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この街は今日も語る  作者: 紫芋
常盤美羽は語り切れない

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39/41

水と油の関係性

『常盤美羽』は『時計』に囚われ、縛られた存在であると『虚象』は言う。


 白い空間で僕と神様かのじょの二人きりの世界。


 冷気が籠って、身震いを覚えそうになる中、僕は一つの帰結に辿り着いた。


『常盤美羽』は『()()()()()』のだと───。


 しかし、それを知ったとしても、僕にはどうしようもない事で、どうにもならない結果論を投じざるを得ないという事も理解してしまい、学校へと向かった。


 昨日は学校を休んだ嶺二が欠伸をしながら、僕の事を見つけて手を振る。


 手入れの行き届いていない原っぱを掻き分けて歩く僕に声を掛けて来た為に慌てた様子で歩道まで行った。


 びしょ濡れの制服に唖然とする嶺二は半笑いになりながら、着いてきた草を手で摘んで取ってくれる。


 何時も通りの日々、何気ない日常。


 そう、『常盤美羽』にはそんな日常は『もうやって来ないのだ』という事を知った今、どんな気持ちで僕達と接していたのか、どんな心境で僕は彼女と話をしていたのか、それを知りたくなった。


  ━ ━ ━


 その年のゴールデンウィークは四月二十九日から始まり、平日を二日挟んで五月六日までの期間。


 家族連れで遠出の予定を実行したり、家でのんびりと過ごす家族も居る中、桐江准は妹の舞喜の見舞いに来ていた。


 せっかくの長期休暇。舞喜と会う時間を出来る限り増やしていた期間でもあり、学生にしてはシビアに見られがちな一日を過ごしていた時、出逢ってしまう。


 長い黒髪に准の通う高校と同じ制服で、くたびれた様子で目に隈が出来て閉まっている女の子。


 泣き疲れたようにも見受けられるその顔色と暗く沈みきったその表情と面持ちで病院前にある広場に設置されているベンチに腰掛けている。


 最初は当然スルーする事案であり、病院なのだから、家族の誰か、友達の誰かが入院して落ち込んでいるのだとそう判断した准は、そのまま去ろうとするも、ふと視線を離して何気なく視界に入れ直すと、その少女は『消えていた』のだ。


 これがゴールデンウィーク初日の話であり、小さな違和感。


 何処かに去ったにしては早すぎて、勘違いや思い過ごしと言うには目を疑う方が納得のいく消え方に、焦燥感のようなものが目立って見える准ではあったが、何処の誰かすらも知り得ない状態から一人で特定の人間を探し当てられる程の探索力と洞察力を持ち合わせていない少年には難しい事であった。


 翌日の登校日に差し掛かると、一つの噂が飛び込んだ。


 一年のある生徒が『行方不明』になったという。


 その生徒は金持ちで財閥のお嬢様という情報で、抜けている親が娘に高校の登校日があるのを気付かずに旅行に行ってしまい、帰って来れなかっただけかもしれない。


 そんな風にも考えた准ではあったが、いざクラスメイトに聞けば聞くほど、それが的外れな思い込みという事に気付かされる。


 曰く、そのお嬢様は品行方正であり、無断欠席はした事もイメージも付かないらしく。


 曰く、親はお堅い人物ではあるものの、真面目で様々な学校行事にも積極的に参加している子供想いの人間である。


 曰く、お嬢様本人との連絡も付かない。


 曰く、ゴールデンウィーク期間中にある平日について友人と話をしていたらしい事。


 それらの情報から、両親が間抜けという線やお嬢様がサボろうとしたという線が薄くなり、准は思い出した。


 病院で出会った女の子の事を──。


 事態の進展は思ったよりも、思いがけない早さで進行する。


「その子、『時間』に囚われたのかもな?」


「時間?時間ってあの?」


「そう、時間。厄介だぞ〜?俺のようにコントロール出来てないのかも」


「なんで時間なんだ?決め付けが早くないか?」


「だって、この街に同じ人間存在してるんだもん。選択肢はかなり絞られる。その中で面倒臭くて、囚われやすいのは時間だ。後は影とか蜃気楼とか思い込みとかだろうが⋯⋯まぁ時間でしょー」


 写真を一枚、裏には住所が記された文字。何処で拾い、何処で得た情報かも教えない朝倉拓也は意味深そうに口にして、准に手渡す。


 陽が差し込む絶好日にて、桐江准は本格的に動き出した。


 街では帰省ラッシュが起こる中、独り優雅に街を放浪、探索している寂しい貧乏学生は、『空弩街』を自転車で走行する。


 そして、解った事はお嬢様の家は極太のお金持ちで()()()()


 父方の祖父母、両親、兄妹四人。


 准が探している次女を残して家族は全て、ゴールデンウィークが始まる直前に起きた火事で死亡しており、家も全焼しきっている。


 弟が居たらしいが、『拡張性心筋症』という心臓の移植手術が必要な病気を患い、やはりゴールデンウィーク初日に亡くなってしまっていた。


 今は唯一の親戚でもある母方の祖父母の元で生活していて、最近は帰っていない事。


 更に『象願林』にまつわる伝説が記載された本を図書館から借りていた事だった。


 願いを叶えてくれる象であり、神であり、災いの対象として崇められた存在。


 初めて聞く伝説。『翡翠色に光る象』という一見すると気持ち悪いだけで、タペストリー程度が調度良い。


 既に刃龍を認知している准にとっては、龍も神も殆ど大差が無いビッグスケールでしかないのだ。


 居なければそれまで、居たら驚くのみ。


 そんな何処か投げやりな感覚のまま、象が居るであろう『象願林』へ向かった准は確かに見る事となる。


 封印を解こうとする『彼女』を──。


 全てが終わったのはゴールデンウィークが終わった早朝頃。


 残ったのは遺恨と約束と退廃的なまでに無気力な生身の身体のみ。


 消滅したり小綺麗になった物件や小物は元には戻らないまま、事件は終わった。


 禍根のようなもの恨み辛みよりも、遣る瀬無さとどうにもならない現実的な思考が何時までも目紛しい程に絡み合い、少年は泣き続ける女の子を見つめる。


 単に誰が悪いか──それは誰も悪くはなく、誰でも起こりうる縋りたいという気持ちと現実逃避の向こう側。


 いくら手をさし伸ばしても、現実という境界線に抗う術を持たない少女はゴールデンウィークを無駄に過ごし、意味もなく終わらせた。


 朝を迎えた頃には、一つのアイデンティティを獲得しただけに過ぎない。


「厨二病になったら?そうしたら、目立たんだろ?それ」


「馬鹿みたい⋯⋯」


 厨二病は誰の為か?彼女の為であったろう。


 意図してワザと、喩え学友からも親戚からも家族からも恩人からも嫌われる事になったとしても、『厨二病』というアイデンティティは一人の個の獲得であり、自立心の生まれを活性化する糧として、演じる事となった。


 日傘が無ければ街を歩けない。そんな自覚なしのボンボンの金持ち筆頭の金ピカはお嬢様は消え去った。


 財産は祖父母の管理下に置かれ、生きていた証とも言える自宅は黒焦げの煤まみれであり、文字通り跡形も無い。


 友人は必然的に居なくなり、信頼できる人間よりも信頼しない人間の数が増えただけのゴールデンウィーク。


 もしもの手段と、情けないながらに世界を共に救った先輩一人と、尊敬できる大人が一人出来上がっただけのゴールデンウィークは──幕を閉じた。


 生産性は乏しく、傍から見れば自業自得の学園祭レベルの舞台。


 茶番よりも逼迫し、公演会よりも杜撰なカーテンコールであったろう。


 五月七日──その日、『常盤美羽』は誰にも相手されなくなってしまった。


  ━ ━ ━


 今後の動向をどうするべきか。悩んだ末に僕が選んだ手立てとして『常盤家』にお邪魔するという選択肢であった。


 僕が『監視役』として宛てがわれているのならば、ゴールデンウィーク中に朝倉さんから貰った『常盤美羽』の見姿とその彼女が住んでいる住所が記されている写真を今でも保管しているのではないかと賭けてみる事にして、早速ながら放課後はダッシュで帰宅するという選択を取る──筈だったのだが。


 要らない用事が舞い込んできやがったのだ。


「アンタ、ちょっと来てくんない?暇でしょ、どうせ」


「僕を暇扱いするなら名誉毀損で訴えるぞ」


 僕は何時か必ず訴えてみせる。富宮奏海という野蛮、凶悪、身贔屓の三主の仁義を持ち合わせている彼女を。


「はァ?馬鹿言ってないでアンタは来ればいいの!ほらァ!」


「マジでなんなの?」


 果たして押しで彼女に勝てる日はやってくるのだろうか。


 あるならば是非教えて欲しい。この怪物に勝てる術というものを今すぐにでも。


 手なんて繋ぐ事はなく、着ているシャツの胸元を無理矢理掴まれてしまい、勢いによって転倒しそうになる僕に意を返す事もしないまま、着実に廊下、階段、体育館前まで連れて来られてしまう。


 最後には、壁に向かって僕を放り投げる。


 どうやら夏が近い故に苛付きが抑えられないご様子だ。


 僕は慰める気も術も判断も勇気も無いから、武島の阿呆に全てを押し付けて帰ってしまいたい所だが、目の前に居るサッカー部のマネージャーよりもグラウンドで走り込みからフォーメーションの確認、模擬試合と忙しい実務側のサッカー部員である彼をここに呼んでしまうのも些か酷な話である。


「なんだよ?ここまで呼んで」


「アンタに聞きたい⋯⋯というか、聞いて欲しい事あんの」


 ヘアゴムを一度解いて、わざわざ後ろ髪を結び直すその動作はお願いをしている人間の様子にはとても見えなかった。


「はぁ?誰に誰が?誰に対して」


「うっざ!」


 ウザがられてしまったのならば仕方ない。僕も本当に暇という訳ではない。


 そもそも『常盤美羽』の一件がなくても、妹の為にご飯を作ったり、自分の為にゲームをしたり、宿題の類を頭の中から滅却したり、風呂掃除や最近気になってる動画サイトの投稿者のチャンネルへ行って時間を潰したり、それはそれは忙しいのだ。


 つまり、僕はこの構ってちゃんに構ってられない。


「わかった、じゃあもう行く」


「おい!私の要件が済んでないだろうが!」


 背を向けて校舎に戻ろうとする僕の制服の袖を無理やり引っ張ってくる。


 デートの催促とかならばどれほど嬉しい光景だろうか──だが残念、これは脅迫のようなものであり、催促などでは決してないのだ。


 中学生の時期からこの脅迫紛いなやり方は変わらない。


 富宮奏海という女の子の悪癖。


 伝えたい内容は明確な癖に、それを口にする時は興奮が勝つのか、場を制した気になってしまうのか、ボルテージだけが一丁前に跳ね上がって最後にはこういったやり方しか出来ない。


 親の言う「この子は本当にいい子なんです!」なんて言葉も身贔屓から出る言葉であるのならば、コイツの『いい子』要素は何処かと問われれば艱難辛苦の極みに至るだろう。


 僕は理解する気もないのだが──。


「嫌だよ。頼み方とか気に入らないし、勝手に服引っ張って挙句上から目線。これでイケるだろとか思ってんならナメ過ぎなんじゃないのか?」


「アンタがウザイ返しするからじゃんか!」


「同じ目線立ってやってんだ。むしろ感謝しろよ」


 水と油という言葉があるが、この場合僕は油で彼女は水なのだろう。


 基本的に溶け込みやすい彼女と、嫌でも油分が浮き出る僕。


 この関係性に決着を付けるには藍莉という『乳化作用』に用いられる『界面活性剤』が必須。


 藍莉の奴、化粧品だったのか。


「はァ?⋯⋯⋯⋯はぁ〜、本気で疲れる」


「そうかじゃあな」


 彼女の身体を考慮して、僕はそそくさと帰ろうとするが、今度は襟元を掴んで来た。


 さっきまで溜め息を吐いて、腰に手を当てて苦労人アピール全開であったにもかかわらず。


 大学生の「お疲れーっ!」並に信用出来ない要素である。


 こいつの一挙手一投足が嘘に感じてならない。


「おい、なんだよ野獣。なんで僕の襟元を掴むんだ」


「まだ帰られたら困んのよ」


 そう言われた僕は、是非是非困り顔を浮かべているこのハンサムフェイスを見せてあげたが、全く響いてくれない。


 困ってるのは僕もなのだ。


 嫌と言っても聞けと返され、じゃあなと別れを持ち掛けても待てとペットのように待機指示を仰がれる。


 挙句に、チクるぞと言えば暴力絶対主義へと早変わり。


 僕は一体何と戦わされているのだろうか。


「自分の事ばっかだなお前。⋯⋯じゃあお願いしますぐらい言えよな」


 襟から手が離れたのが体感で理解し徐ろに振り返ると、俯いてしまった富宮が貧乏揺すり上等のように脚裏をバタバタと地面をタップしていく。


「⋯⋯⋯⋯す」


 クソ小さい。蚊の鳴くような声とはこの事かと初めて実感させられた。


 もはや羽音以下とは畏れ入る程であると同時に僕に対して屈辱的な表情がよく浮かんでいる。


 言っておくが、僕自身は何か彼女にした事は無いのだ。


 勝手に絡んで空回りしてはすっ転んで喚いているだけなのが、この富宮である。


「本当に聞こえないなんて事あるか?普通に声出せるだろ?何時も煩いんだから、余裕だろ〜?どっしたー?腹痛か〜?」


「アァァァーーーッ!!もう!お願いしますッ!」


 体育館で今尚、響き渡っている活動音を一切合切、掻き消す叫声と大願を鳴いた。


 どう見てもヤケクソ感が滲み出ており、顰め面に握り拳、苦渋の末に血涙が流れ落ちるのではないかと思えてしまう程。


 だから、僕は淡々と明言した。


「嫌だ」


「はァァァーー!?!言ったんだけど!私!」


 怒号は体育館内にも当然響き渡ったのだろう。


 複数の女子生徒が体育館からヒョコっと顔を覗かせており、その内の一人に何故か軽井が居た。


 そんな後輩は僕の顔を確認するやいなや薄ら笑いを浮かべて、忙しなく中へと戻って行ったのである。


 こんなのと仲が良いと思われるのはハッキリ言えば恥とすら思えるのだが、逃がしてもくれないのが悪循環でしかない。


「お願いしますぐらい言えとは言ったけど、引き受けるなんて言ってない」


「チィ。死ねばいいのに」


 舌打ちをそこそこに、悪態をついた富宮は腕を組んで鋭い視線で僕を睨むばかり。


(怖っわ!何時も睨まれてはいるけど、今日は一段とキツイな⋯⋯)


 眼光が針の先端並に尖って見える。


 眉をピクリと動くだけで、自然と臆してしまった僕は諦めてしまい彼女の頼み事を聞く事にした。


「僕に頼み事なんて、今から巨大な隕石でも降ってくんの?是非止めてね」


「何言ってんの、コイツマジで。頭おかしいんじゃない?」


 よりにもよって富宮に呆れられてしまった。


 中学生の頃から彼女と楽しい団欒話なんてした事すらないけど、仲の良い奴とは冗談にそれなりに対応していたし、軽口で会話なんて常だった筈。


 そう、彼女とのコミュニケーションを円滑にするには身贔屓の枠に僕を入れて貰わなければならない。


 枠組みに入れて貰うには藍莉が一言、彼女に口添えして貰えれば済むのだろうが──そもそもの話、僕のコミュニケーション能力不足と彼女のご贔屓に上等気質が問題となっているというのに、わざわざ藍莉に間を取り持って貰うというのは相当な負い目がある。


 その為、僕は藍莉に口添えを頼まない、そう決めた。


 ようやく腕組みという名の臨戦態勢を解除し、落ち着いた様子となった富宮は言い辛そうに口を開く。


「夏休みさ、藍莉連れて私と颯悟の四人だけでどっか行きたいの。泊まり込みで。だから予定空けてくれない?」


「⋯⋯なにか企んでんの?」


 要求に対して最初に出た言葉はそれだった。


 いくらなんでも有り得なさ過ぎる。夏休みというバカンスすら許される長期休暇の時期に毛嫌い気味な僕に遊びの予定を立てようとしている事や、泊まり込みという大前提、更に何時ものメンバーである牧原、紫島、幸坂を呼ばないていなのが尚の事企みにも似たものを感じてならない。


 何よりも分からないのが一つ、目の前に居る彼女は──。


「何も。私は藍莉が来てくれば良いと思ってたけど、その藍莉がアンタ来ないと遠出しないって言い張ってて」


「またなんで?」


 思わず口元が緩んでしまう。恐らくだが昨日の夜に藍莉と話した内容があったからではないか。


 もしそうなら健気というか、光栄というか、恐悦至極というか、歓喜の声が心の中で溢れて活気づいた。


(あれ?おかしいな⋯⋯抓られて無いのに耳が痛い。どうして?)


 歓喜喝采も、喧々諤々へと変わっていく。


 一方の彼女は何やら思い詰めたように視線が露骨に逸れて、口吃った。


「⋯⋯知らないわよ」


 ようやく開けられた唇は小さく、か細い声量で返ってきた。


 余計なお世話かもしれないが、不安そうなのが目に見えているのが、こちらにもその不安の念が伝わってくる。


 心配もあるし、懸念すべき点も。


 だから、僕は彼女に対して口にする事を決めた。


「お前」


「なに?」


「言うか、言わないか。かなり迷ってたけど、この際ハッキリ言うぞ?」


 富宮の眉が何故か下がる。余計な事を言われると危惧して警戒レベルが引き上がったのか、口元が強く閉まった。


 それらの動作を見て尚、今更やっぱりいいとは言えない僕はやはり臆病者かもしれない。


「告れば良いだろ?武島の事好きなんだろ?」


 長身を活かしたサッカー部にて最近は調子が良いと小話程度に聞く事もあるあの短髪スポーツ少年であり、珍獣代表の武島颯悟。


 奴は彼女程ではないにしろ態度が露骨であり、ある意味ではお似合いだろう。


「⋯⋯⋯⋯何時から気付いてたの?」


 正直、彼女はよく武島を見つめては話をしに行こうと甲斐甲斐しく彼の机へ律儀に一日二回は向かっている。


 恐らくだが、武島本人以外は全員富宮が武島の事を好いていると気付いているのではないだろうか。


 僕自身は武島を好かない理由があるにしても、他のクラスメイト達から見れば武島颯悟という男は話しやすくて、クラスのまとめ役であり、サッカーが上手いというモテる部類の枠。


 勉学こそそこそこなのだろうが、顔も良い為、帳消し必至なのだ。


「素直〜」


 そして、富宮本人は驚いた様子はそこまで見せず、むしろ諦めたような表情で認めた。


 てっきり僕はツンデレ娘の如く、頬を赤らめながら否定の言葉をスタンプ連打ばりに連投するものとばかりと思っていたのだが、潔が良すぎるまである。


 スカートの中に裾を入れない富宮奏海のスタイル。


 溜め息もそこそこに、彼女は半袖の学生服の裾を伸ばすような仕草をした。


「分かりやすいってよく言われるから、正直バレたらすぐ言うようにしてんの」


「へぇ、意外だな」


 その素直な気持ちを常に僕だけにでも良いから向けて欲しいものだ。


 決して叶わない願いなのだろうが。


「んん!私の事は良いの!で?何時から?」


「あ〜、四月の中旬ぐらい?かな」


 一年生の頃とは敢えて言わなかった。


 この子、一年の頃は武島と同じクラスなのだが、当時から見て分かる程に好意を抱いていたのだ。


 サッカー部のマネージャーになったのもその辺の影響もあったのではないかと思う。


「四月の中旬って⋯⋯、最近ね⋯⋯」


 僕は何も言わなかった。言って気付くより、察して気付いて欲しかった為である。


 富宮が僕の顔を窺うと共に首を傾げて瞬きの数が増えていく。


 僕も同じ方向に首を傾げて煽るような態度を取るものの、目を見開いて口が徐々に開けられた。


 ようやく気付いたのだろう。


「もしかして、去年?」


「うん、そうだけど」


「一年の頃、離れてたよね?」


「別クラスだな。それでもお前武島にゲロ甘だから分かりやすいぞ」


「⋯⋯そうなんだ。そんなに⋯⋯」


 別クラスであると共に、部活に無所属な僕は二人と交流する機会なんてある筈もないのだが、廊下ですれ違うぐらいはする。


 そんな時ですら彼女は武島に対しては気が緩みきった表情を浮かべる事が多く、はにかんだような笑みで接しているのを何度も目撃していた。


 かなり分かりやすいとしか言いようがない。


「もう、告っちまえよ。お前ならいけんだろ」


 こんな奴と常日頃一緒に居て接しているのなら、相性が良いという事なのだ。


「⋯⋯⋯⋯無理」


「じゃあ性格直せ」


「はァ?喧嘩売ってんの?」


 割と本音なのだが。武島、藍莉辺りが言えば素直に従うだろうが、僕が言っても無駄のようだ。


 しかし、その嫌に捻れた性格を直さなさいと交際なんて出来なさそうでもあるのも容易に想像出来るのも確かで、多少なりとも頑張って欲しいものである。


「安値そうだから買ってやろうか?」


「⋯⋯⋯⋯チィッ。いい」


 大きく舌を鳴らして嫌悪感を露骨に出しているが、僕は彼女に続けて述べた。


「お前さ、僕に対してだけだと思うけど、あんまし強気なフリした態度振り翳すなよ?何時か痛い目見るぞ?」


「⋯⋯アンタにだけは言われたくない」


「僕は強気なフリなんてしてないぞ」


 かなりフランクに接しているつもりだし、藍莉や舞喜、朝倉さん、嶺二を除いて特に態度を変えた試しはない。


 だから僕は、その富宮からの安っぽい喧嘩も受けて立つつもりだったし、打ち負かしてボロ泣きで鼻水をダラダラ流させてやろうと考えていたのだ。


 けれど、僕の意図とは別に彼女は眉間に皺を寄せ始めて言葉を詰まらせながら灰色のスカートを強く握り締める。


「違う。⋯⋯私はアンタだけには絶対、態度を軟化させたりなんてしないって決めてんの!」


 富宮奏海の本音であり、間違いなく揺るがす事が困難極まりない固い意志が感じられた。


 目の敵にされているようにも思えるが、僕は何時そんな扱いを受けるようになったのか皆目見当もつかない。


「なんでまた?」


「⋯⋯うっさい。死ね」


 覇気のない罵倒が飛んで来たが、最悪掌で払えば吹き飛んでしまう程に弱々しいのだ。


 全く怖気付く事もなければ、悲しくなる事もない。


「マジで情緒不安定だなお前。ここまで行くとミステリーの領域だぞ?」


「ミステリーはアンタよ。度々どっか行くし、怪我するしで、私より余っ程不思議ちゃんじゃないの」


「どっか行くってのは兎も角、怪我まで要素として入るのか。怖いなお前の判断基準」


 スポーツ少年こと武島や嶺二辺りには怪我した所を目撃したとしても不思議ちゃんとして扱わない癖に僕の場合は特別であり、全く持って要らないご贔屓があるようだ。


 本当に要らないからお返ししたい所だが、どの道投げて返されるのがオチなのは目に見えている。


 それとも富宮にとって、僕は怪我をする人生を送っていないと思われているのだろうか。


 だとすればおかしい。何故ならば、僕は『幽霊騒動』の際、腹を抉られて内蔵が飛び出してしまう程の怪我を負っている。


 しかも、それを富宮だってしっかり目撃していた筈なのだが、既に過去の出来事であり、終わった話としてその時の記憶は都合良くデリートされているようだ。


 羨ましい限りで、僕も是非都合の良い頭になってみたいものである。


「で、どうすんの?行くの?それとも行かないの?決めてよね」


「藍莉自身は行きたそうだったのか?」


 急かすのは単に部活動が既に始まってしまっているからだろう。


 追っ掛け(マネージャー)としてうごかなければならない立場でもある富宮は、一分一秒でも無駄にしたくはないのだと解釈して、恐らく真の目的である人物の名前を出す。


 どう見ても『僕』よりも『藍莉』を誘いたいのだろうという魂胆は明け透けであり、企んだのも恐らく武島だろう。


 というよりも、奴しか居ない。


「どうだろ?颯悟が聞いてたらしいけど、速攻でアンタの名前出して出鼻挫かされたらしいから分かんないわよ」


 僕の名前出すだけで誘いを断れるなんて、とんでもない虫除けじゃないか。


 自分の預かり知らぬ所で僕のちゃっちいネームバリューが活かされるなんて、今日一の驚きだ。


 夏休み中の予定というのもあり不透明な部分も多くあるが、少なくても確定している予定自体はある。


 それは妹関連だ。


「僕も暇じゃないのは本当なんだぞ?夏休みは妹と外に出て学校に通う練習しなくちゃだし」


「妹?あ〜、あの暴行事件の首謀者の子よね」


「普通、直で兄の前で言いますかね?」


「でも事実でしょ?」


「まぁそうだな」


 本当に仰る通り。首謀者なのも事実で、コイツが僕に気を使って名前や暴行事件の話題を伏せる理由や必要性なんて皆無なのだ。


 むしろ、深く聞いてこない事や笑われないだけマトモな方だと思える。


 一応、ニュースや新聞等で報道されてしまった経緯もある為、一時期はネットでは時の人となった妹だが、移り変わりの激しい彼等は事件の数日後に発覚した官房長官の不正疑惑に流れて行ってしまい、音沙汰はなくなった。


 けれどそれは、あくまでも世間全般で見ればの話であり、この『空弩街』に限っていえば噂は当然ながら今でも流れている。


 入学したての女子中学生が学級崩壊を先導してクラスを一つ潰して、担任教師は辞職で怪我人は多数という、どう考えてもビッグタイトルものだ。


 僕だって報道陣なら飛び付く自信がある。


「でも意外よね。アンタの妹って言われると暴行事件なんて指導する側とは思えないのよね」


 富宮は舞喜を紹介した事は当然ない。想像上の妹は一体どんなか弱い生命体になっているのか、聞きそうになるものの──。


「普通、暴行される側でしょ?」


 コイツ、本当に可愛くない。何が悲しくて僕の妹が被害者前提にされなければならないのか。


 仮に目の前でコイツが誰かに虐められても、僕は絶対に助けないし絶対に加担までしてやる。


 鼻の穴にミートスパゲティを放り込むか、ナポリタンを突っ込むかすら選ばせてもあげない。


「まぁ通学練習は付き合ってあげたら良いけど、旅行はどうすんの?」


「まぁ藍莉に僕から聞いてやるよ。僕が行くなら行くんだろ?」


「うん。そう言ってたらしい」


 結論からすれば、僕次第であり、二人の予定を粉々にする事が出来るのも僕の一存なのだと考えれば、多少なりともワクワクするといったものだ。


 だが、そうなれば気になる事が一つある。


「つかさ。⋯⋯お前と武島の二人って選択肢はなんで無いんだな?」


 そう、二人だけで旅行に行ってしまえば良いのだ。


 元々、武島と富宮を合わせた三人でお出掛けなんてした事もないし、待ち合わせで登校なんてする仲でもない。


 ましてや僕自身がかなりいい加減な方であり、学校も遅刻が多い部類の人間なのも加味すると、僕の一存一つで予定が全てパァになるという愚行を許してしまいかねない計画性は如何なものか。


 そんな計画加担者の顔には影を濃く彩っている。


「⋯⋯無いからよ。鼻っから」


「うん?」


「アンタ、鈍いわね」


「まぁな。自負してるまである」


 実際、鈍い部類なのは自覚しているし、貫き通す覚悟すらある。


 誰にも文句は言わせる気もない。


 自慢げに語る僕とは相反するように手首を掴み、片脚で地面を小さく蹴る富宮には哀愁が滲み出ていた。


「私は颯悟に見られてすらいない。分かっちゃうから、そういうの」


「⋯⋯そんなものなのか?」


「そりゃそうよ。好きな人に見られるって嬉しい半面、不安にもなるもの。気にすればするほど視線は嫌でも意識する」


 最後のは解る。お化けが居ると思えば思う程、視線を感じてしまうようなものだろう。


 だが、不安になる要素が何処にあるのかピンとは来ていない僕は腕組みをして考える。


「胸とか?」


「そ。男連中が胸元見てくるのも、内心は気付いてる。でも、見るなって言われても見るでしょ?」


「そりゃな。むしろガン見するまであるぞ」


 今も目の前で膨らんだ胸元を見つめる。


(成程。藍莉よりは小さいと見た)


 隠れ巨乳ではないと信じた僕は自分の彼女がナイスバディである事を誇りに思いながら、静かに頷いた。


「⋯⋯ほらね今もそう。とはいえ、見られて嬉しい女も居るから一概に見られる事が女にとっての損じゃないの。だから口にしづらいのよ」


「なんでだ?嫌なら言えばいいだろ?」


(むしろお前が言わなきゃ誰が言う、暴言爆発させろ)


 こんな時こその身贔屓だろうに、僕にばかり当たって来ないで欲しいものだ。


「はぁ〜、女同士でも色々あんの!私がした発言で、傍から見ればナメてるって思われるの。そうしたらもう居られない。女ってね、群れながら観察する生き物なの。一人で孤高ブってる奴なんて寂しがり屋のコミュ障かハブられて居場所がないはみ出しものぐらいよ」


 フラストレーション溜まりっぱなしで何時か血管がはち切れるのではないかと思わず心配になる。


 群れながら観察なんて、蟷螂カマキリが可哀想なボッチみたいな物言いは止めて頂きたい。


 鎌みたいな形状してる癖に、掴む専用の手が馬鹿みたいじゃないですか。


 僕は残念ながら女性マイスターの称号もなければ、百人の女性に告る気も微塵足りともない。


 男性の観点で見る女性と女性から見る女性というのは、どうも視点の違いがあるようで、観察しているなんて想像も付かないのだが、同性故に分かるのだろう。


(⋯⋯⋯⋯聞いてみるのもありか?)


 女性ならではの観点であり、男性視点では見えないものをハッキリと口にしてくれそうな富宮だからこそ聞ける内容を。


「⋯⋯じゃあついでに聞きたいんだけどさ?」


「えぇ?まぁ良いけど」


 露骨に眉が下がる富宮。それに対して唖然とする僕。


「なんで嫌そうなんだよ」


「嫌だからよ」


「お前、性格終わってんな」


「アンタに言われたか無いわよ!」


 僕は性格は終わっていないと自負出来る。性根が腐り掛かっているだけだ。


 まだ未遂であり、未完成かつ未成熟なだけで、目の前で嫌悪感を隠しもせずに明らかにしているコイツに比べばマシというものである。


 そんな終末を迎えた性格の彼女と腐敗が進む性根の僕が一々確認なんて取っていたら埒が明かないのは明白なのだ。


「⋯⋯じゃあもう勝手に言う。ちょっとの休みを経て、馬鹿みたいにイメチェンとか態度が変わってたら女子的にはどう見るわけ?」


「何それ?どういう事?」


「例えば、ゴールデンウィーク前と後で口調から態度とか化粧とか?まで変わってたらどう反応して、どう対応すんだ?って事」


『常盤美羽』は僕の忠言で『厨二病』を演じるようになった。


 それは言い方を変えればアイデンティティの確立であると同時に他所から見れば明らかな変化と忌避感すら覚えるようなものだろう。


 初対面の頃からそうだと言うならば初めから諦めも付くのだろうが、途中からどんな経緯かも言わないで突然のキャラ変なんて、夏休み中に黒く焼けて二学期に突入した同級生を見るよりも異質に感じる事この上ない。


 だからこそ聞いてみたかった。『常盤美羽』という女性は果たして、その後どんな『対応を同級生にされた』のかを。


「そりゃあ、話し掛けるわよ?」


「発光してる黒い玉から発行しない濁った玉ぐらいの変化だぞ?それでもか?」


「それ、なんの例え?馬鹿な事で私を馬鹿にさせないで、馬鹿になるから」


(お前の中間テストの点数、僕と同等ぐらいだろうがっ!)


 期末は明日からの為、まだ分からない。


 しかし、中間テストは五月には終わっている。


 公開処刑のように張り出された二年生の順位表はご丁寧に下から数えた方が早い位置に僕の名前があり、その一つ二つ、誤差程度で富宮奏海の名前が記されていたのを僕はちゃんと覚えている。


 分かってる。期末テストで赤点回避をしなければ、夏休みという期間、数日分が無駄になる事は知っているのだ。


 だが最近は本当に色々あり、勉強なんてする暇が無かったのも事実であり、是非免罪符(いいわけ)として活用したいものだが、きっと頭のおかしい人認定されるだけで無駄に終わる。


「兎に角、お前的にはどうなんだ?」


「⋯⋯⋯⋯。多分だけど、何かあったんだろうなぁ〜、みたいな事察して、話し掛けない。その人から出てるオーラ的な?近寄るなっていう雰囲気があるなら寄らないし、それが続いたら話題にもしない」


『話題にもしない』というのは、『厨二病ときわみう』にとっては致命的な気もする。


 そもそもアイデンティティを立てる為の個性だと言うのに、話にならないのは完全に失策だと言われているようなものだ。


 せめて顔だけでも知っていれば、もう少し考えようがあるのだが、今の僕は名前も様相も思い出せない状態。


 話を聞いただけでどんな人物かピンとも来ていないのだ。


 瞼を閉じて想像してみるも、洋装の家でブランケットを脚に掛けて庭から空へ向かって「こんにちは」している風景しか思い浮かべられない僕のイマジネーションは致命的でしかない。


「ねぇ、これなに?」


 そんな劣勢な脳内状況下は、目の前に居た富宮を完全に放置してしまっている事に気付かないでいたのだ。


 訝しげな表情で僕を睨む富宮。そんな彼女の疑問に答える事はせず、僕は更に続けた。


「急に厨二病にでもなったらどうする?」


「はぁ?」


「元々いい所のお嬢様で、急に心機一転で厨二病になったらどうすんだ?」


 不満気が目に見えて分かるし、僕も何も知らなければ多分同じ顔をしてしまうだろう。


 だが、忘れてはいけない。『常盤美羽』と言う人物はこの学校に確かに在学しており、僕が彼女に対して言った言葉が切っ掛けで『厨二病』へと転身したのだという事を、僕はもう忘れてはならないのだ。


 少し考えるような素振りで、僕という頭のおかしい疑問提示者にも律儀に解答を捻り出そうとする。


 吹奏楽部の部員達が吹き鳴らす金管楽器の音色は校舎から比較的に離れていても良く響いて聞こえた。


「⋯⋯話し掛けない。同じ人種って思われたくないからさ。周りにも友達居るなら尚の事。もういい?」


 時間切れだ。吹奏楽部が楽器を用いて活動を始めたという事は、既にその日活動がある部活は本格的に動き出す証拠であり、サッカー部ならば顧問の話は終わってグラウンドに出て来て練習を始めている頃合いという事になる。


 当然、サッカー部のマネージャーをしている富宮にも準備がある。


 もう、体育館近くで滞在させておく訳にはいかなくなった。


「⋯⋯あぁ、呼んだのはお前からだけど。もういいぞ」


「やっと解放される。はぁ〜。取り敢えず、藍莉に聞いといてよね!必須事項だから!忘れたら、アンタをサッカーボールに見立てて、サッカー部で蹴って貰うから」


「そんな事してみろ!僕は靴ごと脚を噛み千切ってやる!」


「スパイク、裏は中々に鋭いわよ?」


「え?」


 駆け足で部室棟へと向かう富宮の背中は小さくなっていく。


「⋯⋯スパイクって、針でもあるの?!」


 あれってランニングシューズと同じ構造じゃないとマネージャー越しに知ってしまった僕は急ぎ教室へと戻り、後方にあるロッカーから鞄を肩に掛けて、昇降口へと向かった。


 富宮の言った『同じ人種と思われたくない』というその言葉は、誰もが持っているものだろう。


 僕だって人格破綻者と同類と思われたくはないし、馬鹿よりも賢い人間には見られたい。


 仮に『常盤美羽』に友人が居たとして、『厨二病』によってその友人が離れたとしても責める事は決して出来ないのだ。


 先に変わったのは『常盤美羽』の方からであり、急激かつ唐突な変化は混乱と不安を与えていく。


 最後は畏怖の念や忌避感が募り、関係解消だって訳はない。


 間違っているのは、きっとそんな切っ掛けを与えた人間なのだ。


 そう──僕だ。


 個性派にするにしても『精神分裂』の抑制だと分かっていても、何故前の僕は『厨二病』等とのたまったのか、甚だ疑問が着いて回るばかり。


 そんな過去に覚えのない愚かな失敗をしてしまった僕は一人寂しく夕焼けにすらなっていない放課後の帰宅路を歩いていた。


「かーえりた〜い、かーえりた〜い。ぼ〜くのお家が待ってい──ん?」


『象願林』に誰かが居る。


 早朝、原っぱを掻き分けてやって来たあの道無き道に黒のドレスを着た女性が佇んでいる。


 更に髪が白髪にも見える。高齢者かと疑ったが、服装だけを遠巻きに見れば若く感じるのだ。


 しかし、どういう訳かその女性は揺らめいている。


 陽炎か。目の錯覚か。幻か。


 いずれにしてもその佇んでいる女性は確かにそこに居る。


「やっと会えた」


 発汗が止まらなくなった。一気に寒気と震えが身体を支配して、血の気が引いた。


 声は後方、前方に居た筈の黒いドレスを身にまとった女性は姿を完全に消えている。


 馬鹿でも分かる結果だ。


 瞬きによる視界の遮断よりも早く、その女性は僕の背後へやって来て声を掛けて来た事になる。


 どんな『現象』なのだろうか。対処方法はなんだろうか。


 塩でも撒けば済むのだろうか?そもそも、買い物もしていないのに塩を持参している訳がない。


 振り返れば死ぬ?声を発したらアウト?意識すればグッバイ?どの道もう後の祭り臭いが、僅かでも生きる為に抗いたい気持ちは土砂のように積み重なっていく。


「⋯⋯⋯⋯あ、アンタ⋯⋯⋯⋯だ、誰だ?」


 声を掛けても死ぬ事はないらしいと分かった。


 けれど油断は出来ない。少なくても振り返れば終わりというケースもある。


「懐かしいわね。⋯⋯そっか、お初にお目にかかるだったかしら」


「む、矛盾してないか?」


「そうね。でも私にとってはそうなの」


 若い女性だ。僕よりも歳上な感じもするし、ギリギリ歳下にも感じる冷たい声色。


 冷え過ぎてもはや凍傷する程であり、心はズキズキと痛みが張り付いてくる。


「⋯⋯大丈夫。私は敵じゃないから。こっち向いて」


「⋯⋯分からないだろ?」


「⋯⋯⋯⋯そうね。それぐらいが良いのかも」


「え?」


「『常盤美羽』を助けたい?」


 思わず唖然としてしまう。何故、どうしてその名前を知っているのだろうか、その疑問で一気に思考は埋め尽くされた。


「彼女は消えてない。可視化出来るように調整してあげるから、安心して」


「な、なんで『常盤美羽』を知っているんだ?いや、なんで協力してくれるんだ?」


「居てくれなきゃ困るからよ」


 冷め切っているその声色に心配の二文字が感じられない。


 背後を取られても肌に伝わる存在感と別格感。


 黒いドレスの袖が僕の首へと回っていく。


 何故か抱き締められている。けれど、安心感や多幸感が一向に湧いてこない。


 女性的部分がはっきりと背中に当たっているのに嬉しくも何ともならないし、武器かもしれないと考えてしまえばいくらでも悪い想像が出来てしまう。


「あ、アンタ。な、名前は?」


「名無し。ノーネーム。アンノウン。なんでもいい。私はそういう存在」


「随分厨二臭いな。⋯⋯まさか『常盤美羽』本人って事無いよな?」


「どうだと思う?振り返ったら思い出せるかも?」


 嫌な扇動の仕方をしてくる。背後を振り返らない限り女性である事以外に何も情報を掴めないのは間違いなく、『常盤美羽』本人ならば思い出せるのかもしれない。


 けれど、僕にはその勇気が全く、一欠片はおろか微塵も湧いてこず、情けない事に身体は内側と外側の両方から締め付けられたように硬直している。


「⋯⋯」


「ふふ。⋯⋯⋯⋯はい。もう済ませたわ。じゃあ彼女の家に向かいなさい。はい、餞別」


 胸ポケットに何かが放り込まれた。


 僅かな重みを感じ取り、最後に力強く身体を抱き締められた。


 そして、首に巻かれた腕は離れていき、圧倒的に感じていた存在感は忽然と消える。


 しかし、余韻が邪魔をして視線だけしか動かせないでいる。


「な、なにもしてこなかった?いや、まだ居る?⋯⋯どっちだ?」


 ようやく身体が動かせるようになったのは、それから三分も後の事。


「あの存在感、朝倉さんとも違ってた。冷めた過ぎる」


 荒くなってしまった息を整える僕はしゃがみ込んでしまう。


 即座に胸ポケットの中身を確かめた僕は目を疑った。


「⋯⋯え?鍵?」


 それは間違いなく自転車の鍵ではない事が容易に分かる形状の鍵であり、アクセサリーや紛失防止用のストラップ、名前の分かる類は一切ない鍵。


 女性との会話で既になんの鍵か、理解出来てしまう。


 そう──『常盤家宅』の鍵だ。

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