時に准にも聞こえていなかったのをサナは気付かずに何処か満足そうな笑みを零した。
椎奈の部屋は水色の敷布団、薄い掛け布団がベッドの上に敷かれており、丸くて小さいローテーブルが茶色のカーペットの上に乗っかっている。
准の膝元まで程度の小さな本棚にはビッシリと漫画が並んでおり、クローゼットは開けっ放しであり、衣替えを済ませている為か、分厚めの生地を使ったジャンパーやマフラーといった冬用の衣服は何処かへとしまわれていた。
そこまでなら准も唖然とはしなかったのだが、この部屋の床の上には乱雑に投げ捨てられた学生服やスカートといった衣類が寝かされており、脚の踏み場が少なかった。
ゴミ箱にレジ袋を入れ込み、ゴミを捨てているのだが、何故かその中身が溜まったレジ袋が床に落ちており、小中学生の頃に友人と共に写った写真は写真立てに飾り付けているが、服に掛けられてしまい、中が窺えない。
そんな中で黙々と作業を続けている椎奈と慣れきってしまったサナは机の前、准は部屋に入り隅で立ち止まってしまっている。
「⋯⋯⋯⋯はい、オッケー!」
パソコンを立ち上げて、パスワードを入力した椎奈はサナのご所望であった検索エンジンまでモニターの画面を進めると、椅子にサナを乗せてマウスを握らせた。
コンパクトなデスクトップパソコンとそこに接続されているキーボードの音に興味津々なサナは、エンターキーを数度、適当にキーを触っていき、初めての体験と体感に心踊っており、横で見つめる椎奈は思わず微笑んでしまう。
「⋯⋯あ、あのお姉ちゃん。流石に見られると恥ずかしいよ」
「大丈夫っ!私が見たいだけだから」
「なにを?」
「サナちゃんが頑張ってる所」
にへら〜と緩みきった表情でベッドの上に乗って見つめる椎奈に赤面しながら顔を慌てた様子で隠すサナに対してヒートアップは止まらない。
ボルテージが上がったようにスマホのカメラをパシャパシャとフラッシュ込みで写真を撮っていく椎奈に流石の准もドン引きしてしまい、身体は逃げるかのように後退りで部屋の扉へと向かって行く。
「が、頑張りゅから!⋯⋯でも離れてください!サナがしゅーちゅう出来ないです!」
「ふぇ?!は、反抗期ぃぃ?」
半ば追い出される形となった椎奈はサナのか弱い腕により押されて部屋から追い出されてしまい、締め出されてしまう。
自分の部屋の筈なのに、だ。
だが、これで邪魔者が減ったと分かり、脱ぎ捨てられた衣服を踏みながら、再度椅子に座ろうとするも高さ的に座れないサナを持ち上げた後、座らせ、目的を遂行するべく視線をモニターへと向ける。
「じゃあ、サナ。『常盤財閥』って入力して、このキーを押してくれ、それで『火災』って検索をかけてくれ」
ローマ字入力初心者のサナに一からキーボードを入力していき、スペースキーを入力させた後、再度『火災』とローマ字入力させる准教官とせっせと言われた通りにぎこちない指の動きでローマ字を入力していくサナ入門者。
(確かに、ちょっと可愛いな)
椎奈の気持ちが少し分かってしまった准は改めてサナを見る。
緊張した様子でポチポチと人差し指でキーボードを押していき、少し慣れると小指を使ってエンターキーを入力したサナのしてやったり顔は何処か微笑ましいものであった。
褒めて貰おうと顔を准へと向けたサナの表情に屈してしまい、頭を撫でると更に満足そうに頬を緩ませるのである。
だが、刺客はしっかりと居る。まだ、収まりが付かない刺客はじーと訝しむように隙間から覗き込んでいた。
「サナ。ドアから覗き込まれてるぞ?」
「え?」
満足そうな顔は一変、ムスッとした様子で振り返る。
ドアを僅かに開いており、その隙間から覗き込んでいるのは、部屋の主こと軽井椎奈ご本人であった。
「あ、やばっ!」
(アイツ⋯⋯あれでバレないと思ってたのか?)
サナはキーボードに夢中であり気付く事がなかったが、扉を開く際に微かに音がしてしまい、准はそれに気付いてしまい視線を向けていたのだが、椎奈自身は准が見えていない為に見られていると気付けなかったのである。
そそくさと逃げる椎奈は階段を下り去ってしまう。
音だけでも分かる程に慌てた彼女の後を追わず、モニターに集中して『常盤財閥 火災』と打ち込み、検索をかけるものの──。
「⋯⋯やっぱり、ない」
ヒット自体はしたが、あくまでも常盤財閥の運営会社に関する情報、常盤財閥の立役者でもある人物の顔写真やその功績が記されたもののみであり、肝心の火事に関しては何一つ触れられていなかった。
「うぅん!じゃあ、『空弩街不可思議現象』っていうサイトがある。検索してサイトに入ってくれ」
それは准にもまだスマホが手元にある時、よく見ていたサイト。
管理者不明、何時頃から出来たのかも不明の『空弩街に限定』したサイトであり、写真付きにその時の詳細を書き込み、信憑性の高さを競う舞台のようになってしまっている。
勿論、嘘やデマを流す人物も中には居て、必死に論争に身を投じるも、管理者により論破されて袋叩きにあったように一切その人物が書き込む事なんてなかったケースを何度も見てきた准は見る専として愛用していたのだ。
暇潰しの面も否めないそのサイトには中には本物も混じっており、ロクでもない街だと再認識させられるのが常である。
そんなサイトへと久方ぶりに顔を見せようとするにも理由があり、『常盤家』のネームバリューを頼りにして、本来ならニュースにもならない、新聞にも掲載されないそんな火事の行方、動向を『空弩街に住む住人』ならば、何か掴んでいると信じてのものであり、ある意味では最後の希望。
「『空弩街』の『ど』ってどんな字?」
(超弩級とか、戦艦ドレッドノートの略の弩だぞ⋯⋯なんて言って伝わる訳ないか)
子供相手に伝わるのならば、その子は相当のマニアか漫画の読み過ぎに値されるだろう。
しかし、ネットはある意味では優しい。
たとえ、ひらがな入力であろうともサジェスト機能により、すぐに予測されるご時世。
「ひらがなでも出るぞ?この街の名前、特殊だから」
「これ?」
「それだ。押してみてくれ」
当然、『あくどがい』と調べるだけで下の欄にはヒョコっと『空弩街』という予測変換がされたものが出される。
マウスポインターが動き、『空弩街』に照準を合わせた後、クリック音を一摘み。
更にそこから『不可思議現象』と人差し指で懸命にキーボードを叩いていき、目を凝らしながらも何とか『空弩街不可思議現象サイト』へと辿り着いたサナはモニターの画面慣れをしていない為か、目を瞑って小さな唸りを上げながら、背伸びをした。
背凭れに隠れたその後ろ姿は、仕事が残っているにも拘わらず、堪えた身体を解そうとする限界二歩手前のサラリーマンのようである。
「うぅん。分かりづらいよぉ〜」
『空弩街不可思議現象』と大々的な見出しで作られたそのトップページは暗い画面に赤の文字、白の文字がズラっと並べられており、暗転したような画面となった為か、サナはギブアップ。
流石の准も目を思わず凝らしてしまい、相も変わらず人に優しくないサイトだと改めて感じさせられ、立ち上がったサナの代わりに准が椅子に座る。
「こっから僕が見ていくから、疲れたならベッドにでも──」
「じゃあ、ここ!」
准の膝元をご指名したサナは指をピンと立て、指し示した。
疲れた、でも甘えたい。見るのは辛い、でも甘えたい。
「仕方ないな。ほら」
そんなどうしようもないサナの気持ちを汲み取るよう、サナを抱き上げて、脚に座らせるのであった。
今年の四月後半辺りまでの情報提供一覧を覗こうとする准は律儀に音が鳴るマイスホイールをコロコロと回していると、一番直近で、最も身近な事件の名称が映し出される。
「『空弩街一斉睡眠事件』って前の?」
「あぁ、だろうな。被害者はこの街の人限定だったっぽいけど、それでも自治体が動いたらな」
「自治体?」
【八咫烏】が起こしたあの『夢の世界』の事件は、被害者こそ街全体に及んだものの、朝倉拓也が死亡者も含めて、全て救った事で死者は『0』という結果に終わった。
だが突然、夕暮れ時に近い時間帯に起きた爆発と短時間ながらも街のほぼ全ての人間が寝てしまった事件は街自体も動かざるを得ない事態として処理され、今でもその調査が進められている。
「椎奈お姉ちゃんもあの後、一回病院に行ったろ?あぁいうのをしてくださいねってこの街の代表者が言って行動に起こす事が出来る立場の人達を自治体って言うんだよ」
「へぇ〜そうなんだー」
(あ、分かってないな。まぁ、良いか)
『成長』という枠組みに組み込まれていない『幽霊』相手に「また今度教えてやる」とばかりに微笑んで後回しにした准は、パソコンのモニターに視線を移してページを大きく飛んでいく。
トンとサナの頭に顎を乗せて黙々とページを見つめる准は少女が感じている躊躇いに気付かない。
既に七月。三ヶ月前とは言え、そこそこページは更新されているようであり、三ページ飛んだとはいえ、まだ六月中旬辺りのものがトップにあり、思わず訝しんだのだが、理由をすぐに察して、口にはしなかった。
更に四ページ飛んでようやく五月の上旬へ差し迫った投稿が目に入る。
一瞬、マウスホイールの動きは止まってしまうものの、すぐさま下へと流していく。
「四月、四月、四月⋯⋯⋯。あった。⋯⋯これだ!!」
ようやく見つけた『常盤家の火事事件』は複数の写真と情報提供者からの詳細であった。
『あの【財閥】が大火事!しかも火の回りがスゲェ早い!
午後二十二時二十分頃。『空弩街』出身なら誰でも知ってる財閥宅が燃えちまってる。俺は偶々、天体観測のスポットを調べに見に行ってたらなんか明るいから見てたら、やばい事になってんの!
後何人か様子見に来ていた奴もいるけど、犯人いそうで怖ぇぇ!!皆も火の用心を心掛けようぜ!』
と詳細が書かれていたその文章は何処か間の抜けるようなものであったが、それ以上にコメントでは『場所書けや!素人はこれやから困る』『場所キボンヌ』『亡くなったの?この家に住んでる人?』等の有り触れたコメントに溢れ返っており、一ヶ月前のコメントでは、犯人が未だに逮捕されていないという情報もある。
そんな『常盤家火災事故』の欄に添付されていた写真を眺めていく。
ある写真には家というよりも屋敷に近い形の建物が業火に焼き尽くされている光景を収めた写真、その屋敷に近付いて行こうとする女性を必死に止める男性陣、そして──。
「あ、この人ってお兄さんの」
その写真は燃えている屋敷を眺めている人物の後ろ姿が写し出された写真。
そして、その写真の中には何処かへ行こうとする准のクラスメイトの『武島颯悟』の横顔が確かに写っていた。
遠くからの被写体という事もあり、顔だけでは分からないが、サッカー部ならば持っている専用の鞄を肩に担いでいる事と、身長や髪型を考慮すると十中八九、颯悟に間違えないと准は顰めた面で見つめてしまう。
颯悟の身長は百九十センチメートル程。OBともなれば候補は多くなるが、ゴールデンウィーク前の平日でサッカー部限定の鞄を持っている時点でかなりその線は薄れていき、何よりも──彼が鞄に付けているストラップが火の照明として照らされており、一目で判断がついてしまった。
それに何よりも、颯悟から火事の話なんて聞いた事がなく、准自身も火事の話題で脅した記憶がぼんやりながらあったのが、信憑性を高めてしまっている。
頭に乗っけていた顎は離れて、神妙な面持ちでモニターを見つめていた准は、何処か遠くの方へと見つめていく。
「⋯⋯だから、嫌いだったのかな?武島の事」
元々、相性こそ悪いとは自覚していたが、相性だけで毛嫌いするというのも失礼な話と言い聞かせてきた准ではあったが、この写真一枚て何故か合点がいってしまう。
「何となく嫌いぐらいのもんだと思ってたけど⋯⋯『常盤美羽』と繋がりがあったから消えただけで本当は⋯⋯」
『火事を起こした張本人』という可能性。
それがどうも拭えないでいる。
『常盤美羽』本人だけでなく、家族構成まで丸々飛んでしまった為に、確信性が持てずにいる事と火事を起こすに至る理由が不明瞭である事が准の心を騒つかせていく。
「場所だ。場所は⋯⋯⋯⋯書いてねぇじゃねぇか!⋯⋯だから、星が低いのかッ!」
評価が星5を最大としてまさかの星2。
コメントの具合から投稿者は本当に『空弩街出身』の者に対して宛てた用なものである。
場所が示されていなければ、行く事が出来ない。
つまり、『常盤美羽』は見つけられる可能性が低下する結果になる。
しかし、ここで逆風がやって来た。脚にちょこんと座って写真をマジマジと見ているサナによるものだった。
「⋯⋯お兄さん。この場所、わたし知ってるかも」
「え?⋯⋯何処だ?」
「確か⋯⋯『粗目橋』だったかな?」
『粗目橋』とは造林林の中にある川の間に架けるように石を材料に造られた橋の事であり、『粗い面が目立つ橋』を略して住民からは『粗目橋』として呼ばれている。
「それって前に牧原に連れられて近くまで来ていた所だ。なんで分かったんだ?」
「ほらここ。この写真のここ映ってるピンクの紐あるでしょ?これね、わたしが独りで居た時に遊んでて括ったの。その時に『粗目橋』も見えたから、多分そうだよ!」
写真の右手前にある細い木の枝にボロボロとなったピンクの紐がリボン状に括り付けられており、サナがまだ学校に囚われて、下っ端のように使われる前、単独行動が出来た頃に近くを通って紐を括り付けていたのだ。
とはいえ影が多く、本当にピンク色かと問われると微妙な所でもあるが、サナの言葉を信じた准は深く頷く。
「じゃあ、『粗目橋』って事で決まりだな。道的には⋯⋯前使ったバスの方が⋯⋯よし、ありがとう。もう行く、助かった」
サナを脚から降ろし、急ぐように部屋を出ようとする准だったが、後ろから引かれる感覚がそれを阻害した。
「あ、あのね!」
急ぐ准の意思を無視してサナは声を張って、話を聞いて貰おうとする。
何処か落ち着かない様子を見せる少女を見た准は扉へと向かおうとする身体をサナへと向け直す。
「なんだ?」
「お兄さんがその、えぇと⋯⋯『常盤美羽』って人が消えたのは、自分のせいだって言った。あれ、なんで?」
振り返した質問に多少思う所があるにはあった准ではあるが、子供相手に雑な対応をしてしまう程、余裕がなくなった訳ではない。
「だから言ったろ?僕が『厨二病』になったら良いんじゃないか?って言って、それを実行したら、ボッチになって孤立したせいだって」
「⋯⋯うぅん。お兄さん勘違いしてる」
そっと首を横に振るサナは何処か確信的な様子を見せており、准にはその意味が分からないでいた。
本人に直接聞いて、文句を言われた訳ではなく、あくまでも准の推測の域を出ないものである。
しかし、奏海という『女子は観察する者』という言葉に納得感やそうだという考えは確かに芽生えていた。
それがまるでちゃぶ台返しのようにひっくり返ろうとしている。
「勘違い?何がだ?」
「お兄さんはその『ちゅーにびょう』っていう病気のせいで『常盤美羽』さんが消えたって思ってる。でもね、人が居ないって思い込むには、その人を意識しないといけないんだよ?だから、多分お兄さんは勘違いしてる」
嫌いな人間だから無視したい。そういう感情が湧いた瞬間にはその人物を意識しているという事であり、無視するにしても、毛嫌いするにも、その対象の人物を認識していなければならず、気に留めて置かなければならない。
好きの反対が無関心。そんな言葉かあるが、無関心は嫌う事や無視を意味するものではなく、近くに無関心な人間が居ても、何も思う事すらないという事。
意識しない、認識しない事を無関心と呼ぶのならば、無視と嫌いは関心なのだ。
その時点で准が考えていた理論が破綻していく。
音を立てて、着実に──。
「だったら、サナはどうやって『常盤美羽』が消えたって思うんだ?」
「分からない。でも、消えたかったから消えたのかも⋯⋯」
「んな馬鹿なッ!」
思わず叫んでしまい、サナの肩がビクッと震われていく。
(何やってんだ⋯⋯僕は)
しかし、サナの言葉が本当ならば、『常盤美羽』は自ら存在を消してしまおうと考えたという事に他ならない。
「た、多分だよ?サナもちゃんとは分かってないもん。でも⋯⋯普通、人ってそんな簡単に消せないの」
「じゃあ、なんで⋯⋯」
そんな筈がないと信じたくて、固く握る拳は何処かに当たり散らかしてしまいそうであり、それを抑え込むように瞼を開けた。
『常盤美羽』が消えた理由とその対処法よりもまずは本人に出会う事だと判断し、扉のノブへと手を伸ばす。
「取り敢えず、話は後だ。僕はそこに向かう」
「なら、サナも行く」
「⋯⋯じゃあ行くか」
「うん!」
一緒に同行出来る、その心強さはつい寄り掛かりたくなってしまう程のものであった。
やる気に満ちた少女の顔色を窺いつつもそれなりの知識がある少女を手元に置いておけば、対象案の一、二は軽く考えつくと、そう判断すらしていたのは、階段を下りた辺りまでである。
「サナちゃん、ちょっと待って!」
「な、なに?お姉ちゃん⋯⋯」
ダイニングから出てきた椎奈が何か慌てた様子でサナを引き止める。
その表情と空気感は准の胸を早く鳴らせており、サナには訳が分からなかった。
普段何処かに行く時に真剣な表情で呼び止めるなんて真似をしないからである。
「今ね、『大州先輩』から連絡があったの」
「え?藍莉お姉さんから?」
マズイと感じた准はサナの耳元に近寄って、声を掛ける。
「⋯⋯サナ、僕は先に行く」
頷いたサナを見届けて、准は黙って持ち込んだ靴を履いて、気付かれる覚悟で玄関の扉を開けた。
一方の椎奈は運悪くダイニングまでサナを連れて行き、座らせてしまい、玄関の扉が僅かながらも忽然と消えた様子を視認するに至らなかったのである。
「そこに『桐江先輩』居るの?」
「え?⋯⋯⋯⋯居ない」
あくまでも口約束。しかし、しっかりと約束を覚えていたサナは首を大きく横へと振る。
「⋯⋯⋯サナちゃん」
「うぅ、い、居る。居た、さっきまで」
あくまでも口約束。所詮何処までいこうとも、最後に勝つのは椎奈が醸し出す圧と視線であった。
もみあげ辺りに伸びた白い髪は口元に引っ付き、強風に揉みくちゃにされた様のサナに椎奈は焦る様子を見せ始める。
「何処?桐江先輩、大州先輩に睡眠薬飲ませて、消えたらしいの!」
睡眠薬を盛られていた二人がようやく起き、事態を急いで把握したのだった。
そして、藍莉が行った行動は友人に片っ端から『事実のみを伝える』事であり、文面からは苛つき具合が伺えてならないものである。
「え?でもお兄さんそんな事言ってなかった!」
「サナちゃん、先輩何処?」
「『粗目橋』に⋯⋯行った」
「『粗目橋』?!なんでそんな所に⋯⋯」
「『常盤美羽』って人を助けたいって⋯⋯」
「『常盤』?大州先輩に言われてた人の名前と被ってる」
「どういう事?」
そう、彼女は手すりが突如として消えたあの日、藍莉に引き摺られた後、協力を要請されていたのだ。
快く脅されてしまった椎奈は「イエス」の三文字のみしか残されておらず、強引にかつ、拙い調査は開始されていたのだが、准にはそれが伝達されておらず、完全にすれ違う形となってたのである。
「先輩に言われて私もそこそこ調べたの。まぁ、可能な限りに、だけど」
言葉とあべこべにそこそこの自信を持っている椎奈はスマホにあるメモのアプリを開く。
「それでね、学校じゃ手掛かり無かったから、病院で聞いてきたの。そしたらね、一つ分かったの」
スマホの画面から目を離して、思わず息を呑むサナの方を直視する。
そして、彼女は言う──。
「『常盤美羽』って人は『空弩街一斉睡眠事件』の後に通院をしてないって事が」
それは『自治体』が行わせた健康診断であり、『空弩街』に住んでいる者ならば、半ば強制にも近いものではあったが、金銭が発生せず、一週間というスケジュールで組まれた健康診断に行かなかった者は数が少なかった。
しかし、忘れてはいけない。
自分は行ったから、皆も行くだろうというその思い上がりは、捜査には向いていないのだという事を。
現に、『常盤美羽』に限らず、健康診断に行かなかった者も居る。
牧原逸花もその一人であった。
完全に無駄な知識を披露した椎奈に首を傾げてしまうサナとの無言の時間は痛く長く感じられてしまう。
そんな中、椎奈のスマホから着信音が鳴り響くのであった。
画面には『大洲先輩』と映っており、急ぎ手に取り、着信開始である緑色の電話のマークをタップする。
「もしもし、大州先輩」
『もしもし、軽井さんだけ既読無視だったから、電話、勝手だけどさせて貰ったわ』
寝起きに近い声で通話をしている藍莉には怒気が籠っていた。
無理もない。自分の意思に尊重してくれていると信じた結果、薬を盛られて寝かされて、准の姿が『視認出来なくなった』のだから。
「あ、あの先輩⋯⋯。桐江先輩は『粗目橋』って所らしいです」
『えッ!?すぐに向かうわ』
「もう夜ですよ?」
『関係ないわ。地の果てまで追いかけ回すって決めた。今ね』
即断即決を地で行くような台詞を吐いた藍莉の目は本気なのだと椎奈には理解出来てしまう。
言葉に込められる覇気が電話越しにヒシヒシと伝わってきて、思わず耳元からスマホを離してしまう程である。
「えぇ。⋯⋯あの、サナちゃんと一緒に調べてたらしいんです。先輩が」
『私に見えなくて、サナちゃんには見えるの?』
「はい、らしい⋯⋯です」
言葉が詰まる椎奈であるが、会話の内容が掴めずにいるサナは怪訝そうな顔を浮かべており、察した椎奈は急ぎスピーカーにしてスマホを机に置く。
(先輩、妬いてる⋯⋯)
誰でも分かる嫉妬心は包み隠さず、しかしそれを口にしたが最後、椎奈はお怒りを受ける事間違いなし──沈黙か最も正しい判断であると、即座に考え抜き、決して言葉にはしない。
『『可視化』とか言っていたけれど、『幽霊』まで見えたら世話ないわね。⋯⋯とにかく、『粗目橋』に向かうから、サナちゃん連れて来て!』
「は、はい!」
立ち上がり、椅子を後方に押し出す椎奈とまだ椅子から立ち上がらないサナ。
状況が呑み込めないといった様子で呆然と大音量で聞こえてくるスマホを見つめていた。
スピーカー越しでも何やら慌ただしい音が繰り広げられている中、少女の声が響く。
「待って!」
「サナちゃん?」
「電話代わってくれる?」
スマホはおろか、ガラケー世代でもないサナにとって、スピーカー機能なんてものは無いに等しい。
「サナちゃん。そのまま喋れるよ」
見つめる先は机に置かれたスマホ。
『どうしたの?サナちゃん?』
冗談だろ?と思わず口にしそうなほどに瞼が細まるものの、椎奈が頷くと意を決したように話そうとする。
「あ、あの⋯⋯ご、ごめんなさい。わたしがお兄さんを行かせちゃったから」
『良いわよ。言いくるめられたんでしょ?私も一服盛られちゃったんだし』
ようやく分かってくれた、そんな油断が昼間の愚行を許してしまったと、藍莉の内心はかなりの動揺と困惑が立ち込められていた。
声では寝起きのような声色も実際は散々泣いた影響で鼻が詰まり、喉も少し枯れ気味というだけの事。
たった約七時間程度の睡眠は藍莉を一気に追い詰めていた。
「あ、あの。その『常盤美羽』って人の事、何処まで調べてるんですか?」
『『常盤美羽』が『時間』を支配して大魔王になろうとしたけど、阻止されたぐらいしか知らないわ』
「え!?馬鹿の考えた広大なインチキ臭い話なんですか?」
空気が静まり返ったのを椎奈は嫌でも感じ取ってしまった。
笑う所だったのか、もっとマトモなツッコミでも入れてあげるべきだったのか、それは椎奈本人には預かり知らぬ事ではあるが、サナから見ても椎奈のせいで空気がまた一段と重くなってしまったのを肌から体内に浸透するような寒気さか教えてくれる。
咳払いをした藍莉が流れを戻そうとする音はスマホのスピーカーを通してよく聞こえて、苦笑いを浮かべる椎奈にサナも作り笑いで誤魔化してしまう。
『⋯⋯私も知らないのよ。事件が起きたのはゴールデンウィークの二日前で、准と朝倉さんが最悪の事態は回避したらしいけど、『精神分裂』を起こしちゃって『個々』が混ざったりしちゃったから『厨二病』っていうキャラクターを演じさせて誤魔化してたって事ぐらいしか知らない』
全て准が教えてくれた情報であり、発端と根幹の話。
良かれと思い、信じて個々の獲得を促す為の方法か『厨二病』を演じるという普通の人ならば頭を抱えて、最後にドロップキックも是さない提案を『常盤美羽』は呑んだ。
病院に行くでもなく、友人に頼み込むのでもなく、最初で最後の提案を受けて受諾したのは准のものであり、一種の信頼があったからに他ならない。
そうでなければ、准はただの詐欺師であり、一人の女の子の高校生活を丸々剥ぎ取ったという解釈も出来てしまう。
「朝倉さんは?何処に行ったんですか?あの人なら──」
『もう居ないのよ!肝心な時に限って!』
「うぅ、そ、そうですか⋯⋯」
ここ最近で椎奈が聞いた限りで一番尖った声を発しており、相当に積もった怒りがあると納得せざるを得なかった。
そんな彼女に対して理由を問うか悩んでいると、真正面で座っているサナがゆっくりと慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「あの、多分ですけど⋯⋯。どうして『常盤美羽』って人が消えちゃったか分かった気がします」
「嘘?!」
『何が理由なの?』
食いつくように机に手をつけて、前屈みとなら椎奈に臆したサナは椅子から勢いよく立ち上がってしまい、慌てた様子で戻らせようとする。
自信のなさは確証性の低さを物語り、弱々しい言葉一つ一つが疑心感を募らせる事もあるが、現状で『何故そうなったか』という一つの答えまで導き出せたのはサナのみ。
藍莉はそっと息を呑み、近くに居る舞喜は耳を傾けて一言一句逃さぬようにと瞼を閉じた。
椎奈はスマホをサナに近い位置まで持っていく為、机の上をスマホを滑らせた。
「⋯⋯『空弩街一斉睡眠事件』です。あの時、皆寝ちゃったから⋯⋯だと思います」
「え?寝ちゃ駄目なの?皆寝ると思うけど?」
至極真っ当な返しが椎奈の口から炸裂するが、藍莉はサナの言葉に真剣に考え耽り、舞喜はハッとなって藍莉が手元に持っていたスマホへと視線を移した。
『⋯⋯そっか!』
『うわ!舞喜ちゃん、驚かせないで!心臓が飛び出ると思っちゃったわよ』
『あ、ごめんなさい』
「どうしたんですか?」
藍莉達の状況がイマイチ呑み込めない椎奈。
舞喜の事を何一つとして知らない弊害がここに来て現れたのだ。
『あ、あのお兄ちゃんの妹の舞喜って言います。あの、サナちゃんって子供の言ってた事、アタシ分かったかもしれません』
「寝たから駄目って話だよね?でも今でも寝てる人はいるだろうし⋯⋯」
時刻は二十時前。状態や状況によっては学生であろうと寝てる人だって当然居る。
しかし問題は『睡眠』そのものの話ではなく『何が原因』で寝かされた話なのだ。
『あの世界は都合の良い世界だったんです。あの世界には今居るアタシ達とは違うアタシ達が居て、『現象』とか『怪異』とかそういった事が起きない世界で、それでですね』
そう。【八咫烏】が『導く』という体裁の元、舞喜を中心に兄の准を含めた殆どの生物は眠りに落ちた。
無事だったのは藍莉、サナ、逸花と例外枠で朝倉拓也のみという状況でもあったあの事件。
眠ってしまった者達は気付けば寝てしまい、意識が戻ったら地べたを布団にして寝ていたのだ。
そんな事件の内側、つまり『夢の世界側』の事をしっかりと覚えて帰っているのは准と舞喜のみ。
だから、分かる事がある──。
『『常盤美羽』さんも居たんですよ。恐らく、『本来の常盤美羽』さんが』
「居たとしてどうして問題になるの?」
『可能性があるって前提で聞いて欲しいんです。あの世界の記憶があるのはアタシとお兄ちゃんだけなんです。あの世界から脱出した人は皆起きた時にその世界の記憶が無くなって何不自由無い生活に戻ります。軽井さんがそうだと聞きました』
「うん。私は全く覚えてないよ?」
覚えていないのは【八咫烏】のリップサービス。
人間の善性を信じている神様だからこその温かいご厚意を与えてくれる導きの鳥にして、太陽の象徴。
しかし、今回に限っては裏目に出た。
『でも、お兄ちゃんは何をどうしたか、あの世界でこっちの世界の記憶も全部思い出して、覚えたまま帰って来てしまったんです。そ、それで⋯⋯』
「なに?」
『『夢の世界』での『常盤美羽』さんと『現実の世界』での『常盤美羽』さんとの齟齬が起きて、消えたんじゃないかと⋯⋯』
『夢の世界』での記憶は舞喜を除き一律全員消えなければならなかった筈が、とんでもないイレギュラーによって『現実世界』にも持ち込めてしまった事か全ての始まりであり、引き金でもある。
「え?でも舞喜ちゃんも覚えてるんだよね?」
『あたしは『厨二病』を演じてる彼女しか知らなかったらしいんです』
『らしい』という言葉に藍莉が瞼を閉じる。
切っ掛けらしい切っ掛けは舞喜の言葉からによるもの。
【八咫烏】に魅入られた者にあった耐性。
その耐性の上限値を大きく超えた『現象』はその耐性をも飲み込む。
蛇が草食動物を捕食するように、じっくりと時間を掛けて、呑んでいくように。
結果、言い出しっぺだった舞喜も『常盤美羽』に関する記憶は弾け飛んでしまった。
『でも、お兄ちゃんは多分⋯⋯前の『彼女』を知ってるんです』
「だから、ズレた?ん?なんでそうなるの?サナちゃん分かる?」
敢えなくバトンパスした椎奈の思考回路はショート寸前であり、どんなに捻ってもズレる訳が分かっていない。
一方のサナは非常に冷静なままであり、椎奈を見ながら僅かに微笑んだ。
「⋯⋯『常盤美羽』さんはクラスで浮いてた可能性があるってお兄さんが言ってました。でもサナはそれだけで消えるって思ってない。だから、問題があるなら『常盤美羽』さん本人か『周りの人』だと思う」
「つまり、『練馬功一』を調べればいいのね!」
「ううん。多分、その人は『常盤美羽』さんが消えた事で『時間の帳尻合わせ』の為に現れた人だと思う」
「何それ?⋯⋯」
新たな情報に脳がぺしゃんこされてしまった感覚が身体にまで渡り響く。
しかし、舞喜もそこら辺の知識はごたつきがある様子で、思わず訝しんでは藍莉へと視線を送った。
そんな舞喜の視線に気付いて、仕方ないと苦笑いを浮かべて見せる。
『私が車に轢かれる歴史があったとして、それを阻止するには准が私の代わりに轢かれる必要があるの。無いと『車に轢かれた』っていう事件自体が無くなるから』
「無くなったって良いじゃないですか!」
あくまでも『事件』事態が無くなれば良い。
そういったつもりの椎奈なのだが、言葉だけは伝わり切らなかったのか、苛つきから沸点が低めなのか、低い声で「は?」とだけ呟き、サナと舞喜は眉がピクリと動く。
言われた本人はピクリはおろか石のように動かず始末。
「軽井さん、明日から夜には気を付けてよね?⋯⋯じゃあ続けるわよ?」
誰がどう聞いても脅しであり、徹底抗戦しようにも藍莉は既に話し始めてしまい、割り込む隙はなかった。
『『一』の出来事を変えるには『一』を代わりに差し出さないといけない。今回の場合、消えた『一』の代わりに『一』が⋯⋯『常盤美羽』の代わりに『練馬功一』がウチの学校に入学したっていうのに書き換わったのね』
「藍莉お姉さん、詳しーです!お兄さんから聞いたんですか?」
『え、えぇ。まぁね』
どこか煮え切らない声を漏らしてしまい、グッと堪えるように拳が強く握られていく。
「もしかして、大州先輩⋯⋯」
最初に察したのは椎奈であり、嫌な予感が胸を押さえ付けていた。
『藍莉さん?』
アパートを出始めた藍莉の隣を歩く舞喜は、彼女の表情が直で見る事が出来る。
だから、気付いた──。
『えぇ、そうよ。五月の中旬ぐらいに助けられたわよ。でも、あれは朝倉さんの力があったから──』
「ううん。『常盤美羽』さんだと思う」
『え?』
予想斜め上の人物の名前が挙がった事で素っ頓狂な声を漏らしながら口元に手を添える。
【走馬悼】に纏わる事件は主に二人の視点で繰り広げられていた。
一人は藍莉の視点であり、影を色濃く遺しながらも走り続ける生命の灯火と影の状態に別れてしまい、一方が理想の姉、もう一方が弟が産まれた歳の小さな頃の姉。
そして『時間跳躍』による影響下で影に侵入して記憶を引き継いだ状態となるまでの頃。
もう一人は准であり、口調も性格も変わらないが小さくなったしまった藍莉と見た目こそ変わらないが性格や口調に微妙な変化があった藍莉両方共に接した経験があり、【走馬悼】を散らせた後、『常盤美羽』によって過去へと戻った頃。
ここで重要視するのは『時間跳躍』を行った『常盤美羽』と会話をしていた者が居たかどうかにあり、性格や口調が多少違う藍莉こそ『常盤美羽』と接してはいたが、その頃の記憶はロクに引き継げていない。
殆どが、准と接した小さな藍莉寄りなのだ。でなければ影に入れなかったからだ。
では、残りは誰かとなればもう准しか居なくなる訳なのだが、その肝心の准が『今回の事件』の最後の引き金となってしまった事が要因して何時までも辿り着けずにいたのだ。
『現実世界の常盤美羽』と『夢の世界の常盤美羽』という同一であって別人の存在と板挟み状態。
亀裂は広がり、やがて弾けるようにして発生した。
都合の良い奴が都合の良い風に居た影響で間違った解釈が為されてしまうのも『現象』の厄介な所である。
「藍莉お姉さんの記憶が都合の良い風に変わってるだけ」
玄関へと向かい始めたサナと後に続く椎奈。
大した着替えもせず、靴を履き、急かすように身体は動く。
そして、既に『粗目橋』という目的地が分かっている為、移動時間の短縮を図るべく椎奈が前に出て案内する形で、バス停へと向かった。
『でもね、サナちゃん。辻褄合うじゃない。あの人だって出来るんでしょ?時間移動って言うの?書き換える感じの』
「あの人は、『世界の常識』を無視出来るから、『時間の帳尻合わせ』が起こらない。だから、藍莉お姉さんの代わりにお兄さんが轢かれる必要もない。居なかったのかも、この世界自体に」
『チッ。インチキ男め、感謝して損したわ』
盛大な舌打ちが鳴り響く。嫌味や悪態がそこから派生して飛んでくると思われたが、堪えるように前髪を弄って誤魔化し続ける。
「せ、先輩、舌打ちしちゃった⋯⋯」
『あら、ごめんなさい。じゃあ、『常盤美羽』さんが私を助けてくれた事にもなるわね。尚の事、探す気になったわ』
「もしかして、消極的だったんですか?!私に調べさせておいて?あんなに苦労して病院出禁寸前だったのにですか!」
通常授業の日付けの際にクラスメイトに聞き込みを済ませて、テスト期間になってからは独自の方法で調査しよう奮闘していた椎奈であったが、あまりにも執拗く聞き回ったのが災いして警備員に取り押さえられてしまっていたのだ。
何とか誤魔化しの言葉と方便を使い潰して辛くも帰して貰えるようになったが、どう見ても要注意人物扱いされてしまった椎奈は最も身近な病院には立ち入りがしにくくなってしまう事態に陥っている。
自業自得と言われればそれまでだが、椎奈からしても藍莉に言いたい事は腐る程あるにはあるのだ。
『あの後、准が変になっちゃったから、予定変更したのよ』
嘘である。本当は椎奈に頼んでいたにも拘わらず、すっかり准にご執心してしまっていたせいで忘却の彼方へ飛んだだけだ。
つい先程、電話を掛ける際に思い出していたまであり、一瞬、電話を掛けるか躊躇ってしまう程には忘れていた。
しかし、幸いな事に椎奈はそんな藍莉の事情等に対して察する術はなく、簡単に騙されてしまうに至っている。
すっかり暗く沈み込んだ街を迷惑にもスピーカーのままにして、歩きながら電話をしている中、サナが目に止まった時刻表を指差しながら椎奈に声を掛けた。
「椎奈お姉ちゃん、『粗目橋』ってどのバスに乗るの?」
「え?あ〜、あのバス停で待ってれば近くまで送ってくれるよ。待ってようか」
「うん」
『私達も向かうわ。准に言わなきゃいけない事、二、三、増えちゃったし』
「では、着いたら連絡しますね」
その言葉の返事は返ってこず、流れたのは通話が切れた音のみ。
スマホをポッケにしまい込んで、時刻表を見つめる。
目的地に付近に下ろしてくれるバスは、つい十分前に到着し向かってしまったばかりであり、次のバスが来るまでは二十分も掛かってしまう。
不安そうな表情を浮かべながら、バス停に設置された椅子に座り込んでサナの頭を撫でる。
「大丈夫かな?先輩⋯⋯」
━ ━ ━
バスに揺られる事三十分、終点から更に歩いて見知った道に辿り着いた准は目を凝らすようにして、立ち止まる。
以前は明るく視界が透き通ったかのように見えやすかった道も街灯もなく、暗闇が伸びるばかりの道へと変貌を遂げてしまっており、風に揺られる木々と枝葉一つ一つに身体は異様に反応してしまう。
(そういえば、あの近くにカフェあるんだよな⋯⋯)
以前はコーヒーのみの注文で済ませてしまった事に若干の後悔があったあのカフェが見えた。
ご丁寧に電気は付けっぱなしであり、車が数台停まっている事から営業中というのもあり、店へと脚を運ぶ。
自身が『透明人間』である状態なのを忘れたまま、遠慮しがちな態度を前に出して、その扉をそっと開けて、鈴の音が鳴る。
「すみません。ちょっと聞きたい事が⋯⋯っ!」
初めに気付いたのは臭い。嗅いだ事を生涯忘れなさそうな程の刺激臭と身体に纏わり着いて離れないと思える程の重たい空気。
次に気付いたのは脚元に散乱した食器の類であり、出入口から一メートル圏内に居る筈だというのに靴が固く粉々に砕けたであろう何かを踏んでしまった事を理解してしまった。
そして最後に──腐乱死体が数体、テーブルに倒れ込むようにしており、一気に血の気と身体が引いてしまう。
この世のものとは思えない。だから夢だ、と都合良く准の頭は切り替わってはくれず、何時までも見たくない筈の死体を目に焼き付けていく始末。
「な、なんだこれッ!?!」
立ち竦む脚は震えを呼び、視界を染め上げる暗闇に潜む死体と床に撒き散らかされた食器の数々。
明らかに事件があったのだと凄惨な現場を見て理解する。
「見てしまったか。桐江准」
背後から聞こえるその重くのしかかる低く高圧的な声色。
最近になってデレてくれたのか、時折出すようになった本性の側であり皮。
ゆっくりと出入口に立ち塞がる存在に目を凝らすとそこに居たのは──。
「⋯⋯牧原⋯⋯。お前、見えるのか?僕が?」
「フッ。『幽霊』は見えんがな」
腕を組み、皮肉地味た物言いで出入口に凭れる逸花の瞳は准を見上げるようにして直視する。
『幽霊事件』の際、逸花は間違いなく演技抜きで『幽霊』の存在を認知出来ずにいた。
でなければ、わざわざ怪我を負うというヘマはしない。
「『透明人間』は適応内って事か⋯⋯。見てしまったってなんだ?」
「アレらは私が殺した」
准から視線が外れて見つめる先は腐乱死体へと。
その視線は何処までも冷ややかでいっそ美しいとすら感じるその瞳に呑まれないように、歯を食いしばった准は声を荒らげた。
「⋯⋯⋯⋯お前、正気か?!人を殺したのか?」
『龍』であり『人』ではないからといって、人を殺すなんて事がある筈がないと信じたかった。
牧原逸花は人の心に正しく向き合い、独自に解釈し、呑み込んで、人間社会で生きていくものだと感じていたかった。
「勘違いするな。アレらは既に人ではなかった。『人を誘う店』としてここに点在していた。そこに私と藍莉、貴様との三人で入ってしまった。だから、殺しただけだ」
「⋯⋯何時?そんな殺す時間なんて」
三人で立ち入った記憶は逸花が『探検』『冒険』『調査』と称して散々連れ回した時期であり、『超能力者』の存在を明確に認知した時期でもある。
(確かに入ったけど、三十分どころか十分ぐらいで出ただろうに⋯⋯)
准の体感時間はそのぐらいである。
少年が倒れた詩葉を目撃してしまったが為に最も店舗を出るのが早かった。
その後の二人の動向を──准は見れていない。
「あるだろ?貴様が詩葉の元へ店を出て駆け寄りに行った時だ。あの後に、藍莉をそのままにして残りを殺した」
「⋯⋯⋯⋯殺す必要あったか?生きてたんじゃないのか?」
「ある。少なくても、奴らは藍莉に手を出そうとした。その時点で万死確定だ」
自ら話をしている間に徐々に瞳は赤くなっていく。
暗闇の中、高鳴りを表す二つの警報ランプは准の鼓動を早めていき、後退りをしてしまう。
そんな准の状況とは裏腹に電球は弾け飛び、破片が脚元に散らばり、空気が一気に冷たくなったかと錯覚してしまい、視界は一瞬の間に黒一色。
「それに、私も目的があってここに入ったというのに、見当違いの結果になったからな」
「目的?そういえば、お前。以前、僕に『超能力』の存在を認知させる為とか言ってたな。あれと関係あるのか?」
「まぁな。⋯⋯とはいえ、代わりは得た。それ以上の事はない」
怪しく口角を上げる彼女に苦笑いは許されない。
そんな彼女は既に画面が付きっぱなしとなったスマホを見せ付ける。
内容は藍莉からのものであり、包み隠さずに『薬で盛られて、逃げられた』と文章の中に入っており、その容赦なさは間違いなく本人であると理解出来しまう。
藍莉と舞喜の長すぎるお昼寝は終わりの時を迎えてしまっていた。
「フッ。スマホを見たぞ?お前、藍莉を騙して逃げたらしいじゃないか?」
「アイツの為でもある。少なくても、あのままじゃあ壊れるって判断した。だから薬を盛った。巻き込まない為にもな、悪いか?」
純度百パーセントの善意のつもりであり、間違った判断とは一向に思えない准は自信に満ち溢れていた。
体力面や身体面、精神面にも支障をきたす恐れがあるという大義名分を振り翳した准を鼻で笑う逸花の瞼は静かに閉じられる。
「フッ。⋯⋯⋯悪いに決まってるッ!!」
瞼は開けられて、幕開けのように赤い瞳は急接近。
同時に首元を掴まれて、一気に身体が浮いた感覚と背中からやって来る向かい風は少年に『死』というものを直感させる。
「うがッ!!!ぁぁぁぁ〜〜!」
盛大に壁へと打ち付けられた准は近くにあったカウンターテーブルに顔を擦り付けられて、投げ飛ばされてしまう。
身体の至る所に食器、腐乱死体、机の素材となった木材がぶつかり、最後は窓際の席にあった机に大きく肩をぶつけて失速と共に床へと倒れ込んでしまった。
そんな無様な様を見せる准に徐ろに近付いて行く逸花の額には青筋が浮かび上がっており、やりきれない怒りで頭を大きく掻き乱され、手の爪は異様に伸び始めて、吐き出される吐息は高温を放っている。
熱気は殺意へと変換されて、荒々しい立ち姿は脅威の象徴へと映り込む。
「そんな事をすれば躍起になるに決まってる。馬鹿か貴様は!」
「それでも──」
「口答えするな!軟弱者ッ!貴様、どうして藍莉の傍に居てやらない。何故『常盤美羽』を追う?古着をタンスから引っ張り出すように、問題を引っ張り出してくるな!」
白いパーカーに備え付けられたフードを掴まれて、店奥の壁目掛けて叩き付けられる。
肺を圧迫し、呼吸を微かに停止させて、背骨が軋んで元に戻らないのではないかという恐怖心と、どうにもならない絶望感と実力差は身体に傷を作っていく。
だが、それでも──力では無力で非力で軟弱な生命体だったとしても、息を大きく吸い込み、歩きながらも確実に迫り来る彼女へ声を荒らげて叫ぶ。
「ぼ、僕はッ!⋯⋯たとえ、疎まれても、助けたい、だけだッッ!!」
拳は握られて、准を狙って外さぬようにと、更に一歩前へと踏み寄る。
「何を?!誰をだ!」
拳を振るう準備は整った。後は振りかぶり打ち込むのみとなる。
拳が振られれば死は確定してしまうと理解していて尚、瞼は開けられたまま。
「自分をだ!」
締まり切ったカフェの中に木霊した言葉。
拳が前へと進み、准の顔面目掛けた結果、直撃というケースは避けられた。
驚いた様子で赤い瞳は揺らめき、殴る体勢は解除されると、訝しむように准を見つめる。
「私の聞き間違いか?今、自分を助ける為と聞こえたが?」
「そ、そうだ。悪いか?自分が都合の良い風に過ごす為に助けたい。それだけだ!」
嘘偽りのない言葉は逸花を呆然とさせた。
叩き付けられた事によって壊れたテーブルは真っ二つに割れてしまい、壁には小さな穴が出来上がっている。
一つの惨劇を知っていて、救済を得た。
一つの悲劇の果てに、人の為に涙を流す。
一つの愚劇は一生の傷として刻み込まれ、決心を固める。
一つの怱劇により救えた者を得て、タガが外れた。
一つの闘劇が人の怖さを知り、愚かさを垣間見る。
一つの煩劇にも似た脅威は、約束の回数を上回った。
一つの史劇に嘯かれ、無力さを噛み締めて生きる。
一つの喜劇は夢のような日々と別れを告げて、苦痛に歩む道を選択した。
どれも自分の為に助けようとし、時に失敗してやり直しが効かないと知りながら駆けた劇場。
役者は多数、時に悲劇を思い起こし、愚劇は忘却されてしまっているものの、感じた心に嘘はないと信じた果ての今だと信じて──痛めた身体を震わせながらも立ち上がらせる。
「藍莉の時もそうだ、僕が気に入らなかったから助けた。サナと軽井の時もだ。詩葉の件だって、舞喜も⋯⋯。僕は『日常』を壊されるのが嫌いだ!」
「分からん奴だな!私が言い──」
「六華のような事になって欲しくないんだッ!!」
「⋯⋯⋯⋯」
言葉が詰まる逸花はそっと赤い瞳に幕を下ろす。
意表を突くような言葉。会心の一撃な言葉の重みは顔を引き攣らせる。
付き合いのな長さだけならば勝るとしても、密度は違う。
それを知ってしまっているからこそ、俯いて耳を傾けた。
「お前だって、知ってるだろ?あの高慢ちきで高飛車で自分本位の我儘娘がどんな思いで!僕達、人間の側で居てくれてたか」
人を化かし、傷を残し、最後は笑って閃光へ。
紅蓮色の龍は爪で付けれる筈の傷痕よりも深く、抉られたような心の傷として刻み込まれてしまい、切っても切り離せない存在として残響し続ける。
ある男は言う。
「誰も悪くない。悪い奴が強いているなら龍だ」
そう慰めにも似た言葉は受け取るべきか跳ね除けるかの二択に至った時、跳ね除ける道を取った。
甘んじて受けても良い筈の言葉を手で払い、傷だけが遺った。
「僕はアイツみたいに力はないけど、結末は知ってる。アイツの悪い所を百言える。でも、良い所は千言えるッ!そんな奴を僕は殺したんだ!何も出来ずに⋯⋯そのせいで、皆⋯⋯」
戒めであり、後悔であり、約束の賽は投げられた。
祝福もなければ、賛辞の言葉は皆無。
それでも、誰もが自身と同列の結果に至らない為の奮闘を選択した。
力はない。知識も浅く、度胸もなければ未練もある。
その上で少年は投げ掛けるように、訴えるように言葉を紡ぐ。
「同じ轍を誰かが踏まないようにしたいって思う事がそんなにいけない事か?僕は悪いとは思わない。少なくても、今は」
『日常』は何時もそこにある。だからこそ、壊れる時は大雑把にしろ丁寧にしろ、大胆でも繊細にしても壊れる。
ガラスのように脆く、砕ければ戻らない。
張りぼてだらけの少年の日常は回帰しないと知っていて、せめてもの償いとして抗う道化と化している。
「『刃龍』が何を思ったか、私は詳しくは知らない。だが、アイツから言われた事がある」
儚い声色には懐かしさを慮る心が滲み出ていて、空が見える訳でもない筈なのに天井を見上げる。
馳せた記憶、残滓のように淡く漂う記憶の断片。
嬉々として語った生意気な口調と減らず口は遠い過去ではない筈なのに、妙にシンミリとさせていく。
「『最近、楽しんだって』、そう言ってた。お前もその一助になっているのだろう」
「⋯⋯⋯⋯きっとそれは僕の割合は低いな」
「ん?」
その言葉には何を含んでいるのか、逸花は聞き返す事を放棄した。
既に暴力行為には辟易してますとばかりに大きく息を吐き漏らして、少年の傍へと寄る。
「貴様、何故ここに来た」
「『常盤美羽』を探しに来た。その為に彼女の前に住んでた家に来た」
「なるほど、確かにこの近くに焼けた跡地がある」
「ホントか!?」
「向かうぞ」
踵を返すようにカフェの出入口へと向かう逸花を驚いた表情で見つめる。
その小さな体躯と背中には分厚い期待と可能性を感じられてならない。
「着いて来てくれるのか?」
「とはいえ移動までだ。私は時間の干渉を受けている。お前のように何かしらの施しはされていない」
「そっか⋯⋯。ありがとう」
意外な助っ人であり、最高の手助けだと認識した准は立ち上がり、その小さくて強大な背中を追いかけた。
「早く行くぞ。それと、内容を細かく伝えろ。事件解明の為に紐解いてみせようではないか」
「『龍』様々だな」
皮肉かあるいは賞賛か。それは少年にしか分からない事である。
だが、逸花にも分かる事はあった。
『龍』の名を使う時、必ず『刃龍』が必ず過ぎってしまっているのだろうという事に──。




