秘策は彼女のみ
手すりが無くなったという情報は瞬く間に広がっていき、学年全体に行き渡ったのは、昼休み頃であった。
教師も流石にこの事態には、呆然とはしていれず、急ぎ警察を呼ぶ事態になり、僕達生徒は自習という中、犯人探しが独自に行われており、一部では『透明人間』の噂まで出始める始末。
とはいえ、『透明人間』だとすれば、本当にお手上げかもしれない。
朝倉さんが『視る』という事柄で長く言っていたのが一つあり、それが「視る事と見る事は違う」というものである。
視るとは、認識する、視認する事であり、存在の定着させる、固定させる事らしく。
見るとは、日常的に常にしてしまっている行動やその仕草そのものの事を指しているらしく、確認や認識とは全く別らしい。
人を常日頃から通る度に確認等はしない、それが朝倉さんの持論であり、『現象』を見抜くには『見る』ではなく『視る』必要があると豪語していた。
しかし、『透明人間』は『視る』必要有無に問わず、『見えない』事がアイデンティティである為、どうしようもないのだ。
『透明人間』の生活音は透明ではないから、聴覚が発達した奴ならば、もしかしたらの可能性もあるだろうが──いや、見えなければ結局、街に出られてしまえばどうしようもないのかもしれない。
「それで?見つかったの?」
「んえ?『透明人間』の事?」
現在、放課後をとうに過ぎて、自宅のアパートまで帰ってきていた僕は、藍莉と一緒にご飯を作っている。
どうやら、タルタルソースやピリ辛ソースといったものに凝っているらしく、チキン南蛮をご所望してきた。
後ろのリビングで舞喜と遊んでいる蒼太がかなり喜んでいたらしく、藍莉が張り切っているのがよく分かる。
ゆで卵をわざわざ潰してしまうなんて勿体ないと感じてしまうが、レシピ的には必需らしく、渋々と僕はマヨネーズと卵をボウルの中で混ぜていく。
「『常盤美羽さん』の事よ?まさか、彼女、『透明人間』なの?」
「いや、知らないけど」
「そう。⋯⋯そういえば、手すりだけじゃなかったらしいわよ」
「え?」
隣で衣を付けた鶏肉をフライパンで焼いていく藍莉がさえ箸を使い、鶏肉をひっくり返していく中、僕は藍莉本人を見つめる。
すると、視線に気付いたのか、それとも予め見る予定だったのか、僕の方へと視線を向けた藍莉は、間にあった空白を詰めた。
「無くなったのがよ。今日、部活終わりに買い物に行ったんだけどね、その時におばさん達が話してたわよ。電柱とか、工事の立て看板とか、公園のブランコとか消えてたらしいのよ」
「被害、デカ過ぎないか?」
電柱一本でかなりの被害ではあるが、公園のブランコも安くは無いだろう。
見つかっている段階での話の為、もしかしたら被害は更に拡大していく可能性もある訳で、それと同時に嫌な想像をしてしまう。
「そうよね。学校だけの問題じゃないのかも。もしかしたら、『常盤美羽さん』も巻き込まれたんじゃないかしら」
「止めろよ。今、ちょっと考えちゃった」
そう、『常盤美羽』なる人物が手すりが消えたように、電柱が無くなったように、存在が消えてしまったとするならば、それは『死』を意味するのだ。
『透明人間』から『殺人犯』に位が上がるし、見えない相手に防御の手段なんてない。
僕は残念な事に、気配で相手の位置が分かる戦闘のプロフェッショナルな訳でも、赤外線を肉眼で判断出来る高性能な瞳も無い、ごく普通の人間。
つまり、手立てがない。
頼みの綱であった男は去ってしまって、頼りにならないという、ハンディキャップを大いに貰わなければ、埒が明かないのだ。
「あれ?」
タルタルソースの味見をしていた僕は、可もなく不可もない普通のタルタルソースが出来上がってしまい、アレンジを加えたいと思わず頷いていた時、藍莉が疑問の声を上げて、洗浄機からある物を取り出す。
「貴方、この箸いつ変えたの?」
「はい?」
言われて見たのは、僕が使っている箸だ。
ホームセンターで買ってきた安物の箸であり、これといって特徴もない木製の箸。
「何か変わってたか?」
「だって、ここの模様、もっと薄れてたでしょ?」
白色と青色の横線が刻まれているその模様。
確かにそう言われれば、新しくなっているようにも感じる。
そして、僕は同時に見てしまった。キッチンの奥にある物を。
「なぁ、藍莉」
「なにかしら?」
「洗剤買って、入れてくれたか?」
「⋯⋯いいえ。詰め替え用、今日買ってきたのはそうだけど⋯⋯。貴方が私の帰る前に補充してくれてたんじゃないの?」
「藍莉が買い物に行くって知ってたから、今日は買い物をしてないぞ?」
「舞喜ちゃんとか?」
「どうだろ⋯⋯でも、多分今日、外行ってないぞ?」
してくれているならば、ちょっとした進歩だろう。
恐らく、言えば買い物はしてくれた可能性もあるが、同級生とバッタリ鉢合わせという事態は舞喜にしか負荷が無いものであり、まだ避けておきたい事でもある。
詰め込み過ぎず、焦らせ過ぎずに、夏休み中に慣らして行かせる予定だった為、今日仮に行ってくれていたならば嬉しい誤算ではあるのだが、恐らく買い物はしていない。
だらけきった表情、変わらない服装、ボサボサの髪。明らかに今日一日は、外に出ていない証拠だろう。
「⋯⋯⋯⋯ねぇ、准──」
僕の部屋の扉が勢いよく開いた。唐突に、なんの示しもなく。
強引に開かれた部屋の扉はドアノブが壁にぶつかり、悲鳴が上がった。
「うわぁぁぁッッ!!」
「お化けだぁぁーー!」
蒼太が藍莉の元へと駆け寄り、泣き始めた。
「大丈夫よ、蒼太」
僕は自身の部屋を凝視して何が起きたか、再度考えていたが、抱き締めて宥める藍莉の声でハッとなった僕は、舞喜の方へと駆け寄る。
見た所の怪我は一切ない様子で、ただ驚きで座り込んでしまっただけのようであり、隣へやってきた僕の顔を見ては深呼吸をした後、肩を小突いてきた。
「お兄ちゃん!ちゃんと部屋の扉閉めてよね。アタシ、心臓止まるかと思ったよ」
「悪い⋯⋯」
頭を撫でて宥めようとするも、僕の手は華麗にスルーされてしまい、そのままキッチンに居る藍莉と蒼太の元へと向かった舞喜。
触れようとした手を見つめた僕は、首を傾げた。
藍莉の弟、蒼太にご執心な舞喜。それほど世話好きという訳でも無かった筈だが、何がそれほどに変えたのか。
『夢世界』で僕の知らない所で、何かしらの影響があったのかもしれないと、そう言われれば素直に納得はするが、両親の説得ほど無駄なものは無いと僕も舞喜も知っている。
友達が居るかと言われれば居ないだろうし──いや、ひょっとして、舞喜は僕より可哀想な奴じゃないのだろうか。
流石の僕だって中学時代はぼっちでは無かった。
不登校はしなかったし、どちらかといえば楽しんで学校に通っていた側の人間であった。
(仕方ない。お兄ちゃんが一肌脱ごうではないか)
今度、嶺二辺りを誘おうかと、心に決めて僕は自室を眺めに向かう。
いきなり扉が開く訳がない。というか、『幽霊』ならサナで満腹だし、面倒事に面倒事を重ねて欲しくはないのだ。
「⋯⋯え?」
自室は至って普通。机もあるし、椅子もある。
本棚の漫画も全部纏まっているし、タオルケットも枕もあり、敷布団だって当たり前のように置いてある状態。
けれど──。
「どうしたの?」
「窓が開いてる⋯⋯。なんでだ?ちゃんと閉めてた筈だ」
自室は今日一度も窓を開けていない。
窓のすぐ側にあるベッドから起きた朝、窓を開ける習慣がある訳でもなく、定期的に換気するぐらいだ。
しかし目の前には、沈んだ暗い部屋でカーテンが風で靡いているのが、窓が開いている証拠であり、言い逃れのしょうもない。
「ちょっと、准。誰かに入られてるんじゃないの?」
「藍莉、部屋の電気付けてくれないか」
「え、えぇ」
駆け付けた藍莉が自室の入り口近くにある電気のスイッチを押した。
白く光る部屋。瞼を閉じて、確認の為に開けて見ると僕はベッドに駆け寄り窓を凝視した後、唖然としてしまう。
「⋯⋯」
「どうしたのよ!」
「窓が綺麗過ぎる」
「掃除の自慢?」
不満そうに言う藍莉だが、言いたいのはそうじゃない。
自慢出来るならしたいが、掃除のプロではないし、普通にしても埃等は嫌でも残ってしまうのが常。
大事なのは、自室の窓に指紋や埃といったものが何一つとしてない事だ。
隣に設置されている窓を見ると、当たり前のようにある埃と見比べてしまえば一目瞭然であり、誰かが意図して掃除したぐらいでなければ納得が出来ない仕上がりになっている。
更に網戸は普通に汚れており、こんな中途半端な掃除はしないだろう。
僕は窓を見つめて、思い返してみる。今日の学校、一年一組に行った際に感じた違和感を。
あの時に違和感を覚えたのも扉だった。
「いや、違くて⋯⋯⋯⋯そうだよ。一年一組の時もそうだ。あの時、おかしいなって思ったんだよ」
「おかしい?」
「扉だよ。教室の出入口の扉って二枚だろ?あの奥っ側の一枚だけバカ綺麗になってて、変だと思ったんだよ」
「掃除業者がそんな中途半端しないわよね⋯⋯」
業者が来るのかすら不明だが、掃除するにしても新品となんら変わらない綺麗すぎる扉であった。
エフェクトでキラキラと光ってても文句は言えないぐらいには新品も同然であり、傷や汚れが一切無かった。
しかし、それに一年一組の生徒が気付かないのは、どうも不思議な事としか思えない。
更に言えば、僕はこの状況を前に見た事がある。
四月終盤のゴールデンウィーク。『夢世界』で抜け落ちた記憶と、ゴールデンウィークに何故か学校に行っていた記憶があるのだ。
土曜日と日曜日すらも。その理由がなんだったのか、その必要性が何処にあったのかも、すっぽりと抜けてしまい、もどかしい嫌な感じに襲われる。
記憶障害の人の感覚はこれに近いのかもしれない。喉元まで来る記憶と別段そうではない記憶の類似点だけで、常日頃から『そういえば』みたいな感覚。
モヤモヤとした感覚は、やがて憤りにも感じるようになりそうな、不安と遣る瀬無さの往復。
存外、記憶が無いというのは、怖いものだ。
「前にも、似たような事⋯⋯あったんだよなぁ。なんだっけ?」
「私は知らないわね」
考える素振りすらせず、淡々と答えてしまう藍莉。
彼女からすれば、僕のこのなんとも言えない感覚は訪れていないのだろう。
「取り敢えず、部屋の確認とベランダの様子見たら?本当に不審者が居たらマズイでしょ?」
「この場合、僕が見つけたら、真っ先に殺されるよね?まぁ、いいけど」
ベランダにはなんの異常も──いや、正直に言えば、異常があるか、ないかすらロクに普段からベランダを見た試しがない為、分からないのだ。
不審者が入った形跡って何を見て判断するのか知らないし、部屋も至って普通にしか見えない。
押し入れを開けて、隈なく中を覗いたが、人が入ってましたって事もなく、ベッドの下はダンボールや埃でいっぱいである。
明日は掃除しなければならないのかもしれない。
面倒臭い──そう思ってしまった僕は、逃げるようにそそくさと扉へと向かい、部屋から退散した。
夜二十時過ぎになると、蒼太をお隣の自宅へと送った藍莉は、急かされたように戻ってくると、ソファに座っている僕の隣に座ってスマホの画面を観ていた。
最近のスマホはチラ見しようとしても暗い画面が映るばかりで全く盗み見が出来ないのが、少し物悲しい気持ちになるものの、安全面に考慮した機能はやはり凄いものだと関心してしまっている。
そんな僕が座っているソファの背もたれ側へとやってきた舞喜は、恐る恐る聞いてきた。
「ねぇ?お兄ちゃん。結局『常盤さん』見つからなかったの?」
「え?あぁ、まぁ」
普通は『見つかった?』とか『見た?』とかそういう風に聞くものであろうに、まるで鼻からアテにされていなかった風に言われてしまうと、それはそれで悲しいものである。
だが、否定も異議申し立ても出来ない。実際に見つからなかったし、影も形もなかったのは間違いないし、何も言えないのだ。
そんな落ち込みに走る僕とは違い、スマホの電源を落として、振り返った藍莉は朗らかな表情で口を開く。
「舞喜ちゃん」
「は、はい!なんですか?」
「舞喜ちゃんの言ってた『常盤美羽さん』って人、本当にうちの学校の生徒だったの?」
「間違いないです!アタシ、藍莉さんと同じ制服着てるの見ましたし、顔も覚えてます!」
「写真は?」
「見舞いに来てくれてるのに、隠し撮りする理由無いでしょ?」
「だよなぁ〜」
顔だけでも分かれば良かったのだが、そう上手くはいかない。
「特徴は?」
「えぇ〜と、黒髪?ちょっと紫がかってるって感じで、暗〜い感じの人。身長は多分アタシ位で、長い髪だった!」
自信ありげな物言いなのだが、『暗い感じ』というのも含めて舞喜の私見や見解だけが頼りとなっているのも相まって、脳内で着実にイメージを固めていくものの、どうも不眠症で気疲れが多い女性が浮かんでくる。
これで出会った時の印象と違ったら恥ずかしいじゃ済まない。
「他には?」
「んんん。あ、偶に厨二病出てた!」
「はぁ!厨二病?!」
思わず隣に居た藍莉と目が合った。よもや、人前で披露しているというのだろうか。
だとすれば、相当の世間知らずかメンタル強者以外有り得ないとなるのだが──それとも本人的にはそのつもりが無いという可能性もある。
そう思っていたのだが。
「うん。『我が宿敵にして永遠の友はお前の兄さんだぁ〜』ってさ」
「知らん!誰だそれ!僕の知り合いに厨二病は居ない」
舞喜が左手で顔を隠すようにしてポーズをビシッと決めたのだが、どうしよう。
恥ずかしさがこっちにまで伝播する始末だ。
というか、そんな濃いキャラしてる奴を僕は忘れてしまっているという事になるのだから、『現象』というものは侮れない。
厳密には侮った試しは無いのだが、『名前』を聞いても『様相』を聞いても『癖や個性』を聞いても一切ピンと来ないのだ。
不思議な感覚や違和感すら過ぎらないのが、逆に不思議で怖くなる。
「他はあるかしら?」
「⋯⋯⋯⋯暗い感じでぇ⋯⋯隈が酷くて、お爺ちゃんとお婆ちゃんの家に住んでるって事ぐらい?」
聞いた藍莉の視線は下を向いていた。
僕も釣られたように見ると、スマホのメモ機能を使って、『常盤美羽』について聞いた事を書き記しているようである。
とはいえ、僕からはスマホの画面が暗いままでしっかりと見えていない為、予想でしかないのだが。
すると、背もたれに掛かっていた重心が軽くなるのを背中越しに感じた僕は、振り返った。
「じゃあ、アタシお風呂入ってくるねぇ」
「あぁ、ゆっくり入れよ」
どうやらバスタイムの始まりらしい。
部屋から着替えを持って、気怠そうにダイニング横にある廊下の扉を開けた舞喜の後ろ姿は扉に阻まれてしまう。
そんな光景を見届けた僕は、スマホもない、お金もない為に、仕方なく隣にいる藍莉のスマホを覗き込もうとする。
その動向を察した藍莉はすぐに密着するように身体を近寄らせて、赤のカバーがされたスマホの画面を僕にも見えるようにしてくれた。
「『常盤美羽』って人の住所、知れたら良いんだけど⋯⋯」
スマホの画面は案の定というべきか、メモ機能を使って、舞喜の質問を纏めたものであった。
「あと、『練馬功一』って奴かな?」
「『練馬功一』?」
「そう。加藤先生がなんか居なかった筈だよなぁ〜的なの話してたんだよ」
「正直、『常盤美羽さん』より怖いじゃない」
「だろ?生徒名簿では数自体は合ってて、全員出席してるのに、『練馬功一』だけ、何故か気になったらしいんだよ」
一年一組の様子を見ようとしたのも『練馬功一』が切っ掛けであり、扉一枚が綺麗になっていた事や、手すりの消失を発見する結果となった訳だが、ここまでいくと因果関係を疑うなという方が無茶である。
「その後は?話してたの?」
「してたっぽいけど、ちゃんと見れてない。それに⋯⋯」
それに、おかしな事が起こったのだ。
「新城先生に『常盤美羽』について聞いてたんだ。放課後に分かるから来てくれって言われて、僕は行ったんだけど⋯⋯。『なんの話?』って無かった事にされたんだ」
昼休みよりも前の休み時間で相談したとはいえ、まるで『初めから相談なんてしていなかった』ように、無かった事にされたのだ。
『忘れていた』というならばまだしも、『放課後までに聞いておく』といった内容も、『そもそも職員室で新城先生と話した事』自体が消失しているようであり、深く追及はせず、逃げるように僕は放課後の職員室を出て行ってしまったのである。
分かっている、なぜ聞かなかったのか?怖かったと言われればその通りなのだが、それ以上に自分も『相談した覚えがない』と何故か感じてしまって、その感覚が怖くなり逃げたのだ。
忘れていっている。そんな逃れようのない、日常的にやってしまっている記憶の保管と消去。
けれど、道行く人の顔を忘れるのと、今回の事とはどうも毛色も違い、ましてや唐突にやってきたようにも感じて、不気味さが離れない。
「あの先生が?⋯⋯変じゃない?」
間を少し空けて言う藍莉は訝しんでいた。
着目したのは先生の方であり、当然の帰結だろう。
「分かってるけど、隠し事してる風に──」
「そうじゃなくて!」
「え?」
「その『常盤美羽』について聞こうとしたら、知らない風になったんでしょ?それと合わせて『練馬功一』って生徒が現れたのよ?因果関係、あるでしょ?」
無ければどんな偶然と奇跡と運命が引き合わせてくれたのだろうか。
はた迷惑極まりない限りだ。
「だろうけどさぁ⋯⋯」
だが、『現象』に『現象』が重なってややこしい事態になるというのは、無いわけではない。
早い話、『意図せず発生した現象』に被せるように『意図のある現象を発生させる』と糸が絡まったように事態は複雑化する。
だが、『意図せず発生した現象』同士で複雑化する事は、今の所立ち会った事は無い。
「もう転校したって事にしちまうのもアリかなって、思い始めちゃってる」
このままいけば、何かがゴッソリ変わる。
危機感や焦燥感のようなものは朝に比べて確実に減っていて、忘れる事の方が安心感を覚えさせられていた。
ぬるま湯に浸かっていたいのかもしれない。
「⋯⋯そういえば、どうして舞喜ちゃんは知ってるのかしら?」
藍莉のふとした言葉で思い返してみるも、それに納得のいく答えは出なかった。
「⋯⋯確かに。言われてみればそうだな」
【当て馬】の影響は朝倉さん曰く、僅かに残っていると聞いていて、【八咫烏】にも直近で憑かれた事が相まって『現象』に対する耐性のようなものが付いた?
そう考えればこじ付けながらも納得がいくが、兄として、家族としては否定気味にならざるを得ない。
何故ならば、『現象』によって孤立してしまえば、たとえ解決したとしても、その延長線にある日常で支障をきたす可能性があるからだ。
『現象を解決する』という事は、日常生活を送っている者達から見れば好奇な目で見られる要因でしかなく、不安やストレスをバカ真面目に溜め込み易い妹とは相性が悪い。
決壊して何時壊れてしまうかは、僕だって目処が立たないし、それが兄として情けないと言われればそれまでだが、分からないものは分からないのだ。
だからこそ、『現象』とは程遠い『日常』で生きて欲しいと切に願うばかりである。
「というか、藍莉。お前まさかと思うけど、中一の頃に担任だった先生の娘って言ってないのか?」
「言えると思う?」
「言ってくれなきゃ、後で支障きたしたらどうすんだよ」
「支障って?」
色々あるだろう。隠しているという事は『貴方の弱点はこれだ』と言っているようなものだし、意図せずバレてしまうとそれまで普通に接していたのが嘘のようにぎこちなくなるという可能性もある。
色々と浮かんではくるが、その時見つめている彼女と僕自身の事も頭に過り、呟いてしまう。
「僕達、二人の関係」
「あら?親との関係一つで変わってしまうだなんて、私達の関係もチャチね。もっと恥と自信を知りなさい」
「すげぇ自信」
「当然よ」
「じゃあ、伝えないのはなんで?」
「⋯⋯怖いから」
一度安全マージンを確保すると、今度はリスクに飛び込むのには相応の勇気がいる。
現状、安定して話の受け答えも出来ている中、親と知り合いだったというだけではあるが、それでも本人も本人でぬるま湯に浸かっていたいのだろう。
「まぁ、おいおいでいいさ」
肯定せざるを得ない。僕自身も熱湯よりも冷水よりも、ぬるま湯が丁度良いのだからしたかない。
「ありがとう」
ピタッと腕がくっ付いた。肩に頭を乗せた藍莉。
だが体勢がきつかったのか、頭はすぐに僕の肩から距離を空けてしまった──だが、両腕を伸ばして抱き着くように身体を再度密着させてきた。
どうやら、お眠が近いようである。
首筋に微かな吐息が漏れて、擽ったさを堪えた僕は、僅かな抵抗のように彼女の頭を優しく撫でた。
「夏休み近いからなぁ。遊びに行きたいな、四人で」
すると、あれほど近かった距離が空いたと思えば、藍莉の右手が徐々に顔に近付いて──。
「イテテテテ!なになになに?!」
左耳が抓られた。伸びてしまうんじゃないかと思えるほど強烈な痛みに苛まれて、ジタバタする僕だが、脚に乗っかられて全く抵抗出来ないでいる。
「そこは二人!って言うものじゃないの?」
嬉しい事を言ってくれている筈なのだが、身体の痛みはニヤケ顔よりも苦悶色の顔をお出ししてしまう。
やっと離れた右手。そう思ったら今度は僕の両頬を内側へ押し込まれた。
アヒル顔となった僕を見たやりたい放題の藍莉、少し頬が緩んだのを確かに見た。
(楽しそうで何より⋯⋯)
彼女の本性のようなものが付き合う時期が長くなると段々と分かってくるが、意外とこの子は性根が歪んでいる。
まぁ、そこが可愛いかと言われたらそうなのだが──惚れた弱みかもしれない。
「お前、蒼太居るだろ?!現実に見ても難しいだろ!」
「そうだけど⋯⋯。口にするだけならタダでしょ?違うのかしっら!」
「そうだけどぉぉぉ!痛いッ〜!」
今度は拳を作って側頭部をグリグリと執拗に擦り合わせてきた。
訂正、やっぱりこの子怖い。
彼女が脚に乗っかってくるなんてイベントは本来微笑ましいものである筈なのに、余念が一切許されないなんて、新手の詐欺とも思えてしまう。
もっと和やかなムードに甘酸っぱい言葉を交わしたりするのが通例であって欲しかったが、そう上手くはいかないようだ。
「でも!どっかには行きたいよな⋯⋯。前に約束したじゃんか?まだ藍莉がちっちゃい時に」
「その言い方、准が親戚の叔父さんみたいね」
「ちょっと?君ぃ、今めさんこ良い事言おうとしたのに、一気にムード枯れたのよ?責任持ちな?」
「はいはい。ちゃんと聞いてあげるわよ」
子供の相手をするかのように、朗らかな表情をしながら隣に座り直した藍莉。
ご丁寧に、手を膝に乗せて綺麗な姿勢だ。
意識せず僕もソファに座り直して、話をする。
「⋯⋯ミニ藍莉の頃に──」
「待って」
いくらなんでも早すぎる遮断。
視線を向けて表情を窺うと、不可解そうな顔色を滲ませており、口をパクパクと物言いたそうにしているのがよく分かる。
「そ、そのミニ藍莉って何?」
「え?ランドセル姿の時の奴。僕はひっそりミニ藍莉って呼んでたんだけど」
「⋯⋯私は配管工のオジさんじゃないのよ?もっと可愛らしい名前にしなさいよ」
「むしろミニあるのか⋯⋯。普通、ベビーとかだろうに。まぁ良いや、チビ藍莉だったころろォォォォォォォ!」
とんでもない激痛が耳から訪れた。今度は右耳である。
僕の耳に恨み辛みでもあるのかという勢いで引っ張らて、後で引き千切れてしまっていないか心配になってしまう程の力強さだ。
「なにかしら?チビー?ミニ〜?」
耳元で声を張って主張する彼女は暴君か化け物か何かなのだろうか。
両耳が劈いているように耳鳴りが止まらない。
本当に病院に行かなければならなくなったら慰謝料請求してやると心に誓った僕は、藍莉の頬を突いて突いて、突きまくったが、抵抗するように、僕の頬も突いてくる。
「お前、ワザとだろ!?」
「こっちの台詞よ」
イタチごっこに堂々巡りを繰り返して、僕と藍莉はお互いの頬に攻撃を繰り返す。
実際にランドセル背負ってた頃はあんなにミニマムかつちんちくりんだった癖に。
小学生でモデル体型とか逆に怖いまである。
あんなに可愛らしいのに、今では凶暴怪獣の出来上がりとは、世も末だ。
終わったのは更に数分後。
正直、もう疲れてきているのだが、話はしないと進まない。
言いたい事も思い返さなければならなくなって、更に疲労が募るばかり。
「はぁ〜。えぇと⋯⋯、リトル藍莉だった頃に⋯⋯。リトルは良いんかい」
「続けなさいよ」
腕を組んで、何時でも仕掛けますよ?とばかりに牽制の瞳を向ける彼女。
僕そんな悪い事しましたか?
「あー、その頃に公園に行ったろ?あの時、遠出してみるみたいな話して、結局そのままその予定は消えた訳だけどさ。行ってみたいなぁって話だよ」
「どうして?」
「え!どうしてって⋯⋯楽しそうだからかな?」
「それだけ?」
「えぇ?!えぇ〜、一緒に行きたいからだよ⋯⋯」
「訳は?」
「はぁ?!えぇっと、恋人だから⋯⋯。駄目かよ!」
なんだろう、物凄い恥ずかしい。
面と向かって『恋人』という単語を使った事が無かった僕は、これほどまでに恥ずかしい言葉なのかと再認識させられた。
学校で付き合っている事を宣言した時、藍莉もこんな気持ちだったのだろうか。
「良いわよ。私も二人で遠くに行ってみたいし」
七月はすぐそこ。夏休みだってすぐそこに迫っていて、お隣とはいえ、藍莉には藍莉の用事だってある。
僕と違って藍莉は人付き合いが多く、予定も自然と入るだろう。
武島や富宮、紫島と幸坂や牧原といった何時ものメンバーともそうだが、長期休暇ならば、親の面会だってする機会もきっとある。
あまり立て込まないように素早く決めてしまっておきたいのもあった。
「そうと決まれば、蒼太をどうするかよねぇ?」
「舞喜を頼ればいいだろ?」
「駄目よ」
意外といい選択だと思っていたのだが、何故か拒否された。
今日見ている限り、蒼太は舞喜と普通に接しているし、蒼太自身も歳の割には気を使えてしまえる男の子。
僕達二人が付き合っていると分かっているし、色々と子供なりに察してくれる良い奴ではあるのだ。
そして、舞喜も負い目なのか元来の気質からなのか、そこは不明ではあるが、僕達の様子をちょこちょこ観察しているようで、視線がかなり来る。
そんな二人ならば、僕と藍莉だけの旅行なりお出かけでも許してくれそうな事は藍莉も理解してそうであったが、まさかの拒否なのだ。
意外性が弾けた?ハジケリストに目覚めたのだろうか。
「なんでさ?」
「弟が食われるわ」
「僕の妹はショタコンじゃねぇぇぇぇよッ!!」
意外性を三段跳びで飛び越えて、犯罪性が増す言葉が飛び込んで来たのであった。
━ ━ ━
僕の日課、というよりは定期的に行っている事は果たして何か?
それは『象願林』にある祠で祀られて退屈そうに毎日をエンジョイしている『翡翠に光る象』との出来事報告である。
既に忘れてる人も居るだろうが、僕は一週間から二週間の内に一回、夏場には熱気が籠る林を抜け、横道に逸れた上に、大して信仰心もない癖に手を合わせて合掌。
そして、『現実世界』と『精神世界』の間に朝倉さんに半ば強引に閉じ込められた僕称『虚象』と話をするのだが、ハッキリ言おう。
面倒臭いのだ。
そもそもの話、夕方頃に行けば「遅い」と罵られ、機嫌が悪いと催促の嵐。
こんな奴を昔の人間はよく讃えて崇めようとしたものだと、口酸っぱく言ってきたものだ。
本人の居ない所でだが──。
現在、僕の目の前には紙垂が括り付けられている注連縄とその中心にドン!と置かれている祠がある。
何度も言うが、仮にもアイツは神様ではあるのだ。
インドで有名な神様であるガネーシャは商売繁盛を齎すというが、あの寂しがり屋の象は何を齎してくれるのだろうか。
お供え物も無く、人々からも忘れ去られ掛けているそんな神様に僕は手を合わせた。
冷気が籠って来たのを感じて、僕は目を開けた。
『久しいな?⋯⋯遅すぎるプォォォォォォオオン!!』
ご機嫌ななめのご様子であり、最悪だ。
朝から学校だってのに、僕の制服はもう象の長っ鼻から放たれた水飛沫に濡れてしまう始末。
「お前なぁ〜っ、早えよ!濡らすな!どうすんだよ!」
『知らんよ。時間の概念など、人の作りしもの。神には無用であり、不要だ』
金色のクリっとした瞳と翡翠色に煌めく胴体に彫られた白く光るエチオピア文字が昔ながらの存在だと感じさせる。
白一面の何も無い世界でこうも緑色に照らされていると目立って仕方ない象──そんな象はたった今嘘を吐きやがった。
「そうか⋯⋯。じゃあこれからは僕も不定期でここに行くとしよう。時間の概念が無いなら、いくらでも待てるだろ?」
『貴様、畜生と言われた事は無いか?!』
「生憎だな。僕は何回もあるぞ?言った事がな!」
ゲームに負けた時、ジャンケンに負けた時、ドッヂボールでボールを当てられた時、そして何も出来ないで項垂れた時とか、まさに『畜生』と叫んだ事は幾度となくある。
結局の話、自身にとって嫌な事は存外覚えているものだ。
『悲しくならんのかの〜。まぁ良い、ほれ何時も通り話をせよ』
足を折り腹部に寄り掛かれるようにしている『虚象』は催促のように鼻を僕の方に近付けた。
「いっぱいあるぞ?前はサナの所まで話したっけ?」
『『幽霊少女』の事じゃろ?知っとる。私とて記憶力には自信がある──が、何時までも覚えてはおらなんだ』
「寂しがり屋め。まぁ、良いよ。早めに来たし」
時刻は六時半。普段なら寝ている所だが、色々と報告した事もあって杞憂ながら早めに支度を済ませて来たのだ。
無駄にならないように話をしよう。
直近で起きた『野難姉弟』の話、『超能力者』の話。
妹の『舞喜』が【八咫烏】に魅入られた話、そして──。
「で、最近は元気で引き篭ってる。お前みたいにな⋯⋯おい、何泣いてんだ?」
『プォォォォォォォォ〜〜〜ッ。こ、これが泣かずにいれるか〜〜、感涙でコラーゲンが出るわ』
「タンパク質の喪失ですか?!」
『准坊もだいぶ前から妹君を心配しておっただろ。感涙せずしてなんだと言うのだ〜プォォォォン』
おかしいなぁ、「ありがとう」と言って然るべきタイミングなのに、何故かその言葉が出ない。
何処からともなく出る水飛沫は僕の衣服を着実に濡らしていくし、コラーゲンとか言い張るし、コッチはコッチで涙が引っ込んでしまう。
『して、准坊よ。朝倉拓也が消えたというのは、真か?』
普通の象はあまり表情が変わらない。行動で感情を示す事が多い中、意図を察して動物園の職員達も観察するのだろう。
だが、この象に限って言えば、明らかにニンマリ顔が想像出来るし、声も何故か上擦っている。
「そんなに朝倉さん嫌いか?」
『当然だーー!あの男にどうやって空いてしまった腹のケジメを付けてやろうかと日夜思い耽る日々!あの苦渋⋯⋯忘れるかぁぁぁ!』
そう、この『虚象』はゴールデンウィークのある日に、朝倉さんによって土手っ腹に穴を空けられて、瀕死に追い込まれたのだ。
可哀想とも思ったが、あの時はそれ所でも無かった筈──。
「⋯⋯⋯⋯なぁ?お前ってどうやってゴールデンウィークの時、目覚めたんだ?」
『なに?何故だ?』
「いや、そもそも僕とお前が出会ったのはゴールデンウィークだよな?五月の上旬だよな?」
『そうだな。運命の出会いというやつだ!感謝感涙雨梅雨模様と言う奴だ!』
「ジメジメしてるだけじゃねぇか⋯⋯。じゃなくて!教えてくれ!」
『何を言っておる?准坊もボケたか?『常盤美羽』が私の封印の札を解いたのではないか』
「⋯⋯⋯⋯」
『どうした?』
『常盤美羽』について僕達は妹を除いて誰も知らないのだと、そう思っていたし昨日の夜の時点で諦めも内心あった。
だが『虚象』によって繋がった。
「頼む!『常盤美羽』について教えてくれ!」
『ん?准坊の後輩だろうに。『時計の怪異』に囚われた女じゃ』
「⋯⋯時計?」
『虚象』の様子が変わった。どうやら僕が本当に覚えていない事を察したのだろう。
『成程。じゃから私と准坊を定期的に話し合いをするように薦めたのか。あの小童め!』
「え?」
『そもそもの話、寂しがり屋でもある私と定期的に話し合いを興じさせるように言い張ったのは朝倉拓也からだ。この事を予期していたのだろうよ』
有り得る。ろくに答えは言わない癖に、見透かした態度と当たり障りのないような言葉を投げるのがあの人だ。
『知らない事なんて存在しない』なんて豪語していた朝倉さんは、『常盤美羽』の事も『練馬功一』の事も『物の紛失』や『物が綺麗になる』といった出来事も予め予定調和のように知っていて、僕達の元から去ったのだろう。
やっぱりあの人、最低だな。
『准坊。『常盤美羽』について聞きたいか?お前さんが教えてくれた内容だけなら、答えられるぞ?』
「頼む!」
白一面の何も無い世界で、僕は話を聞いた。
『常盤美羽』という存在とゴールデンウィークに出会った僕の話を。
優雅に話していた『虚象』は最後にこう言っていたのをよく覚えている。
「呪い子のようだ」と、そう言ったのを──。




